古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

肥塚伊奈利神社

 
        
                           ・所在地 埼玉県熊谷市肥塚27
                           ・ご祭神 倉稲魂命
                           ・社 格 旧肥塚村鎮守 旧村社
                           ・例祭等 祈年祭 222日 例祭 1014日 新嘗祭 1126
                     *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1574711,139.3878268,18z?hl=ja&entry=ttu
 熊谷市の北大通りを市役所方向に進み、熊谷商工会議所手前の信号のある十字路を左折し、街中を北上するように1.2㎞程進むと、進行方向左側に肥塚伊奈利神社の鳥居が見えてくる。
 専用駐車場はないので、西側に近隣する「成就院」の駐車スペースか、社に到着する手前で、右側にあるスーパーの駐車場を利用する。どちらか迷ったが、今回はスーパーの駐車場に置かせて頂いた。勿論、スーパーで買い物を済ませた後に参拝を行った
        
                街中に鎮座する肥塚伊奈利神社
 熊谷市肥塚地域は、嘗ての肥塚村で、『日本歴史地名大系』での解説によれば、荒川の沖積扇状地東端に位置し、自然堤防や後背湿地が発達している地域で、標高は26.5 m程。荒川旧河道の一部が南の熊谷宿・箱田村の境界をなしていたという。『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代は大里郡忍領に所属
 肥塚伊奈利神社の創建年代は不詳だが、成就院の境内鎮守社だったといい、神仏分離令に伴い、明治2年当地へ遷座、明治42年村内の12社を合祀している。
        
「熊谷Web博物館」には「肥塚」の地名由来に関して以下の説をあげている。
肥塚(こえづか)はヒツカの転化から
下美作左衛門大夫家泰の勲功を賞した感状に「武蔵国大里郡枇塚(ヒツカ)郷」と記されている。ヒツカ(枇塚)とは火塚の意味で、火の雨塚ともいい、火の雨が降ったときかくれた塚だという伝説をもつ塚がその名のおこり。
火塚(ヒツカ)(火の雨塚)→枇塚(ヒツカ)→肥塚(ヒツカ)→肥塚(コエツカ)
肥塚はヒツカの当て字で、肥塚と書いたため後世その意味を忘れて“コエツカ”と呼ぶようになった。〔埼玉県地名誌〕
肥塚は、枇塚・声塚とも書き武蔵七党丹党の肥塚氏の所在である。
新編武蔵風土記稿』には、「村内に肥塚殿という古墳があり、その碑には、康元二年(1257)の銘があり、村人たちの伝えによると、肥塚太郎光長の墓である」と記されている。
開墾の年代は詳ならざねど、村内に肥塚殿と称する古墳ありて、其碑は康元二年の銘あり、土人の傳へに此地の領主肥塚太郎九郎光長といひし人なりと、康元は後深草院御宇の年号にて【東鑑】の頃なれば、尤古く開けしことしらる、肥塚のことは猶下に出せり」
肥塚は武蔵七党の内丹党の枝流にして、古は爰に住し在名を唱へしものならん」
       
      正面鳥居の手前で右側にある社号標   鳥居を過ぎて右側にも社号標あり
        
                     拝 殿
 肥塚氏は肥塚郷を本貫地とし、その館跡は成就院周辺といわれている。肥塚氏系図によれば、熊谷氏の祖である直季が熊谷に住し、弟の直長が肥塚に住んで肥塚を称し、その祖となったとされている。承久3年(1221)、朝廷と鎌倉幕府との間に勃発した承久の乱では、肥塚太郎が熊谷平内左衛門(直国)らとともに幕府軍に加わり、近江国勢多橋(滋賀県大津市)の戦いで討死している。
 正平7年(1352)、美作左衛門大夫(本郷)家泰が、勲功により元は牧七郎兵衛のものであった大里郡桃塚郷を、室町幕府将軍足利尊氏から与えられている。江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では、この桃塚を枇塚(ひづか)に充てている。さらに、枇塚は肥塚の当て字で、肥塚は古くは「ひづか」とも呼んでいたとしている。また、応永3年(1396)に当地方で大般若波羅密多経の書き写しが行われたが、そのおり、村岡(熊谷市村岡)の如意輪寺担当分の巻を、肥塚の宝珠寺(所在地不明)で書写している。
 一方、上野国新田荘にあった世良田山長楽寺 ( 群馬県太田市 ) の住持、賢甫義哲が著わした『長楽寺永禄日記』の永禄8年(1565)の項には、北条氏邦が忍城を攻める際、同年9 15 日に三相(御正=熊谷市御正新田付近)の陣を払いコエ塚(肥塚)に着陣し、同月 20 日には越塚(肥塚)の陣を払い、奈良(同市奈良)に陣を進めたと記されている。
        
