古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

細間八坂神社


        
              ・所在地 埼玉県加須市細間111
              ・ご祭神 素戔嗚命
              ・社 格 旧細間村鎮守・旧村社
              ・例祭等 夏祭り 778日(子供神輿) 15日(本祭り)
 加須市細間地域は道目地域の北側に位置し、両地域の西側には嘗て古利根川が流れていて、社も共に古利根川旧堤防の東側に鎮座している。また、お互い近距離に鎮座している。
 途中までの経路は道目天神社を参照。道目天神社から同じ北方向に走る道を1㎞程進んだ先の十字路を左折すると、すぐ右手に細間集会所、隣接して細間八坂神社が見えてくる。 
        
                  細間八坂神社正面
『日本歴史地名大系』「細間村」の解説
 砂原村の南に位置し、村の西を古利根川が流れる。村名は寛永(一六二四〜四四)頃麦倉村(現北川辺町)の小名細間の村民が開墾したことにちなむという(風土記稿)。鶏足寺世代血脈(栃木県鶏足寺蔵)には貞治年中(一三六二〜六八)に武州太田庄細間普門寺において伝法灌頂が行われたことが伝えられているが、この細間が当村か麦倉村のものかは不明。
 
  石製の一の鳥居(写真左)、すぐ先に木製で朱を基調とした二の鳥居(同右)が建つ。
           二の鳥居の右側にある建物は細間集会所である。
        
                  静まり返った境内
 社の創建年代は不明。ただ本殿の基台に「享保弐年(1717年)」と記載されていることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。口伝によれば、嘗て疫病がはやったことから、その退散のため牛頭天王を祀る神社を創建したという。隣の薬王寺が別当寺であった。この薬王寺も名称から当社と同様に疫病退散のために創建されたものと思われる。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。1914年(大正3年)に周辺の4社が合祀されたが、まもなく復祀されている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 細間村』
 當村は寛永の頃麦倉村の内、小名細間に住せし村民開きてより、其小名を村名に唱へしと云。東西二十町餘、南北三町餘、家数七十、
 古利根川 村の西を流る、川幅三間許、川より一町餘を隔てゝ堤あり、砂原村によりし處は水もなく、今は其跡陸田となれり、
 天神社 村の鎭守なり、享保十年勸請と云、藥王寺の持、末社 辨天 愛宕 藥師堂
 藥王寺 新義眞言宗、堤村延命寺末、天王山除病院と號す、本尊不動開山隆銅鍐享保九年寂す、

 八坂神社(てんのうさま)  大利根町細間一一一(細間字悪戸)
 細間は寛永のころ、北川辺にある麦倉村の小名細間に住んでいた者がこの地を開き、その小名を村名にしたとものという。当地は古利根川に沿った荒地で、開墾の苦労がしのばれる。口碑によると、ある時、はやり病が起こり多くの者が倒れた。そのため村人が病を鎮めるため神の加護を頂こうと天王社を勧請し、村鎮守としたものであるという。
 祭神は素戔嗚命で、神体は目の眩むばかりの畏きものといわれ恐れられ、これを見たものはいまだいない。
 別当は幕末までは真言宗天王山除病院薬王寺で、この名もやはり疫病から村人を救済せんがため付けられたものと思われる。現在この寺は神社境内西側に隣接している。
 本殿は朱塗りの一間社流造りで、この基台墨書に「武州埼玉郡 小□細間村 金子佐次衛 道□治兵衛 享保弐年酉ノ六月吉日 敬礼 敬白 薬王院 花押」とある。また文久二年八月には大風のため社殿が大破し再建すると社記にある。
 明治になり当社は薬王寺の管理から離れ、明治五年に村社となり、その後、長く内山家で祀職を務めることとなった。
 大正三年七月には耕地整理のためか悪戸の皇大神社・厳島神社・野新田の愛宕社・道祖神社が合祀されたが、すぐに元地へ戻されている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
  
