多和目天神社
光正のとき、武蔵国高麗郡(のち入間郡)多和目・和田善能寺・同国足立郡円笠木・堀崎計五ヶ村五〇〇石を知行し、その後替地や加増が行なわれ、正倫の子である正盛以降は一五〇〇石を知行している。
同時に江戸城勤番として重要な役職にもついて、正盛から6代目の正興は日光奉行・大目付等歴任しているように、地味ながらも旗本として徳川家の土台を支えている一族といえよう。
・所在地 埼玉県坂戸市多和目384
・ご祭神 菅原道真公
・社 格 旧村社
・例祭等 例大祭(多和目天神社の獅子舞)10月17日
坂戸市多和目地域は市南西端部に位置し、すぐ南側は日高市が、そして西側から北側にかけては毛呂山町が多和目地域に覆い被さるような形で接している。途中までの経路は厚川大家神社を参照。厚川大家神社は「一本松」交差点の5差路を右折するが、そのまま埼玉県道74号日高河越線を直進。東武越生線「西大家」駅近くの踏切を越えてから700m先の変電所が見えるY字路を右方向に進む。そこから南西方向に進路をとり、「多和目」交差点を直進してすぐ先にある路地を右折して暫く進むと、進行方向右手に多和目天神社の鳥居が見えてくる。
社の東側には「多和目普御世会館」が隣接してあり、そこの入り口付近の駐車スペースに車を停めてから参拝を行う。
多和目天神社正面
多和目天神社が鎮まるこの地域は、高麗川がS字蛇行しながら南西から北東へ流れるその両岸に位置していて、高麗川の左岸は河川敷や河岸段丘が広がる低地面で標高50m程であるのに対して右岸は平均標高55mと左岸に対してやや高めであり、社が鎮座している場所は、その右岸である。
因みに多和目という地名は[たわむ]に由来するそうで、この付近では高麗川は頻繁に蛇行(撓み)を繰り返して流れている。「多波目」「田波目」とも記される。
後日編集時点で気づいたことだが、この地域は日高市との境となっていて、地域名は田波目(たばめ)である。隣接する地域名に「上」「下」と表記することはあるが、ほぼ同じ名前の地域が、違う行政区域となっているのは、少々紛らわしい。
*坂戸市多和目地域…「新編武蔵風土記稿」では入間郡に所属。
日高市田波目地域…「新編武蔵風土記稿」では「上多波目村」として高麗郡に所属。
ひっそりと静まり返った境内
『日本歴史地名大系』 「多和目村」の解説
[現在地名]坂戸市多和目・西坂戸一―五丁目・けやき台、日高市田波目
四日市場(よつかいちば)村の西にあり、南は高麗郡上田波目(うわたばめ)村・平沢村(現日高市)、北は下河原村(現毛呂山町)。高麗川が蛇行しながら南西から北東へ流れる。
村名は多波目・田波目とも記される。小田原衆所領役帳には半役被仰付衆左衛門佐殿の所領として、河越三三郷の「多波目葛貫」一四六貫六三六文がみえ、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。元和三年(一六一七)五月二六日稲生次郎左衛門(正信)は「高麗郡日西之内多和目」など三ヵ村計三五五石余を宛行われた(「徳川秀忠朱印状」稲生家文書)。以後旗本稲生氏は当村内に陣屋(現天神社社地)を構えて当村・和田村・善能寺(ぜんのうじ)村などを幕末まで領し、大目付・日光奉行・長崎奉行など幕府の重職についている。稲生正信の住んだ正信(しようしん)庵が城山の中腹に現存する。田園簿には下田波目村とみえ田一七三石余・畑一八七石余、旗本稲生領(一八〇石余)・同河村領(一八〇石余)の二給で、ほかに恵眼寺(現永源寺)領一〇石があった。
拝 殿
多和目天神社は、徳川家康が関東に入国した天正18年(1590)から明治維新まで当地の領主だった稲生次郎左衛門光正が、氏神と崇敬する天神を当地に勧請したという。稲生家は当初当地近辺及び西方に陣屋を構えていたとされ、後年江戸屋敷へ移り、陣屋跡に祀られていた当社がいつしか村の鎮守として祀られるようになったものと思われる。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治41年字平の白山神社、字岩口後の熊野神社、同境内社稲荷神社・愛宕神社を合祀している。
『新編武蔵風土記稿 田波目村』には、稲生家に関連した記載を載せている。
田波目村 天神社
地頭稲生が陣屋跡にあり、其處の鎮守西福寺持(中略)
稲生某陣屋跡
村の東にあり、八段許の地なり、四方にかた許のまがきをなし、門をも南向に立り、されど近傍にある天神社のあたりも、陣屋跡なりと傳れば、このまがきは纔に古の様を殘せしものなるべし、按に村名の條に載しごとく、先祖次郎右衛門光正御入國の時、武州にて五百石を賜りし由、家譜に載たれば、そのかみ居宅を爰に構へ、後江戸に移りしものなるか、
拝殿正面に掲げてある扁額 本 殿
拝殿前に設置されている「多和目天神社の獅子舞」の案内板
