古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野氷川神社・野久伊豆神社

 野氷川神社
        
              
・所在地 埼玉県行田市野8851
              
・ご祭神 素盞嗚尊
              
・社 格 旧野村鎮守
              ・
例祭等 10月第4日曜日 野の獅子舞
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1049547,139.4912071,16.25z?hl=ja&entry=ttu
 前玉神社正面鳥居前の埼玉県道77号行田蓮田線、通称「古墳通り」を鴻巣市方向に進行し、2.6㎞程先にある十字路を右折し暫く進むと、正面に野氷川神社の社殿が見えてくる。但しよく見ると社殿は背を向けているので、右回り方向に迂回して正面鳥居方向に進まなければならない。
 正面の鳥居がある右側には「野文化センター」があり、参道とセンターの間は大きな広場になっていて駐車可能なスペースは十分にある。そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                    野氷川神社正面
 野地域は行田市南部に位置し、鴻巣市と境を接している。この「野」という名前の由来は、『新編武蔵風土記稿』によると、「慶長年中(15961615)広野を開発したことに由来する」と伝えている。
 野氷川神社の創建年代は不詳だが、境内碑文によると天文年間に荒川が氾濫しないよう願い氷川様を勧請して創建したと伝えられ、野村原組の鎮守社であったという。明治41年には、野村に鎮座していた他の天神社(野天満大自在天神)・八幡社・新明社(野神明社)・諏訪神社を合祀、野村の鎮守となったという。
        
                   参道の様子
        
                    拝 殿
 野地域の伝統芸能として、行田市指定民俗文化財・無形民俗文化財(指定年月日:平成21730日)に「野の獅子舞」が奉納されている。
「行田市HP」
 野のささら獅子舞は市内野地区に伝わる民俗芸能で、現在は野村ささら獅子舞保存会が保存・継承し、五穀豊穣、疫病退散、天下泰平、家内安全を祈願して、久伊豆神社、諏訪神社、聖天様(満願寺)、氷川神社などに奉納されています。
 起源については不詳ですが、確認されている最も古い記録には、諏訪大明神の「祭礼入用覚帳」の中で江戸時代後半の文政4年(1821)に「簓(ささら)」という言葉が記載されており、言い伝えでは約300年位前から始まったと言われています。
 獅子は太夫獅子(だゆうじし)、雄獅子(おじし)、雌獅子(めじし)の三匹獅子舞で、他に先達(法螺貝)、幣束、万灯、面化(めんか)、歌、笛、獅子、花籠(はなかご)などで構成されています。
 ひとり立ち3頭のささら獅子舞とよばれ、獅子は腹に太鼓を結わえて叩きながら舞い、そこに4人の花籠がささらを持って舞いに加わります。曲目は「雌獅子隠し(めじしかくし)」で、3頭の獅子が花籠の周りを舞っているうちに雌獅子が隠れてしまいます。太夫獅子と雄獅子が探し回り、一方が先に見つけて楽しく遊び始めます。それを見た一方の獅子が怒って争いを始めるという筋書きです。一曲形式で勇壮な舞に特色があります。
 現在は10月下旬(第4
日曜日)に実施されています。
        
                拝殿の手前にある「力石」
 
                             本 殿             社殿左側に設置されている石碑。                  
 氷川神社
 当地は元荒川の左岸に広がる農業地帯である。この元荒川は寛永六年に関東郡代伊奈半十郎忠道が河川改修を行うまでは、荒川の本流であった。それまでの荒川といえば、その名が示す通りの暴れ川で、四年に一度は必ず氾濫していたといわれている。そこで、こうした度々の災害に困窮した村人たちが川の神様であるという氷川様を祀り、川が荒れないように願ったのが当社の創建であると伝えられ、境内にある「氷川神社の碑」の碑文によると、それは天文年間のこととされている。祭神は素盞嗚尊で、本殿は「風土記稿」に載る「元和二年再建」のものと思われ、美しい彫刻が施されている。
 当社は元来、野村全体の鎮守ではなく、その一耕地である原組の鎮守であり、ほかの耕地では各々の鎮守を祀っていた。ところが、明治四一年の合祀により、周りの耕地の鎮守であった天神社・八幡社・新明社・諏訪神社を合祀したことから、村鎮守として祀られるようになった。ただし、合祀した諸社の社殿はそのまま旧地に残され、今もそれぞれの耕地の人々の手で祭りが続けられている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
             社殿の右側奥にある石碑群(写真左・右)
        
