古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

広野八宮神社


        
              ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町広野927

             ・ご祭神 建速須佐之男命・大己責命・稲田姫命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春季祭典43日 秋季祭典1019
 広野八宮神社は杉山八宮神社同様に関越自動車道・嵐山小川ICの南西側に位置する。埼玉県道69号深谷嵐山線を武蔵嵐山駅方向に進み、「玉ノ岡中学校入口」交差点から2番目のT字路を左折するが、その道は非常に細いので、対向車量のすれ違い等には注意が必要である。
 因みにこの社の住所地である嵐山町広野字深谷の「深谷」は「ふかやつ」と読むそうだ。
 地図を確認すると、杉山八宮神社からは直線距離にして南東方向700m程しか離れていない近距離にこの社は鎮座している。

 広野八宮神社の創建年代等は不詳であるが、貞観10年(868)小川町下里の八宮神社を総社とし、近郷七ケ所に分霊された社の一社で、承平年間(913-938)には経基王が平将門征伐に際して戦勝祈願したと伝える。江戸期には広野村の鎮守として祀られ、当社隣接地の修験泉覺院が別当を勤めていた。
 
 社に通じる県道のT字路を左折すると細い農道となるが、嘗ての参道となっているようで、その
参道を進んでいくと、目の前に「百庚申」と呼ばれる庚申塔群(写真左・右)が並列している。

 庚申塔は庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことである。この庚申信仰とは平安時代に中国から伝わった進行と言われ、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰(民間信仰)や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰とされている。
 60日に一度めぐってくる庚申の夜は言動を慎み、健康長寿を祈念する行事を庚申待ちという。庚申待ちという行事は室町時代に講が結ばれ、江戸時代になると村の講中のものが徹夜で酒食をとるように変化し、村人の連携強化の手立てのひとつとして盛んに行われるようになったといわれる。
 庚申塚に建てる石塔には青面金剛(しょうめんこんごう)と三猿(さんえん)を彫っているケースもある。
 この広野地域の深い信仰心と人びとの強い結束力があって建てられたものであり、当地における貴重な文化遺産ともいえよう。
 
「百庚申」を左側に見ながら参道を進むと、正面はうっそうとした社叢に覆われる(写真左)。そのまま進むとなだらかな上り坂となり、階段の先に鳥居が見えてくる(同右)。
        
                                風格ある両部鳥居
 鳥居の底部あたり、少々朱が落ちている部分もあるが、却って歴史の深さを醸し出している。
 ところで鳥居の先で右側に建物らしき建造物があったが、鬱蒼とした樹木の中に隠れてしまい、確認できなかった。その後編集途中で分かったことだが、鬼神神社が鎮座していた。こちらは川島町にある鬼鎮神社(比企郡嵐山町川島1898)の奥宮であるとされるそうだ。
        
             参道を進むとその先に拝殿が見えてくる。
        
                                       拝 殿
 八宮神社 嵐山町広野九二七(広野字深谷)
 桑畑に囲まれた参道を進んでいくと、目の前に「百庚申」と呼ばれる庚申塔群があり、そこを過ぎると「八宮明神社」の額の掛かった鳥居がある。鳥居から社殿までの参道は緩い坂になっており、その東側には、元は泉覚院と呼ばれる修験で八宮神社の祭祀に深くかかわってきた宮本家がある。
 当社の由緒は『比企郡神社誌』に「本社は清和天皇の貞観十年(八六八)本郡小川町下里の八宮神社を総社とし近郷七ケ所に分霊を祀るといふ。当社は其の一社として鎮祭し、爾後、承平年中(九一三-三八)源経基公東征の際当社に戦勝を祈願せしと伝ふ」とあるのが最も詳しく、『明細帳』では「由緒不詳」としか記されていない。また『風土記稿』には「八宮社 村の鎮守なり、泉覚院持」「泉覚院 本山修験、男衾郡板井村長命寺配下、本尊不動を安ず」と載る。
 旧泉覚院の宮本家は、当社の氏子総代を務める当主の敬彦で三八代目という旧家で、英長の時に神仏分離に遭い、復飾して神職となり、広野(敬彦の祖父)の代まで神職を務めていたという。同家の邸内には鬼神神社が祀られているが、この鬼神神社は、同町川島にある鬼神神社の奥宮であるといわれ、同家が神職を務めていたころには悪魔祓いとして多くの人から信仰され、ことに戦時中は朝敵平定の御利益を求めて祈願者が多かったとのことである。
                                   「埼玉の神社」より引用
       
