古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小用鹿島神社

 鎌倉時代頃に活動した鋳物師(いもじ)たちのうち河内(かわち)国(大阪府)を本拠地としていた河内鋳物師は、天皇と結びつき燈炉供御人(とうろくごにん)という地位を得ることによって全国を自由に往来して生産・売買できるという特権を与えられていた。
 それまで武蔵国にも在地の鋳物師はいたが、梵鐘などの大形品の製作活動は行っていなかったようだ。ところが、幕府が鎌倉に開かれ、関東が政治の中心地となると、幕府や武士層と仏教勢力との結び付きによって多くの寺社が造営されていく。
 特に鎌倉・長谷の大仏が造立されることになると物部(もののべ)・丹治(たんじ)・広階(ひろしな)姓などの高い技術を持つ河内鋳物師がこの東国に招かれた。この時彼らの遺した梵鐘や鰐口などの仏具製品は関東一円にひろがっていて、大仏の完成後には本拠地の河内国に帰って行くものたちもいたが、一部の鋳物師は東国に残り、この地に根を降ろしていくことになる。
 埼玉県内の中世鋳物師は、東松山市小代、坂戸市入西(金井遺跡)、鳩山町小用、本庄市児玉町金屋、寄居町塚田、狭山市柏原、さいたま市岩槻区渋江、そして嵐山町の金平遺跡で鋳造を行った鋳物師である。個々の鋳物師が活動していた時期は13世紀から17世紀と幅が広く、全てが同時期に操業していたわけではないが、その位置と立地をみると県内を通っていた主要街道、特に鎌倉街道上道に沿っており、また主要な河川が街道と交わる地域の周辺に位置していることがわかる。
 小用鋳物師は、15世紀中頃には鎌倉大仏の鋳造時に招へいされた物部鋳物師の系譜に連なるようだが、この鋳物師は当地にて仏具や生活雑器を生産するようになる。
 17世紀中頃には、石坂以外の鳩山地域一円を内藤家が支配し、大名に取り立てられた。その後、今宿村が成立し筏河岸は陸運、舟運など物資の集散地として栄えた。また18世紀後半には関東最古級の近世地方窯である熊井焼が開窯し、徳利や壺、花瓶などの日常品を中心に、イッチン描きや飛びがんな、三島手風の象嵌が施された芸術性の高い作品など、優れた製品が生み出され、江戸の市中で流通していたと言われている。
        
              
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町小用3991
              
・ご祭神 健御賀津智命
              
・社 格 旧小用村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例祭 1017
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9702406,139.3381417,17z?hl=ja&entry=ttu
 今宿八坂神社から小用地域の「鹿島通り」を西へ進むと小用鹿島神社が道路沿いに鎮座している。直線距離でも700m程しか離れていない。
 境内にある「遷宮記念碑」また「埼玉の神社」を確認すると、以前はこの場所から北西方向に700m程の所で、大豆戸地域との境の大沼村付近にあり丘陵を背に鎮座していたが、昭和278年頃に村の中心である現社地に移転したという。
 藤沢秀郷の末裔を自称し、源頼朝の乳母を務めた比企一族の比企掃部允(源頼朝の乳母・比企尼の夫)が創建したという伝承が残っている社である。
        
                  小用鹿島神社正面
                右隣にあるのは「小用公会堂」
『日本歴史地名大系』での 「小用村」の解説によると、大豆戸(まめど)村の南に位置する。近世には入間郡に属し、「こいよう」とも称した(「郡村誌」など)。南は同郡西戸(さいど)村・箕和田(みのわだ)村(現毛呂山町)、西は同郡如意(ねおい)村(現越生町)。「風土記稿」によると古くは大豆戸村と一村で、同村を上越用(かみこいよう)とよんだのに対して、下越用と称したという。また慶長三年(一五九八)改の水帳には「入西郡下越用村」と記されていたという。永正一四年(一五一七)五月一四日の出雲守直朝・弾正忠尊能連署証状写(相馬文書)にみえる「小祐福寿寺」は当地福寿寺のことか。天文一五年(一五四六)四月一五日の北条氏康感状(平之内文書)に「小用嶺」とみえ、氏康は荒河端より小用嶺に至る竹本源三の戦功を賞している、という。
 また『新編武蔵風土記稿 小用(こよう)村条』には「村に傳ふる慶長三年改の水帳に、入西郡下越用村畠帳の事と記せば入西に属し、下越用村と号せしこと知らる、上越用と云は、土人の傳へにそのかみ比企郡大豆戸村の唱へなりといへど、たしかなることをしらず、(中略)用水不便の地なれば、田少なく畑多し、(中略)村内に江戸より秩父への往還かゝれり、比企郡今宿より入て、又同郡大豆戸村へ達す」と記載され、嘗てこの地域は、大豆戸村と一村を成していて、その後大豆戸村は「上越用村」、そして当地は下越用村」と称し、分村したという。
 