                                  社殿からの一風景

 野久伊豆神社
        
               ・所在地 埼玉県行田市野647
               ・ご祭神 大己貴命
               ・社 格 不明
               ・例祭等 10月第4日曜日 野の獅子舞
        野氷川神社から南方400m程の場所に鎮座している野久伊豆神社。
        
                   境内の様子
『日本歴史地名大系』 「野村」の解説
 北は埼玉・利田(かがた)・渡柳・堤根(つつみね)の四村、南は元荒川を隔てて足立郡川面(かわづら)・箕田(みだの)両村(現鴻巣市)。洪積層微高地上にあり、地域内に縄文・古墳時代の集落遺跡が数ヵ所残る。地名は慶長年中(一五九六〜一六一五)広野を開発したことに由来すると伝えるが(風土記稿)、村内の正覚寺・満願寺とも開山は戦国期の僧であり、また満願寺には元亨四年(一三二四)建立の板碑がある。
 寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高六五七石余で、かつて忍おし城番であった旗本高木領。田園簿によれば田高四三〇石余・畑高五五四石余。
        
                                      拝 殿
 久伊豆神社
「風土記稿」によれば、当地は元は広い野原であったが、慶長年間開発し、野村と称したという。
 当社は天台宗正覚寺持であり、村鎮守は氷川社で、これも正覚寺持、元和二年の棟札が残っている。
 当地は、市の最東南端に当たり、戦国期は忍・騎西・岩槻など度々領有が変わり、戦の度に被害を受けた。よって、忍の殿様は戦に備えて、道を迷路のように屈曲させたと伝えられ、当時の記録を失った現在では、この迷路のような道が、唯一往時をしのばせるものとなっている。
 文久二年四月二五日付けで、伯家から正一位久伊豆大明神の神階を受けている。
 祭神は大己貴命であり、祭神について口碑はせっつぁま(久伊豆様)の鎮まる所を中耕地という。これはせっつぁまが情け深く、人の面倒みのよい神様で、そのお蔭で今まで耕地内でもめごとが起こったことがなく、仲がよい耕地ということで中耕地と呼ぶという。また中耕地の旦那寺満願寺は、妻沼聖天様の本家で仲がよい仏様であるから名付けられたともいう。
 拝殿を兼ねた覆屋の中に、一間社流造りの本殿と末社雷電社がある。
                                   「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」によると、「戦国期は忍・騎西・岩槻など度々領有が変わり、戦の度に被害を受けた。よって、忍の殿様は戦に備えて、道を迷路のように屈曲させた」と記載され、実際地図を確認すると、野地域自体、円形の集落を成していて、その中心部に野久伊豆神社は位置している。
 確かに、埼玉の神社が解説したことも一因として考えられるが、この地は嘗て荒川本流が幾重にも乱流していた地域であったことは忘れてはいけない。この地形を鑑みれば、荒川氾濫後にできた自然堤防を道として人々は利用し、それが後に、忍城の防御線として、道を迷路のように屈曲させたのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田市HP」等
  

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渡柳常世岐姫神社

 豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した天正18年(1590年)の戦いの中で、616日から716日にかけて武蔵国の忍城(現在の埼玉県行田市)を巡って発生した戦いがあった。この戦いは「忍城の水攻め」といわれ、「備中高松城の戦い」「太田城の戦い」と共に日本三大水攻めのひとつに数えられている。
 75日、小田原城が降伏・開城し後北条氏は滅亡、他の北条方の支城もことごとく落とされながらも、忍城のみは頑強に抵抗し、後北条方で唯一落とせなかった城であった。結局忍城当主である成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に降伏を勧めたので、遂に716日、忍城は開城したという。
 ところで、行田市渡柳地域には「石田陣屋」と称する陣屋跡がある。石田三成が布陣し、指揮をとった場所は丸墓山古墳といわれている。実際丸墓山古墳上からの見晴らしは良く、作戦を練るには古墳に登上して周囲を見渡す必要があったであろうが、実際の起居や会議等は谷戸に面した僅かな比高差の段丘面であるこちらの陣屋で行われていたのであろう。残念ながら現在遺構らしきものはなく、墓地となっている。
 この大規模な合戦の指揮を執ったであろう「石田陣屋」南方近郊に、渡柳常世岐姫神社は厳かに、そしてひっそりと鎮座している。
        