      拝殿に掲げてある扁額                本 殿
 八坂神社は氏子に「天王様」といわれ、疫病除けの神として信じられている。天王様の神紋が、あたかもキュウリを輪切りにしたものと同じ形であるということから氏子はキュウリを作らない。そのため、家々は漬物に困り、道目や砂原にいる親類から分けてもらうという。
 
      本殿奥に祀られている石祠と石碑             石祠・石碑の右側並びに祀られている
石祠は天満宮。石碑は辨才天、稲荷大神、八幡大神        三徳稲荷社

 三徳稲荷は、嘗て本田耕地に鎮座し、商売繁盛の御利益があり、白狐の眷属像が数多く奉納されている。

 当社には子供神輿と大人神輿の二基の神輿がある。夏祭りは77日と8日の2日間、子供神輿が氏子を回り、次に14日の宵祭りにて大人神輿が担がれる。
 子供神輿は、まず初めに子供たちは塗料や蝋燭を購入し神輿を装飾し、屋根には稲穂を取り付ける。その後神社を出発し、本田北・金塚・野新田・根附・本田南の順に氏子を回る。1日では神輿を全戸回り切らないため、必ず一晩野新田に停めることになっている。
 大人神輿は、昭和初めに樋遣川村の宮ノ下耕地からもらい受けたもので、青年団主催で担いでいたが、戦争のため中断していたものを昭和50年頃から渡御会を結成して行事を復活させているという。この行事には悪疫祓いの意味がこめられ、大人神輿には囃子連がついて氏子を回る。また辻回りと称して悪疫を外に追いやるため神輿を村境まで担ぐという。
        
                社の西側隣にある薬王寺
           真言宗豊山派 利根川中流十三仏霊場 四番札所  
 
本堂手前には庚申塔等多くの石碑が祀られている。        薬師堂
              
                  社の入口右側に孤高の如き聳え立つ欅の大木
 細間八坂神社参道入口には何百年経過したか分からない欅の大木がある。また、今は少なくなったが何年か前までは境内の西側には桜の並木があり、見事に咲くので氏子は春になるのを楽しみにしていたという。
 また、欅の大木の根本付近には文久三年に建てられた「子の権現」がある。足の神として信仰され、足が丈夫になるようにと下駄や草履を上げて願を掛けたとの事だ。 
  
       
          

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道目天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市道目548
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧道目村鎮守(上耕地)
             
・例祭等 春の大祭 415日 天王様 7月1日 秋の大祭 925
 道目鷲神社から北西方向に走る道路を350m程進んだ十字路を左折する。
道幅が狭く、舗装されていない道を進むと、その突当たり地に道目天神社が鎮座している。
 広い境内。社の東側には「道目上集会所」が並びにあり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
        
                  道目天神社正面
       
                                      拝 殿
 天神社  大利根町道目五四八(道目字上)
 この地には、かつて薬師堂があり、租税免除の地であったので堂免と呼ばれ、後に当て字して道目とする、古くに開けた所である。
 当社の創建について、文化一一年甲戌年『天満宮々殿再建奉加帳』に「大方御存知の如く天満宮は菅相丞を祀りし社也、往古古利根川流れし折、満水して流水迸る事矢の如き時、榎の大木浮流し来りて岸に止まる、浮木照り輝けば針ヶ谷内膳なる者凝視せしに天神の御像なり、よって此所に一宇を建立して以後相伝う、いつしか村人相寄り集う所となり、水難、厄難蒙らず今日まで安穏に暮し得たるは天神の利益也として村の鎮守として尊信す云々」とある。
 社記には「当村針ヶ谷長十郎先祖針ヶ谷新八ナル者平素漁業ヲ好ミ古利根川満水ノ砌右川表へ網スルニ五六寸の古木係リ何心ナク波底ニ投棄スルニ再ヒ右古木網ニ係リ是ヲ熟視スルニ天神ノ神像ナリ因テ元亀元年八月ニ十五日該処ニ鎮座シ当村上耕地ノ人民尊崇セルカ故二安永五申年中社殿ヲ再建セリ」と記す。
 一間社流造りの本殿は安永五年一一月二八日の再建棟札、文化一二年修復棟札を有する。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                    本 殿
 
