古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

般若秩父大神社

 法性寺は、曹洞宗派の寺院で、奈良時代、行基によって開山されたといわれている。行基は当地で観音菩薩像を彫り、岩場に安置した。これが当寺の起源である。その後、延暦年間(782年- 806年)に弘法大師空海が大般若経600巻を奉納したと伝えられる但し、文献上では1232年(貞永元年)での眼応玄察の中興の記載が初見となり、その頃は密教系の宗派であったと推測されている。その後江戸時代の智外宗察の再中興の際に曹洞宗に転宗した
 なお、本堂から100m奥に行くと「観音堂」があり、更に奥へと進むと「奥の院」があるが、鎖場もあるため、一種の登山をするつもりで、装備と体力と気力を持って臨む必要があるとのことだ
 この法性寺に1488年(長享2年)の秩父札所番付(長享番付)が残されており、室町時代の後期には秩父札所が定着していたと考えられている。これによると当時の秩父札所は1番から33番までの33ヶ所で20番以外は全て現在とは番付が異なっている。長享番付の1番は現在17番の定林寺、33番は現在の34番の水潜寺であり、現在1番の四萬部寺は長享番付では24番、現在2番の真福寺は番付外である。因みに長享番付での法性寺は、第15番で、今の番付(32番)と異なっていた
 その後、16世紀後半に百観音信仰の風潮がおこり西国・坂東に比べて歴史が浅く地域的にも増設の条件にも恵まれた秩父の札所が増設されて34ヶ所になり、番付も江戸からの参拝者の便を考えて現行の番付になったと考えられている
 般若秩父大神社の創建時期は明らかではないが、法性寺の近くに歓喜天(聖天)を祭ったのが起源と伝えられ、もと「聖天社」と称した。神仏分離後、秩父神社の祭神を観請し「秩父大神社」と改称されたという。
        
            ・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町般若2690
            ・ご祭神 八意思兼命 知知夫彦命 天之御中主命
            
・社 格  不明
            ・例祭等 例大祭 415日(聖天神楽)
  地図 https://www.google.com/maps/@35.9974929,139.019078,17z?hl=ja&entry=ttu
 小鹿野町般若地域に鎮座する日本武神社から埼玉県道209号小鹿野影森停車場線を500m程南下し、「長若」交差点を右折する。その後道なりに西行1.6㎞程先で、進行方向右側に般若秩父大神社の広い境内が見えてくる。
         
          広い境内の中央付近にポツンと立つ般若秩父大神社の鳥居
『日本歴史地名大系』 「般若村」の解説
 赤平川右岸の山間地に位置し、西は山嶺を境に伊豆沢村、東は長留(ながる)川を境に長留村、南は贄川(にえがわ)村(現荒川村)、北は赤平川を境に下小鹿野村。近世初めは幕府領、寛文一一年(一六七一)常陸下館藩領となったが、天和二年(一六八二)幕府領に復する。明和二年(一七六五)旗本松平領となり、幕末に至ったと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。田園簿では高二八四石余・此永五六貫九三一文とある。「風土記稿」によれば、家数一六三、村内は「上中下三部ニ別レテ」名主も三人置かれていた。
 
     道路沿いに立つ社号標柱          鳥居の東側にある社務所
        
                   鳥居の東側正面には、拝殿や神楽殿が見える。
        
                    神楽殿
 毎年4月15日の祭礼に神楽殿で奉奏される神楽は、横瀬村根古屋の神楽(武甲山御嶽神社里宮神楽)の神楽師から伝授された。神楽の曲目は、奉幣、翁ほか十四座が伝えられ楽は笛、大太鼓、小太鼓、鼓からなるという。
        
                    拝 殿
        
             境内道路側に設置されている案内板
 小鹿町文化財案内
 1,聖天宮(秩父大神社本殿)
 昭和三十四年八月二十四日指定有形文化財聖天様と親しまれるこの神社は創立時期は明らかでないが、法性寺の近くに歓喜天(聖天)を祭ったのが起源と伝えられ、もと「聖天社」と称した。神仏分離後、秩父神社の祭神を観請し「秩父大神社」と改称された。
 現存する棟札には寛政八年(1796年)の再違と記されている。桁行16m、梁間13mで奥行13mの向拝が付く。欅材の入母屋造、柿茸きで四面に千鳥破風と唐破風が付き、柱、軒周りなどに精巧な彫刻と彩色が施され、装飾的な社殿建築である。
 1,聖天神楽
 昭和五十四年二月二十一日指定無形民俗文化財
 毎年四月十五日の祭礼に神楽殿で奉奏される神楽は、横瀬村根古屋の神楽(武甲山御嶽神社里宮神楽)の神楽師から伝授された。神楽の曲目は、奉幣、翁ほか十四座が伝えられ楽は笛、大太鼓、小太鼓、鼓からなる。
 地元では神楽の保存会がつくられ、祭礼には大人と共に小中学生も熱心に神楽を舞っている。
 昭和五十八年三月三十一日
 小鹿野町教育委員会
 小鹿野町文化財審議委員会
                                      案内板より引用
       
            精巧に彫刻を施されている本殿(写真左・右)
        
              境内社務所側に祀られている石祠群



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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下小鹿野八劒神社

