古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下里八宮神社

 環境省では、様々な命を育む豊かな里地里山を、次世代に残していくべき自然環境の一つであると位置づけ、「生物多様性保全上重要な里地里山(略称「重要里地里山」)」(500箇所)を選定した。選定された「重要里地里山」は、地域における暮らしや営み、保全活動等の取組を通じて守られてきた豊かな里地里山を広く国民の皆様に知ってもらうためのものである。また、地域における農産物等のブランド化や観光資源などにも、広く活用できるものと考えているという。
 埼玉県比企郡小川町・下里地域周辺は、周囲を外秩父の山々に囲まれ、伝統産業で古くから栄えた町に、昔ながらの風景が残る農村地域である。農地を中心としたモザイク状の土地利用形態が維持されており、オオムラサキ、カタクリやニリンソウなど里地里山に特徴的な動植物が生息・生育していて、環境省による生物多様性保全上重要な里地里山(略称「重要里地里山」)の選定地となっている。
 里地里山は、原生的な自然と都市との中間に位置し、集落とそれを取り巻く二次林、それらと混在する農地、ため池、草原などで構成される地域である。そのような人の営みがつくり出した里地里山は、食料や燃料生産の場となるだけではなく、様々な動植物の生息・生育の場となり豊かな生物多様性を育んできた。また、国土保全や水源涵養、環境保全の機能など、多面的な機能を発揮し、さらに癒しや楽しみの場、絵図や文学を創出する役割なども果たしている。
 里地里山の多様な生物の営みによって、人が自然から得ているこれらの恵みは「生態系サービス」と呼ばれ、私達の暮らしに必要な資源を提供し、安全や快適性をもたらしている。これらの恵みの多くは、里地里山と人が関わり続けることで、生み出されるものであることから、里地里山を「国民共有の財産」と位置づけ、将来にわたって守り継ぐことが大切であるとの事だ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町下里2348 
             
・ご祭神 高龗神 伊豆能賣神 墨江三龗神 海見三柱神
             
・社 格 旧下里村鎮守・旧村社
             
・例祭等 下里ささら獅子舞 7月中旬
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0507979,139.2806173,16z?hl=ja&entry=ttu
 田黒日枝神社前に南北に走る道路を北上する。槻川に架かる谷川橋を渡った先にある丁字路を左折し、道なりに3.5㎞程進んだ左側に下里八宮神社の鳥居が見えてくる。
 小川町・下里地域は小川盆地の東端に当たり、地内中心を槻川が蛇行、屈曲しながら東流し嵐山渓谷に達する手前までの、槻川の清流と里地里山が創り出す豊かな自然体系が保存されている地域でもある。社はこの槻川沿いの地、仙元山(標高298m)の麓に鎮座している。
            
                    下里八宮神社正面
 天照大神が素戔鳴尊と誓約の時に出現したと云う五男三女神を祀る神社を八宮という。「八宮」と書いて通常「やみや」と読むが、正式には「やぎゅう」。別名「矢弓」「箭弓」、時には「野牛・柳生」とも書く。
 五男三女神は素戔鳴尊の子ともいわれ、田心姫(たこりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)の三女、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、天穂日命(あまのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)の五男。

 
八宮神社は比企郡小川村、下里村、下横田村、能増村、中爪村(以上小川町)、志賀村、広野村、越畑村、杉山村(以上嵐山町)に鎮座している。淡州神社や黒石神社も同様だが、比企郡内には同系統の社が比較的狭い地域に集中的に鎮座している興味深い郡でもある。
 下里八宮神社は、比企郡小川町下里にある神社である。下里八宮神社の創建年代等は不詳ながら、当初は志賀との境に鎮座、近郷七ヶ村の総鎮守として祀られていたものの、貞観10年(868)嘗て寺があった当地へ遷座、近郷7ヶ村に分霊を配祀し、八宮神社の総社と称されたと伝えられている。
 
       鳥居を過ぎると丘陵地面の緩やかな登り参道を進む(写真左・右))。
 鬱蒼とした社叢林が参道両側に広がり、拝殿に近づくに連れて、自然と厳かな気持ちになる。
        
                             拝殿前に立つ神明系の二の鳥居
             どこまでも落ち着いた雰囲気が境内全体漂う
        
             拝殿に達する前にももう一段石段を登る。
 同じ八宮神社でも、下里八宮神社は、鳥居を過ぎた瞬間から自然と一体化したような参道、それに凛とした佇まいの社殿、加えて、目には見えない厳かな空気が境内周辺に滲み出ているのに対して、小川盆地内で町内に鎮座する小川八宮神社の荘厳で堂々とした造りである拝殿・本殿、綺麗に整えられた陽光眩しく明るい境内の雰囲気が、まさに対極的である。
「風格」「品格」等、色々と表現方法は多様であるが、結論から言うと、筆者はこの社を参拝して、つくづく感じた。他の八宮神社とは遙かに「格が違う」と。
       
            石段を登り終えたすぐ左側に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 八宮明神社 村内の鎮守なり、
 別當寶壽院。新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺末、正理山と號す、本尊薬師を安ぜり、
                           『新編武蔵風土記稿 下里村』より引用

