古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

白井沼氷川社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡川島町白井沼219
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧白井沼村鎮守 旧村社
              ・例祭等 春祭 47日 夏祈禱 714日 101415
                   例祭・秋祭り127日

 吉原宮原神社から埼玉県道339号平沼中老袋線を西方向に600m程進行し、信号のある十字路を右折、通称「さくら通り」を川島町役場方向に進む。「首都圏中央連絡自動車道」の高架橋下を潜りぬけ、160m先のT字路を右折する。川島町立川島中学校を過ぎたその先に白井沼氷川社が鎮座する場所に到着する。
        
                  白井沼氷川社正面
『日本歴史地名大系』では、「川島町白井沼村」の概要として以下の内容が記載されている。
 紫竹(しちく)村の北にあり、集落は畑中(はたけなか)村の南に続く自然堤防上に発達。小名に浮沼(うきぬま)・猿ヶ谷戸(さるがいと)と・要ヶ谷戸(かまめがいと)などがあり、元来、沼地・谷地であったことを伺わせる。田園簿では田高二九九石余・畑高三八石余、川越藩領。秋元家時代郷帳では高四一〇石余、ほかに前々検地出高として高七一石余がある。
 反別は田方五五町八反余・畑方一二町九反余。明和四年(一七六七)藩主秋元氏の移封に伴い出羽山形藩領となったが(「川島郷土史」「風土記稿」など)、のち再び川越藩(慶応二年、藩主移転により上野前橋藩となる)領となった(天保一二年「川越領村高書上」猪鼻家文書など)。
        
                   石製の神明鳥居
        
                     拝 殿
 氷川神社 川島町白井沼二一九(白井沼字宮後)
 万治三年(一六六〇)にこの辺りは大飢鐘に襲われ、加えて悪疫が流行したことから村は疲弊した。このため、当地の重立七家が相諮り、翌寛文元年(一六六一)に真福寺の境内地を卜して社を建て神霊を奉斎した。これが、口碑に伝えられる当社の創建である。
『風土記稿』には「氷川社 村の鎮守なり、寛文年中に勧請すと云、真福寺持、末社 天神社・諏訪社・稲荷社」と載せられている。
 神仏分離を経て、当社は明治四年に村社となった。その後、明治二十六年に真福寺の本堂と共に社殿を焼失したが、翌二十七年には再建が果たされた。明治四十五年には字中下の無格社稲荷社を合祀した。
 太平洋戦争後、当社は維持に困窮したが、当地出身の遠山元一氏の多額の寄附と氏子一同の協力によって運営基盤を立て直し、現在に至っている。近年では、昭和五十三年に拝殿の再建が行われている。
 明治初年に廃寺となった真福寺は、その本堂が明治三年から同五年にかけて川島郷学校の校舎として利用された。この学校は、「学制」発布以前に前橋藩の働き掛けによって設立された郷学校で、近代における川島の庶民教育の先駆的役割を担ったことで知られている。
 なお、明治二十六年の火災で焼失を免れた真福寺の本尊不動尊は、今も境内の一画に祀られており、近くには「権大僧都法印宥範・延宝三年(一六七四)をはじめとする歴代法印の墓石五基が残る。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿

 嘗て日本の村や集落には、それぞれの地域ならではの伝統的な芸能が盛んに行われていた。しかし、職業の多様化や少子高齢化の流れによる後継者不足により、活動を続けられなくなる地域も現実多くあるのが実情だ。
そのようななか、数百年の歴史ある「獅子舞」を共に踊り、奏でることで、地域の絆や、一致団結する心、故郷への思いを今もなお守り続けている地域もある。
川島町の獅子舞は江戸時代に始まったとされている。農業が中心で生活が厳しい時代、集落のみんなで力を合わせて乗り越えていくため、「五穀豊穣」「無病息災」「家内安全」を願い、神社へ奉納していた。また、うたい、踊り、心を充足させるために行われていた。
獅子舞は、3頭の獅子と、宰領または猿若という道化役、頭に笠を被り、ササラという竹の楽器を奏でる花笠、短い詩を長くひっぱるように歌う唄によって構成されている。これらの獅子・笛・唄が一体となり獅子舞となる。
町内7か所で行われるなど、地域の方々のなじみの行事として親しまれてきた。その伝統は、伊草と白井沼の2か所で今なお受け継がれ、毎年祭りが行われている。
 