              
・所在地 埼玉県行田市渡柳1479
              
・ご祭神 常世岐姫命
              
・社 格 旧渡柳村鎮守・旧村社
              
・例祭等
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.120235,139.4786955,16.75z?hl=ja&entry=ttu
 前玉神社から400m程南方の洪積層微高地上に鎮座している渡柳常世岐姫神社。この地域は、北側から東側にかけては埼玉(さきたま)地域に接し、埼玉古墳群地帯にかかっていて、前方後円墳三、奈良・平安期集落三群の遺跡がある歴史的にも早くから開発がされていた地である。
 常世岐姫神社は、燕王公孫淵の末裔を称する渡来系氏族赤染氏の一族が大阪の八尾市に祀った社が本宮とされ、渡柳地域のこの社は、行田市荒木地域に鎮座する荒木常世岐姫神社を勧請したものとされている。
        
                 渡柳常世岐姫神社正面
『新編武蔵風土記稿 渡柳村』
 渡柳村は江戸より十五里、民戸六十餘、四境東は和田村、南は袋新田、西は堤根・佐間の二村、北は埼玉村なり、東西廿五町、南北廿町、成田用水を引用ゆ、寛永正保の頃御料所の外阿部豊後守・芝山權左衛門・佐久間久七郎等の采邑なりしに、元禄十一年村内一圓阿部豊後守に賜はり、今子孫鐵丸に至れり、檢地は元禄十二年時の領主阿部氏にて糺せり、
 
   参道右側には塞神二基祀られている。      一直線に進む参道。社叢林の先に社殿は建つ。

嘗てこの地域には、地域名を冠した「渡柳氏」がさりげなく歴史の舞台に登場している。
・『平家物語巻第九、三草勢揃(みくさせいぞろへ)
「搦手(からめて)の大将軍は九郎御曹司義経、相伴(あひともな)ふ人々、渡柳弥五郎清忠」
・『源平盛衰記 寿永21183)年111日 木曾左馬頭義仲の追討軍』
「大手大将軍 蒲冠者範頼 相従輩・武田太郎信義等 大手侍 渡柳弥五郎清忠等」
 この渡柳弥五郎清忠という人物は、平家物語において畠山重忠等同様に、出兵した武士の一員として記載されていることから、当時渡柳地域のみならず、多くの狩猟を持つ武将であったと考えられる。
『新編武蔵風土記稿 渡柳村』には、この人物に関して以下の記載がある。
小名 陣場
村の西を云、天正十八年石田治部少輔三成、忍城を責し時、本陣とせし所なり、こヽに陳場の松とて大木ありしが、天明年中枯たりと云、又此邊に塚九つあり、是は石田三成忍城責の時、渡柳の地へ本陣をすゑ、城に向て伏椀の如くなる塚歎多築き仕寄となすと傳るは、此塚のことなり、其内戸場口山と呼塚あり、此塚の中より近き頃石棺を掘出せり、其中に九尺程の野太刀あり、今村内本性寺に納め置り、土人の話にこは當所に住せし渡柳彌五郎といへる人を、葬たる塚ならんといへり、成田分限帳に十八貫文渡柳將監と見えしは、在名をもて名とせしものにて、彼彌五郎の子孫ならんか、さあらば三成が築きし以前よりありし古塚なることしらる、
 八王子社 村の鎭守なり
 末社 八幡、渡柳彌五郎が靈を祀れる由、彌五郎八幡と稱す
 〇八幡社 〇諏訪社 〇稻荷社 〇二ツ宮 以上萬法院持
 〇神明社 〇天神社 以上長福寺持
        
         参道の先には高台があり、その高台上に社殿は鎮座している。
        
                    拝 殿
                     
                    境内に設置されている「御由緒」の碑
               村社 常世岐姫神社 御由緒           
                     由緒

        創立ノ年度詳ナラズ往古ヨリ村鎭守八王子大權現ト唱フ其他口
        碑ニダモ傳ハラズ現在ノ社殿ハ文政九年四月村内有志ノ醵金ヲ
        以テ再建ス其ノ後明治二年五月村社常世岐姫神社ト改称ス同六
        年中村社二申立濟 明治四十二年十二月十八日字久保無各社諏
        訪神社字内郷無各社天神社同字無各社伊奈利社字舟原無各社洗
        磯前神社字久保無各社八幡社字神明前無各社神明社同境内塞神
              
社合併許可  境内六百九十二坪

 拝殿に通じる石段上で、左側に鎮座する境内社       拝殿左側に祀られている石祠二基
         詳細不明                     ことらも詳しいことは不明
        