 八宮神社 小川町下里九一二
 下里は小川盆地の東端に当たり、地内を槻川が屈曲しながら東流する。当社はこの槻川沿いの地、仙元山(標高二九八メートル)の麓に鎮座している。仙元山に続く尾根には平安期築造の青山城趾(県選定重要遺跡)があり、「青木家譜」によれば、藤原成之の後裔氏宗が天慶の乱後ここに居住し、青木と改姓し、鎌倉幕府、鎌倉府、関東管領に従ってしばしば戦功をたてたとされる。
 社伝によると、当社は初め村の東方に当たる志賀村との境に祀られていたが、清和天皇の貞観十年(八六八)に現在の地に遷座した。その後、近村七か所に分霊したことから、八宮神社の総社と称せられたという。
『風土記稿』には「八宮明神社 村内の鎮守なり、別当宝寿院、新義真言宗入間郡今市村法恩寺末、正理山と号す、本尊薬師を安ぜり」とある。同書の比企郡の項には、ほかに小川村・下横田村・能増村・越畑村・中爪村・杉山村・広野村・志賀村の各村に八宮明神社あるいは八宮社が見える。
 主祭神は高龗神・伊豆能賣神・墨江三龗神・海見三柱神である。
                                  「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」に登場する「青木氏」を調べてみると、『新編武蔵風土記稿 下里村』に「古城跡、山の上にて廻り三四丁許の地を云、古へ何人の住せしと云ことを伝へず」と記載され、この古城跡とは、青山城跡であろう。青木文書に「青山村に城跡あり、藤原成之の後裔氏宗が天慶の乱の後、ここに居住して青木氏と改姓す。城主に氏久・氏郷・右京亮の名あり、天文年間まで居城す」とあり、「鎌倉幕府、鎌倉府、関東管領に従ってしばしば戦功をたてたとされる」と年代的にも一致する。
        
                     本 殿
        
           本殿の裏側に祀ってある七社分霊神璽を納めた祠
『神社明細帳』に「往古ハ村の東方志賀村々境ニ鎮座アリテ近郷七ヶ村ノ総鎮守タリシカ年月事由不詳現場ノ所ヘ移転スト云コト古老ノ口碑ニ残レリ」と記されている。このことは、氏子の間にも、「初めは村の東方の志賀村との境に鎮座していたが、貞観十年(八六八)に現在の社地に移り、近郷七か所に分霊を配祀し、八宮神社の総社と称せられた」との口碑が残る。本殿の裏側に祀ってある祠は、右の口碑に伝えられる七体の分霊の神璽で、古くは幣殿の両側に祀られていたという。
 
      拝殿に掲げてある奉納額           拝殿左側に鎮座する境内社
             日露戦争の戦勝記念          左側の石祠は三峰社。右側は不明

        境内社・天神社                        境内社・稲荷社
       
           本殿奥の基礎部分にあたる地に
緑泥石片岩らしきものが層状となって見える。

 下里八宮神社から槻川に沿って1.5㎞程南下した場所に「下里・青山板碑製作遺跡」といわれる板碑製作遺跡が存在する。下里 青山板碑製作遺跡は、武蔵型板碑の石材である緑泥石片岩の採掘から板碑形への 加工の工程が初めて明らかになった遺跡群の総称で、平成26年10月6日付けで国史跡に指定されている。
 13世紀になると仏教信仰の高まりを受け、 石塔の一種である板碑の造立が盛んになる。緑泥石片岩製の武蔵型板碑は関東地方を中心に5万基も確認されており、小川町下里・ 青山地区の19か所の遺跡の時期と、関東で多くの板碑が造立された 14世紀中頃から15 世紀後半の時期が一致することなどから、この遺跡群は関東地域の板碑造立を中心的な生産地と考えられる。筆者も行って見たが、入口から少し上ると緑泥石片岩の大きな破片がむき出しに至る所に散らばっている。
 このような板碑製作遺跡の発見は板碑の生産と流通のあり方を知る上で重要な発見であると共に、 中世の仏教信仰を考える上でも重要な発見となったという。 
       
                     歴史も古い下里地域に鎮座している八宮神社

『町指定無形民俗文化財 下里の獅子舞』指定年月日 昭和44年6月26日
 下里ささら獅子舞は、古くは 7 月 13 日〜 15 日の 3 日間、下里八宮神社、八坂神社、大聖寺に奉納してきました。昭和39 年に一時活動を休止し 43 年に復活、保存会を発足いたしました。
 現在に至るまで大人から子どもたちへと引き継がれ、練習も 6 月中旬から毎日曜日を中心に行なっています。ことしは、7 月 15 日の午前中は八宮神社、午後は大聖寺に奉納いたしました。真夏の一日、下里 4区センターから奉納寺社まで、太鼓や笛の音が響き厳おごそかな気持ちになります。
                               「小川町議会だよりHP」
より引用



参考資料「環境省 自然環境局 自然環境計画課HP」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」
    「小川町議会だよりHP」「下里・青山板碑製作遺跡 案内板」「Wikipedia」等