                境内社 琴平神社・榛名神社

 ところで「宮本家」は旧泉覚院と呼ばれる修験で、八宮神社の氏子総代を務め、祭祀に深く関係のある家であり、近郊に鎮座する杉山八宮神社には明治十六年筆子碑に広野村「宮本広野」という人物も存在していた。
【新編武蔵風土記稿】
・「八宮社 村の鎮守なり、泉覚院持ち」
・「泉覚院本山修験、男衾郡板井村長命寺配下、本尊不動を安ず」
 旧泉覚院の総元締めは男衾郡板井村長命寺だが、男衾郡板井村と畠山氏の本拠地である畠山地区は近距離であり、決して偶然ではない。

「埼玉の神社」によれば、「旧泉覚院の宮本家は、当社の氏子総代を務める当主の敬彦で三八代目という旧家で、英長の時に神仏分離に遭い、復飾して神職となり、広野(敬彦の祖父)の代まで神職を務めていたという。同家の邸内には鬼神神社が祀られているが、この鬼神神社は、同町川島にある鬼神神社の奥宮であるといわれ、同家が神職を務めていたころには悪魔祓いとして多くの人から信仰され、ことに戦時中は朝敵平定の御利益を求めて祈願者が多かったとのことである」とされている。
 この中にある「
鬼神神社」は川島地区に鎮座する「鬼鎮神社」の奥宮と謂われているが、この川島鬼鎮神社」は畠山次郎重忠が寿永元年(1182)菅谷館を築誠するに当たり、鬼門除けの守護神として奉斎されたと伝えられていて、重忠とは深い関係にある社といえる。同様にその奥宮である「鬼神神社」も重忠と無関係な社ではないと考える。              

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杉山八宮神社

 嵐山町・杉山地域は、その行政地域北端が嵐山小川IC周辺、そこから南東方向に流れる市野川左岸地域が西、及び南端部側となり、その北側から埼玉県道69号深谷嵐山線に沿って最終的に市野川に合流する粕川(一級河川)右岸一帯が東・南側端部となる三角地帯を形成する地域である。
 
北、及び南側には市野川、そして粕川の両河川に挟まれている地域ながら、微高地という特性もあり、道を挟んで南西方向約1㎞の所には、室町・戦国時代に築城されたという杉山城も存在する。
 杉山城は鎌倉街道を見下ろす丘陵の南側の突端に10の郭を配置した山城で、実に細かく様々な工夫が凝らされており、その芸術的とも言える高度な築城技術から「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」という評価がなされている城跡で、国史跡にも指定されている。しかしこれほど見事な縄張りを形成しているこの城の築城者は不明で、年代に関しても、従来は縄張りが極めて緻密で巧妙なため、「土の城を極めた」と称賛された「小田原北条氏」の時代に造築されたものと言われていたが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは、山内上杉氏時代の城である可能性が強く、縄張りを主とする城郭史的観点と考古学的観点の見解の相違から「杉山城問題」と呼ばれる謎を生んでいるという。
 杉山城跡の築城者は不明とされるものの、城の立地に関して北方で四津山城(高見城)越畑城に連絡し、南方に鎌倉街道を見下して、その遠方に小倉城を臨むという絶好の条件を備えている。当時の社会情勢から判断して松山城と鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点であったと考えられる。 
        
             ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町杉山671
             ・ご祭神 建速須佐之男命・大己責命・稲田比責命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祭43日 例大祭1017
 杉山八宮神社は嵐山町北東部、関越自動車道・嵐山小川ICの南西側に鎮座する。当社は
粕川右岸の周囲の標高が平均65mのなだらかな起伏のある微高地からも一段高い82.2mの山頂に鎮守する。その西方にはかつて鎌倉街道上道が走り、南西方向約1㎞の所には、鎌倉期の武将金子十郎家忠の居城と伝え、戦国期には松山城主上田案独斎の家臣杉山主水が居城したという杉山城祉があり、山頂からはその風景も眺める事も出来る絶好な要衝地に社は鎮座している。
 社務所や駐車場等なく、道路に面した路肩のような場所に駐車し、急ぎ参拝を行う。
        
 
            
