古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

将軍沢日吉神社

  岩殿丘陵のほぼ中央に位置し、鳩山町と嵐山町の行政境にある「笛吹峠」。標高は80m。かつて鎌倉街道の中で唯一の峠で、鎌倉時代には数多くの武士団等が行き来した所でもある。
 北方に上州の山々、西方に秩父連山、眼下に須江の集落が広がる、眺望のすばらしい笛吹峠は、慈光観音と岩殿観音の巡礼道も交差する鎌倉街道で一番の難所であり、要衝の地であったようだ。正平7年(1352年)閏2月新田義貞の三男新田義宗らが宗良親王を奉じて武蔵野の小手指原で足利尊氏の軍勢と戦った(武蔵野合戦)が、最終的に戦いの決着がついたのがこの峠であった。しかし尊氏軍8万、義宗軍2万という明らかな差のもとに惨敗。敗れた義宗らは越後へ、親王らは信濃国に落ちていき、尊氏はこれ以後関東を完全に制圧していった道路工事をした際に人骨が大量に出土したそうで、当時の合戦が如何に激戦だったかを裏付けるものである。
 峠の由来については正平7年(1352)に新田義貞の子義宗が、南朝の宗良親王を奉じてここに陣をしき、足利尊氏と戦った。このとき親王が名月の陣営で笛に心を慰めたことによると伝える。

 笛吹峠から北に1.5㎞程行くと、日吉神社が鎮座する「将軍沢」という地名があり、平安初期には、坂上田村麻呂が地に寄った時に一堂を建立したことに由来するという。
        
              ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町将軍沢425
              ・ご祭神 大山咋命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 春季大祭410日 秋季大祭102021
 将軍沢日吉神社は大蔵神社の南方に位置し、経路途中は大蔵神社と同じである。国道254号線を嵐山駅方面に向かい、月の輪駅交差点の次の交差点を左折し、真っ直ぐ進むと埼玉県道344号高坂上唐子線に合流する「上唐子」交差点にぶつかる。この交差点を真っ直ぐ進むと埼玉県道172号大野東松山線になるので、県道に沿って南西方向に進路をとり、都幾川を越えて400m程行くと、信号のある交差点となり、直進すると右手に大蔵神社となり、そこを左折し700m程進むと左側に将軍沢日吉神社の鳥居が見える
        
 将軍沢地区は、嵐山町の最南端に位置して中央を旧鎌倉街道が通り、歴史的にも坂之上田村麻呂氏の伝説があり、みどり豊かな環境の農村集落を形成している。
 春と秋には日吉神社に宮司と遺幣使をお迎えして、五穀豊穣を祈願する。かつて昭和30年代迄は、秋の大祭はササラ獅子舞が奉納されて、賑わっていたが、現在は獅子頭を奉納するのみに留まり、静かなお祭りになっているという。
        
                                将軍沢日吉神社 正面鳥居
 将軍沢日吉神社の創建年代等は不詳ながら、坂上田村麻呂が東征の際の延喜10年(910)に天台宗明光寺を建立、明光寺の鎮守として山王社を創建したのではないかとも推測されている。将軍沢の鎮守として祀られ、明治維新後地内の大宮権現社(現将軍神社)、神明社、愛宕社、稲荷社を当社境内へ遷している。
 
 参道がほぼ東側に伸びていて(写真左)、参道の先には将軍沢農村センターが見える(同右)。そして農村センターの左隣には、境内社・将軍神社が鎮座している。
 因みに将軍神社から左側へ直角に曲がった先に将軍沢日吉神社社殿が鎮座しているので、社殿は南側という位置関係となる。
        
                              境内社・将軍神社
 将軍社 祭神 坂上田村麿
 由緒

 當社古記録等傳フル無ク創立年紀詳カナラス。唯古老ノ口碑ニ傳フルハ往古坂上田村麿将軍東夷征伐ノ際近傍岩殿山に毒龍アリテ害ヲ地方ニ加フ。将軍之ヲ退治シテ土人ヲ安カラシム。其時夏六月一日ナリシモ不時降雪寒気強カリシヨリ土人麦藁ヲ将軍ニ焚キテ暖ヲ與ヘリ。其后土人将軍ノ功徳ヲ賞シ之ヲ祭祀崇敬セリト云フ。現今年々六月一日土人麦藁ヲ焚キテ祭事ヲナスハ古ヨリ例ナリ。当社古来本村旧字大宮ト唱フル地ニ鎮座アリテ坂上田村麿将軍大宮権現ト稱セリ(本村々名及旧字大宮ノ地名蓋当社ニ因テ起リシナラン)御一新ニ至リ明治七年(1874)三月當所ニ奉遷シ将軍社ト改称セリ
                                   嵐山町Web博物館より引用

『新選武蔵風土記稿』においては違った記載もある。
 大宮権現社
 高さ三尺許の塚上にあり、利仁将軍の靈を祭れり、相傳ふ昔藤原利仁、此地を經歴して、此塚に腰掛て息ひしことありし故、かく號すと云、明光寺の持
        
