古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

弥藤吾氷川大神社

 氷川神社は旧武蔵国に一大勢力を有した神社である。氷川神社は埼玉県に162社、東京都に59社、茨城県、栃木県、北海道に各2社、神奈川県、千葉県に各1社と、旧荒川流路を含む荒川流域に集中して分布し、荒川流域の氏神様ともいえよう。
 因みに利根川流域には香取神社が、元荒川筋と利根川の間には久伊豆神社が分布していて、古代は各河川の区切りによって宗教圏が異なり、神社も地域的に纏まって分布したと考えられている。
 不思議なことだが、氷川神社の分布状況の中にあって、
旧妻沼町・現熊谷市弥藤吾地区には県内最北端の氷川神社があり、現在の荒川流域とはかけ離れた場所にポツンと鎮座している。この配置は何を意味するのだろうか。地元の鎮守であると共に、武蔵と毛野国を結ぶ街道や河川の鎮護でもあったのだろうか。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市弥藤吾687
             ・ご祭神 素戔嗚命、稲田姫命、大己貴命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 17日 新年祭 315日 祈年祭 77日 例大祭
                  1117日 新嘗祭 
 弥藤吾氷川大神社は国道407号線沿いに位置する「道の駅めぬま」前の交差点から東へ向かって行くと妻沼南小学校があり、その道を隔てた東側に氷川神社が鎮座している。境内には社の右手には社務所があり、駐車駐車スペースも確保されていたので、そこに停めてから参拝を行う。
        
                  社号標柱と一の鳥居
「熊谷Web博物館 ・熊谷デンタルミュージアム」には「熊谷 地名由来」として「弥藤吾」をこのような記載で紹介している。
「弥藤吾」
・享保17年(1732)に成立した妻沼聖天山の縁起である「歓喜院本聖天宮縁起」には、斎藤五の子が弥藤五を名乗りその地を治めたとされる。斎藤五は、平安時代末期の武将・斎藤実盛の子どもで、弟の斎藤六とともに『平家物語』等で平氏最後の嫡子とされる平六代に最後まで仕えた人物として描かれている。五、六は、五郎、六郎の略称であろう。『平家物語』等の流布とともに、父の実盛とともに全国的に知られるようになり、各地にゆかりの寺院や史跡が数多く建てられている。弥藤吾にある実盛塚は、父実盛の遺物を埋納するために、斎藤五・六兄弟が築いたとの伝承が残る。
「弥藤五」の名称は、16世紀末には古文書に見えるので(天正19年(15913
月「伊奈忠次忍領預地書立」(長崎県片山家文書)」)、これ以前にはこの名称があったことが確認できる。「歓喜院本聖天宮縁起」の真偽は不明であるが、弥藤吾に住む中世・近世の人々は、斎藤五の子のゆかりの地であることを意識していたであろう。
        
                                 二の鳥居前から撮影
 
   二の鳥居は朱を基調とした両部鳥居       妻沼地域では珍しく案内板が設置
 氷川大神社
 当社の創建年代は不明であるが、武蔵国一の宮の氷川神社(さいたま市)の祭神を勧請し、古くから弥藤五(後に弥藤吾)村の鎮守社であったと想定される。祭神は、素戔嗚命、稲田姫命、大己貴命の三神である。
 江戸時代に当社を管理していたのは、現在廃寺である修験寺院の実蔵院で、その別当は斎藤五の子孫が受け継いできたという。斎藤五は、源平合戦で活躍した長井斎藤別当実盛の子で、『平家物語』では平清盛のひ孫六代に最期まで仕えた人物として描かれる。弥藤吾の名の由来は、斎藤五の子孫弥藤五がこの地を領有したことに始まると伝えられる。
 現在、覆屋によって保護されている本殿は、内陣壁画の墨書によれば、天保七年(一八三六)九月十五日、実蔵院別当歓慶のときに再建された。桁を駆使した緻密な彫刻が施される。正面扉には牡丹と宝物、両側面と背面には中国の伝説などを題材とした彫刻ががはめこまれている。そのほかの各部材にも、龍や鳳凰などの神獣、猿やうさぎなどの動物、鷲や鴨などの鳥類、梅やぶどうなどの植物等、さまざまな彫刻が施される。彫物師は、川原明戸の飯田仙之介の弟子で、山神村(現群馬県太田市)の岸亦八である。亦八は、埼玉県指定文化財の越生町龍穏寺経蔵や群馬県沼田市正蔵寺山門などの彫刻を手掛け、群馬・埼玉県内に数多くの優品を残している。
 各彫刻には、寄進した人名とその地区名が刻まれており、この本殿が、中地区をはじめ、北・新田・杉の道・王子・浅見・下宿・年代の弥藤吾各地区が中心となって建立されたことが分かる。そのほか、妻沼地区からの寄進も一部見える。
 なお、明治四十三年(一九一〇)に、弥藤吾各地区にあった年代保食社・熊野社、王子白髪社、中口神明社、新田八幡社、大杉社、杉之道天満社を当社に合祀し、社務所を建立した。
                                      案内板より引用


