古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

千駄野稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市千駄野814
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧千駄野村(上耕地)鎮守 旧無格社
             
・例祭等 初午祭り 2月初午
 千駄野八幡神社から直線距離にして500m程北西方向で、東北自動車道の西側の住宅街の一角に千駄野稲荷神社は鎮座している。但し地域の中央部を南北に縦断する東北自動車道を越える最短距離の道路がないため、一旦白岡パークラインを北西方向に進み、自動車道に沿った脇道を白岡市役所付近まで北上、その後、自動車道を潜るように通り抜けたのち、今度は自動車道に沿った脇道を南下するといったような回りくどいルート設定しかない。
 社の北側に隣接している「千駄野自治会館」の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                 
千駄野稲荷神社正面
 千駄野地域は、ほぼ東北自動車道を境にして上と下に分かれており、当社の氏子区域である上には、「加美耕地」「新田耕地」「丸谷耕地」「下沼耕地」の四つの耕地がある。
「埼玉の神社」によると、千駄野では下で祀る八幡神社が村社になっているため、当社は無格社となったが、この両社は共に村の鎮守で信仰の厚さに差はないとして、合祀が行われることもなく、現在に至っている。ただし、昭和四十八年には、道路拡張によって拝殿が取り壊され、同時に本殿の草葺き屋根が銅板葺きに改められたため、神社の趣は随分と変わったという。
        
                 千駄野稲荷神社全景
『新編武蔵風土記稿 千駄野村』
稻荷社 德性寺の持 末社 山王 天神 〇八幡社 村民持以上二社當村の鎭守なり 末社 稻荷
德性寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院の末、天滿山と號す、本尊地藏、〇泉福寺 淨土宗高岩村忠恩寺の末、龍池山と號す、本尊彌陀、〇阿彌陀堂 忠恩寺持

 稲荷神社   白岡市千駄野八一四(千駄野字下手)
 千駄野は、日川の旧流路に位置する農業地域である。その地名は、昔、この辺は千駄の萱が取れる原野であったことに由来し、村人は取れた萱を岩槻城に納めていたという。そのため、昔の人は「千駄野は殿様村だ」とよく言ったものであった。
 数回にわたる利根川の改修によって日川の流水量が大きく減少し、千駄野でも耕作が可能になってきたのは江戸時代になってからのことで、検地帳などの古文書の記述から、少なくとも正保から寛文のころ(一六四四〜七三)には一村として成立していたものと思われる。
 こうして成立した千駄野の集落は、大きくは北部の上(かみ)と、南部の下(しも)とに分かれるが、当社は、上の鎮守として祀られてきた神社で、江戸時代には地内の徳性寺という真言宗の寺院が別当を務めていた。したがって、当社は、その創建の年代は不明であるが、日川の流水量が減り、耕作が可能となって人が住み着き、村の形が整えられていく中で、耕地の安泰を願って作神である稲荷神を勧請したものと推測される。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
        
              社殿の左脇に祀られている山王社
       
                  子育て地蔵堂
 当社の境内の南東隅には地蔵堂が祀られている。昔から「子育て地蔵」として信仰が厚いこの地蔵尊は、元来は徳性寺にあったが、廃寺となり、寺僧の末裔の邸内に移されていった。その後、昭和45年頃に自治会館の北側に移されたが、地蔵尊が建物の陰になって御利益を発揮しないという理由から、平成元年に現在の位置に祀られるようになった。724日に行われる縁日には、境内に80基程の灯籠が飾られ、灯籠が灯る夜には多くの参詣者があるという。
 当地では、他所から嫁に来るとまず家の荒神様を拝み、それから当社と子育て地蔵に子宝が授かるように祈願するのが習いとされていた。そうして子供が生まれると、願果たしたとして鈴緒に紅白の晒(さらし)を下げたものであったが、当地では子育て地蔵を祀ることから、昔から双子が多かったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「白岡市HP」「埼玉の神社」等

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