                     本 殿
 肥塚伊奈利神社の西側近郊にある「成就院」は「肥塚山阿弥陀寺」と号す真義真言宗の寺で、江戸愛宕真福寺(東京都港区)の末、古くは鎌倉胡桃谷大楽寺(神奈川県鎌倉市=廃寺)の末とされる。
 肥塚地内観音堂の北側には2基の板石塔婆が建立されており、康元2年(1257)銘のものが肥塚太郎九郎光長の碑とされ、阿弥陀種子(キリーク)が刻まれ、その下に無量寿経の偈文と「道義禅門」の名が記されている。もう1基は応安8年(1375)銘で肥塚八郎盛直の碑とされ、地蔵菩薩が刻まれ、その下の左右に光明真言と「道幾禅門」の名が記されている。
 肥塚氏供養板石塔婆は熊谷市指定有形民俗文化財で、昭和29113日指定されている。
 肥塚氏の本貫地は、この「成就院」付近と考えられよう。現在の肥塚の小字に堀ノ内は見当たらないが、『新編武蔵風土記稿 肥塚村条』にも、館跡に関係する小字「堀ノ内」が存在していた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌
    「熊谷市公式HP 肥塚公民館」「熊谷Web博物館」等
 

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妻沼若宮八幡宮

 熊谷市には不思議なお社がある。元妻沼町の最北端、利根川右岸堤防沿いにポツンと鎮座する「妻沼若宮八幡宮」。地形的には決してありえない場所に、「立派な本殿」がほぼむき出し状態(実際は屋根はついているが)で、見事な彫刻等が施されているのだが、保存状態が悪く、歴史に埋もれつつある、という印象が頭から離れない。
「立派な本殿」という言い回しは決して誇張表現ではない。この本殿の姿を見た人ならば一応にそう言うと思う。現在利根川河川敷特有の激しい雨風にさらされた為か、塗装等ほぼ欠落してしまい、屋根下部に僅かながら着色していて、当時の絢爛豪華なイメージを想像するほかない状態である。路面もコンクリートで舗装されてはいるが、鳥の糞もあちこちに見られ、「侘《び》・寂《び》」を信条とする我が日本人の美意識とはかけ離れた「朽ち果てられつつある」ものがそこに存在している。
        
               
・所在地 埼玉県熊谷市妻沼
               
・ご祭神 誉田別命(推定)
               
・社 格 旧若宮村鎮守(推定)
               
・例 祭 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2373134,139.3650602,15z?hl=ja&entry=ttu
 国道407号線を北上し、「刀水橋」交差点のすぐ先にある信号のある十字路を左折し、利根川堤防沿いに走って行くと「大里郡利根川水害予防組合第三号水防倉庫」の少し先に妻沼若宮八幡神社が見えてくる。
 周辺に適当な駐車スペースはないため、土手脇のスペースに路駐し、急ぎ参拝を開始する。
        
              利根川右岸堤防に沿う様に鎮座する社
 写真を見ても分かる通り、利根川右岸堤防に沿う様に鎮座する本当に小さな社である。創建・由緒等も不明。但し景観まちづくり地域ディスカッションHP」において、妻沼若宮八幡宮の事にふれている箇所があり、そこにはこのような記述がある。
かつて源頼朝が群馬の新田に来たときに奉られたという八幡宮が利根川の河川敷内にあったが、河川改修に伴い、土手の上に遷宮され、若宮八幡宮となっている。見事な彫刻等が施されていたが、保存状態が悪く、歴史に埋もれつつある(以下略)」
 つまり以前は利根川河川敷内に鎮座していたのだが、時期不明の河川改修の際に、現在の地に遷宮、若宮八幡宮となっているという。
        
                   鳥居の社号額
 由緒は不明。但し断片的な資料・書物等で、僅かにこの社を取り巻く地理的な環境がわかる。
・東山道武蔵路の、利根川の渡河地点は、現在では妻沼町の刀水橋付近を想定している説が有力視されている。この橋の付近は近世には「古戸の渡し」と呼ばれる渡し場があったという。古戸は「古渡」で、近世には既に古い渡しであったことを意味している。
『新編武蔵風土記稿 幡羅郡妻沼村条』
「渡場 当村より上野国へ達する利根川の船渡なり、対岸古戸村なるを以て古戸渡と呼ぶ、此道は熊谷宿より上野への脇往還なる」
【源平盛衰記】に、足利又太郎宇治川先陣の時の語に、足利より秩父に寄けるに、上野の新田入道を語て搦手に憑、大手は古野杉の渡をしけり、搦手は長井の渡と定たりと云々」
「【東鑑】治承四年十月右大将頼朝義兵を発し、大井・隅田南河を越て来り賜し條に、畠山次郎重忠長井渡に参会す」
        
          拝殿はなく、玉垣に囲われた屋根の下に本殿が鎮座する。
       
                    瑞垣と屋根で覆われた中に本殿が見える。
    本殿は流造りに妻入りの屋根を重ねた権現風で、周囲に彫刻が施された立派な造り
 玉垣の隙間からでも彫刻の雰囲気がよく見え、これほどの彫刻レベルを真近かで見られるのは、
                  少し興奮ものだ。
      
                                   本殿(写真左・右)
 江戸時代に頂点に達した「装飾建築物」の担い手である「上州の彫物師」は、この当時「妻沼歓喜院本殿」の再建に取り掛かっていた。この本殿もこの彫物師たちが手掛けたものであったのかは不明である。
        
                    社の手前右側にある庚申の石碑と八幡宮湧泉之記碑
八幡宮湧泉之記碑」
 延享5年(1748)造立。砂岩製。高93cm。裏面には、若宮八幡神社建立の縁起と、寛保の大洪水(寛保2年:1742)の際、井の水は濁り飲めず民衆が憂いていたところ、寄しくも清泉が湧き邨を救ったと記載されています
 社主:内田惣兵ヱ
 願主:橋上五郎兵衛、橋上茂右ヱ門
 本碑は、聖泉湧出碑(妻沼歓喜院)と同年銘のものであり、2基とも寛保の大洪水の際に泉が湧き民衆を救ったと刻まれています

