古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

発戸鷲宮神社

 天日鷲神(あめのひわしのかみ)は、日本神話に登場する神。『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神である。
 日本神話において、天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、天日鷲神が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥(きっしょう)を表す鳥といって喜ばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。という内容である。後に平田篤胤は、神武天皇の戦の勝利に貢献した鳥と同一だと言及している。
『古語拾遺』によると、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。やはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となる。また、天富命は天日鷲神の孫を率いて粟国へと行き、穀・麻を植えた。
 天日鷲神は一般にお酉様として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰されている。
        
               
・所在地 埼玉県羽生市発戸1653
               ・ご祭神 天日鷲命(推定)
               ・社 格 不明
               ・例祭等 不明
 尾崎鷲宮神社より北東方向に伸びる用水路沿いに600m程進み、十字路を右折すると、すぐ右手に発戸鷲宮神社が見える。この二社は直線距離にしても700m程しか離れてなく、互いに近距離に位置している。
 因みに「発戸」と書いて「ほっと」と読む。 
        
                  発戸鷲宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「発戸村」の解説
 [現在地名]羽生市発戸
 利根川右岸の自然堤防上、上藤井村の北にある。「ほっと」は「陰」に通じ、奥深く入り込んだ地形をさすという(埼玉県地名誌)。現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九五)八月付棟札に「発戸道原明堤此郷何三分一」とみえ、同社領があった。田園簿によると幕府領、田高四一五石余・畑高六四二石余、ほかに野銭永九四文。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領で、宝永元年(一七〇四)上知(寛政重修諸家譜)。
       
                        一の鳥居の掲げてある社号額
 一の鳥居に掲げられた社号額には、「鷲宮大明神 桑原大明神」と同列併記されていて、「新編武蔵風土記稿」には「桑原社」と記載がされ、むしろ「鷲明神」を後に合祀したような記載がされている。
『新編武蔵風土記稿 発戸村』
桑原社 祭神詳らかならず、鷲明神を合祀す、〇雷電社 〇日光權現社 〇湯殿權現社 
〇天神社 〇稻荷社 以上觀乘院持、
 
     参道の先にある二の鳥居          民家が立ち並ぶ中にありながら
                           落ち着いた雰囲気の漂う境内
 昭和433月、発戸鷲明神社の西方の畑を田に改造するための土取り作業の際、地下7080㎝の深さから縄文時代の石器や土器が多数出土した。土器は浅鉢・深鉢・壺・注口土器など縄文時代後期・晩期を中心に中期・後期のものが混在している。また独鈷石・石棒・石皿破片・打製石斧などの石器類が出土している。「発戸遺跡」と呼ばれている。
 中でも土面は、関東地方随一のもので、写実的に眉・目・鼻・口が表現され、目には玉がはめこまれていた形跡がある。目と口の周辺は赤く塗られ、頬(ほほ)には三叉の文様が描かれていて、顎(あご)には一条たどたどしい浅い沈線が刻まれている。この沈線は紐かけのすべり止めと考えられ、紐で額(ひたい)にゆわえたものと推察されている。
 また遺跡の西限を通る道路は、遺跡の中心地と推測されている発戸鷲宮神社を囲むように半円を描いており、かつて地表にあった環状盛り土遺構を避けるように道筋が定まったものと考えられている。
独鈷石(とっこいし)…縄文時代後・晩期の磨製石器。仏具の独鈷に似ているところからの名称。中央部はえぐれ、両端は斧状、つるはし状を呈する。はじめは実用具であったが、しだいに儀礼具化したと考えられる。
 発戸地域は、利根川右岸の自然堤防上に位置し、縄文時代の遙か大昔から人々が生活を営んでいて、早くから開発がされてきた地域でもある。「発戸」という地域名の由来は上記『日本歴史地名大系』にて【「陰」に通じ、奥深く入り込んだ地形をさす】と記されているが、その淵源ははるか縄文時代に遡るかもしれない。
        
