古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

尾崎鷲宮神社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市尾崎705
              
・ご祭神 天穂日命 武庚鳥命
              
・社 格 旧尾崎村鎮守
              
・例祭等 春季祭 41415日 夏季大祭 71415
                   
秋季祭 101415
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1932794,139.5504263,17z?hl=ja&entry=ttu
 本川俣長良神社から北側の利根川土手沿いの道路を東行し、2㎞程進んだ三つ又交差点を右折、350m程進むと右側に細い路地が見え、「尾崎農業研修所」に隣接するように尾崎鷲宮神社が古墳墳頂部に鎮座している
        
                               
尾崎鷲宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「尾崎(おさき)村」の解説
 [現在地名]羽生市尾崎
 利根川右岸の自然堤防とそれに連なる後背湿地よりなる。西は同川沿いに稲子(いなご)村に続く。「万葉集」巻九の「武蔵の小埼の沼の鴨をみて作る歌」の「小埼沼」、巻一四の国歌に詠まれた「埼玉の津」を当地に比定する説もある(行田市の→小崎沼)。「風土記稿」は「此辺多クハ沼田ナレハモシクハ当所小埼沼ノ旧蹟ニテ後年尾崎ノ文字に改シモ知ルヘカラス」と記す。田園簿によると田高一八五石余・畑高二八六石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領。同藩領は寛文元年(一六六一)からで宝永元年(一七〇四)上知(「寛政重修諸家譜」など)。
『新編武蔵風土記稿 尾崎村』
 按るに埼玉津小埼沼皆【萬葉集】の詩にも見え、當所の名前なるはいふもさらなり、されど上りたる世の中にして、舊蹟しかと論じがたし、然るに此邊多くは沼田なれば、もしくは當所小埼沼の舊蹟にて、後年尾崎の文字に改しも知るべからず、
 鷲明神社 愛宕社 以上二社を村の鎭守とす、
 
    鳥居のすぐ先に置かれている            境内一帯の風景
     伊勢参宮記念碑等の石碑四基       社殿は古墳の墳頂部に鎮座している。
 行田市酒巻地域にある「酒巻古墳群(酒巻八幡神社を参照)」や「真名板高山古墳」の例もあるが、利根川流域の加須低地一帯は、嘗て「関東造盆地運動」による沈降と河川の氾濫土の堆積により、古墳の多くが地表から沈降し、埋没してしまっているという。
『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』によると、尾崎地域には全部で9基からなる「尾崎古墳群」といわれる古墳群が複数調査により確認されているが、現在はそのほとんどは水田下に埋没しているとの事で、この鷲宮神社古墳と社南方にある遍照院古墳の二基が残されているとの事だ。残念ながら遍照院には行かなかったので、確認は出来ず。
       
 古墳上に鎮座する社殿と、その両側に祀られている境内社との配置が不思議とマッチしていている。
       
    社殿に通じる石段の右側にある社の由来と指定文化財の獅子舞に関しての案内板

  指定文化財 尾崎地域の獅子舞の案内板        社の由来等を記した案内板
指定文化財 獅子舞(尾崎地区)
(無形民俗文化財 羽生市指定第7号 昭和34101日)
 親獅子、中獅子、子獅子の3頭で構成されます。頭をかぶる一人一人が1頭の獅子の役を受け持つため、一人立ち3頭形式の獅子舞といいます。以前は714日から16日の3日間をかけて行われていましたが、最近では714日の例大祭の夜のみ、五穀豊穣、家内安全を願った奉納となりました。昔は鷲会という組織に、167歳から30歳までの男子が入会し、ゲンロウと呼ばれる人たちのきびしい指導を受けながら、習得していきました。
 獅子舞はまず棒術の演技が行われ、その後出端→シバ掛かり→段物→(花散らし)→岡崎の順に演じられます。演目である段物には「梵天」「八丁締」「行道探し」「弓」「鐘巻」などがあります。笛方は10数名で構成され、65本調子です。
 三代将軍徳川家光の頃より行われていたといい、下野国から獅子舞の師匠を呼んで習ったと伝えられています。
 平成14年3月20日 羽生市教育委員会

