古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

滝馬室氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市滝馬室1151
             ・ご祭神 素戔嗚
             ・社 格 旧瀧馬室村鎮守 旧村社
             ・例 祭 的祭り 112日 風祭り41日 祈年祭 55日
                  天王様 71415日 夏越大祓 728日 例祭 95日
                  新嘗祭 1123日 越年大祓 1228日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0500013,139.5026985,18z?hl=ja&entry=ttu
 原馬室野宮神社から西方向に進路を取り、「なのはな通り」に合流する。「なのはな通り」を北上し、「鴻巣市 中学校給食センター」の十字路を左折し、細い道路を荒川河川敷沿いまで進み、そこから「御成橋」方向に350m程北上すると社の鳥居が見えてくる。周囲は草地と畑。実は、ポビー祭りやコスモス祭り会場でもあるので、細いながらも意外と舗装路もあるので車でも行ける。
 実のところ「なのはな通り」を
500m程北上すると、滝馬室氷川神社の社号標柱に到着するのだが、そこは社の裏口であり、社の正面入口は荒川の河岸段丘に向いた西側にある。

 因みに「御成橋」の橋長は804.8mであるが、鴻巣市と吉見町の間を流れる荒川の川幅は2,537mあり、日本一と認定されている。というのも荒川自体の川幅は数十メートル程度だが、国土交通省は河川敷を含めた堤防間を「川幅」と定めているからだ。御成橋のたもとと吉見町の堤防に「川幅日本一の標」が建てられている。
        
         荒川を望む河岸段丘の上に鎮座する古社・滝馬室氷川神社
 社の東側「なのはな通り」からの進路では住宅地に佇む神社という印象だが、西側正面から望むと、第一印象として、祭り時期以外、全く人気のない寂しさも感じられる。但しその何とも言えない社周辺一帯の静寂な雰囲気が、一種荘厳さを醸し出しているようにも感じるから不思議だ。
        
                  神明系の一の鳥居
      社の鳥居と参道が川側にあるのが何か意味を持つのか非常に気になる配置。
 延暦年間(782805)坂上田村麻呂が悪龍退治をしたとの伝承もあるが、昔から暴れ川で有名である荒川を「悪龍」に例えて、荒川自体を神と崇めながら、時に起こる天災に対して、社を鎮座することにより神の怒りを鎮めようとしたのだろうか。
        
                         一の鳥居の先で左側にある「御手洗の地」
 
参道の左側には小川の清流の音が聞こえる。赤い鳥居の前に立派な石積みの階段の水場があり、斜面側の注水口から湧水が流れ落ちている。「御手洗の地」といい、更に滝となって水路に注ぎ、当地一帯の耕地を潤している。思うに大宮台地の北端部断面から湧いているのだろう。この滝が村名の由来「滝馬室」になったといわれており、古くから当地の重要な水源であったことが推測される。恐らく、いつのころからか当地に住み着いた人々が、湧き出る水の恵みを称えてその傍らに当社を祀ったものと思われる。ちなみに馬室は、この辺りは古墳が多く、古墳の石室を示す「むろ」から生じたといわれている。
        
