泉井神社
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町泉井320
・ご祭神 健御名方命 応神天皇
・社 格 旧上泉井村鎮守・旧村社
・例祭等 例大祭/ささら獅子舞 10月第2日曜日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.995511,139.315043,18z?hl=ja&entry=ttu
熊井黒石神社から一旦東方向に進み、「上熊井農産物直売所・ちょっくま)付近の丁字路を左折する。通称「亀小通り」を北上、鳩山町立亀井小学校を過ぎた「泉井地区集落センター」に隣接して泉井神社は鎮座している。因みに「泉井」と書いて「いずい」と読む。
社の隣にある泉井地区集落センターには十分な駐車スペースがあり、そこの駐車場の一角をお借りしてから参拝を開始する。
亀小通り沿いに鎮座する泉井神社
『日本歴史地名大系』 によると、嘗て泉井地域は上泉井・下泉井・大橋の三村に分かれていたといい、泉井神社が鎮座していた地は上泉井村と云った。この村は、下泉井村の西、泉井川の上流域に位置し、南は熊井村。当村および下泉井村・大橋村の三村は嘗て一村で、泉井村と称していたが、正保年間(一六四四―四八)以降に三村に分村したとされる。泉井の地名は地内に湧水が多かったことによると伝える。松山領に属していた。
石段上に立つ泉井神社の鳥居
泉井神社の創建については詳細不明であるが、治承年間(1177~1181)に比企掃部允が創建したと伝えられている。
この比企掃部允は平安時代後期の武士で、源頼朝の乳母である比企尼の夫。比企氏の出自には諸説あるが、『埼玉叢書』所載「比企氏系図」によれば父を波多野遠義の孫の藤太遠泰とし、比企氏の母系子孫にあたる薩摩藩による「武蔵国王孫比企氏系図」によれば父は武蔵介宗職で、早世した兄・宗員の跡を襲ったとする。
比企掃部允は武蔵国比企郡の代官で、源為義・義朝に仕えたとする説がある。諸系図は比企氏を源氏類代の家人とし、源義家以来の鎌倉館の留守を祖父の代より務め、また保元の乱で為義が敗死すると郡内の岩殿丘陵に隠居して仏事に務めたとしている。
妻の比企尼が乳母を務めた源頼朝が平治の乱で敗れて伊豆国に流罪になると、妻とともに比企領に下向して頼朝の衣食の便宜を図ったという。
境内の片隅に、孤高の如き屹立する鳩山町景観樹木である「モミ」の巨木
拝殿までにはもう一段石段を登らなければならないが、
その石段の手前で左側にある「合祀記念碑」
*地面に近い刻字の中に解読できない文字もあり、その場合は〇で表記した。
合祀記念碑
本殿ハ元無格社諏訪八幡ノ両座祭神ハ建御名方命應神
天皇ノ二柱ヲ奉祀スルナリ然ルニ明治三十九年勅令
第二二〇号ヲ以テ神社合祀ノ件御發布アラセラレ〇○
旨ニ基ヅキ合祀出願明治四十年五月十四日指令地〇○
一二七六号ノ四ヲ以テ認可セラル是ニ於テ字櫻坂一二
三九番元村社黒石神社祭神大己貴命字愛宕一〇二三番
元無格社稲荷神社祭神倉稲魂命仝字一〇〇九番元無格
社愛宕神社祭神軻遇突智命ノ三神ヲ合祀シ社號ヲ村社
泉井神社ト改稱明治四十三年二月十九日指令〇○第〇
七六号ノ五ヲ以テ神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル〇
テ茲ニ其由ヲ録ス
昭和二丁卯年三月(以下略)
石段を挟んだ反対側には、鳩山町指定無形文化財である「泉井神社獅子舞」の案内板がある。
「泉井神社獅子舞」の案内板
鳩山町指定無形文化財 泉井神社獅子舞
指定 昭和五十二年五月十八日