   拝殿手前で参道左側に祀られている       境内には富士講記念碑もある。
       境内社・八坂神社
 氏子区域は道目地域の中の「上耕地」に該当し、三十数戸であり、現在はその9割が兼業農家である。
 境内社・八坂神社は通称「天王様」と呼ばれる。天王様は悪疫除けの神様と呼ばれ、毎年71日に子供・大人の神輿を出す。嘗ては7日にお仮り屋へ出したが、現在はこの日に村を回る。当日の早朝神輿へ祭り込みが行われ、祭りの当番は、村の境四カ所に二本の篠竹を立て八丁注連を張って、辻固めを行う。
 子供神輿は小学生が担ぐ。但し、現在は子供が少なくなったので、リヤカーに載せて回る。古くは庭先で練ったが、今はお祓いを玄関で行い賽銭を受ける。終了後、社に七日間神輿を飾り、その参詣がある。
 大人の神輿は、辻参りと称して道路を回る。戦前では地主の家などで酒の振る舞いがあったという。
        
              本殿奥に祀られている石碑・石祠等
           左から
二十三夜塔・天満宮・稲荷大明神・雷電宮
 境内には、二十三夜塔がある。現在は行われていないが、古くは二十三夜待があった。これは年寄りの婦人が宿を決めて集まる日待で、二十三夜の月が出るまで皆で話し会い月を拝んだという。
        
              手入れも行き届いている広大な境内



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等






 

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道目鷲神社

 加須市道目は「どうめ」と読む。この地域は『新編武蔵風土記稿 道目村』によると、古は「堂免(どうめん)村」と書き、村内薬師堂免除の地であったと伝えているが、この「どうめん」は全国的に散在し「道面、堂免、百目」などの文字が当てられ、元々川辺に多い地名といい、水の「ざわめき→どうめき→どうめん」へ転訛(てんか)したものとされている。
『日本歴史地名大系』においても当地域は、南西を古利根川が流れ、川沿いに水除堤があると載せている。実際地図を確認すると南西方向に走る道路は、如何にも古利根川の流路跡をそのまま利用した道のようにも見え、本来の意味は「水の音」に関連した地名であったのではないかと考えられる。

        
             
・所在地 埼玉県加須市道目324
             
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命 大己貴命
             
・社 格 旧道目村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 秋の例祭 1015
 北平野稲荷神社が鎮座する埼玉県道84号羽生栗橋線を西行し、600m程先にある道幅の狭い路地を斜め右前方向に進路変更、暫く道なりに進むと進行方向左手に道目鷲神社の社号標柱とその先には石製の鳥居が見えてくる
 
         
道目鷲神社正面          入口から中に入った先に石製の鳥居が建つ。
『日本歴史地名大系』 「道目村」の解説
 細間村の南に位置し、南西を古利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。古は堂免村と書き、村内薬師堂免除の地であったと伝える(風土記稿)。寛永六年(一六二九)の検地帳(針谷家文書)では「武州喜東郡古河内道免村」、同一八年の検地帳(同文書)には「武州騎西之郡古河川辺内道免村」と記され、田園簿には道目村とみえる。
 寛永六年の検地奉行は八木三郎兵衛ほか、同一八年は中江作左衛門らであった。田園簿によると田高二二五石余・畑高二七八石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本土井領で、幕末まで同領として続いたと考えられる(天保三年「向川辺領村々高書上帳」小林家文書、改革組合取調書など)。
        