 秩父郡にある小鹿野町は埼玉県西部で、秩父盆地の北西部に位置している。小鹿野町の歴史は古く、今から1,000年以上前の平安時代中期に編纂された「和名妙」においては、古代の秩父郡「巨香(こか)郷」が小鹿野の始まりといわれていて、一方、丹党系図(諸家系図纂)では丹党中村冠者時重の裔時景が当地の開発領主となって小鹿野氏を号している
 小鹿野町の中心市街地は、嘗て江戸と信州を結ぶ上州街道が通り、国道299号を軸として産業・経済・交通・文化が開け、明治大正の頃は、絹織物を運ぶ重要なルートとして栄えていた。そのため今も街道筋には絹を扱っていた商家や旅籠などが軒を連ねている。西秩父の物資の集散地として繁栄した小鹿野町の基礎が、約400年前のこの時代に築かれたことが分かる。
        
            
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野1380
            
・ご祭神 日本武尊
            
・社 格 旧下小鹿野小名信濃石鎮守
            
・例祭等 例大祭(4月第1日曜日) 秋季大祭(10月第1日曜日)
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0131909,139.0252661,18.25z?hl=ja&entry=ttu
 下小鹿野八劒神社が鎮座する下小鹿野地域は、小鹿神社が鎮座する小鹿野地域の東側にあり、国道299号線及び、国道の南側を沿うように流れる赤平川の左岸までの狭く細長い低地面に住宅街を形成している。
 途中までの経路は小鹿神社を参照。国道沿いに立つ大鳥居を左手に見ながら、3㎞程東行する。左側に「鳳林寺」の看板を過ぎた場所に「信濃石会館」があり、そのすぐ東隣に隣接して下小鹿野八劒神社の鳥居、及び社の境内が見えてくる。上記会館には適度な駐車スペースも確保されており、そこの一角に停車させてから参拝を開始する。
        
               国道沿いに鎮座する下小鹿野八劒神社
『日本歴史地名大系』 「下小鹿野村」の解説
 赤平川の左岸、上小鹿野村の東に位置する。同村からの往還が地内泉田で分岐し、一方は赤平川に沿い北の下吉田村(現吉田町)に、もう一方は赤平川を越え対岸の長留(ながる)村に向かう。古くは上小鹿野村と一村で小鹿野村・小鹿野郷などと称していたが、元禄郷帳作成時までに分村したという。元禄郷帳に下小鹿野村が載り、高七九六石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。ほかに当地鳳林(ほうりん)寺領(高五石)があった。明和二年(一七六五)旗本松平領となり、以後同領で幕末に至る(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。「風土記稿」によれば家数二九八、農間に男は山稼をしたり、女は養蚕や絹・木綿織などを行っていた。
 元和元年(一六一五)の年貢割付状(田家文書)には「小鹿野之郷」とあり、下小鹿野村と合せて本高は二一四貫三六八文。

 
      鳥居の左隣に置かれている巨石(写真左・右)。信濃石という。
 この巨石には前面に四角いくぼみがある。また鎮座地から西側にある三叉路は「信濃石」交差点といい、『新編武蔵風土記稿 下小鹿野村』の「小名」にも同名の字がある。
『新編武蔵風土記稿 下小鹿野村』
 信濃石 
 此石の有る所を、小名信濃石と唱ふ、凡一丈四方の大石にして、一尺四方許の穴有り、此穴に耳を入れ聽ときは、人語の響ありと云、往昔信濃國より馬に荷物を駄し來りしに、かたヾ荷物の輕く傾くかたへ、此石を挟み來り、
 此所に捨置しが、今はかゝる大石となりしと、土人の伝傳へなり、
        
        「信濃石会館」前に設置されている「信濃石会館建設記念碑」
「信濃石会館建設記念碑」
 信濃石は古墳時代のひなめ塚があり、桑畑からは多くの須恵器の破片が出土されている。
 この地は往時から下小鹿野の中心地で、長慶山鳳林寺や高札場があり、武州街道のゆききが多く市が立つ程の盛況ぶりで「しなのいち」ともいわれた。当時宿場であったころ信濃の国から商人が馬の背鞍のつり合いにと、運ばれて置いた石が、今はかゝる大石となりしといわれ、この一丈四方の大石のあるところから地名がつけられたといわれている。
 近年、人口の増加に伴い昭和四〇に建設された八剱神社々務所兼集会所が老朽化したヽめ撤去し、区民の総力で地区発展のよりどころの場として信濃石会館及び消防器具置場を昭和五十六年に建設した。
 これを祈念してこの碑を建立する。(以下略)
                                                                            案内板より引用
『まんが日本昔ばなし データベース』には、「信濃石」の伝承・伝説として「石の中の話し声」を紹介している。この「石」とは勿論「信濃石」である。
 =石の中の話し声
 毎年、草木が芽吹く季節になると、ここ秩父(ちちぶ)の里に山を越えて信濃の国から行商にやって来るお爺さんがいた。そして近くの家に住む兄妹が、いつものこのお爺さんを迎えるのだった。
 今年もお爺さんは、たくさんの荷物を馬に載せて山を越えてきた。ところが、里一番の急な峠に差し掛かった所で、おじいさんは急に胸を押さえ、苦しそうに倒れ込んでしまった。兄妹は慌てて、お爺さんを家まで運んで看病した。この兄妹、実は数年前に両親を病気で亡くしており、苦しむお爺さんを見て、他人事には思えなかったのだ。
 さて、それから三日経つと、お爺さんの容体は回復し、布団から起き上がれるようになった。兄妹がお爺さんにお茶を差し出すと、お爺さんはちょうど夢でガラガラと茶釜でお湯を沸かし、郷里のお婆さんと茶を飲んでいたと言う。
 しかし、それから数日経ったある日、お爺さんの容体は急変し、兄妹の看病の甲斐もなく亡くなってしまった。
 お爺さんは最期に、世話になった兄妹に馬と荷物をせめてものお礼に上げること。そして、馬の荷のつり合いを取るために載せてきた二つの石を、故郷の信濃の国が見渡せる所に置いてほしいと頼んだ。
 兄妹はお爺さんの遺言通り、この二つの石を峠の鳥居の前に置いた。すると不思議なことに、握りこぶしほどの大きさだった石は、だんだん大きくなり、とうとう大人が五、六人で抱えるほどになった。その上、何やら石の中からガラガラと音がするのだった。
 兄妹が石に耳を当ててみると、石の中からガラガラという音と、人の声が聞こえてきた。その声は、お爺さんが故郷のお婆さんと、仲良く茶を飲みながら話しているように聞こえるのだった。
 この石はその後、誰言うとなく「信濃石」と呼ばれるようになった。
 