      鳥居の右側にある社号標柱      社号標柱の奥に立つ「鹿島神社遷宮記念碑」
「鹿島神社遷宮記念碑」
 小用の鹿島神社は現在の境内地より、西北西直線で約七百米の所に先人により鎮座なされたもので、参道は長く境内地は緩い南面の傾斜で西南に湖水を見、東・北・西参面が社有林、小用共有林により囲まれ其の広さは約参阡坪と言われ、また境内地には樹令数百年の亭々たる喬木が聳え鎮守の森に相応しく、よくぞ選ばれた山紫水明の庭でした。爾来渺茫八百有余年小用の鎮守、産土の神として此の土地と住む人々を守ってきました。
 今より約半世紀前、社が人家の中心付近に遷座される、との噂が広まり、それが現実となり、現在の地に遷座されたもので、永年の風雪により本殿、拝殿の老朽化が著しく此処に至り改築する事に成りました。
 資金問題については小用に未會有の大開発の折、興長寺所有の山林売買に関して開発業者と寄付金の額が伍阡萬円で決着かと思われた時、寺の役員の一人が「壱億円が適当であるそれが出せない場合は此の話は白紙にして貰いたい」との言葉に開発業者側が速やかに受入れ、其の金員は興長寺の通帳に繰入れました。この事は゛阿吽の呼吸゛と天が味方してくれたものと感じるものです、興長寺代表役員安西昌道住職より「檀家の大半の賛成があれば寄付金の内の五阡萬円は神社改築に使用しても良い」との意向を察し檀家一堂に会し、新し合いの結果、大半の賛成を得て安西住職の了承のもとに東松山税務署の意向通り宗教法人鹿島神社の通帳をつくり伍阡萬円を繰入れました。
 私は住職の広大無辺の考えは仏の教えの真髄と感じるものです。また現在の境内地は約六拾坪で余りに狭く松本好生氏宅で境内地の拡大には欠かせぬ場所を約九拾坪お譲り戴き神殿、拝殿が其の地に建てられました事は法恩寺御前の心と松本好生氏のご協力は此の事業の双壁を成すもので、さぞかし鹿島神社の神霊も喜び小用の地と暮らす人々を守り゛和゛を心として栄えるよう導いて下さると信ずるものです。古語に「言うは易く行うは難し」此の大事を為し遂げられしは社稷の加護と心に沁みるものです。これを契機に謙虚に過去を振り返り小用の将来が“和やかな人柄の住みよい土地”と社会から評される事を望み碑文と致します。
 平成十八年三月吉日 撰文 松本亮輔
                                   「記念碑文」より引用
       
           規模は小さいながらも、綺麗に整備されている境内
 冒頭に紹介した「小用鋳物師」として、上越用(大豆戸地域)の清水氏宮崎氏、下越用(小用地域)の松本氏の存在が確認されている。
〇清水氏
「秩父町定林寺宝暦八年鐘銘」 比企郡上小用村清水武左衛門清長・作
「高麗郡新堀村建光寺明和三年鐘銘」 鋳物師比企郡大豆戸村清水武左衛門
「正代村世明寿寺安永五年鐘銘」 大豆戸村清水清永・作
「平沢村平沢寺寛政五年鐘銘」 比企郡上小用村吹屋清水武左衛門・作
〇宮崎氏
「川越鋳物師安政五年小川文書」 鋳物師比企郡上小用郷大豆戸村宮崎柳七
〇松本氏
入間郡黒須村蓮花院鰐口」 寛正二年十月十七日、奉施入武州比企郡千手堂鰐口、大工越松本
「熊井村妙光寺木製龕笠銘」 永禄十二年十一月二十九日、野瀬沢之小用、南無地蔵奉寄進、松本二郎左衛門取次
*入間郡越生郷小用村(鳩山町)の鋳物師金刺氏は本名松本氏という
「横見郡久保田村阿弥陀堂梵鐘」 建武三年卯月九日、武州吉見郡大串郷窪田村阿弥陀堂鐘一口、大工金刺景弘
「比企郡赤沼村円正寺雲版」 応安四年卯月初吉、武州入西浅羽円接禅寺、大工金刺重弘
「甲斐国保福寺」 応安六年十一月二十一日、武州杣堡高柿村地蔵院雲版、大工金刺重弘
「越後国蒲原郡国上寺鰐口」 長禄二年十二月吉日、大工同国入西郡越生郷越住人重弘

 また小用地域の小字には「かねやつ」「からみ塚」という鍛冶に関連していると思われる地名も残されており、嘗て「小用鋳物師」が存在していたという側面的な裏付けにもなろう。
 気になる点が一つ。「鹿島神社遷宮記念碑」遷文の苗字は「松本氏」である。この人物も祖先を辿ると、「小用鋳物師」の松本氏一族に関係していた方なのであろうか。
        
                     拝 殿
 鹿島神社 鳩山町小用三九九-一
 岩殿丘陵の南部に位置する当地は、鳩川に向かうなだらかな斜面に畑が広がる農業地帯である。地内を旧秩父往還が通る。
 当社は、治承年間(一一七七〜八一)に比企掃部允が創建したと伝える。掃部允の妻は源頼朝の乳母の比企禅尼である。