 社殿左側に鎮座する境内社 天神社・諏訪社    社殿右奥に鎮座する境内社・稲荷社

 白井沼の獅子舞
 白井沼の獅子舞は江戸時代に始まったとされる記録が残されている。昔、2年続けて伊草の獅子が村回りの途中で川に落ち流された。これも神のおぼしめしと考え、縁起の良い先獅子、女獅子を伊草の大聖寺から白井沼の真福寺がもらい受け、後獅子と宰領をそろえて夏祈祷を行ったのが白井沼獅子舞の始まりという言い伝えがある。
 白井沼獅子舞は、毎年7月と10月の第3日曜日に、夏祈祷・秋祭りが行われる。「四方固め」「花見」「女獅子隠し」「花散の舞」「岡崎」という演目があり、それぞれの笛に合わせて獅子が舞い踊る。
                          「広報かわじま 201712
月号」より引用
        
 白井沼氷川社の東側に隣接している「白井沼集落センター」側に祭られている「不動明王」の祠。神社の境内に仏系統のお不動様が祭られていること稀であろう。
        
                          境内の一風景
   
 桶川市三田原地域には市指定文化財「三田原のささら獅子舞」が当地の氷川社等で奉納される。この桶川市三田原地域と白井沼氷川社とは「氷川社」以外は一見何も共通事項がないように思われるが、この三田原のささら獅子舞」は、嘗て文化年間の頃には、比企郡白井沼へ教授したこともあったそうだ。

 三田原のささら獅子舞(無形民俗文化財)
 三田原のささら獅子舞は、その系譜については明らかでないが、延宝から元禄の頃、雨宮武休という人が獅子舞を中興し、芸が整えられ、その後次第に盛大になり今に伝えられるといわれている。現在は三田原の氷川神社で演じられているが、かつては柏原の獅子組の人たちによって、八幡神社の祭礼で演じられていたとのことだ(「三田原」とは、三ツ木、田向、柏原の3地区を意味する)。その後、戦中から戦後にかけて中断されたが、昭和40年代になって地元の熱意により復活を遂げた。
 五穀豊穣、万民快楽を祈願して行なわれるこの獅子舞は、道中行列を含め約2時間にもなる長いもので、12の「場」から成っている。道中の行列が社前の舞庭に到着すると、まず宰領が舞庭に入り場を清める。その後、法眼(先獅子)、後獅子、雌獅子の順で舞庭に入り拝礼、そして、三頭は宰領の導きによって舞いを始める。
 複雑で、多様な変化のある優美な舞いが特徴で、かつて文化年間の頃には、比企郡白井沼へ教授したこともあったそうだ。衣装にある「三つ柏」の紋はこの地を領した牧野家の紋で、これは川田谷に残る三つの獅子舞に共通している。祖先が守り伝えてきた昔の舞、曲、歌を崩さず、本来の姿で伝えていくことを重んじているとのことだ。
 10月の三田原氷川神社の秋祭りに、氷川社及び八幡社の前で奉納、当日には朝から村廻りも行なわれる。
                                   「桶川市
HP」より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」
「広報かわじま 201712月号」「桶川市HP」等
  

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出丸中郷若一王子社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町出丸中郷1866
             
・ご祭神 伊弉冉命 速玉之男命 事解之男命
             
・社 格 出丸中郷村鎮守
             
・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9595935,139.5164955,16z?hl=ja&entry=ttu

  川島町出丸地区には二社『若一王子社』存在する。前項「出丸本若一王子社」は、出丸本、上・下大屋敷、曲師、西谷五ケ村惣鎮守として、出丸本地域に鎮座しているが、そこからそれ程遠くない出丸中郷地域で、入間川左岸にもう一社若一王子社鎮座している。
 出丸本若一王子社は埼玉県道339号平沼中老袋線「上大屋敷」交差点を左手前方向に進んだが、出丸中郷地区に鎮座する若一王子社はそのまま直進する。
1.4㎞程進んだ十字路を右折後入間川土手に到着後そこを左折すると、ほぼ正面に出丸中郷若一王子社の社叢林が見えてくる。
 社の位置を確認すると鳥居正面は入間川の土手に向いていて、集落に対しては背を向けるように建てられている不思議な配置である。この配置は鴻巣市滝馬室地域に鎮座する滝馬室氷川神社と同じ形態だ。
        
