古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上中条川北神社

 上中条川北神社が鎮座する「上中条」。「別府」「奈良」等にも同じ趣を感じ、どことなく上古的な印象で、遥かなる歴史を感じずにはいられない地名だ。地名由来には幾つか説があり、「上中条」の本来の名称である「中条」は、条里制によっておこったものとみられ、その遺構もある。条里制とは、大化の改新後しかれたもので、土地を区画するのに、縦の方向を里(り)、横の方向を条(じょう)とし、多くは北から南へ一条、二条・・・と数えた。この条が地名となり残っている説もあったり、武蔵七党横山党、中条氏の在所名で、源頼朝に仕えた法制家・中条家長の出身地とも言われたり、河原党中条氏、私市党中条氏、児玉党中条氏等にもその由来もあり、どれが定説であるか分かっていない。地形的に見てもこの地は荒川扇状地で、古代から人々が定住して開発された地域の一つであることは確かであろう。
 なお、初めは、“中条”であったが、いつの頃からか上中条・下中条の二つに分かれた。下中条は、現在行田市に属する。                                   
        
              ・所在地 埼玉県熊谷市上中条2500
              ・ご祭神 日本武尊、蔵王権現像
              ・社 格 旧指定村社
              ・例 祭 不明 
 上中条川北神社は埼玉県道303号弥藤吾行田線を妻沼・弥藤吾方面に進み、700m程北上し、T字路を右折する。その後「熊谷上中条簡易郵便局」のあるT字路を右折し、民家と水越別方寺会館の間に上中条川北神社の鳥居が見えてくる。
 水越別方寺会館には道路沿いに車両が数台分駐車できるスペースがあり、そこに停めてから参拝を行う。
              
                    社号標柱
        
                  上中条川北神社正面
        
             60m程の参道が続き、その先の社叢林中に社殿は鎮座する。
 
  参道途中右側に鎮座する境内社。稲荷社か    稲荷社の左手並びには石祠が3基。
        
                                       拝 殿
 川北神社 熊谷市上中条二五〇
 当社は、荒川扇状地にあり、古代から開発された所で、地名の中条は古代の条里制に由来する。『風土記稿』に「蔵王権現社 社領十石五斗、前と同年に(慶安二年・一六四九)付せらる、別当実相院 是も常光院の(天台宗)門徒なり、大塚山昌福寺と号す」とある。
この蔵王権現社が当社であり、社蔵文書の明治三年十二月「吉野神社明細書」に「字川北鎮守吉野神社、社号ハ元蔵王権現ト称来リ候処明治二已年十一月吉野神社ト改正仕候。従来天台宗実相院ニテ別当仕来候処、先般神社御見分ノ節、御出役様へ御伺済ノ上同村秋葉神社神主島田清美方へ奉幣ヲ頼ミ申候」とあり、社号改称と奉仕者変更を知ることができる。なお、島田家は、字荒宿の鎮守秋葉神社の別当を務めてきた当山派修験大学院が復飾したものである。
 神仏分離に伴い、祭神は日本武尊とされたが、内陣には現在も像高七二センチメートルの蔵王権現像が安置され、氏子に権現様と呼ばれて崇敬されている。この像を納める厨子には「宝永第四丁亥暦(一七〇七)九月吉日」の墨書銘がある。
 今日の社号川北神社は、明治四十三年五月二十日の改称であり、『明細帳』に「字荒宿無各社秋葉神社、字吉野無各社八王子社ヲ合祀シ、社号ヲ川北神社ト改称ス」とある。
                                  
「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 
        参道右側にある竣功碑        竣功碑の隣には由来碑と思われる石碑あり
                           読み取ることが難しく断念

 上中条川北神社は嘗て「蔵王権現社」と共に「吉野神社」と号していた。中条地域周辺には「吉野」苗字が多い。苗字由来を調べると、成田氏族吉野氏に当たるらしい。
 成田氏族吉野氏は埼玉郡上中条村字吉野より起り、成田系図に「成田太郎助広―五郎助忠(寿永二年義経に従ふ)、弟六郎(彦、吉野三郎)」と見える。字吉野も吉野氏の館が嘗てあった名残として、字名に残っているという。