寛保の大洪水
「寛保の洪水」とは、寛保2年(174281日に発生した利根川の氾濫のことで、近世最大の水害と言われている。この年が戌年であったことから「戌の満水」とも呼ばれているという。利根川上流・千曲川流域では、727日から降り出した雨が8月2日まで降り続き、水位の上昇は、平常より2mから場所によっては6mにも及んだことが記録されている。
 この時歓喜院では、丁度大工棟梁林兵庫正清の手によって本殿再建の途中であり、本殿の上棟のみ完了した後、この洪水の影響により造営工事を11年間休止せざるを得ない状況になる。この休止期間に、歓喜院の造営に関わった職人達により、市内上新田の諏訪神社本殿・石原の赤城久伊豆神社本殿・甲山の冑山神社本殿等の建築が行われている。
 その後、徳川幕府は、御手伝普請として利根川堤防の改修工事を外様大名を中心とした西国の大名に命じてその費用の負担を求めている。妻沼周辺の工事は、岩国吉川家が、妻沼の瑞林寺付近に工事現場を構えて築堤にあたっていう。
 その際、派遣された吉川藩の棟梁長谷川重右衛門と地元の大工棟梁林兵庫正清との親交が結ばれ、重要文化財歓喜院貴惣門の設計図や書簡が贈られているという。
                                「熊谷Web博物館HP」より引用


 ところで、旧妻沼歓喜院の東側に鎮座する旧村社・大我井神社の境内で、参道にて拝殿に通じる途中に「
唐門」がある。この唐門は明和七年(百八十六年前)若宮八幡社の正門として建立されたという。
        
                          現在は
大我井神社のある「唐門」
             
              唐門の柱に飾られている由来の木札
 大我井神社唐門の由来
 当唐門は明和七年(百八十六年前)若宮八幡社の正門として建立された 明治四十二年十月八幡社は村社大我井神社に合祀し唐門のみ社地にありしを大正二年十月村社の西門として移転したのであるが爾来四十有余年屋根その他大破したるにより社前に移動し大修理を加え両袖玉垣を新築して面目を一新した

 この立派な唐門を配置した江戸時代・明和年間当時の妻沼若宮八幡宮とは如何なる社であったのであろうか。少なくとも現在のような小規模な社ではなかったろうし、鎮座地も現在の利根川土手南岸ではなく、河川敷内にあったのであろう。現在の規模の社で、江戸時代当時のイメージをすると、この唐門ばかり目立ってしまい、社としての纏まりを欠いてしまう。
 また木札に記載されている大正2年10月に移転したという経緯も、もしかしたらこの時期に利根川の河川改修があったとも考えられる。どちらにしてもこの場違いな程見事な唐門を包括していたこの社は『新編武蔵風土記稿』にも「若宮八幡宮 持同上」としか記載されていない。謎多き社である。
*この妻沼若宮八幡宮の創建に関して、妻沼村の土豪「田久氏」の関与を考えているが、まだ推測段階で、しっかりとした考察ができているわけでない。検討課題がまた一つ増えてしまった。
        
                            利根川土手沿いに静かに鎮座する社
 筆者が長年悩んでいでいて、今現在でもしっかりとした解説ができないでいるため、この社をなかなか紹介できなかった理由は正にここにある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「熊谷Web博物館HP

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小泉稲荷神社


        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市小泉町231
              
・ご祭神 稲魂命(宇迦之御魂命) 大己貴命
              
・社 格 旧小泉村鎮守
              
・例祭等 月次例大祭 415日 中祭 121日 他
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3385264,139.2549405,17z?hl=ja&entry=ttu
 下渕名大国神社から国道17号上部バイパスを伊勢崎方向に進行し、4.4㎞程先の「あずま跨道橋」交差点を右折する。群馬県道68号桐生伊勢崎線を北東方向に1.3㎞進むと、「小泉稲荷神社」の立看板のある変則的な十字路があり、そこを右折、その後早川に架かる朱色の「小泉稲荷橋」を渡るすぐ先に有名な小泉稲荷神社の大鳥居が見えてくる。
        
              小泉稲荷神社に通じる巨大な一の鳥居
       回りに大きな建物等がないため、鳥居の大きさがひときわ目立つ。
                
高さは22.17m。竣工は昭和56
                この大鳥居から東方向に500m程先に小泉稲荷神社が鎮座する。
『日本歴史地名大系』「小泉村」の解説
 利根川右岸で、北は下之宮(しものみや)村、南は沼之上(ぬまのうえ)村・飯倉(いいぐら)村、東の利根川対岸は柴(しば)町(現伊勢崎市)。下之宮村境に矢や川の旧河川敷が低地をなす。
 正保五年(一六四八)前橋藩によって検地が行われ、反別合計一九町余(小泉村誌)。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方二六石余・畑方八八石余。近世後期の御改革組合村高帳では旗本戸田領、家数一六。前掲村誌によると天明三年(一七八三)浅間焼けによる降灰は七、八寸に及び、水田三町歩が利根川を流下した泥土で埋没したと伝える。この泥入りで沼之上村との境界が不明となり、両村の村方三役が立会いで境界を定めた(「取替議定書」高橋文書)。

