古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

武士神社

 伊勢崎市境上武士地域は、利根川支流の広瀬川と粕川の合流点北岸に位置し、昭和の初め頃まで大小さまざまな古墳が100余基もあり『武士古墳群』と呼ばれていた。その中には現在墳丘は失われていて「境総合グランド」となっているが、墳丘長127mの巨大前方後円墳である「剛志天神山古墳」も含まれ、この古墳の築造時期は古墳時代後期-終末期の6世紀末-7世紀初頭頃と推定されている。古墳からは犬や猪など有名な埴輪が多数出土し、中には国の重要文化財に指定されて、東京国立博物館に展示されているのもある。
『群馬県佐波郡誌』
 古墳城山の東北方一帶上武士下武士の兩大字に亘りて古墳の散在するものか數十を算ふ之を發掘する時は往古の石棺や人馬の埴輪、直刀、金環、曲玉、管土、碧玉、食器等を發見する里人か天神山と稱して居る瓢形の一大古墳である或は穂積親王の御陵ならむと謂ふ

 それらの古墳も、昭和の初め頃からの開墾や戦後の工業団地造成の採土により、1,500年程前の貴重な遺跡は跡形もなくなっていて、今はなだらかに畑が広がっているのみである。
        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市境上武士2512
            
・ご祭神 菊理姫命 配祀神十柱
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 不明 
 伊勢崎市境上武士の「武士」という地名由来は、『群馬県佐波郡誌 剛志村』によると「武士は竹石又は武石とも書きたりしを頼朝の臣安達景盛上野の守護たりし時此の地に於て武を練りたるに因り武士と改めたりと、慶長年間上下の二ヶ村に分れた」とあり、元々は「竹石」「武石」という地名からの転訛であったようだ。因みに「武士」と書いて「たけし」と読む。
        
                   武士神社正面
 境保泉勝山神社から東方向に進行し、粕川に架かる「粕川橋」を越え500m程先の十字路を左折、そのまま北上すると丁字路に達するのだが、正面には「上武士会議所」が、左手には「上武士体育館」があり、その二つの建物に挟まれた奥に武士神社は鎮座している。
        
              溶岩塚の上にある「日露戦没之碑」
『日本歴史地名大系』 「上武士村」の解説
保泉村の東に位置し、平坦地ではあるが緩やかな丘陵地帯もあり、明治の頃まで古墳の多い村であった。村の西方を粕川が南流し、南方を広瀬川が東流する。古くは東南に接する下武士村と一村で武士村と称したが、慶長年間(一五九六〜一六一五)二村に分れたという(佐波郡誌)。「長楽寺永禄日記」永禄八年(一五六五)正月二〇日条に上武士とみえる。寛永二年(一六二五)「新田郡武士村」内一八六石余が野々山新兵衛尉に、「武士郷」二〇〇石が加藤権右衛門に与えられた(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では高二九〇石、畑方のみ、旗本野々山領。
        
                    拝 殿
『群馬県佐波郡誌 剛志村』
 村社 武士神社
 祭神菊理姫命 配祀神十柱 大字上武士に在り昔時元明天皇の御宇穂積親王御東征の際御駐輩ましましたる址に創建したもので白山神社と稱した元亀二年那波宗俊北條氏と戦ふや此の地に城を築き報賽奉幣して戦勝を祈りたりと明治十年村社に列し四十一年新に社を造營し諸神を合祀して武士神社と改稱した同四十五年神饌幣帛料供進神社に指定された
 創建は和銅年間(708715年)と云われ、祭神は菊理姫命。はじめは白山大明神と呼ばれ、村の広瀬川畔にあったという。その後元亀2年(1571 那波宗俊が小田原北条氏と戦うときに、同社に戦勝を祈願した。明治初年同社境内には御嶽・三峯・八幡・秋葉・水神宮が祭られている。明治41年(19083 白山大明神を今の地に移設して武士神社として、村内諸社を合祀したという。
 
       拝殿に掲げてある奉納額               本 殿
        
           本殿左側奥に祀られている庚申・石祠・石碑等
            左から庚申供養塔・石祠・猿田彦大神・石祠
          石碑(三笠山大神 御嶽山大神 八海山大神)・石祠
 
  本殿奥に祀られている石碑・石祠等          甲子大国神の並びに祀られている  
  庚申塔・甲子大国神等が祭られている       庚申・弁財天・観音様・子大権現等
        
                   境内の一風景


参考資料「群馬県佐波郡誌」「日本歴史地名大系」「境まちの史跡と景観 写真集HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等
  

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