        

 上中条川北神社から南東方向に直線距離にして700m程に鎮座する三幸神社も上中条地域の鎮守社である。由来書によると、上中条の地内は、差鍋堀という用水を境に二分されており、その北側は、川北、南側は、川南と呼ばれていて、川北神社は文字通り川北地区に鎮守社、三幸神社は川南の鎮守社である。因みに上中条の総鎮守は川南の三幸神社である。
 三幸神社は川南の鎮守として、明治六年に常光寺持ちの千形・桜神社及び宝性寺持ちの雷電神社の三社を合併し、更にそれを村のほぼ中央にあった女体神社の境内に設立された社である。

 差鍋堀という用水という境が存在するとはいえ、上中条という狭い区域に、川北神社・三幸神社がしっかりと鎮座している。この区域が古代から如何に生産力が高く、定住していた住民も多かった所だったという事なんだろう。


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柿沼雀神社

○神徳無窮(原文)
 神代之時 天照大神隠天磐窟也天地晦冥災妖並起於是八百萬神集議天鈿女之命乃為異装舞神楽演俳優為諧謔以解頣慰大神心故再君臨于高天原四海復照明矣謹按雀神社者即祭命社而自上古鎮座此地 村民仰其霊験享保三年十月十九日神祇管領卜部兼敬以宗源宣旨奉授正一位雀宮大明神位記爾授崇敬益深矣明治戊申歳秋九月氏子相議合祀境内八坂大神天滿天神二社擴社地更増築舊社改設拝殿竝祭器庫期年而竣成矣於是乎官指定神饌幣帛料供進神社頃日氏子建石欲傅比事于後微文於余依叙其梗概云爾
神の恵みを永遠に(訳文)
 神代のとき、天照大神が天の岩戸にお隠れになり、天地が暗闇になる災いが起きた。八百万の神が集まり協議し、このためにやむを得ず天鈿女之命が変わった装いで神楽を舞い、神々が大声で笑いおどけるなど演技し、大神の心が慰み、再び君主となり 高天原や四海を照らし元のように明るくなった。雀神社の者は慎んでお願いし、祭命社として直ちに此の地に鎮座し、村民はその霊験を仰いだ。享保三年十月十九日神祇管領卜部兼敬の宗源宣旨に正一位雀宮大明神の位を奉授と記されている。その後、崇拝する心は益々深くなった。明治四十二年九月氏子が相談し、八坂神社、天満天神の二社を境内に合祀し社地を広げ、更に旧社を増築、拝殿並びに祭器庫を丸一年かけて改設した。そして、官より神饌幣帛料供進神社に指定され、その頃氏子より碑を建てて此のことを記録し後世に残すように依頼され、私はあらましを短い文にした。
        
              ・所在地 埼玉県熊谷市柿沼289
              ・ご祭神 天鈿女命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 元旦祭 春・秋の日待祭 夏のお祭り(八坂神社祭り)
                   *各祭日時不明    
 柿沼雀神社は国道17号バイパスを熊谷・鴻巣方面に向かい、埼玉県道341号太田熊谷線に交差する地点で左折する。国道17号バイパスから埼玉県道341号線に乗り換える際には、17号バイパスは高架橋となっていて、その手前付近で下に降りるようにしなければいけないので、そこのところは注意が必要だ。
 埼玉県道
341号線を北上して700m程進むと、右側にコンビニエンスがあり、その先のT字路を右折するとすぐ左側に柿沼雀神社の鳥居が見えてくる。社殿、参道とも南向きで南側の道に面している。多くの神社は主要な街道筋から参道がつながる形だが、この社は街道(ここでいうと埼玉県道341号線)に直接面していないのは珍しい。
        
