千駄野八幡神社
・所在地 埼玉県白岡市千駄野129-1
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧千駄野村(下耕地)鎮守 旧村社
・例祭等 百万遍 7月18日近くの日曜日 例祭 9月15日
実ヶ谷久伊豆神社の西側に南北に通る「白岡パークライン」を600mほど北行した道路沿い左手に千駄野八幡神社は見えてくる。周囲には適当な駐車スペースはないようなので、北側にある交通量の少なめな農道に路駐し、急いで参拝を行った。
白岡パークライン沿いから参道は伸びているのだが、
途中から参道が右側に曲がるような配置となっている。
『日本歴史地名大系』 「千駄野村」の解説
実ヶ谷村の北に位置する。西部の微高地は大宮台地白岡支台の東端にあたり、中央部から東部にかけては旧日(につ)川流路の低地である。悪水堀は菱沼(ひしぬま)落堀・下沼落堀、用水は黒沼用水を利用。水利はよいが水旱に苦しむこともあった。村の西方小久喜(こぐき)村境から東方岡泉村境に至る粕壁杉戸(かすかべすぎと)道と、小久喜村から実ヶ谷村境に至る岩槻道がある。岩槻領のうち(風土記稿)。利根川の数次の改修により日川の流水が涸渇し、耕地が可能となった。
千駄野八幡神社 両部鳥居
白岡市千駄野(せんだの)地域は、白岡市中部に位置し、地域内には白岡市役所がある。東境は大字界が錯綜しているとはいえ、大略として岡泉・実ケ谷両地域に接し、地区の中央を南北に東北自動車道が縦断し、その西側は南部を除き主に住宅地で、東側は公共施設が立地する以外は主に水田などの農地となっている。
千駄野という地名の由来は『日勝村誌』には「本村ハ古ヨリ岩槻城附ノ村ニシテ古来荒蕪地多ク領主ニ納ムル貢租ハ僅ニ茅千駄ニ過ギザリシヲ以テ千駄野ト 称セシトイウ」とあるが、木や茅を焚いて雨乞いした所との説もある。
江戸時代には岩槻藩領に属し、明治28年に実ケ谷村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。
社殿左側手前に祀られている境内社・石碑等
左から天満宮・両部稲荷社・稲荷神社・?
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 千駄野村』
稻荷社 德性寺の持 末社 山王 天神 〇八幡社 村民持以上二社當村の鎭守なり 末社 稻荷
德性寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院の末、天滿山と號す、本尊地藏、〇泉福寺 淨土宗高岩村忠恩寺の末、龍池山と號す、本尊彌陀、〇阿彌陀堂 忠恩寺持
八幡神社 白岡町千駄野一二九(千駄野字迎)
鎮座地である千駄野の地名は、村内に荒れ地が多く、領主に納める貢租が茅一千駄に過ぎなかったことにちなむとも、かつて一千駄の木や萱を焚いて雨乞いをしたことに由来するともいう。この千駄野の村の名が文献上に見えるのは、寛文四年(一六六四)の「寛文印知集」に収められる阿部伊予守宛の朱印状目録からで、このことから考えると、村が成立したのは慶安から万治にかけて(一六四八〜六一)のころと推測される。
当社は、稲荷社(現稲荷神社)と共にこの千駄野の村の鎮守として祀られている神社で、創建についての伝えは詳らかではないが、恐らく村の開発と相前後して勧請されたものであろう。村の鎮守が二社あるのは、千駄野の村が大きくは上耕地と下耕地に分かれており、それぞれで鎮守の社を祀ってきたためで、稲荷神社は上耕地の鎮守、当社は下耕地の鎮守である。なお、『風土記稿』千駄野村の項によれば、稲荷神社は地内の徳性寺の持ち、当社は村持ちとなっているが、立地からすれば泉福寺が当社の祭祀に関与していた可能性がある。
明治六年には村社となり、氏子の崇敬はますます厚く、境内には様々な石造物が奉納されていった。幟立は明治十一年、社号標は昭和十五年に奉納されたものであり、末社の稲荷社の祠は昭和四年に建立されたものである。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
千駄野地域の南部に当たる下耕地が当社の氏子区域であり、下耕地の中にも「迎」「四谷」の二組に分かれている。千駄野の名前の起こりの一つとされている雨乞いは、通称「千駄焚き」といい、嘗て山上に松の枝・藁・麦稈(むぎから)・萱を各自が持ち寄って焚き上げるというものであったらしいが、現在は行っていないようだ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「白岡市HP」「埼玉の神社」等
