古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小見真観寺古墳

 小見真観寺古墳は真観寺境内にある全長102m、高さ8mの前方後円墳で、後円部と鞍部の2ヵ所に横穴式石室があります。
 後円部の南側にある横穴式の複室の石室は、寛永11年(1634)に発見され、秩父産の緑泥片岩による石室で巨大な石材を用いた精巧なものです。前室は奥行2.7m、幅2.2m、高さ2.1m、玄室は2.4m、幅2.2m、高さ2.1mで両室の間仕切りは、緑泥片岩の一枚石に四角い窓を開けています。鞍部にある石室は、明治13年に発掘され金環、鉄製刀子(とうす)、金銅装頭椎太刀(かぶつちのたち)、銅鋺(どうわん)などが発見されました。出土品は、東京国立博物館に所蔵されています。
 最近の発掘調査で周溝が確認され、その底付近から埴輪の破片が多く発掘されました。また、出土遺物などから6世紀末から7世紀初め頃に築かれた市内最後の前方後円墳でなはいかと推測されます。
                                              行田市ホームページより引用

所在地    埼玉県行田市小見1125
区  分    国指定文化財
埋葬者    不明
築造年代   7世紀初頃


地図リンク
 小見真観寺古墳は、国道125号バイパスを羽生市方面に進み、小見(南)交差点を左折し1、2分で右側に真観寺があり、その本堂の裏山のような形で現存する全長112mの前方後円墳で埼玉古墳群の中の最後の古墳である中ノ山古墳が築かれた時期とほぼ同時期に、7世紀初頭から中頃に造られた古墳と考えられている。埼玉古墳群から北西約4㎞位の距離がある。墳丘長は112メートルであり、埼玉県第4位の規模を有する前方後円墳で、俗に「観音嶽」と称する。この古墳の主軸は西北西に向かい、封土の左側および前後の頂部はともに削平を受けているが右側の遺存状況は良好である。後円部の径は55メートル、高さ7.8メートル、前方部の幅は48メートル、高さは7メートルである。
 名前の由来は真言宗智山派慈雲山・真観寺の寺域にあるのでこの名称となったという。
 
               小見真観寺の山門
 
 山門をこえると本堂がありその奥に古墳がある。撮影日は4月上旬で桜が大変美しい。
 
 山門をくぐって真観寺の境内に入ると、本堂の裏に樹木で覆われた小山が見える。それが、この地方では最大の真観寺古墳である。ちなみにこの地方には小見古墳群と言って古墳が数基あり、その中心がこの古墳である。本堂を右側に移動していくと本堂と墓地の間に古墳の碑が建っていて、古墳のくびれ部から墳頂に登ることができる。
 
小見真観寺古墳

 この古墳は、小見古墳群に属する前方後円墳で、星川の右岸の低台地上に立地している。
現存の墳丘の大きさは、全長112mである。埋葬施設は後円部と鞍部付近に緑泥片岩の一枚石を組み合わせた二ヶ所の横穴式石室がある。後円部の石室は寛永11年(1643)に発見され、前・後室よりなっている。
 鞍部の石室は、後室のみが現存するが、前室については明らかではない。この石室は明治13年に発掘調査され、衡角付冑、桂甲小札、鉄鏃、金環、頭稚太刀、圭頭太刀、刀子、蓋付有脚銅鋺等の副葬品が出土している。出土品は、東京国立博物館に収蔵・展示されている。
 これらの副葬品から、この古墳は七世紀前半に築造されたと考えられるが、鞍部石室はやや遅れて造られた可能性がある。
 前方後円墳としては最も新しいものであり、埼玉古墳群に後続する首長墓として重要である。
                                                                                                  