                   境内の様子
       旧大利根地域の社の多くが、河川対策により塚上に鎮座している。
『新編武蔵風土記稿 道目村』
 道目村は古は堂免村と書き、村内藥師堂免除の地なりしと、土人の口碑にのこれり、されど正保のものには今の如く道目村と載たり、
 古利根川 村の西界を流る、川幅六間許、水除の堤あり、
 鷲明神社 村の鎭守にして、寛文元年の勸請なり、千手院持、〇靑龍權現 持同じ、〇天神社 醫王寺持
 醫王寺 新義眞言宗、堤村延命寺末、瑠璃山と號す、開山宥道寛文三年三月五日寂す、本尊大日を安ぜり、金毘羅社
 藥師堂 坐像にて長六寸、運慶の作、村名の條に載たる土人の口碑によれば、この藥師堂免除の地なりしや、慥なる傳へはなし、 〇千手院 同末、慈雲山と號す、本尊千手觀音を安ぜり、
        
                    拝 殿
 鷲神社(みょうじんさま)  大利根町道目三二四(道目字中)
 当社の鎮まる道目は、この地にある薬師堂がその昔年貢の免除地であったため「堂免」といわれ、これが転訛して現地名になるという。
 社記は、当社の創建を、口碑とことわり「足利氏の一族であった小野田氏が、応仁の乱を逃れて当村に居住して以来村の長となり本村を束ねる。同家次郎左衛門の時に屋敷の神として鷲明神を勧請する。その後村も整い初め延徳三年春、村人が懇願して同社を村の鎮守とする。下って寛文元丑年中現在地に社殿を造営する。」と記している。
『風土記稿』に「鷲明神社 村の鎮守にして、寛文元年の勧請なり、千手院持」とあり、別当千手院は真言宗である。
 祭神は天穂日命・武夷鳥命・大己貴命であり、現在の一間社流造りの本殿は明治一五年の再建である。
 明治六年に村社となり、大正二年一〇月には同字の愛宕神社を本殿に合祀する。しかし、合祀に伴い口にするのも恐ろしい凶事が起こり、直ちに旧社に移すという。昭和三年、正式に合祀を中止している。
 境内末社に御嶽神社・稲荷社があるが由緒は不詳である。ほかに明治二八年銘の不二道孝心講建立の石碑浅間宮、通称庚申様と呼ばれる文政七年銘の石碑甲子祭神がある。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                    本 殿
 鷲神社を氏神としていた足利氏の一族小野田家とその家士たちが祀り始めたという歴史があり、氏神の古い形である当社への信仰は厚い。終戦の混乱期も含めて現在まで、一日・一五日氏子による境内清掃が行われている。
 例祭は415日に行われる春祭りと呼ばれる。お供えの鏡餅の上は神職に渡し、下は氏子の戸数に切り分けて護符として配られる。秋の例祭は1015日で、春祭り同様である。この祭りの前日は宵祭りとして古くは餅を焼いたという。
 
     本殿左手奥に祀られている       本殿右手奥に祀られている浅間宮の石碑
境内社・稲荷神社(左)、甲子祭神(右)石碑
        
                社殿から見る境内の一風景
 参道左側には社務所兼道目中集会所がある。
この社務所は祭りはもちろん、各講社の集まり、村の寄り合いに用いられ、神社で決めたからという信仰が今でも生きているという。
 道目地域は、上耕地・中耕地・下耕地の3区域に分かれ、鷲神社が鎮座する区域は中耕地ある。道目の各耕地に庚申講があり、1215日には中耕地の五つの講が社務所に集まり、会食をする大庚(おおがのえ)がある。
 また4月と9月の2回社務所で安産を祈願する子安講があり、十九夜様の軸を掛け、神灯を上げて祈る。職工組合による太子講が春に行われほか、榛名講・不二道孝心講・雷電講・秋葉講・赤城講・三峰講・鬼鎮講などがある。このうち不二道孝心講は、嘗て正月に銚子へ初日の出を拝みに出かけるのが恒例であったが、今は行っていないという。
 
 参道に対して向かって右側の狛犬の奥には    社入り口の右側には「伊勢講記念碑」
    力石と思える大石がある。          の石碑が設置されている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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北平野稲荷神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市北平野366
              