所在 大字泉井 泉井神社
長禄元年(一四五七)七月、諏訪大明神を勧請して祭祀し、悪魔退散、無病息災、五穀豊穣を祈願したのが、この獅子舞のはじまりである(明治四十年、近隣三社を合祀し、社号を諏訪八幡神社から泉井神社に改めた)。
獅子舞は、三頭の嗣子、猿田彦、花笠、行司、万燈、笛、唄とからなるササラ獅子舞で、毎年十月の第二日曜日に奉納される。
現在、氏子全員により獅子舞保存会を結成し、保存に努めている。
平成二十四年三月 鳩山町教育委員会
案内板より引用
石段上に見える拝殿
拝 殿
泉井神社 鳩山町泉井三二〇
当社は元来「諏訪大明神」と称していた。『明細帳』によれば、天徳二年(九五八)に健御名方命を字蛇子沢の地に勧請したが、長禄元年(一四五七)七月に至り、神幣が字正南の地に飛んで来たことから、これを神のお告げであるとして遷座を行った。これが現在の鎮座地である。その後、元禄十年(一六九七)に字北ヶ谷に勧請した八幡神社を合祀して相殿としたことから宝暦八年(一七五八)一二月に社殿を再建したという。
『風土記稿』には「諏訪八幡合社 村の鎮守なり、宝泉寺持」とある。これに見える宝泉寺は宝珠山と号する真言宗の寺院で、当社西方五〇〇mほどの地にあったが、明治期に入って廃寺になったようで、跡地には地蔵尊が残されている。
明治初年の社格制定に際して当社は無格社となり、字桜坂の黒石社の方が村社となった。
しかし、明治四十年の合祀に際しては当社がその中心となり、黒石社をはじめとして字愛宕の無格社愛宕社・稲荷社の三社が当社に合祀された。これにより社号の八幡神社・諏訪神社合殿を村名を採って泉井神社と改めた。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
社殿左側にある境内社・御嶽山 本殿右側奥に境内社・稲荷神社
境内の一風景
ところで、熊井黒石神社から「亀小通り」の北上途中、東側の高台附近に『南比企窯跡群(みなみひきかまあとぐん)』といわれる遺跡がある。南比企窯跡群は、鳩山町を中心に嵐山町・ときがわ町・東松山市の一部にかけて広がり、6世紀初頭から10世紀前半頃まで須恵器や瓦を生産した。
奈良時代中頃(8世紀中頃)には武蔵国分寺創建期の瓦を大量に生産し、南へ約40km離れた国分寺まで運ばれ、最盛期の窯の数は500基ほどあったと言われ、東日本最大級の規模という。
その「南比企窯跡群(律令制期東国屈指の大窯跡群)」の東側の一画を占め、当窯跡群の中核を成す、鳩山町のほぼ全域に広がる窯跡群の総称を「鳩山窯跡群」という。
6世紀初頭に東松山市高坂の丘陵東裾で須恵器の窯として操業を開始し、7世紀後半には鳩山町の石田遺跡や赤沼古代瓦窯跡などで勝呂廃寺(坂戸市)の瓦や須恵器を生産するようになります。 そして、8世紀半ばになると鳩山町の新沼窯跡を中心に武蔵国分寺創建期の瓦を大量に生産し、生産された瓦は南へ約40km離れた国分寺へ運ばれたという。
泉井地域に所在する遺跡はこの「新沼窯跡」で、昭和34年に発掘調査され、武蔵国分寺創建期の瓦を生産した窯跡として知られていた。平成22年から実施された発掘調査により、26基もの窯跡の存在が明らかとなった。大半は8世紀中頃から後半の武蔵国分寺創建期のものであるが、一部で9世紀中頃の須恵器が出土していることから当該期の窯跡も存在すると考えられる。出土瓦の中には、古代の郡名を記した瓦「郡名瓦」が多く含まれているという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「鳩山町役場HP 鳩山窯跡群」「境内案内板・記念碑文」等