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別所八剣神社

「別所」の地名由来を調べてみると、全国的な地名のようで、一般に、昔からの集落である本村(もとむら)に対して、追加開墾を許された土地を意味する地名といわれており、また、これから派生して「行き詰まりの場所」を指すとの説もある。また、大和王権が蝦夷(えみし)を征服した際の戦争捕虜(俘囚)を古郷に3~4戸ずつ配置した集住地域をも言い、歴史的にみてもかなり古い名称のようだ。
「別所」のつく地域は砂鉄採取の出来る川岸に多くあるという。山間部の鉱山地では砂鉄を含んだ土砂を流して、藤蔓で編んだ筵で砂鉄だけを採取した。また砂鉄は雨水で土砂が流れ、水辺の一隅に集まり黒い一帯をつくる。これをすくい取ることを雨生鉄と云い、砂鉄は探鉱や採掘を必要としないで、だれでも採取でき、故に女子供でも採取の工人となれる。砂鉄を利用した鍛冶師は目をやられる為に眼病の本尊として薬師様を祀り、別所村に薬師堂が多くあるのもその由来ゆえという。
 ときがわ町にも「別所」地域がある。外秩父山地及び岩殿丘陵地が地域外殻を形成し、その中央部を都幾川が流れる。そして嘗て「古代製鉄集団」の存在を連想させるような名称である「八剣」神社が都幾川左岸に鎮座している。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町別所21
             ・ご祭神 日本武尊
             ・社 格 旧別所村鎮守・旧村社
             ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0082726,139.2631482,17z?hl=ja&entry=ttu
 五明白石神社西側先にある「五明」交差点を左折、埼玉県道30号飯能寄居線を南方向に進路をとる。1.3㎞程先に都幾川に架かる橋手前に信号のある十字路を右折し、800m程西行すると、進行方向左側で民家の奥手に別所八剣神社の社叢林が見えてくる。
        
                  別所八剣神社正面
『新編武蔵風土記稿 別所村』には、この社について、意外と詳しい説明がなされている。
 八劔明神社
 村の鎮守にて月窓寺の持なり、當社は經木前司吉信と云し人の靈を祀りし由、天正十六年の棟札に記せり、此吉信が事蹟年代等詳ならず、思ふに埼玉郡に常木村あり、文字は違ひたれど、もしくは彼村を指揮せし人なるも知るべからず、又此社造立の年歴も定かならざれど、天正の棟札に再建の由見ゆれば、古社たることは論なし、棟札の文左の如し、
「表 奉建立劔大明神 御宮殿 所願
   天正十六年戌子十一月吉祥日 本加藤隼人
 裏 此明神經木前司吉信公現劔明神給也
   天正十六年戌子十一月吉祥日
          天正十六年戌子十一月吉祥日
                 別當都幾山月窓寺
                        加藤隼人宗正中興」
 此に記せし加藤隼人宗正も、いかなる人なりしにや、其傳を失へり、按に田中村の舊家東吉が家系に、帶刀先生義賢討れし後、其家名の此邊に落来りて、住するもの八人あり、其内に加藤内蔵助貞明と云もの見えたり、宗正は此人の子孫なるにや、今腰越村に加藤氏の土民あれど、是も先祖のこと詳ならず、

 風土記稿に記載されている「
加藤隼人宗正」という人物は、玉川春日神社で説明したが、源義賢・木曾義仲の家臣団で当地に土着した加藤家の末裔ともいう。
 この人物は、天正庚寅松山合戦図に「古郡・柏崎・今泉方面城方副将加藤隼人介宗正」と記載されていて、武州松山城の守り手の一将として登場している。加藤隼人宗正のその後は詳らかではないが、その一族は北條氏滅亡後、子孫である加藤太郎右衛門吉重・同理右衛門久次の兄弟が寛文元年二月武州小榑村に土着していて、また隣村の土支田村にもその一族は移住しているらしい。
        
                    境内の様子
               規模は決して大きくはないが、程良く纏まっているいる。
        
                     拝 殿
 八剣神社
 当社の創祀年代については明らかではない。『風土記稿』別所村の項に載る棟札には「(表)奉建立劔大明神 御宮殿 諸願 天正十六年 戊子十一月吉祥日 本 加藤隼人」「(裏)此明神経木前司吉信公現劔明神給也(中略)別当都幾山月窓寺 加藤隼人宗正中興」とあり、経木前司吉信を祀った旨が記されているが、その来歴は不明である。
 また、同村の西平にある萩日吉神社にかかわる伝承に、大蔵館の戦に敗れた源義賢の家臣らが落武者となってその付近に土着し、義賢やその子に当たる木曾義仲の霊を鎮めるため、天福元年(一二三三)に同社に流鏑馬の神事を奉納したといい、それらの落武者の一人に加藤氏の名が見える。『風土記稿』では、棟札に記す加藤隼人宗正はこの加藤氏の子孫ではないかとの推測をしている。
 口碑によれば、元来明神様(当社)は地内の北方にある天王山(標高二五二メートル)の地に祀られていたが、氏子の間で生産する口籠が、白い物を嫌う明神様の自に触れてはおそれ多いので、氏子区内を一望できる山上から麓の現在地に降ろしたという。
 口籠とは馬の口にはめる道具で、その材料に用いる竹の平を並べて干す様が一面真っ白に見えることを明神様は嫌ったのである。その遷座の年代は伝えていないが、明治の初めまでは祭礼の度に神体の丸石を納めた神輿を天王山まで担ぎ上げていたとの興味深い話が残されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 平村(現ときがわ町西平)』に「山王社 村の鎭守なり。當社は帯刀先生義賢討れし後、その臣下の子孫なる田中村の市川氏、馬場村の馬場氏、瀬戸村の荻久保氏、腰越村の加藤氏等の、先祖まつりて鎭守とせりと、(中略)天福元年十一月廿六日始て神事を行ひしより、今も流鏑馬をもて例祭となせりと、社傳にいへり」と記されている。
 この「田中村の市川氏・馬場村の馬場氏・瀬戸村の荻久保氏・腰越村の加藤氏」は、大蔵館の戦に敗れた源義賢の家臣なのであろう。