『風土記稿』小用村の項に「鹿島社村領六石の御朱印を附せらる別当興長寺」と載る。社領六石の安堵は、慶安二年(一六四九)十一月のことで、三代将軍徳川家光から賜ったと伝える。
 別当の興長寺は、真言宗寺院で今市村法恩寺の末寺である。寺伝には、建久元年(一一九〇)に越生四郎家行が主君源頼朝の命を受け、源家繁栄祈願のために建立したのが草創とされる。また、地内には福徳院もあり、興長寺と同様に法恩寺の末寺で、如意山と号し、本尊は如意輪観音であった。
 当社の内陣には、如意輪観音の懸仏が奉安されており、福徳院とのかかわりをうかがわせる。恐らく別当のほかに、福徳院も当社の祭祀・管理を司っていたのであろう。同寺は今は残っていない。
 明治四年三月に、字内中島の神明社と字雷電山の雷電社を合祀し、翌年三月をもって村社に列した。
 当社は、元は大豆戸との境の大沼付近にあり丘陵を背に鎮座していたが、昭和二十七、八年ごろに村の中心である現社地に移転した。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                     本 殿
 小用地域は、嘗て「下越用」と号し、比企郡大豆戸村(鳩山町)は「上越用」と号し、古は一村にて越(こゆ)、小祐(こゆう)と唱えたという。この「越用」という地域名の由来は不明である。
 鳩山町の西側には「越生町」があるが、共に「越」を共有する地名でもある。この「越生町」の名前も難解地名の一つといわれ、正直、「越生」と書いて「おごせ」と読めない方もいるであろうし、普通ならばまず読まない。由来も諸説ありはっきりしていないが、越生町のHPによると、平野と山地の接点にあたる越生からは、秩父に向かうにも、上州に向かうにも尾根や峠を越えなければならず、 それに由来した『尾根越し(おねごし)』の『尾越し(おごし)』という言葉から変化したという説が有力視されているという。
        
                  小用鹿島神社遠景
 あくまで筆者の勝手な解釈ではあるので、間違っていた場合は許して頂きたいのだが、もしかしたら、この「越用」という地名が先に存在していて、そこから周りの地帯に名称が広がったのではないか。「越生」も当初は「こゆう」であったものが、鎌倉時代前に武蔵七党・児玉党が土着し、「おごせ」と名称を変えたのかもしれない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「嵐山町Web博物館」
    鳩山町デジタルブック」越生町HP」「埼玉苗字辞典」「境内記念碑文」等
        

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今宿八坂神社

 比企郡鳩山町は、埼玉県のほぼ中央に位置し、県西部地域に属している人口13,000人程の街である。町内の大部分は岩殿丘陵の中央部に位置し、傾向として、町内北部が標高が高く、南部の方が低い。町の東部は東武東上線の高坂駅(東松山市)へ比較的近く、鳩山ニュータウン、東京電機大学埼玉鳩山キャンパスといった大規模な教育機関や研究機関の施設が集中している。一方で町の北部や西部は、道路環境や公共交通の便が悪いこともあって東京からの距離の割には都市化が進んでおらず、山村地帯の風景が今でも残っている。
 鳩山町は嘗て奈良時代に須恵器や瓦などの窯業の一大産地として栄えた。武蔵国国分寺の瓦を焼いた窯跡など多数の窯跡の遺跡が出土している。(南比企窯跡群)また8世紀前半と推定される小用廃寺の遺跡等から、早くから渡来文化・仏教文化を持った人たちが住んでおり、関東の古代寺院建立を担っていた人たちがいたことが伺われる。
 平安時代後期から中世にかけて荘園が発達すると、年代や領主は詳細不明だが町内の地域の大部分は東松山市南部の早又・正代・宮鼻・高坂・元宿・下青鳥・石橋・岩殿・毛塚・田木・神戸と併せ、亀井庄になっていたようである(「新編武蔵国風土記稿」)。さらに鎌倉時代に鎌倉街道上道が整備されると、軍事上の要衝・宿場町や、材木の中継地として賑わいを見せた。「今宿」という地名は越辺川対岸の苦林宿の新興地という意味からきているという。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町今宿5032
             
・ご祭神 須佐之男命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例大祭 724日に近い土・日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9694427,139.3403141,18z?hl=ja&entry=ttu
 嘗ては越生街道と呼ばれ、東松山市から入間郡越生町に至る埼玉県道41号東松山越生線を越生町方向に進む。途中経路は葛袋神社神戸神社を参照。神戸神社を過ぎてから上記県道は南西方向に進行方向が変わり、3.5㎞程先で同県道171号ときがわ坂戸線との交点である「大橋交差点」に達し、そこからは171号線に沿って鳩山町市街地方向に南下する。鳩山町役場を過ぎた先の「今宿交差点」を右折し、200m程行った十字路を左に曲がると今宿八坂神社が見えてくる。
        
                         
今宿八坂神社正面
              民家が立ち並ぶ一角に静かに佇む社
 今宿地域は越辺川の左岸に位置する。「今宿」は『新編武蔵風土記稿』によると、嘗ては赤沼村と同じ一村を成していたが、元禄年間に二村に分かれたという。「民家四十、連住して宿駅に似たれど、馬次の所にもあらず、少の河岸場ありて近郷の材木・薪等を爰にて筏とし、江戸ヘ出せるをもて土地賑へり」と記載されている。
 地域名「今宿」は、越辺川対岸にある「苦林村の「古宿」に対する名称という。中世には鎌倉街道(上道)が通り、近世にも武蔵八王子などと上州方面とを結ぶ往還として利用されたという。
        