 社の西側脇に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行う。そこには参道らしき舗装されていない入間川堤防方向に進む道があり、突き当たりを直角に左方向に進むと鳥居が見えてくる。鳥居は堤防のすぐ北側にある為、堤防を少し登らなければ正面鳥居全体を撮影することができない。
        
                 出丸中郷若一王子社正面
 出丸中郷地域は川島町東南部にあり、西側には入間川が、東側に流れる本流である荒川に合流しようとする間に位置しており、地域全体が沖積低地に属している。社のすぐ南側には入間川の堤防が広がり、堤防に対して鳥居が立つ。出丸中郷の集落は社の東側にあり、鎮座している場所からはやや離れている
        
 拝殿付近は昔からの自然堤防なのか、盛り土が施しているのか不明だが、社の西側にある水田地帯が10mに満たない標高、東側にある集落も10m11m程であるのに対して、社殿は11.5m程で、周囲よりは若干高い場所にあるようだ。
 それでも一度洪水等の自然災害が起これば、真っ先に被害が及びそうな場所に敢て鎮座しているようで、まさに神様が身を挺して地域を守っているような第一印象はぬぐえない。
        
                     拝 殿
          社殿全体高い場所にあり、手前には石段も見える。
 出丸中郷村に関して『新編武蔵風土記稿』において以下の記載がある。
「出丸中郷は本村とは自ら別村にて、昔は只中郷を唱へしを、前村に云如く七村組合しより、今の村名とはなりしと云、然れども今本村中郷・下郷の名あれば、恐くは皆前村より分れし村なるべし、正保の頃のものには中の郷とばかり載たるも、寛は出丸の唱ありしならん、元禄改定の国〇郷帳には、出丸の二字を加へたり」
 つまり元々は「出丸中郷」ではなく、単なる「中郷」であった地域が、元禄時代に改定された「郷帳」で、出丸中郷となったと書かれている。

「郷帳」とは、江戸時代,幕府による国絵図作成事業の際,同時に作成された村名・村高を記載した帳簿。郷村高帳の略。原則として11冊作られた。江戸幕府は,慶長・正保・元禄・天保期の4度,国絵図・郷帳を作成したが,慶長のものは御前帳とよばれる。正保郷帳は,1644(正保元)各国1人ないし数人の大名に作成が命じられ,村高のほかに田畑の内訳,新田の有無,干損・水損の別,山林の種別など元禄・天保郷帳に比べて詳しい記載が求められた。元禄郷帳は,97(元禄10)諸大名に作成が命じられ,1702年までに提出された。天保郷帳は,幕府勘定所が直接作成にあたり,1831(天保2)開始,34年に完成した。元禄・天保両郷帳の記載形式は,正保郷帳に比べ簡略である。元禄郷帳の石高が表高であるのに対し,天保郷帳では新田高などを含めた実高が記載されたという。
 
 拝殿手前右側に鎮座する境内社(写真左)。三社合祀社のようだが、一番左側は納札所で、他の社は字が薄くて解読不能。また参道左側には参道に沿って並べられている力石(同右)。
        
                社殿全体を横側から撮影。
 洪水対策として拝殿部底部には水を流すような高台と柱が並び、本殿部位は石垣を高く並べているのが分かる。
        
                                 拝殿からの一風景
     鳥居の南側に入間川の堤防があるのが一目瞭然で、お判りいただきると思う。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「山川 日本史小辞典 改訂新版」「Wikipedia」等

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出丸本若一王子社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町出丸本101
             ・ご祭神 伊弉冉命 速玉之男命 事解之男命
             ・社 格 出丸本、上・下大屋敷、曲師、西谷五ケ村惣鎮守
             ・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9674624,139.5071749,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道254号線を川越市方向に進み、「落合橋北詰」交差点を左折する。その後埼玉県道339号平沼中老袋線に合流し、約3.5㎞先の「上大屋敷」交差点を左手前方向に進む。この道路は上記のけんどうでもあり、通称「かわじま中央通り」とも言われ、250m程先の十字路を右折し、400m程進むと左手に「出丸護国神社」の鳥居が見え、その奥手の塚上に出丸本若一王子社が鎮座している。
        
                 出丸出丸護国神社正面
 写真では鳥居の左側には駐車可能なスペースが確保されているが、ロープが張られている為、反対側である右側にあった路駐スペースに停めてから参拝開始する。
       
