古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中山氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町中山1790
             
・ご祭神 素戔嗚尊 応神天皇 建御名方神 清寧天皇 菅原道真公
             
・社 格 旧村社 神饌幣帛供進神社
             
・例祭等 春祭 328日 夏祭 718日 秋祭 1017
                  
神幸祭 1214日 例祭1215
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9863814,139.4514261,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道254号線を川島・川越方面に南下し、「首都圏中央自動車道・川島IC」の手前にある信号のある十字路を右折し、道なりに800m程進む。と右側に中山氷川神社の朱の鳥居が見えてくる。
 社の東側に隣接する「宮本集落センター」には駐車スペースもあるので、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                  中山氷川神社正面
          朱色の木製鳥居のすぐ先に石製の二の鳥居が立っている。
(中山村)氷川社
八幡・諏訪の二神を合祀す、村の鎮守なり、棟札に延暦三甲子年九月吉日、武州比企郡川嶋之内土袋庄中山村願主長圓と記す、されど此年號さらに信ずべからず、何ものか彼世かゝる無稽のことを、なし置しと見えたり、善能寺持、
                               『新編武蔵風土記稿』より引用
「埼玉の神社」にも上記と同様に、
当社の創建を伝える史料としては、宝永七年(一七一〇)の棟札がある。この棟札の裏側には
「守護山郷内繁昌祈攸 別当善能寺
「武州比企郡川嶋土袋庄中山村江口村六兵衛、願主隆貞」の文字と共に、「延暦三年甲子(七八四)九月勧請 二十七年破損造立 自享禄元年(一五二八)
宝永七年迄八十四年 従延暦三年宝永七年迄九百廿七年」と、由緒が記されている。
 しかし『風土記稿』が「延暦三年」という年号に疑問を投げかけており、実際に当社が神社として形を整えたのは、村の開発と同じころと推定される。
と記載されている。
        
                           参道途中に設置されてある案内板
 氷川神社 畧記
 鎮座地 川島町大字中山字宮本一七九〇番地
 御本殿 銅板葺流れ造十二坪
 境内地 五百八十坪
 境内社 稲荷神社 祭神倉稲魂命
 御由緒
 当社は延曆三甲子三月武藏国大宮高鼻鎮座氷川神社より勧請すと伝えられる 社伝享禄元戊子八月、慶安四戊子六月、貞享九甲子六月、宝永庚寅八月、享保十乙巳九月造立造修あり 享保十九年三月十五日宗源宣旨を以て氷川八幡諏訪三神共正一位大明神号を授けらる 宝暦六丙子十月外廓拝殿、寛政十一己未四月、文政己卯八月本殿立修あり 天保十二年辛丑九月山形藩主秋元但馬守より御影石鳥居一基奉納あり 明治四年村社 明治三十九年二月社務所落成 明治四十年三月神明白髭社、上廓白髭社、天神社を合祀す 明治四十一年三月神饌幣帛供進神社に指定 昭和四十九年三月社務所改築 昭和五十三年七月拝殿屋根造修する
                                      案内板より引用
        
           南北に長い参道があり、その先に拝殿が鎮座する。
 比企氏は鎌倉時代に北条氏との権力闘争の末に「比企の乱」にて一族はみな討たれ、比企一族は滅亡したことになっている。しかし当時二歳であった能員の子である能本は比企氏族滅の中、唯一生き残る。『新編鎌倉志』によると、能本は伯父の伯蓍上人に匿われて出家し、京で順徳天皇に仕え、承久の乱後に順徳天皇の佐渡国配流に同行した。後に4代将軍九条頼経の御台所となった頼家の娘の竹御所の計らいによって、鎌倉に戻ったという。鎌倉に妙本寺を建立し、比企一族の菩提寺となった。建長5年(1253年)には日蓮に帰依していて、その後も比企氏の血統は生き続けることになる。
        

                                        拝 殿
比企郡川島町中山地域の田園地帯にある金剛寺には、15世紀から比企氏の墓所が多数存在する。
『新編武蔵風土記稿 中山村条』
「金剛寺 清月山元光院と號す、新義眞言宗、入間郡石井村大智寺末、本尊釋迦を安ず、開山詳ならず、後に比企佐馬助則員中興す、境内に則員が墓あり、法名元光元和二年三月十九日卒すと、今用る院號は此法謚に取し事知べし、則員子孫は村民にあり、
 