・田中村の市川氏
『新編武蔵風土記稿 田中村』
「舊家者東吉 村の名主なり、氏を市川と稱す、家系一巻を傳へり、其祖先は新羅三郎義光の男、市川別當刑部卿阿闍梨覚義なり。此人帯刀先生義賢の味方として、大藏の舘に有しが義賢討れし時、其家臣馬場兵衛次郎頼房、同源次郎頼直等、七人と共に当當所に落來りて居住す、(中略)又祖先覚義より五代十郎右衛門喬義の時義賢の靈を祀りしこと家系に載たれど、それは前述せしを以って爰に略せり」
・馬場村の馬場氏
『新編武蔵風土記稿 馬場村』
「舊家者三右衛門、馬場氏なり。先祖は帯刀先生義賢の家臣なりしと云ふのみ、考證とすべきことあるにあらず、按に田中村の民、東吉なるものゝ祖先も、義賢に仕へし由、其家譜を閲するに、義賢討れし時、家臣等大藏の舘に逃て、此邊に忍び住する者八人あり、其内に馬場兵衛次郎頼房、同源次郎頼直など云者あり、是三右衛門が先祖なるべし。又天福年中彼八人の子孫等、平鄕及び福田鄕に社を造立し、義賢の靈を祀りて、平鄕にては山王とし、福田鄕にては淺間と崇む、山王社の祭體には、流鏑馬を行ひ、八人の子孫の内にて射手を勤めりと云、今此二社は則平村と福田村とに鎭坐ありて、山王社の例祭に流鏑馬の式あり、古より此三右衛門及び東吉瀬戸村の民丈右衛門が家にて、つかさどりて行へりといへば、八人の内馬場氏の子孫たること知るべし、丈右衛門が先祖も義賢の家臣にて、八人の内なりと云、其家に藏する舊記は、馬場氏の祖先のことを記録せし物なれば、もとは三右衛門が家に傳へし物なるも知るべからず、されど考證とすべき物に非ざれば爰に載せず、但其記錄に義賢の霊を祭りしは、馬場義因と云ひしものゝ時なりと云、猶其村の条并せ見るべし」
・瀬戸村の荻久保氏
『新編武蔵風土記稿 瀬戸村』
「舊家者丈右衛門、荻久保を氏とす、先祖某は帯刀先生義賢の臣下なりと云傳ふ、義賢近鄕大藏に舘を構へしなれば、此邊を領せしと見えて、隣村馬場村の馬場氏、田中村市川氏なども、各其の祖先は倶に義賢に仕へしと云、丈右衛門が先祖某歿して、後村内に葬り、後神に崇めて萩明神と唱ふ、其葬地には塚ありて、今福仙坊と呼ぶ、これは此人晩年薙髪して福仙坊と號せし故なりとぞ、」
 
    珍しい形式の境内社。詳細不明。        境内東側隅に鎮座する境内社・富士浅間大神
        
                                 社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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五明白石神社・日影神社

【五明白石神社】
        
            
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町五明332
            
・ご祭神 大己貴命 中筒男命 别雷命 菅原道真公
            
・社 格 旧五明村鎮守・旧村社
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0170766,139.2737335,18z?hl=ja&entry=ttu
 玉川春日神社から南下して、一旦埼玉県道171号ときがわ坂戸線に戻り、そこの十字路を右折する。県道を2㎞程進んだ「五明」交差点の手前で進行方向右側に五明白石神社が見えてくる。
 本来の目的地は日影地域に鎮座している日影神社であったのだが、その進路途中にこのような社と巡り合うことも、また趣があり、これも当地の神様との出会いと感謝し、立ち寄らせて頂いた。
 駐車スペースは県道沿いに数台駐車可能な場所もあり、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                  五明白石神社正面
 ときがわ町・五明(ごみょう)地域は、埼玉県比企郡ときがわ町の大字で、旧比企郡五明村。ときがわ町北部、旧玉川村西部に位置する。北で小川町下里、北東で田黒、東で玉川、南で本郷、西で日影と隣接する。南部および北部は外秩父山地の尾根にあたり、中央部を東流する都幾川の支流雀川に沿って谷底平地が開け、人家が散在している。
 地内には縄文期の中野原遺跡・栗ヶ谷戸遺跡が見られ、縄文期より定住のあったことがわかる。室町期の創建とされる円通寺も見られる。
 江戸期初めには天領、慶安2年(1649年)に一部が円通寺領、明和元年(1764年)より天領分が三卿・清水家領となり、寛政7年(1796年)に天領に復した。文政8年(1825年)に再び清水家領になったが、安政2年(1855年)に天領に復している。村高は『武蔵田園簿』によれば246石余、他に紙舟役永750文、『元禄郷帳』では304石余、『天保郷帳』では301石余。文政10年(1827年)に指定された関東取締出役支配下の組合村においては近隣の村々とともに玉川寄場組合に属した。用水は天水を貯めて灌漑を行っていた。また、和紙・小川紙の産地としても知られた。
 1889年(明治22年)の町村制施行により、玉川郷・田黒村・日影村と合併し、五明村は玉川村の大字となった。さらに2006年(平成18年)玉川村の都幾川村との新設合併により、ときがわ町の大字となり、現在に至っている。
        
                    境内の様子
「五明」の地形由来として、『新編武蔵風土記稿』によれば「村の形が扇に似ているのでかく呼べりと言えども、恐らく文字によって牽強せし説なるべし」とあり、三皇五帝のひとり舜が作ったとされる五明扇を源とする扇の異称からきたという説が唱えられているものの、風土記稿編者は、村名ができた後に由来を唱えたのではないかという強い疑いが抱かれている。
       
