古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

六万部住吉神社

「作神」は「さくがみ」と読み、水稲農耕を主とする日本では民族信仰として農神をまつる習俗で、記紀には稲霊(いなだま)の〈倉稲魂(うかのみたま)〉や穀神の大歳神(おおとしのかみ)の名がある。
 京都など西日本では「ツクリガミ」といい、正月7日早朝に降(くだ)ってこられるといい、冬には山の神、春から秋にかけて田の神となるという。東北地方ではサクガミは農神(のうがみ)ともいい、316日に降り、916日に天上するといわれ、山の神ともいっている。また養蚕の神である「オシラサマ」もこの神と関係深く、同じ時期に昇り降りされるといわれている。作神は「エビスサマ」とか大黒様だといっている土地もあり、岩手県下では農神様は穀物の種を持って降ってこられるといって、早朝に木の葉を焚(た)いて合図の煙をあげる所がある。
 口碑によれば、六万部住吉神社の創建には、六万部村の開発に従事した大久保某が、上清久村より移住するに際して、摂津国一宮住吉大社の分霊である大久保家の守り神を当地の「作神」として祀ったのが始まりであるという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市六万部992
             
・ご祭神 住吉三神(底筒男神 中筒男神 表筒男神)
             
・社 格 旧六万部村仁丁町鎮守・旧村社
             
・例祭等 お獅子様 426日 祭礼 826日 お日待 1019
 久喜市六万部地域内に鎮座する社は、字ごとに鎮守社があり、その地区(耕地)もそれぞれ近距離に位置する。南北に長い六万部地域において、西に位置する本村には大神宮社 中央部谷田向の愛宕神社、北部の新田・関ノ上の鎮守社である六所神社と参拝したわけであるが、南部仁丁町鎮守の住吉神社が地域内の最後の社となる。
 谷田向愛宕神社の南側にある変則的な五叉路を「仁丁町通り」方向に右折し、500m程南行すると、進行方向右側に六万部住吉神社が見えてくる。駐車スペースらしき空間が道路沿いにあり、そこの一角を一時的にお借りしてから参拝を開始した。
        
                    幟柱二基が道路沿いにあり、ここから参拝を行う。
        
      参道は途中から右側に折れ曲がり、そこから正面に鳥居や社殿が見える。
 鳥居の手前で左側に「伊勢参宮記念碑」が立ち、その手前と右側脇には力石が計4個ある。
        
                正面鳥居から社殿を撮影
 六万部地域において、1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた唯一の社であるのだが、やや愛宕神社や六所神社に比べて小ぶりの感は否めず、外観等も改築はされているようではあるが、歴史的な重みをあまり感じることも出来なかったのが少々残念。
        
           境内に祀られている境内社。左より天満社、稲荷社
        
                    拝 殿
          不思議な事に拝殿正面右側には半鐘が掛かっている。
 住吉神社  久喜市六万部九九二(六万部字仁丁町)
 六万部地域は備前前堀川の左岸の低地・台地に位置する。『風土記稿』によれば、六万部の地名の由来は、かつて地内の法華塚に六万部の供養塔があったことによるといい、慶安四年(一六五一)に上清久村より三十数軒が移住して一村になったという。また、村内の神社については、「六所明神社 末社八幡 稲荷〇神明社 末社三峯 稲荷〇愛宕社 末社稲荷〇住吉社 以上四社は、共に村民の持ちにて、村内の鎮守なり 末社稲荷 天神」とあり、当社は村民持ちの四社のうちの一社であったことがわかる。
 口碑によれば、当社の創建は六万部村の開発に従事した大久保某が、上清久村より移住するに際して、摂津国一宮住吉大社の分霊である大久保家の守り神を当地の作神として祀ったのが始まりであるという。本殿内には「武蔵国埼玉郡貳丁町村 正一位住吉大明神幣帛 元文三年(一七三八)七月十七日神祇管領兼雄」の銘がある白幣が奉安されており、当社が吉田家より極位の神階を受けていたことがわかる。その後、当社は明治五年に村社に列した。
 現在、当社で最も古い年紀銘を有するのは、本殿内奉安される阿弥陀如来像で、その厨子には「□元禄第拾三庚辰年(一七〇〇)十月十六日□□□□□ 為本願悉地内□ (梵字)奉造立住吉大明神御本地」とある。