鐘樓。鐘は正保年間中興檀越則員の子、次左衛門義尚建立せしが、此鐘損ぜし故、延享年中改め鑄しと云」
        
                     本 殿
       
               境内社・左から八坂神社、天神社

       境内社・
白髭神社              境内社・稲荷社

『新編武蔵風土記稿』には「比企佐馬助則員」という人物が登場する。比企の乱後、生き延びた一族が、地方の所領に潜伏していたとも、名前を変え地元に潜伏していたとも、菩提寺である金剛寺に匿われていたとも、後北条氏のように比企地方を領有するための正当性を示すため当時の地元有力武士が比企氏を称したなど諸説がある。
 とにかく比企氏は室町時代初頭に再び比企地方に姿をあらわし上杉氏等に仕えた後、後北条氏の勢力が拡大すると後北条氏に仕えたとも言われている。江戸時代になると一族は幕府や諸藩に仕官、地元で帰農する等、その子孫は現代も脈々と続いている。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
Wikipedia」「境内案内板」等

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吹塚氷川神社


        
              ・
所在地 埼玉県比企郡川島町吹塚205
              ・
ご祭神 素戔嗚尊
              ・
社 格 旧村社
              ・
例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9984292,139.4571073,17z?hl=ja&entry=ttu
 両園部氷川神社から埼玉県道74号日高川島線を北東方向に進路をとり、国道254号線を過ぎて350m程進んだ細い十字路を左折し、そのまま道なりに進むと最終的に突き当りとなり、その角地に吹塚氷川神社は鎮座している。
 社の西側には南北に通じる道路(?)があり、そこには駐車スペースも確保されているので、そこの一角をお借りしてから参拝を行う。
        
                   吹塚氷川神社正面
 嘗て川島領・現在の川島町は、江戸時代には川越藩の米蔵と称され、米の生産量を誇ったというほどの一大穀物収穫地帯であり、それを支えたのが、この地域に存在する「中山用水」「長楽用水」の二大農業用水路である。この二つの農業用水路の歴史は古く、共にその起源は近世以前といわれているので、埼玉県下では、最古の部類に属する古い歴史を持つ用水路であるという。
 
            石製の鳥居              参道から社殿を望む。
 此の地は
穀物収穫地帯であったが、同時に荒川低地内に位置し、平均標高は11m12m。四方を越辺川・都幾川・入間川・市野川・荒川等の河川に囲まれているため、古くから水害に悩まされるのは宿命ともいえた。
 吹塚地域は西側に飛び地があるが、その地域は都幾川が越辺川に合流する下流域で、更に越辺川の流路が大きく蛇行する場所でもあり、堤防が切れやすく水害の常襲地帯でもあった。一旦越辺川等の河川が氾濫すると、この辺りは一面海のようになり、その場合「水害予備船」と呼ばれる水塚の軒先に吊るされた舟(揚舟)で行き来するよりほかに交通の手段がなく、僅かな高台がその中継所となったという。
        
                                      拝 殿
 氷川神社 川島町吹塚二〇五(吹塚字中町)
 川島町は四面を川に囲まれ、古くから水害に悩まされてきた。いったん越辺川や都幾川が氾濫すると、この辺りは一面海のようになり、船で行き来するよりほかに交通の手段がなく、わずかな高台がその中継所となった。町内にある吹塚・虫塚・東大塚などの地名は、このような大水の際に目標となった高台を示している。
 当社は吹塚の地名の由来となった塚の上に鎮座している。この塚は高さ五メートル・周囲四〇メートルほどの大きさで、氏子からは古墳であるとも、祭壇であるとも語られている。
 元来は、この頂上に御嶽神社を祀り、麓に氷川神社を祀っていたが、大正十五年に氷川神社の本殿を麓から頂上に引き上げて幣殿・拝殿を新築し、現在のような形となった。
 恐らく、村を開くに当たり、古くから神聖祝されていた塚の傍らに武蔵国一の宮氷川神社を治水の神として勧請し、後に木曾御獄信仰の流布に伴って塚上に御獄神社が祀られたものであろう。御獄神社の石造物に見える「江戸行者寛明院」「江戸永壽講」「慶応一ニ年(一八六七)」などの銘文から、江戸の修行者による布教がその創建の背景にあったことがうかがえる。
『風土記稿』には「氷川社村の鎮守なり、花蔵院持」とある。明治四年に村社となった当社は、大正四年に無格社神明社を合祀し、更に昭和三年には無格社熊野社とその境内社稲荷社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用