                                     
柿沼雀神社正面
 村社以上の社格の社には通常、隣接して社務所や集会所があるが、この社にはそれがない。県道に面して食堂はあり、広い駐車場はあるが、私的な駐車場の為停めることは流石に気が引ける為、今回は路上駐車となり、急ぎ参拝を行った。
 
  鳥居の扁額には「正一位雀宮大明神」と刻印   50m程長い参道の先に拝殿が鎮座する。

 熊谷市柿沼地区に鎮座する「雀」神社。天鈿女命の「ウズメ」が「スズメ」に転じたものであると説かれているが、どちらにせよ「雀」は「スズメ」のことで、子供の頃に鳥と言われれば、ハト、カラスと並んで、やはりスズメを思い浮かべる。スズメを思い浮かべるのは、私たち人間の生活に密着した可愛い鳥だからだ。
 スズメとは、全長14-15cmスズメ目ハタオリドリ科の小鳥で、頭部は赤茶色。背は赤褐色で黒斑がある。スズメの「スズ」は、その鳴き声か、小さいものを表す「ササ(細小)」の意味で、「メ」は「群れ」の意味か、ツバメ・カモメなど「鳥」を表す接尾語であるという。
 春先は苗の害虫を食べる益鳥として扱われ、秋には稲の籾米(もみごめ)を食害する害鳥となり、古来からスズメを追い払うため、「スズメ追い」「鳥追い」などという風習が各地にあり、それに関する民謡、民話なども伝えられている。かかしもスズメ追いの道具として作られたものである。害鳥としてスズメを追い払う行為が行われる一方、スズメの恩返しなどの報恩譚では親しみを持って描かれてきた。雀はチュンチュンとよく囀るため、噂話を好む人を雀に例えることがある。
 日本人のアイデンティティがスズメによって形づくられている,なんてことは言わないが,あの茶の色,あまり主張しない姿,それらは,なんとなく日本人好みのところがあるのではないかと考えさせられる。

 すいません。「雀=スズメ」のことで、つい脱線してしまいました。
        
                                        拝 殿
○郷土こぼれ話 雀神社 (柿沼)
 雀神社は柿沼地区の神様(うぶすな神)です。神社の歴史は古く、宝暦2(1752)に記された縁起があります。これは、祭神である天鈿女命が登場する神話です。また、ウズメが転じてスズメになったと説かれています。享保3(1718)「雀之宮大明神」が正一位に叙せられた記録があり、この時の宗源宣 宗源祝詞・幣帛が今も本殿に納められているそうです。これらのことは、神社西側にある「神徳無窮」(神の恵みを永遠にの意)の碑にも残されています。
 祭神は、天鈿女命・素戔嗚尊・菅原道真です。明治42年、雀宮大明神・八坂大神・天満大神が合祀され、同年拝殿の改修が行われました。合祀に関わる改修だと考えられます。

また、ウズメには、オスメドリ(護田鳥)の意味があります。雀神社は農作物の豊作を祈る神様だといえます。天神様と言われる菅原道真の天神(雷神)も、稲作の神様、学問の神様として御利益が伝えられています。
 (中略)柿沼には、天神山という地区があります。しかし、小字ではないそうです。合祀された「天神社」があった場所が天神山となったのではないでしょうか。また、古くは「現在の熊谷市」に「雀宮神社」が3社あったと言われています。現在残っているのが雀神社(雀宮神社)であり、社は現存しないがその土地の名前として残ったのが、肥塚の雀宮だそうです。
幡羅郡柿沼村総鎮守として、古くからこの地に鎮座まします雀神社は、柿沼の地を鎮め人々の生活を、そして人々を護ってきてくださいました。私たちは、これからも雀様を大切にお祀りしていくことが肝心だと思います。
                 熊谷市ホームページ『郷土こぼれ話』 雀神社 
(柿沼)より引用
 
          本 殿               境内社3社。詳細不明。
        
                                   社殿からの風景
        
       鳥居の近郊にある大幡村道路元標(おおはたむらどうろげんぴょう)