                           参道左側に祀られている境内社
        左側より「八坂神社」「東照大権現・天満天神宮」「雷電神社」
        
                    拝 殿
 創建時期、由来等は詳らかではない。特に『新編武蔵風土記稿』において「桑原社」、一の鳥居の社号額に表記されている「桑原大明神」における「桑原」という名称の由来は結局分からなかった。但しこの地域の開発の速さを証明する遺跡が、この社を起点としている所からみても、何かしらの伝承・伝説の類はありそうである。
       
       境内にある「鷲宮神社 農業研    記念碑に並びにある石碑群。一番右側には、
           修所建設記念碑」   国幣湯殿山・官幣月山・国幣羽黒山と刻まれている。
        
                        境内にある「発戸松原跡」の石碑
「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった」で始まる小説『田舎教師』。この作品は、実在の人物小林秀三が書き残した日記をもとに、田山花袋が丹念な取材を行って書き上げた小説で、登場人物はほぼ実在した人々である。明治30年代の羽生の自然や風物、人間模様が生き生きと描かれており、主人公林清三を中心にした小説として、また、明治期の郷土羽生の風景や人々を現代に伝える郷土資料と言える。小説から当時の面影を偲ぶことができる。

 松原遠く日は暮れて 利根のながれのゆるやかに ながめ淋しき村里の 此処に一年かりの庵 はかなき恋も世も捨てヽ 願いもなくて唯一人 さびしく歌ふわがうたを あはれと聞かんすべもがな

 嘗て利根川の堤防をたどると、発戸松原跡に碑が建っていた。この碑は令和311月、利根川堤防拡張工事のため発戸地内の鷲宮神社内に移設された。散歩好きだった小林秀三は、発戸、上村君、下村君あたりの堤をよく一人で散策していたという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉県埋蔵文化財調査事業報告書 第461集」
    「羽生市HP」精選版 日本国語大辞典」「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia
    「境内記念碑文」等

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尾崎鷲宮神社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市尾崎705
              
・ご祭神 天穂日命 武庚鳥命
              
・社 格 旧尾崎村鎮守
              
・例祭等 春季祭 41415日 夏季大祭 71415
                   
秋季祭 101415
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1932794,139.5504263,17z?hl=ja&entry=ttu
 本川俣長良神社から北側の利根川土手沿いの道路を東行し、2㎞程進んだ三つ又交差点を右折、350m程進むと右側に細い路地が見え、「尾崎農業研修所」に隣接するように尾崎鷲宮神社が古墳墳頂部に鎮座している
        
                               
尾崎鷲宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「尾崎(おさき)村」の解説
 [現在地名]羽生市尾崎
 利根川右岸の自然堤防とそれに連なる後背湿地よりなる。西は同川沿いに稲子(いなご)村に続く。「万葉集」巻九の「武蔵の小埼の沼の鴨をみて作る歌」の「小埼沼」、巻一四の国歌に詠まれた「埼玉の津」を当地に比定する説もある(行田市の→小崎沼)。「風土記稿」は「此辺多クハ沼田ナレハモシクハ当所小埼沼ノ旧蹟ニテ後年尾崎ノ文字に改シモ知ルヘカラス」と記す。田園簿によると田高一八五石余・畑高二八六石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領。同藩領は寛文元年(一六六一)からで宝永元年(一七〇四)上知(「寛政重修諸家譜」など)。
『新編武蔵風土記稿 尾崎村』
 按るに埼玉津小埼沼皆【萬葉集】の詩にも見え、當所の名前なるはいふもさらなり、されど上りたる世の中にして、舊蹟しかと論じがたし、然るに此邊多くは沼田なれば、もしくは當所小埼沼の舊蹟にて、後年尾崎の文字に改しも知るべからず、
 鷲明神社 愛宕社 以上二社を村の鎭守とす、
 