・ご祭神 稲荷神
              
・社 格 旧北野村鎮守
              
・例祭等 3月初午 天王祭 715
 北平野地域は加須市東部に位置し、北は稲荷木排水路、南は中川の間にあり、地域内の大部分は田畑などで占められている豊かな穀物地帯である。それでいて、地域南部には埼玉県道84号羽生栗橋線や同県道346号砂原北大桑線などの道路が通っていて、交通の便も何気に良い場所でもある。
 国道125号栗橋大利根バイパスを旧栗橋町方向に進み、「加須IC東産業団地」交差点を左折する。埼玉県道346号線に合流後、北行し中川に架かる水門橋を越え、1.5㎞程先にある「北平野」交差点を左折、同県道84号線を西行すること300m程で北平野稲荷神社に到着することができる。因みに地図を確認すると、北平野集会所の隣に鎮座している。
        
                 北平野稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「平野村」の解説
 道目村の東に位置し、南を古利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。田園簿によると田高一三七石余・畑高一三九石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本土井領で、幕末まで同領として続いたと考えられる(天保三年「向川辺領村々高書上帳」小林家文書、改革組合取調書など)。助郷は中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿(現栗橋町)へ出役(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
        
                   境内の様子
 北平野地域は化政期には平野村と称していて、この村は更に上・下・新田の三耕地に分かれており、神社や寺は上耕地に集中している。江戸時代化政期頃、56戸程で米麦を中心に大豆なども生産していた。現在全戸数は71戸を数えるが、氏子は古くからこの地に生活している65戸で、近年は兼業農家が増加しているという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 平野村』
古利根川 村の南を流る、幅三間餘、川より一町餘隔てゝ水除堤あり、
稻荷社 村の鎭守なり、蓮華院持、
蓮華院 新義眞言宗、南篠崎村普門寺末、安養山と號す、開山玄譽延寶九年七月寂せり、本尊不動、


 稲荷神社  大利根町北平野三六六(北平野字上)
 明治一二年まで平野村と呼ばれ、その名の通り利根川右岸に広がる平野であり、元亀・天正年間の開拓と伝える。集落は古利根川の自然堤防上に点在し、社も集落の中心部から西方に走る県道羽生栗橋線に近く鎮座している。
『明細帳』によると、当社は天正五年四月一五日山城国伏見稲荷社からの分霊を祀ったのに始まり、五穀の豊穣を祈り、村人が長く信仰してきたものという。
 元禄元年一二月一五日、本社と拝殿が再建され、正徳五年一一月二八日、京都吉田家より正一位の神階を受ける。その後、天明五年に一間社流造りの本社を再建して現在に至っている。
『風土記稿』によると、往時の別当は真言宗蓮華院が務めていた。
 現在の社殿の構造は間口三間半・奥行四間半の中に稲荷神社本殿と、その右側に八坂社と神輿、左側に浅間社が並び祀られている。八坂社は大正初期のころ蓮華院墓地近くから移されたものと伝えられるが、浅間社については明らかではない。
 境内には末社として天神社が祀られ、『明細帳』によれば寛政三年三月二五日に創建とある。このほか、八坂社は寛保三年六月一五日、雷電社は正徳三年二月二〇日、八幡社は天保三年八月一五日、厳島社は享保一二年五月五日の創建と載るが、現在境内には見当たらない。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
              