 柿沼地内の雀神社境内に設置されている。花崗岩製で、コンクリート製の台座の上に設置されている。道路の起終点を示す標識で、明治44年に、現在の日本橋が架けられたとき、「東京市道道路元標」が設置され、大正6年の旧道路法で各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされた。

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新島大雷神社(大電八公社)

        
            ・所在地 埼玉県熊谷市新島328
            
・ご祭神 別雷命
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 夏祭り 727日・28日 お日待ち 4月15日、1015日 
 新島大雷神社は国道17号を熊谷方向に進み、「新島」交差点を左折する。手押し式信号である為、一見分かりづらいかもしれないが、道路の両側にはドラッグストア、パソコン家電があるので、それを目印にすれば分かりやすい。左折後やや道幅の狭い道路を道なりに進行すると、Y字路となるので、右側の道を選び、暫く進むと新島大雷神社が鎮座する場所に到着する。
 実のところ、原島稲荷神社からも南西方向に300m程しか離れていない。新島大雷神社周辺には適当な駐車場がないため、伊奈利神社の社務所兼自治会館前の駐車場に置いて、徒歩にて参拝に向かう。
 住宅街の中にポツンと取り残されて鎮座いている社、という印象。
        
                     新島大雷神社 社殿は西向きで鳥居2基も西側にある。
  この西側には一見畑が広がっているように見えるが、他の周囲は住宅街となっている。
        
                         二の鳥居
        
                                     拝 殿
・風土記稿新島村条
「当村は古玉井村の地なりしを、文禄の頃、新島右近なるもの開墾す。新照寺は新島右近が開基にて、右近は慶長十一年三月十四日死す」
「新島」という地域名は、もとは玉井村の内であったのを文禄のころ新島右近が開墾し一村となしたので、開墾者の名をとって村名にしたものとみられる。
 慶長十三年検地帳には「玉井村新島分、正保年間の田園簿に玉井新田と称す」と書かれ、その後元禄年間に「新島村」と記されていて、その歴史的な経緯も垣間見られる。

 また『武蔵志』慶長十三年検地帳には「玉井村新島分、正保年間の田園簿に玉井新田と称す』の文化32月の条に「京円島村改新島村」と記され、「京円島(キョウエンジマ)村」が古い名前で、新島村に改められたことがわかる。
 一説によると、玉井村の地籍であった時は、京円島村とよばれており、その後大きくなり、独立して一村をなした時、新しくできた島(シマには村落の意味もある)ということで新島村と改められたと思われる

 
   拝殿右側にある『大雷神社 由来』木碑           本 殿

『大雷神社 由来』木碑は所々剥がれていて、読めない場所もあるが、そこは承知の上で記載する。。
『大雷神社 由来』
 当地新島は文禄年間(西暦一五九二年)に新島右近が開墾し、慶長年間(西暦一六○八年)には玉井村分と謂われ、元禄期(西暦一六八八年)までには新島村として独立するようになりました。江戸時代には旗本戸田氏や白須氏の領地となり、明治二十二年幡羅郡新島村から大里郡大幡村大字新島〇〇り、昭和七年四月一日に熊谷町大字新島、同八年五月一日、○〇〇〇熊谷市大字新島となる
 当社は古くは大電八公○(○○○○○クシャ)として現○○熊谷市大字新島大天○○○○○○八番地に○○○○○祭神は別雷命(ワケ○以下一行判別できず)の守護神として祀り○○○○○○○○○○後に○○雷神社と改め、明治四十二年四月○○○○○○○○神 ○○○○○○○○○○(祭神 大己貴命)、箱根社(祭神 伊○○○・伊○冉尊)を〇祀し、風の神、安産の神○して近郷の人々の信仰を集○○しました。後に風の神が風邪の神として子供のク○○○○(○のジフテリア)の悪疫除の神様として崇拝されまし○

 新堀に鎮座する大雷神社も同じく「大電八公社」の扁額が拝殿に掲げており、同じ系列の社と思われる。新堀雷電神社は「水神」を祀っていたところから、新島雷電神社も同じく水神を祀っていたと思われる。
        