杉山八宮神社は嵐山町立玉ノ岡中学校の北側丘陵部に鎮座する。
        
                                         参 道
        
                     拝 殿
 神社明細帳(嵐山町web博物誌より引用)
 一、由緒
 往古勧請四十五代聖武帝ノ御宇ト申。其后六十一代朱雀院ノ御宇天慶二年二月平将門関東ニ在リテ謀反ヲ起シ朝意ニ叛キ、此時六孫王経基公当村ノ旧城ニ御出陣在テ、藤原秀郷平貞盛ヲシテ當國ノ精兵ヲ募リ将門ヲ討ス。時陣中疫癘流行シ斃者不少、依テ社頭ニ於テ朝敵征討疫癘消除ノタメ御意、頗ル有之靈驗著ク、反賊忽チ伏誅シ、疫頓ニ愈。依テ経基王再ニ當社ヲ修繕シ四方四種ノ村落ニ祀テ八宮神社ト号シ、法施トシテ仁王會六万部御修行有、之今ニ六万塚・六万坂ト申所アリ、城跡モ僅ニ存ス。此言詳ナラスト雖モ傳テ有之今ニ春秋両度祭典ヲ成シ、皇國安全ノ祠祝ヲ奉ス。依テ前摘ヲ記載ス。
 明治四十一年三月三日上地林四畝十三歩境内編入許可

 上記「神社明細帳」の由緒によると、杉山八宮神社は第45代聖武天皇の御代(72448)の勧請である。また天慶2(939)には、平将門の乱の沈静のため当地の旧城に出陣した経基王が、朝敵征討・疫病消除を当社に祈願したところ霊験あらたかであったので、社殿を修繕し、四方四種の村落に分祀して八宮神社と号し、法施として仁王会六万部を行った。当社南西の六万部塚・六万部坂の地名は、これにちなむものであるという。確認は必要だが、社伝のいう箏を信じれば、かなり古くから信仰されている社となる。
                  
                               境内にある「
杉山寶齋退筆塚銘」
        
                    参道の様子
『新編武蔵風土記稿』比企郡杉山村条には「中古上田氏の臣にて庄主水(或は杉山主水とも)と云ふ者住せし所とも云へり」と記載されていて、松山城主上田案独斎の家臣杉山主水が杉山城に居城していたという。
 尚この杉山主水という人物は「庄」氏であるという。武蔵七党のひとつであり、諸々の武士団の中では最大勢力の集団を形成していた「児玉党」の棟梁的な立場であった阿保姓庄氏であり、その一派が旧鎌倉街道を利用してこの旧杉山村に移動・定住し、「杉山」姓と名乗ったという箏なのだろうか。
        
           杉山八宮神社近郊にある「杉山城跡」の掲示板。                
               

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中爪八宮神社

        
            ・所在地 埼玉県比企郡小川町中爪1039
            
・ご祭神 素戔嗚尊
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 春大祭418日 秋大祭1019日 天王様715日
 中爪八宮神社は熊谷を起点とすると、埼玉県道11号熊谷小川秩父線を小川町方向に進み、「奈良梨」交差点を左折する。埼玉県道296号菅谷寄居線に合流して、2㎞程直進し「嵐山・小川IC」交差点を右折。再度埼玉県道11号線に合流するが、西方向に進みながら500m程先の十字路を左折すると、天台宗薬王山瑠璃光院普光寺が右側にあり、その南側に隣接して中爪八宮神社は鎮座している。
             
                 中爪八宮神社 社号標柱 
        
                 中爪八宮神社 正面鳥居
 当地中爪地区は小川町の北東部に位置し、北、南、西側は同町下横田、小川、東小川地区と、東側は嵐山町に接している。境内の周囲には、桑畑と民家が散在し、のどかな田園風景が広がっているが、南側に望む丘の斜面には大規模な住宅団地が造成されており、開発の波が当社の近くまで迫っている。
 
 長く伸びた参道。お子様用の遊具も見える。     参道の先に社殿が見える。
  中爪八宮神社の創建年代等は不詳ながら、普光寺が元和2年(1616)に創建していることから、その頃の創建ではないかという。また、徳川家康の関東入国後に当地の領主となった旗本高木甚左衛門正則が建立した毘沙門堂が前身とも伝えられ、普光寺が創建する際に、毘沙門堂が当地へ遷されて八宮社と改称したとも推定されている。
        