                           社殿手前の石段周辺から一の鳥居を望む



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内記念碑文」等
 

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持田劔神社

『新編武蔵風土記稿 持田村』
 持田村は忍城持田口の西にあり、龜甲庄と唱ふ、持田は暇借の文字にして、古は糯田と書しといへり、(中略)
 又岩松文書文永三年岩松家本領所の注文、武蔵の處に糯田鄕と載せ、及び応永十一年岩松右京大夫が所領注文にも、同鄕を出したれば、新田家より岩松へ相續せしと見ゆ、持田と書改しも古きことにや、持田氏の系譜に、持田左馬助忠久は生国武藏の人にて、深谷の上杉則盛に仕ふ、其子右馬助忠吉も上杉に仕へしが、上杉没落の後菅沼小大膳に仕ふとみえたり、是當所の産にて、在名を氏に唱へしならん、又成田分限帳に永五貫文持田右馬助、永五十一貫文持田長門と載、是等も忠久が一族なるべし、

 この持田氏は元々出雲の大国主命の部下あり、本拠地は今の島根県に当たる。大和朝廷に下った後、平安時代初期、征夷大将軍の坂上田村麿の蝦夷討伐を目的とする東方遠征に持田氏も従軍した。その際に築城した各国の柵に兵士を残していった。本隊に残った持田氏は出雲に戻り、出雲に土着して地方豪族として尼子や松平等に仕えて明治維新を向かえているが、各地域に残された一部の氏族、特に、静岡県の持田氏、埼玉県行田市の持田氏等はこの時生まれたといい、現在でも埼玉県や島根県には持田姓は数多く存在する。
*寛政呈譜
「持田左馬助忠久(武蔵国深谷の上杉則盛につかへ、某年死す。年七十二
.。法名道龍)―右馬助忠吉(上杉家につかへ、没落のゝち菅沼小大膳定利につかふ。慶長七年十二月めされて東照宮につかへたてまつり、武蔵国忍城の番をつとむ。寛永十年死す。年六十四.。法名蒼河)―五左衛門忠重(寛永十年父が遺跡を継、忍城の番をつとめ、十七年めされて江戸に来り御宝蔵番となり、子孫相継て御家人たり)。家紋、丸に蔦」

        
              
・所在地 埼玉県行田市持田5937
              
・ご祭神 日本武尊
              
・社 格 旧持田村中組鎮守・旧村社
              
・例祭等 春祭り 417日 夏祭り 819日 秋祭り 99
   
地図 https://www.google.com/maps/@36.1388825,139.436117,17z?hl=ja&entry=ttu
 小敷田春日神社から忍川を挟んで直線で400m程南東方向に鎮座している持田劔神社。行政上、小敷田と持田両地域は忍川が地域境となっている。秩父鉄道が東西に流れているその北部にあり、周囲一帯民家が立ち並び、綺麗に整備されている道路沿いに社は佇んでいる。
        
                                 
持田劔神社正面
 鳥居の上部笠石、貫石等が欠けて、柱のみしかなく、また両側の灯篭も左側片方が崩れている。嘗ての大震災の影響であろうか。その正面鳥居や燈篭のインパクトが強く残ってしまったためか、どことなく境内もやや管理が行き届いていない様子に見えてしまった。思うに人間の自己脳内印象操作とは恐ろしい。
        
                   境内の様子
『日本歴史地名大系 』「持田村」の解説
 北は忍川、東は忍城に接し、北部を熊谷行田道が東西に通じる。地下一メートルに条里遺構や古墳時代後期の集落遺跡が埋没しているとみられる。中世は糯田(もちだ)郷に含まれた。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に譜代侍として持田右馬之助(永五〇貫文)らがみえる。かれらは当地出身の武士という(風土記稿)。村内には宝蔵(ほうぞう)寺に延応二年(一二四〇)阿種子・宝治二年(一二四八)弥陀一尊種子、また正覚寺に寛元二年(一二四四)荘厳体弥陀一尊種子と、三基の板碑が残る。一五世紀後半の成田氏の忍築城に際して囲込まれた城地の五分の三は当村の地といい(郡村誌)、また持田・谷之郷(やのごう)入会の地であったともいう(風土記稿)。
寛永一〇年(一六三三)忍藩領となり、幕末まで変わらず。同一二年の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高三千七〇九石余。田園簿によると高三千七七一石余、反別は田方三一五町八反余・畑方二一町五反余。
       
