八斗島稲荷神社
八斗島河岸の確かな設立年代は明らかでないが、安永四(1775)年の「上利根川十四河岸組合船問屋規定証文」に船問屋五十嵐四郎右衛門、同境野三郎右衛門がある。この河岸仲間は元禄期から営業しているもの以外の新興勢力を抑える意味を持っていたから、八斗島河岸設立も元禄時代あたりまでたどれる。ただし元禄期の古地図に河岸という名を使っていないので元禄以前にさかのぼることはないだろう。活動は明治十年代までであった。
八斗島は天明三年の浅間山大噴火で七分川(柴町の西で現本流と分れた)が埋まるまでは、七分川が北に、三分川、烏川が南にある中州であった。泥流が七分川筋に流れ込んだため、河筋に面した集落の人達が死人を収容し、供養した石碑などが残っている。
八斗島から本庄市山王堂間には、かつて渡しがあった(八斗島の南の東端当たりから山王堂まで)が、昭和初期に坂東大橋の完成により廃止された。
・所在地 群馬県伊勢崎市八斗島町1406
・ご祭神 倉稲魂命 大宮姫命 大田命 大己貴命 保食命
・社 格 旧村社
・例祭等 例祭 (陰暦)2月初午及び9月29日
伊勢崎市八斗島。この地域名「八斗島」は「やつたじま」と読み、なかなかの難読地名である。八斗島稲荷神社は、柴町八幡神社から五科橋に掛かる手前の「柴町」交差点を南方向に進路変更し、利根川に沿って進む通称「上武大学通り」を暫く道なりに進む。その後、群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線に合流する手前の十字路を右折、800m程南下すると、進行方向右手に八斗島稲荷神社が見えてくる。地形を確認すると、利根川左岸の堤防が目と鼻の距離に見える集落内に鎮座していて、現在よりも氾濫の危険性が高かったであろう利根川水害から集落、そして宿場を守って頂きたいという地元の方の神にも縋りたいという切実な思いが、この社を眺めてみても感じることができる。
八斗島稲荷神社正面
一の鳥居である赤色の両部鳥居のすぐ先に神明系の二の鳥居が立っている。
『日本歴史地名大系』 「八斗島村」の解説
利根川左岸に位置し、北は下福島村・富塚村、対岸は武蔵国児玉郡山王堂村(現埼玉県本庄市)。山王堂村と当村を結ぶ渡しがあったが、昭和六年(一九三一)の坂東大橋完成により廃止となった。那波氏の浪人境野八斗兵衛が慶長年中(一五九六―一六一五)に開き、村名は八斗兵衛に由来するという(伊勢崎風土記)。寛文二年(一六六二)の大水により柴町南を抜いた利根川(のちの七分川)が当村の北を流れ、もとは中洲上の村であった。
鳥居の左側手前に建つ「稲荷神社由緒」
「稲荷神社由緒」前に石尊大権現と道祖神 「稲荷神社由緒」奥にある力石と石碑
力石の由来
一、七拾五貫目の石(約281キログラム)
明治三十年頃当神社の秋季大祭に当所住人吉野円三が境内に於てこれを担ぎ三間位(五.四メートル)歩いたという。
一、四拾参貫の石(約161キログラム)
同年代当所住人で力持ちの下記の人達が交代で神社の周囲を担ぎ歩いたという。
石川伊之吉・境野民治・黒澤安兵衛・森田太郎・境野照吉
一、吉野円三
明治元年埼玉県児玉郡旭村大字三友に生れ後に八斗島に移り舟大工新井団次郎(半三郎の祖父)宅に同居して舟頭として明治三十年の洪水で家屋を流出して福島へ転居したという。
一、力石
元倉賀野より五料に移り当時舟頭で若者が力競べにこの石を担ぎ勝つ者が持って来たという。
昭和五十二年六月吉日
平成九年十二月吉日再建 八斗島稲荷神社総代
鳥居から社殿まで、参道沿いには幾重の幟が立ててあり、
すっきりと整備された境内の中で一直線に並ぶ幟はなかなか壮観な眺めである。
拝 殿
稲荷神社由緒