                               埼玉県教育委員会・行田市教育委員会掲示より引用


 この小見真観寺古墳の最大の特徴は埋葬施設は後円部と鞍部付近に緑泥片岩の一枚岩を組み合わせた二ヶ所の横穴式石室があるということだ。

  • 後円部の石室は1634年に発見され、前室・後室の構造で7世紀の初めの築造とされて、前室と後室に分かれている。
    • 前室 : 全長5.42m・幅2.24m・高さ2.03m
    • 後室 : 全長2.62m・幅2.33m・高さ2.02m

 

  • 鞍部の石室は、後室のみが現存するが、前室については明らかではない。
    • 後室 : 全長2.8m・幅1.76m・高さ1.12m
    1888年(明治13年)、発掘調査がなされ、甲冑、刀剣銅鋺、土器などの出土品は東京国立博物館に収蔵・展示されている。副葬品の編年から、鞍部石室の築造はやや遅れて7世紀の中頃の可能性がある。

 
                        後円部の石室                                                      石室内部
 
             鞍部の石室                                                       石室内部 

  前方後円墳としては新しい時期のものであり、埼玉古墳群に匹敵する首長墓と考えられている。また埼玉古墳群から次の勢力への移り変りを探る上で、真観寺古墳は重要な古墳である。1934年(昭和6年)3月30日、国の史跡に指定された。  
 
 最後にこの真観寺古墳がある地名が最近筆者の中で非常に気になっているテーマでもある。「小見」=「おみ」。この地名を見て何か気づかないだろうか。

 


           

拍手[0回]


真名板高山古墳

 真名板高山古墳は埼玉古墳群と同時期の古墳で、六世紀後半頃の築造と推定される古墳である。行田市のもっとも東端に位置しているこの地域には珍しい単独墳であり、東西に主軸を持つ前方後円墳で、前方部には浅間社が祭られている。
 西方約4kmに位置する埼玉古墳群は時期的に鉄砲山古墳が造られていて、また小見地区にある小見真観寺古墳も同時期という。この狭い地域に100m以上の大型古墳が3基造られる、その背景、原因とは一体何だったのだろうか。
所在地   埼玉県行田市真名板1532
区  分   埼玉県指定史跡
埋葬者   不明
築造年代 6世紀後半(推定)

 真名板高山古墳は埼玉古墳群から東に4km程、埼玉県道128号熊谷羽生線を加須市方向に進み、「真名板」交差点を右折し、同県道32号鴻巣羽生線を500m弱南下すると、右手にこんもりとした森と寺院が見える。この古墳は「群」と呼ばれる一定集団の古墳群ではなく、行田市の東の隅に独立している単独古墳で、埼玉古墳群等に比べ存在感の薄いマイナーな古墳である。
 またこの古墳は埼玉古墳群の全前方後円墳の主軸(後円部)が北東方向に向いているに対して、東西方向で後円部は西方向と全く逆に向いている点にある。
 この古墳の西側には真名板薬師堂があり、そこの駐車場を利用して撮影を開始した。

 
真名板高山古墳
                          昭和49年3月8日指定
 この古墳は、東西に主軸をもつ前方後円墳で、旧忍川の沖積地に向かう微高地上に立地している。
 現存の墳丘の大きさは、全長90.5m、前方部の高さ7.3m、最大幅50m、後円部の高さ5.4m、直径40mである。
 墳丘の形状は、かっての多量の封土が除去されたために、大きく変形している。
 築造年代、埋葬施設、副葬部品については明らかではないが、周辺から採集された埴輪破片から、六世紀後半の築造と考えられている。
 武蔵最大の規模を誇る埼玉古墳群は南西約4キロメートルにあるが、時期的には並行しており、その関連が注目される。     
 平成2年3月
    埼玉県教育委員会, 行田市教育委員会
                                                                                                                    案内板より引用
 
    案内板の近くから墳丘に続く道がある。     墳丘はかなり狭まっていて、特に前方部の変形が
                                               著しい。