                     拝 殿
 
          拝殿・木鼻部にはさりげなく精巧な彫刻が施されている。
 八宮神社 小川町中爪一〇三九(中爪字馬戸場)
 中爪の普光寺は、「大師様」もしくは「厄除け大師」の通称で広く知られる天台宗の寺院である。当社は、この普光寺の西に隣接し、参道入口には火の見櫓が立っているため、遠くからでもその位置がよくわかる。
 当社は、中爪の鎮守として祀られてきた社で、江戸時代には普光寺が別当であった。創建の時期は明らかではないが、普光寺の創建が元和二年(一六一六)と伝えられることから、当社もその前後に勧請されたものではないかと考えられている。また、中爪村の名主を務めた本多家に残る古文書には「寛保三年(一七四三)鎮守八宮大明神建立、五月ヨリ始メ九月八日成就」とあるが、これは再建を意味するものであろう。
 『明細帳』には、当社の祭神について、「元毘沙門天ト唱ヘ来リ候処維新以来素盞嗚命ト改称」と記されているが、当社と毘沙門天の関係は、現在では既にわからなくなっている。
 しかし、普光寺の寺伝によれば、同寺を草創した徳川家康の臣高木甚左衛門正則は古くから地内にあった毘沙門堂を厚く信仰していたとされ、普光寺創建以前には当社と毘沙門堂との間に深いかかわりがあったのかもしれない。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
      社殿の右側には蚕影山社           社殿右側奥には天神社
        
                   境内社 東照宮
 中爪八宮神社の隣には東照宮が鎮座する。境内に祀られている東照宮は、徳川家康公を祀る社で、幕臣であった高木甚左衛門正則が寛永年間(16241644)に家康公の御真影(絹本着色の画像) を普光寺に奉納した際に、これを安置するため建立されたものである。元は寺持ちであったが、明治以降、神仏分離によって一社となった。この御真影は普光寺に保管されており、毎年417(近年は18)にはこれを掛けて祭典を行うという。
                             「小川町の歴史別編民俗編」より引用

                            中爪八宮神社社殿、東照宮と並列して薬王山瑠璃光院普光寺が建立している。

 天台宗寺院の普光寺は、薬王山瑠璃光院と号し、徳川家康が関東入国した後に、当地の領主となった旗本高木甚左衛門正則が、自身の信仰する毘沙門天を祀る堂宇を村内上郷に建立、隠棲した赤浜普光寺住職の堂庵として営まれていたという。高木甚左衛門正則は、三代将軍徳川家光から徳川家康公画像を拝領した際、中爪八宮神社隣接地に東照宮を建立、東照宮建立に際して、毘沙門天を祀る堂庵も当地に移して一寺となし、尊英法印が正保2年(1645)開山、慶安元年(1648)には寺領10石の御朱印状を幕府より受領していた。当寺では毎年13日に「厄除元三大師」の祭事を執行していることから、「大師様」とも称されているほか、飛び地境内の中爪観音堂とともに小川七福神を祀っている。      

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能増八宮大神神社

 上田 朝直(うえだ ともなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初期は扇谷上杉氏の重臣として仕えていたが、河越夜戦で主君上杉朝定が討死し、後北条氏の家臣となる。武蔵国松山城主。母は難波田憲重の姉妹。上田長則、上田憲定の父。娘(蓮覚院)は北条氏勝の妻。通称・又次郎、左近大夫、能登守。出家して安独斎宗調。
出自は武蔵七党の西党の流れを汲む上田氏の庶流。上田政広(安独斎蓮好・上野介、元亀2年(157181日没)の子とされる。
 始め扇谷上杉家に仕えて、太田氏宗家を継ぐために岩付城に入った太田資正に松山城を譲られたという。だが、この直前に扇谷上杉家は後北条氏に滅ぼされたために、朝直も後北条氏に従った。朝直は行政手腕に優れており、北条氏康から信任を受けて独自の領国経営を許されたという。天文19年(1550年)ごろに安独斎と号している。だが、永禄2年(1559年)頃には、関東へ出兵して来た上杉謙信に呼応し北条氏を離反している。永禄4年(1561年)に謙信が関東から撤兵すると、再び北条氏に帰参を許されているが、責任を問われて本貫地であった秩父郡に移される。その後、永禄12年(1569年)に武田信玄と三増峠の戦いで戦うなど、武功を評価されて松山城主に戻され、また上田宗家を相続している。晩年は子の上田長則に家督を譲って隠居した。
 小川町能増地区に鎮座する能増八宮神社は、その上田安独斎が当社を崇敬し、社を再興して神領を寄付したとの逸話が残されているという。
                                   「Wikipedia」より参照                                              
        