                                                                            案内板より引用
       
                                      拝 殿
   案内板による創建時期は承応元年(1652)。久喜市鷲宮神社から分祀したという。

 本殿には、天穂日命と武庚鳥命を祀る本殿両脇に、愛宕社・天神社・浅間社・稲荷社を祀り、愛宕社・天神社・浅間社には、それぞれに勝軍地蔵像・天神座像・木花咲耶姫像が安置されている。更に、稲荷社には眷属(けんぞく)の狐のほか、大きな厨子に高さ50㎝ほどの稲荷大明神が祀られている。
 正一位 鷲宮大明神
 鷲宮神社ノ由緒
 神社所在地 埼玉県羽生市大字尾崎七〇五番地
 境内面積   六六三坪(前方ノ道路ヨリ入リ参道ヲ含ム)
 起源       承応元年(今ヨリ約三百三十年前二〇代ノ後光明天皇ノ御代江戸時代ノ創立鷲宮ノ
             鷲宮神社ヨリ分祀セラレタル説アリ)
 神德       御祭神ノ故事ニヨリ特二開運火防農工商交通安全ノ守護神
 境内神社    一、産土神社祭神鬼子母神出産ヲ司リ
             一、産児ノ保育スル神
             一、稲荷神社祭神宇迦御魂命農ノ神
             一、八坂神社祭神須佐之男命
 平成二十三年八月 氏子総代会
                                    境内案内板より引用
 
拝殿に掲げてある「正一位 鷲宮大明神」の扁額  石段左側に祀られている三峯神社の石祠
 
  石段手前で左側に祀られている境内社      境内左側にある「出羽三山参拝記念碑」
            左から稲荷社・八坂社       幾多の記念碑も塚側に向いている為、見づらい。      
        
                              静まり返った境内の一風景

 埼玉県行田市の南東部に位置する埼玉地域には、かつて「小埼沼(おさきぬま)」という沼が存在していた。今では小さな林とわずかな窪地を残すのみとなっているが、縄文時代にはこのあたり一帯は東京湾の一角として入江が入り組んでいたという。
 この小埼沼は尾崎沼・小崎沼とも称され、大字埼玉の東部に所在していたと伝わる沼である。今日では林の中に「武藏小埼沼」と彫られた石碑と池が所在していて、この石碑は宝暦3年(1753)に忍城主の阿部正允により建てられたものである。
 ところで、万葉集には小埼沼について歌われているものが2首現存している。
 ・小埼の沼
 「埼玉の小埼の沼に鴨ぞ翼きる 己が尾にふり置ける霜を払ふとにあらし」
 ※(解説)小埼の沼で鴨が翼を振って水しぶきを飛ばしている。自分の尾に降った霜を払おうとしているようだ。
 ・埼玉の津
 「埼玉の津に居る船の風をいたみ 綱は絶ゆとも言な絶えそね」
 ※(解説)埼玉の渡し場にある舟は、風が強いと綱が切れることがあるが、二人の仲は切れないよう続けたい。たとえ会えなくなっても、お前は便りを絶やすようなことはしないでほしい。

 同地は1961年(昭和36年)91日に「万葉遺跡・小埼沼」として埼玉県指定記念物に指定されているが、伝承による埼玉の津および小埼沼の候補地は、行田市埼玉の場所だけではなく、羽生市大字尾崎とする説や、さいたま市岩槻区大字尾ケ崎とする説(共に武蔵国埼玉郡)がある。
 この奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である万葉集は、7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録された日本の古典であり、日本文学における第一級の史料であろうことは疑いない。
 その古典に「小埼沼」という地名は確かに存在していて、この候補地の一つに挙げられているのが羽生市尾崎地域である。その中央部付近に、尾崎鷲宮神社は静かに鎮座していた。

【浅間塚古墳】
 尾崎鷲宮神社から南方向に通る道路を900m程南下すると、右手に「浅間塚古墳」が見えてくる。
 遠目から見ても一目で古墳と分かる形状をしているので、立ち寄って確認する。
        
                   浅間塚古墳
 山頂には浅間神社の小さな祠があり、それがこの古墳の名称の由来ともなっている,麓には馬頭観音の碑が祭られている。元は円墳の古墳(推定)築造時期は不明。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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本川俣長良神社

 日本人の神観念のなかには,人間を神にまつる風習に基づいた神格がある。死後神にまつられる場合と,生前にその人間に神格を認め,信仰対象とした場合と二通りあり,後者の場合,まつりこめた祠を「生祠」としている
 生祀は、元々古代中国の前漢時代の政治家である欒布(? - 紀元前145年)が燕の丞相であった時、燕と斉の間にその社を立てて、「欒公社」と呼んだ。また石慶が斉の丞相であった時、斉人は「石相祠」を建てた。これが生祠の始まりであるという。
 日本における生祠に関して、自己の霊魂を祀った生祀の文献上で最も古い事例は、平安時代の923年、伊勢神宮の外宮の神官であった松木春彦(824年〜 924年)が、伊勢度会郡尾部で、石に自己の霊魂を鎮め祀ったことである。
 生祀は江戸時代に増えたが、それは中国思想の影響であろうという。この場合の生祀とは、人々のために利益をもたらした英雄や,一般人よりも権力や霊力あるいは徳において秀でた人物を象徴的に崇拝の対象として祀っているという。
 但し、自己の霊魂を祀るケースもあり、江戸時代中期、松平定信が1797年、奥州白河城に自分の生祀を成立した例があり、また山崎闇斎が儒教の礼式を参考に祭式を考案し、自らの霊魂を祀った。その生祀は1671年、京都の自邸の垂加霊社に成立したものである。これ以後も、神道家や平田派の国学者によって、それぞれ独自の祭式で自己の霊魂を祀った。
 羽生市本川俣長良神社境内には、江戸時代の川越領主であり、当該地域も領地分として善政を施いた松平大和守直恒の生祀を祀っていて、現在その石祠は羽生市の市指定史蹟となっている。
        