                    拝殿の手前に聳え立つイチョウの御神木
   加須市保護樹木 平成27101日 イチョウ  幹の周囲 450㎝ 指定番号 97

 当社の祭礼は、3月初午と7月に行われる天王祭の2回。3月初午は、前日から世話人や当番耕地の人々が社に集まり、境内の清掃や祭りの準備を行う。当日は総代・世話人・区長などの参列により祭典が執行され、その後、集会所で直会が行われる。
 3月初午には、風呂を立ててはならないとする禁忌があるほか、スミツカリを作りツトッコ(藁苞 わらづと)に入れて神前に供える風習があった。また、スミツカリを食べると風邪にかからないといわれていた。
 因みにスミツカリとは、大根を専用のおろし器でおろして、節分のときの大豆をつぶして一緒に煮る栃木、茨城、群馬、埼玉各県の郷土料理で、2月の初午(はつうま)の日によくつくるという。
 また、稲荷様の眷属は「お稲荷様(おとかさま)」と呼ばれ、以前は陶製の白狐が奉納されており、狐は犬が嫌いであるとのことから、この北平野地域の人々は犬を飼うことを遠慮していたともいう。
        
                境内に安置されている力石

 大正初めに当社に合祀された八坂社は、現在も社が残り、7月の天王祭は初午よりも賑やかに祭りが行われる。天王祭は、77日に準備が行われ、神職により神輿への神霊遷しが行われる。以前、神輿には大人と子供の二基があったが、大人神輿は傷みが激しく、渡御は行わなくなった。子供神輿の渡御は15日に行われ、夕刻に子供たちは集まり、神輿を担ぎ出す。現在は県道を進むことができないため、町道を進み蓮華院近くのお仮屋と称する広場(以前はここにお仮屋を建てていたが、今は略して名称のみ残っている)に行き、お仮屋で暫く休息したのち社に還るとの事だ。
 
  本殿奥に祀られている末社石祠と勝軍地蔵      勝軍地蔵の右隣に並んで祀られている天神社

 有形民俗文化財 勝軍地蔵の石仏
 指定年月日 昭和六十一年十二月八日指定
 所 在 地 加須市北平野三六六番地
 所有者等  稲荷神社
 造 立 年 享保十一年(一七二六)
 勝軍地蔵は、地蔵信仰の一形態で、悪業煩悩の軍に勝つという意味のお地蔵様であり、また火伏せの神(火防神)として愛宕信仰の対象ともされてきました。
 中世その姿から武士の信仰厚く、特に足利将軍家の尊崇厚かったといわれています。
 この地方で建てられた勝軍地蔵は、主として愛宕信仰として、火伏せの神「愛宕様」と呼ばれる信仰からと思われます。当町内で唯一の勝軍地蔵です。
 愛宕信仰の歴史を知る貴重な資料として指定しました。
 昭和六十三年三月三十一日
                                      案内板より引用
        
           社殿奥で、県道寄りに祀られている浅間大神の石碑



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須市HP
    「世界大百科事典(旧版)」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
 

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大佐貫長良神社

 親鸞は西本願寺、東本願寺で著名な浄土真宗の開祖である。承安3年(1173年)日野有範の子として京都に生まれた。9才で出家し比叡山で修行を続けたが、既成の教えに満足せず、29才の時、専修念仏を提唱し浄土宗を開いた法然の門に入った。やがて専修念仏が国家により禁止されると越後の国へ流罪となった。後に罪が許され京都に帰ろうとしたが、尊敬してやまなかった師、法然がこの世にいないことを知り、京都に行くのを諦め越後から信濃を通り常陸の国に向かった。当時鎌倉幕府が開かれ新興の地であった関東への布教もあったわけである。常陸へ行く途中、佐貫荘(大佐貫付近)に立ち寄り、建保2年(1214年)、この地で真の他力本願に目覚めたことが、親鸞の妻である恵信尼(えしんに)の文書に記されている。この後茨城県笠間の草庵で「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」を著し、浄土真宗を立教開宗した。元仁元年(1224年)「(前略)三部経(さんぶきょう)げにげにしく千部読まんと候し事は、信蓮房(しんれんぼう 長男)の四の年、武蔵国やらん、上野の国やらん佐貫と申所(もうしどころ)にて読み始めて、四、五日ばかりありて、思かへして読ませ給はで常陸へはおはしまして候しなり(後略)」。
 恵信尼が末娘の覚信尼(かくしんに)にあてた書状である。
 親鸞が越後からの旅の途中、ここ佐貫まで来たとき、人々のために千部経を読もうと思いたったのであるが、ただひたすらに阿弥陀仏にすがる専修念仏を説いてきた自分が、自己の力によって人々を救おうというのは矛盾していることだと悟ったと書かれている。ここ佐貫こそ親鸞が真の他力本願を再認識した重要な土地なのである。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町大佐貫97
             ・ご祭神 藤原長良公
             