 川島町吹塚地域の「吹塚」という地名は、「塚」という言葉を用いるように「高台」を意味する地域名であり、この「塚」と認識できるものが、吹塚地域に鎮座する氷川神社の社殿の奥に現実に存在している。
        
                社殿の奥にある「
吹塚古墳」
               墳頂には御嶽神社が祀られている。

 吹塚古墳(別称 御嶽山古墳)は一見円墳の形状に見えるが、他のHPを見ると、「方墳」と認識しているケースが多い。それらの総合的な見解では、一辺35m×高さ5mで、築造年代は不明とされている。
 因みに「埼玉の神社」では、氏子からでの話では、この塚は「古墳であるとも、祭壇であるとも語られている」と記されているので、古墳であるという証拠があるわけではないようだ。
 
 社殿の左側に鎮座する合祀社・稲荷大神、稲荷大神(写真左)。またこの合祀社の脇には板碑の破片が置かれている(同右)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
 

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両園部氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町北園部636
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例祭 49日 天王様 725
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9964052,139.4503338,16z?hl=ja&entry=ttu
 国道254号線を川島・川越方面に進み、「南園部」交差点を右折すると、すぐに進行方向正面で、道路に対して右側にこんもりとした両園部氷川神社の社叢林が見えてくる。
 但し周辺には適当な駐車スペースはないため、交差点手前にある「IA川島直売所」の駐車場をお借りしてから参拝を開始する。あたり周辺は見渡す限りの農村地帯で、その中にポツンと直売所が設置されているが、それでも交通量が多いせいか、平日にもかかわらず駐車場には多くの車両が駐車しており、買い物に、またはひと時の休憩場所に活用している方々がいるようであった。
        
                             
両園部氷川神社正面
   埼玉県道74号日高川島線沿いであるが、県道に対して一段低い位置に鎮座している。
 
 境内は決して広くはないが、こじんまりと纏まっていて、社としての形態は整っている(写真左・右)。
 後になって知ったことだが、『新編武蔵風土記稿』では、嘗て北・南園部地域は「園部村」として一地域であったが、後年(江戸時代・元禄年間中)南北二村に分かれたという。『埼玉の神社』には両園部氷川神社の所在地は「北園部636」となっていて、解説にも「北園部村の西南万の飛び地」があったようだが、現在その飛び地は無くなり、所在地も「南園部636」となっている。
       
 境内全体社叢林の覆われているが、その中でも参道途中左側に聳え立つ巨木に目が留まり、思わずシャッターを切ってしまった(写真左・右)。ご神木かどうかは不明だが、かなり威圧感ある巨木である。
        
                                      拝 殿
 氷川神社 川島町北園部六三六(北園部字安藤町)
 かつて北園部村の西南万の飛び地に「安藤沼」と呼ばれる大きな沼があった。この沼の南側の杜に祀られていたのが当社である。
 当地の開発は、天正年間(一五七三-九二)に但馬重兼なる者が土着して行われたと伝え、その祖先の郷里である丹波国園部郷の地名を採って園部と定めたという。下って、慶長七年(一六〇二)に村人一同が協議の上、足立郡大宮宿の氷川神社を勧請し、村の鎮守とした。
 当時、氷川神社が武蔵国一の宮として広く名が知られていたことが鎮守として選定されるに至った理由である。また、本社である氷川神社は、正保期(一六四四-四八)の古図を見ると、広大な見沼を望む高鼻と呼ばれる高台の鬱蒼たる杜の中に鎮座しており、当社もこれに倣って安藤沼のほとりに奉斎されたことは想像するに難くない。
『風土記稿』は「氷川社南北園部村の鎮守なり、北園部村医音寺持」と載せている。一方、『明細帳』によると、明治四年に村社となり、同四十年には無格社四社を合祀した。ただし、実際に合祀が行われたのは、字江ノ島町の神明社の一社だけで、ほかの三社はそのまま残された。なお、当社の神域であった安藤沼は、大正期から昭和初期にかけて埋め立てられた。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」に記されている「但馬重兼」なる人物を調べてみると、元々は藤原鎌足の後胤藤原資道の子孫で、由緒正しい人物であったようだ。『比企郡神社誌』には以下の記載がある。