    鳥居のすぐ先に置かれている            境内一帯の風景
     伊勢参宮記念碑等の石碑四基       社殿は古墳の墳頂部に鎮座している。
 行田市酒巻地域にある「酒巻古墳群(酒巻八幡神社を参照)」や「真名板高山古墳」の例もあるが、利根川流域の加須低地一帯は、嘗て「関東造盆地運動」による沈降と河川の氾濫土の堆積により、古墳の多くが地表から沈降し、埋没してしまっているという。
『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』によると、尾崎地域には全部で9基からなる「尾崎古墳群」といわれる古墳群が複数調査により確認されているが、現在はそのほとんどは水田下に埋没しているとの事で、この鷲宮神社古墳と社南方にある遍照院古墳の二基が残されているとの事だ。残念ながら遍照院には行かなかったので、確認は出来ず。
       
 古墳上に鎮座する社殿と、その両側に祀られている境内社との配置が不思議とマッチしていている。
       
    社殿に通じる石段の右側にある社の由来と指定文化財の獅子舞に関しての案内板

  指定文化財 尾崎地域の獅子舞の案内板        社の由来等を記した案内板
指定文化財 獅子舞(尾崎地区)
(無形民俗文化財 羽生市指定第7号 昭和34101日)
 親獅子、中獅子、子獅子の3頭で構成されます。頭をかぶる一人一人が1頭の獅子の役を受け持つため、一人立ち3頭形式の獅子舞といいます。以前は714日から16日の3日間をかけて行われていましたが、最近では714日の例大祭の夜のみ、五穀豊穣、家内安全を願った奉納となりました。昔は鷲会という組織に、167歳から30歳までの男子が入会し、ゲンロウと呼ばれる人たちのきびしい指導を受けながら、習得していきました。
 獅子舞はまず棒術の演技が行われ、その後出端→シバ掛かり→段物→(花散らし)→岡崎の順に演じられます。演目である段物には「梵天」「八丁締」「行道探し」「弓」「鐘巻」などがあります。笛方は10数名で構成され、65本調子です。
 三代将軍徳川家光の頃より行われていたといい、下野国から獅子舞の師匠を呼んで習ったと伝えられています。
 平成14年3月20日 羽生市教育委員会

                                                                            案内板より引用
       
                                      拝 殿
   案内板による創建時期は承応元年(1652)。久喜市鷲宮神社から分祀したという。
 正一位 鷲宮大明神
 鷲宮神社ノ由緒
 神社所在地 埼玉県羽生市大字尾崎七〇五番地
 境内面積   六六三坪(前方ノ道路ヨリ入リ参道ヲ含ム)
 起源       承応元年(今ヨリ約三百三十年前二〇代ノ後光明天皇ノ御代江戸時代ノ創立鷲宮ノ
             鷲宮神社ヨリ分祀セラレタル説アリ)
 神德       御祭神ノ故事ニヨリ特二開運火防農工商交通安全ノ守護神
 境内神社    一、産土神社祭神鬼子母神出産ヲ司リ
             一、産児ノ保育スル神
             一、稲荷神社祭神宇迦御魂命農ノ神
             一、八坂神社祭神須佐之男命
 平成二十三年八月 氏子総代会
                                    境内案内板より引用
 