                                                         出丸出丸護国神社拝殿
         拝殿手前には出丸本若一王子社の境内に通じる道がある。
       但し、社は南北に長く、一旦南側にある鳥居にまで戻る必要はある。
        
                 出丸本若一王子社正面
 川島町出丸地域街中に鎮座。とはいえ東側には工場群が立ち並び、それ以外の地は、田畑風景の中に民家が立ち並ぶような、喉かで静かな地域である。
 
              鳥居正面                      鳥居上部にある扁額にはうっすらと
                           「若一王子社」と見える。
「若王子」とは、紀州熊野三山にまつられる祭神の一つで,十二所権現,熊野五所王子のうちに数えられる。若一王子(にやくいちおうじ)ともいう。《長秋記》長承3(1134)の記事で〈若宮(わかみや)〉とあるのが本来の呼称であろうが,平安末期の《梁塵秘抄》には〈若王子〉と見える。若王子は京都の白川の禅林寺の北にあり、後白河法王が永暦元年(1160)に熊野権現を勧請したのが始まりで、熊野神社・新熊野(いまくまの)神社とともに京都三熊野のひとつに数えられる。社名は祭神の天照大神の別号「若一王子」にちなむ。〈白川熊野〉ともよばれたが,鎌倉・室町幕府からは所領を寄進され,京都郊外の花の名所でもあったし,全国の具足屋(甲冑の職人,商人)の信仰を集め,若王寺とも記された。
 同名の神社は熊野権現を勧請したことにより,「王子信仰」として全国各地に拡大する。
       
                   南北に長い参道の先の塚上に拝殿は鎮座する。
            時期的にも参拝客はなく、静まり返っている。

       
               参道途中左側にあった「奉納力石」
       「享保六年丑二月 奉納力石 三十二メ目 出丸本村」と刻まれている。

「王子信仰」とは、神が高貴な幼児の姿で現れるという信仰。王子,八王子の地名はかつて王子権現をまつった所である場合が多い。熊野信仰では多数の御子神(みこがみ)を熊野詣(もうで)の道にまつり,九十九王子と称した。その第一位は若一(にゃくいち)王子で,天照大神を祭神にするという。日吉(ひえ)信仰,祇園(ぎおん)信仰の八王子権現も有名で,天照大神が素戔嗚(すさのお)尊と誓約した際に生まれた5男3女の神とする。八幡神は応神天皇と神功皇后の母子神を祭神とするが,御子神の応神は王神に由来。新羅王,百済王など外国の王を王子神にする例もあり,祟(たた)りやすい霊をまつる若宮との関係も深い。太子講は聖なる御子来訪の信仰に基づくという。
       
                  参道の先にある境内
       
             塚上に鎮座する
出丸本若一王子社社殿
 川島町出丸本地域は、『新編武蔵風土記稿』において「出丸本村」として記載がある。この村は八ッ林郷土袋庄川島領に属し、古くは「伊豆丸」という地名であった。
 ・『小田原役帳』…桑原彌七郎九十貫文河越伊豆丸
 ・『享徳二年那智山米良文書』…武蔵之国いつ丸の郷
 その後、寛永十六年にこの地が松平伊豆守の知行地となり、領主の名(伊豆守)を憚って「出丸」と改称したという。伊豆(いず)の表記を[入ず]に改めただけではなく、意味まで逆にしたようで、[入ず丸]ではなく[出ず丸]と変更したという。
 当社は出丸本、上・下大屋敷、曲師、西谷の五ケ村の惣鎮守であり、社名は幕末まで「王子権現」「若一王子権現」と呼ばれていて、熊野神社系列の社として中世勧請されたという。
        
                       社殿の脇に祀られている金毘羅宮・愛宕社

 それとは別の説になるが、比企郡出丸郷鹿飼村(川越市)からこの地に清和源氏新田氏流今井氏が移住し、「イヅマル」と称したともいう。
新田族譜
「新田又太郎政氏―新田十郎惟氏(住上野国新田郡今井村)―今井五郎惟義―清義―惟清―惟道―惟繁―惟実―惟長―兵部丞惟信(大永二年十二月三日武州須賀合戦打死)―玄蕃助惟良(享禄元年九月移武州入間郡、居処号出丸)―図書助惟辰(元亀二年被殺)―助六惟近(住出丸)」
 現時点ではその真相は不明である。
        