「大字園部村字安藤、氷川神社由緒。藤原鎌足の後胤藤原資道の子孫二十代に図書重清あり、応仁元年西国の乱に発向し、丹波国園部郷に住す。重清の弟但馬重成天文十二年越後国首城郡春日野に住す、長尾謙信に仕へ同所に死す。其の子図書重政永禄四年信州川中島の合戦に供奉す。其の子但馬重兼天正元年関東に発向し、武蔵国松山領惣名川島開発場有之爰に住居す。重兼兄弟三人あり、元丹波国園部郷をとり、園部と定む。以来友人来り元禄三年迄に戸数三十戸となる。慶長七年足立郡氷川神社より万札をなし鎮守氷川神社を安置し、藤原家先導したるため地名を安藤と称す」

 
この「但馬重兼」の本来の姓は「藤原」だが、この地に居を構えたところから「園部」と名乗った可能性は高い。『比企郡神社誌』が記している「元丹波国園部郷をとり、園部と名付ける」というのは本質的におかしな話ではなかろうか。元々この地の地域名は「園部」だった為、「元丹波国園部郷」出身の但馬重兼がこの地に移住したというのが真相であろう
「移住しようとする人物・集団」が何の目的・目標もなしに移動することはあり得ず、その「最終目的地」がきっとあるわけであり、その「一候補地」は間違いなく「移住先の地域名」となるに違いない。
 このように考えると地域名(地名)は同じ血縁集団が、どんなに離れていても、どんなに時代が過ぎようとも、最終的には同じ場所にたどり着けるように導く「灯台」であり「暗号」のようなものだったかもしれない。
 また嘗て北園部村の西南万の飛び地にあった沼の名前は「安藤沼」というが、その安藤沼の名称由来も、「藤原」氏がこの地に氷川神社を「安置」したことで、「安」+「藤」沼となったことも解説されている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「比企郡神社誌」「埼玉の神社」等


        

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長楽氷川神社


        
             ・所在地 埼玉県比企郡川島町長楽255
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祈祷 412日 天王様 722
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0044846,139.4261932,17z?hl=ja&entry=ttu

 戸守氷川神社から西方向約1㎞先の長楽地域に鎮座する長楽氷川神社。因みに「長楽」と書いて「ながらく」と読む。社の東側には南北方向に沿って通じる農道があり、そこから境内に入る入口があり、そこの一角に車を停めてから参拝を開始する。
 境内は決して広くはないが、社に隣接して西側には「長楽集落センター」が、また境内南側には児童用の遊具もあり、地域住民の方々の憩いの場所にもなっているのであろう。境内も参拝日当日雨交じりの天候故に人気はなかったが、日々の手入れもしっかりとしているようで、心静かな面持ちで参拝をすることができた。
             
                入口の設置されている社号標柱
       
                              
長楽氷川神社正面
 長楽氷川神社はほぼ東西に流れている長楽用水(ながらくようすい)の南側に鎮座している。この用水は、埼玉県比企郡川島町を流れる用水路で、川島町長楽の都幾川に設けられた長楽堰から取水する。途中で幾つかに枝分かれし、川島町北部を灌漑し、南部には安藤川に水を流し灌漑していて、最終的には市野川に排水される。流路延長は15.4 km、灌漑面積は762 haである。水路は素掘りで周囲は主に農地となっている。
『新編武蔵風土記稿』において「圦樋 村の西の方都幾川に設く、川嶋領二十五村組合用水の分水口なり」と記されていて、江戸時代元禄年間には用水路として整備された記録があり、1450年代の室町時代に開削された伝承が残るように、それ以前から用水路は開削されていたとみられている。
        