                                  「埼玉の神社」より引用

 拝殿左側には大木の切株が一株見える。「埼玉の神社」には社の略図も載せているのだが、社の正面で、一対のイチョウが嘗てあったらしい。このイチョウは市指定保存樹木でもあったところから、恐らくはご神木でもあったのであろう。筆者の勝手な憶測で恐縮でもあるが、もし、その一対のイチョウが聳え立っていた当時の社の風景はどうであったであろうか。歴史の重みを感じる大木の存在は、現在の社の風格をも変える程であったかもしれない。
        
            綺麗に手入れされている(?)正面鳥居周辺



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「Wikipedia」等

拍手[0回]


六万部六所神社

 一般に、六所神社・六社神社という名を名乗る神社は日本全国に存在するのだが、社名は、六柱の神を祭神とすることによるといい、創建当初から六柱を祭神としていた場合、都合により六つの神社を合祀した場合などがある。武蔵国の総社であった東京都府中市の大國魂神社(総社六所宮)のように、六所神社が総社となっている場合がしばしばある。
 六万部六所神社という名称も、何故「六所神社」として当地に勧請されたかは推測の域を出ないが、当社の創建に関わった氏子が六所神社を信仰していたことや、地名の「六万部」にちなんで「六」の付く神社を勧請したことなどがその理由と考えられる。
        
              
・所在地 埼玉県久喜市六万部426
              
・ご祭神 大己貴命 素盞嗚命 瓊々杵命 
                   布田大神 伊弉冉命 大宮女神
              
・社 格 旧六万部村新田・関ノ上鎮守
              
・例祭等 六所様の灯籠 716
 六万部愛宕神社から北行し、東北自動車道の脇道に達した後、2番目の丁字路を左折すると、進行方向右手に六万部六所神社の広い境内に達する。
 六万部地域は備前前堀川の左岸に位置する農業地域で、その中に本村・新田・関ノ上・谷田向・仁丁町の五つの耕地がある。当社の氏子区域は、そのうちの新田と関ノ上の両耕地で、新田は、その地内に当社が鎮座することから「六所耕地」とも呼ばれている。
        
                 
六万部六所神社正面
 六万部地域でも、北中曾根地域同様に全体で祀る社はなく、本村の大神宮社、谷田向の愛宕神社、仁丁町の住吉神社と共に新田・関ノ上の六所神社のように、各耕地で祀られている鎮守社がある。こうした状況は『新編武蔵風土記稿』六万部村の項でも「以上四社は共に村民の持にて、村内の鎮守なり」と記されている。
 
   参道左手にある六所神社ご祭神碑          石碑の右側並びにある伊勢参宮記念碑
        
                   境内の様子
 昭和57年に社殿の改修等が行われ、同時に境内も整備されたらしく綺麗に整えられている。
 
    社殿の手前で、参道を軸に左右対称で祀られている境内社二基(写真左・右)
      左側は境内社・八幡宮                    右側には境内社・稲荷社
        
                    拝 殿
 六所神社  久喜市六万部二七(六万部字六所)
『風土記稿』六万部村の項に、「村名の起り古へ当所に法華塚ありて、六万部の供養塔ありしをもてかく名付しと云」と載るように、六万部の地名は、その地内の観音堂に経塚(六万塚)があったことにちなむものである。村の開発については、慶安四年(一六五一)に上清久村の民三十余軒がこの地に移住して開いたと伝えられ、当初は上清久村の枝郷であった。
 この六万部の地内には、本村・新田・関ノ上・谷田向・仁丁町の五耕地(村組)があるが、当社はそのうち新田と関ノ上の両耕地で祀っている神社である。新田と関ノ上は、大字の北部に当たり、新川用水ができるまで鷲宮に属していた。(中略)当社は、恐らくは新田や関ノ上が開発された江戸時代初期に創建されたものと思われ、元来は開発者の一人であった加藤家の氏神であったが、村の発達に伴い、鎮守として祀られるようになったものであろう。
                                                                     「埼玉の神社」より引用
 当社の祭神は、大己貴命・素盞嗚命・瓊々杵命・布田大神・伊弉冉命・大宮女神の六柱で、境内にはこれらの神名を刻んだ石碑が建立されているが、内陣には金幣一体と像高二二・五㎝の金銅製の十一面観音像一体が安置されているだけで、創建に関わる資料や、具体的な「六所」を示す資料は現存していない。
        