       参道左側に並んで立つ板碑で、緑泥石片岩(青石)と思われる色あい。
 小川町には、下里・青山板碑製作遺跡が存在しているが、この遺跡は13 世紀から 16 世紀にかけて武蔵国を中心に広く流通した武蔵型板碑の石材である緑泥石片岩(青石)を採掘、加工した場であり、武蔵国における板碑生産の中心的な遺跡として、また、板碑に象徴される中世の信仰・精神文化の解明につながる遺跡として、学術的にも重要な遺跡という。
 小川町下里は、長瀞町野上下郷とともに武蔵型板碑の石材となる緑泥石片岩の産出地であり、その地はまさに五明地域の真北に接している。この板碑も下里地域から産出したものではなかろうか。
        
          参道右側に設置されている「白石神社御由緒」の石碑
 白石神社御由緒
 御祭神 大己貴命 中筒男命 别雷命 菅原道真公
 当杜の創立は第百十四代中御門天皇宝の宝永七庚寅年(一七一〇)九月と伝え栃の宮と称えた 往古德川幕府の碩学の臣新井白石先生が宝永六年当地に近い越畑(今の嵐山町)奈良梨(今の小川町)篠津(今の白岡町)の三邑の五百石を賜りこの地に居住して江户文化興隆に貢献したと伝えられ享保十年(一七二五)白石の沒後邑人白石を追慕敬仰して当社を白石大明神改称したといわれる。
 安永二癸巳年(一七七三)十一月本殿を再建する
 明治四年(一八七一)中村社に列格される
 明治五年一月二十一日社殿炎上し古記錄等焼失する 同六年本殿を再建して白石神社と改称する
 明治十五年(一八八三)三月十七日王川大火により杜殿焼失し翌十六年再建する
 明治四十一年(一九〇八)二月字小谷無格社中木神社字四郎台無格社雷電神社の二社を本社に合祀する
 昭和三十六年(一九六一)四月社殿の老朽化により改築落成し今の社殿となる
 時の流れるに従い当社の御由緒の薄れゆくのを恐れここに僅かの古記録と伝承により書き留め御神徳を敬仰するものである
 平成六年十月穀旦
        
                                       拝 殿
 
          本 殿             社殿手前右側に鎮座する境内社
                       薄くなり見ずらいが「八宮神社」とも読める。
 
      境内の隅に祀られている庚申塔等       鳥居の先にポツンとある龍不動〇
        
               駐車場から見た五明白石神社境内


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内御由緒碑文」等


【日影神社】
        
            ・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大字日影606
            ・ご祭神 不明
            ・社 格 旧村社
            ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0269133,139.2543844,15z?hl=ja&entry=ttu
 五明白石神社から埼玉県道30号飯能寄居線を北西方向に進路をとり、900m程先の「雀川砂防ダム公園」の看板がある丁字路を左折する。そこから更に900m程進んだ先に日影神社の鳥居が進行方向右手に見えてくる。
 鳥居周辺には駐車できる路肩があり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
                   日影神社正面
 
 ときがわ町・日影地域は、ときがわ町北部・旧玉川村西部・雀川最上流域の山間に位置し、北側で西から小川町上古寺・青山・下里、東で五明、南東で本郷、南で別所、西で雲河原と接する。南西境に雷電山が聳える雀川の源流地であり、流域に僅かな谷底平地を持つ。

 縄文時代前期の集落跡・高野遺跡があり、縄文期からヒトの定住があったことが確認されている。『和名類聚抄』においては比企郡都家郷に属したとされ、 古くは大河原郷、松山庄、玉川領に属していた。東光寺の開山である武州松山城主・上田能登守憲定が天正15年(1588年)12月25日に出した法度書に「日影」の記述が見られ、慶長2年(1597年)及び慶長15年(1610年)8月21日の地詰帳には「武州松山之領日影」とあり、日影村が松山城の所領だった旨がわかる。
 1889年(明治22年)の町村制施行により、玉川郷・田黒村・五明村と合併し、日影村は玉川村の大字となり、2006年(平成18年)玉川村の都幾川村との新設合併により、ときがわ町の大字となった。

 社の前面には、僅かな谷底平地が広がっているのだが、山々に囲まれた谷戸の地形ともいえ、長閑な里山風景の広がる地域である。
「日影」という地域名由来として、四方が山に囲まれており、その影になることにちなむという。
        
              参道の両側には幾つもの大樹が囲む。
 この大樹の在りようからも、かなりの由緒と歴史が想像できようが、この社には案内板もなく、ご祭神すらわからない。旧村社である社格であるので、「村持ち」か「村の鎮守」の記載がある社に相当するのであろうが、『新編武蔵風土記稿 日影村』には、一社しか存在しない。
・御靈社 村の鎮守にて、本地佛地藏を安ず、長勝寺持、
 御霊神社という名前の神社は、日本各地に存在する。 その祭神・性格は様々で、御霊信仰に基づきある人物の御霊・怨霊を鎮めるために創建されたもの、五柱の神(五霊)を祀る(祀っていた)もの、祖神・先祖の霊を「御霊」として祀るものなどがあるので、現状ではこれ以上の考察は差し控えたい。
       