拝殿に掲げてある「正一位 鷲宮大明神」の扁額  石段左側に祀られている三峯神社の石祠
 
   石段手前で左側に祀られている境内社     境内左側にある出羽三山参拝記念碑
                詳細は不明
        
                              静まり返った境内の一風景
 埼玉県行田市の南東部に位置する埼玉地域には、かつて「小埼沼(おさきぬま)」という沼が存在していた。今では小さな林とわずかな窪地を残すのみとなっているが、縄文時代にはこのあたり一帯は東京湾の一角として入江が入り組んでいたという。
 この小埼沼は尾崎沼・小崎沼とも称され、大字埼玉の東部に所在していたと伝わる沼である。今日では林の中に「武藏小埼沼」と彫られた石碑と池が所在していて、この石碑は宝暦3年(1753)に忍城主の阿部正允により建てられたものである。
 ところで、万葉集には小埼沼について歌われているものが2首現存している。
 ・小埼の沼
 「埼玉の小埼の沼に鴨ぞ翼きる 己が尾にふり置ける霜を払ふとにあらし」
 ※(解説)小埼の沼で鴨が翼を振って水しぶきを飛ばしている。自分の尾に降った霜を払おうとしているようだ。
 ・埼玉の津
 「埼玉の津に居る船の風をいたみ 綱は絶ゆとも言な絶えそね」
 ※(解説)埼玉の渡し場にある舟は、風が強いと綱が切れることがあるが、二人の仲は切れないよう続けたい。たとえ会えなくなっても、お前は便りを絶やすようなことはしないでほしい。

 同地は1961年(昭和36年)91日に「万葉遺跡・小埼沼」として埼玉県指定記念物に指定されているが、伝承による埼玉の津および小埼沼の候補地は、行田市埼玉の場所だけではなく、羽生市大字尾崎とする説やさいたま市岩槻区大字尾ケ崎とする説(共に武蔵国埼玉郡)がある。
 この奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である万葉集は、7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録された日本の古典であり、日本文学における第一級の史料であろうことは疑いない。
 その古典に「小埼沼」という地名は確かに存在していて、この候補地の一つに挙げられているのが羽生市尾崎地域である。その中央部付近に、尾崎鷲宮神社は静かに鎮座していた。

【浅間塚古墳】
 尾崎鷲宮神社から南方向に通る道路を900m程南下すると、右手に「浅間塚古墳」が見えてくる。
 遠目から見ても一目で古墳と分かる形状をしているので、立ち寄って確認する。
        
                   浅間塚古墳
 山頂には浅間神社の小さな祠があり、それがこの古墳の名称の由来ともなっている,麓には馬頭観音の碑が祭られている。元は円墳の古墳(推定)築造時期は不明。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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本川俣長良神社

 日本人の神観念のなかには,人間を神にまつる風習に基づいた神格がある。死後神にまつられる場合と,生前にその人間に神格を認め,信仰対象とした場合と二通りあり,後者の場合,まつりこめた祠を「生祠」としている
 生祀は、元々古代中国の前漢時代の政治家である欒布(? - 紀元前145年)が燕の丞相であった時、燕と斉の間にその社を立てて、「欒公社」と呼んだ。また石慶が斉の丞相であった時、斉人は「石相祠」を建てた。これが生祠の始まりであるという。
 日本における生祠に関して、自己の霊魂を祀った生祀の文献上で最も古い事例は、平安時代の923年、伊勢神宮の外宮の神官であった松木春彦(824年〜 924年)が、伊勢度会郡尾部で、石に自己の霊魂を鎮め祀ったことである。
 生祀は江戸時代に増えたが、それは中国思想の影響であろうという。この場合の生祀とは、人々のために利益をもたらした英雄や,一般人よりも権力や霊力あるいは徳において秀でた人物を象徴的に崇拝の対象として祀っているという。
 但し、自己の霊魂を祀るケースもあり、江戸時代中期、松平定信が1797年、奥州白河城に自分の生祀を成立した例があり、また山崎闇斎が儒教の礼式を参考に祭式を考案し、自らの霊魂を祀った。その生祀は1671年、京都の自邸の垂加霊社に成立したものである。これ以後も、神道家や平田派の国学者によって、それぞれ独自の祭式で自己の霊魂を祀った。
 羽生市本川俣長良神社境内には、江戸時代の川越領主であり、当該地域も領地分として善政を施いた松平大和守直恒の生祀を祀っていて、現在その石祠は羽生市の市指定史蹟となっている。
        
             
・所在地 埼玉県羽生市本川俣12135
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             
・社 格 旧本川俣村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1866796,139.5329647,17.29z?hl=ja&entry=ttu
 上川俣天神社から一旦国道122号線に戻り、東方向に進路をとる。東武伊勢崎線の踏切を越えて350m程進んだ丁字路を左折する。その後「葛西用水路」を越えた先に「本川俣集会所」が見え、その隣に本川俣長良神社は鎮座している。
        
