五明天神社
「いまき」が「今来」で新米の者、つまり渡来系氏族をあらわし、渡来系氏族が当地に高度な稲作技術を導入し「稲魂」をまつる神社を建立したのが「稲実」であろうとされている。御神体である神代石(高さ67cm、太さ13.5cmの安山岩)には「えむぎしきない」「いまきあおやさかのかみ」と刻まれているという。
所在地 埼玉県児玉郡上里町五明871
御祭神 稚産靈神 豊宇気毘売神 大山祇命 日本武尊
社 挌 旧指定村社
例 祭 10月19日 秋祭り
創立年代不明。旧社格は村社。從來村の鎭守にして當村内大輻寺持なりしを、維新の際、神職の受持となり、往古より圓形の神代石に古文を以て刻したる者傳來し居りしが、文學に疎く之を解する事を得ざりしが、今日に至り漸く延喜式内今城青坂稲實神社と明瞭し、且亦境内を今城林と云ひ傳來りしを、天正年中(1573~92)神流川合戦の際瀧川一益此地に陣を転し、大に勝利ありしを以て転陣林と称し來たれり。
昭和27年神社明細帳
正面一の鳥居
一の鳥居から真っ直ぐ参道を進むと五明集会所があり、そこを左に90度曲がると二の鳥居がある(写真左)。その二の鳥居の向かって右側に案内板(同右)がある。
天神社 所在地 児玉郡上里町五明871
天神社の祭神は稚産霊神、豊受氣毘売神、大山祇命、日本武尊の四神である。
当社の創立年代は不明であるが、延喜5年(905)に藤原時平らが勅を受けて編集した廷喜式神明帳に載る賀美郡(児玉郡)四社の一つ今城青八坂稲実神社であると伝えられているので、かなり古い社であると思われる。なお、御神体である神代石(高さ67cm、太さ約13.5cmの安山岩)には「えむぎしきない」「いまきあおやさかのかみ」と刻まれている。
現在ある社殿は享保7年(1722)の再建で、天保年間(1830~44に書かれた中岩満次郎道純の祈願書が残されている。
明治10年に白山神社を、同42年に丹生神社を若宮より遷し合祀した。
また、境内神社として諏訪神社、稲荷神社、八坂神社、市杵島神社が祀られている。
なお、当社には神楽が伝承されていたが、現在は中断されている。
昭和60年3月 埼玉県 上里町
案内板より引用
現在の境内は決して広くはないが一の鳥居から集会所までにある程度の空間もあり、往時はかなりの大きな社だったろうと推測できる。また社全体が綺麗に整備もされ、参拝の時期も新緑が広がる季節でもあってゆっくり参拝を楽しむことができた。居心地の良い雰囲気の社。
参道の途中右側には貴船大神、大己貴命、素戔嗚命、国嶽霊神等の石碑群が並ぶ。
拝 殿
本殿裏には丹生社あり。
社殿手前左側には神楽殿 社殿の右側には境内社
諏訪神社・稲荷神社・八坂神社・市杵島神社等が並ぶ。
『明細帳』に「創立不詳、本社ハ延喜式内当国四十四座ノ一ニシテ今城青八坂稲実神社ナリト云伝フ」
と載せられている。また、当社に伝わる文書から、天保三年(1832)に上州新田郡の岩松満次郎が、同家の家紋である中黒紋の付いた幕と高張提灯を今城青八坂稲実大明神(当社)に寄付したことが知られる。今城青八坂稲実神社の社名は、稲霊を賛美した名称で、稲作信仰に基づくものであるとされる。ただし、児玉郡内には式内社の今城青八坂稲実神社に比定される神社が当社を含めて六社あり、定かでない。
『風土記稿』五明村の項には、「丹生社・天神社 以上ニ社を村の鎮守とす、大福寺持なり」とある。
明治初年の神仏分離により大福寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。また、明治四十一年には丹生社を合祀した。
埼玉の神社・埼玉県神社庁より引用