      社殿右側には末社祠があり大黒天の石像と道祖神の石祠が祀られている。

 熊谷市のホームページには『
郷土こぼれ話』が掲載されていて、その中に「大雷神社 新島)」があり、全文掲載する。

 大雷神社は、新島地区の氏神様です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康等が活躍した時代、新島右近によって創建されました。
 大雷神社は、別雷命(雷の神様)を祀り、五穀豊穣の神様です。また、江戸時代病気が流行したとき、医者にかかることができなかった人々は大電八公様(大雷神社)に病気が治るように願をかけました。神社の拝殿にかけられていた馬のわらじを借りてきて、病人の枕元においておくと不思議と病気が治ったと言われています。お礼に馬のわらじを一つ加えてお返ししたそうです。
 大雷神社は人々を叶えてくれる神様でもあったわけです。御神輿はありませんが、人々の手を煩わせないやさしい神様でもあります。
現在、総代と年番という役員さんが中心になって神社をお護りし、祭事を執り行っています。1月2日には歳旦祭が、7月27日、28日には夏祭りが行われます。また、春(4月15日)と秋(1015日)のお日待ちには、地域の人たちがお参りに行きます。大晦日には、初詣のための準備をしています。
        
                  社殿から鳥居方向を撮影
           社の神様は今の風景をどのように眺めているのだろうか。

 江戸時代中山道に沿って家の数は少ないながらも、新島は神様を中心にして一つにまとまって発展してきました。400年以上たった今もこれからも同じようであって欲しいと思います。これから、社会はますます変わっていくと思いますが、新島地区の人たち皆が氏子として参加し、地域の人が一つにまとまって欲しいと思います。住んでいる人たちが行事に参加し、地域の文化を吸収して、さらに活用しながら次の世に伝えていくことはとても大切なことだと思います。神様に手を合わせること 大雷神社(新島)は、自然を崇めることであり、自然を大切にすることでもあります。そして、私たちは自然からたくさんの恩恵を戴いていることを忘れないようにしたいと思います。


郷土こぼれ話』の後半部分は、単に新島地区の人々を指し示しているのではなく、今を生きている我々に対する教訓にも受け取れる。
 現代社会を生きていく中で、日々の喧騒等により何か大切なものを失いつつある。それでも我々日本人が決して失ってはいけない文化や伝統、精神を改めて感じさせてくれた、今回の参拝であった。


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原島伊奈利神社

 国道407号は、栃木県足利市から埼玉県入間市に至る一般国道で、埼玉県のほぼ中央部を南北に縦貫していて、「妻沼バイパス」は埼玉県熊谷市妻沼から同市石原までの区間指定されている。妻沼から石原までの区間中、熊谷警察署前交差点では、東京都の日本橋と新潟県を結ぶ国道17号と交差し、直進すると秩父や山梨県に向かう国道140号(起点)に代わる。但し便宜上妻沼バイパスという名称が使用されることはあっても、国道407号線としては、最初からこちらが現道であり、バイパスという表現は正確ではなく、正式な標識にバイパスとは表記されていないようだ。
        
             ・
所在地 熊谷市原島1331
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 初午祭 旧暦2月初午の日曜日 4月上旬 「オシシサマ」
 原島伊奈利神社はその熊谷警察署から妻沼に北上する国道407号線(妻沼バイパス)沿いにある家電センターを目印に直進し、「水道庁舎前」交差点を左折すると、すぐ先に原島伊奈利神社の鳥居や参道入口があり、参道の奥に社殿が鎮座している。
 冒頭に説明した国道407号線に関して、「熊谷警察署前」交差点は国道17号と国道140号、並びに国道407号の3つの国道が交わり、渋滞も常時頻発している場所だけに、良くも悪くも県北地域における重要な交差点でもある。
 社殿右隣には前原島自治会館兼社務所があり、そこには適当な駐車スペースがあるため、そこに駐車してから参拝を行った。
        