     後円部、墳頂部にある仙元(浅間)社
 現在、埼玉県下で7番目の大きさの前方後円墳だか、利根川などの氾濫や関東造盆地運動により本来の地表面が地下に約3m埋没しており、本来は全長約127mで、墳丘の高さは前方部、後円部ともに約910m。二重で盾形の周堀(深さ2m)があり、この古墳の南西約4kmにある埼玉古墳群の二子山古墳に次ぐ規模の古墳であることが判明したらしい。
 
              真名板高山古墳 実測図

 真名板高山古墳は利根川などの氾濫や関東造盆地運動により本来の地表面が地下に約3メートル埋没しているという。永明寺古墳の項でも紹介したが、行田市を含む埼玉県の東部は、関東平野のほぼ中央部に位置し、利根川や中川にそって上流から妻沼低地、加須低地、中川低地と続き、低地に囲まれるように大宮台地が大きな島状にあり、 このうち羽生市がある地帯は加須低地と言われ、利根川中流域の低地のひとつとして南の大宮台地と北の館林台地の間に位置している。
 この加須低地の場合、ほかの低地とは少々違う点があり、ひとつは自然堤防と思われる微高地の地表のすぐ下からしばしばローム層が発見されることで、低地の浅い部分の地下にローム層が存在することは一般では考えられないことらしい。。しかもなぜか微高地の下にローム層があり、後背湿地の下からは見つからない。ふつう自然堤防と後背湿地の構造的な違いは表層部付近だけであり、地下はともに厚い沖積層が続くものらしい。
 もうひとつは後背湿地と思われる部分の一部では軟弱な泥炭質の層が著しく厚いことで、代表的なのは羽生市三田ヶ谷付近(現在さいたま水族館がある付近)で、泥炭質の層が10mもあるという。

 つまり、加須低地のすぐ下には台地が隠れている埋没台地ということだ。それも古墳時代前後の。加須低地は沈んだ台地の上にできた特殊な低地だったというのだ。前出の小松古墳は地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没していることがわかり、また行田の埼玉古墳群や真名板高山古墳なども本来台地の上につくられたものが、2.3mの沖積層(古墳が築かれた後に堆積した土砂)で埋まっていることが明らかとなったという。

 この地域は約3mの堆積物に覆われており、この真名板高山古墳が築造された年代、周囲には古墳が数多く存在した,ということも考えられる。しかもこの古墳は二子山古墳と同規模の大きさという。相当実力のある人物が埋葬されたこととなる。
 また真名板高山古墳が築造された6世紀後半時期は全国的には古墳の規模は縮小時期に当たるにも関わらず、埼玉県北部においては第2次大型古墳の建設ラッシュ時期が起こっている。埼玉古墳群では丁度鉄砲山古墳(全長約109m)や将軍山古墳(全長約90m)の築造時期に当たり、埼玉古墳群から北に転じると小見地区にある小見真観寺古墳(全長112m)も同時期である。また鉄砲山古墳の東側には若王子古墳群があり、その中の最大の古墳である若王子古墳(昭和9年の小針沼干拓工事の際に埋立用土に用いられ、現在は全て消失、103m)も同じ時期に造られた。さらに南方向には久喜市菖蒲町の天王山塚古墳(109m)と、100mを超す大型古墳が5基も出現するその背景とはいかなる事態なのであろうか。

 6世紀後半に築造された古墳
  ・ 真名板高山古墳  127m
  ・ 鉄砲山古墳     109m 埼玉古墳群
  ・ 小見真観寺古墳  112m 小見古墳群
  ・ 若王子古墳     103m 若王子古墳群
  ・ 天王山塚古墳    109m 栢間古墳群

                        
          古墳の南側には真名板薬師堂、正面には楼門
                                                                                  

拍手[3回]


