古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

黒浜諏訪神社

 蓮田市黒浜地域の南東部にある黒浜沼は、北部にある上沼(うえぬま)および南部の下沼(したぬま)の二つから成っていて、付近を流れる元荒川(かつての荒川)の洪水によって形成された自然堤防によって谷地が堰き止められて出来た沼と考えられている。寛永期に沼を横断する堤が築かれ、そこを往還としたことによって沼は上沼と下沼に分かれた。明治期の記録である武蔵国郡村誌には「上沼」は東西230間(約273m)・南北3町(約327m)・周囲1129間(約1253m)、「下沼」は東西50間(約91m)・南北130間(約164m)・周囲430間(約491m)と記されている。土砂の流入や埋め立てにより徐々にその面積を減らしてきている。
 1979年(昭和54年)に「埼玉県自然環境保全地域」に指定され、2009年度(平成21年度)からは緑のトラスト保全地第11号地に指定され保全されている。2000年(平成12年)55日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。
 この自然豊かな田園風景の中、上沼と下沼の間にひっそりと黒浜諏訪神社は鎮座している。
        
             
・所在地 埼玉県蓮田市黒浜5024
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧長崎村鎮守
             
・例祭等 春祭り 127日 例祭 827日 秋祭り 1227
 黒浜久伊豆神社から「黒浜南小学校(南)」交差点を左折し、埼玉県道154号蓮田杉戸線に合流したすぐ次の新郷を右折する。右手に蓮田市立黒浜南小学校を見ながら道なりに進むと民家もほぼなくなり、周囲一帯田畑風景の中更に東行する先の暴風林に囲まれた集落があり、その南端部に黒浜諏訪神社は静かに鎮座している。
        
                  
黒浜諏訪神社正面
『日本歴史地名大系 』「長崎村」の解説
 元荒川の左岸、黒浜村の東にあり、東は江ヶ崎村。古くは黒浜村に含まれたが、江ヶ崎村の村民が開墾して一村をなしたといわれ(風土記稿)、元禄期(一六八八-一七〇四)までに分村したと考えられる(貞享三年の岩槻藩領郷村高帳など)。岩槻藩領で幕末まで変わらず。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)に村名がみえ、高二三石余、家数七(すべて本百姓)、人数七〇。元禄郷帳・天保郷帳では村名に黒浜村枝郷と肩書される。
 
     参道右側にある石碑三基          石碑三基の並びに祀られている
 左から御嶽講・伊勢参宮・富士登山各記念碑        庚申・天神・荒神
       
          参道左側に設置されている「
諏訪神社竣工記念」碑
 諏訪神社竣工記念
 御由緒
 當社は寛永四年七月二十六日当地増田善右衛門直吉氏信州諏訪大社より勧請す
 建御名方命を祭神として祀り篤く崇敬されて来ましたが昭和四十九年十二月八日災禍により焼失し同月二十日仮宮建立同月二十二日長野県諏訪大社より再勧請今般氏子中の奉賛により昭和五十年十二月二十七日當社遷宮す
 ここに記念として永遠に御神徳を讃えるものであります(以下略)
                                      記念碑文より引用
 
        
                    拝 殿 
『新編武藏風土記稿 笹山村』
 諏訪社 長崎村の鎭守とす、當社の緣起とて僅に記せしものあり、其に寬永四年村民增田善右衞門なるもの、此社を勸請せしよし見ゆ、江ヶ崎村南學院と黑濱村實藏院との持なり、〇荒神社 〇天神社 〇雷電社 以上三社村民持、

 諏訪神社  蓮田市黒浜五〇二四(黒浜字日野手)
 当社の鎮座する長崎は、台地が岬のように細長く突き出ていることから付いた名で、黒浜の中でも谷に隔てられ孤島のようになっている。
『風土記稿』笹山村の項に当社が見え、「諏訪社 長崎村の鎮守とす、当社の縁起とて僅に記せしものあり、其に寬永四年(一六二七)村民増田善右衞門なるもの、此社を勧請せしよし見ゆ、江ヶ崎村南學院と黒浜村宝蔵院との持なり」と記している。ただし、ここでいう当社の鎮座地は、長崎の南端にあった笹山村の飛び地を指している。
 善右衞門の子孫にあたる増田正男家には当社の勧請について記した「諏訪大明神縁起」(寛永四年)がある。これによれば、善右衞門が長崎村の開発の大願を果たすために諏訪神社を祀ることを思い立ったところ、七月二十六日の夜に光り輝く神が現れ、信州諏訪の社地から土を持って来て社殿を建てるように告げられた。そこで、善右衞門は早速翌日に信州に旅立ち、お告げの通りにして社殿を建立したのが当社の始まりであるという。同家の先祖は信州の出身で、天正十八年(一五九〇)に小田原北条氏の足軽として岩槻城に来たと伝えられる。
 神仏分離後は大きな変化はなかったが、昭和四十九年十二月八日に火災によって社殿を消失した。しかし、早くも同月二十日には仮宮を建立し、二十二日に長野県の諏訪大社から再勧請を行い、翌年十二月二十七日には再建され本殿への遷座が行われた。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
        
                     本 殿
 長崎村は、元禄期(16881704)以降に黒浜村から分村したが、これは隣村の江ヶ崎村の村民と笹山村の増田善右衞門によって開発されたものである。『風土記稿』長崎村の項には「今も村内皆耕地にして、民家二十余は黒浜村に在り」とあり、江戸期は、集落を村内に構えず、村の南端にある黒浜村の境界辺りに集落を置いた。古くからの住民は現在もこの辺りに住んでいる。
 長崎村は、明治七年に黒浜村に合併され、その後地名は抹消されている。現在、旧長崎村辺りを継承する地域には約三百戸の住民がおり、奉賛会も昭和五〇年ごろに組織されているが、神社運営の中心は古くからの住民三七戸程で、家並び順で三・四戸が月交代で神社の清掃を行うほか、特に古い家の一二戸が三戸ずつ交替で年番を務めているという。
        
        黒浜久伊豆神社から当社に行く途中の道沿いに設置されていた
            「
蓮田市下沼県自然環境保全地域」の案内板
 蓮田市下沼県自然環境保全地域
 昭和五十四年三月二十日指定
 指定面積 二・五〇ヘクタール
 この沼は、谷地(低地に浅く水がたまり草が茂っている湿地)の開口部が元荒川の運んだ土砂の堆積によりせき止められてできたもので、慈恩寺台地の南西部、標高8メートルの地に位置しています。
 岸辺には、ヨシ、マコモ等の挺水植物が繁殖し、水面には、ヒシ、トチカガミ等の浮葉植物が敷きつめ、一部には、オニバスも見られます。
 また、鳥類、昆虫類の生息密度も高く、人為の影響の少ない地域であり、湖沼特有の生態系を維持しています。
 このように、自然度が高く、学術的にも貴重なものであることから、本地域を上沼と共に県自然環境保全地域に指定し保全を図っています。
  昭和六十一年三月  埼玉県
 
           黒浜沼周辺の長閑な田畑風景を望む(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内記念碑文」「地内掲示板」等 

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