            石段途中に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
         ときがわ町で発行している「巨木の里マップ」を確認すると、
  「スギ科の常緑高木。日影神社の御神木として親しまれている木である。推定樹齢400年」
               「 幹周り:3.50m/樹高:15m」
       
                                        拝 殿
       
                     本 殿
       
                社殿左手に祀られている境内社。
           左より稲荷之大神、正遷宮。一番右側の社は不明。 
 
正遷宮の札の左隣にも木札があり、「〇大明神社」と書かれているが、それ以上は解読不明だ。
        
                   静かに佇む社 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ときがわ町 巨木の里マップ」
    「Wikipedia」等
 
 

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田黒日枝神社


 ときがわ町・田黒(たぐろ)地域は、埼玉県比企郡ときがわ町の大字で、旧比企郡田黒村。
 ときがわ町北東部、旧玉川村北東部に位置し、北東で嵐山町遠山、東で嵐山町鎌形、南で玉川、西で五明、北西で小川町下里と接する。都幾川左岸及び槻川右岸に位置し、外秩父山地の東縁からなる山間地にあたる。北東部には小田原北条氏の家臣遠山光景の居城と伝えられる小倉城址(国の史跡「比企城館跡群」のうち)があり、城の北面は槻川の浸食で天然の要害を成している。
 室町時代末期、小田原北条氏の家臣遠山直親によって小倉城(字小倉)に拠っており、永禄7年(1564年)、直親が江戸城に移って後はその子光景の居城となった。この小倉城は天正・元亀年間に遠山光景によって整備されたが、天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原征伐により松山城が落城した際にともに落城したと伝えられている。
 江戸期初めには天領、慶安2年(1649)に一部が熊野神社の別当として大福寺領、元禄9年(1696)より天領分が旗本金田氏の知行となった。村高は『武蔵田園簿』によれば101石余、『元禄郷帳』では165石余、『天保郷帳』でも165石余。文政10年(1827)に指定された関東取締出役支配下の組合村においては近隣の村々とともに玉川寄場組合に属し、用水は天水を貯めて灌漑を行っていた。また、和紙・小川紙の産地としても知られた。
 1889年(明治22年)の町村制施行により、玉川郷・五明村・日影村と合併し、田黒村は玉川村の大字となった。さらに2006年(平成18年)玉川村の都幾川村との新設合併により、ときがわ町の大字となり、現在に至っている。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町田黒1199
             ・ご祭神 大山咋命
             ・社 格 旧田黒村鎮守
             ・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0334597,139.2978899,17z?hl=ja&entry=ttu
 田黒諏訪神社から一旦「ふれあいセンター田黒」付近の丁字路まで東行し、その路地を左折して、1.5㎞程道なりに北上すると、進行方向左手に田黒日枝神社の朱色の鳥居が見えてくる。
 鳥居前に車を数台留めるスペースがあり、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                                田黒日枝神社鳥居正面
        周囲一帯まるで絵画を思わせるような美しい風景が広がっている。
 田黒北部地域は、外秩父山地の東縁からなる山間丘陵地にあたり、南西から北東方向へと流れてきた槻川が、大平山(標高179m)の麓で流れを大きく南へ変え、半島状に細長く突き出た丘陵を取り巻くように流れている、その間の南北にあるなだらかな段丘面に沿って集落が形成され、その中央部に鎮座するのが田黒諏訪神社である。
 考えてみるとこの地は行政区画上、ときがわ町の地域となっていて、この地のみが縦長い三角形状に張り出した突出部となっている。ただ地形上の観点から考えてみると、嵐山渓谷の一角といっても良い。
 鳥居周辺も綺麗に整備されていて、周囲一帯槻川が蛇行して形成された嵐山渓谷、及び外秩父山地の山々が創り出した見事な景観と豊かな自然とうまく調和されている。
       
         鳥居の右側傍に社号標柱と共に、猿田彦石碑・庚申塔が並んで立っている。
 鳥居の社号額には「山王宮」と記されており、ご祭神である大山咋神の別名「山王」から称したものと考える。この「山王」とは、中国天台山の鎮守「地主山王元弼真君」に倣ったもので、全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である日吉大社の通称「山王権現」に倣ったものであろう。
 なお、古くから山岳信仰の対象とされてきた比叡山は「日枝(ひえ)の山」とも称していたが、この比叡山には、本来、山の全域において、大山咋神の他にも多数の神が祀られており、最澄が延暦寺の守護神として認識したのは、大山咋神だけでなく、その他の「諸山王」を含めた、比叡山の神々全体のことであったとも指摘されているようだ。

『新編武蔵風土記稿 田黒村』には、田黒日枝神社を「山王社」として記載している。
 熊野社 慶安二年社領として 五石六斗の御朱印を附せらる、
 別當大福寺 天台宗 下青鳥村浄光寺の末 延命山地蔵院と號す 開山の僧を賢仙と云 示寂の年代を失ふ 本尊地蔵を安ず、
 地蔵堂、
 山王社 村の鎮守なり 大福寺持、