・社 格 旧村社
             ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り(お日待) 919
 大佐貫(おおざぬき)地域は群馬県邑楽郡明和町の中にある地域のひとつで、町内の西部に位置し、矢島地域の南側にあり、地域北部は工場や住宅地によって形成されているのに対して、南部、特に東南部一帯は長閑で広大な田畑風景が広がっている。
 途中までの経路は矢島長良神社を参照。同社から400m程南行すると、進行方向右手に大佐貫長良神社の鳥居が見えてくる。但しこの一の鳥居付近には適当な駐車場所はないので、社の西側に隣接する東光寺の駐車スペースを利用して参拝を行う。
        
            社号標柱のある大佐貫長良神社の一の鳥居
  一の鳥居は東向きであるが、社殿は南向きであるので、参道は途中右側へ直角に曲がる。
『日本歴史地名大系』 「大佐貫村」の解説
 東は中谷村、北は矢島村、南は川俣村・須賀(すか)村。村中を日光脇往還が通る。鎌倉時代末期と思われる足利氏所領奉行人交名(倉持文書)に大佐貫郷の名がみえ、南北朝期以後は鎌倉府の御料所となり、御家務料所として年貢三分の二を免除されていた。
 大佐貫の地名は伝承によると、鎌倉幕府の御家人佐貫氏が居住していたことによる。慶長一〇年(一六〇五)の大佐貫郷新開田畑年貢割付帳(薗田文書)は、同八年に造成した新田畑に対し年貢を割付けたもので、田方籾は一〇石六斗余、畠方代は一貫三一一文である。

 嘗て舘林から邑楽郡明和町一帯にかけての地域には、「佐貫荘」が広がっていた。「讃岐庄」とも「佐木荘」とも書き、郷名でも見える。
 この佐貫荘の起こりは1112世紀頃、豪族・佐貫氏が自己の所有地を被支配民に開墾させたことに始まる。邑楽郡は利根・渡良瀬の両川に挟まれた平地で、古来度重なる洪水の度に土砂が運ばれ、自然堤防の小高い丘陵ができた。そこに人々が居住し、荒廃地や原野を開墾して耕地を広げ、村落を形成したのである。このような開発には豪族の力を必要とし、豪族は人々を使役し、自墾地とした。佐貫氏は豪族の中で最も勢力が強く、豪族らの中心的存在であったと考えられている
 
        西方向に伸びる参道          北方向に曲がる地には赤い両部鳥居と
                            幾多の庚申塔がある。
 藤原北家小黒麻呂流、ないしは同家秀郷流の流れをくむといわれる佐貫氏は、『尊卑分脈』によれば、淵名兼行の孫成綱がはじめて佐貫氏を称したといい、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて登場する佐貫広綱は、「吾妻鏡」などによると、上野国佐貫荘(現群馬県邑楽郡明和町大佐貫)出身の武将で、足利重光の子であり佐貫綱照の養子であるともいわれている。史実によれば、治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵にあたり、平家方の同族である足利忠綱の軍勢に属して以仁王・源頼政の追討に加わり、『平家物語』「橋合戦」に初めてその名が出てくる。その後、源頼朝に臣従して鎌倉の御家人となり、養和元年(1181年)720日、鶴岡八幡宮宝殿上棟式典で源義経・畠山重忠と共に大工に賜る馬を引いている。
 承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が北条鎌倉幕府を倒すために兵をあげたが幕府は朝廷を打ち破った(承久の乱)。このとき佐貫一族も宇治川で参戦したが、その時の手負いの人々の中に佐貫右衛門六郎、同八郎、同兵衛太郎、佐貫太郎次郎等の名前が出てくる。
        