             
・所在地 埼玉県羽生市本川俣12135
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             
・社 格 旧本川俣村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1866796,139.5329647,17.29z?hl=ja&entry=ttu
 上川俣天神社から一旦国道122号線に戻り、東方向に進路をとる。東武伊勢崎線の踏切を越えて350m程進んだ丁字路を左折する。その後「葛西用水路」を越えた先に「本川俣集会所」が見え、その隣に本川俣長良神社は鎮座している。
        
                              
本川俣長良神社 一の鳥居  
『日本歴史地名大系』 「本川俣村」の解説
 利根川南岸の自然堤防上に位置し、旧利根川の流路跡もみられる。古くは西側上流の上川俣村と一村であった。田園簿によると幕府領で、田高二三九石余・畑高五九九石余、ほかに千手せんじゆ院領一〇石があった。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。同九年には三卿の一家である清水領で(「清水家領知村々社倉仕法請書」酒井家文書)、幕末の改革組合取調書でも同じ。
        
                                 境内の様子
『新編武藏風土記稿 本川俣村』
 村名の起りは上川俣村・上新郷村の間に會川と云古川あり、是中古までは利根川の枝流にして、ニ又に分れ、其所へ當村の地臨みし故、川俣の名は起れりと云う、
『新編武藏風土記稿 上上新郷村』
 此會川と云は利根川の古瀬にして、古は利根川當村の北にてニ派となり、一は今の利根川、一は此會川にて、南へ折れ郡中を貫き、川口村にて又今の利根川に合す、昔は利根川に劣らず大河なりしを、忠吉郷の家人小笠原三郎左衛門、文祿三年堤を隣村上川俣村まで築きて、水行を止しゆへ、古川となりしよしを傳ふ、

「新編武蔵風土記稿 本川俣村」において、
川俣という地名由来が記されていて、そこでは、嘗て「利根川」の支流であった「会川」は、上川俣村・上新郷村の間を流れていて、この地で二又に分かれたために、「川俣」という舞相になったと記されている。対して「新編武藏風土記稿 上上新郷村」では、利根川の支流の支流でありながら、「会川」は、当時の利根川と同じくらいの水量を誇る大河であり、恐らくは水害も何度もあったのであろう。文禄3年に堤防を築いたことにより、水量を管理したことが記されている。
        
                    拝 殿
 長良明神社
 村の鎭守なり、當社は元上野國邑樂郡瀨土井村にありしが、天正三年利根川洪水の時、當所の岸へ流れ來りし故、土人取上て翌年三月廿日社を造りしとなり、祭神は長良親王の由にて、束帶の坐像なり、今按に上野國瀨土井村なる長良神社は、在昔上野國騷亂の時、大職冠鐮足七世の孫、黃門侍郎藤原長良をして、鎭撫せしめしに、國大に治りし故、長良歸京の後、家監赤井師助と云ものを留て、是を治めしめたり、長良沒後に及て師助國人と計て彼靈を神に祀り、直に長良神社と號すといへり、是に據ば親王といへるは誤なるべし、されど長良の上野を治めしこと國史に載せざれば、詳なることは知べからず、或云【和名抄】上野國邑樂郡の鄕名に、長柄あり、是地名を以神號とせるならんと、此當れる如く思はるれど、未だ其據を聞かざれば信じがたし、
 別當大藏院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動の配下
 本地堂 觀音を安置す、
 〇八幡社 〇鷺明神社 〇天神社
 以上の三社は、文祿四年の勧請にして、大藏院の持なり、
                          『新編武藏風土記稿 本川俣村』より引用
 長良神社は利根川中流域左岸、つまり、群馬県の利根川流域に数十社集中的に鎮座しているが、反対側である、埼玉県側の利根川右岸には、この本川俣地域と、弥勒地域の2か所しか存在していない。特徴ある配置状況である社といえる。
        