        
                          東向きの小泉稲荷神社正面鳥居
   この鳥居に対して横向きに奉納・寄進した大小300基もの鳥居が参列に並んでいる。
 嘗て京都の伏見稲荷神社に参拝したことがあったが、そこには不思議な美しさと神聖性が辺りを包んでいたように感じたが、この社はやや窮屈そうな印象は正直ぬぐえない。
        
         東向きの正面鳥居に対してズラリと並んだ南向きの鳥居群
       
                        濃密な鳥居のトンネル
          奥行きもあるため、鳥居の先がここからでは見えない。
       
           鳥居のトンネルを抜けると正面に拝殿が見える。
             
      境内には「拝殿屋根改修記念碑」があり、社の由緒等が記されている。
 拝殿屋根改修記念碑
 幾百年の歴史を胸に社前にぬかづくとき、なぜか心の安のやすらぎを感じる小泉稲荷神社
 御祭神稲魂命(うかのみたまにみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)をお祀りする小泉稲荷神社は、人皇十二代崇神天皇の御代に豊城入彦命が東夷征討の際、案内の武臣が勅命によって山城国伏見稲荷大明神の御分霊を奉紀し住民の安穏と五穀豊穣を祈願し崇敬の道を教えるため創建されたと伝えられている
 其の後、慶長五年(1600年)この地の領主久永源兵衛は崇敬の念が篤く社殿を修理し敬神の範を示したために領民からは氏神としたと云われる。特に江戸時代末期の祭礼日には近郷近在の参詣人で非常に賑わったと云われている。
 明治・大正時代を経て昭和初期社殿を改築する。その後、昭和三十六年四月社殿運営の奉賛会を組織し崇敬者の多数の御協賛により現在の社殿を造営する。以来、稲荷大明神の御神威益々輝き、霊験あらたかな御神徳を仰ぎ、幸福を願う崇敬者は現在数十万人にも及ぶ賑わしさになる。
 社前には二百数十基にも及ぶ鳥居が奉納されている。尚崇敬者の真心を顕現し小泉稲荷神社の神域の基礎と神威の象徴を明らかにするため大鳥居建設奉賛会を組織し、万余人に及ぶ崇敬者の御協賛をいただき昭和五十六年四月高さ二十二・一七メートルの大鳥居を竣工する。
 平成十七年十二月に拝殿屋根改修を行う。

 小泉稲荷神社の創建は、崇神天皇の時代に、毛の国開拓の祖神とされる豊城入彦命が、東夷征討の折に山城国伏見稲荷の分霊を祀って創建したものと伝えられている。但し伏見稲荷大社の創建時期は和銅年間(708年〜715年)といわれているので、「崇神天皇」の御代とは年代は会わないが、それだけ歴史も古く由緒もあったのであろう。
 平安時代には、耶無陀羅寺という阿弥陀寺の境内社になっていたという。その後、安土桃山時代の慶長5年(1600年)、当地の領主である久永源兵衛に篤く崇敬された。
 大正2年に大東神社に合祀されたが、後に戻されて氏子の管理となる。
 現在は、大東神社とともに国定赤城神社の兼務社。
        
                     拝 殿
 
              拝殿の扁額                 本 殿
「拝殿屋根改修記念碑」に記載されている「久永重勝(ひさなが しげかつ)」は、戦国時代から江戸時代初期の武将。別名  源五・源六・源兵衛。
 久永氏は石見国久永を名字の地とする賀茂氏(賀茂吉備麻呂)の末裔を称する一族で、祖父重吉の代に三河国額田郡に移って松平氏・徳川氏に仕えた。
 徳川家康に仕え、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)長篠の戦いに従軍。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは敵兵2人を射殺す武功を上げ、家康より葵紋入りの矢筒と弓立を拝領し、遠江国榛原郡に200石を与えられた。天正18年(1590年)小田原征伐、天正19年(1591年)九戸政実の乱での陸奥岩出山城出張、文禄元年(1592年)肥前名護屋城出張に従う。名護屋城出張の際には自ら銀鞘の佩刀で出仕したために家康の感心を買い、兵糧300俵を賜っている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにも従軍。
 慶長8年(1603年)からは徳川秀忠に属し、武蔵国児玉郡に550石を与えられる。のち弓頭となり、同心10人足軽50人を預けられ、所領も武蔵・上野・常陸に52百石を与えられた(ただし、内2千石は同心足軽の知行)。慶長10年(1605年)秀忠の上洛に随行。慶長14年(1609年)武者船没収が発令されると、九鬼守隆・向井忠勝とともに淡路国へ出張している。慶長16年(1611年)常陸・下野に群盗が蜂起すると、服部保正・細井勝久と共にその鎮撫を命じられ、案内人を催してこれらを鎮定した。のち下野大光院の普請奉行となる。慶長19年(1614年)大坂冬の陣のために出陣し、休戦後の大坂城総堀埋め立ての奉行となる。慶長20年(1615年)夏の陣にも出陣。家督は子の重知が継いだ。
 