           参道右側に雄々しく聳え立つ大木(写真左・右)。
『新編武蔵風土記稿』には持田村の歴史や地形上の特徴として持田村は忍城持田口の西にあり、龜甲庄と唱ふ、持田は暇借の文字にして、古は糯田と書しといへり(中略)、東は下忍村、南は鎌塚村、及び大里郡佐谷田村にて、西は大井・小舗田・戸出の三村、北は皿尾・中里・上村なり、東西卅二町、南北廿三町の大村なれば、村内を私に上中下の三組に分ちて沙汰せりと云、又東南の方に小字前谷と呼ぶ處あり、中古開きし新田にて、本村の外民家四十聚住す、故に土人こヽを私には前谷村と唱へり、當村も御入國の後より忍城附の村にして」と、嘗ては「龜甲庄」と称し、また「持田」の地名由来を「あまり肥えていない田に植える「モチダ」(糯田)の転化」と解説している。
        
                    拝 殿
 持田劔神社の鎮座する地は、文明年中に築城されたという忍城の持田口の西にあたる。社記によれば、当社は日本武尊東征の折、当地で剣を杖にしてしばらく休息されたことから尊の威徳を偲ぶ村人が宝剣を神体に社を建てたことに始まるという日本武尊伝説があり、行田市内には同様の伝説が斎条劔神社、中江袋劔神社にも残されている。
 新編武蔵風土記稿によると、江戸時代には、剱宮と称し、持田村中組の鎮守で、長福寺を別当寺としていたという。

        
               境内に設置されている記念碑
 剣神社改築記念碑
 当社は古くから剣宮と称しお剣様の呼び名で氏子(上持田、中持田)から親しまれ字竹の花に鎮守として祀られて来ました
 境内左方に稲荷、 浅間、大天白と、右方に塞神を祀した社であります
 社記によれば当社は日本武尊東征の折、当地で剣を杖にしてしばらく休息されたことから尊の威徳を偲ぶ村人が宝剣をご神体に社を建てたと伝えられています
 この由緒ある社殿も建立以来幾度か修築を重ね風雪に耐えて参りましたが、この間各所に腐食が甚だしく神社総代相集い改築構想を協議しその実施を進める機運が昂まり建設委員氏子二百四拾六名もの賛意が得られ浄財拠出によって、平成四年五月一日神社改築が発足しこの度その竣工をみたのであります
 時代の幾多変遷にもかかわらず今に続く清新な神社崇数の思慕を伺い知ることが出来ます
 神社改築を機として氏子中ますます隆盛を念願してやみません(以下略)
                                      記念碑より引用

 
  拝殿左側に祀られている境内社・三社            本 殿
      左から稲荷社・浅間社・大天白社
       
                                  御大典記念碑
          邨社劍神社為武蔵國埼玉郡持田村中區鎮守雖創建不
          詳祀日本武尊配之以草薙劍者也臨雄川之清流老杉森
          鬱本殿享保二十一年脩之拜殿寶暦八年所造營至今葢
          二百年漸来廃頽區民胥謀醵出工費撤其覆屋改銅板別
          移舊拜殿為社務所及其竣工也輪奐更加美境地一新○
            實大正十四年六月也今茲昭和三年十一月舉
          即位之大典大廟參拜之某等欲効敬神之誠建碑于社前
          来請文余亦與于工事者焉以不文可辭哉即叙其来歴繫
                  
以銘銘曰(以下略)

『新編武蔵風土記稿 埼玉郡』において、持田村は「亀甲荘」と称していた。不思議な名称である。加えて、亀甲荘の該当する範囲は持田村一村のみの限定区域。持田と亀甲の深い関係が想像できよう。
「亀甲」は「亀の甲羅」を表し、古代中国では、亀の甲羅を用いて占いを行う“亀ト(きぼく)”による政策決定や意思決定が盛んに行われていた時代もあった(後にこれが甲骨文字と呼ばれるようになった)。
 日本列島には中国大陸または朝鮮半島から持ち込まれたとみられ、『三国志』「東夷伝倭人条」(魏志倭人伝)の倭人の占術に関する記述として、「其の俗挙事往来に、云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、もって吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て凶を占う」とあり、文献史料から日本列島における太占(ふとまに)=骨卜(こつぼく)は弥生時代には行われていた事が知られている。
 日本列島の遺跡から出土する卜骨は、多くは鹿・猪の肩甲骨で、稀にイルカや野兎の例もあるそうであり、古代中国での亀の甲羅(卜甲)を用いる亀卜よりも、日本では鹿の獣骨(卜骨)を用いる骨卜が主流であったようだ。
       
