発戸鷲宮神社
日本神話において、天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、天日鷲神が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥(きっしょう)を表す鳥といって喜ばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。という内容である。後に平田篤胤は、神武天皇の戦の勝利に貢献した鳥と同一だと言及している。
『古語拾遺』によると、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。やはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となる。また、天富命は天日鷲神の孫を率いて粟国へと行き、穀・麻を植えた。
天日鷲神は一般にお酉様として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰されている。
・所在地 埼玉県羽生市発戸1653
・ご祭神 天日鷲命(推定)
・社 格 不明
・例祭等 不明
尾崎鷲宮神社より北東方向に伸びる用水路沿いに600m程進み、十字路を右折すると、すぐ右手に発戸鷲宮神社が見える。この二社は直線距離にしても700m程しか離れてなく、互いに近距離に位置している。
因みに「発戸」と書いて「ほっと」と読む。
発戸鷲宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「発戸村」の解説
[現在地名]羽生市発戸
利根川右岸の自然堤防上、上藤井村の北にある。「ほっと」は「陰」に通じ、奥深く入り込んだ地形をさすという(埼玉県地名誌)。現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九五)八月付棟札に「発戸道原明堤此郷何三分一」とみえ、同社領があった。田園簿によると幕府領、田高四一五石余・畑高六四二石余、ほかに野銭永九四文。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領で、宝永元年(一七〇四)上知(寛政重修諸家譜)。
一の鳥居の掲げてある社号額
一の鳥居に掲げられた社号額には、「鷲宮大明神 桑原大明神」と同列併記されていて、「新編武蔵風土記稿」には「桑原社」と記載がされ、むしろ「鷲明神」を後に合祀したような記載がされている。
『新編武蔵風土記稿 発戸村』
桑原社 祭神詳らかならず、鷲明神を合祀す、〇雷電社 〇日光權現社 〇湯殿權現社 〇天神社 〇稻荷社 以上觀乘院持、
参道の先にある二の鳥居 民家が立ち並ぶ中にありながら
落ち着いた雰囲気の漂う境内
昭和43年3月、発戸鷲明神社の西方の畑を田に改造するための土取り作業の際、地下70〜80㎝の深さから縄文時代の石器や土器が多数出土した。土器は浅鉢・深鉢・壺・注口土器など縄文時代後期・晩期を中心に中期・後期のものが混在している。また独鈷石・石棒・石皿破片・打製石斧などの石器類が出土している。「発戸遺跡」と呼ばれている。
中でも土面は、関東地方随一のもので、写実的に眉・目・鼻・口が表現され、目には玉がはめこまれていた形跡がある。目と口の周辺は赤く塗られ、頬(ほほ)には三叉の文様が描かれていて、顎(あご)には一条たどたどしい浅い沈線が刻まれている。この沈線は紐かけのすべり止めと考えられ、紐で額(ひたい)にゆわえたものと推察されている。
また遺跡の西限を通る道路は、遺跡の中心地と推測されている発戸鷲宮神社を囲むように半円を描いており、かつて地表にあった環状盛り土遺構を避けるように道筋が定まったものと考えられている。
*独鈷石(とっこいし)…縄文時代後・晩期の磨製石器。仏具の独鈷に似ているところからの名称。中央部はえぐれ、両端は斧状、つるはし状を呈する。はじめは実用具であったが、しだいに儀礼具化したと考えられる。
発戸地域は、利根川右岸の自然堤防上に位置し、縄文時代の遙か大昔から人々が生活を営んでいて、早くから開発がされてきた地域でもある。「発戸」という地域名の由来は上記『日本歴史地名大系』にて【「陰」に通じ、奥深く入り込んだ地形をさす】と記されているが、その淵源ははるか縄文時代に遡るかもしれない。
参道左側に祀られている境内社
左側より「八坂神社」「東照大権現・天満天神宮」「雷電神社」
拝 殿
創建時期、由来等は詳らかではない。特に『新編武蔵風土記稿』において「桑原社」、一の鳥居の社号額に表記されている「桑原大明神」における「桑原」という名称の由来は結局分からなかった。但しこの地域の開発の速さを証明する遺跡が、この社を起点としている所からみても、何かしらの伝承・伝説の類はありそうである。
境内にある「鷲宮神社 農業研 記念碑に並びにある石碑群。一番右側には、
修所建設記念碑」 国幣湯殿山・官幣月山・国幣羽黒山と刻まれている。
境内にある「発戸松原跡」の石碑
「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった」で始まる小説『田舎教師』。この作品は、実在の人物小林秀三が書き残した日記をもとに、田山花袋が丹念な取材を行って書き上げた小説で、登場人物はほぼ実在した人々である。明治30年代の羽生の自然や風物、人間模様が生き生きと描かれており、主人公林清三を中心にした小説として、また、明治期の郷土羽生の風景や人々を現代に伝える郷土資料と言える。小説から当時の面影を偲ぶことができる。
松原遠く日は暮れて 利根のながれのゆるやかに ながめ淋しき村里の 此処に一年かりの庵 はかなき恋も世も捨てヽ 願いもなくて唯一人 さびしく歌ふわがうたを あはれと聞かんすべもがな
嘗て利根川の堤防をたどると、発戸松原跡に碑が建っていた。この碑は令和3年11月、利根川堤防拡張工事のため発戸地内の鷲宮神社内に移設された。散歩好きだった小林秀三は、発戸、上村君、下村君あたりの堤をよく一人で散策していたという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉県埋蔵文化財調査事業報告書 第461集」
「羽生市HP」「精選版 日本国語大辞典」「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)」
「境内記念碑文」等