   国道沿いながらも静まり返った境内       拝殿手前の石段左側にある案内板
 八劍神社  御由緒 小鹿野町下小鹿野一三七八
 ◇御神体の剣が埋められた伝承が残る古社
 当社は赤平川に沿って開けた農業地帯である信濃石地区に鎮座する。
 第十二代景行天皇の皇子、日本武尊が東国平定の際に当地に立ち寄り信濃石の神木であった大欅の傍らで休息したという故事から、延暦二十年(八〇一)八月に土地の人々が日本武尊を偲んで祠を建てたのが当社の始まりといわれる。
 また一には、北条氏の家臣が兵火で当地へ落ちる際に、三種の神器のひとつである剣を持参し、その剣を御神体として祀ったことから、八劍社の名がついたとも伝える。
 この北条氏の家臣の末裔とされる柴崎家にあった古記録(小鹿野大火で焼失)に、往時の御神体であった剣が村に埋められている旨が記されていたため、総代による発掘調査が試みられたが剣は発見出来なかった。尚、陣には御神体のほかに、石棒と阿弥陀如来を表す梵字を刻んだ板碑が納められている。
 明治以前は本山修験の寿宝院(通称を護摩堂と云い、大正初期まで残されていた)が別当として当社を管轄していた。
 昭和十九年(一九四四)の小鹿野大火に際しては、社殿全焼の被害を受けたが、同二十三年に三田川小学校の旧奉安殿を用いて本殿が再建され、同四十四年には拝殿が落成し、今日に至っている。
◇御祭神 日本武尊(以下略)
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 秩父郡下小鹿野村』
 八剱社 
 例祭八月八日、小名信濃石邊の鎭守なり、本山修驗入間郡越生鄕山本坊の配下、壽寶院ノ持なり、

 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
        
             拝殿左手前に祀られている境内社・石祠
        
           「信濃石」の左隣にある「高札場(こうさつば)」
      小鹿野町指定史跡  高札場(こうさつば)1棟 昭和37920日指定
 江戸時代、上意下達の方法として各村々の中央・代官・名主等の屋敷前に高札場が設けられていた。この高札場は、下小鹿野村の高札場で江戸時代末の建造と推定される。間口2.65m、奥行1.56mを測り、栗材が使用されている。屋根は切妻造で高さ約2.7m、柱は欅材を用いている。平成7年に復元修理されたという。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「小鹿野町HP」「小鹿野町観光協会」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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黒山熊野神社

 黒山三滝は、埼玉県入間郡越生町にある3つの滝の総称であり、県立黒山自然公園に属し、1950年には新日本観光地百選の「瀑布の部」で第9位に選ばれた。
 荒川水系越辺川源流部の三滝川にかかる男滝(おだき)、女滝(めだき)と、支流の天狗滝の3つからなる。落差10 mの男滝と落差5mの女滝は2段に流れ落ち、上が男滝で下が女滝となっている。落差20 mの天狗滝は男滝・女滝と少し離れた所にある。霊山に天狗が住むということからこの名が付いたとされる。
 毎年7月の第1日曜日には1951年に県立黒山自然公園に指定されたのを機に始められた滝開きの儀式が神主・巫女・僧侶・修験者・天狗によって執り行われる。
 室町時代に山岳宗教修験道の拠点として開かれ、滝周辺にはいくつもの宗教施設が作られ修験者の修行の場として知られてきた。また、越生町津久根出身で江戸吉原遊廓の副名主だった尾張屋三平が、男滝・女滝を男女和合の神と見立てて江戸に紹介し吉原の信仰を集めた。そのとき三平が建てた道標は現在も黒山三滝入口付近に残っている。
 天狗滝の奥の大平山には、修験者栄円の墓や役小角の像がある。
 2000年(平成12年)55日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。
        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町黒山674
             ・ご祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.com/maps/@35.9422552,139.254235,17.04z?hl=ja&entry=ttu
 大満八幡神社から埼玉県道61号越生長沢線を3㎞程南下すると、県道沿いに鎮座している黒山熊野神社。県道を走り、社に近づくにつれて、一際目立つご神木である立派な一対の大杉が目印となる。社の手前には「黒山三滝 町営駐車場」も完備されており、そこに車を停めてから参拝を開始する。
            