                                    境内の様子
 1967年(昭和42年)に長楽頭首工および長楽用水樋管の改修が行なわれ、1974年(昭和49年)から1981年(昭和56年)にかけて県の灌漑排水事業としての整備が周辺の排水路と共に行なわれた。また2012年度に埼玉県による「水辺再生100プラン」の対象となり、河岸が整備された親しみやすい川へ向けた事業が行われ、遊歩道の新設や、護岸の整備などが実施されたという。
        
                     拝 殿
 氷川神社 川島町長楽二五五(長楽字柳原)
 鎮座地である長楽という地名は、長いものの意で、河川を表す古名である。当地においては、都幾川並びに越辺川を示すのであろう。殊に中世、長楽は、都幾川からの用水取り入れ口に当たり、ここから近隣の戸守郷・尾美野郷・八林郷などに通水を行っていた。
 社伝によると、天文から天正年間にかけて、当地は北条氏代官の宇津木兵庫進が支配した。しかし、天正十八年(一五九〇)に北条氏が滅亡したため武門を退き、榎本四郎左衛門なる者と共に帰農した。
 慶長二年(一五九七)八月一日、両氏は、産土神として社殿を建立し、治水安泰の神として民衆に知られていた武蔵国一の宮氷川神社を勧請した。その後、貞享元年(一六八四)、次いで享和元年(一八〇一)に社殿の再建を行い、文化二年(一八〇六)には拝殿を造営している。
『風土記稿』によると、「村の鎮守なり、宝蔵寺持」とある。宝蔵寺は天台宗で、明治初年の神仏分離令発令まで、当社の祭祀法楽を司っていたと伝えられる。
 明治四年に村社となり、同四十年二月には字権現堂無格社東照神社を合祀している。昭和四年四月に、覆屋・幣殿・拝殿を改築し、更に同二十三年四月には、社務所を建設している。なお、この社務所は平成二年に集落センターとして再建され現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
            社殿の左側奥に祀られている境内社と石碑
   境内社の由緒は不明。石祠には「秋葉権現 熊野権現 東照権現」と刻印されている。

 川島町には「宇津木」苗字が何気に多い。「埼玉の神社」に記されている「宇津木兵庫進」に関わりのある末裔がこの地に居住しているからなのだろうか。
 調べてみるとこの宇津木氏の出自は
かなりややこしいので、かいつまんで説明する。この宇津木兵庫進」の先祖は、豊後の戦国大名として、北九州一帯をその勢力圏とした「大友氏」という。この大友氏は鎌倉時代初期に相模国大友郷を所領していて、その土地の名をとって大友氏を名乗っていたからだといわれている。
 大友家乗によれば、建久7年(1196年)正月11日、豊前・豊後両国に守護兼鎮西奉行として入った大友能直という人物が豊後・大友氏の始祖と云われ、大友能直の三男である大友時景(景直)は、大野郡一萬田村を領して一萬田の俗姓を名のり、一萬田氏の家祖となったという。
        
                                       
境内の風景
『比企郡神社誌』
「大字長楽氷川神社は、天文年中より天正年間迄宇津木兵庫進・北条氏政に仕へ代官として此の地を支配す。男孫十に至り小田原落城に及びし故武門を退きて旧領地に来り住す。此の時、榎本四郎左衛門・又来り土地開拓に協力す。此の両氏発起し慶長二年八月氷川神社を勧請す」
『宇津木家留書(宇津木和夫文書)』
一万田藤原親氏嫡親良、兄関東下而依勘気、親直を以て家苗為相続、子親良関東下而宇津木と改苗罷在処、北条氏政武州川越一戦後比企郡長楽村御囲屋敷壱軒御同人より親良に給ふ、天正九年御囲屋敷へ引移り代々居住す」