            道路の角地の一角に鎮座する原島伊奈利神社 
                 正面一の鳥居と社号標柱
 
        石製の一の鳥居              木製で朱色の二の鳥居
        
      二の鳥居の社号扁額には「正一位 村社 伊奈利神社」と書かれている。
 熊谷市のホームページ「熊谷市Web博物館」では「原島」の地名語源として以下の紹介をしている。
「原島」語源
埼玉県地名誌では、原島の「原(ハラ)」は原野の意味ではなくて、ハリ(墾)の転化であろう。シマ(島)は、村落の意味があり、つまり-開墾地(原)に居住すること(島)によってこの名が生じた。
アイヌ語(harasyumaハラシヌマ)で広い石原のことをさす。この地もかつて荒川の流域であり、広い河原であったのだろう。
江戸時代には、徳川氏の直轄地となり、この時代を通じ、旗本知行地として終始した。
        
                     拝 殿
新編武蔵風土記稿大里郡原島村条
「禅宗曹洞派福王寺、本尊毘沙門は熊谷次郎直実の女玉津留、千代津留姫二人の守本尊なりと云」
新編武蔵風土記稿大里郡代村条
古は原島と一村なりしが何の頃か別れしと云ふ。薬師堂の本尊は熊谷次郎直実の女玉津留守護仏なりしと云ふ。禅宗曹洞派東善寺は代島山と号す、開山叱洞長牛は慶長十七年寂せり」
 原島氏は在名にて現存していないようで、代島山は代島氏の開基にて、原島氏の本名は代島氏ではなかろうか。
 また「埼玉の神社」による伊奈利神社(原島)の由緒として以下の記載がある。
『風土記稿』原島村の項にも「三島社 小名今泉の鎮守なり、稲荷社 前原島の鎮守とす、天王社 窪ヶ谷戸の鎮守なり、天神社 以上四社吉祥寺の持」と記されているように、古来、原島には鎮守が三社あり、それぞれ別の廓(村組)の人々によって祀られてきた。当社は、右の文にあるように、前原島の鎮守であり、三社のうちで規模が最も大きく、氏子数も一番多かったことなどの理由から、明治六年九月には原島村の村社になっている。
 当社の由緒については、『明細帳』には「創立不詳」とあり、氏子の間にも創建にまつわる話は何も伝わっていない。ただし、本殿には、神璽と共に伏見稲荷から当社別当の吉祥寺に宛てた分霊証書が納められており、その日付が安永四年(一七七五)四月二十七日となっていることから、江戸時代の中期には既に現在のような姿で祀られていたものと推測される(以下略)。
 
    社殿の左側手前に鎮座する合祀社             本 殿
  左から神輿殿・荒神社・八幡神社・神輿
       
             社殿の左奥にあるご神木か(写真左・右)
 
      社殿裏の石祠がある。詳細は不明    社務所県集会所の奥には厳島神社(辨財天)あり。
        
                               稚蚕共同飼育場の建設記念碑
 郷土こぼれ話・伊奈利神社 原島 )というホームページを確認すると
祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と言い、稲の精霊が神様になったものです。五穀豊穣・商売繁昌・家内安全・養蚕繁昌等のご利益があると言われています」
初午祭は旧暦2月の初午に近い日曜日に行われ、繭の形をした御札や篠竹に繭玉の団子をつけたものが配られます。養蚕繁昌の
伊奈利神社願いの表れです。稲荷大神様が稲荷山に鎮座座されたのが初午の日だったと伝えられ、盛大に行われています」
 と記載されている。
 原島地区は養蚕の盛んな地でもあり、当地に隣接する社務所兼前原島自治会館は、元来稚蚕共同飼育所として昭和39年に建てられたものと建設記念碑には述べられている。