                                       本 殿
 
  社殿の左側に祀られている「松平大和守生祠」の石祠(写真左)とその案内板(同右)
 指定文化財 松平大和守生祠 
(史蹟 羽生市指定第5号 昭和32129日)
 本川俣村は、明和7年(1770)から文政4年(1821)までの約50年間、それまでの幕府直轄地から河越城主の領分となっていました。
 生祠とは、領主の徳をたたえるために領民がまつったもので、市内には堀田氏、戸田氏、本多氏らの城主のもの以外にも、小尾氏、戸田氏、土岐氏等の旗本をまつったものがあります。
 この生祠は、松平大和守直恒をまつっています。当地は天明6年(1786716日におきた上川俣の竜蔵堤の決壊および、寛政3年(179187日の再決壊による水害に見舞われました。この領民の窮状を知った直恒は、食料を与え、租税も五年間免じました。この恩に報いようと、惣百姓、組頭、年寄、名主が願主となり、そのいわれを記して後世まで伝えようと寛政6年(1794)に建立したものです。
 松平大和守生祠は、寛政元年(1789)に待従に任ぜられた後、文化7年(1810)に49歳で没しました。
 平成15320日 羽生市教育委員会
                                      案内板より引用

 
  生祠の左側並びに祀られている湯神社      生祠の右側並びに祀られている石碑
    その右側には石鳥居建築記念碑       左から琴平神社・〇大明神・威徳天満宮
 
 琴平神社等の石碑の右側並びに祀られている石碑・石祠群(写真左)。左から八幡神社・水神宮・龍〇宮・庚申供養塔・(不明)・(不明)・道祖神・道祖神。これらの石祠群の奥にも境内社が祭られているのだが(同右)、詳細は不明。
        
                社殿から見た境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等


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上川俣天神社

『日本歴史地名大系』 「上川俣村」の解説
 [現在地名]羽生市上川俣
 利根川南岸の自然堤防上に位置し、西方を会(あい)の川が流れる。桑崎(くわさき)村の北にあり、古くは東隣の本川俣(ほんかわまた)村と一村であった。天正六年(一五七八)三月七日、木戸元斎は上野国三夜沢(みよさわ)大明神(現群馬県宮城村の赤城神社)に羽生城回復を祈願し、祈願成就の際には埼玉郡河俣郷など三ヵ郷から三貫文の地と神馬三疋を寄進することを約している(「木戸元斎願文」奈良原文書)。

        
              
・所在地 埼玉県羽生市上川俣1401
              ・ご祭神 菅原道真公
              ・社 格 旧上川俣村鎮守
              ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.com/maps/@36.188196,139.5185383,16.71z?hl=ja&entry=ttu
 羽生市北に鎮座する大天白神社、及び大天白公園から一旦国道122号線に戻り、右折し利根川方向に1.4㎞程進行する。「埼玉用水路」を越えた直後の信号を左折し、用水路沿いに進むと、斜め右方向に曲がる道幅の狭い路地があり、その先に上川俣天神社の白い石製の鳥居が見えてくる。
        
                 上川俣天神社 一の鳥居
          とにかく長い参道で、朱色の二の鳥居が小さく見える。
 実は十数年前にこの社は参拝したことがある。当時筆者は業務の関係で、南羽生駅付近に勤務し、時折「道の駅 はにゅう」にも出入りしていた関係で、その南東に鎮座していたこの社の存在は知っていたので、今回参拝に当たって、大体のイメージはついていた。
 この社の大きな特徴は、社の規模に対して、230m程の長い参道が真っ直ぐに続いていることにある。石製の一の鳥居から130m程参道を進むと朱の両部鳥居である二の鳥居にたどり着くが、そこから尚100m歩かなければ社殿に到着することができない。社の規模を考えると、この長い参道は普通ではない。
 苦労した点はまだある。社の場所は特定できたのだが、周辺に適当な駐車スペースが全くないことだ。確かに社に隣接して「上川俣地区集会所」があり、当初国道からのアプローチにて、北方向から試してみたのだが、集会所まで、車一台がやっとの道幅しかない路地を通らなければならず、結局そこから進むことを諦め、南側の埼玉用水路沿いから社に通じる路地を右折して臨んだ。やはりここも道幅は狭いのだが、そのまま直進して、二の鳥居近郊にあるごみ集積場付近の広い空間に駐車させてから、やっと参拝を開始することができた。ただし、そこから一旦東方向にある一の鳥居に戻らなければならず、また一苦労である。
 
  一の鳥居から僅かに見える二の鳥居        二の鳥居の前には神橋もある。
 羽生市上川俣地域は、東武伊勢崎線の西側、利根川南岸の自然堤防上に位置しており、写真を見て分かる通り、豊かな水田地帯である。
 この地には昔「藤原姓佐野氏流」から出た「川俣氏」が出ている。
『田原族譜』「佐野実綱(弘安九年没)―戸室七郎四郎親綱―重行―重正―出羽守親久(武州埼玉郡騎西城主)―親元―親邦―川俣左京進親義(川俣祖)」
        