                              
本川俣長良神社 一の鳥居  
『日本歴史地名大系』 「本川俣村」の解説
 利根川南岸の自然堤防上に位置し、旧利根川の流路跡もみられる。古くは西側上流の上川俣村と一村であった。田園簿によると幕府領で、田高二三九石余・畑高五九九石余、ほかに千手せんじゆ院領一〇石があった。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。同九年には三卿の一家である清水領で(「清水家領知村々社倉仕法請書」酒井家文書)、幕末の改革組合取調書でも同じ。
        
                                 境内の様子
『新編武藏風土記稿 本川俣村』
 村名の起りは上川俣村・上新郷村の間に會川と云古川あり、是中古までは利根川の枝流にして、ニ又に分れ、其所へ當村の地臨みし故、川俣の名は起れりと云う、
『新編武藏風土記稿 上上新郷村』
 此會川と云は利根川の古瀬にして、古は利根川當村の北にてニ派となり、一は今の利根川、一は此會川にて、南へ折れ郡中を貫き、川口村にて又今の利根川に合す、昔は利根川に劣らず大河なりしを、忠吉郷の家人小笠原三郎左衛門、文祿三年堤を隣村上川俣村まで築きて、水行を止しゆへ、古川となりしよしを傳ふ、

「新編武蔵風土記稿 本川俣村」において、
川俣という地名由来が記されていて、そこでは、嘗て「利根川」の支流であった「会川」は、上川俣村・上新郷村の間を流れていて、この地で二又に分かれたために、「川俣」という舞相になったと記されている。対して「新編武藏風土記稿 上上新郷村」では、利根川の支流の支流でありながら、「会川」は、当時の利根川と同じくらいの水量を誇る大河であり、恐らくは水害も何度もあったのであろう。文禄3年に堤防を築いたことにより、水量を管理したことが記されている。
        
                    拝 殿
 長良明神社
 村の鎭守なり、當社は元上野國邑樂郡瀨土井村にありしが、天正三年利根川洪水の時、當所の岸へ流れ來りし故、土人取上て翌年三月廿日社を造りしとなり、祭神は長良親王の由にて、束帶の坐像なり、今按に上野國瀨土井村なる長良神社は、在昔上野國騷亂の時、大職冠鐮足七世の孫、黃門侍郎藤原長良をして、鎭撫せしめしに、國大に治りし故、長良歸京の後、家監赤井師助と云ものを留て、是を治めしめたり、長良沒後に及て師助國人と計て彼靈を神に祀り、直に長良神社と號すといへり、是に據ば親王といへるは誤なるべし、されど長良の上野を治めしこと國史に載せざれば、詳なることは知べからず、或云【和名抄】上野國邑樂郡の鄕名に、長柄あり、是地名を以神號とせるならんと、此當れる如く思はるれど、未だ其據を聞かざれば信じがたし、
 別當大藏院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動の配下
 本地堂 觀音を安置す、
 〇八幡社 〇鷺明神社 〇天神社
 以上の三社は、文祿四年の勧請にして、大藏院の持なり、
                          『新編武藏風土記稿 本川俣村』より引用
 長良神社は利根川中流域左岸、つまり、群馬県の利根川流域に数十社集中的に鎮座しているが、反対側である、埼玉県側の利根川右岸には、この本川俣地域と、弥勒地域の2か所しか存在していない。特徴ある配置状況である社といえる。
        
