古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

須影愛宕神社、須影諏訪神社

 京都府京都市右京区にある愛宕神社は全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。現在 は「愛宕さん」とも呼ばれる。火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。
 有名なところでは、天正10年(1582年)5月、明智光秀は戦勝祈願のために愛宕神社に参蘢し、本能寺の織田信長を攻めるかどうかを占うため御神籤を引き、3度の凶の後、4度目に吉を引いたという。翌日、同神社で連歌の会(愛宕百韻)を催したが、その冒頭に詠んだ歌「時は今 あめが下しる 五月哉」は光秀の決意を秘めたものとされる。
 羽生市にも愛宕神社が数社存在し、この須影地区にも小規模ながら鎮座している。

所在地   埼玉県羽生市須影495付近
御祭神   火之迦具土神(かぐつち)(推定) ※[別記]火産霊神(ほむすびのみこと)   
社  挌   不明

        
 須影八幡神社から南へ歩いて行くと、須影公民館の南西で、羽生警察署 須影駐在所の西側に愛宕神社がある。こんもりとした小山の上にある本当に小さな社だ。一見古墳と思われるような印象を持つが、ネット等で調べても古墳ではないようで、おそらくこの塚は人工に盛ったものと思われる。思うにあたり一面の砂丘を利用し、土を盛ったようだ。
            
                愛宕神社正面。この社は一面の砂丘が非常に印象的。
 『風土記稿』には「(須影)八幡社 村の鎮守なり、慶安2年8月24日社領19石5斗余と賜ふ、別当真言宗蓮華寺」とある。別当最期の住職潮元は、安政4年から慶応元年まで8年の歳月を費やして、今日の本殿と拝殿を造営している。
(中略)
明治4年に村社となり、同40年には村内の白山社、愛宕社を合祀する。ただし愛宕社は災厄を恐れる旧氏子の要請により返還されて今はない。

 と書かれている。この愛宕社は村内と記載されている所から見てもこの須影愛宕神社ではないか、と思うがどうだろうか。

 
 須影愛宕神社の鎮座する須影地区一帯には「会の川」という河川が流れていた。この会の川は延長約18Kmの中川水系の普通河川で、羽生市上川俣付近を起点とし、旧忍領と旧羽生領の境界に沿って南下し、羽生市砂山で流路を東へ変えてからは、羽生市と加須市の境界に沿って流れる。最後は加須市南篠崎と大利根町北大桑の境界で、葛西用水路の右岸へ合流する。
 この会の川流域には日本でも大変珍しい内陸の河畔砂丘が存在する。会の川の流路に沿って自然堤防が発達しているが、その上には赤城おろし(冬の季節風)によって運ばれた砂が堆積し、砂丘を形成している。その中でも最も大きいのが、幅最大300m、延長3kmの志多見砂丘で、一部が埼玉県の自然環境保全地域に指定されている。
             
 近世以前の会の川は利根川の派川だったので、かつては相当な川幅と水量があったと思われ、しかもかなり老朽化した河川だったようで、沿線には広範囲に氾濫跡の自然堤防と内陸砂丘(自然堤防の上に砂が堆積した河畔砂丘)が分布している。利根川の土砂運搬作用と堆積作用、それと季節風によって形成された地形である。それらは羽生市と加須市の境界を流れる付近で顕著であり、特に内陸砂丘は羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見にかけて広範囲に分布している。

 この羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見地区の河畔砂丘は何時形成されたのだろうか。資料等の見解によると鎌倉時代にできたといわれている。というのも春日部市の浜川戸砂丘の砂の下から平安時代終わりの土器が出土しているのに対し、砂丘の上からは弘安6年(1283)と記された板石塔婆が出土している。
 したがって平安時代末から鎌倉時代前半に限定される可能性が高いといえる。しかしなぜ限られた時期に河畔砂丘が形成されたのかは今現在、正直なところ不明のようだ。

 須影愛宕神社は社自体は非常に小さい規模であるが、河畔砂丘という全国でも珍しい地形の上に鎮座していることを考慮して、今回特別に掲載した次第だ。


 須影愛宕神社の東側には須影諏訪神社が鎮座している。須影愛宕神社と同じ小高い山の頂上に祠の本殿がある。
所在地    埼玉県羽生市須影
御祭神    建御名方命(たけみなかた)(推定)
社挌、例祭 不明
             