             主を基調とした両部鳥居の二の鳥居
 一の鳥居の社号額には「天神社」と刻印されているが、この二の鳥居の社号額には「正一位 雷電宮 天満宮」と記されている。元々この社は住吉社・八幡社・天神社・白山社・愛宕社の五社に分かれていたが、慶安二年(1650)に統合して「天神社」という名称となったという。
        
            二の鳥居を過ぎて、また再度参道を進む。
    参拝日は夏本番の晴天。この地に立っているだけでも汗が全身に噴出す陽気。
        
                参道途中に設置されている「作詞家 関口義明先生の顕彰碑」
 関口義明氏は、昭和15年羽生市上川俣で生まれで、地元・川俣中学を出て羽生実業高等学校を卒業後、県内の銀行に勤務。その傍ら作詞に興味を持ち、ざっち「家の光」に投稿したところ一位に入賞し、東芝レコードに採用されて、昭和三十九年(1964)作詞した「あゝ上野駅」が大ヒッ トした。
日本の高度経済成長期、集団就職列車が上野駅に到着した時の、就職者の気持ちを歌った「あゝ上野駅」は郷愁を誘う人生の応援歌として、今なお若い人にも愛され歌われている。
 氏は、作詞家人生の五十年で三百を超える詩を作り、数多くの歌手にその詩が歌われ、この詩に対する功績を讃え、顕彰碑を建立したという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上川俣村』
 上川俣村は元川俣村と一村の地なれば、すべてのこと前村(本川俣村)と異なるなし、民戸八十餘、東は本川俣村、南は桑崎村、西は小須賀・上新郷の二村にて、北は利根川を境として上野国邑樂郡梅原村なり、東西十三町、南北八九町、檢地は貞享四年甲府殿領知のとき糺せり、
 高札場 村の西にあり
 小名 寄居耕地 佐畑耕地 柳根 大門耕地
 利根川 北の境を流る、川幅三百間、水かさ増れるときは四百八十間に及べり、當村内にも龍藏川岸と云江戸運漕の河岸あり、川路二十六里、
 住吉社 〇八幡社 〇天神社 〇白山社 〇愛宕社
 以上村の鎭守なり、慶安二年五社合して、社領十五石五斗餘の御朱印を賜ふ、
 別當西照寺 新義眞言宗上羽生村正覺院末、住吉山淨土院と號す、本尊彌陀立像にて丈ニ尺三寸、運慶の作と云、
 大日堂 塔天神社 〇赤城社 二社共に西照寺持、
 
  拝殿の扁額には「天満宮」と記されている。            本 殿
 
  社殿左側に祀られている赤城大神の石碑     社殿右側に鎮座する境内社。詳細不明。
 
   境内右手方向に祀られている石碑群        並びに祀られている石碑等。左から愛宕社・
   左より住吉社、八幡社、武塔天神社    白山社、河伯水神・大杉明神、右側の社は不明。 
        
                  広々とした社の空間


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市自治会連合会だより」
    「境内碑文」等

 




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下中条治子神社


        
             
・所在地 埼玉県行田市下中条1665
             
・ご祭神 天手長雄命
             
・社 格 下中條村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例大祭(下中条の獅子舞) 818日に近い日曜日
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1892365,139.4645613,15.42z?hl=ja&entry=ttu
 須賀熊野神社から埼玉県道59号羽生妻沼線を西行し、「利根大堰」交差点を直進し、400m程進んだ右側に鎮座している。以前はここより150m程西にあったが、利根川堤防拡張工事の関係で移設を行なったようで、社殿や社務所も新たに建てられたようだ。白木の美しい社務所の南側には十数台駐車可能なスペースも確保されている。
        
                 下中条治子神社正面
 美しい社。移設に伴い、社殿や社務所、手水舎等の施設は勿論の事、境内全体も新しく整備したようで、見た目も綺麗である。境内周囲にある社叢林もなく、若い木々である。何より遠目から見ても白木の社殿の美しさには、我々日本人の美的感覚を擽(くすぐ)られ、恥ずかしながら、一時時が止まったかのように暫く見とれてしまった。
 勿論人の手による人工的な建造物であることは違いないのだが、今流行りの近代的な建物に比べると、木本来の美しさを日本人技術者(職人)が熟知し、加工を加えることにより、日本独特の木造建造物を創り出したと言えよう。思えば、日本全国に鎮座する数万社ともいわれる神社も、創建当時はこのような美しさであったのだ。
 
それと同時に社の創建に伴う、現実的な予算は如何ばかりであったろう。地方自治体の補助金だけでなく、地域の氏子・総代・地域住民等からの志(こころざし・寄付金)も決して少なくはなかったはずで、社の移転が決まり、完成に至るまでの経緯やそれまでの苦労を思うと、頭が下がる思いだ。
 鳥居正面に立ち、ふとそのような取り留めのないことを考えてしまった次第だ。
        
