古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

厚川大家神社

 
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市厚川135
              
・ご祭神 清寧天皇 武内宿禰 諏訪大神
              
・社 格 旧厚川村鎮守 旧村社
              
・例祭等 祈年祭 217日 春例祭 315 諏訪祭 826
                   
秋例祭 1016 (おくんち) 新嘗祭 1123
 片柳飯盛神社から国道407号線を5㎞程南下、坂戸市街地を抜け、鶴ヶ島市役所に通じる「市役所前」交差点を右折する。埼玉県道114号河越越生線合流後、西方向に進路を取り、東武越生線の踏切を越え、そこから「一本松」交差点の五差路を県道に沿って北西方向に進む。350m程進み、県道が大きく左カーブする手前で進行方向左手に厚川大家神社の鳥居が見えてくる。比較的交通量の多い県道沿いに鎮座しているにも関わらず、社殿は県道から奥手に鎮座しているせいか、見逃してしまうような目立たない場所。しかし参拝してみると、県道の正面入り口は狭いが、境内は思った以上に奥行きもあり、流石に嘗ての厚川村鎮守社、旧村社としての風格を兼ね備えた立派な社であり、日頃の手入れも行き届いているようだ。
 正面に立つ鳥居と社の境内北側に隣接する「坂戸市消防団大家分団第3部」との間に境内に通じる舗装されていない道があり、そこに移動し、撮影等に支障にない場所に車を停めてから参拝を開始した。
        
                  厚川大家神社正面
        鳥居正面を撮影したかったが、交通量が多く、その撮影は断念。
 坂戸市は埼玉県のほぼ中央に位置し、面積は41.02k㎡、東西に12.7km、南北に9.3kmで、東西に長い地形である。
 「坂戸市都市計画マスタープラン」において、市民になじんだ地域割と共に、坂戸市の特徴をより細かくとらえる為に、幾つかの地域割がされているが、その一つとして公共施設(学校、公民館、集会所等)との関係を重点に置いた地域設定がされており、最も一般的なのが当プランの5地区である。東側から「三芳野」「勝呂」「坂戸」「入間」「大家」の各地区である。
 その中の大家地区は、市の最西端に位置し、北東から南西にかけて長い形の地区である。東南は鶴ヶ島市、日高市、西は毛呂山町に接し、東武越生線西大家駅を有し、高麗川が地区中央部を流れている。 地区の区域は、森戸、多和目、四日市場、厚川、萱方、欠ノ上、成願寺、けやき台、西坂戸及び鶴舞となり、面積は、約690.7haである。村名の由来は、嘗てこの地が『和名抄』において、「大家郷」の在った所であるという伝承による。
        
                    境内の様子
        県道沿いの入口は狭く感じたが、比較的参道は長く、奥行きもある。
 
        参道を進むと正面右側にご神木が孤高に聳え立つ(写真左・右)

『日本歴史地名大系 』には「大家郷」の解説が載っている。
「和名抄」所載の郷。同書高山寺本に「於保夜計」、東急本・元和古活字本に「於保也介」、名博本に「ヲホヤケ」の訓がある。「万葉集」巻一四に「入間道の大家(おおやが)原のいはゐ蔓引かばぬるぬる吾にな絶えそね」とみえる。「大日本史」国郡志・「日本地理志料」「大日本地名辞書」は現大井町から富士見市にわたる一帯とし、「風土記稿」「埼玉県史」は現坂戸市の森戸(もりど)を中心とする一帯とする。
        
                境内に設置されてある案内板
 大家神社(しらひげさま、おすわきま)
 鎮座地 坂戸市大字厚川字宮方一三五番地
 御祭神 猿田彦大神 (教導神) 天孫降臨の道案内をしたといわれて寿福縁結びの神である。
     清寧天皇 (第二十二代白鬚皇子)
     宿彌 (長寿神)
     諏訪大神 (国土開発、事業神)
 由 緒 鎮座の年は不詳であるが、厚川、萱方、十余戸の鎮守として白鬚神社と稱し草分当時
     の創立と伝ふ(新編武蔵風土記稿) 。
     元禄十四年三月(一七〇一)古文書に二十四年前お宮新造の記あり。
     明治五年、諏訪大神(厚川字諏訪) 合祀し村社に列格。
     明治四十年、大家神社と改稱(以下略)
                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
 大家神社 坂戸市厚川一三五(厚川字宮方)
 当地は高麗川の南岸に位置している。『風土記稿』によると、当社は村鎮守で、村民持ちであり、白髭社と称していた。
 社のそばには村の草分けである小谷野一家の、東宮・西宮・中宮の屋号で呼ばれる三軒がある。このうち東宮は本家格の家で神社に近いことから宮方または宮の家といわれ、白髭社はもとこの家の屋敷鎮守であったものが後に村持ちになったと伝えている。更に、祀職も明治初めまでは東宮で奉仕が続けられていた。
 祭神は猿田彦命・清寧天皇・武内宿禰の三柱である。明治末年まで白髭神像が内陣に安置されていたが不心得者によりこれを失った。
 本殿は一間社流造りである。社殿の造営記録に『拝殿立替に付鎮守白髭体明神人足出入控帳』が現存し、天保三年辰三月吉日と記されている。
 明治以降の祀職は、小谷野家の後、大字森戸の中島家が奉仕し、次いで石川家が継ぐところとなった。石川家は、神仏分離まで長く越生の本山派修験山本坊の配下修験で、不動明王を祀り諸国を修行し、当地に来てからは諸祈祷を修して活躍した。
 合祀は明治三〇年と同四〇年の二回行われ、八坂社・稲荷社・諏訪社・白山社・神明社・厳島社・熊野社が集められた。また、この合祀の結果、当社は社名を旧村名にちなみ大家神社と改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                                     拝殿内部正面
        この社の拝殿は神楽殿のように正面が全く見開き状態で不思議な造り。
 
        拝殿内部左側                 同右側
       
                              社殿の右側にある神楽殿

     神楽殿奥に祀られている境内社。        境内社の左隣にある石碑群等
  左から
金比羅神社 蚕影山神社 八坂神社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「坂戸市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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