                               社殿付近からの一風景 
 日本では古来から「鶴は千年、亀は万年」という言葉があるように、「亀甲文様」は長寿吉兆をもたらす縁起の良さと、その格式の高さで、国内外問わず多くの人に愛されていた。
 また能楽では蛇体の女が鱗の衣装を用いていて、鱗紋を亀甲(きっこう)といったりしている。
また「亀甲」をいうと、「亀甲紋」を連想するケースもあるが、この紋は、長寿のシンボルである「亀」の甲羅をモチーフにした紋で、正六角形の中に他の紋を組み合わせて複紋として用いることが多く、亀甲紋は、様々な家紋の中でも特別なものとして扱われており、名門武家の紋としても用いられている。
 また、神社の神紋としても多く用いられていて、有名なものとしては出雲大社、その他にも厳島神社や櫛田神社などが挙げられている。

 埼玉県、及び島根県には「持田」姓が多い。また出雲大社の神紋は「亀甲紋」。持田村は嘗て「亀甲祥」と称していたこと。これらは何を意味しているのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「寛政呈譜」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「名字由来ネット」
    「埼玉苗字辞典」「境内記念碑文・案内板」等
           



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西ノ谷久伊豆神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市西ノ谷1141
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧西谷村鎮守(推定)
             
・例祭等 例大祭 415
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0974608,139.5782791,17z?hl=ja&entry=ttu
 鴻茎久伊豆神社が鎮座する場所から一旦国道122号線「鴻茎立山」交差点に戻り、国道に合流後北西方向に進む。この地域は旧騎西町内で、国道左手には多くの工業団地が立ち並んでいて、通称「騎西藤の台工業団地」という。この工業団地の整備に関しては、生産活動及び周辺に及ぼす影響を考慮し、適正かつ合理的に土地利用を図り、質の優れた良好な地区環境の形成保持をするために、公共緑地及び民有緑地を十分に確保し自然と調和のとれた工業地の形成を図っているようで、事実団地内には多くの緑地や公園も整備されている。
 国道を700m程進んだ「西ノ谷」交差点を左折し、その後150m程進んだ最初の十字路を右折すると、西ノ谷久伊豆神社の鳥居及びその社の境内一帯が進行方向右手に見えてくる。
 後日地図を確認すると、騎西藤の台工業団地の北西部に位置しているようだ。
 社の東側に隣接して「西ノ谷十二区集会所」があり、そこの駐車スペースに停めてから参拝を開始する
        
                 西ノ谷久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「西谷村」の解説
 備前堀川を挟んで騎西町場(きさいまちば)の南、上崎村・下崎村の東に続く埋没台地の東端に位置する。田園簿によると田高・畑高ともに一〇二石余、川越藩領。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一九九石余、反別は田方・畑方とも一一町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに四七石余があった。
『新編武蔵風土記稿 西谷村』において、村名の由来として「當村の地形低くして、鴻茎村の方高ければ、其西の谷と云へる意にてかく名づくるよし、今その地形を見るにさもあらんと思はる」と当時の風土記稿編者の認識として記されていたようだ。
        
               鳥居の右側に設置されている案内板
        
                参道から二の鳥居を望む。
 埼玉県加須市に鎮座する玉敷神社がかつて「久伊豆明神」と称しており、総本社とされている。祭神は大己貴命。埼玉県の元荒川流域を中心に分布し、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。
 加須市には、旧騎西町に鎮座する久伊豆神社の総本社とされる玉敷神社を含め、市内7社あるうちの1社で、玉敷神社に最も近い社。
        
                    二の鳥居
       
       二の鳥居の先で、参道右側に聳え立つケヤキの大木(写真左・右)
        加須市保存樹木(ケヤキ・幹回り245.173㎝)で、指定番号 30
        
               参道左側に祀られている石碑二基。
 左側には「青龍大日大聖不動明王」、右側の石碑の中央部には「開聞覺明靈神」と刻印されている。
      
   石碑二基の並びは、解読不明の石碑(写真左)と青面金剛の庚申塔(同右)が建つ。
 庚申塔基壇部の一対の彫刻が興味を引く。火を起こしているのか、それとも笛を吹いているのか。
日本では各地に石造の庚申塔が多数遺り、そこには「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像と共に青面金剛像が表されている例が多いのだが、この像はそれに該当しない。不思議な像である。
        