             石製の白い鳥居が盛暑の空に一際目立つ。
            利根川堤防が東西に広がる地に社は鎮座する。
『日本歴史地名大系』 「下中条村」の解説
 [現在地名]行田市下中条
 北は利根川に接し、南は斎条(さいじよう)村、東は見沼代用水を隔てて須賀(すか)村。荒川扇状地末端約五キロ平方にわたり、地下一メートルの所に埋没している古代条里遺構の西端に上中条村(現熊谷市)があり、東端に当村が位置していると解されている。縄文時代後期および古墳時代の集落遺跡がある。古くは幡羅(はら)郡の東端であったとする説がある。
 天正一九年(一五九一)六月松平家忠が一万石を宛行われたが、このうちに「下中条村」の三一七石余も含まれた(「伊奈忠次知行書立」長崎県片山家文書)。
        
        新しく造られた事もあり、参道や境内も綺麗に整備されている。
        一対の狛犬は昔からのもののようで、新しい台座の上に立っている。 
『新編武蔵風土記稿』によれば「天手長雄命」がご祭神として祀られているとの記載がある。天手長雄神は知る人ぞ知る壱岐国一宮の天手長雄神社のご祭神で、正式名は「天手力雄命」。この神は埼玉県、特に北部に多く祀られている神であり、どのような経緯で武蔵国まで伝搬したか、いつかは考察したい神である。一方、『埼玉県の神社』では「治由保大神(ちゆほのおおかみ)」、『ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々』では、天照大神の末子である「治子大明神」がご祭神となっている
 また社の名称「治子」も行田HPによれば「はるこ」と読んでいるが、「八百万の神HP」「神社人HP」では「じこ」、又は「ちこ」と訓よみされている場合もあり、正式な名称はハッキリとは分からない。
 どちらにしろ、どことなく不思議な香りが漂う社である。
        
          鳥居を過ぎて参道を進むと、右手に設置されている「治子神社改築記念碑」
        
           記念碑の並びには境内社・浅間神社が鎮座する。
 塚上には「御嶽神社」「角行霊神・食行霊神」「亀岩八大龍神」等多くの石碑が祭られている。
 
 これも新調した手水舎。参道の右側にあり。    境内社・浅間神社の並びにある石碑・石祠群
   手水舎の奥には「宝物殿」が見える。   石祠には「不士山・水天宮・大黒天・庚申塔」等あり
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下中條村』
 冶子明神社 村の鎭守なり、祭神は天手長雄命と云、
 別當金藏院 小角山と號す、本山修驗、幸手不動院配下、開山秀範慶長十一年十一月化す、

       本尊不動を安ず、
『ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々より』
 治子神社(下中条)
 言い伝えによると、忍城主の成田氏が城の鎮守神として治子神社を祭ったとも、また、室町時代の応永八年に鎌倉から遷座したともいわれています。
 祭神は、天照大神の末子治子大明神とも、天手長雄命ともいわれていますが、神社と寺が一緒であった時代の別当金蔵院は修験であり、その影響で当社の内陣には木造の聖観音像が祭られています。
 当社と隣接する興徳寺を中心に「下中条の獅子舞」が残されています。十八世紀後半の天明年間に利根川の洪水があり、獅子頭が漂着したので神前に奉納し獅子舞を舞ったのが始まりといいます。
 災難から村を守る厄神除けや四方固めのほか八月十八日の治子神社の例大祭(今日ではこれに近い日曜日)には神社と興徳寺で獅子舞が奉納されます。
 弓、花、笹、注連、鐘巻など奉納される多くの演目の中で、特に鐘巻は北埼玉地方に残されている演目であり、鐘の中の大蛇を獅子が退治する内容で、歌舞伎でおなじみの娘道成寺を題材にしたものです。
 さらに下中条の獅子舞の大きな特色は、棒術(棒剣道)が獅子舞と一緒に残されていることにあり、昭和五五年埼玉県指定民俗文化財に指定されました。
       
                                    本 殿
 ところで、下中条地域の獅子舞は、「下中條の獅子舞」ともよばれ、市内下中条地区に伝わる民俗芸能で、現在は下中条獅子舞保存会が保存・継承し、治子神社(はるこじんじゃ)、興徳寺(こうとくじ)を中心に奉納されているという。

             社殿左側に祭られている合祀社(写真左)・境内社(同右)
 左側の合祀社は、左から諏訪神社 八坂神社 稲荷神社 天神社 白山神社が祀られている。
合祀社のすぐ右手並びには、境内社・神明社が鎮座。神明社の左には「水神」「?」の石祠がある。
       