                  黒山熊野神社正面
 この地は越辺川源流域に位置し、川底が透けて見える程綺麗な越辺川が社の対岸にあり、一とき目を閉じると、川のせせらぎが耳奥に心地よく響く。周囲は山奥独特の深い森林が広がり、深呼吸をすると、体一杯に綺麗な空気が体内の余計な異物等を排除してくれるような心地よい気持ちになる。
 
        社から道路を隔てて南北方向に流れる越辺川(写真左・右)
       ときがわ町・鳩山町同様にこの越生町の河川も清流が非常に多い。
 この社の前に参拝した龍ヶ谷熊野神社の印象は、人が日々織りなす喧噪から完全に隔絶された別次元の世界が広がり、社全体を囲む深き森と、苔生した様が何とも幻想的な石段、そして規模は小さいながらも随所に精巧な彫刻が施された立派な社殿が相まって、周囲一帯に広がる閉鎖的な暗がりの世界が、逆に社の神聖性・荘厳さを増長する演出がされているのに対して、黒山熊野神社は、同じく深い森には囲まれているが、県道周囲が民家も立ち並び、観光地化もなされていて、社周辺は明るい雰囲気が広がっている。おそらくは、「黒山三滝」の玄関口にあたる場所に鎮座している関係もあるのであろう。
 龍ヶ谷熊野神社とはまた違った五感を刺激する不思議な余韻がこの社周辺には存在する。
        
                             味のある黒山熊野神社の石段
 嘗てこの黒山地域は、修験道の霊場としての歴史があった。修験道とは、古代日本において山岳信仰に仏教(密教)や道教(九字切り)等の要素が混ざりながら成立した、日本独自の宗教・信仰形態で、修験者(山伏)が深山幽谷で厳しい修行を積んで超自然的な霊力を得る事を目的とした神仏習合の宗教で、平安時代から盛んになった。各地に修行場が開かれたわけであるが、その中でも、熊野三山への信仰は、中世には貴賤老若の参詣者が列をなし、「蟻の熊野詣」と呼ばれる程、隆盛を極めたという。
       
       
         黒山熊野神社正面参道両側に対となり聳え立つ大杉のご神木
     この大杉2本は越生町景観樹木として、平成12年4月1日に指定を受けている。
             
            石段の踊り場付近に設置されている社号標柱
『新編武蔵風土記稿 黒山村』
 熊野社
 慶安二年社領三石の御朱印を賜ふ、當社は西戸村山本坊の進退する處なり、按に堂山村最勝寺に藏せる、大般若經の奥書に、應永廿四年五月十九日、武州入西郡吾那越生鄕、新熊野常住執筆良觀と記し、及同年六月廿日武藏國吾那小山一乗坊新熊野など記せしもあり、當社は元より山本坊の預る所なれば、自ら別社なるべけれど、又此越生の内に小山と號する所も、今其地なければ彼新熊野と云もの、當社のことなるも知べからず、
 神樂堂 本地堂 藥師の像を安ず、春日の作なりと云、
 天王社 是も山本坊の内、
 金毘羅社
 愛宕社
 山祇明神社 百姓持、
        
             石段中腹附近に建つ趣のある石製の鳥居
 室町時代の応永年間(13941428)、箱根権現社の別当であった相馬掃部介時良入道・山本坊栄円は熊野神社を黒山に勧請し、関東に修験道を広める拠点とした。熊野神社を熊野本宮大社、天狗滝を熊野速玉大社(新宮)、男滝・女滝を熊野那智大社に擬え(なぞらえ)、黒山一帯を熊野三山に見立てた「関東の熊野霊場」として整備した。
 
栄円の出自は不明ながら、「相馬」姓であることから、平将門の13代目の末裔であると伝えられていて、応永年間に創建した当時の棟札は「将軍将門宮」と称していた。更に、氏子の口碑にも平将門を祀るとも伝えるため、当初は平将門が祭神であったという
 黒山の大平山には、修験道の開祖である「役行者」の石造の並びに山本坊栄円の供養塔があるが、そこには「山本開山 権大僧都 栄圓和尚」「応永二十年□十月日」の銘が刻まれている。大平山に役行者像が造立された元治2年(1865)から明治初年頃に刷られたとされる木版「武藏国大平山略図」には、薬師堂・愛宕・天王・蔵王堂・不動堂・長命寺等が記されていて、そのことは『新編武蔵風土記稿 黒山村』熊野神社に列して記載されている寺社にも同様の名称があり、当時は様々な信仰施設が配置されていたことが伺われる。
 後に山本坊は文禄3年(1594)に(現)毛呂山町西戸地域に本拠地を移した後も、「越生山本坊」と称して、京都聖護院を本山とする「本山修験二十七先達」として、関東一円の「霞」と呼ばれる配下に影響を及ぼしていたという。
        
