古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

八ツ口日枝神社


        
               ・所在地 埼玉県熊谷市八ツ口922
               ・ご祭神 大山咋神
               ・社 格 旧村社、旧八ツ口村鎮守
               ・例 祭 春季 旧2月7日 秋季 旧9月9日
               *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。(旧)は旧暦。 
 八ツ口日枝神社は熊谷市八ツ口地区中央部に鎮座している。八ツ口地区の大まかな位置関係をいうと、北・東部は備前渠水が境となり、西部は埼玉県道303号弥藤吾行田線が、南部には「Jaくまがや妻沼東部ライスセンター」の東西に走る道路、北側がその境となっている。善ヶ島神社北側にある龍泉寺のすぐ西側の道路を備前渠水方向に進み、備前渠水に架かる「しんすけ橋」を越えて、なおも道なりに700m程進むと、変則的なY字路に到着し、右側角地に社の鳥居が見えてくる。
 神社の専用駐車場は見当たらないが、道を隔てた反対側にある八ツ口集会所には車を停められるスペースが若干ながらあるので、そこに停めてから参拝を行った。
 
 八ツ口日枝神社正面は鳥居が2つあり(写真左)、左側が日枝神社、そして中央には社号標柱があり、右側には小さめな鳥居が立ち、その奥に境内社・八坂神社が鎮座している。
 まずは当然ながら主祭神・大山咋神を祀る日枝神社に参拝(同右)する。
 
 鳥居を過ぎ、参道を進むと正面に社殿が見える(写真左)。若干ではあるが上り坂の参道で、その高台に社殿は鎮座していている。嘗てこの地に住んでいた方々は、この高台を古墳と捉えていたようで、新編武蔵風土記稿でも「山王社」と呼ばれていた。
 また参道途中・左側には境内社・秋葉社と、その右側には小さな石祠が並んで鎮座している(同右)。
        
                                        拝 殿
 当社の信仰について『大里郡誌』は「古来安産の守護神として礼拝者多く其他凡て婦女子の疾患に特殊の霊験ありて奉賽の為旗幟の奉献頗る多し」と記している。今も氏子の間では「当社は女の神様で、お産を軽くしてくれる有り難い御利益がる」と語られている。

          八ツ口日枝神社の右隣には境内社・八坂神社が鎮座する(写真左・右)。       
       
          八坂神社の扁額           八坂神社の裏に伊奈利社

『新編武蔵風土記稿 八ツ口村条』には、当社を「山王社 村の鎮守にて、稲荷を合殿とす長昌寺」と載せる。また、長昌寺は、天文元年(1532)に成田氏に従い武川の合戦にで討死にした山田弥次郎の菩提追福のために、その父山田伊平が、弥次郎の領地であったこの地に草創した寺院であるという。
 それに関連して同じく『風土記稿 上川上村条』には以下の記述もある。
【原文】
「山田伊半と云へるもの、此の地に住すと云ふ。伊半は成田下総守の家人にして、或る夜、鈴に芋を生ぜしと夢みて、翌日戦場に赴き討死せしかば、今に至り土人・芋を植ることを禁ずと云ふ。按ずるに成田分限帳に伊半の名を載せざれど、幡羅郡八ツ口村長昌寺の伝へに、成田氏の臣山田伊半が子弥次郎・十九歳、武河合戦の時討死せしかば、成田氏の命により、当所は弥次郎の采地なれば、其の人をもて開基とし、長昌寺を造立すと伝ふれば、伊半は成田氏の臣たること知らる」
【現代文口語訳】
 山田伊半が住んだと云う。伊半は成田下総守の家臣で、ある夜鈴に芋ができた夢をみて、翌日戦場に赴き討ち死にしたので、今でも地元の人は芋を植える事を禁じているという。調べてみると、成田分限帳に伊半の名は載ってないが、幡羅郡八ツ口村長昌寺の寺伝に、成田氏の家臣山田伊半の子弥次郎が武河合戦で討ち死にしたので、成田氏の命令により、また当所は弥次郎の領地なので、弥次郎を開基として長昌寺を造立したとある。このことから伊半は成田氏の家臣であったことが分る。

 ここでいう「成田下総守」は成田正等。室町時代後期の武蔵国の国人領主で、成田顕泰の養父で出家後に法号「正等」と名乗り、号を自耕斎(じこうさい)とする。受領名は左衛門尉後に下総守。「武河合戦」は関東管領上杉氏と古河公方の戦いと推察され、成田氏は当初関東管領上杉氏の支配下にあったが、享徳の乱において成田正等(号 自耕斎)は途中から古河公方足利成氏に寝返って、上杉氏と戦ったという。
       
             日枝神社の鳥居の横にある      八坂神社の鳥居の手前に
                      青面金剛像                       浅間社が鎮座

 実は系図を確認すると、この時期の「成田系図」記載の生没年が、同時代史料にみえる成田当主の名と合わないと指摘されていて、実名の比定が成田系図によっていた成田正等の養子である顕泰、その嫡子である親泰の頃の業績にずれがあるとする説が出されている。

 忍城築城主は、築城年代が忍周辺の領主が岩松氏から成田氏に代わった文明年間と考えられ、「成田系図」生没年から推測して顕泰の築城とされたが、同時代史料の「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」から文明11年(1479年)時点で忍城は存在したと指摘され、築城はその前になるため築城主は抄録にみえる顕泰の養父・正等とする説が提示された。 没年に関しても、顕泰の没年は成田系図での没年・天文16年(1547年)ではなく、系図で親泰の没年とされる大永4年(1524年)で、その親泰の本来の没年は天文14年(1545年)とする説もある。
        
                             八ツ口日枝神社 遠景

 どちらにしてもこの騒乱の時期から成田氏の勢力拡大、全盛期が演出され、幾多の戦場にも幾何の兵士は駆り出されたであろう。そこで多くの死傷者も出たはずだ。
 成田氏の家臣山田伊半がどの程度の身分であったかは判明しないが、それなりの身分であったであろう。だからこそ成田氏の命令により、亡くなった子供の供養の為、長昌寺を造立できたのではないだろうか。

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