栗坪厳島神社
・所在地 埼玉県日高市栗坪129
・ご祭神 三姫命(湍津姫神 田心姫神 市杵島姫神)
・社 格 不明
・例祭等 元旦祭 大遊び 3月10日
埼玉県日高市栗坪地域は、同市南西部にあり、曼珠沙華の名所として知られる「巾着田」の東側で高麗川右岸に位置する。「栗坪(くりつぼ)」という地名の由来には、当地は栗の名産地で、栗を坪の中に保存したことによるか(新編武蔵風土記稿)という説と、坪には村落の意がある(日本の地名)ので栗を産する村の意であろう(地名誌)という説とあり、また条里制に由来する地名とも考えられるという。
*参照 『新編武藏風土記稿 高麗郡栗坪村』
高麗領高麗鄕に屬せり、村名の起る所はさだかならぬと、當村の栗は名産にして、是を坪内に貯れば、翌年仲春に至りても其味かはらざれば、それより起りしならんと云、(中略)
栗坪厳島神社遠景
途中までの経路は高麗本郷九万八千神社を参照。「巾着田」のすぐ北側で、日高市を東西に横断する埼玉県道15号川越日高線の「カワセミ街道」との交点である「高麗本郷」交差点を東方向に進む。その後、進行方向左側に「高麗公民館」、右側には「高麗郵便局」を見ながら900m程東行した丁字路を左折、そのまま道なりに進むと小高い山が見え、その山頂付近に栗坪厳島神社の鮮やかな赤色の社殿が小さく見えてくる。
遠目からでも目立つ赤色の鳥居
『日本歴史地名大系』 「栗坪村」の解説
梅原村の東、高麗川右岸にあり、東は野々宮村・楡木(にれぎ)村。西方高麗川対岸は高麗本郷。東から西へ川越から秩父への道が通る。高麗郡高麗領に属した。村名は栗の名所で、壺内に蓄えた栗が翌春まで味が変わらないことに由来するという(風土記稿)。慶長二年(一五九七)高麗町(のちの高麗本郷)にあった幕府代官大久保石見守長安の陣屋(高麗陣屋)が焼失したため、当村内梅原村境近くに移った。同様に市も当村内に移転したことから町場化し、川越秩父道に沿って当村から梅原村にかけて約四町の町並ができたという。これにより高麗町の名称も当地に移り、同町のうち下町が当村内にあった。陣屋諸用向・割元は高麗町名主に命じられ、慶長二年・寛文八年(一六六八)の検地の際の案内も町名主が勤めた(文化二年「市再興諸書物控并訳」堀口家文書)。近世中期までは人別五人組帳などは高麗町分は村分とは別になっていた(元禄一四年「高麗町人別・高之儀ニ付口上書下書」同文書)。田園簿では田二一石余・畑一三四石余、幕府領。延享三年(一七四六)三卿の一橋領となり、翌四年幕府代官からの引渡しが行われた(「高麗陣屋天正一九年以来代官交替覚書」高麗家文書)。
鳥居の左側に設置されている案内板 鳥居をすぎてすぐ右側にある庚申塔と
その左側には龍泉寺住職の墓石もある。
小高い山のようだが、よく見ると所々むき出しの岩盤(チャート)が見える。
山頂に向かう足元の石段もこのように岩盤を利用して削って造られているようで、
岩肌が荒々しく、意外と急勾配であるため、手すりが設置されている。
山頂手前に祀られている三峯社の石祠
拝 殿
『新編武藏風土記稿 高麗郡栗坪村』
辨天社 龍泉寺の持、下同,
龍泉寺 高岡山と號す、新義眞言宗、新堀村聖天院末なり、當寺はもと高岡村にありしが 何の頃かこヽに移せしと云、慶安年中高岡村にて、地藏堂領三石の御朱印を賜ふ、この堂は今も高岡村にあり、開山詳ならず、中興開山承慶は延享三年九月廿三日寂す、本尊不動を置、
厳島神社 日高町栗坪一二九(栗坪字御蔵)
栗坪は古くから栗の産地であることから付けられた名であるといわれる。『風土記稿』には、慶長二年に大久保石見守が高麗本郷にあった陣屋を当村に移した時に、民戸も移り、二町余りも家居をつらねて高麗町と唱え、毎月四・八の日に市を開くようになったが、元文二年に陣屋が廃され、延享年中、一橋家の領地の時、陣屋跡が開墾されるに及び市も寂れ、ついに廃されてしまったことが記されている。
当社は、神仏分離以前は真言宗高岡山竜泉寺内に、村社であった諏訪神社と共に祀られていたが、以降それぞれ独立した社となった。竜泉寺は山号が示すように隣村である高岡村にあったといわれ、火災のために現在の地に移転したと伝えられている。現在も高岡には慶長年中三石の朱印を受けた同寺持ちの地蔵堂が残る。
祭神である市杵島姫神は市神として祀られることが多く、当社も、とくに竜泉寺内に祀られていた当時は市神として信仰されたことが推察される。しかし、江戸中期に市が廃されると、市神の信仰から技芸神と信仰が移り、また、神仏習合時に水の神である弁財天と凝せられたことから、神仏分離時に高麗川に近い当地に祀られたと考えられる。
「埼玉の神社」より引用
山上から眼下を望む。
ところで、社の北側は断崖絶壁となっていて、高麗川がすぐ近くを流れている。当社は、水に関係の深い場所の岩場に建てられ、水の神である弁財天に関係があることから、地元では古くから弁天様の名前で親しまれているという。
社から高麗川沿いには遊歩道が整備され、 高麗川の流れが社が鎮座する岩場で遮られ
参拝中も数名散歩をする様子が見られた。 折れ曲がるように流れが変わっている。
栗坪地域は高麗川右岸という地形でありながら、実は昔から旱魃に悩まされていた地で、大正時代末期までは、日照りが続き作物に被害がでるようになると「雨乞い」が行われたという。その際には、青梅の「タカミズサマ」へ若者が水をもらって行き、神前に供えて雨乞い祈願を行った。その後、高麗川の弁天淵という所で、村の男たちが川に入り、竜泉寺にある大きな数珠を持ちだして、川の中でこの数珠を皆で回したという。
このあと、字の者たちで集まり、お日待ち(庚申待ともいう。村の人たちが一ヵ所に集まって食事や談笑しながら、共同祈願をするという習俗)を行ったということだ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「角川日本地名大辞典」
「境内案内板」等