                             境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「新田
族譜」「享徳二年那智山米良文書」
    「世界大百科事典 2版」「百科事典マイペディア」等
        

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一本木神明神社

 川島町一本木地域は旧一本木村といい、小見野郷土袋庄川島領に属していた。集落の中を東西に通過する街道の村外れ(北園部との境)の道筋に嘗て聳えていた榎の木に由来するという。この街道は、大宮から桶川を経て東松山に至る古い道で、古くからの集落も街道に沿っているとの事だ。
『新編武蔵風土記稿・一本木』において「東西十町、南北五町」と記載されている。「町(ちょう)」とは日本固有の尺貫法における長さ(距離)または面積の単位として使用されていて、長さの単位として使用される場合、条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていたが、太閤検地の際に63寸を1間とする60間となり、後に6尺を1間とする60間となった。メートル条約加入後の1891年に、度量衡法によりメートルを基準として1200 m11町と定めた。したがって1町は約109 mとなる。
 上記の計算方法で「東西十町、南北五町」を計算すると「東西1090m、南北545m」となり、現在の行政区画では、東西で長い所が1200m程、南北400m弱程なので、東西はほぼ同じ長さではあるが南北で若干の違いがあり、時代が下るごとに区域面積の変更が生じたのであろう。
 ともあれこの地域の西側で、周囲は一面の田圃が広がっている中に一本木神明神社はひっそりと鎮座している。
        
              
・所在地 埼玉県比企郡川島町一本木83
              
・ご祭神 天照大神
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0007255,139.4603359,17z?hl=ja&entry=ttu

 上八ッ林氷川神社から埼玉県道74号日高川島線を西行し、「上八ッ林」交差点を右折する。同県道76号鴻巣川島線合流後400m程北上し、十字路を左折すると進行方向右斜め方向に円泉寺、その西隣に一本木神明神社の社叢が見えてくる。
 実のところ県道から左折して350m程進んだ民家の間の細い路地を右折すると、社の正面に到着できるのだが、その道は使わずに、その手前150m付近のT字路を右折して道なりに進む。左カーブ上になる農道を暫く進むと、社の後ろ側に到着し、そこの路肩を一時的にお借りして急ぎ参拝を開始した。
        
                  一本木神明神社正面
             
                鳥居の左側に立つ社号標柱 
     
            境内左側に聳え立つご神木の銀杏の木(写真左・右)
        
             ご神木の根本付近に祀られている富士塚
「埼玉の神社」によると、富士嶽神社」「一本木村社中」と刻む石碑は、元来は氏子の松本政雄家の敷地内に富士向き(東向き)に祀られていたものが、昭和の初めごろに移されてきたといわれている。
       
                                     拝 殿
 神明神社 川島町一本木八三(一本木字神明町)
 一本木の地名は、村内を東西に通過する街道の村外れ(北園部との境)の道脇にかつてそびえていた榎の大木に由来するという。
 この街道は、大宮から上尾の平方を経て東松山に至る古い道で、当社の鳥居も街道に面しており、ここから参道が始まる。また、古くからの集落も街道に沿ってある。
 当社の創建は江戸初期のことであると伝えられる。その背景には、慶長十九年(一六一四)に大神宮様が同じ伊勢国の野上山に飛び移ったという託宣を機に諸国に流行した伊勢踊りの影響が考えられよう。
『風土記稿』一本木村の項には「神明社村の鎮守なり、円泉寺持」と載せられている。これにみえる円泉寺は、入間郡今市村法思寺門徒で、慈眼山と号する真言宗の寺院であり、当社に隣り合って本堂を構えている。
 神仏分離により円泉寺の手を離れた当社は、明治四年に村社となった。同三十九年に履屋・拝殿・幣殿を再建し、昭和十二年には本殿を再建した。
 なお、現在境内にある富士塚(「富士嶽神社」「一本木村社中」と刻む石碑が建つ)は、元来は氏子の松本政雄家の敷地内に富士向き(東向き)に祀られていたものが、昭和の初めごろに移されてきたといわれている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
     社殿左側に鎮座する合祀社       合祀社の右隣に鎮座する境内社・御嶽社
  左から
天神宮・稲荷社・愛宕社・八幡宮
 