 宇津木家留書では、藤原北家・秀郷流で、大友氏の支流である「一万田藤原親氏嫡親良」が何かしらの理由(勘気)で関東へ下向し、この地に移住した際に「宇津木」氏と称し、天文年中より天正年間迄宇津木兵庫進・北条氏政に仕へて代官として此の地を支配したという。筆者も「一万田藤原親氏嫡親良」という人物を書籍やインターネット等で調べてみたが、これ以外の情報はなく、全く分からなかった。この
宇津木氏に関して詳しい情報を知っている方がいたらどうかご享受願いたいと思う。
        
                       
境内南側の片隅みにある「庚申塔」「馬頭観音」


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
比企郡神社誌」「宇津木家留書(宇津木和夫文書)」
    「埼玉の神社」「
Wikipedia」等


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戸守氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町戸守1121
             ・ご祭神 素盞嗚命
             ・社 格 旧戸守郷鎮守
             ・例 祭 不詳
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0026627,139.4367356,16z?hl=ja&entry=ttu
 正直日枝神社から「長楽用水」沿いの農道を700m程西行すると、進行方向右側に戸守氷川神社の鳥居が道路沿いからはやや奥に入った場所に見えてくる。この二つの社はお互いに用水に関連する社ともいえ、近距離に存在する。
 戸守氷川神社は、戸守地域にあるとはいえ、地域の中心街にあるのではなく、北側の飛び地ともいえる場所に鎮座する。「埼玉の神社」には嘗てこの地域には「戸守郷」が存在し、その郷の中央である中郷に鎮座していると記されていて、当時の「戸守郷」の広さを伺わせる位置関係となっているともいえる。
        
                  戸守氷川神社正面
 残念ながら周辺には駐車場等はない。但し道路に面して鳥居までに少なからず駐車スペースがあり、そこの一角をお借りしてから急ぎ参拝を開始する。
 周辺には民家も立ち並ぶ場所でありながら、社周辺には社叢林に囲まれた、物寂しい雰囲気を醸し出している。
        
                       鳥居は道路から少し奥に位置し建てられている。
 嘗てはもっと伸びた参道があったのではなかろうか。そのような思いがふと過る配置である。
 
鳥居の右側で、社号標柱周辺には、「鳥居建立記念碑」や幾多の庚申塔が設置されている(写真左・右)
        
                風情ある境内。参道の先には拝殿がひっそりと鎮座している。
        
                                         拝 殿
『新編武蔵風土記稿 戸守村条』
 戸守村は土袋庄川島領と云、古くは戸森と書しなり、家數七十七、東は南薗部村に隣り、西は長楽村に並び、南は中山村、北は正直村なり、東西の徑り十三町、南北十二町もあるべし、【小田原役帳】に太田豊後守が知行三十一貫九百丈、比企郡戸森乙卯検見と載す、是弘治元年の改なるべし、又八ッ林村道祖土氏文書の内、丁卯九月晦日小田原北條氏の文章に、三尾谷戸森右當郷代官職之事、如源五郎時無相違被仰付畢云云とあり、岩槻の城主源五郎氏資は、永禄九年丙寅戦死せしなれば、丁卯は永禄十年なるべし、されば弘治・永禄の頃は、太田氏の領知となりしこと明けし(以下略)

 氷川神社 川島町戸守一一二一(戸守字中郷)
 当地は、中世の史料に登場する「戸守郷」に比定されている。当社はこの戸守郷の惣鎮守であったと伝えられており、郷中の中央である中郷に鎮座している。
 郷名の初見は、正平七年(一三五二)の足利尊氏袖判下文で、尊氏は戸守郷を高師業に安堵している。下って至徳三年(一三八六)に鎌倉公方足利氏満は、戸守郷を下野国足利の鑁阿寺に寄進し、以後、室町後期まで同寺の寺領となった。享徳二年(一四五三)、享徳二年(一四五三)寺領代官の報告によれば、戸守郷と近隣の尾美野郷・八林郷は用水争論を起こしている。
 中世、各郷における権力者は、地生の「おとな」と呼ばれる者たちで、これらは、郷中間の用水談合、代官に対する年貢減免要求など、郷中経営ばかりでなく、「郷の惣鎮守」である当社の祭祀にも深く関与していたと思われる。当時から当社の神は、治水神、五穀豊穣の神とされていたことから、郷民の寄せる祈りは厚いものがあった。
 下って、江戸期の享保十八年(一七三三)、棟札によると社殿を造営している。これには、八幡大明神、稲荷大明神の二神が記されている。また、江戸後期に活躍した神祇伯の白川資延は、当社氷川大明神と、ほか二神に正一位の神位を授与している。別当については『風土記稿』に、薬師寺持ちとあり、同寺は明治初年に廃寺となった。
                                  「埼玉の神社」より引用