 須影諏訪神社は小高い丘の上に鎮座しているので一見古墳か?と思ったが、須影愛宕神社同様、おそらく人口に盛ったものと思われる。小さな祠が山頂付近にあるだけなので案内板もなく、故に由緒等は不明。

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小松三神社

 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・ 平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って 累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。
 嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。ただ重盛は温厚・誠実な人柄で後白河院の信任も厚く、『平家物語』において平氏一門の良識派的な存在とされていることも、その人柄が後世に伝わっていたことによると思われる。
  清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。享年41歳。し、歴史のイフが許されるとして重盛が長生きしていたとしたら、平氏の歴史は違った形で存続していたのかも知れない。 重盛の死の2年後には父清盛が、さらに4年後には壇ノ浦にて平家は急転直下に滅亡することになる。
 ちなみに重盛は六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣と称された。

 羽生市小松地区は元々平氏の荘園があったとされ、それ所以か小松三神社は承安年間(1171~1175)小松内大臣重盛が当社に熊野白山両権現を勧請したのが始まりという。

所在地   埼玉県羽生市小松280
御祭神   伊弉諾命,伊弉冉命,小松大明神(小松内府平重盛公)
社  挌   旧郷社
例  祭   7月15日夏季例祭・7月31日大祓祭(輪くぐり)・11月23日献穀祭

       
 
 小松三神社は国道125号行田バイパスを東に進み、国道122号と合流する前の小松交差点を左折し、約500m北上すると左側に赤い立派な鳥居が見えてくる。よく見ると東向きの鳥居から真っ直ぐ進む道があり、南側に松林があるところから、この鳥居の前の道は嘗ては社の参道だったのだろう。
 鳥居の脇に駐車場があり、そこに停めて参拝を行った。
         
鳥居の先、右側には「郷社 小松神社」の古い社号標があり(写真左)、神社の北側には弁財天が祀られている。(写真右)
           
                 鳥居の扁額には「小松三神社」と表記されている。
    
 案内板によると、小松神社は、熊野白山合社と小松大明神を合わせて、小松三神社と呼ばれていたそうだ。新編武蔵風土記稿では、「羽生領七十二ヶ村の鎮守となり」と書かれ、この地方では信仰を集めていたらしい。
           
           
                              拝   殿
           
                              本殿覆屋
           
          本殿覆屋の中の本殿は、白山神社(左側)、熊野神社(右側)が並んで鎮座

 今を遡り、景行天皇の代(55年)日本武尊が東征の途次小祠を建立し、伊弉諾命・伊弉冉命に二柱を祀ったと言われ、承安年間(1171〜75)の小松内府・平重盛が没し埋葬地の目印に銀杏が植えられ、脇に小松大明神として祀られ、この時代に社殿が創建されたと伝えられている。
 天文5年(1536年)に、羽生城主・木戸忠朝と館林城主・広田直繁が奉納した「三宝荒神」が鎮座している。
 慶安元年(1648年)羽生領72町ヶ村の総鎮守となり、家内安全、商売繁盛、交通安全祈願まで多くの氏子から崇められている。
 また「新編武蔵風土記稿」小松村の項には「熊野白山合社 羽生領七十二ヶ村の鎮守なり、社領二十石は慶安元年七月十一日賜へり、勧請の年代を伝へされど、古は大社にて、宝蓮坊・安養坊・善林坊・宝珠坊・不動坊・山本坊・明見坊等の供僧ありしと云伝へ 以下略 末社 小松明神 重盛をまつりし社と云う、と記述されている。
           
                      社殿の北側に鎮座する小松大明神
 本殿内にある白山神社、熊野神社、そして小松大明神の三社で小松三社と称した。小松三神社内にある小松大明神の由来として、重盛が治承3年(1179)に没し、重臣の筑後守貞能は出家し、追善の為に小松寺を造営、遺骨は重盛が日ごろから崇拝し、自らが勧請した熊野白山両権現のそばに埋葬され、目印として銀杏を植え、脇に小松大明神が建立された。なお、小松と称する所は、当地に限らず下総・加賀・出羽の国々にもあり、それぞれに小松寺が建立されているが、これは小松内府重盛の霊を慰めるために造営されたものといわれる。
                 