「多和目天神社の獅子舞」 坂戸市指定無形民俗文化財
江戸時代、多和目の領主だった稲生家によって、天神社に奉納されたのが始まりと言われています。毎年、秋の天神社のお祭りに、村人の安全を護り、豊年を祝う獅子舞が演じられます。
獅子舞は、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
江戸時代の天保の頃(一八三〇年~一八四三年)、高萩村女影(現在の日高市)から伝えられたと言われ、多和目の領主稲生家より天神社へ奉納されたのが始まりとされています。昭和五七年(一九八二年)太鼓の張替えを行った時、胴の内側に「天保四年(一八三三)年江戸浅草」と記されているのを発見しました。言い伝えによる獅子舞の開始時期は大きく間違っていないようです。
獅子舞を舞うのは小・中学生から高校生と氏子の有志で、演者は天狗、大獅子、中獅子、女獅子、軍配を振って舞いを盛り上げる大狂(へいおい)、花笠をかぶりささらを擦るささらっ子、舞の合図をするほら貝などから構成され、笛方と唄い方が演奏をします。演目は「すり違え」の唄、「シバ掛り」の唄、「竿掛り」の唄の三曲です。
獅子舞の当日、獅子の宮参りは天下泰平、五穀豊穣、氏子の繁栄、お祭りの成功を願って、舞いながら社殿を三周します。その後、獅子舞行列を組んで西郷へ向かい、火の見広場で一番の「すり違え」を舞います。再び天神社にもどって、獅子舞を奉納します。
秋も深まる十月に、多和目の里に流れる笛やささらの音に合わせて、三頭の獅子が太鼓を打ち鳴 らして踊る姿は、勇壮の中に優美な趣をたたえています。
案内板より引用
本殿の奥には「天然記念物 多和目の大杉跡」の石碑がある(写真左)。県天然記念物で、幹周9m、樹高35m、樹齢は石碑を奉納した昭和56年時点で1032年とあり、碑文によれば、途中で2幹に岐いるところから「夫婦杉」と呼ばれていた。しかし昭和34年に発生した伊勢湾台風の為先端10m程が折られ、その後、年月が経過すると共に樹勢が弱まってしまう。そこで氏子総会による決議を経て、県神社本庁に天然記念物指定の解除、並びに伐採の許可を承認され、ここに多和目地域での一つの象徴であった大杉は終焉を迎えたという。
現在ある2本の杉は埼玉県林業試験場の協力を得て、その大杉の二世を植樹したという(同右)。
境内に祀られている境内社。詳細不明。 同じく境内にある神興庫だろうか。
社殿の右側には境内社・稲荷社が祀られており、その奥にはご神木であるカゴノキ(鹿の子木)が聳え立っている。かごの木はクスノキ科の樹木で、南方には結構な大きさのものも存在するが、北関東でこれまでの大きさに育ったものは希有な例との事。各地で呼び名も特徴があり、こがのきと呼ばれたり、この木のように鹿に見立てて「鹿子木」と呼ばれる例もあるようだ。
社殿右側に祀られている境内社・稲荷社。
稲荷社の隣に設置されている「カゴノキ(鹿の子木)」の案内板
坂戸市指定天然記念物 カゴノキ(鹿の子木)
この樹木は、正式名称が判明するまで「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれていました。
昭和五十九年に埼玉大学の永野教授の鑑定により、学名をクスノキ科に属する「カゴノキ」で、名勝は「鹿の子木」と判明しました。
この樹木は暖地性の常緑喬木で、沖縄・九州・四国を中心に分布している樹木で、関東以北ではほとんど生育していない、植生上も貴重な樹木であることがわかりました。
樹木の名称の由来は、淡褐色を帯びた樹皮が円形に点々と剥落し、この部分に次々と白い木肌が現れます。この様子が、鹿の子の斑点と同じように見えることから、この名称がつけられたと考えられます。
樹木の規模は、樹高十五メートルを測り、樹齢千年といわれていますが。樹木医の診断では、八〇〇年程とされています。
案内板より引用
カゴノキ(鹿の子木)遠景
樹齢800年とは思えないぐらいの樹勢は良好で、ともかく小鹿の毛並みのような珍しい斑点模様の木肌が特徴的である。樹容は社殿奥に嘗て聳え立っていた大杉と同じく双幹であり、紙垂も巻かれているところをみるとご神木として祀られているのであろう。
嘗てこの社にはカゴノキは勿論のこと、社殿奥の大杉も存在していて、その並び立つ姿は如何ばかりだっただったろう。今大杉は伐採されてこの地にはないが、同じ場所にその子供である若木がすくすく成長している。そしてカゴノキは傍にいて、その成長を親代わりに見守っているようにも見える。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「坂戸市HP」
「Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等