                                                朱を基調とした両部形式の二の鳥居
        
                         荒川の河岸段丘を利用してつくられた石段。
            よく見ると石段の両脇にある狛犬は狼型である。
 
    石段の左側で斜面上にある不動明王(写真左)と紙垂の巻かれた石柱(同右)。
       後日調べてみると、この石祠は「弁財天」の祠であるという。
        
                     石段を登った先には段丘面が開け、境内が広がる。
        
                    境内の右側に設置されている「滝馬室的祭」の案内板
 鴻巣市指定無形民俗文化財 滝馬室的祭  昭和四十五年三月十日指定
 滝馬室の氷川神社に的祭(まといさい。まとうさいともいう)の神事が伝えられている。    延暦年間(七八二~八〇五)征夷大将軍坂上田村麻呂は東北遠征の途中、この地の住民に悪竜(大蛇)退治を依頼されたという。
 田村麻呂に追いつめられた悪竜は滝馬室常勝寺の山林にのがれ、桜の巨木に巻きついたので、田村麻呂は竜の目を射抜いて退治したという。竜の頭は氷川神社境内に、胴体は常勝寺に埋められた。ために常勝寺は竜蔵山と山号が付され、桜は蛇桜と呼ばれるようになった。
 的祭はこの口伝にちなんだ五穀豊穣の祈願祭であり、一時中断されていたが、貞享年間(一六八〇年代)島田常勝という人が復興し、氷川神社の祭礼として現在まで伝えられている。昔は、衣服に関しても直衣を着用するなど格調高く、儀式も厳しく、関係者は心身を清めてそれぞれに奉仕したようであるが、今はその点ゆるやかになっているのは時勢によるところである。
 的祭は例年一月十二日に執行されている。神事は氏神に祝詞を奏上した後、地元の十二歳になる子供たちが、葦の網代に蛇の目を描いた的をめがけて矢を射た後、氏子一同神饌物を食し豊作を祈願して終了となる。平成二十八年六月
                                      案内板より引用

        
                                       拝 殿
 
    拝殿左側に鎮座する境内社・須賀神社。     須賀神社の奥にある石碑、菩薩様等。
       
 境内社・須賀神社の左隣に聳え立つご神木ともいえる巨木。その根元には「金剛山」と彫られた石祠もあり。
        
              拝殿右側には案内板が設置されている。
氷川神社 御由緒  鴻巣市滝馬室一一五〇‐二
御縁起(歴史)
滝馬室は、隣の原馬室と共に、室町期‐戦国期に見える「馬室郷」の遺称地で、その郷名は『埼玉県地名誌』によれば、古墳の石室を示す「むろ」から生じたという。元禄年間(一六八八‐一七〇四)までに分村したらしく、『元禄郷帳』に滝馬室村と見える。
 当社は荒川低地を望む台地上に鎮座している。老樹に囲まれた境内の一角からは清水が湧き出し、「御手洗の地」となっており、更に滝となって水路に注ぎ、当地一帯の耕地を潤している。この滝が村名の由来になったといわれており、古くから当地の重要な水源であったことが推測される。恐らく、いつのころからか当地に住み着いた人々が、湧き出る水の恵みを称えてその傍らに当社を祀ったものと思われる。また、伝説によれば「延暦年間(七八二‐八〇五)坂上田村麻呂が東征の途次、農作物を荒らす大蛇を退治して、頭を当社に、胴体を地内の常勝寺に、尾は吉見町の岩殿観音に埋めた」とあり、当社と常勝寺のかかわりもうかがわせる。常勝寺は開山開基共に不詳であるが、境内には文永七年(一二七〇)「為種法入道也」などの古碑が残されており、古い時期の草創と思われる。
往時の別当は、当社隣地にあった真言宗吉祥寺で、常勝寺の末寺で竜泉山と号し、開山光瓊が天正十一年(一五八三)に寂している。
当社は寛延二年(一七四九)に神祇管領卜部兼雄から幣帛を受けた。
御祭神と御神徳
・素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用
 
 
 拝殿右側に鎮座する境内社・愛宕(?)神社。         社務所だろうか。

 滝馬室氷川神社の社号標柱は境内東側の「なのはな通り」沿いに設置されている。住宅地の中に社は鎮座しているのだが、この社は何かおかしい。というのもこの社の配置は、住宅地に向いていなく、そっぽを向いている。その為当地の方々が参拝をするにしても、裏側ないしは横側からの参拝方法しかないからで、それでも正式な参拝を行うためには、一旦荒川河川敷に迂回しなければならない。
       