   社殿左側奥に祀られている白狐納所     本殿奥には奥宮が鎮座。平成2210月に新築

 小泉稲荷神社の南西部は、東小保方町地域があるが、その地域に鎮座する大東神社境内周辺は嘗て「旗本久永氏陣屋跡」と云われている。現在の東小保方地区は江戸時代には東小保方村と呼ばれ、徳川家の旗本久永源兵衛重勝の領地であった。久永氏は石見国(島根県)の出身であり、埼玉や茨木にも領地が点在する禄高三二○○石の旗本である。
 東小保方村は石高が1182石の村であり、久永氏は村の支配のためにこの地に陣屋を設けました。陣屋は東西75m、南北120mの大きさで、濠や土居が構えられていた。濠はその後拡張されて池となってしまい、現在では南池の南端と西池の東端にわずかに当時の面影が残されているのみであるという。
 南面には正門を有し、更に南へと通路が続いて細長い大手枡形となり、南端には木戸が設けられていたものと思われ、この形は陣屋特有のものであり、県内でも吉井や岩鼻の陣屋がこれと同じ形になっている。
 明治維新後陣屋は廃され、一時期小保方小学校として使われると共に、大正2年には周辺の神社を合祀した大東神社がおかれ今日に至っているという。
        
                          元小泉神社の奉納手洗盤
        
             伊勢崎市指定重要文化財 元小泉神社奉納手洗盤
 この手洗盤は江戸時代末期の元治元年(1864)、現在地より約二百メートル西にあった稲荷社の御宝前に奉納されたものです。その後大正二年にこの稲荷社が大東神社に合祀された時に、手洗盤も大東神社に移されてしまいました。以後長い間大東神社に置かれていましたが、昭和六三年、関係者の協力により現在地へ移転されたものです。
 手洗盤の正面には、旗本久永領陣屋元役人清水氏の時に近郷の香具師の張元(伊勢崎の銭屋、境の不流一家、赤堀の小松屋)が世話人となって奉納された事が記されており、残り三面には願主の田村丹治良・惣治良をはじめとする小泉・大原等近村の百姓約百名の献金者の名前が記されています。
 江戸末期において商業資本が農村地域に浸透しつつあった事とあわせて、現世利益の稲荷信仰の歴史をみる上で大変貴重なものです。(以下略)
                                      案内板より引用
 
                現在の手水舎(写真左・右)
        
           駐車スペース角に並んで祀られている石祠・石碑群
 境内の目立たない場所にひっそりと祀られているわけではないが、何となく丁重な扱いを受けてないような気がする。筆者としては、むしろこちらのほうが、地域に密着した歴史をもつ大切な宝物ではなかろうか、とふと感じた次第だ。


参考資料「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等
    

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妙義神社摂社・波己曽神社

 妙義山は、今から約6400万年前のカルデラを伴う火山の噴出物でできており、活動後の長年の浸食でカルデラ内の硬い火山の石だけが浸食に耐えて、現在の聳えるような岩山になった。
 妙義神社は、奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあり、老杉の生いしげる景勝の地を占めている。創建は「宣化天皇の二年(537)に鎮祭せり」と社記にあり、元は波己曽(はこそ)の大神と称し後に妙義と改められた。
 鎌倉時代までは妙義山は「波己曽山」と呼ばれ、周辺の行田、八城、二軒在家、中里、古立、行沢(波古曽神社)、大牛、諸戸(現在の吾妻耶神社)、菅原(菅原神社に合祀)などの集落には波己曽山を御神体として信仰する波己曽神社が複数社存在し、特に著名な7社は七波己曾と呼ばれていたという。妙義神社の波己曽社がその本宮的な存在とされる
 この中で行沢の波己曽神社、諸戸の波己曽神社(吾嬬者耶神社)は現存している。
        
              
・所在地   群馬県富岡市妙義町妙義6(妙義神社内)
              
・創建・建立 明暦2年(1656年)
              
・指 定   群馬県指定重要文化財
 妙義神社の総門近くに鎮座する摂社・波己曾神社。途中までの経路は妙義神社を参照。
 社の入り口のような存在である総門の先にはやや左側にずれるように石段があり、上った先に銅鳥居があるが、そのすぐ右手奥には波己曾神社が鎮座する。
 因みに摂末社(せつまつしゃ)とは、神社本社とは別に、その神社の管理に属し、その境内または神社の附近の境外にある小規模な神社のことで、摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)と併せた呼称である。枝宮(えだみや)・枝社(えだやしろ)ともいう。
現在は摂末社に関する規定は特にないが、一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、格式は本社が最も高くそれに次いで摂社そして末社の順とされる。本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境外に独立の敷地を持つものを境外摂社(けいがいせっしゃ)または境外社という。
        
                             妙義神社 摂社 波己曾神社正面
「上野国風土記」に「妙義大権現社記」があり、これによると宣化天皇二年(537年)に鎮座、とあるほか、一書に宝亀年中(770180年)草創とあり実は波己曽神社なるを・・・と記されている。主祭神は日本武尊。(妙義町誌下)537年鎮座が正しいとすれば、1480年ほどの長い歴史を有することとなる。
 また波己曽神社が妙義神社の前身であり、妙義の地主神と伝えられ現在でもそう変わりはないように思われる。平安時代の「上野国交替実録帳」には、波己曽神社は美豆垣、荒垣、外垣と垣が三重にめぐらしてあったと記される。この頃までは社殿はなかったといわれ、波己曽神社と社務所の間にある大岩・影向岩が磐座として信仰の対象で祭祀場であったとされる。この方式は日本最古の神社ともいわれる奈良の大神神社と似ている。大神神社は三輪山そのものをご神体として社殿を持たないが山上には三つの磐座が存在する。
        