                         静かに地域の方々を見守っている社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
Wikipedia」等
  

拍手[0回]


六万部愛宕神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市六万部602
             
・ご祭神 迦具土命
             
・社 格 旧六万部村谷田向鎮守
             
・例祭等 お獅子様 426日 例大祭 823日 注連縄飾 1230
 北中曽根愛宕山神社・金山神社六万部大神宮社と参拝を終え、更に埼玉県道12号川越栗橋線を東北自動車道方向に東行し、「仁丁町通り」と交わる変則的な五叉路を左折すると、すぐ右手に六万部愛宕神社の境内一帯が見えてくる。県道を曲がればすぐ境内地となるにも関わらず、道路沿いにない事、また民家が社を隠しているため、目立たない場所に社は存在しているのだが、実際現地に足を踏み入れると、地域の鎮守様としての風格は十分に漂っている。
        
                  
六万部愛宕神社正面
『日本歴史地名大系』による 「六万部村」の解説
 所久喜村の北にあり、北は辻村(現加須市)、新川用水を境に水深村(現加須市)・中妻村(現鷲宮町)。村の北西端の地は関ノ上、南部は仁丁(にちよう)町とよばれている。仁丁町の西部に上清久(かみきよく)村の飛地がある。村名は、当所に法華塚があり六万部の供養塔があったことによると伝える(風土記稿)。騎西領に所属。慶安四年(一六五一)に上清久村から三〇余軒の民家が移り一村をなしたといい(同書)、元禄郷帳に上清久村枝郷と注記がある。
        
                 参道、及び境内の様子
 写真左側に見えるのが社務所。年間行事の直会などの会場として社務所が現在使われているが、嘗ては社の東側に隣接する飯島家がその会場であったという。
 
 白い両部鳥居の先に見える鬱蒼とした林の中央部にハッキリと石段があり、古墳とも丘ともいえるその頂上部には小さく社が見える(写真左)。また石段手前で、左側には境内社・稲荷神社が祀られていて、そこから離れていない石段入口左側には力石もある(同右)。
        
                    拝 殿
 愛宕神社  久喜市六万部六〇二(六万部字谷田向)
 六万部は、かつての利根川の乱流地帯に残された台地上の村である。東に接する上清久村の一部であったが、慶安四年(一六五一)に、上清久村の三〇余戸がこの地に移住して枝郷となり、元禄期(一六八八〜一七〇四)以降、独立して別村となった。このうち当社が鎮座する谷田向は、この地の北側で、台地に大きく切れ込んだ谷田に面していることに由来する名である。
 当社の創建時期を明確に示す資料は発見されていないが、(中略)当社は、慶安四年をいくらか下った時期に創建されたと思われる。なお、『風土記稿』六万部村の項に当社と六所明神社・神明社・住吉社の四社は、共に村民の持で村内の鎮守と記されている。
 当社の東に隣接する飯島家は、右の口碑の家であるが、地租改正後に当社のやや南方からこの地に居を移したものである。そこには明治三年まで羽黒行人派の愛宕山万福寺という修験の寺があった。万福寺は立地や山号から見て、往時は別当を務めていたようである。飯島家では万福寺の廃寺後は本尊を引き継いで祀っていたが、後に香最寺へ納めた。この経緯と同家屋号を「ワタゴノウチ」ということから、江戸期の当社が「村民の持」とあるのは、同家ではないかと思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
               丘上の社殿から見る境内の様子
 当社の祭神は迦具土命で、氏子からは谷田向の鎮守神としてだけでなく、鎮火・防火に御利益のある神として信仰されている。また、社の氏子区域は、六万部の字谷田向全域である。
 本殿には迦具土命の本地仏である騎乗の勝軍地蔵像と地蔵菩薩立像が奉安されているが、共に年紀等の銘はない。社殿は、六メートル程の塚上に建てられており、この塚は、境内の西脇を流れる新堀という用水を江戸時代に開削した時に、掘り上げた泥を積み上げて築いたという。ちなみに新堀の開削時期は、周辺の用水整備の記録から十八世紀後半と見られている。なお、この塚は愛宕の本社で修験道場であった。京都の愛宕山に見立てていることから、その築造には万福寺の関与がうかがえる。
             
