古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

倉賀野神社(2)

 当社の創建時期は古く、第十代崇神天皇の御代、皇子の豊城入彦命は父帝から東国を平定するよう命ぜられ、出立の時に御愛石(亀形の自然石)を授けられた。倭大國魂神の御分霊といわれ、命は当地に至るや、御愛石を御魂代として祭祀をされたという。今もご本殿に奉安されている
 大同2年(807)、坂上田村麿は東征凱旋の途中、この地で造営舞楽を奏上した。この時の翁面が社宝として伝わる。建長5年(1253)武蔵七党の児玉党の余流、倉賀野三郎高俊が社殿を造営。倉賀野氏の氏神としてこの地に修復・造営が重ねられ、江戸時代は近隣七ケ郷の総鎮守となる。旧社名は飯玉大明神。明治10年(1877)に大國魂神社と改称し、明治43年(1910)に近隣神社合祀を経て倉賀野神社となった。
        
                    本 殿
『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編』によると、本殿は嘉永6年(1853)年に境内の社木を伐採して工事が開始された。嘉永7年(1854)に「飯玉宮御普請仕様書」と「飯玉宮御本社木割仕様帳」が作成され本殿と幣殿の見積がされた。安政3年(1856)の倉賀野宿の大火で工事は一時停滞するも、元治2年(18653月に上棟の儀式が行われ、慶応2年(1866)に完成した。柿師による慶応元年(18658月の棟札も残る。奉納額より明治24年(1891)に屋根修繕、明治33年(1900)の杮葺改修。群馬県知事への銅使用届より昭和12年(1937)に柿葺から特許山中式檜皮形銅板平葺へ改修。令和2年(2020)には御代替り奉祝記念事業として銅板葺替工事が行われた。
 
        境内には本殿に関する案内板が設置されている(写真左・右)。
 本殿と幣殿は工匠が同じで、大工は藤岡の宮寺大炊、彫工は、高崎市の新井金十郎、勘蔵、信州の北村喜代松である。宮寺大炊は倉賀野河岸鎮座の大杉神社拝殿・幣殿の普請にも関わり、建物は現在、榛東村の八幡宮社殿として移築されている。新井金十郎は榛名神社国租社の修復で腕を振るったという。
 現在の社殿は本殿・幣殿・拝殿の屋根が連続する権現造であるが、本殿は一間社流造である。軒は二軒繁垂木であり、前面は地垂木、打越垂木、飛檐垂木と3段に軒を伸ばす。内部は未確認だが、『新編高崎市史 資料編14 社寺』より内陣と外陣からなる。組物は身舎が尾垂木付の四手先組で、腰組が拳鼻付出組である。向拝は連三斗積上変形で、斗・肘木が4段ある。中備や妻飾には嵌込彫刻や彫刻板支輪があり、壁や脇障子は鏡板張である。減り張りのある彫刻配置なので細やかな彫刻も目に付きやすいとの事だ。
        
             本殿の南側奥に祀られている甲子大黒天
        
            甲子大黒天の北側隣に祀られている冠稲荷社
          例祭日 初午大祭(福投げ・湯立て神事) 211
        
      冠稲荷社の並びにある神興倉で、中に「天明神輿」が奉納されている。
 天明神輿
 天明四(一七四八)年十月大坂北御堂前宮屋九郎兵衛の作。翌年九月倉賀野宿須賀七代庄兵衛妻圓の奉納になるもの。寛政二(一七九〇)年宿内渡御の記録があり、平成二(一九九〇)年秋、御大典を記念して見事修復、御神幸祭が盛大に行われた。
 この神輿は、軒四隅のわらび手が、下の垂木(たるき)から出る関西型神輿の特徴をよく伝えており、枡組下の彫物は、梅、松、菊に牡丹。四面に下がる御鏡の裏には藤原の銘が入っている。
 天明神輿は、二百年前の関西と高崎を結ぶ「ひと・もの・文化」の流れを、はっきりと示す大切な記念宝物である。
                                       案内板より引用
 
 
        神興倉の隣に祀られている天神社・末社十社(写真左・右)
 末社は左から大歳御祖社 大歳御祖神・水神社 弥都波能売神・土神社 埴安神・木神社 久久能智神・山神社 大山祇神・金神社 金山彦神 金山姫神・火神社 火迦具土神・海神社 大綿津見神・雨神社 天水分神 国水分神・風神社 級長津彦神 級長戸辺神。
         
                本殿奥にある庚申塔や石祠
       
 庚申塔・石祠の傍には高崎市指定の保護樹木であるケヤキの大木が聳えている(写真左・右)
        
            境内南側には神楽殿・倉賀野上町山車庫が建つ。
 
 神楽殿・倉賀野上町山車庫の南側並びに祀られている境内社・北向道祖神(写真左・右)
            例祭日 大祭(どんど焼き) 115
 北向道祖神
 男女の双体道祖神で、もともと近くの倉賀野古城の辺りに北向きに祀られていたと言われます。
 石の台座には「上町惣子供 施主大島三右衛門 文化二年(一八〇五)乙丑正月吉日」と刻まれています。昭和十二年(一九三七)にこの場所に移転され、今日では倉賀野神社の境内社として祀られています。
 小正月・一月十五日が例祭日で古神札お焚き上げの「どんど焼き」が行われます。米粉でつくった「まゆ玉」やスルメなどを祭りに持ち寄り、忌火にかざして一年間の無病息災を祈ります。
 仲睦まじい双体道祖神の姿から、縁結び・夫婦和合の神様ともいわれます。また安政三年(一八五六)の倉賀野宿の大火のときには延焼を食い止めた「火伏せの神」として、今も語り継がれています。
                                       案内板より引用
 
       北向道祖神の東側にある「国魂池」と呼ばれる池(写真左・右)
        
              南側にもある朱を基調とした鳥居
『日本歴史地名大系 』「倉賀野村」の解説
 東南流する烏川の左岸際から北方へ向けて大きく広がる沖積平野に位置する。群馬郡に属し、北は矢中・中里の二村、西は下佐野村。「和名抄」の群馬郡小野郷に含まれたと考えられ、長元三年(一〇三〇)「交替実録帳」群馬郡の項に「小野院 北一板倉壱宇 東一板(倉脱カ)壱宇」とあり、この郡倉の所在にちなんでのちに倉賀野とよぶようになったともいわれる。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一一月七日条に倉賀野三郎(高俊)の名がみえ、以後中世を通じて倉賀野氏が当地を領した。「宴曲抄」(正和三年八月)に鎌倉から信濃善光寺に至る鎌倉街道の道中に「倉賀野」がみえる。永禄五年(一五六二)九月一八日の武田信玄書状写(小田部庄右衛門氏所蔵文書)には、武田軍が攻撃した郷村の一つに倉賀野があげられている。
 江戸時代には中山道の宿として、また烏川に江戸との物資輸送の河岸もあって繁栄し、中山道からは日光例幣使街道が分岐した。「寛文朱印留」に村名がみえ、高崎藩領。寛文郷帳では田方一千三八六石余・畑方五六〇石余。
 


参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編HP」
    「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」日本歴史地名大系」
    「倉賀野神社HP」「境内案内板」等

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