     鳥居の先には直接社殿に達する石段の他に、フラットな傾斜の脇道もある。
 龍ヶ谷熊野神社同様に、この社の石段にも程良く苔が生していて、風情のある景観を成している。
       
                                黒山熊野神社社殿
 熊野神社
 当地は越辺川の上流、秩父山地の山間の地に位置する。黒山の地名は、地内の一帯に古生層の黒っぽい岩石が露出していることに由来する。中世の文書には既にその名が見えるが、開村は更に古いと伝えられる。
 当社は、応永年間(一三九四-一四二八)、箱根権現社の別当であった相馬掃部介時良入道山本坊栄円が当地に移り、本山派修験の大寺であった山本坊を開山するにあたって勧請した社で、熊野大権現と称し、この時、不動堂・赤堂・長命寺と共に建立されたと伝えられる。しかし、棟札によれば応永五年二月の造営で、「将軍将門宮」となっている。更に、氏子の口碑にも平将門を祀るとも伝えるため、当初は平将門が祭神であったことがうかがわれる。
 慶安元年には三石の朱印地を社領として賜っている。明治五年の社格制定にあたっては、村社となり、社号を従来の熊野大権現から現行の熊野神社に改めた。更に、同四〇年には同大字内にあった字清水の八雲神社、字東の愛宕神社、字東の榛名神社、字原の神明神社の四社を合祀している。
 主祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命である。
 なお、昭和六〇年一一月六日不審火により社殿が焼失している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     社殿に掲げてある扁額         社殿奥にひっそりと祀られている境内社
                               詳細不明
        
            境内に設置されている「熊野神社社殿建設誌」
 熊野神社社殿建設誌
 熊野神社の創立は詳ではないが寛永年間の頃より祭祀されたと云われています 長い間鎮守様として信仰し崇敬されていましたが不幸にして昭和六十年十一月不審火により焼失
 氏子崇敬者の浄財神社関係者復興資金竝に神社山林の一部の売却代金を建設資金として再建された
 一 昭和六十一年十一月起工式
 一 昭和六十二年三月上棟式
 一 同年九月 熊野那智大社より御分霊の拜戴
 一 同年十一月 御分霊の遷座祭
 一 昭和六十二年十一月 社殿の落成
 一 昭和六十三年四月 鳥居、御水舍の再建、玉垣の建設、祭典幟の新調
 一 総工費 参阡四百参拾萬國也
 熊野神社建設委負会
                              「熊野神社社殿建設誌」より引用

 
 石段手前で右側には道路に面して広い空間が広がり、そこには社務所らしき建物2棟あり、(写真左)また町で設置されているステンレスプレートもあった。(同右)
        
     黒山熊野神社から県道を南下すると、「黒山三滝」入口に達する路地に至る。
          そこまで徒歩にて越辺川上流域を愛でながら散策する。
        
                            「黒山三滝入口」
『新編武蔵風土記稿 黒山村』
 男瀧女瀧
 二瀧共に村西にあり、男瀧は岩石壁立せる山の中腹より飛流す、長さ一丈許、激勢いと甚し、此流壺より、又飛流せる七八尺の瀑あり、此を女瀧と呼ぶ、男瀧の落口は幅二尺許、女瀧は幅三尺許、女瀧の瀧壺より流出る水一條の流となり、谷間を屈曲し、村の中央にて河ぶり峠より出る清水に合す、其下を黒山川と呼べり、
 黒山川
 前にいへる如く、二流合しての後の名なり、下流は大滿村に至て、越邊川に落入れり、



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「埼玉の神社
    「越生人物往来PDF」「Wikipedia」「境内社殿建設誌」等

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龍ヶ谷熊野神社

 龍穏寺(りゅうおんじ)は、埼玉県入間郡越生町にある曹洞宗の寺院。山号は長昌山(ちょうしょうさん)。9世紀から15世紀までは、近隣の霊場・黒山三滝や秩父・三峰山の影響もあり、天台宗系の修験道に属していて、この頃の名称は瑞雲山長昌寺である。
 その後1430年(永享2年)室町幕府6代将軍・足利義教が開基となり、上杉持朝が再建立。開山には無極慧徹が招かれ、曹洞宗に改められた。
 天正18年には豊臣秀吉から寺領100石の朱印状を拝領され、江戸時代初頭には徳川家康より『関三刹』に任命。3,947寺(1635年時点)の寺院を統治し、曹洞宗の宗政を司った。
 関三刹に選出された寺院は次の三寺院である。
大中寺 - 下野国(栃木県栃木市大平町西山田)
總寧寺 - 下総国(千葉県市川市国府台)
龍穏寺 - 武蔵国(埼玉県入間郡越生町)
 関三刹(かんさんさつ)とは、江戸時代に関東における曹洞宗の宗政を司った3箇所の寺院で、徳川幕府の宗教政策の一環として主に地方の農村や武士階級に影響力を持つ曹洞宗に対し、1612年(慶長17年)上記の3箇寺に関東僧録司として宗派統制の権限を与え、住職も幕府の任命制にして統制を図ったという。
 この歴史ある龍穏寺の境内で、当寺の鎮守として鎮座していたのが龍ヶ谷熊野神社である。
『新編武蔵風土記稿 龍ヶ谷村』
 熊野社 第三世泰叟の勧請する所、境内の鎭守なり、
 この龍穏寺は、江戸期に曹洞宗関東三カ寺の一つで幕府の庇護厚き格式高い寺であったため、村民の山門出入は禁じられ参拝できなかった。明治初めの神仏分離により、境内を区画して参道を設け、村内に散在していた八坂社ほか二〇社の小祠を境内に移し、村民の参拝が許されて寺の神社から村鎮守となり、明治五年に村社となったという経緯がある。
 龍ヶ谷という山中の奥深い場所にありながらも、目をみはるほどの素晴らしい寺社の社殿や彫刻は、往時の龍穏寺の隆盛を物語っている。
        