               境内に聳え立つイチョウの大木
                           久喜市の保存樹木に指定されている。
  


参考資料「新編虫風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
        

拍手[0回]


六万部大神宮社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市六万部539
             
・ご祭神 天照大御神
             
・社 格 旧六万部村本村鎮守
             
・例祭等 お神酒上げ 11日 灯籠 710
 北中曽根下集会所から東行し、一旦埼玉県道12号川越栗橋線に合流した信号のある交差点を直進する。その後、曹洞宗清鏡寺の山門を拝みながら暫く進み、最初の十字路を左折すると、進行方向右側に農地の先に垣根があり、その奥に六万部大神宮社の白い鳥居と社務所のような社殿が小さく見えてくる
 実のところ、加須市割目地域に鎮座する割目久伊豆神社からは東西に通る道路で繋がっており、400m程しか離れていない位置関係にある。
        
                 
六万部大神宮社正面
   「
大神宮」を冠する社としては、やや簡素でこじんまりした境内、及び社殿である。
        
                          境内に設置されている案内板
 久喜市六万部地域。如何にも仏教に関連しそうな地域名だ。この六万部という地域名の由来として、『新編武蔵風土記稿 六萬部村】では「村名の起り古へ當所に法華塚ありて、六萬部の供養塔ありしをもてかく名付く」と載せていて、「埼玉の神社」では「口碑によれば、六万部の経巻をこの地に鎮めたことに由来する」という。
 この六万部地域は、本村・新田・関ノ上・谷田向・仁丁町の五つ組に分かれ、当社はそのうちの本村で祀る神社である。
 本村は六万部の北西部に位置する農業地域である。『風土記稿』六万部村の項では、村の開発について「古は上清久村の内なりしが、慶安四年同村の民三十余此地に移り来りしより、一村となれり云」と載せているが、「本村」という呼称から推測すると、この慶安四年の移住は、まず当地から行われたものと考えられる。
「大神宮様」も通称で親しまれる当社は、伊勢神宮の内宮と同じく天照大御神をご祭神としていて、内陣には、両部神道におけるこの世にあらわれた姿である雨宝(うほう)童子像(全高二七㎝)が安置されている。
        
                    拝 殿
 大神宮社 御由緒  久喜市六万部五三九
 □御縁起(歴史)
 六万部の地名は、口碑によれば、六万部の経巻をこの地に鎮めたことに由来するという。現在、西公民館の北側にある「お経塚」が、その経巻を埋めた場所とされており、塚の上に石碑が建てられている。この六万部では、村全体で祀る鎮守は昔からなく、本村・新田・関ノ上・谷田向・仁丁町の五つの村組合各々で別個(新田と関ノ上は合同)の神社を祀ってきた。当社はそのうちの本村で祀る神社である。
『風土記稿』六万部村の項によれば、村の開発は慶安四年(一六五一)といわれているため、当社の創建はその後間もないころのことと推測され、氏子の間では「伊勢にお参りできない人が遥拝できるようにお祀りしたのがこの社」「伊勢に一度行った人が二度目に行った時に伊勢から御神体を受けて来て建立した社」などの話が創建にまつわる口碑として伝えられている。ちなみに『風土記稿』に「神明社村民の持にて、村内の鎮守なり」とあるのが当社のことである。
 この当社の境内は、本村の西の外れに位置し、その周囲には鬱蒼とした杉が生い茂っている。古くは、その中にそびえ立つ樅の巨木が神木として大切にされていたが、この樅の木はキティ台風で倒れてしまい、杉の大木も幾本かは昭和二十二年に鳥居を再建した時に伐採したため、樹林の規模は小さくなってきてはいるものの、今では貴重な緑地であり、森を維持するため杉が植樹されている。
                                    境内案内板より引用
        