 一昔前の日本では養蚕が盛んで農家では現金収入が得られる副業として養蚕していた家があり、それゆえ蚕神の信仰があった。筆者の本家である深谷市横瀬地区でも数十年前は養蚕を行っていたと、実母から聞かされていた。昔の農家では屋根裏に蚕小屋を作って養蚕が行われていたが、ネズミによって蚕の卵や幼虫、さなぎ等が食べられてしまう被害が少なくなかったことからネズミの天敵である猫を飼って対策をしていたようだ。こうしたことから猫は蚕神の神使とされ、猫の絵が描かれた御札や絵馬を頒布する神社や狛犬ならぬ狛猫のある神社が現代にも残っている。
一方、蛇はというと白蛇は弁財天の神使として知られ、そして弁財天の神使である蛇がネズミを食べることから弁財天もまた養蚕の守護神とされているそうである。原島伊奈利神社に隣接する社務所県集会所の奥には厳島神社(辨財天)が鎮座しているが、その鎮座理由も養蚕と関係があるのだろうか。
                            

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広瀬浅間神社及び広瀬山王社

【広瀬浅間神社】
        
              ・所在地 埼玉県熊谷市広瀬115
              ・ご祭神 木花咲耶姫命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 不明
 広瀬浅間神社は、熊谷市小島にある「熊谷さくら運動公園」を起点にすると所在地までの説明が行いやすい。この運動公園北側に接している「さくら運動公園通り」という名称の道路を熊谷市方向に進み、左手に熊谷工業高校が見える中、直進する。手押しボタンの信号がある先の十字路を右折し、すぐ斜めにある道を左折してそのまま直進すると広瀬浅間神社がほぼ正面に見えてくる。
 
広瀬浅間神社に接する広瀬東西集会所が南側にあり、そこには1台分駐車で来るスペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
        
               道路沿いに鎮座する
広瀬浅間神社
                 社号標柱には「村社 富士浅間社境内」と刻印されている。
 熊谷市広瀬地区は、秩父鉄道「広瀬野鳥の森」周辺が行政地区となっており、国道140号北側に鎮座アするこの地域は、その北東部端部となっている。当初筆者がこの社を参拝する時、この地区名からおおよその位置を想定してから、パソコンで位置確認するが、全く違う位置に鎮座しているので、びっくりした思い出がある。やはり事前の位置確認は必要だ。
 一般住宅が周囲に立ち並び、また社に隣接した東側には工場がある。こじんまりとした社という印象。
        
            鳥居と正面参道。その先には社殿が鎮座する。
 広瀬の地名由来について、『大麻生郷土史稿』に載る宝暦十一年(一七六一)七月二十六日名主市太夫の「村名・社寺・百姓書上げ」には、久安元乙丑年(一一四五)大和国広瀬郷河野村の広瀬郷右衛門という人が当地に移り住んだ。折しも長雨で荒川が増水し、広い瀬となっていたので、出身地をしのんで名付けたとある。
 熊谷市のホームページ等で現在解説する地名由来としては、「瀬とは、川の流れが浅くて早いところの意味であるから、広瀬とは、川の流れが(ここでは荒川をさす)広く、浅く、はやいところのこと」との事だ。熊谷市広瀬地区は標高36m程度の沖積平野が広がるなだらかな地域でもある。「広瀬」の「広」は「平」とも読める為、地形上の名前としては適当であろう。
        
                       拝 殿
 『風土記稿』には「浅間社 村の鎮守、村持、下同、山王社 天神社」と村内三社の記載がある。また『明細帳』には、大正二年に村社である浅間社に、山王社と天神社を合祀した記事が見られる。『大麻生郷土史稿』に載る宝暦十一年(一七六一)七月二十六日名主市太夫の「村名・社寺・百姓書上げ」には、この村内三社の創建を次のように記している。
 浅間社は、承久元己卯年(一二一九)六月、駿河国より富士浅間大神を遷す。元文三戊午年(一七三八)地頭より富士浅間免の地、中田五畝二十二歩を寄附される。氏子は宿新田東で、別当は南光院である。
 
        社殿の手前左側には広瀬浅間神社 富士塚がある(写真左・右)
 