            
・所在地 埼玉県入間郡越生町龍ヶ谷453
            
・ご祭神 伊奘冉尊 速玉男尊 事解男尊
            
・社 格 旧龍穏寺鎮守、その後村鎮守・旧村社
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@35.9537504,139.2459773,19.08z?hl=ja&entry=ttu
 大満八幡神社から埼玉県道61号越生長沢線を900m程南下すると、「龍穏寺」の立看板がある十字路に達するので、そこを右折する。決して道幅も広くない農道を進む中、当初は民家も点在しているのだが、そのうち民家すら見えなくなり、道の両側には深い森が広がり、当然人気もなく、また山奥に進むその間にはすれ違う車すらない。そのような農道をひたすら進む心細さも手伝いながら、ナビを信用して進むと、民家もチラホラと見え始め、その先に陽光が差し込む龍穏寺の広い駐車場が見えてくる。龍ヶ谷熊野神社はその境内の一番端に位置しているようだ。
        
                             
龍穏寺総門からのスタート
『新編武蔵風土記稿 龍ヶ谷村』
 村内龍穩寺の緣起には、高麗郡の内に屬すとあれど、古へは郡界のことも麁略にて、郡をたがへ書せしことまゝ有しなれば、こゝも其類にて、あながち古くは、高麗郡に隷すと云にはあらざるべし、村名の起りを尋ぬるに、當所の内に古へ深淵ありて、其所に年久しく龍ひそみけるを、龍穩寺第五世の僧雲岳が祈誓によりて、かの龍升天し、其迹變遷して尋常の平地となりしかば、農民等そこを新開せし地なるにより、此名起れりといへど、是も浮たる說にて其正しきことをしらず、正保の此の物には己に當村の名なし、今市村の内龍穩寺領とのみあり、されど今その地形を見るに、今市村を距ること凡二里に餘れり、然るをかく記せしことこれもまた疑べし、思ふに古へは此邊都て越生鄕の内にて、今市村はそれが中の本鄕なれば、かくは云しにや、その後元祿十五年の國圖に至りて、初て龍ヶ谷村の名をのせたれば、一村にたちしはこの間の事なるべし、されど龍ヶ谷の名は古きことゝ見ゆれば此比までは越生鄕の内に屬せし小名などにてありしにや、

 ここでは、「龍ヶ谷」という地の由来(伝承)が記されていて、現在の龍穏寺が建っている場所には、深い淵があり、そこには龍が住み、人々はこれを恐れていた。そこで、第五世住職の雲崗舜徳がこれを退治すると、淵から水があふれ平地となったという。人々はこの平地を開墾し寺を移転した。またその時、寺名を龍穏寺と改めたとの事だが、正しいかどうかは分からない、との事だ。また次には「龍ヶ谷村」に関する歴史も記されている。
 また『同風土記稿』にはこれ以外にも伝承・伝説を載せている。原文のみで紹介する。
 羅漢山
 龍穩寺門前の山を云、相傳ふ昔此地に僧五人すめり、いかなる魔心を生ぜしにや、此山に登り行を修して、終に天狗となり、折にふれて土人を〇しける、其此の住僧これを祈り、五人の羅漢と祟けるにより解を得たりと云、故に羅漢山とよぶとぞ、今は老杉數十株並び立て陰森たり、かの天狗の棲し比のならはしを守て、今に至るまで杉樹の枝を伐りとることを禁ず、たまたま暴風などに折くちけたる折口をみるに、木理の美なること他木にことなりと云、この五羅漢のこと奇異の說にて、うけがたひ難きは論なきことなれど、相州關本最乘寺の僧道了が話に似たり、この類のこと他にもあることなり、
 
 龍穏寺総門を過ぎると参道が右手に曲がる。    参道途中振り返り、総門付近を撮影。
     その先には山門が見えてくる。     参道に広がる苔むした
石畳の雰囲気が良い。

 実は、当初龍穏寺総門から参拝を始めたわけであるが、そのまま進むと山門に到達してしまう。龍穏寺と龍ヶ谷熊野神社は区画がしっかりと分かれているようだ。社はその参道の東側に隣接しているので、龍穏寺総門を過ぎて、一旦道路側に移動してから、通り過ぎるように進み、社の正面に向かった。
        
                             龍ヶ谷熊野神社正面
 社の鳥居正面から真っ直ぐ進む参道は、石畳とはなっておらず、舗装もされていない。季節は正に夏本番、手入れも怠らないであろうが、一週間も経てば、雑草等は自然に繁殖する時期でもある。ある程度は自然の法則に委ねる、その日本人が古来から持ち続けている「自然との共生」という美意識、感性が未だに残っているようで不思議な安らぎを鳥居正面に立った時に感じた。
 駐車場から出た時はあまり感じなかったが、龍穏寺総門から参道を移動する中、境内の蒸し暑さには正直驚いた。周囲を大杉や森等の草木に覆われ、路面には苔も見事に成育している。道路の対岸は流量は少ないが「龍ヶ谷川」という小川も流れていて、この環境故に、湿度の高さも植物にとっては成育を助けさせる基になっているのであろうと参拝開始時にふと思った。
 それにしても境内に優しく響き渡る小鳥のさえずりや、小川のせせらぎを聞いていると、日々慌ただしく、そして時間に追われる日常生活を一時忘れさせてくれるような神聖性を感じさせてくれる空間である。
        