                   境内の様子
 元弘3年(1333年)、北条鎌倉幕府は新田義貞によって滅ぼされ「建武の中興」が行われたが、すぐに破綻し、僅か2年後には足利尊氏が反旗をひるがえし、京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存する南北朝時代という王権の完全な分裂状態に陥る。建武21211日、足利尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破った際、佐野・佐貫・山名氏等は足利方で活躍する。
 その後、南北朝から室町時代にかけて続く戦乱の世に、佐貫荘も分断され、佐貫氏も衰退、徐々に赤井氏、富岡氏に権力が移っていく。
 佐貫氏は一族の氏神に長柄神社を崇拝していたが、徐々にその信仰は在地庶民の中に浸透し、地域(村)の守護神として祀られるようになる。そして佐貫荘内には長柄神社(長良神社)がまつられ、現在も邑楽郡の東・南部に存在し信奉を集めているという。
        
                    拝 殿
『明和村の民俗』
 大佐貫の長良様は古く、千代田村に鎮座する瀬戸井の長良様は、ここから分社したものといわれている。長良神社の祭典は、春祭りが四月十五日、秋祭りが九月十九日で、ナカノクンチにお祭りをしている。秋祭りのことは、お日待といっている。このときには、村からわきへ嫁に行った娘たちを呼んだり、親戚へ赤飯 (重箱に入れて)を配ったりしている。よそへ出たものは、お土産をもって、お客さんに来た。泊りこみでお客にきた。よそへ出た人は、お日待によばれてくるのが楽しみであったという。
 また、昔は天王様は七月十日〜十二日に祀り、笛を吹いて毎戸を廻り、祭り当番は若衆二十人位でやった。ここの天王様は女性であるという。
 
        拝殿に掲げてある扁額          拝殿内部に飾られてある奉納額等
 
  社殿奥に祀られている境内社・石祠等    境内右側奥に祀られている石祠等
  一番左側の石祠が猿田彦大神以外は不明     一番右側手前は道祖神の石祠 
        
               社殿の西隣にある十一面観音堂

 大佐貫の観音様の縁日は十七日。八月十日が賑やか。もとは旧七月十日が縁日であった。ここの観音様は、十一面観音で、子育てと安産の観音様として知られている。身持になると、観音様のおさご(御散供)といわれる神や仏に参ったとき供える米,または祓(はらい)や清めの目的でまき散らす米を借り、これをお産の前に食べた。安産のあとおさごを倍にして返してきた。ここのお守りを受けていって、五ヵ月目の腹帯をしめるときに、腹帯の中にまきこんだ。また、さらしも借りていった。これをまいたものを一丈借りて、一反(三丈)かえ た。なお、嫁にきたものは、二日目にムラまわりをするが、このとき、神社へお参りをしたり、観音様へお参りしたりしたという。
        
                社殿から見る境内の一風景

 また、この地域の「薬師送り」は、戦前まではあった。年寄の人が、白い手甲に脚胖をつけ、白装束で、菅笠をかぶり、「南無遍照金剛」と言いながら、歩いて廻ってきた。村々では、大師様(弘法様)を寺に飾っておいた。そこへ寄ってお参りをしたものである。村の人(寺世話人)が出ていて、廻って来た人を接待した。おにぎりを飯台に一杯つくっておいて、お参りに来た人をもてなした。これは、三月二十一日一日だけ。このことを、大師めぐりとか、大師送りといった。弘法大師を信仰する人たちが廻ってきたもの。子供達は、その人たちがまわってくると、「大師だ」といって、その行列のあとをついていったりした。この行列( 一行)は館林の普済寺を出発した。明和村関係では、新里­中谷⇒大佐貫矢島⇒青柳の順であったという。



参考資料「日本歴史地名大系」「明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」「Wikipedia」等

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