 社の東側には用水が静かに流れている(写真左・鳥居の左側に用水は流れている。写真右 その拡大写真)。川島町内の社にはこのように「水」との関わりが深い。古来、蛇は水神の化身とされ、主祭神の素戔嗚尊がその蛇(八岐大蛇)を退治した神話に因り、水を治める神とされた氷川神社が多いのはこの為であろうか。
 川島町は県内のほぼ中央に位置し、四方を荒川(東)、越辺川・都幾川(西)、入間川(南)、市野川(北)と5本の河川に囲まれた輪中となっている。北側で市野川を境に東松山市、吉見町に接し、東側で荒川を境に北本市、桶川市、上尾市に接し、南側で入間川を境に坂戸市に接している。地名のとおり「川に囲まれた島」のような地形となっている。

 荒川や荒川系河川の流域であることから町内は荒川低地となっており、立地を生かした農業が盛んで田園地帯が広がっている。勿論、近代的な建物も多く建てられている場所も随所にあるが、全体的にのんびりとした昔懐かしい風景がそこかしこに垣間見られるこの地域での社散策は充実感もあり、楽しい時間を過ごすことができた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「川島町HP」「Wikipedia」等
        
 
         

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上八ッ林氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町上八ッ林854
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9970893,139.4768275,18z?hl=ja&entry=ttu

 下八ッ林天神社から一旦「さくら通り」を南下して「下八ッ林」交差点を右折する。再び埼玉県道74号日高川島線に合流後、450m程進むと右側に上八ッ林氷川神社が見えてくる。社に対して県道を挟んだ南西側には「上八ッ林道下集会所」があり、適度な駐車スペースも確保されているので、そこのスペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                            
上八ッ林氷川神社正面
『日本歴史地名大系』における「上八ッ林村(かみやつばやしむら)・現川島町上八ッ林地域」の解説によると、「当村は、一本木村の南東にあり、東は吹塚村。集落は旧荒川筋の自然堤防上に長く発達する。東方の下八ッ林村と共に中世八林郷の遺称地。また古くは同村などと一村で八ッ林村と称していた。
 その後慶安年間(16481652)頃には八ッ林村から畑中、大塚(大墳)の両村が分出、寛文年中(16611673)には更に上・下二村の八ッ林村に分れたという(「郡村誌」など)。田園簿には八ッ林村とあり、田高一千三二石余・畑高一五四石余、旗本酒井領」
と記されている。
        
                    境内の様子
 八ッ林という地名は中世末頃から用いられていて、その当時の「八ッ林郷」は、出丸本、出丸中郷、出丸下郷、上大屋敷、下大屋敷、曲師、西谷、釘無、上狢、下狢、白井沼、飯島等十八か村を含んでいた。
 地名である「八ッ林」の「八(やつ)」は数多いという意味で、ここの微高地には古くから人が居住し、林が広がっていたものと思われる。八ッ林という地名はそのような景観から生まれた地名であるのだろうか。
       
            上八ッ林氷川神社のシンボルともいえる大ケヤキ
 上八ッ林氷川神社の広々とした境内にあってひときわ目立ち、堂々と聳え立っている。樹齢300年以上との事で、今まで見てきたケヤキの巨木・大木に比べれば、特別老木とは言えないかもしれないが、樹齢に対して意外と幹は太く貫禄があり、樹勢は生き生きとしていている。隆起した根張りも力強く、緑豊かな葉が生い茂っている大樹である。
        
                                 案内板
 けやきの大木 (町選定 天然記念物)
 上八ッ林の氷川神社に古くからあるけやきは、樹齢300年以上といわれご神木として人々から大切にされている。この木の由来は詳らかではないが巨木として樹相はまことにみごとなものである。また、樹高約四〇メートル、樹周約約五.二〇メートルもあるこの木は、天然記念物として大事に保護されている。なおこの木は、昭和五十五年十月九日、埼玉県主催の県の木指定十五周年記念ケヤキコンクール大木の部において、埼玉県知事より表彰された。
 平成二年十月 川島町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                                        拝 殿
 
          本 殿                境内社・詳細不明 
    社殿奥に祀られている石祠等           境内にポツンとある梵鐘
             
 上八ッ林氷川神社の東側並びにある火の見櫓とその手前に祀られている地蔵尊・庚申塔。錆びついている火の見櫓や周辺の風景を見るにつけ、幾世代前の「昭和」を感じる昔懐かしい雰囲気が辺りを包みこんでいるようだった。 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉県の鎮守の森」「境内案内板」等             

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