                  境内左側にある神楽殿
 
 神楽殿の右側に設置されている「八坂神社祭囃子」の案内板(写真左)。この
祭囃子の始まりは江戸時代の寛文3年(1663年)と古く、町の指定無形文化財となっている。
 また神楽殿の左側には倉庫があり、山車が保管されているのであろう(同左)。
 町指定無形文化財 八坂神社祭囃子
 この祭囃子は、寛文三年(一六六三年)京都の八坂神社を勧請して、悪病の退散を祈り祭祀したのが、その始まりとされる。以来、毎年七月の〇大祭には、神輿、山車、獅子の渡御があり、悪病除として近在からの参詣者も多い。囃子は京都の祇園囃子風の神田大橋流の旧囃子で、曲目は、「祇園囃子」「屋台」「にんば」「鎌倉」「数え唄」「子守り唄」などがある。現在保存会を結成し後継者の育成を行っている。
 昭和五十二年五月十八日指定 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
 社伝によると、当社は寛文一二年(一六六三)に京都の八坂神社から勧請したという。古くから諸人の出入が多く、度々悪病が流行したことから、その退散を祈って奉斎したものである。
『風土記稿』は、地内の神社について「熊野社 村の鎮守なり、天神社、天王社、以上は村民持」と記しており、熊野社が鎮守であったことがわかる。しかし、明治初年の社格制定では熊野社に代わって当社が村社に列した。この鎮守の交替は、当社が疫病退散という熊野社よりもより切実な信仰から祀られていたことがその要因であろう。
 明治四十二年に字安養寺の天神社と住吉社を合祀した。更に、昭和十三年にはやや北方の現在地に遷座した。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 
            境内の隅で道路沿いに屹立する大木(写真左・右)
   街中ゆえに社叢林はほとんどないが、やはり社には大木・巨木はお似合いであろう。
        
                                  拝殿からの一風景
       参拝当日は生憎の雨であったが、社にはそのしっとり感が良く似合う。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
      

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西大沼伊勢之宮神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市西大沼300
              
・ご祭神 天照大神 豊受大神
              
・社 格 旧西大沼村鎮守 旧村社
              
・例祭等 祈年祭 316日 春季祭 415日 例祭 113
                   
新嘗祭 1216
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2026243,139.2710281,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線で深谷市街地方向に進み、深谷市役所を過ぎた「田所歩道橋」交差点を右折、500m程北行すると、左側に西大沼伊勢之宮神社が見えてくる。
 社殿は東向きで、境内南側には社務所もあり、そこには広い駐車スペースも確保されている。
        
                 西大沼伊勢之宮神社正面
 深谷市・西大沼地域は、櫛挽台地先端部と上唐沢川左岸低地との境に位置する。標高は35m。中世は大沼郷のうちで、のち大沼村となるが、「郡村誌」では寛永2年(1625)東大沼村・西大沼村に分村したという。東は東大沼、西は曲田(まがつた)、南は萱場等の各地域に接している。『新編武蔵風土記稿 西大沼村条』では深谷領に所属。文明9年(1477526日の県道忻書状(鑁阿寺文書)によれば、道忻は県式部丞の病気平癒祈願のため「大沼郷之内橋本給分」を下野鑁阿(ばんな)寺(現栃木県足利市)に寄進したと「三島同宿中」に報じている
『新編武蔵風土記稿 西大沼村条』
 大電八社 村の鎮守にて八色雷大電八と唱、八色の雷神を祀し社なりと云、村持、
 伊勢内宮 村民持、
 伊勢外宮 西福院持
 西福院 新義眞言宗、針ヶ谷村弘光寺末、玉寶山と號す、古は庵なりしと云、本地藏を安ぜり、
        
              入り口付近に設置されている案内板
 伊勢之宮神社
 当社の創建は明らかではない。
「風土記」に「伊勢内宮 村民持、伊勢外宮 西福院持」と、あることから、かつては二社であったと考えられる。今日のように一社となったのは、明治時代初期のことと思われる。
 明治四十五年、萱場の稲荷神社、東大沼の神明社、御嶽神社、曲田の神明社、稲荷神社、八幡神社、及び西大沼の大電八社等を合祀し、社名を神明社から伊勢之宮神社と改めた。
 西大沼村以外にも、上敷免村・東大沼村・曲田村・山川村・それに田谷村などには、一様に伊勢内宮・同外宮・大神宮・神明社などと称して伊勢神宮が勧請されている。これらはすべて伊勢の御師の影響と思われる。
 なお、田谷村の名の起こりは、この御師がお祓大麻を檀那に配るために構えた宿舎に由来するともいわれている。
 平成十四年十二月 深谷上杉顕彰会
                                      案内板より引用