      「なのはな通り」に設置されている社号標柱、「滝馬室的祭」の標柱。
 滝馬室氷川神社は「西向き」の社である。「西向き」の社は「南向き、東向き」に比べて決して多いとは言えないが、多少は存在する。
 通常、神社は南か東を向いている。古くから「天子南面す」と言われるように玉座は南、太陽の方角を向いていた。
 中には東京都府中市に鎮座している武蔵国総社「大國魂神社」は「北向き」の社であるが、その由来は、永承6年(1051年)に、それまで南向きであった社殿を源頼義が北向きに改め、朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威によって治めるという意味があった。

 神様も同じように南を向くのが多いようだが、この他、御祭神に関係する方角を向いていたり、太陽の出る方角等各社の由緒によって向きを決めた神社もあるようだ。
        
                  滝馬室氷川神社の写真の中で一番のお気に入りの一枚

 滝馬室氷川神社は「鴻巣市指定無形民俗文化財 滝馬室的祭」神事が当地の五穀豊穣の祈願由来となり、毎年続けられている地元に根付いた行事でもある。
 当社では新年112日に実施される。新年に弓を射る行事は俗にいう【弓射儀礼】といい、全国にあり、現在も継承されている地域が少なくない。馬を走らせながら騎乗した射手が弓を射る流鏑馬は有名だが、多くは射手が立って(あるいは坐して)弓を射る神事が各地の寺社で行われてきた。
 宮中においては、古くから射礼[じゃらい]という祭祀儀礼が行われ、これを由来とする行事が近畿地方の結鎮[ けっちん]や四国地方の百手[ももて]などとして伝承されている。中世西日本の一の宮や地方の中核寺社における弓射儀礼が、宮座の行事として広まるなか、17世紀初めになると関東地方へも伝播したと考えられている。こうした行事は、関東で「オビシャ、弓祭、的祭、弓ぶち、天気祭、日の出祭」等と呼称され、ビシャには歩射、奉射、 武射、備射などの語が充てられている。いずれにしても、行事の本質は単なる弓の儀礼というわけではなく、地域の信仰や祭事などにおいて中心的な役割を担う頭屋の交代という重要な節目にあたり、過ぎし年を送り出して新たな年を迎えるという意味が込められている。あくまで地域の方々の行事に対する協力体制が整っていなければ、長期的に継続できないものである。
 したがって、本来は天地四方に矢を放つことによって空間(場)を浄め、更に特定の的を射抜くことによって、その一定地域において「暮らし」という時間軸の更新を図ってきたのではないかと考えられる。

        
                      西向きの参道と対をなす「狼」型の狛犬

 滝馬室氷川神社は、今でこそ「鴻巣市指定無形民俗文化財 滝馬室的祭」神事が地域の方々の団結力や協力もあり、継続されていて、まさにこの地域にとって「鎮守様」として日々の生活に密着した社として鎮座されている。また延暦年間(782805)坂上田村麻呂の悪龍退治伝説も相まって、淵源の歴史を感じる「重みのある社」としての風格も漂わせている。

 但し参道にある1対の「狼」型の狛犬には、上記の説明では解決できない「別物」の歴史も感じてしまうことも事実である。何度も記載するが、この社は「西向き」の社である。案内板等ではあくまで坂上田村麻呂の悪龍退治から「荒ぶる川」に対しての鎮魂の意味も込めて創建されたような「表歴史」が前面に出ているようだが、この「西向き」にはもっと奥深い信仰対象がその延長線上に存在していたように思えてくる。

 つまり、本来の鎮座意図、目的として、荒川上流部に鎮座する秩父三社(三峰神社・秩父神社・宝登山神社)の「狼信仰」に何かしらの関連性はないか、ということだ。荒川に対して社は向いているよりも、参道が向いているのはその遥か先、奥武蔵や秩父の山々なのではなかろうか。

 参道にある1対の「狼」型の狛犬以外何の根拠もない妄想の類かもしれないことを、あらかじめお断りしておく。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」
   

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