                              拝 殿
 波己曾社(県指定重要文化財)
 妙義神社の前身は石塔寺であり、そのまた前身が波己曽神社であろう。波己曽神社は白雲山にあり、妙義山の信仰は金洞山や金鶏山よりも白雲山を中心に信仰を集めていた
妙義神社には、元々波己曽神が主祭神として祀られていたが、神仏習合により妙義大権現が主祭神となり、現在では日本武尊となっている。そして今では、波己曽神社は境内摂社に格落ちした形になった
 波己曽神社の信仰は古来よりのもので社殿は建立されていなかった。「波己曽」の由来は「いわこそ」であり、長い間に「い」が失われて「はこそ」になったものと考えられている
「いわ」は岩であり大昔は大岩が自然崇拝・信仰の対象になっていた
波己曽神社のご神体は、現在の妙義神社社殿北東の奥の院への登り口にある「影向岩」(えいごういわ)であったと推測される。
 奥の院は「大の字岩」の奥の岩窟であり、幅は約六メートル、奥行き約十メートル、高さ十メートルという大きなものである。
 大黒天や観音の石仏が祭られて山岳信仰の岩窟に似つかわしいものである。影向岩には注連縄が張られ、毎年十二月の「すすはらい」のときは未婚の男子が身支度をして清掃している。
 一説には、この大岩は天から降ってきたと伝えられている。物凄い音を立てて降ってきたが、ここが居心地が良いというので納まったまま苔むしたという。波己曽神は、往昔、そびえ立つ岩石を真下に立って仰ぎ眺めた先住人たちが、今にも倒れ落ちて自分の頭上に押しかぶさってくるのではないかと恐怖を感じたので、山の神信仰のように危難を免れるために祈願して祭ったものと言い伝えられている。
「上野国交代実録帳」に記された三重の垣を廻らした波己曽神は、古代信仰によるものであったから社殿を必要としていなかった。三重の垣とは、美豆垣壱廻、荒垣壱廻、外垣壱廻と表現されている。
 鎌倉時代までは妙義山は「波己曽山」と呼ばれ、周辺の行田、八城、二軒在家、中里、古立、行沢(波古曽神社)、大牛、諸戸(現在の吾妻耶神社)、菅原(菅原神社に合祀)などの集落には波己曽山を御神体として信仰する波己曽神社が複数社存在し、特に著名な7社は七波己曾と呼ばれていたという。妙義神社の波己曽社がその本宮的な存在とされる。
 
   拝殿正面右側に設置されている標札            拝殿内部
        
        
                  波己曾神社 本殿
『日本歴史地名大系 』「波己曾社」の解説
 [現在地名]妙義町妙義
 妙義神社境内に鎮座する。同社の地主神で、前身であると考えられている。白雲山麓の諸戸(もろと)・行沢(なめざわ)や碓氷郡松井田町行田(おくなだ)に鎮座する七波己曾社の中心。「三代実録」貞観元年(八五九)三月二六日条に「授上野国正六位上波己曾神従五位下」とあり、元慶三年(八七九)閏一〇月四日に従五位上、同四年五月二五日に正五位上勲一二等に叙せられた。
 長元三年(一〇三〇)の「交替実録帳」には「碓氷郡 勲十二等波已曾神社 美豆垣壱廻 荒垣壱廻 外垣壱廻」とあり、総社本「上野国神名帳」でも碓氷郡に記され「従二位波己曾大明神」とある。江戸の国学者奈佐勝皐が天明六年(一七八六)上野・下野両国を調査見学した際の日記「山吹日記」五月四日の条で、妙義神社境内に入ったのち「左りの方に出れは波古曾の御神います、これも御社いときよらなり、此御神は神名式には載られねとも、三代実録にしはしは見えたるふるきみやしろなれとも、今はかく側にいますやうになり、おしなへてはしる人もなし」と記す。
       
       社殿左側に鎮座する厳島神社   波己曽神社の敷地内に設置された
                        『妙義神社再建事業記念碑』



参考資料「日本歴史地名大系」「ニッポン旅マガジンHP」「Wikipedia」「妙義神社HP」等

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妙義神社

「上毛三山」は群馬県が誇る代表的な山である。赤城山・榛名山・妙義山を指し、三山にはそれぞれ赤城神社、榛名神社、妙義神社が鎮座し、人々は各山に宗教的意味を与えて崇拝、または種々の儀礼を行ってきた。
 妙義山は群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に位置し、九州の耶馬渓・四国の寒霞渓と並んで、日本三大奇景の一つとされる山であり、国の名勝に指定され、日本百景にも選定されている。標高は1,104mと決して高くはないが、そのギザギザと尖った奇岩が乱立し、表面に露出した荒々しい岩肌が創り出す自然景観の美しさが特徴的な山である。
 その絶壁と奇岩怪石が成す山容は浮世離れした雰囲気を醸しており、古くから信仰の対象となっていた。妙義神社は「上毛三山」の一つである妙義山の東麓に鎮座し、妙義山信仰の中心となっている神社である。江戸時代は関東平野の北西に位置し、江戸の乾(戌亥)天門の鎮めとして、家運永久子孫繁昌を願って歴代の徳川将軍家に深く信仰され、加えて加賀の前田侯外諸大名の崇敬も篤かったという。
        