                                                              拝殿兼本殿覆屋 
 久伊豆神社 例大祭 四月十五日
 当社は大己貴命を主祭神とし、福徳を授ける神として崇敬され、くいず神社とも呼ばれる。
 当社の由来は不詳であるが、一説には加藤家の先祖が祀った神を、いつの頃からか村人が敬うようになったという。加藤家の先祖は北条氏の家臣であったが、小田原落城後、当地に住みついたと伝えられる。宝暦六年(一七五六)に社殿を再建した棟札があったことから、その創建はかなり古いものと思われる。
 拝殿は入母屋造りで、明治四十一年に合祀した八幡神社と大六天社が祀られている。
 境内には享保八年 (一七二三)銘の庚申塔がある。これは一つの顔と、八本の腕を刻む、 特異な青面金剛像となっている。
                             正面鳥居右側にある案内板より引用
『新編武蔵風土記稿 西戸村』には案内板に記されている「加藤氏」に関して詳しい記載がある。原文にて紹介する。
 當家者次郎左衛門
 加藤を氏とす、先祖は源左衛門と稱し、小田原北條家に仕へしが、北條家滅亡の時討死す、よりてその甥源次郎をして、源左衛門が娘福の後見すべき旨、氏政より文書を與へられしかば、源次郎福を伴ひて民間に跡か隱し、夫より當村に來り住せり、其後寛永九年八十餘にして卒す、福その跡を相續し、夫より連綿して今の次郎左衛門に至れりと云、その所藏の文書左の如し、
 今度上總行之砌、於殿太田源五郎越度割、其方伯父賀藤源左衛門見討死候、誠忠節不淺候、於氏政感悦候、然間一跡福可相續、然共只今爲幼少間福成人之上、相當之者妻一跡可相續條、其間者源次郎可有手代者也、仍如件
 永禄十年丁卯九月十日 氏政(花押)
           賀藤源左衛門息女
            
           
賀藤源次郎殿
        
                                     
拝殿覆屋内部
 
 西ノ谷十二区集会所の南側には「いぼとり地蔵」というお地蔵様がポツンと祀られている(写真左・右)。
 町指定有形民俗文化財 いぼとり地蔵
 この地蔵は、いぼとりに効用があることから「いぼとり地蔵」とよばれ、信仰されている。
 像容は、半跏像(左足を垂れ下げた形)で、京都壬生寺(みぶでら) 地蔵の系統を受け継ぐものと考えられる。
 銘文から、享保(きょうほう)三年(一七一八)に長谷川弥市という鋳物師(いもじ)の手によって造られたことがわかる。
 また、衣の部分が鋭く刻まれていることなどから、原型は木製であったらしく、原型の作者も相当な仏師であったことがうかがえる。
 加須市教育委員会
                                      案内板より引用
        
                            拝殿覆屋から境内を望む。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須インターネット博物館」
    Wikipedia」「境内案内板」等

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鴻茎久伊豆神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市鴻茎3991
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧鴻茎村鎮守・旧村社
             
・例祭等 大祭 410
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0920274,139.5836529,18.5z?hl=ja&entry=ttu.
「モラージュ菖蒲」から国道122号線を旧騎西町方向に3.5㎞程進む。「鴻茎立山」交差点を右折し、すぐ先の右斜め方向に進む路地へ移動し、暫く道なりに進行すると、左手に鴻茎久伊豆神社が見えてくる。実のところ、国道122号線沿いに社は鎮座していて、交差点手前からでも目視できるのだが、どうやら社は国道から背を向けているような配置となっているようで、社の正面にたどり着くためには、国道から一旦回り込むような進路となる。
 周辺には適当な駐車スペースはない。隣には集会所、又は社務所らしい建物があり、そこの道路面にある適度な空間に停めてから参拝を行った。
        