『地域計画事業』を実施するにあたり実施したアンケートの中で、『弥藤吾の伝統・文化を知る機会がない』との回答が多くあったので、妻沼南小学校区連絡会では氷川大神社についての説明看板を設置したとの事。
 弥藤吾は歴史も古く、また信仰深く纏まりのある地域であった為、古くから多くの行事が行われていた。すでに廃れたものもあるが、簡略化されながらも続く行事、時代に合わせて変わった行事もあり、改めて弥藤吾の伝統行事について冊子に纏め、全戸配布したと書かれている。
        
                                拝殿覆屋
   覆屋内には神明社と保食社、八幡社、熊野社、白山社が合祀されているのだそうだ。
 
 富士塚の上には浅間大神等が祀られている。        境内社・詳細不明。     

「熊谷Web博物館 ・熊谷デンタルミュージアム」では「弥藤吾」の地名由来を記しているが、追加として、以下の記述もされている。

妻沼についての詳細は、前述のとおり隣接する男沼に対しての名称で、そのルーツは西に男体様を拝し、東に女体様を拝した大きな沼地を控え、その付近の自然堤防上の高台に広大な大我井の杜と称する平地林があり、ここに一つのお社があった。妻沼聖天の縁起によれば、昔伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二柱の神が鎮座した地であると伝えられている。
 このあたりは、往古より秩父山塊と両毛三山からの扇状地の最前端部にあたり、しかも妻沼低地と称される平坦地に位置する平野で、往古より利根川の浸水地域でもあり、しばしば洪水の被害が発生していた。このような地形的条件の中にあって、大我井の地は周辺を芝川と称する川が舌状に囲み、その高さは45mの台地となって、正に要害の地形的様相を示していた。この良地に治承年間、斉藤別当実盛聖天堂に歓喜尊天を祀り、長井庄の総鎮守としたと伝えられる。
 ただ、この天下の要害としての条件を具備した豊かな森に囲まれた高台の地に、なぜ当時長井庄の首邑としての城館を設けなかったのか、私的には理解しにくい。しかも他の多くの場合このような地は神社仏閣など建立し、むしろ聖地として讃え崇拝している。
 現にある長井城館祉は、西城前長安寺沼付近・往昔蛇行する福川右岸・今の奈良川の北方の低地にあったとして建碑した。そのことはそれでいい、けだし不可解である。一つは福川庄の所在、また大我井の杜の中核、妻沼小学校庭拡張の際に、経筒はじめ数多くの貴重な埋蔵品が出土している妻沼経塚(昭和32年発掘された4
基の経塚)のこと。さらに、聖天様に極めて関連深い、幡羅の大殿と言われた後の成田氏が、斎藤氏の着任に際して直ちに城を明け渡して東の方面成田の地に転出した経緯など。もっと知りたいものである。

 妻沼低地に属するこの地域において、豊かな森に囲まれた天然の高台であり、要衝地として斎藤別当実盛が平安時代末期に妻沼聖天院を「大我井」の地に建立したのは歴史的な事実である。ただそれ以前、この地域の中心は、福川流域の「西城」であったことは、西城大天縛神社で述べた通りだ。
ただこの地域は、福川のみならず、利根川にも近郊し、往古より両河川の乱流地域でもあり、しばしば洪水の被害が発生していたことも確かである。そのデメリットを犯してまでも、この「西城」地域に拠点を置く理由として考えられる一つとして「水運」があげられる。
 この地域には、嘗て『東山道武蔵路』が南北に走り、上野国と武蔵国との陸路・水路両方の公益において、重要な地であったはずである。地域周辺には延喜内式社に名が載る社が圧倒的に多いのも決して偶然ではあるまい。
       
                          社殿右側に聳え立つ大欅のご神木



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「 熊谷Web博物館 ・熊谷デンタルミュージアム」等          

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