                                       本 殿
 
  社殿の左側に祀られている「松平大和守生祠」の石祠(写真左)とその案内板(同右)
 指定文化財 松平大和守生祠 
(史蹟 羽生市指定第5号 昭和32129日)
 本川俣村は、明和7年(1770)から文政4年(1821)までの約50年間、それまでの幕府直轄地から河越城主の領分となっていました。
 生祠とは、領主の徳をたたえるために領民がまつったもので、市内には堀田氏、戸田氏、本多氏らの城主のもの以外にも、小尾氏、戸田氏、土岐氏等の旗本をまつったものがあります。
 この生祠は、松平大和守直恒をまつっています。当地は天明6年(1786716日におきた上川俣の竜蔵堤の決壊および、寛政3年(179187日の再決壊による水害に見舞われました。この領民の窮状を知った直恒は、食料を与え、租税も五年間免じました。この恩に報いようと、惣百姓、組頭、年寄、名主が願主となり、そのいわれを記して後世まで伝えようと寛政6年(1794)に建立したものです。
 松平大和守生祠は、寛政元年(1789)に待従に任ぜられた後、文化7年(1810)に49歳で没しました。
 平成15320日 羽生市教育委員会
                                      案内板より引用

 
  生祠の左側並びに祀られている湯神社      生祠の右側並びに祀られている石碑
    その右側には石鳥居建築記念碑       左から琴平神社・〇大明神・威徳天満宮
 
 琴平神社等の石碑の右側並びに祀られている石碑・石祠群(写真左)。左から八幡神社・水神宮・龍〇宮・庚申供養塔・(不明)・(不明)・道祖神・道祖神。これらの石祠群の奥にも境内社が祭られているのだが(同右)、詳細は不明。
        
                社殿から見た境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等


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上川俣天神社

『日本歴史地名大系』 「上川俣村」の解説
 [現在地名]羽生市上川俣
 利根川南岸の自然堤防上に位置し、西方を会(あい)の川が流れる。桑崎(くわさき)村の北にあり、古くは東隣の本川俣(ほんかわまた)村と一村であった。天正六年(一五七八)三月七日、木戸元斎は上野国三夜沢(みよさわ)大明神(現群馬県宮城村の赤城神社)に羽生城回復を祈願し、祈願成就の際には埼玉郡河俣郷など三ヵ郷から三貫文の地と神馬三疋を寄進することを約している(「木戸元斎願文」奈良原文書)。

        
              
・所在地 埼玉県羽生市上川俣1401
              ・ご祭神 菅原道真公
              ・社 格 旧上川俣村鎮守
              ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.com/maps/@36.188196,139.5185383,16.71z?hl=ja&entry=ttu
 羽生市北に鎮座する大天白神社、及び大天白公園から一旦国道122号線に戻り、右折し利根川方向に1.4㎞程進行する。「埼玉用水路」を越えた直後の信号を左折し、用水路沿いに進むと、斜め右方向に曲がる道幅の狭い路地があり、その先に上川俣天神社の白い石製の鳥居が見えてくる。
        
                 上川俣天神社 一の鳥居
          とにかく長い参道で、朱色の二の鳥居が小さく見える。
 実は十数年前にこの社は参拝したことがある。当時筆者は業務の関係で、南羽生駅付近に勤務し、時折「道の駅 はにゅう」にも出入りしていた関係で、その南東に鎮座していたこの社の存在は知っていたので、今回参拝に当たって、大体のイメージはついていた。
 この社の大きな特徴は、社の規模に対して、230m程の長い参道が真っ直ぐに続いていることにある。石製の一の鳥居から130m程参道を進むと朱の両部鳥居である二の鳥居にたどり着くが、そこから尚100m歩かなければ社殿に到着することができない。社の規模を考えると、この長い参道は普通ではない。
 苦労した点はまだある。社の場所は特定できたのだが、周辺に適当な駐車スペースが全くないことだ。確かに社に隣接して「上川俣地区集会所」があり、当初国道からのアプローチにて、北方向から試してみたのだが、集会所まで、車一台がやっとの道幅しかない路地を通らなければならず、結局そこから進むことを諦め、南側の埼玉用水路沿いから社に通じる路地を右折して臨んだ。やはりここも道幅は狭いのだが、そのまま直進して、二の鳥居近郊にあるごみ集積場付近の広い空間に駐車させてから、やっと参拝を開始することができた。ただし、そこから一旦東方向にある一の鳥居に戻らなければならず、また一苦労である。
 