        
             鳥居を過ぎると見事な枝垂れ桜が聳え立つ。 
         まさに他の追随を許さない「孤高なる美」がここにある。

         緩やかな登り斜面に沿って参道が通じている(写真左・右)。
        
                               拝殿手前の様子
     大橋黒石神社のように巨木に注連縄を張って鳥居の代わりにしているようだ。
        
                                         拝 殿
 日枝神社 玉川村田黒一一九九
 当地は槻川が大きく蛇行し、半島状に細長く突き出た丘陵を取り巻くように流れている。
 東側の段丘に沿って集落が形成され、その中央部に鎮座するのが当社である。丘陵上の小倉城跡は、戦国期の山城で遠山右衛門太夫藤原光景の居城と伝える。遠山氏は、後北条氏に仕え小倉城の初代直親は兄の康景が永禄七年(一五六四)に討死したため跡を継いで江戸城主となり、小倉城は子の光景に譲った。しかし、豊臣秀吉の小田原城攻略の折、松山城と共に落城した。『風土記稿』田黒村の項に「光景は隣村遠山村の遠山寺の開基檀越にして、天正十五年(一五八七)五月卒せし人なれば、爰に住せしも元亀・天正の頃なるベし」と記されている。
 社伝によれば、当社は光景の守護神として元亀元年(一五七〇)に近江国の日吉山王大権現の分霊を勧請したとされる。『風土記稿』「山王社村の鎮守なり、大福寺持」とあり、化政期(一八〇四-三〇)には村鎮守となっていた。別当の大福寺は城の南裾にある天台宗の寺院で、下青鳥村浄光寺の末寺であった。開山の賢仙は、示寂の年代を伝えておらず、草創年代は不明である。
 明治初年に現社号に改めた。大正三年四月に雷電神社を合祀、次いで翌四年一月には城跡に鎮座していた熊野神社を合祀した。その際、当社の本殿が老朽化していたので、熊野社の社殿を移築した。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
        
                        拝殿から参道を撮影
       筆者個人として、拝殿から見るこの風景を神々しく感じてしまいます。
    加えて、参道から鳥居のライン延長上に聳え立つ小高い山がどうしても気になります。  

 
         参拝終了後、一旦進路を北上し、谷川橋下の槻川を撮影する(写真左・右)。
 槻川は清流で有名で、この中流域では、東秩父村から小川町にかけて手漉き和紙(細川紙)の生産が盛んであることにも納得できる。谷川橋上から見ても、透明度が高く、その水質の良さは分かる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
Wikipedia」等
  

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田黒諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町田黒718
             
・ご祭神 建御名方命 大山咋命
             
・社 格 旧田黒村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 4月10日 例大祭 10月9日 新嘗祭 11月25日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0191288,139.2913478,16z?hl=ja&entry=ttu
 嵐山町・鎌形八幡神社から埼玉県道173号ときがわ熊谷線を南下し、450m程行った信号のある十字路を右折、その後「ふれあいセンター田黒」の建物が右手に見える先の十字路を左折する。500m程進むと「明王院」という看板が見える路地が見えるので、そこを左折し、小川を越えたすぐ右手奥に田黒諏訪神社の鳥居が見えてくる。
 実際は、玉川春日神社から県道を北上してから、上記十字路を左折して社に到着したわけであるが、説明する際には鎌形八幡神社からのルートのほうが近いので、そちらを採用した次第だ。
 鳥居前の石段のすぐ左手に境内に通じる道があり、そこの一角に車を停めたから参拝を開始する。
        
                               
田黒諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』による 「田黒村」の解説によれば、「玉川郷の北に位置し、西は五明村など、村の南東外れを都幾川が北流し、北は同川支流の槻川を挟み遠山村(現嵐山町)など。田園簿によれば田高三八石余・畑高六三石で、幕府領。元禄郷帳では高一六五石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本金田領、ほかに地内大福寺領があった。以後、同領のまま幕末に至ったものと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」など)。寛永十一年碑に武州「田畔村」と記載されている。
 検地は寛文八年(一六六八)に幕府代官堀次郎右衛門によって実施された。化政期の家数四五(風土記稿)。明治九年(一八七六)頃には戸数六〇・人数三一二、馬二六。男は農業・炭焼、女は耕・織・紙漉を主とし、おもな産物には繭五〇斤・生絹一三〇疋・塵紙三〇〆・鶏卵五〇〇個・薪一千五〇〇駄・炭一千五〇〇貫などがあった(郡村誌)」と記載されていて、ときがわ町においても最北端のつけ根部に位置し、地形的にも嵐山渓谷一帯に属する地域でもある。
 田黒諏訪神社が鎮座する地は、田黒地域内に在って「入田黒」という字にあり、細い谷の奥部であることから入田黒の地名が付されたという。嵐山渓谷からは南側にあり、若干離れているが、この地域も緑豊かな地域である。
 
    綺麗に整備された石段(写真左)と、その先に見える神明造りの鳥居(同右)。
        
          鳥居の先にはもう一段昔ながらの石段があり、その先に境内の空間が広がる。
           よく見ると、境内中央には「草相撲」の土俵がある。
       
                                      拝 殿
 諏訪神社 玉川村田黒七一八
 当地は玉川村北東部の大字田黒のうち入田黒と呼ばれる地区である。細い谷の奥部であることから入田黒の地名が付されたのであろう。
 当社は、谷の南側にある春日山の尾根上に祀られており、江戸中期に信濃国諏訪神社(現諏訪大社)から勧請されたと伝えられている。
 県内の諏訪神社は、ほぼ全県にわたりその分布が広がっているのが特徴である。勧請の始まりは鎌倉時代で、県内は鎌倉街道上道が通り武将の往来が多かったこと、武蔵武士団の発生地であることが広く勧請される要因となったと考えられる。
 また、その大半は天正年間(一五七三〜一五九二)を中心に前後二百年間に勧請され、新しいものでも江戸中期までである。これは、本社の大祝であった諏訪安芸守頼忠が天正十八年から二年間、奈良梨に移封されたこととかかわるのであろうか。
『風土記稿』には、「八幡社聖天諏訪を合祀す、明王院の持」とあり、当社は八幡社の合祀社の一つであった。また、安政三年(一八五六)に奉納された「諏訪大明神御祭礼」の幟が現存している。
 別当の明王院は、真言宗の寺院で入間郡今市村法恩寺の末寺、開山の栄専は寂年を伝えておらず草創年代は不明である。なお、八幡社と聖天は『郡村誌』に見えず、明治初年には既に祀られていなかった。
                                  「埼玉の神社」より引用