                                         拝 殿
日吉神社 嵐山町将軍沢四二五(将軍沢字東方)
大山咋命を祀る当社は、鎌倉街道上道と呼ばれる街道脇に鎮座する。住宅やゴルフ場などの開発が進み、樹木が次々と伐採される中にあって、当社の境内は杉を主として樹木が多く、緑豊かな環境を守り続けていることから、平成三年には町の保護木の指定も受けている。また、社殿の裏手には、松の大木があったが、近年、松食い虫にやられ、枯死してしまった。かつて、当社の付近は『風土記稿』に「此辺二町許の松林あり、不添の森と云」と載るように、松林であったが、開発や松食い虫の害のため、既に当時の面影はない。
当社の創建の年代は定かではないが、江戸時代には山王社と呼ばれ、明光寺の持ちであった。明光寺は、寺伝によれば、延喜十年(九一〇)三月五日、坂上田村麻呂が東征の際、当地に寄った時に一堂を建立したことに始まり、元弘・延元のころ(一三三一-四〇)には兵火にかかって塔堂を焼失したという。明光寺が天台宗の寺院であることを考えると、当社は、その寺鎮守として創建された可能性もある。
将軍沢の地名は、村内字大宮に坂上田村麻呂(一説には藤原利仁)を祀る大宮権現社があることに由来するといわれる。『風土記稿』よれば同社は、藤原利仁が当地を通った時に腰掛けて休んだ「高さ三尺許の塚上」にあったが、神仏分離により将軍神社と改称し、明治七年に当社の境内に移された。
                                   「埼玉の神社」より引用

 社殿手前、左側に境内社・山神社・神明社・稲荷社が鎮座している。
 
           山神社                                   神明社

          稲荷社
                 
                 参道に聳え立つ巨木群
  今なお古き武蔵野の面影を残している自然豊かなこの景観を何時までも残して頂きたいものだ。

*追伸として
 将軍沢地区にある笛吹笛吹峠は古くは「ウスエ峠」といわれて、古代人が須惠器を峠越しに運んだ土器の道であったともいう。というのも奈良・平安時代前期のおよそ200年余りの間、嵐山町南部の将軍沢地区からときがわ町・鳩山町にかけての丘陵地は「須恵器」の一大生産地帯で、関東でも最大規模であったとの事だ。
 数多く築かれた須恵器の窯は、比企地方の南部丘陵地帯に広く展開し、「南比企窯跡群」と呼ばれていて、この地域で生産された須恵器は、洗練されたたいへん美しい焼物という。

 岩殿丘陵地独特のなだらかな傾斜があちらこちらに広がり、その丘陵地に奈良時代以降多くの人々が入植し、山野を切り開き須恵器づくりのための「集落」を形成し、関東屈指の須恵器生産地として発展した。
 将軍沢近辺は高低差を必要とする登り窯には、まさにうってつけの景観であり、良質の粘土と薪としての森林資源、そして地形などの好条件が合致し、沢山の登り窯が築かれ大量の須恵器が生産されていたという。また製品の出荷には丘陵の南北を挟むように流れる越辺川と都幾川が舟を通して利用され、同時に丘陵を縦断する東山道武蔵路、あるいは後の鎌倉街道は、武蔵国府(東京都府中市)や国分寺に須恵器と瓦を届けるために開かれたものであったのだろう。


「嵐山町教育委員会」資料の中で、 将軍沢地域は13世紀半ばから新田系氏族である世良田氏の領地となっていたという。世良田氏は上野国新田4分家の1つで、寛元2年(1244)長楽寺を創建した義季が新田の遺領であった当地を継ぎ、その後弥四郎頼氏・教氏(沙弥静心)・家時(二子塚入道)・満義(宗満)と領した。長楽寺には教氏と満義が寺に宛てた寄進状が今も残されている。

 同時に「中世嵐山にゆかりの武将と地名/嵐山町」では将軍沢地域と世良田氏の関係について以下のように記している。
将軍沢郷と世良田氏(せらだし)
畠山重忠没後の鎌倉時代後半の嵐山町の様子を伝える資料は非常に少なく、わずかな手がかりをとどめるにすぎません。その中で群馬県新田郡尾島町の長楽寺に所蔵されている文書に興味深い資料があります。将軍沢は大蔵から笛吹峠に向う途中にある集落ですが、この文書によるとここは当時世良田氏の領地で将軍沢郷と呼ばれていたことがわかります。世良田氏は清和源氏の一門である新田氏の一族で、頼氏のとき上野国(群馬県)世良田を領し世良田の姓を名乗りました。文書は二通あり、一通は頼氏の子教氏(のりうじ)(法名静真・せいしん)が、亡息家時の遺言により比企郡南方の将軍沢郷内の田三段(たん)を上州世良田の長楽寺に灯明用途料(とうみょうとりょう)として寄進するという内容です。
また、もう一通は家時の子満義のとき、将軍沢郷内の二子塚入道の跡の在家一宇(ざいけいちう)と田三段、毎年の所当(しょとう)八貫文を長楽寺修理用途料として寄進するというものでした。長楽寺は世良田氏の氏寺であり中世には多くの学僧を集めた大寺院として栄えました。

 熊谷市・万吉氷川神社の項でも触れたが、万吉地域周辺も嘗て新田氏の領地が存在していたりと、自分の母方の本家筋が本拠地である上野国・新田荘のみならず、武蔵国内に多くの所領を持っていたことに関心を持つ。新田氏本宗家は頼朝から門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。早期に頼朝の下に参陣した山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになり、新田氏の所領が増えることはなく、世良田氏や岩松氏の創立などの分割相続と所領の沽却により弱体していく一族、という今までの通説で語られてきた歴史観をもう一度再検討する良い機会ともなった。

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