             ・所在地 埼玉県比企郡小川町能増282
             ・ご祭神 日本武尊
             ・社 格 旧能増村鎮守・旧村社
             ・例 祭 春祭 415日前後の日曜日 秋祭 1017日前後の日曜日 
 能増八宮大神神社は小川町の北東部に位置する能増地区に鎮座する。埼玉県道11号熊谷小川秩父線を熊谷市江南地区から小川町方面に進み、「奈良梨」交差点を右折する。埼玉県道296号菅谷寄居線を北西方向に1.6㎞程進むと、県道184号本田小川線が接続する「能増」交差点に到着。この交差点を左折すると長閑な田園風景が広がり、正面方向にこんもりとした能増八宮大神神社の社叢が見えてくる。但しそこからは道幅が狭い農道となるので、車両と交差する際には注意は必要となる。帰宅後地図を確認すると「能増」交差点からは真東方向で直線距離は300m程に社は鎮座している。
 駐車スペースはほぼないため、一の鳥居を過ぎて社務所方向に細く舗装されていない路面があり、その一角に停めて、急ぎ参拝を行った。
        
                能増八宮大神神社  鳥居正面 
        
                                     参道の様子 
        
                         拝 殿
 神明造りの社殿であるにも関わらず、祭神は日本武尊。河川対策からか、高台に鎮座している。

(能増村) 八宮明神社
 村の鎮守なり、祭神は日本武尊にて、十一面觀音を本地佛とせり、當社古へしばしば丙丁の災に罹りて、社頭も次第に衰微せしを、松山の城主上田安獨斎再興して、神領をも寄附せし由、萬治元年別當秀永が記せし縁起に見えたれど、舊記等は皆失ひて詳なることを傳へず、
 末社。鹿島社、香取社、稲荷社
 別當南光院。本山派修驗、男衾郡板井村長命寺配下、八宮山林蔵寺梅本坊と號す、開山長山法印寂年を傳へず、本尊不動は惠心の作、
                                
『新編武蔵風土記稿』より引用

八宮神社(能増二八二)
 能増の八宮神社は、『新編武蔵風土記稿』に「村の鎮守なり、祭神は日本武尊にて十一面観音を本地仏となせり、当社古しばしば丙丁の災いに躍りて杜領も次第に衰微せしを松山の城主上田安独斎再興して神領をも寄付せし由、万治元年別当秀永が記せし縁起に見えたれど旧記等は皆失ひて詳なること伝へず」と記されており、江戸時代は本山派修験の八宮山南光院が別当として祭祀を行っていた。
 一方、氏子の間では、八宮神社はこの地を治めた豪族が祀ったと伝えられており、古くから能増の村鎮守として村の人の心の拠り所となってきた。また、神社の約五〇メートル東を流れる市野川には日本武尊が東征の折に修祓をしたと伝えられる精進場という場所があり、かつては参詣する人はそこで心身を清めたものであった。
 特別な信仰はないが、「いろいろな点で村人をお守り下さる神様である」といわれ、さまざまな願かけが行われており、「神社のお陰で救われた」という人も多い。
 また、氏子の間では、鎮守として八宮神社を祀っていることから、手締めは縁起をかついで「三・三・二」の八回で行うのが習いとなっている。
                             「小川町の歴史別編民俗編」より引用
        
                                本 殿
 
  拝殿手前、右側には
天神・金刀比羅合殿      拝殿左側にある石柱。詳細不明。     
 

   
本殿左側に境内社 神明・浅間合殿     神明・浅間合殿の隣にある石祠。詳細不明。

 能増八宮大神神社が鎮座する能増地区は、小川町の北東の境に位置し、一帯は、なだらかな丘陵地帯に挟まれたほぼ1㎞幅の帯状の平野部で、その中央を縫うように豊かな市野川が流れ、水田が開けている。地名は、沼地のノマに由来するという説があり、実際、新田開発に当たり、沼を利用した足り池や新田池などがあった。能増と表記されるようになったのは、正保年間(1644~48)のことで、天正20年(1592)に旗本の水野新右衛門長勝が当地を知行した際の御朱印には「能増郷」となっている。因みに上州赤城山小沼出土の応永十三(1406)年鰐口銘に「武蔵国比企郡延益郷地蔵堂住」とあり、地頭水野家譜には「納増郷」と記載されている。
        