     龍ヶ谷熊野神社の鳥居を過ぎて参道を進むと、山門に達するルートになる。
因みにこの山門は正面からの撮影では逆光となるので、一旦通り越して裏から撮影したものだ。

   山門手前に設置されている掲示板     山門天井部分に精巧に施されている彫刻あり
       
          山門を過ぎると左方向に社の参道が変わるが、その手前付近には観音様がある。
          観音様の足元左側には「江戸城外濠の石」が置いてある。
        
                          左方向にある参道の先にある二の鳥居
          境内全体、特に苔生した石段の風情がたまらなく良い。
        
                    拝 殿
 もともとは龍穏寺の鎮守として祀られた神社である。現在の本殿は、天保15年(1844)に永平寺管長となった道海和尚の代に、山門、経堂と一緒に建てられた。壁面の彫刻は、神山之村(現群馬県太田市)の彫り物師、岸亦八によるものである。
 拝殿自体は決して規模が大きいわけではないが、細部にわたって彫刻師の仕事が行き渡っている。
        
              拝殿の脇に設置されている案内板
 龍ヶ谷熊野神社
 当神社は龍穏寺の守護として天保十五年(一八四四)に創建された。明治維新の神仏分離令により、地元の氏子に引き継がれ現在に至る。祭神は熊野本宮大社の須佐之男命である。従って縁結びの神社でもある。
 神社の特筆は壁画の彫刻である。彫師は群馬県山神村(現大田市)の名工、岸亦八による彫刻である。厚さ十センチ程の樫木に立体感あふれ、今にも飛び出して来そうな見事な彫刻である。本殿の背面にある古事記の神話を題材にした天照大神が天の岩屋戸から出た瞬間を彫った物である。その左右にも神話が物語として見事に彫られている。その脇には龍が天から降りて来る様子が怖い程見事に表現されている。又、拝殿の天井に花鳥風月の絵が色鮮やかに描かれている。作者は酒井泡一の弟子酒井泡玉による作である。
 神社の造りは、入母屋造り屋根は銅瓦葺きで、建築様式は権現造りであり、荘厳さを現わしている。
 平成二十七年十二月吉日 
 龍ヶ谷地域活性化推進の会
                                      案内板より引用

        
        
                 拝殿正面の見事な彫刻
 
        拝殿木鼻部にも精巧で細かな彫刻で施されている(写真左・右)
        
        
                    本 殿
        
                 『越生町指定文化財(有形文化財 建築物)熊野神社社殿』 
 当社は、明応元年(一四九二)に龍穏寺三世の泰叟如康が、紀州熊野本宮大社より分霊して寺鎮守としたのが起源とされる。江戸時代は格式が高く村人の参拝は許されなかったが、神仏分離令により村鎮守となり、明治五年(一八七二)に龍ケ谷村村社となった。
 現在の社殿は、天保十五年(一八四四)、龍穏寺五十六世道海沙門による再建である。入母屋造・銅板葺きで、本殿と拝殿を「石の間」と呼ばれる幣殿が繋ぐ権現造である。
 彫刻は上州新田郡山之神村(現群馬県太田市)の名工岸亦八による。龍穏寺の山門(町指定文化財)と経蔵(県指定文化財)も同人が手掛けた。亦八以降四代が、明治期にかけて各地に作品を遺している。正面蟇股や扉、側面の龍の花頭窓、背面「天の岩戸」、縁下の象鼻等々、随所に彫技が振るわれている。
 平成二十七年三月 
 越生町教育委員会
                                      案内板より引用
 
           本殿の奥に祀られている境内社群(写真左・右)
        
               周囲の風景とマッチしている社
 これ程のレベルの社はそう多くはない。すごく気持ちの良い、雰囲気のある社参拝であった。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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大満八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町大満107
             ・ご祭神 品陀和氣命・誉田別命(推定)
             ・社 格 旧大満村鎮守・旧村社
             ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.com/maps/@35.9603082,139.2619831,16z?hl=ja&entry=ttu
  *地図には表記されず。但し「大満農業集落センター」北側隣に鎮座している。
 越生神社から埼玉県道30号飯能寄居線を北上し、「三滝入口」の三つ又の交差点を左斜めに進路をとる。埼玉県道61号越生長沢線に合流後大きく左回りにカーブする県道を道なりに進むと、道路の周囲に「越生梅園」の看板が見え、進路の左側に梅園神社が見えてくる。当初の目的地は梅園神社の参拝にあったが、周辺には適当な駐車スペースもなく、そこでの参拝は断念。そこで、越生町南西部で、越辺川上流付近に鎮座する社を目指した。
 梅園神社から県道を南下すること2㎞程に、「大満農業集落センター」があり、その北側隣に綺麗な鳥居や高台に鎮座する歴史を感じる社が見える。予想もしていなかったが、これも神様の出会いの思し召しと感じ、急遽参拝を行う。大満八幡神社である。
        
              県道沿いに鎮座する大満八幡神社
『日本歴史地名大系』 「大満(だいま)村」の解説
 小杉村の南、越辺川上流域の山間村で、水田・人家は谷間に点在。大間とも書く。永禄三年(一五六〇)一二月一〇日の太田資正制札写(武州文書)に「大間」とみえ、堂山最勝寺領であった同地など六ヵ所に対し軍勢の違乱を禁止している。田園簿では田高六七石余・畑高六一石余、幕府領、ほかに紙舟役永六〇〇文を上納。寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)。
        