        
         案内板の奥にある「紀元二千六百年記念伊勢之宮神社合祀碑」
 紀元二千六百年記念伊勢之宮神社合祀碑
 神祇崇敬は肇國に基址にして之か祭祀は臣道の根幹なり。當社は元無格社神明社と稱したりしが明治四十五年一月二十四日當町大字萱場字池頭村社稲荷神社、大字東大沼字北村社御嶽神社、字新屋敷無格社神明社、大字曲田字六反田耕地村社稲荷神社、字下耕地無格社八幡神社、字櫻町耕地無格社神明社、大字西大沼字花小路村社八電八社の七社を合祀し又當大字緑小路無格社八坂神社を當境内に移轉し、同時に大字東大沼字北村社御嶽神社境内社岩戸神社、八坂神社、塞神社、字明間田無格社藏王者を合祀し村社に昇格して社號を伊勢之宮神社と改稱す。同日民有地七百五十七坪を官有地に組換え境内に編入の上境内施設を整備し大正五年三月二十八日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。斯して神社祭事の歸一及び民心の統一を期せり。然るに昭和十二年七月支那事變勃發するや皇軍連戰連勝偉大なる戦果を収むること茲に四星霜時恰も紀元二千六百年に遭う。乃ち當社氏子崇敬者胥謀り悠久たる皇紀を慶祝し之を記念するに、當社合祀の縁由を鐫して後昆に傳えんとす文を予に囑せらるるに及び筆を執りて梗概を叙すと云爾(以下略)
                                       碑文より引用
        
            参道の右手には「
神社改修記念碑」がある。
 神社改修記念碑
 当社は大里郡神社誌によれば大里郡深谷町大字西大沼字伊勢之宮三百一番地ノ二に在り、明治四 十五年一月廿四日八柱を合祀して村社に昇格の上村社伊勢之宮神社と改称した。
 伊勢之宮神社の祭神は大日霊貴命、豊受毘賣命、天照大御神、譽田別命、稲倉魂命、日本武命、大山祇命、別電命の八柱で当地の鎮守として御神徳高く氏子の崇敬日に篤きを加えたが、第二次大戦後は国民の敬神の念うすれ年と共に境内地は荒廃し合祀当時の建築と思われる社殿も亦幾星霜を経過して腐朽の著しいものがあった。奉賛会長中島宗市氏は氏子の安泰と国家の隆盛発展は先ず敬神観念の昂揚からとの信念で奉賛会役員と鳩首会議の上、境内整備と社屋の修理を発起し奉賛金六百八拾八万円を以って拝殿の修理をはじめ社号額の奉納、水屋の新築、更に社務所を移転改装し物置の新設ブロック塀の構築及び神域の整備等に着手し、昭和五十四年三月起工し昭和五十四年十二月二十五日めでたく竣工した。
 ここに氏子並びに関係各位の絶大な御援助御協力に対して衷心から感謝の意を表し併せて其の大要を記し後世に伝える(以下略)
                                       碑文より引用

       
                            参道の先に神明系の鳥居がある。
 深谷市西大沼地域は、寛永2年(1625)に東西の両村に分村される前までは「大沼村」といった。大沼の地名は、かつて利根川が氾濫を繰り返し、沼や沢が造られた地形の名残という。
 柳田国男氏の地名研究によれば、「沼」を名とした土地は沼によって耕地を開いたことを意味する。人々が沼に着目したのは、一つに天水場と違って水が涸れてしまうことがないこと、もう一つは要害の便があることを挙げ、小野や谷(や)について、新しい農民がこの方面に着目したことを意味すると述べている。このようなことから「沼」の地名が付くところは、水田耕作民たる私達の祖先の足取りを語るものとも言えよう。
       
                                    拝 殿
 この大沼地域は、南側に櫛挽台地が広がり北側には妻沼低地が形成されているその境にあたり、櫛挽面北端部は南北に台地を開析する浅い谷が発達していたと考えられていて、嘗てはその名のとおり湿地が多く点在し、旧石器時代の遺跡も少ないと思われてきた。
 しかし西大沼地域北側で見つかった「花小路(はなこうじ)遺跡」の発掘により、旧石器時代の石器、平安時代の掘立柱建物跡五棟、竪穴式住居跡六棟、中世の溝などが確認された。特に旧深谷市域では東方の幡羅遺跡に次いで2点目となる旧石器時代の遺跡が発見されたのは注目に値する。
 この遺跡では、古墳時代から奈良時代までの遺構・遺物が全く確認されていないが、平安時代の遺構は充実しており、廂を持つ建物は特に注目され、炭化米も出土しており、富を蓄えた有力者の居宅であったものと思われている。
        
                     本 殿
 中世には榛澤郡藤田庄に属していて、室町時代・深谷上杉氏の頃は、家臣大沼弾正忠の所領であった。深谷中学校南の西蔵寺は、大沼氏が開基創建したもので、この寺一帯が大沼館跡と推定されている。
 この大沼館跡は、深谷城の北西側で500m程の地点に所在していて、その距離の近さや、大沼氏と深谷上杉氏の主従関係を考えた場合、城下の重臣の屋敷を兼ねた出城のような存在であったかもしれない。
「大沼氏」は系統として残されている文献では「猪俣党岡部氏流大沼氏」及び「藤原姓大沼氏」「武田氏流大沼氏」3系統といわれている。