「戸守郷」は別称で戸森郷とも書く。現川島町戸守を遺称地とし、同所を含む越辺(おつぺ)川左岸一帯に比定される。正平七年(一三五二)二月六日の足利尊氏袖判下文(高文書)に「戸森郷」とあり、当郷は下野国足利庄内大窪(おおくぼ)郷(現栃木県足利市)等と供に常陸国馴馬(なれうま)郷(現茨城県龍ケ崎市)などの替地として、高師業に宛行われている。なお年未詳八月一四日の足利尊氏書状(同文書)によると、尊氏は師業の訴えを受け当郷の領有を再確認している。しかし貞治四年(一三六五)一〇月日の高坂重家陳状案(同文書)によれば、当郷は重家の亡父専阿が正平七年(一三五二)一二月一二日に勲功の賞として拝領した地といい、重家と師業(常珍)代行俊との間で相論が起こっている。行俊の主張は、正平七年に師業が当郷を拝領したにもかかわらず重家が押領したというものであった。この争いは鎌倉府の裁決では重家が勝訴したようで、応安元年(一三六八)七月一二日の足利金王丸寄進状写(諸州古文書)によれば、「高坂左京亮跡」たる当郷が四季大般若経転読料所として下野国鑁阿(ばんな)寺(現栃木県足利市)に寄進され、同日、関東管領上杉憲顕がその旨を施行している。
        
        社殿の奥に祀られている「御嶽山〇王大権現」と石碑・庚申塔等。
              中には板碑まで埋め込まれている。

 享徳二年(一四五三)四月十日、鏤阿寺代官十郎三郎の注進状によれば、十郎三郎は戸守郷に隣接する尾美野(おみの)(川島町上小見野・下小見野)・ハ林郷の両郷と用水をめぐる争いを起した。この用水は、都幾川(ときがわ)の水を川島町長楽(ながらく)で取水する通称「長楽用水(ながらくようすい)」と呼ばれているもので、尾美野・八林両郷も利用していたが、堰は戸守郷内にあり、それを勝手に止めてしまったというものであった。
「埼玉の神社」でも記されているが、
従来このような用水問題があった場合には、戸守・尾美野・八林の三郷の代表である「老者(おとな)」と呼ばれる有力農民らの話合いによって解決が図られるのが普通であった。しかし今回の場合は、尾美野の「老者」が同意の証判をすえなかったため武蔵国府へ調停を依頼した。尾美野・八林両郷ともに武蔵国守護上杉氏との関係があり(八林郷は上杉氏の所領であった)、上杉氏が実権を握る国府に訴え、用水問題を有利に解決しようとする尾美野・八林側の狙いがあったものと考えられる。
 それに対して戸守郷の有力農民らは領主である鍰阿寺側に年貢減免要求を起こし、結局農民らが一致団結して耕作を放棄しても減免を勝ち取ろうとする。時代は15世紀、上杉禅秀の乱→関東府の滅亡→結城合戦→古河公方の成立というように関東の政界を二分するような内乱が相次ぎ、それに伴い権力側の支配力が弱体・低下し、各地で農民らによる反領主的行動が表面化する。
 最終的には武力などの強制力がなく、間接的に支配していた鏤阿寺側としては打つ手がなく、寺側がその主張をやめ農民側の減免要求が通ったというものである。
 その後、武力を背景として、農民支配の徹底化をめざした戦国時代には、このような農民側の動きは見えなくなったという。
 室町時代のある限定的とはいえ、農民らがこのような年貢の減免を要求するなどの農民運動を起していた時代もあったということだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「北本デジタルアーカイブズ」
    「埼玉の神社」等
              

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