  一の鳥居から僅かに見える二の鳥居        二の鳥居の前には神橋もある。
 羽生市上川俣地域は、東武伊勢崎線の西側、利根川南岸の自然堤防上に位置しており、写真を見て分かる通り、豊かな水田地帯である。
 この地には昔「藤原姓佐野氏流」から出た「川俣氏」が出ている。
『田原族譜』「佐野実綱(弘安九年没)―戸室七郎四郎親綱―重行―重正―出羽守親久(武州埼玉郡騎西城主)―親元―親邦―川俣左京進親義(川俣祖)」
        
             主を基調とした両部鳥居の二の鳥居
 一の鳥居の社号額には「天神社」と刻印されているが、この二の鳥居の社号額には「正一位 雷電宮 天満宮」と記されている。元々この社は住吉社・八幡社・天神社・白山社・愛宕社の五社に分かれていたが、慶安二年(1650)に統合して「天神社」という名称となったという。
        
            二の鳥居を過ぎて、また再度参道を進む。
    参拝日は夏本番の晴天。この地に立っているだけでも汗が全身に噴出す陽気。
        
                参道途中に設置されている「作詞家 関口義明先生の顕彰碑」
 関口義明氏は、昭和15年羽生市上川俣で生まれで、地元・川俣中学を出て羽生実業高等学校を卒業後、県内の銀行に勤務。その傍ら作詞に興味を持ち、ざっち「家の光」に投稿したところ一位に入賞し、東芝レコードに採用されて、昭和三十九年(1964)作詞した「あゝ上野駅」が大ヒッ トした。
日本の高度経済成長期、集団就職列車が上野駅に到着した時の、就職者の気持ちを歌った「あゝ上野駅」は郷愁を誘う人生の応援歌として、今なお若い人にも愛され歌われている。
 氏は、作詞家人生の五十年で三百を超える詩を作り、数多くの歌手にその詩が歌われ、この詩に対する功績を讃え、顕彰碑を建立したという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上川俣村』
 上川俣村は元川俣村と一村の地なれば、すべてのこと前村(本川俣村)と異なるなし、民戸八十餘、東は本川俣村、南は桑崎村、西は小須賀・上新郷の二村にて、北は利根川を境として上野国邑樂郡梅原村なり、東西十三町、南北八九町、檢地は貞享四年甲府殿領知のとき糺せり、
 高札場 村の西にあり
 小名 寄居耕地 佐畑耕地 柳根 大門耕地
 利根川 北の境を流る、川幅三百間、水かさ増れるときは四百八十間に及べり、當村内にも龍藏川岸と云江戸運漕の河岸あり、川路二十六里、
 住吉社 〇八幡社 〇天神社 〇白山社 〇愛宕社
 以上村の鎭守なり、慶安二年五社合して、社領十五石五斗餘の御朱印を賜ふ、
 別當西照寺 新義眞言宗上羽生村正覺院末、住吉山淨土院と號す、本尊彌陀立像にて丈ニ尺三寸、運慶の作と云、
 大日堂 塔天神社 〇赤城社 二社共に西照寺持、
 
  拝殿の扁額には「天満宮」と記されている。            本 殿
 
  社殿左側に祀られている赤城大神の石碑     社殿右側に鎮座する境内社。詳細不明。
 
   境内右手方向に祀られている石碑群        並びに祀られている石碑等。左から愛宕社・
   左より住吉社、八幡社、武塔天神社    白山社、河伯水神・大杉明神、右側の社は不明。 
        
                  広々とした社の空間


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市自治会連合会だより」
    「境内碑文」等

 