地蔵塚古墳

所在地    埼玉県行田市藤原2‐28‐1
区  分    県指定記念物
埋葬者    不明
築造年代   7世紀中頃


             
地図リンク
 地蔵塚古墳は八幡山古墳から北に数百m行ったところ、住宅地の中にある。この古墳は八幡山古墳と同じ若小玉古墳群に含まれ、墳頂に地蔵堂が安置されていることから、地蔵塚古墳と呼ばれている。かっては幅約1mの周濠が深さ40~50cmで周囲を取り巻いていたとされ、現在は古墳の麓の北西側が小さな公園になっている。
  
          
                    地蔵塚古墳入口正面の左側にある石柱
          
                                                                石室正面
           石室は内部の劣化を防ぐ目的で、固く閉じられていて、内部の見学は不可となっている。

 墳形は方墳と思われるが正直そのような感じには見えない。築造時期は7世紀中葉と考えられていて、規模は、一辺約28m、高さ約4.5m、周堀幅約1m、深さ40~50cm。石室の形態は胴張りで、奥壁と天井石は緑泥片岩(りょくでいへんがん)、他は安山岩の切石を用いている。奥壁及び側壁下には、根石が置かれていた。遺物としては、石室内から鉄鏃(てつぞく:鉄製矢じり)片や須恵器片が少量出土している。
                      


  1962年、石室の修復工事中に西側側壁に線刻画が発見された北武蔵唯一の装飾古墳である。烏帽子を被った人物、馬、家、水鳥、舟と思われるものが確認でき、現在石壁は保存のために堅く扉に閉ざされて見られない。埼玉県立博物館に複製が展示されている。
                        
                           墳頂にある地蔵塚

  八幡山古墳の石舞台の景観といい、地蔵塚古墳の線刻画(装飾古墳)といい、住宅街にありながらなかなか個性的な古墳がここには存在している。なかなか古墳も興味が尽きない。



拍手[0回]


八幡山古墳

所在地     埼玉県行田市藤原町1-27-2
古墳群     若子玉古墳群 県指定文化財
埋葬者     武蔵国造物部連兄麿とも言わてているが詳細は不明
築造年代    7世紀中頃(推定年代)


     
地図リンク
 八幡山古墳は埼玉古墳群の北北東方向にあり、距離にして2km位の位置し、工業団地内の八幡山公園内にある。正直古墳の周りは工場と民家で囲まれて、あまりの不釣り合いなコントラストにびっくりした。しかしこの石室には圧倒的な存在感があり、一見の価値がある。ちなみに八幡山古墳の名称は、江戸時代から石室内に八幡社を祀ってきたことに由来する。
 
  八幡山古墳のある「八幡山公園」正面入口    石室の手前左側にある「八幡山古墳整備記念之碑」
                       
                          県指定史跡八幡山古墳石室の説明版も石室の手前左側にある

 この古墳は若小玉古墳群という古墳集団の一つに数えられ、元々の大きさは直径80m、高さ9.5メートルの円墳で、石室の上10m近くの高さまでお椀を伏せたように土が盛られていたという。1944年3月31日、埼玉県史跡に指定された。新撰武蔵風土記稿に横穴式石室の一部が露出し、石室内に八幡社が祀られていたことが記載されている。江戸時代より既に石室の一部が露出していたが、1934年11月に小針沼の干拓工事で盛土が取りさられて石室が完全に露出。その様子が、飛鳥の石舞台古墳に似ていることから別名「関東の石舞台」と形容された。

 石室の構造は羨道・前室・中室・奥室からなり、全長は16.7メートル、奥室の高さ3.1メートルの大きさという。この長さは全国で2番目に長い石室であり、しかも1番目は奈良の見瀬丸山古墳で、天皇陵指定されているため中に入ることはできない。つまり現在内部を見ることができる、一番大きな石室とも言える。

 また1977年の発掘調査で、銅椀・須恵器・直刀など多くの遺物が出土しており、またそのほかに絹布に漆を塗り、繰り返し重ねて作られた棺の破片(乾漆棺、漆塗木棺片)が出土した。畿内の終末期古墳と共通する出土品が確認されたことから、被葬者が宮廷ときわめて近い関係の人物と考えられている、というが・・・
                  