        社殿右手奥に祀られている「御嶽山大神・八海山大神・三笠山大神」等の石碑群
 他には「蚕影山、豊受大神・富士嶽神社・愛宕大明神・稲荷大明神」等の石碑が祭られている。
       
                                 社殿からの風景

「下中條の獅子舞」の起源については不詳ですが、言い伝えでは天明年間(17811789)の利根川大洪水の時に獅子頭が漂着し、これを神前に奉納して始まったと言われています。また、慶長5年(1598)に鎌倉の長谷から移住してきた長谷川家が下中条村を拓いた時から始まったとも言われていますが、その目的は厄除け、尚武のためと言われます。
 弓、花、笹、注連、鐘巻(かねまき)などの演目の中で、特に鐘巻は北埼玉地方に残されている演目であり、鐘の中の大蛇を獅子が退治する内容で、歌舞伎でおなじみの娘道成寺を題材にしています。また、下中条の獅子舞の大きな特色は、棒術(棒剣道)が獅子舞と一緒に残されていることにあります。
 現在は災難から村を守る厄神除けや四方固めのほか818日(現在はこれに近い土曜日)の治子神社の例大祭に演じられています。
 区分 県指定民俗文化財
 種別 無形民俗文化財
 所在地 行田市下中条
 形態 三匹獅子舞
 指定年月日 昭和55329
                                  「行田市 
HP
」より引用


        
      下中条治子神社から南西方向(直線距離にして250m程)に愛宕神社が鎮座している。
 創建時期等は不明。『新編武蔵風土記稿』でも「「愛宕社 太神宮 神明社 以上三社、金藏院持、」としか記載がない。
 
         社 殿          鳥居の右手に銀杏の巨木が聳え立つ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々より」
    「行田市 HP」等
   

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下中森長良神社


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町大字下中森86
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1944132,139.4761404,16z?hl=ja&entry=ttu
 上中森八幡宮から一旦北上して群馬県道368号上中森川俣停車場線に合流後、そこを右折、同県道を1㎞程東行した十字路を再度右折し、450m程南下した利根川土手のすぐ北側に下中森長良神社は鎮座している。
本来ならば、上中森八幡宮から土手伝いに西行するほうが、近道で当社に到着できるのだが、実際には社同士直通する道はなく、道が入り組んでいて少々説明しづらいので、県道を通るルート説明となった。
 また社周辺には適当な駐車スペースはないため、近郊にある「下中森公民館」の駐車場を利用してから参拝を開始した。
        
                 
下中森長良神社正面
              画像左側には利根川の堤防が見える。
『日本歴史地名大系 』「下中森村」の解説
 [現在地名]千代田町下中森
 北東は大輪村(現明和村)、西は上中森村、南は利根川を隔てて武蔵国埼玉郡須賀村(現埼玉県行田市)。近世は初め館林藩領。寛文郷帳では中森村とのみある。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)に下中森村高九三五石七斗余、田三六町三反余・畑五九町六反余とある。天和二年(一六八二)幕府領、旗本中根・新見領の三給となる。村高八八四石二斗余(分郷配当帳)。

 群馬県千代田町は利根川沿いにある為、太古の昔から今に至るまで、利根川から被害と恩恵を受けながら発展してきた。川沿いの舞木・赤岩・中森・瀬戸井等の部落は現在南に堤防が高く続いている。明治四十三年の洪水以後に築かれたものであるが、それ以前は江戸時代初期以来十余度の洪水に遭遇している。中でも元禄十二年の洪水の被害は大きく、その後、享保、天明、文政、明治年間に大洪水が繰返されてきた。下中森地域も同様で、過去利根川破堤の歴史、及び自然災害は途切れることなく発生していた。
・寛文11年(16717月 下中森破堤
・享保18年(1733) 下中森破堤
・天明3年(1783 75日〜8日浅間山爆発し、砂二寸も積もる。焼石、焼岩利根川に押し入り魚多く死す。硫黄の水も流出。浅間山史上最も著名な噴火である。
・明治43年(1910811日午前2 、下中森大輪境破堤、流失家屋四十六戸、耕地の被害田二百二十六町一反三畝、畑三百五十二町二反四畝、富永村において救助を受けたる戸数七百一戸、金額ーー、九四六円三厘という。
 このような水害をもたらした利根川は、一面陸上交通の発達しなかった時期には水上交通の動脈として大きな役割を果たしてきた。舞木赤岩・上五箇上中森には河岸が設けられ、物資の交流に役立っていたが 、その後、鉄道開通によりその機能を失った。
 利根川を控えた本村においては、舞木.赤岩・上中森• 下中森•上五箇には河岸や渡しがあって、対岸の埼玉県を通って東京(江戸)への通過地点として重要な役割を果してきたのである。
        