                 鴻茎久伊豆神社正面
 1889年(明治22年)41日、町村制施行に伴い、北埼玉郡騎西町・外川村・下崎村が合併し、騎西町が発足する。同時に、田ケ谷村・種足村・高柳村と共に鴻茎村も誕生している。鴻茎村は、芋茎・牛重・根古屋を併せて成立したが、当初、合併案に鴻茎村、芋茎村、戸室村、中ノ目村の四村が反対した。そこで、戸室村、中ノ目村の二村を種足に組みかえて、騎西町への合併に反対していた根古屋村と、水深村への合併を反対していた牛重村を合併し鴻茎村が誕生した。
 その後1943年(昭和18年)41日北埼玉郡騎西町・田ヶ谷村・種足村・鴻茎村・高柳村が合併し、騎西町となったが、一旦1946年(昭和21年)51日には分離。昭和29101日、騎西町、田ケ谷村、種足村、鴻茎村、高柳村の14村の合併案が出され、再び騎西町が誕生する。但し、高柳村では加須町との合併を望む意見が出たため、高柳村を除いた一町三村が合併して新しい騎西町が誕生した。高柳村はその後、昭和30320日に騎西町と合併する。
 2010年(平成22年)323日、加須市・北埼玉郡騎西町・北川辺町・大利根町と合併し、新たに加須市となり、現在に至っている。
        
                                  境内の様子
『日本歴史地名大系 』「鴻茎村」の解説
 村の北部は騎西町場に連なる埋没台地に、南部は見沼代用水左岸の自然堤防上に立地する。北東は備前堀川を隔てて根古屋(ねごや)村など。村内を岩槻、菖蒲(現久喜市)から忍(現行田市)・羽生へ抜ける往還が通る。「鴻ヶ茎」とも書いた(風土記稿)。鴻茎のクキは小高い所、丘などの意で、利根川の乱流した低湿地の自然堤防・埋没台地上にあるのでこの名が生じたという(埼玉県地名誌)。
「風土記稿」によれば村内に享保一五年(一七三〇)に築造した利根川除騎西領本囲の堤があるという。芋茎医王(いもぐきいおう)寺蔵薬師如来坐像の弘治二年(一五五六)五月付修理墨書銘に「武州鴻茎郷戸塚村医王寺」とみえる。田園簿によると田高七八四石余・畑高二七五石余、川越藩領。
 当地「鴻茎」は「こうぐき」と読む。前回参拝した「割目久伊豆神社」の地域名「割目」と同様に、中々個性的な名称である。『日本歴史地名大系 』での由来説明では、「鴻茎のクキは小高い所、丘などの意で、利根川の乱流した低湿地の自然堤防・埋没台地上にあるのでこの名が生じたという」として、地形上の理由がこの地域名となったとの事である。
 また別説では、鴻茎は古くは鴻ヶ茎と言い、「くき」から出た地名で、燃料採取地を意味する地名で、「久木」や「久喜」とも書いたともいう。

 なお、正面に一対の灯篭があり、その傍らに「力石」があるのが見える。向かって左側の石には「享保三年(一七一八)」銘の力石である。右側の石は大きさはむしろ大きいが、刻印はされていないように見える。
 
   左側の灯篭の外側脇にある力石         右側の灯篭の手前側にある大石
「享保三年(一七一八)」銘が刻印されている。  一見刻印がされていないように見える。
        
        鳥居を過ぎた参道の左手に並んで祀られている庚申塔、石碑群
        
                    拝 殿
        
             拝殿の左側前方に設置されている案内板
 久伊豆神社  大祭 四月十日
 当社は大己貴命を主祭神とし、福徳を授ける神として崇敬される。慶長七年(一六〇二)の騎西・大英寺の寺領帳に「久いつまへ」と記されていることから、創建は江戸期以前と思われる。
 古くは地内にあった安養寺(現在は廃寺)の管理となっていたが、慶応元年(一八六五)銘の手洗石 に「寿昌寺」の名を刻むことから、いつの頃からか同寺の管理に移ったものと思われる。明治四十年には地内に鎮座した九社を合祀している。
 また、江戸時代には境内にあった池の水を氏子が桶で掻い出し、泥を投げつけ合って「雨乞い」をしたという。
 なお、久伊豆神社は元荒川流域に多く分布する神社であるが、当地では「くいず神社」と呼んでいる(以下略)
                                      案内板より引用
 
 社殿左側隅には石碑が四基あり、社殿側から「日露戦没記念碑」(写真左)、「敷石記念碑」、「大東亜戦争記念碑」(同右)、「久伊豆神社 大鳥居記念碑」が建っている。
        
                   境内の一風景
 国道沿いに鎮座し、また社の北側には民家が立て並んでいるにも関わらず、境内は静かな雰囲気に包まれている。お社には不思議な消音効果装置が設置されているのであろうかと、ふと神妙な面持ちで考えてしまう今回の参拝であった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須インターネット博物館」「埼玉県地名辞典」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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