               境内に祀られている境内社二基
                            左から稲荷社・三峰社
 元旦にある「
お神酒上げ」と七月十日の「灯籠」の二つが当社の年間行事であるが、嘗て「お獅子様」という行事も行われていた。この行事では、騎西に鎮座している玉敷神社(明神様)から借りてきた「お獅子様」を若衆が担いで回り、地内の悪疫除けをするのだが、当社がその出発点となり、そこで祈願を行い、氏子の各戸を回る。各戸には土足のまま暴れ込み、全戸を回り終えると、村境で「辻切り」をしてから新田に「お獅子様」を渡した。現在では、「お獅子様」を借りることはしないで、当番が玉敷神社に奉納金を持参し、希望者の分だけ神札を受けてくるという形に簡略化されている。
        
                  静まり返った境内


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

拍手[0回]


北中曾根久伊豆神社

 北中曾根地域は、川妻(かわづま、上ともいう)・前(中前ともいう)・裏(中裏ともいう)・下の四集落で構成されていて、これら四つの集落のうち、川妻は愛宕社・裏は金山社・前では諏訪社・下では久伊豆社を祀っている。明治十二年までは中曾根村と称し、『郡村誌』によれば戸数一三五、人口七〇六というかなり大きな村であった。そのためか、全体で一つの神社を鎮守として祀るのではなく、村内にある村組が各々神社を持ち、それぞれの鎮守として祀ってきた。
『風土記稿』中曾根村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、〇諏訪社〇愛宕社〇金山社 四社共に観音院持」とあるのは、そうした状況が江戸時代から続いていることを示すものである。ここでは下の久伊豆社が村の鎮守となっており、明治の社格制定に際しても同社が村社となったが、それは久伊豆社の規模が四社の中では最も大きい神社であったためであり、信仰の上では四社共に同格といえる。
        
            
・所在地 埼玉県久喜市北中曾根1797
            
・ご祭神 大己貴命 猿田彦命
            
・社 格 旧北中曾根村鎮守 旧村社
            
・例祭等 初詣 11日 追花 319日 二百十日 91
                 二百二十日 911日 お日待 1019日 大祓 1225
 北中曾根金山神社から埼玉県道12号川越栗橋線に戻り、東行すること約500m先の丁字路を右折、更に南下した突き当たりを左折するとすぐ左手に北中曾根久伊豆神社が見えてくる。
 社周辺には適当な駐車スペースもないため、東側に隣接する民家の更に先に「北中曽根下集会所」があるので、そこの駐車スペースの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                北中曾根久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』「中曾根村」の解説
 東は備前前堀(びぜんまえぼり)川を境に六万部(ろくまんぶ)村・所久喜(ところぐき)村小河原井(こがわらい)、南は備前堀川を境に台・三箇(現菖蒲町)の二村と対する。騎西領に所属。正保四年(一六四七)川越藩松平氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によると田高二四二石余・畑高一八二石余、同藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高八四〇石余、反別は田方四三町余・畑方五五町一反余、ほかに新開高三三六石余、田方一七町三反余・畑方二二町余があった。元禄郷帳では高一千一九五石余、幕府領(国立史料館本元禄郷帳)。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。
 
    鳥居の左側手前にある力石2ケ     力石の奥に祀られている道祖神らしき祠一基
        
             力石や祠と共に設置されている当社の案内板
 当社の創建の経緯は明らかではないが、北中曾根地域において「下」の人々によって祀られてきた社であり、『風土記稿』には観音院持ちの四社のうちの一社としてその名前が見えている。江戸時代、当社の別当である観音院は、天正17年(1579)入寂の法印照宥によって開かれた真言宗の寺院で、当社の300m程西方にあり、『風土記稿』では「本尊地蔵菩薩」となっているが、現在の本尊は「聖観世音菩薩」である
『新編武藏風土記稿 埼玉郡中曾根村』
 觀音院 新義眞言宗、正能村龍花院末、救世山と號す、開山照宥天正十七年十一月十五日寂す、本尊地藏を安ず、弘法大師の作、長三尺餘立像なり、 觀音堂 正觀音を安ず、立像にて長八寸七分、聖德太子の作なり、
 その後、神仏分離を経て明治3年に、近代社格制度に基づく村社となり、大正10年の神社合祀により、字森下の無格社・道祖神社を合祀したことにより、猿田彦命を祭神に加えた。更に昭和58年には字薬師前の八幡神社を合祀したという
        