             
・所在地 群馬県富岡市妙義町妙義6
             
・ご祭神 日本武尊 豊受大神 菅原道真公 権大納言長親卿
             
・社 格 国史現在社(波己曽神)旧県社
             
・例祭等 例祭 415日 山開き祭 55日 紅葉祭 113
   
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2998804,138.7652371,15z?hl=ja&entry=ttu
 群馬県富岡市に鎮座する一之宮貫前神社から群馬県道47号一ノ宮妙義線・同県道191号妙義山線で約11㎞先にある妙義神社。県道47号線・191号線の交点である「北山」交差点辺りからは、ほぼ正面に妙義山の稜線がハッキリと見え、表面に露出した荒々しい岩肌が真近かに見えてくる。
 妙義神社の正面鳥居から道を隔てた向かい側には「道の駅みょうぎ」があり、そこには十分な駐車スペースも確保されている。
*参拝日 2021年(令和3年)12月11日。
        
              「道の駅みょうぎ」から見る妙義山
 妙義山は、赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられ、白雲山・金洞山・金鶏山・相馬岳・御岳・丁須ノ頭・谷急山などを合わせた総称で、南側の表妙義と北側の裏妙義に分かれている。特に下仁田側から眺望できる金洞山 (1,094m) は別名中之嶽と呼ばれ、親しまれてきた。奇岩がいたるところに見られる妙義山の中でも中之嶽の景色は、中腹を巡る第1石門から第4石門を始め、ロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩・虚無僧岩といったユニークな名前の岩石群は日本屈指の山岳美と讃えられている。
『妙義』の名称の由来は諸説あり、後醍醐天皇に仕えた権大納言長親卿が、この山を眺め、明々巍々(めいめいぎぎ)であるところから「明巍」と名付けた事が、後に「妙義」となったと言われた説や、威厳があることを表す「明々巍々(めいめいぎぎ)」と例えられたことが名前の由来となったという説もあるが、実際のところは不明である。
        
                                  妙義神社正面大鳥居
 史実によれば「権大納言長親卿」と記載されているこの人物の本名は花山院長親(かさんのいん ながちか)で、南北朝時代から室町時代にかけての公卿・学者・歌人・禅僧。生年は1347年といわれ、後醍醐天皇の崩御した1339年からかなり後代になってから南朝で活動した人物であり、両者の接点はないに等しい。正長2年(1429年)710日に薨去。享年83ともいい、終焉の地に関しては遠江国耕雲寺説や上野国妙義山説も嘗てあったようだが、長親が晩年地方に下ったとする史料はなく、やはり京都東山の耕雲庵にて薨去したとみる説が有力であるようだ。
       
 妙義神社正面鳥居を過ぎて、上り坂の道を進む。最初は両側に売店も数店あるが(写真左)、社の社号標柱の地点からは境内となり、厳かな雰囲気と変わる(同右)。
        
     社号標柱を過ぎて、上り坂を登り詰めると正面に朱を基調とした総門がある。
        朱色にカラフルな色彩が素晴らしい正に妙義神社の入り口のような存在。
 旧白雲山石塔寺の仁王門だったが、神仏分離の時代を経て現在は神社の総門となっているが、左右に仁王像が祀られている。江戸時代後期(1773年)の建立。三間一戸八脚門、切妻造、銅板葺。国指定の重要文化財(昭和56年・1981 65日)となっている。

 妙義神社総門(旧白雲山石塔寺仁王門)
 石塔寺(神仏習合の妙義大権現)の旧寺域には社務所(建立年代不詳)と御殿(嘉永6年/1853年築)が置かれています。 総門は、安永2年(1773)築で、国の重要文化財。
 江戸時代後期の八脚門の代表的な遺構となっています。
 白雲山石塔寺の仁王門だったので、廃仏毀釈で石塔寺が廃寺となり、妙義神社の総門となった現在も左右に仁王像が祀られています。
 総門をくぐると銅鳥居で、その先に165段の石段がありますが、平成17年のNHK大河ドラマ『義経』で、牛若丸が修行する鞍馬山の設定でロケ地となったところ。
 ちなみに石塔寺は、房州の石堂寺(いしどうじ/南房総市/当初は「石塔寺」)、近江の阿育王山石塔寺(いしどうじ/東近江市)とともに日本三石塔寺に数えられていました。
                                「妙義神社公式HP」より引用

        
                    総門の近くに設置されている「妙義山歩道」の案内板
        
    総門の先には石段が2か所あり、2番目で斜め左側の石段の先には銅鳥居がある。
                 群馬県指定重要文化財 

             
               銅鳥居の左手前側には3本の大杉が聳え立つ。
                   通称「三本杉」
 妙義神社・唐門の石段からほぼ直線上にこの3本の杉があり、また3本の杉の木の真ん中には不思議な気の流れがあるようで、この空間に入り、お願い事をする方が多いようだ。妙義神社一のパワースポットと言われている。 
        