          周りの工場の風景とは全く不釣合いではあるが、それでいて圧倒的な存在感のある石室

 
  参拝日が平日のため柵は鍵がかかっていた。         柵から手を伸ばして内部を撮影

 後で知ったことだが、この柵は石室内の公開は土曜日・日曜日・祝日(年末年始を除く)であり、平日はあいていないとのことだ。

 この八幡山古墳は「さきたま古墳群」の築造が戸場口山古墳を以って終了した後を引き継いだ形で形成された若小玉古墳群の主墳であり、東国では珍しい夾紵棺という漆塗りの棺が出土した。高貴な人物の埋葬が考えられ、聖徳太子の家来で武蔵国造に任命された物部連兄麿の墓ではないかと専門家の中では考えられているがどうであろうか。                                                                           
                 
                                    近くで見るとやはり要塞のような重厚なつくり

 上部の蓋の部分には結晶片岩を使用しているのではないかと思われる。この石は長瀞、嵐山などの荒川上流域に大量に存在していて、現地でも末野神社、波羅伊門神社など多くの神社の階段や、石室に使用されている。

 
結晶片岩

 いろいろな岩石が高い圧力によって変成を受けた岩石で,海洋プレートが海溝で地下深くに沈み込んだときに,海洋プレートの上の堆積物や海洋プレートそのものが,地下深部の強い圧力を受けてつくられる石といわれている.もともとはいろんな石だったものだったが,強い圧力を受けたために,非常に硬く,細かい縞模様ができているのが特徴で、結晶片岩は北海道中央部や、嵐山町、長瀞、また群馬県藤岡市の三波川結晶片岩、長野県を経て紀伊半島、四国、九州まで細長く続いている。またこのラインは丁度活断層上に位置しているのも特徴である。



   またこの古墳がある地名は「大字 藤原」という。この周辺に在住の知人から聞いた話ではこの地域は昔「藤原氏」が移住した地域という。詳しい話は聞かなかったが、地名は古墳、神社同様生きた歴史の証人である。地名は時の権力者によって変わることもあり、詳細で緻密なな研究が必要だが、この行田市の深い歴史と数多くの遺跡をみると、何かしらの関連性を感じずにはいられない。

 最後に「藤原」について以下の説明をしている書物があり参考資料としたい。また「藤原」は「藤」+「原」で本来の名前は「藤」であり、「藤」についても掲載する。

 藤原 フヂワラ  

 百済(くだら)は管羅(くだら)と書き、管羅(つつら)と読み、葛(つつら、つづら)の佳字を用いる。原は古代朝鮮語の村の意味。百済族の集落を葛原(フヂハラ)と称し、藤原の佳字を用いる。葛ノ(フヂノ)、藤ノは藤原と称された。古代備前国に藤野県あり、養老五年に藤原郡と称し、神亀三年に藤野郡と改め、神護景雲三年に和気郡となり、和名抄に和気郡藤野郷(岡山県和気町)を載せ、布知乃と註す。また、葛野(かどの)と称し、和名抄に山城国葛野郡葛野郷を載せ、加度乃(かどの)と註す。京都府右京区太秦の地で秦族の渡来地である。葛野郡の桂川(かつらがわ)は葛野(かつらの)より称し、古くは葛野川(かどのがわ)と称した。日本書紀・応神天皇六年二月条に、葛野川流域の宇遅野(宇治市)で天皇が詠んだ「千葉の、葛野を見れば、百千足る、家庭も見ゆ、国の秀も見ゆ」という国ほめの歌が見られる。千葉は葛野にかかる枕詞で、藤原族は千葉氏を名乗る者が多く、桓武平氏千葉氏は藤原部の首領である。奥州には藤原氏、千葉氏が同じ居住地に多く存す。入間郡黒山村字藤原、秩父郡下日野沢村字藤原、大野村字藤原あり