               
          拝殿上部には 「諏訪神社 由来」の案内板が飾っており、
     そこには例祭、本殿等の造り、由来の他に
「諏訪神社の草相撲」の記載がある。 
      但し、この案内板はガラス張りのため、光の反射による見えない箇所もあった。
諏訪神社由来
祭神  建御名方命 大山咋命
祭祀  元旦祭 一月一日
    祈年祭 四月十日 
    例大祭 
十月九日 
    新嘗祭 
十一月二十五日
境内地 二三四坪四合八勺(七七四平方メートル)
    昭和二十四年四月三十年 無償譲与許可
本殿  木造瓦葺流れ造り
    間口、奥行各一間(一、八メートル)
拝殿  切妻造瓦葺間口二間(三、六メートル)
    奥行三間半(六、三メートル)
〇〇建築物 社務所 木造切妻瓦葺 

      鳥居 石造 神明造 一基
(中略)

 田黒の諏訪神社がこの地に分司されたのは江戸時代の中期で、今から凡そ二百年前と思われる。
明治四年(1871)に社格(村社)となり、明治四十五年(1912
)五月二十二日、字石場沢無格社山神社を合祀した。例大祭は、明治四十五年まで旧七月二十七日であったが、その後九月二十八日に改められ、昭和五十一年より十月九日に改訂された。
 大祭の神賑行事に、古くより相撲が行われた。昔、或る豪族に、子供が生まれたが病弱で育ちが悪かったので、その将来を憂えた当主が、当時有名な力士を神前に招へいし〇〇を抱いて四股を踏ませたところ、その翌(以下略)立派に成育した(以下略)」
                                  「諏訪神社由来」より引用
         

             嘗て草相撲が盛んだった往時を偲ばせる佇まいを感じることができる。
       
                              境内にある「新築記念碑」
 新築記念碑
 田黒村鎮守氏神様として氏子崇敬者はもとより、近郊里人にまで信仰の厚い当諏訪神社は、天正年間、信濃国諏訪大社より勧請され、其の後八幡社、聖天社を合祀し、明王院持ちとして護持されてまいりました。
 戦後、社殿は老巧し境内は荒廃して、御神威をけがし畏縮して居りました。茲に氏子崇敬者相計り、御本殿の外霞殿及社務所の新築、境内地及参道の整備拡巾等を実施、平成六年、入田黒土地改良事業、ゴルフ場入口道路砂防事業に境内地一部を協力し、代替地として久保田三六七―七番地七五一平方米を境内地として取得した。
 御神徳の高揚と、地域住民の融和発展を念願して、事業完成を祝し、本碑建立する(以下略)。
                                     記念碑文より引用
 
    境内左手に祀られている境内社         社殿右側に鎮座する境内社
            稲荷社であろうか。               詳細不明
 
 ところで「埼玉の神社」に記載されている「諏訪安芸守頼忠」は、戦国時代から江戸時代初期の武将で、信濃諏訪藩の基礎を築いた。従兄弟に当たる諏訪総領家当主頼重が天文11年(1542)武田信玄により自刃させられたため、流寓の身となる。
 諏訪郡は天正
10年(1582)の武田氏滅亡後織田信長により河尻秀隆に与えられたが、6月に信長が死ぬと頼忠は諏訪家旧臣千野氏らに擁立されて本領を回復した。一時北条氏直に属し徳川家康軍と戦うが、のち家康に従い同11年所領を安堵された。
 天正18年(1590)、家康が関東に移ると頼忠もこれに従い諏訪を離れ、武蔵国比企郡奈良梨・児玉郡蛭川・埼玉郡羽生に計1万2,000石の所領を与えられた。文禄元年(1592)には上野国総社に所領を移された。この頃に家督を嫡男の頼水に譲った。
 慶長
5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、頼水が諏訪勢を率いて出陣し、頼忠は江戸城の留守居役を務め、この功により嫡子頼水と共に諏訪の旧領に復帰した。没年は慶長11年(1606)とされるが、慶長10年(1605)とする説がある。
        
                                    拝殿からの風景
 つまり、頼忠は、天正18年(1590)から2年間、武蔵国比企郡奈良梨・児玉郡蛭川・埼玉郡羽生に計1万2,000石の所領を徳川家康から与えられ、武蔵国に在住していたことがわかる。武蔵国内に諏訪神社が多く鎮座しているのも、この諏訪安芸守頼忠が一時的にも武蔵国に所領を持った事と関係しているとも考えられよう。
 なにしろ東国では絶対的に有名な諏訪神社の「総領家当主」という肩書を持つ人物に対して武蔵武士は煌びやかに映ったのではなかろうか。平安時代末期、伊豆国に流された源頼朝に対して憧れを抱いた素朴な思いと同じような感情が、そこにはあったのではと推測する。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「朝日日本歴史人物事典」
    「Wikipedia」「境内記念碑・由来」等

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