 銅鳥居から参道を進んで石造の「太鼓橋」を渡ると、上部神域へと一直線に延びる165段の石段が見えてくる。
       
                165段の勾配のある石段を撮影。
 写真左側は上部神域へと一直線に延びる石段の様子。右側は石段から下の風景を撮影したもの。石段は上に上がるにつれ、樹木の根に押されたためか、異様に凸凹しているところが何カ所かあり、正直きつい。途中何度か休憩を入れながらやっと終点までたどり着くことができた。
       
                 石段を上り切った先が神域の入口となる隋神門
                              この門も群馬県指定重要文化財
        
                     唐 門    
 隋神門を潜りぬけて、左側に曲がり、右側に見える石段を上り切ると豪華絢爛な唐門が見えてくる。-宝暦六年(1756年)の建立。妻を唐破風にした銅茸平入りの門で、これらの建物の周囲は彫刻でもって埋められている。昭和56年(1981年)65日国重要文化財に指定。
       
                                  唐門を裏側から撮影
       
                                     拝 殿
 国重要文化財 本殿・幣殿・拝殿(合わせて1棟、権現造)
 江戸時代後期(1756年)の建立。本殿、桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造。幣殿、桁行三間、梁間一間、一重、両下造。拝殿、桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風。

 創建は、宣化天皇2年(537年)と伝わる。
 元は波己曽(はこそ)の大神と称し後に妙義と改められた。神仏習合時代、妙義神社には別当(神社を管理する寺)として上野寛永寺の末寺である白雲山高顕院石塔寺があった。現在の妙義神社の総門は、明治の初めに廃寺となった石塔寺の仁王門である。神社の総門となった現在も、左右に仁王像が祀られている。
 現在の社殿は、宝暦年間(1751 - 1764
年)の大改修によるものである。古くは波己曽(はこそ)神社といい、『日本三代実録』に記載がある。
 
    拝殿上部に掲げてある黄金の扁額             拝殿内部
             
              社殿の奥に回ると、天狗社がある。
 妙義山には天狗が住むという言い伝えがあるそうで、天狗は一部の山伏が死後に転生した姿だとも言われている。ここにも妙義山が山岳信仰の山である事がわかる。
        
                     本 殿

 参拝中、ふと思ったことがある。日本人にとって「山」とはどのような存在、対象物であったのだろうかと。
 日本の国土面積の約 4 分の 3 は山地や丘陵地である。関東平野などの一部の地域を除けば、ふと周りを見渡せば、何かしらの山を見ることができよう。それ程山は身近な存在である。
 しかし一部の山は里人も崇める程度に留める「霊山」として祀られる場所も多々存在する。
 日本の古神道においても、水源・狩猟の場・鉱山・森林などから得られる恵み、雄大な容姿や火山などに対する畏怖・畏敬の念から、山や森を抱く山は、神奈備(かんなび)という神が鎮座する山とされ、神や御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じられ、時として磐座(いわくら)・磐境(いわさか)という常世(とこよ・神の国や神域)と現世(うつしよ)の端境として、祭祀が行われてきた。これらの伝統は神社神道にも残り、石鎚山や諏訪大社、三輪山のように、山そのものを信仰している事例もみられる。
 山そのものを神体としたり,山の神と田の神が交代する信仰や山人伝承,死霊が山にとどまり祖霊化する信仰等は,こうした観念に基づく。

 その後飛鳥時代に伝来されたという仏教においてでも、世界の中心には『須弥山(しゅみせん)』という高い山がそびえていると考えられ、平安時代に空海が高野山を、最澄が比叡山を開くなど、山への畏敬の念は、より一層深まっていった。平地にあっても仏教寺院が「○○山△△寺」と、山号を付けるのはそのような理由からである。
 日本における、山岳修行の開祖は役小角(えんのおづぬ)ではあるが、山岳信仰が本格的に日本古来の古神道や、後に伝来してきた仏教(特に天台宗や真言宗等の密教)への信仰と結びついて、「修験道」という独自の宗教が生み出されるのは平安時代からである。
 修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、密教などの要素も加味されて確立した。
 平安中期以降山岳修行により呪術的な力を獲得して宗教活動をする山伏(修験者)が出現して,日本の山岳信仰を特徴づけた。修験者の指導によって講が組織され,本来仰ぎみる信仰対象であった山岳は,しだいに参詣登拝の対象となる。霊山・名山の多くは江戸時代に庶民の登拝対象になった。明治期以降うまれた多数の教派神道は,こうした山岳を拠点としているとの事だ。


 社殿での参拝を終了し、帰りは一般参道ではなく、外回りのルートを利用した。この一帯も境内で、手入れも行き届いていて、水神社や愛宕社等の石祠が祀られている。
      
           水神社の石祠         水神社の南側には愛宕社が鎮座
 
 この下り坂のルート途中には多くの大岩・巨岩が見られる(写真左・右)。考えてみれば、山岳信仰は、山を崇め奉る信仰である。この信仰は基本的には山や、山にある大木、巨大な岩を信仰母体とすることが多い。
 


参考資料「妙義神社公式HP」
「山川 日本史小辞典 改訂新版」「日本大百科全書(ニッポニカ)
    「ニッポン旅マガジンHP」「Wikipedia」等

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