藤 フヂ 

 葛(ふぢ)は、葛(つつら、つづら)、管羅(つつら、くだら)の転訛にて、百済(くだら)を指す。山城国葛野郡(かどの)は韓人秦氏の本拠地である。葛野川(かどのがわ)は別名桂川(かつらがわ)を称す。桂は葛野(かつらの)の転訛なり。葛野(かどの、かつらの)は葛野(ふぢの)とも称す。備前国藤野県は養老五年に藤原郡となり、神亀三年に藤野郡と改称す。藤ノは藤原と同じ意味。葛原(ふぢはら、くずはら)は佳字の藤原(ふぢはら)を用いる。原は古代朝鮮語の村の意味。百済族の集落を藤原と称す。大ノ国(後の百済)の渡来人集落を意富(おお、おふ)と称し、意富郷・意布郷に葛原部、藤原部が多く存す。フヂワラベ参照。藤原鎌足が鞍作臣蘇我入鹿暗殺直後に古人大兄皇子(天智天皇の兄)が言った言葉に「韓人、鞍作臣を殺す」(皇極四年六月紀)と見ゆ。鎌足は韓人、即ち百済人であった。また、伊藤・加藤・工藤・佐藤・斎藤などの藤(とう)は唐(とう)の佳字にて、唐(から)は韓(から)の意味なり。各市町村に存す。



   

拍手[1回]


荒木常世岐姫神社


        
             ・所在地 埼玉県行田市荒木5230
             ・ご祭神 常世岐姫命
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 例大祭 821        
 埼玉県道128号線行田羽生線を熊谷から東行し、上之村神社、古宮神社を左手に見ながら更に道沿いに4キロ程直進し、星川に架かる斎条堰の浮桟橋を過ぎて「武蔵水路」に達する手前の丁字路左側に社の社号標柱が見えてくる。そこを左折すると、正面に鳥居が見え、その長い参道の先に常世岐姫神社は静かに鎮座している
 
   県道左側に設置されている社の社号標柱     社号標柱の遙か先に小さく鳥居が見える。
 荒木常世岐姫神社の創建年代等は不詳だが、寛永10年(1633)・元禄13年(1700)の棟札があったという。社記によれば、当社は八王子権現宮と称し、広く崇敬を受けていたと伝える。また、大字渡柳にも同名の社があり、当社から分霊したものと伝えている。
 江戸期は、真言宗東福寺が別当を務めていたが、神仏分離によりこれを離れ、明治
6年村社に列格した。
            
                                     200m程の長い参道の先に境内、及び社殿がある 。 
         地形を確認すると、ゆるやかな上り斜面で、丘の上に社は鎮座しているようだ。
            
                                                               
拝 殿
 常世岐姫神社  行田市荒木五二三〇
 社伝によれば、当社は古来八王子権現宮と称し、広く崇敬を受けていたと伝える。江戸期は、真言宗東福寺が別当を務めていたが、神仏分離によりこれを離れた。
 八王子権現は、山王七社権現の祭神の一つ国狭槌尊を祀る。また、八王子は天照大神と素盞嗚尊との誓約の時に出現した五男三女の神、天之忍穂耳命、天之穂日命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・多紀毘売命(沖津島比売命)・市寸島比売命(狭依毘売命)・多岐津比売命である。なぜ八王子権現宮に常世岐姫神社の名を付けたのかは不明である。
 姫とつくことから後者の三柱の女神(宗像大神)を祀ったのではないかとも考えられる。
 現在の祭神は、常世岐姫命である。
 また、大字渡柳にも同名の社があり、当社から分霊したものと伝えている。
 社記によると、寛永一〇年と元禄一三年の棟札があると記されているが、現在、元禄の棟札のみが残されている。
 明治六年に村社となったが、当社では合祀は行われなかった。
 境内には末社として天神・伊奈荷合殿社と目神社を祀る。末社の祭りとしては、天神社が三月二五日、伊奈荷社が二月二二日となっていたが、これを行わなくなって久しい。
                                  「埼玉の神社」より引用
           