                    
 能増八宮大神神社は、市野川沿いに鎮座している。周辺は地勢的に耕地に恵まれていることから、古くから開発されていて、平安期の集落跡である岡原遺跡がある。また、交通の要所でもあり、当社の西脇に旧鎌倉街道が通っており、付近の小名の「町場」が、往時の繁栄を偲ばせている。鎮座立地から推して当地一帯の開拓者であったと考えられ、北殿・南殿という小名の地が周辺にあることから、有力者が存在していたと推測されている。(「埼玉の神社」から参照)
 一体どのような人物がこの地域を統治していたのだろうか。

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原川駒形神社

        
             ・所在地 埼玉県比企郡小川町原川74
             ・ご祭神 駒形大神(推定)
             ・社 格 不明
             ・例 祭 例大祭1015日 祈年祭43日
 原川駒形神社は笠原諏訪神社の北西100m程の位置に鎮座している。鳥居左側に若干の空間があり、そこに車を停めて急ぎ参拝を行う。小川町原川地区は兜川上流の山間地に位置し、古くは玉川領に属していたが、正保から元禄年間にかけて、竹沢村が六村に分かれた際に原川村として独立したという。
 創建由来として、天正十八年(1590)の松山城陥落の際、落武者の一部は大河原村(現東秩父村)に逃れたといわれており、城主上田安独斎朝直の墓も同村内の浄蓮寺に現存する。
 同寺の過去帳によると、松山城にいた三人の家老の一人、原川丹波守が落ち延びて隠れ住んだのが当地であったという。松山城主上田案独斎に仕えた家老原川丹波守が、天正18年(1590)の松山城落城後に当地に土着、原川丹波守が持参した「袂石」を奉斎、「明細帳」では慶長4年(1599)に再建したという。
        
                                 原川駒形神社 正面撮影
           
                                   参道・社号標柱
        
                     拝 殿
 駒形神社 小川町原川七四(原川字桜沢)
 当地は、兜川上流の山間地にある。古くは玉川領に属したというが、正保から元禄年間(一六四四-一七〇四)にかけて、竹沢村が六村に分かれた際に原川村として独立した。
 これより先、天正十八年(一五九〇)の松山城陥落の際、落武者の一部は大河原村(現東秩父村)に逃れたといわれており、城主上田安独斎朝直の墓も同村内の浄蓮寺に現存する。
 同寺の過去帳によると、松山城にいた三人の家老の一人、原川丹波守が落ち延びて隠れ住んだのが当地であったという。このころ当社も創建されたと伝わるが、『明細帳』には慶長四年(一五九九)に再建とあることから、当初は恐らく小さな祠であったのであろう。その後、次第に村民の信仰を集め、当村独立の際に村の鎮守として位置づけられたと思われる。境内にある「たもと石」と呼ばれる高さ五〇センチメートルほどの円柱形の石は、丹波守が松山城から落ち延びた時に袂に入れて持ち出したものと言われ、例祭には注連縄を張って祭典を行っている。
 参道北側の斜面一角に平地があり、地蔵尊、法印墓石等が建つことから、かつての別当があったことが推察される。丹波守の後裔にあたる原川健家で現在祀られている雌雄の木彫りの馬は、この当時の神体であり、神仏分離により原川家に預けられた。左甚五郎の作と伝え、夜毎作物を食い荒らすので、古くは鎖に繋がれていたという。
                                   「埼玉の神社」より引用 

 
   拝殿に掲げている「駒形神社」扁額        石碑には仙元大神宮。その奥には稲荷社。
        
                   左側には参宮記念参道改修之碑。その横にある「袂石」。

  原川の駒形神社は、天正十八年(一五九〇)に松山城が陥落した際、城主・上田案独斎に仕えた三人の家老の中の一人、原川丹波守がこの地に落ち延びて隠れ棲んだ際に、祀ったものであるという。また、境内にある高さ50㎝程の「袂石」と称する円柱状の石は、原川丹波守が袂に入れてきたものと伝えられている。
        
                                      鳥居の右側で、道路沿いにある地蔵堂。
         
その隣には如意輪観音や庚申塔、無縫塔などが並んでいる。   

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