当社ハ天正年間今ヲ去ル四百余年前創立シテ当時那波城主大江顕宗奥州九戸戦争ノ際討死セシカバ其ノ民境野主水吉澄・五十嵐無兵衛知徳ノ両人遺志ヲ奉ジテ当国利根川中州〇島ト云フ所悉荒野ヲ開拓シテ田野トナシ並二五穀五柱ノ神ヲ勧請シテ祭祀ス本社即テ之也 又地名改メテ八斗島ト云ヒ吉澄ノ子八斗兵衛宗澄・知徳ノ子ト共二其ノ志ヲ継ギテ耕耘〇鋤二怠リナカリシカバ衆人其ノ徳ヲ感ジ遠近ヨリ集リテ現今ノ如キ村落トナレリ 安政二年三月十五日名主五十嵐八兵衛・組頭五十嵐善兵衛・仝境野半右エ門・仝五十嵐茂兵衛・仝黒沢弥右エ門・仝境野三郎右衛門等ノ協力二依リ上棟スルヤ 稲荷神社鎮座祭神・倉稲魂命・大宮姫命・大田命・大己貴命・保食命ノ神々ヲ祀リシモ現在ノ本殿ハ元下福島八郎神社デ間口一間奥行五尺ノ本殿ヲ明治四十三年村社指定トナルヤ豊武神社ト合併シ同四十三年八月大洪水ノ為戸数六十二戸全村床上浸水二テ県ヨリ見舞金トシテ金百圓也ヲ受ケ其ノ金ニテ当時世話人小暮幸次郎・境野誉三・境野吉之助・氏子総代境野長太郎・境野仙三・境野誉三・五十嵐弘次郎・黒沢東馬・社掌荻野美恭・仝牛久保瓶哉ノ相談ノ結果右下福島本殿ヲ金六拾圓也ニテ買求メ残金ハ雑費トシテ現在本殿二鎮座スルヤ軈テ当社ヲ稲荷神社ト尊稱シ其ノ徳ヲ表彰セリ爾来遠近相伝ヘテ豊作ノ神トナシ賽者常二絶エズ本社祭日ハ毎歳陰暦二月初午ノ日及九月二十九日両日也 本社ハ木造作リニテ桁十五尺五寸杉伐三面作リ破風造・向拝付茅葺十五坪二合二勺宅地ハ三百七十坪ノ民有地デアル
稲荷神社由緒石碑文より引用
要約すると、八斗島町は利根川流域にある町で、元々は「稗島」という中洲であり、社は安土桃山時代の天正年間(1573~1592)の創立と伝わっている。当時、那波城主だった大江顕宗が奥州九戸戦争で討死し、その家臣である境野主水吉澄・五十嵐無兵衛知徳の両人が遺志を奉じて、当国利根川の中州の荒野を開拓、その五穀豊穣の守護神として奉斎されたのが当社の起源との事。御祭神は、倉稲魂命・大宮姫命・大田命・大己貴命・保食命の五柱。明治になり、村社に列し、明治43年(1909年)には神饌幣帛料供進社に指定されている。
拝殿正面部 拝殿左側上部に奉納されている額
本 殿
福島町八郎神社の項や、この社の由緒にも説明しているように、明治四十二年(1909)に八郎神社(伊勢崎市福島町)が豊武神社(群馬県伊勢崎市大正町)へ合祀された。その翌年に起こった大洪水の見舞金を元手に、福島町八郎神社の本殿を譲り受け、八斗島町の稲荷神社へ移築するに至ったようである。但し、本殿移転の夜に「大風が吹き荒れ雷鳴が轟いた」と伝えられている。その後福島町八郎神社は、昭和45年(1970)に現在地へ分祀され今日に至っているとのことだ。
社殿左側奥に祀られている御嶽山神社 本殿奥には多くの稲荷像が置かれている
溶岩塚の上に置かれている 白狐社如き祠
「鎮守の森達成記念碑」と蚕影山の石碑
境内社・大杉神社 境内社・鵜戸大権現
社の北側道路沿いにある二十二夜塔等の石碑
二十二夜塔は、二十二日の夜に人々が集まり、勤業や飲食を共にし、月の出を待つ月待ちの行事を行った女人講中で、供養のために造立した塔である。「二十二夜」の文字を刻んだものと、「如意輪観音」の像を刻んだものがある。「如意輪観音」は、富を施し六道に迷う人々を救い、願いを成就させる観音様として、江戸時代中期以降民間信仰に広く取り入れられ、二十二夜さまの本尊として女性の盛んな信仰を受け、また女子の墓標仏としても、各地に数多く造立されている。全国的には、二十三夜塔が最も一般的に認められているようだが、二十二夜塔は、埼玉県の北西部から群馬県の中西部域に濃密に分布しているという。
八斗島稲荷神社遠景。遠くに利根川の堤防が見えている。
参考資料「群馬県歴史の道調査報告書第十三集・利根川の水運」「日本歴史地名大系」
「Wikipedia」「境内石碑文」等