猪俣党岡部氏流大沼氏」
・秋元家藩臣秘録
「御譜代深谷衆七騎之内・大沼友左衛門。武州深谷新田と云所あり、先祖の旧跡にて、先祖岡部弾正と云。岡部六弥太忠純の後胤に今武州岡部駅に岡部六左衛門と云者あり。当時大沼弾正は岡部を改め大沼と名乗る」
大沼主馬。岡部六弥太忠純の三男岡部小五郎純憲より十一代の後裔岡部加賀守忠重なり、忠重代に岡部深谷大沼と云所へ移りてより右を以て名字とす、今に大沼村と云。忠重嫡子大沼外記忠宗、忠宗嫡子大沼弾正、次男大沼八郎兵衛は最上義光に仕、三男弾正左衛門は会津合戦に討死す、四男縫殿介嫡子大沼越後忠矩、忠矩嫡子大沼主馬忠興代より秋元家に仕ふ」

藤原姓大沼氏」
・新編武蔵風土記稿東大沼村条
古は上杉の家人大沼弾正忠藤原繁忠の所領なり。村内西蔵寺に墓あり、表に西蔵院殿従五位下弾正忠明安鳳誉居士・慶長十一丙午年十月二十五日、左に大沼弾正忠藤原繁忠、右に弾正忠八代孫大沼友左衛門忠賢とあり。この友左衛門は秋元左衛門佐が臣にして、近き頃当所に建しと云。村の北の方に屋敷跡あり」

武田氏流大沼氏」
大里郡神社誌
「榛沢郡上手計村二柱神社別当大沼院は、深谷城主上杉公の家臣大沼弾正忠繁の祈願所にて、恒例に依り同城へ年賀登城の際酒宴の席上礼を失し、弾正の怒に觸れ恐れて城内を逃出したるも、大雪の為め歩行意の如くならずして、困り居たるに、殿は乗馬にて追跡し遂に上手計村栗田家の門松の陰にて手打になりて斃れければ、遺骸を同地先へ埋葬せるに院の妻亦自害して失せけり。別当大沼家系図に依れば、其祖は晴信号信玄にして、其子信繁は永禄四年川中島に於て戦死せしものとあり。其子信連は大沼大和守と称し、其後大沼内膳正春は正保四亥年五月十八日病気に因り田舎に住す。後に大沼将監勝義は寛文三年十一月二日武州榛沢郡藤田庄櫛引の里(上手計村)に住居すと記載あり。是より後修験道に入り大沼院と称せしものの如し。当社参道の右側鳥居先宅地二畝二十一歩は旧別当大沼家の屋敷跡なり。明治三年復飾し大沼主馬・神主となる」
 
  社殿左隣に祀られている境内社・八坂神社  社殿右側には庚申塔や大黒天等が並んでいる。
       
             境内の隅に屹立するご神木(写真左・右)
        
                        街中にありながらも静かに佇む社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「熊谷Web博物館」
    「花小路遺跡」「埼玉苗字辞典」「境内記念碑文・案内板」等
 

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新井諏訪神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市新井541
              
・ご祭神 建御名方命
              
・社 格 旧新井村鎮守
              
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2233881,139.3070021,17z?hl=ja&entry=ttu
 沼尻熊野神社から小山川沿いの道路を南下し、備前渠用水を越えた左手にある「新井東部集落センター」の北側隣に新井諏訪神社は鎮座している。
「新井東部集落センター」には適度な駐車スペースあり。
        
                
新井諏訪神社南側の社号標柱
 社号標柱の正面に見えるのは「
新井東部集落センター」で、このY字路の右方向に行った先に新井諏訪神社の鳥居が左側に見えてくる。この角度からは丁度境内は真横を向いている配置。
 周囲は一面に広がる田畑風景の中に民家が数件固まって存在する閑静な地。北方向に伸びる道がY字路となるその扇型に広がる内包部に社がおさまっているような印象で、まるで左右に広がる道路が俗世間と一線を画すような結界にも見えてくるから不思議だ。
        
                 東向きの新井諏訪神社
『日本歴史地名大系』の「新井村」を参考に解説すると、新井村は、小山川が利根川に合流しようとするその下流域右岸に位置し、平均標高は34m程の沖積低地にある。東は蓮沼、西は上敷免(じようしきめん)、北は沼尻・棒沢郡成塚各地域と接している。
『新編武蔵風土記稿』では幡羅郡原ノ郷永井庄深谷領に所属し、東西十五里、南北十里。村の北辺を備前渠用水が東流し、耕作用水として利用していたという。
 また「和名抄」にみえる榛沢郡新居(にいい)郷の遺称地とする説もあり、歴史好きの筆者にとって、なかなか魅力的な地域である。
 この榛沢郡新居郷は、「和名抄」所載の郷。諸本ともに訓を欠いているが、賀美(かみ)郡の新居郷と同じく古訓は「にひゐ」であるという。「大日本史」国郡志と「日本地理志料」は現深谷市の新井を中心とする一帯としている。
       