                   参道右手にある建物。神楽殿だろうか。
 土地の伝承によれば、明治四十三年の利根川の大洪水以前は、川巾が狭く、埼玉県側との人馬の交流が盛んであったという。なお、渡船は埼玉県側との間に次のような連絡がとれていた。下中森と埼玉県の須賀村、上中森と下中条村、上五箇と酒巻村、赤岩と葛和田村(これは現在も運行)、舞木と俵瀬村、このうち、俵瀬村は古くは赤岩村の一部であったが、寛永の頃埼玉県側の俵瀬村となったといわれ、赤岩からの分家の記録もあったという。上•下中森方面は、埼玉県の羽生市と、瀬戸井、上五箇方面は行田市と、赤岩、舞木方面は熊谷市との経済交流もあり、同方面への高校進学者もあり、また婚姻関係も密接であった。
 このように、埼玉県側との交流は古くから盛んであったことは、本村における習俗の面にも影響を及ぼしていたことであろう。
 社会生活の面でも、利根川の大洪水の影響がみられていて、洪水体験も各大字に伝承されているし、水防についてもいろいろな方法が考えられているのである。上五箇地域のように、大きな災害を何度も受けてきたことが今に伝えられる例もあれば、古海地域の用水取入ロの砂の取払い人員としての古海役とか、利根川の土手刈りなど、この地方の特色を示した習俗といえよう。
        
                    拝 殿
                      創建時期・由緒等は不明。
『千代田村の民俗』によれば、下中森長良神社の春、夏、秋の祭りに、下中森の宮総代がキリハギを作って悪魔除けとして、下中森と上中森の境界の道端に立てたという。

 ところで、瀬戸井長良神社は、邑楽郡下や一部新田郡下に分布する長良神社の中心的な存在で、嘗ては旧佐貫荘十ニカ村の総鎮守であったという。
 長良神社は祭神を藤原長良公としており、土地の伝承によると、長良公が東国平治のためにこの地方に来て善政をしいたので、土地の人びとはその徳を慕ってすでに春日神社の末社として列祀されていた長良公の霊を、ここ瀬戸井に分祀したものという。伝承・伝説はあくまで参考資料として尊重すべき対象であるが、根源的な成立要因として、嘗て利根川水害の被害が多かったこの地形と関連づけて長良神社の成立を考えるべきであろう。
 長良神社の分布範囲が舘林市から大泉町の利根川流域(数社羽生地域にも鎮座)に限られていること、人柱伝説を伝えていることで神社は蛇ということあるいは秋の祭典にわらで龍のかたちをつくつて鳥居にかざること、この神社には龍がいて利根川の水を飲んだということなどから、同社の神格に、水神信仰との関連を推論することができそうである。
 当社は、利根川堤防に隣接するその立地条件からも「長良十八社」の一社と推測され、同じ文化・伝承を共有する社であるのであろう。
 
    拝殿上部の向拝・木鼻部の彫刻                          本 殿
        
              拝殿の左側に祀られている石祠群
 左側から(?)、正一位稲荷大明神、富士嶽浅間神社、御嶽三柱大神、三峯社、秋葉大権現・金毘羅大権現、(?)。写真には写っていないが、基段の下左端に庚申塔・(?)。
        
             社殿の右手に祀られている「英魂」碑
 
   「英魂」碑の右手に並列している石碑群    「合祀記念碑」の右側には「再建の碑」
   左から「工事記念碑」「合祀記念碑」     「凱旋記念碑」「凱旋記念碑」あり
 工事記念碑
 戦争を放来し文化の隆昌と民生の繁栄を国是として茲に(中略)利根河川改修工事等も逐年拡大補強が続けられていたのである。偶世紀の利根大堰建設に伴い、下中森地堤防の拡張が急速に促進され為に昭和401030日村社・長良神社の発展的な移転が此処に余儀なく決定されるに至った。
 世々に氏子が斎き奉る御社だけに移転の際には慎重且厳粛にその審議が進められ、結局此処に永く鎮り祀る歴史の尊厳を基調として、更に明日の部落永劫の繁栄を加護し給う〇〇十宮居を整工祀る事こそ其の局に当る者の責務也とし、先ず堤防敷地文として譲渡する197坪の土地に代え隣接する255坪を入手之工費に宛て、昭和411月着工の運びとなる(以下略)。
読みやすいように筆者修正した部分あります。
        
                   境内の風景
 この地域を含む群馬県南部利根川左岸の低地帯は「上州の空っ風」といわれる、冬時期特有の北風が吹く。この風は非常に強いため、冬を越すと堀が一年で泥で埋まるほどである。そこで、「イヤマ」と呼ばれる防風林を西北側に囲むような配置となっている。
 下中森長良神社の西北側にも防風林がしっかりと配置されている。



参考資料「日本歴史地名大系」「千代田村の民俗」「境内記念碑文」等

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