            新緑の森に一際目立つ白を基調とした鳥居
        
            鳥居周辺に設置されている越生町文化財解説板
 越生町は平成元年に町制施行100周年を迎え、この年「越生100NOW-誇れる郷土の創造を」をテーマに、多くの記念事業が行われた。町では、誇るべき越生の魅力を再発見するために、地区ごとに越生を自慢できるものや、郷土の歴史や伝統、文化・自然など多様な観点から選定され、他に類をみない町おこし事業として「越生町再発見100ポイント」の標柱を設置したが、設置から30年以上が経過したことで木製の標柱が腐朽し、撤去されたものもあった。
 そこで、教育委員会では、平成
28年度事業として、標柱の立て替えを実施し、花崗岩による石製の標柱や、既に解説等が設置してある箇所については、ステンレスプレートにより表示がされたという。

 鳥居を過ぎると、すぐ先には石段があり(写真左)、石段を上り終えると手水舎等設置されている空間が現れる。社殿は高台に鎮座していて、そこからもう一段高い所にある為、再度石段を上る(同右)。
        
                    拝 殿
 当社に関しての詳しい資料は少ない。ただ『越生町HP』による大満八幡神社の由来では、古くは「降三世明王社」と呼ばれ、神仏習合の時代には、山岳仏教の修験道と深い関係をもっていた。今も大満地区の総鎮守として大切に信仰されているという。また昭和20年代まで獅子舞が奉納されていたそうである。
 この『降三世明王』(ごうざんぜみょうおう。降三世夜叉明王とも呼ばれる)、および勝三世明王は、日本の密教で信仰されている仏教の神格であり、五大明王の一尊で、東方に配置される。サンスクリット語の「トライロークヤビジャヤTrailokyavijaya」の意訳。貪(とん)・瞋(じん)・痴()の三毒を降伏(ごうぶく)し、不動に次いで重視されているそうだ。
 ヒンドゥー教の最高神として崇拝されていた「過去・現在・未来の三つの世界を収める神」であるシヴァ神やその妻のパールヴァティー神に対して、大日如来はヒンドゥー教世界を救うためにシヴァの改宗を求めるべく、配下の降三世明王を派遣し(或いは大日如来自らが降三世明王に変化して直接出向いたとも伝えられる)、頑強難化のシヴァとパールヴァティーを遂に力によって降伏し、仏教へと改宗させた。降三世明王の名はすなわち「三つの世界を収めたシヴァを下した明王」という意味であるともいう。
 
        拝殿の扁額             社殿右奥に祀られている境内社
                          左より八坂神社、金毘羅神社
 像容にはいろいろあるが,降三世明王は基本四面八臂の姿をしており、二本の手で印象的な「降三世印」を結び、残りの手は弓矢や矛などの武器を構える勇壮な姿であるが、何より両足で地に倒れた大自在天(シヴァ)と妻烏摩妃(パールヴァティー)を踏みつけているその造形は衝撃的でもある。
 確かに、その後シヴァ(大自在天)やその化身であるマハーカーラ(大黒天)は『明王』よりも下部である『天部』に所属しているので、降三世明王のほうが格上といえるが、まるでその土地の最高神と雖も、「仏教」の教えを広めるために、「力」でもって屈服させる、そのやり方はやや強引ともいえよう。
 但し、日本神話においても「葦原中津国平定」の段において、天照大皇神の命を受けた「建御雷神」「経津主神」武神二柱が、大国主神の子の兄・事代主神に国を譲らせ、果敢に抵抗した弟・建御名方神をも降服させる。御子神二柱が要求に応じたため、大国主神は自らの宮殿(出雲大社)建設と引き換えに、天の神に国を譲った経緯も同じともいる。
       
         境内に一際目立ち、聳え立つご神木らしき大杉(写真左・右)
『新編武蔵風土記稿 大満村』において、大満八幡神社は「降三世明王社」とも称し、地域の鎮守社でもあったが、同時にこの社は「本山修驗・西戸村山本坊」の配下にある吉祥院というお寺が別当(管理)であった。
『新編武蔵風土記稿 大満村』
降三世明王社 村の鎭守なり、吉祥院の持ち、
吉祥院 本山修驗、西戸村山本坊配下なり、
この「山本坊」とは、「関東の熊野霊場」ともいえる「越生山本坊」で、京都聖護院を本山とする「本山修験二十七先達」として、関東一円の「霞」と呼ばれる配下に影響を及ぼしていた。江戸時代における修験者は、村落に定住して加持祈祷を行い、呪術師や時には医師や祭司、あるいは手習いの師匠を務める等、村人にとっては必要不可欠な存在であったという。
        
                      緑豊かな地に鎮座する大満八幡神社
大満村地域は、越辺川上流域の山間地で、黒山地域の北東に接しており、この黒山地域には熊野神社を拠点にした山岳宗教修験道の山本坊があった。大満八幡神社がいつ「八幡神社」と改名したかは不明であるが、それまでは降三世明王社の名称として、山本坊配下の吉祥院の管理下に置かれていたのであれば、この地域も本山修験の流れを組む地であったのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「精選版 日本国語大辞典」
    「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia」等
        

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