 鳥居の手前で左側にある看板(写真左)。由来等書かれていたのであろうが、今は解読不明となっている。右側には「諏訪神社」と刻印されている社号標あり(同右)。
      参道左側にある神楽殿             右側には手水舎あり。
 「武蔵国賀美郡新居郷」に関していうと、「和名抄」所載の郷。同書高山寺本・名博本に新居とあるが、東急本・元和古活字本は新田とする。いずれが正しいか決めがたい。この「新居」郷は全国的な名称で、各地域にあるが、どの場所でも訓を欠いている。但し「延喜式」兵部省に伊予国の新居駅について「にひゐ」の古訓を伝えている。新田であれば多摩郡に同名郷があり、「迩布多」(高山寺本)、「尓布多」(東急本)の訓がある。
        
                                         拝  殿
               この社の創建時期、由緒等不明。
 新井諏訪神社から直線距離にして1.4㎞程南の明戸地域にも同名の諏訪神社が鎮座している。この社は元々「字新井」に鎮座していたが、明治四十二年近隣の社を合祀(字聖天木の住吉神社、字田中と字明ヶ塚の二社の稲荷神社、字新屋敷の神明社、字駒帰の市杵島神社、字本郷の大雷神社の六社)し、「字田中東」の八坂神社境内に遷座した。八坂神社はこの際、当社の末社となった。また、同時に社地が狭小であったために、氏子から土地の寄付を受けて拡張を行ったという経緯がある。
 
     拝殿、向拝部・木鼻部の彫刻        拝殿左側面には幾多の奉納札等がある。
                           この地域の信仰の深さであろう。
 筆者は当初この「字新井」は明戸村の小字と解釈していたが、『新編武蔵風土記稿』の小字名にはこのような名はない。一方「深谷市HP ふかやデジタルミュージアム」に紹介されている「大瓦堂明竹(たいがどうめいちく)」の出身地は「幡羅郡明戸村字新井(現在の深谷市新井)」と記載されているところから、この「字新井」は現在の深谷市新井と考えてよさそうである。
        
                                   本殿部を撮影
          本殿の左側には一基の石祠が祀られている。詳細は不明。
           また本殿奥にある「蔵?」は「神興庫」かもしれない。
 因みに1889年(明治22年)41 町村制施行により、蓮沼村、江原村、石塚村、沼尻村、藤ノ木村、堀米村、新井村、明戸村、上増田村、宮ヶ谷戸村が合併し幡羅郡明戸村が成立していて、その後、1896年(明治29年)41 幡羅郡が大里郡、榛沢郡、男衾郡と統合し大里郡となっているので、「幡羅郡明戸村字新井」の名称は、1889年から1896年の間となり、それ以降は「大里郡明戸村字新井」となる。この名称は1955年(昭和30年)11 深谷町、幡羅村、大寄村、藤沢村、明戸村と合併し深谷市を新設するまで続く。
 という事は、明戸諏訪神社の合祀が明治42年にあたるが、その年代はまさに「大里郡明戸村字新井」の頃であったと考えられる。
 
   社殿右側にも多くの境内社や石祠が祀られている(写真左・右)が、どちらも詳細不明。
 
          境内右側奥に鎮座する境内社・稲荷神社(写真左・右)
        
                   社殿からの風景

 総じて考えるに、明戸諏訪神社に関して、大里郡神社誌に「明戸村諏訪社は、慶長十六年、上野国高岡村の人田村外記・亀井宇丹なるもの奉授して、此の地に移住し来たって祠を建てたりと云ふ」とあるが、当初は「字新井」に鎮座していたわけであるので、その創建由来はそのまま「新井諏訪神社」の創建としてスライドできるのではなかろうか。
但しこれに関しては筆者の勝手な解釈であるため、真偽の程は現在全く分からない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「深谷市HP ふかやデジタルミュージアム」
    「埼玉の神社」Wikipedia」等

                      


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石塚稲荷神社


        
              ・
所在地 埼玉県深谷市石塚658
              ・ご祭神 《主》倉稲魂命
                   《合》大己貴命 豊城入彦命 天照大神 菅原道真
              
・社 格 不明
              ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2289284,139.3091945,17z?hl=ja&entry=ttu
 高島生品神社から埼玉県道45号本庄妻沼線を東行し、小山川に架かる「新明橋」を越えると、進行方向右側にこんもりとした石塚稲荷神社の社叢林が見えてくる。周囲は見渡す限りの田畑風景が広がる中、国道17号上武バイパスの高架橋が目の前に見えるその下にこの社は静かに佇んでいる。
 実は前に紹介した沼尻熊野神社からも近く、北東方向で、直線距離でも400m程しか離れていない。
 地形上、沼尻熊野神社や石塚稲荷神社は小山川右岸土手周辺に鎮座していて、これらの社が、河川に関係した社であることは一目瞭然だ。
*参拝日 2023年5月9日
        