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下村君鷲宮神社

 羽生市下村君地区には里帰りの神事が古くから伝えられている。

 羽生市下村君の鷲神社は、東国開拓の祖の天穂日命()をまつる。元は古墳の上に建てられたといひ、明治の末に横沼神社を合祀してゐる。横沼神社は、天穂日命の子孫の彦狭島(ひこさしま)王の子・御室別(みむろわけ)王の姫(娘)をまつった社で、父・彦狭島王をまつる樋遣川村の御室社へ、「お帰り」といふ里帰りの神事が行なはれてゐた。
 この村君の里に、文明十八年、京から道興准后が訪れて詠んだ歌がある。

 ○誰が世にか浮かれそめけん、朽ちはてぬその名もつらきむら君の里  道興

所在地     埼玉県羽生市下村君2227
主祭神
        天穂日命
社挌 例祭   不明

        
 鷲宮神社は久喜市鷲宮にある総本社を中心に周辺には数多くの同名の支社が存在する。羽生市下村君に鎮座する鷲宮神社も数多く存在する支社の一つである。永明寺古墳の西側で距離的にも非常に近い。また公民館が同じ敷地内にあり駐車場は非常に広い。
 社殿は南側でその正面には鳥居があるのだが、その一方東側にも朱を基調とした明神鳥居があり、その正面には永明寺古墳がある配置となっている。
             
                                                         東側にある明神鳥居
                                         左側が公民館で、正面右側に神社がある。
             
                                           拝殿 古墳の上に建てられているようだ。
                                    境内からは円筒埴輪や形象埴輪が出土している。
                             本殿覆屋              浅間社 この石祠も古墳上に鎮座しているのだろうか。

   御手洗の池の中に弁天社が祀られている。       境内の弁天社のそばには藤の古木があり、
                                           由来書が掲げてあった

鷲宮神社と古藤の由来
 鷲宮神社の御手洗の池に、市杵島姫命を祭る弁天社があります。このお宮は、七福神の一人弁才天と付会され、人々から厚く崇拝されてきました。池のほとりにある古藤は、弁天社の創建のころ植えたと伝えられ、明治十七年(1884)の記録に、数千年を経たもので風景すこぶる美観とあります。
 鷲宮神社(横沼神社を合社)は、祭神を天穂日命といい、古墳の上に建てられました。2142坪の境内地には、四個(他に一個出土している)の礎石があり、社殿がたてられていたことを物語っています。また、付近から鎌倉時代の屋根瓦の破片が出土しており、社殿の修理か造営が行われたものと思われます。横沼神社は、彦狭島王の子御室別王の姫を祭ったもので、樋遺川村の御室神社へ「お帰り」という里帰りの神事が、明治の末期まで行われてきました。由緒の深い神社です。ちなみに、村君の地名が文献に現れるのは、応永年間(1394~1427)で、文明十八年(1486)京都聖護院二十九代の住持を務めた
道興准向が村君の里を訪れ、「たか世にか 浮れそめけん 朽はてぬ 其名もつらき むら君の里」とよんでおります。荘厳な鷲宮神社や永明寺を拝し、古墳を訪ね、栄えていた村君の里をしのんで歌われたものです。現在、藤は羽生市の花として市民に親しまれています。
                                                             案内板より引用

 この道興准向は、永享2年(1430年) -大永7年(1527年))室町時代の僧侶で聖護院門跡。1465年(寛正6年)准三向宣下を受ける。道興は、左大臣近衛房嗣の子で、兄弟に近衛教基、近衛政家。京都聖護院門跡などをつとめ、その後、園城寺の長吏、熊野三山、新熊野社の検校も兼ねた後に大僧正に任じられた。
 文明18年(1486)の6月から約10か月間、聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国北陸路から関東へ入って武蔵国ほか関東各地をめぐり、駿河甲斐にも足をのばし、奥州松島までの旅を紀行文にまとめたのが、「廻国雑記」であり、すぐれた和歌や漢詩などを多く納めている人物だそうだ。
 そしてこの村君の地を訪れた時に詠んだ和歌が、冒頭に載せた歌である。
                      
 社殿の右側には明治四年村君全域より合祀された、稲荷神社、熊野神社、八幡神社、天神社、八雲神社が合殿で祀られている。

 

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