 社殿の左側奥に鎮座する境内社。詳細不明。 富士塚の一角には石祠と天手長男神社の石標あり。
        
                                       
秋山寿蔵碑
 秋山忠右衛門(17921882)は広瀬郷に生まれた教育者で、熊谷の寺小屋「玄染堂」にて学を修め、後に広瀬郷の名主となる。以後、地方自治に尽くし、その功績により年寄役を任じられ、苗字帯刀を許される。私塾を開き、門人360余名を数える。広瀬の浅間神社境内に、文久元年(1861)秋山忠右衛門が71歳の時に門人により建立された秋山寿蔵碑がある。
*「熊谷市立江南文化財センター・大麻生のルーツを学ぶ」を参照


【広瀬山王社】
        
              ・所在地 熊谷市広瀬字山王宮塚
              ・ご祭神 大山咋神(推定)
              ・社 格 不明
              ・例 祭 不明
 広瀬山王社は広瀬洗顔神社から一旦国道140号バイパスをひろせ野鳥の森駅方向に西行する。「ひろせ野鳥の森駅入口」交差点のすぐ先にある「運動公園前」交差点を右折し、最初のT字路を左に曲がると、すぐに左右に曲がる路地にぶつかるので、そこは右に曲がる。舗装されているとはいえ道は細く、車両の交差時には注意が必要。左回りのイメージで進むと、こんもりとした社叢というより古墳のような林が見えてくる。因みにグーグル等道路地図には「日吉山王宮」などと記されていることもある。
 周辺には駐車スペースは全くないので、北側に運動公園の駐車場があり、そこに停めてから徒歩で現場まで行く。
        
                   広瀬山王社遠景
 広瀬山王社は「広瀬古墳群」の一つで、25mの円墳である「広瀬4号墳」とも呼ばれている。
広瀬古墳群と宮塚古墳
 広瀬古墳群は、広瀬地区の妻沼低地、荒川左岸の自然堤防上に所在する古墳時代後期(終末期を含む)に造られた古墳群です。古墳群は大きく二群に分けられ、現在11基が確認されており、墳丘を残す古墳も多く見られます。
 東の浅間神社の社が墳丘にのる古墳を含む2基と、西の宮塚古墳及びその周囲8基の古墳で構成される群に分かれますが、前者は東に占地する石原古墳群に続く古墳群としても見ることができます。
 宮塚古墳は、全国的にも珍しい墳形の上円下方墳であり、一辺1724mの方台の上に、直径8.510mの饅頭のような円形の墳丘がのる形で、その特異性から昭和31年に国指定史跡に指定されました。また、この古墳には埴輪の樹立が見られず、墳形の特徴からも古墳時代の終末期(飛鳥時代)の7世紀末~8世紀初頭頃に築造されたと考えられ、数ある熊谷の古墳の中でも最終段階の古墳と考えられています。上円部には河原石が散乱していることから葺石が葺かれていたと考えられるほか、その規模の小ささから横穴式石室ではなく、火葬骨を入れた蔵骨器を安置した石櫃のような埋葬施設が想定され、併せて、墳墓の規制がなされた大化2年(646)に制定されたいわゆる「大化の薄葬令」以降という時期であることも考えると大変興味深いものです。
「くまがやねっと情報局」より引用
 
     広瀬山王社入口にある鳥居        左回りに上がると社殿に到着する。
 
        墳頂に鎮座する社殿         階段には至る所に川石等置かれている。
                        古墳築造時はどういう形態だったのだろう。

 山王社は、山王宮塚という所に文亀元辛酉年(一五〇一)近江国滋賀郡坂本より遷す。氏子は高橋廓である。当初宮塚古墳に鎮座していたが、大正2年に広瀬浅間神社に合祀されている。当社は合祀された後に新たに祀り直したものと思われる。

 ところで広瀬山王社から100m程西側には国指定史跡である「宮塚古墳」があり、南南西方向200m弱には「広瀬2号墳」も見える。
  
         宮塚古墳                  広瀬2号墳             

       

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