                 すっきりとした境内
 
    参道左側に祀られている境内社       八幡神社の右側並び奥に祀られている
     左側から不明・八幡神社             境内社・八坂神社
        
                    拝 殿
 久伊豆神社  御由緒 久喜市北中曾根一七九七
 □御縁起(歴史)
北中曾根は、明治十二年までは単に中曾根村と称していた。当社はその鎮守として祀られてきた神社であり、『風土記稿』中曾根村の項にも「久伊豆社 村の鎮守なり」と記されている。往時の別当は観音院であった。観音院は当社の三〇〇メートルほど東に位置する真言宗の寺院であり、正能村(現騎西町)竜花院末で、開山の照宥が天正十七年(一五八九)に入寂したと伝えられる。
 当社の創建の経緯については明らかではないが、三間社の本殿には当社の歴史を伝える幾つもの貴重な資料が奉安されている。本殿の中央には全高三三センチメートルの木造の久伊豆明神像及び一対の矢大臣、宝暦九年(一七五九)銘の金幣、神鏡、延享二年に神祇管領吉田家から拝受した宗源祝詞・幣帛などがある。また、向かって左には天保五年(一八三四)の社殿再建の棟札がある。ただし、向かって右は空殿である。当社の主祭神は古くから大己尊命一柱だけで、三間社の形式となっている理由は定かではない。
 別当の観音院は、天保五年に社殿を再建した時には無住になっていたらしく、棟札には「別当観音院無住付江面村善徳寺住法印来賢記」とある。神仏分離を経て、当社は明治三年に村社となり、大正十年に字森下の無格社道祖神社を合祀したことによって、猿田彦命を祭神に加えた。更に、昭和五十八年には字薬師前の八幡神社を合祀した。
                                    境内案内板より引用

        
                  社殿からの眺め


【北中曾根諏訪神社】
 北中曾根久伊豆神社から300m程西行すると、同地域の諏訪神社が鎮座している。地図を確認すると、観音院のすぐ南側に社はある。
        
             ・所在地 埼玉県久喜市北中曾根1906
             ・ご祭神 建御名方神
             ・社 格 旧中曾根村前組鎮守
             ・例祭等 新年のお神酒上げ 11日 大祓 1220
 北中曾根地域の中の一集落である「前」の地内は、更に矢足(やだれ)・小林(おばやし)・立山・新屋・森下第一の五つの耕地に分けられ、当社の氏子の数は五五戸である。
 近年の農地改革が実施されるまでは、社の周囲の約一千坪は社の所有地で、そのうち、社の後方は一面森林であったが、昭和10年頃に畑に変わったため、景観は大きく変わった。現在の社殿は、昭和59年に氏子一同の協力により建て替えられたもので、地域の集会所の役目も果たしている。
        
                          
北中曾根諏訪神社正面
 当社がどのような経緯でこの地に祀られるようになったかは不明であるが、氏子の間では、信濃国一之宮である諏訪大社の下社が当社の本社であるとの伝えがあり、昭和59年の社殿再建の際には、これを記念して諏訪大社の下社に参詣を行っている。
氏子の間では、当社の祭りと並んで、すぐ北側にある観音院の灯籠が大きな年中行事とされていた。89日に行われる観音院のこの行事は、前集落と裏集落が合同で行っている行事とされ、双方の集落から登板で5名ずつ出てその世話をするようである。

 また、北中曾根地域では疫病除けの行事として510日には「お獅子様」があり、騎西の玉敷神社から借りて来たお獅子様が川妻・裏・前・下の各集落順に回っていくが、下は近年行事を中止した。前では、今もお獅子様が全戸を回っていて、そのうちの約半数の家では、昔ながらにお獅子様が座敷に暴れ込み、一家の悪疫を祓うという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」Wikipedia
    「境内案内板」等
 

拍手[0回]