                                                  社殿から見る境内、参道の様子
 ところで、常世岐姫神社の祭神である「常世岐姫命」とはどのような人物だったのだろうか。
 大阪府八尾市神宮寺に常世岐姫神社が存在する。どうやらこの社が本宮で、残りの分社が埼玉県北部に数社確認されている。この荒木常世岐姫神社はその分社の一つだそうだが、なぜ埼玉県北部しか分社がないかはハッキリと分かっていない
 本宮のある八尾市神宮寺は古代に赤染部という染色技術者集団がおり、ルーツをたどれば67世紀に南鮮から渡来した人たちだった。『続日本紀』光仁天皇 宝亀八年(777)四月条によれば、彼らの子孫だった河内国大県郡の赤染人足ら13人が、「常世連」姓に賜ったという。当社はこの常世連が氏神を祀った神社とされ、河内国大県郡にある同名の式内社に比定されている。
 この常世岐姫という祭神は、女神であったということ以外、ほとんどのことが分からない。従って当社における箒と結びついた安産信仰もこの祭神の性質と結びついたものかどうか不明である。
また常世岐姫神社の正式名称は明治時代以降のものであり、それまでは「八王子神社(はちおうじじんじゃ)」と称していた。現在も正式名称よりも旧名称のほうが知られており、地図や看板・社頭の石標・八尾市教育委員会の説明標にも八王子神社と記されている。
 なお赤染氏は、豊前国の式内社・香春神社の神職でもあったという。香春神社は新羅系渡来氏族(秦氏に連なるともいう)が創建した神社で(豊前国風土記に、「昔、新羅の国の神-香春の神-が自ら海を渡って来た」とある)、その渡来氏族が香春の地から東進して宇佐地方に入り、在地氏族(宇佐氏)と一体化して創建したのが宇佐八幡宮という。
 彼らは土木・養蚕・機織・採鉱冶金といった先進技術をもって各地に展開したといわれ、当地の赤染氏もその一族として染色・赤染(紅染・茜染)などの特技をもった技術集団であろうといわれ、時代は降るが、鎌倉時代の吾妻鏡(1300頃)には、
「この地の人々は河内国藍御作手(アイミツクテ)奉行に任ぜられ、諸国へ藍作・藍染の技術を指導した」とあるという。

 時代は下るが、常世岐姫神社が鎮座する行田市に隣接する羽生市は江戸時代から藍染生産が盛んで、武州正藍染は地元では有名である。
 ●天然発酵~武州正藍染~
 羽生や加須、行田、騎西など北埼玉で藍が栽培されるようになったのは、江戸時代後半の天明期の頃とされています。もともと農家の主婦が農閑期を利用して、家族の衣服をつくったのが始まりといわれ、明治40年代の最盛期には武州(羽生、加須、行田、騎西)の一大産業となりました。藍染めの職人を紺屋(こうや)職人と呼び、当時200件以上の紺屋があったほどです。武州の正藍染めは、藍の葉から自然発酵建てでとった染料により染めるのが特徴です。手染めなので微妙な風合いがあり、さめるほどに美しい色合いになっていきます。手法としては糸の段階で染める糸染めと、布にしてから染める型染めの2方法があります。武州では全体の7割が糸染めで、型染めは民芸調などの柄が出せます。
 
             境内社 天神 伊奈荷合殿社             境内社 目神社

 埼玉県神社庁の説明では、常世岐姫について「姫とつくことから後者の三柱の女神(宗像大神)を祀ったのではないかとも考えられる。」と説明されているが、正直非常に苦しい解釈をしている。また本宮が大阪府にありながら、分社が全国的ではなく、埼玉県北部に数社しかないのも少々気になるところだ。

 

拍手[0回]