                  石塚稲荷神社正面
 [現在地名]深谷市石塚
 利根川右岸の自然堤防上にあり、北を小山川、南を備前渠用水が東流する。西は榛沢郡高島村、北は小山川を境に上野国新田郡前小屋村(現群馬県尾島町)。深谷領に所属(風土記稿)。中世には上野国新田庄に含まれており、年未詳の新田庄内岩松方庶子方寺領等注文(正木文書)に「石塚村」とみえ、新田岩松氏の支配が及んでいた。永禄三年(一五六〇)四月、深谷上杉憲賢と上野金山城(現群馬県太田市)城主横瀬成繁は所領争いから幡羅郡石塚郷で激戦を交えている(「新田家御軍記写」石塚稲荷神社文書)
『日本歴史地名大系』
「石塚村」の解説
        
                綺麗に整備されている境内
 社の東側には国道17号上武道路が走っている。筆者は数年前からこの道路を利用して、群馬県のお社に散策することが多いのだが、この地域はすぐ北側が利根川が流れていて、「新上武大橋」という高架橋を上っていくと左側下部にこの社が見えていて、ここ最近に改築され、境内も綺麗になっていた。

 深谷といえば「ねぎ」というのが一般的に知られているところだが、実はレンガに深いゆかりがある町でもある。深谷市・上敷免地域にはかつて、明治20年(1887年)に設立された日本煉瓦製造株式会社のレンガ工場があった。ここは日本で最初の機械式レンガ工場で、郷土の偉人渋沢栄一翁らにより設立され、明治から大正にかけて、東京駅をはじめとする多くの近代建築物がここで生産されたレンガを使って造られた。 現在は、日本の近代化に大きく貢献したレンガ工場の一部が国指定重要文化財として保存され、今後一般公開して「レンガのまち深谷」をアピールできるよう、保存修理工事を行っているところである。 このように深谷とレンガは歴史的に深い関係を持つことから、「渋沢栄一翁の顕彰とレンガを活かしたまちづくり」を推進し、深谷駅など市の代表的な施設は必ずレンガ調にすることで、新しい施設づくりを通じ、レンガの色彩、温もり、美しさが訪れている人や住んでいる人に感動を与えるようなまちづくりを進めるとともに、JR深谷駅北側の一部エリアにおいては、市民が建築物や外構工事にレンガやレンガ調タイルを使用した場合、その規模に応じて補助金を交付する制度を設けているようだ。

 この社の境内全体には、「レンガチップ」の思われるチップが全体に敷き詰められていて、周囲の田畑風景からも一線を画し、遠目から見ても不思議な世界が広がっている。
        
                     拝 殿
           創建・由来等不明。建武元年(1334)以前ともいう。
 石塚稲荷神社付近の小字は「住殿(じゅうどの)」という。この地域は、丁度南西方向から北東方向に小山川が利根川に合流しようとする地点であるが。昭和初期の河川改修によって、旧妻沼町まで利根川に並うように流れを変えてしまった場所である。嘗て小山川はこの付近で利根川へ合流していて、この付近の利根川は扇状地河川の特徴が顕著であり、河床には島状の中洲が数多く形成されていたようだ。
 嘗ての利根川の流路形態は今よりも網状流であり、乱流して流路変動が激しかったので、古来から上野国(群馬県)との間で国境争いが頻発した地であったようで、この昭和初期の河川改修には、流路を安定させ、周辺住民の方々の生活を安心させる意味合いが大きかったのではなかろうか。(きまぐれ旅写真館HPを参考とさせていただいた
「〇殿」との名称は、埼玉県内に特に多く、概ね埼玉県の全域に分布している。特に荒川水系に所在する市町村、熊谷・坂戸市周辺が多い。
熊谷デジタルミュージアム」にもこの地名に関する記述がされていて、それらの解説を総合して解釈すると、水に関係した地名として説明されているようだ。また河川に近い場所に鎮座する社は、生産神として水を司ったり、川の氾濫を鎮める神(女神)、あるいは舟運の安全祈願として祀られているのだろう。
       
                           拝殿左側にある「社殿改築之碑」
            その手前に祀られている石祠二基の詳細は不明。
 社殿改築之碑
 住殿の社に神鎮まります稲荷神社は石塚郷人の鎮守神として世情如何に変われども我民族の道統たる敬神崇祖・神人和合の祭事は綿々と受け継がれて来た。明治の年に郷内の社を此の地に合祀して以来百余年の星霜を経過した本殿覆殿拝殿など積年の風雨により損傷甚だしく之が修理について憂慮するところであった。平成十一年四月二十五日に稲荷神社々殿改築整備奉賛会を発起し浄財の勧募を開始することとなり氏子崇敬者より多大な奉賛を拝受し平成十七年八月九日起工・平成十八年二月竣工することが出来た。茲に長期にわたる奉賛会役員の努力と関係各位の赤誠の結晶に深く敬意を表し又地区の弥栄を祈念するとともに荘厳秀麗な社殿の完成を祝し改築の記念とする
 平成十八年二月吉日  稲荷神社宮司江守義好撰並書
        
                      社殿改築之碑の左手前にある「天神宮」の石碑
        
                               社殿からの風景
            参道の先には国道17号上部バイパスが見える。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「熊谷デジタルミュージアム」
    「きまぐれ旅写真館HP」「境内碑」等
 

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