                   小松大明神の脇にある小松三神社の銀杏
 平凡社「埼玉県の地名」によると、天和2年(1682)に鋳造されたと伝える銅鐘の銘文の写しが神社に残っているらしい。それには次のようなことが記されているという。
 承安年間(1171~75)、小松内府平重盛(たいらのしげもり)が当地に熊野・白山両権現を勧請、本地仏として阿弥陀如来・十一面観音を安置した。重盛没後、重臣筑後守平貞能が出家して小松寺を建立。重盛の遺骨は両権現のそばに埋葬して、目印のためにイチョウを植えたという。真偽の程は定かでないが、幹の太さといい、かなりの年代物の巨木であることは確かだ。

 小松三神社は嘗て羽生領72町ヶ村の総鎮守だった故に上記の弁天社他、境内には浅間社、日枝社、
伊奈利社等、多数の境内社、合祀社が存在する。
 
 
 

 羽生市を含む埼玉県の東部は、関東平野のほぼ中央部に位置し、利根川や中川にそって上流から妻沼低地、加須低地、中川低地と続き、低地に囲まれるように大宮台地が大きな島状にある。このうち加須低地は、利根川中流域の低地のひとつとして南の大宮台地と北の館林台地の間に位置している。
 ところが加須低地の場合、ほかの低地とは少々違う点があり、 ひとつは自然堤防と思われる微高地の地表のすぐ下からしばしばローム層が発見されることだ。通常低地の浅い部分の地下にローム層が存在することは一般では考えられないことで、しかもなぜか微高地の下にローム層があり、後背湿地の下からは見つからない。ふつう自然堤防と後背湿地の構造的な違いは表層部付近だけであり、地下はともに厚い沖積層が続くものといわれている。
 もうひとつは後背湿地と思われる部分の一部では軟弱な泥炭質の層が著しく厚いことだ。代表的なのは羽生市三田ヶ谷付近(現在さいたま水族館がある付近)で、泥炭質の層が10mもある。水はけが悪くぬかるため、縦横に溝を掘った堀上田と呼ばれるこの地域独特な田んぼがかつてはあちこちで見られた。

 さらに、昭和54(1979)年、羽生市小松では地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没していることが調査の結果判明した。また行田の埼玉古墳群や真名板高山古墳なども本来台地の上につくられたものが、2、3mの沖積層(古墳が築かれた後に堆積した土砂)で埋まっていることが明らかとなった。
  これらのことから、加須低地のすぐ下には台地が隠れている(俗に埋没台地という)ことが分かり、加須低地は沈んだ台地の上にできた特殊な低地だった。埋没台地の存在は加須低地を特長づけるもので、台地性微高地や谷地性低湿地は加須低地の特異な地形という。

 
 小松三神社周辺には嘗て小松古墳群が存在していたという。が、この利根川の乱流、氾濫による土砂の堆積と、関東造盆地運動と言われる沈降により現在は埋没古墳となり、地下2,3m掘らなければ発見できないという。実際にこの古墳の存在は、下水道工事で偶然発見されたのだ。小松埋没古墳は、完全に埋没しており、その形態が前方後円墳なのか円墳なのかもわかっていない。石室は地表から1.2mのところにあり、床面までは3mという深さだった。小松1号墳と命名、発掘調査が実施された。
 

  • 小松1号墳
    • 標高17.9m、地表下1.2mから主体部が発見された。主として角閃石安山岩を用いて構築され、奥壁まで胴張りがある複室構造の横穴式石室で、ほぼ南向きに開口している。石室の規模全長4.68m、高さ2m。床面には拳大の河原石が敷き詰められている。
    • 大刀2、鉄鏃2、瑪瑙製勾玉1、水晶製切子玉7、碧玉製管玉1、ガラス製丸玉6、滑石製臼玉1、ガラス製小玉121、耳環6が出土。このほか骨、歯、赤色顔料が確認されている。遺物は平成25年3月26日付けで羽生市有形文化財(考古資料)に指定された。

 石室の構造、副葬品の検討から7世紀前半の築造とみられる。

 古墳を埋めてしまう力が河川にはある。事実、真名板高山古墳は現状90.5mの中型古墳だが、築造当時は127mの埼玉地方でも二子山古墳に次ぐ大型古墳で、周囲には深さ2メートルもの二重堀が張り巡らされたのである。河川は大いなる災いを齎す破壊者でもあり、また平和時であれば人々に恵みをもたらす幸福の使者でもあった。

 それ故に河川を制する者は、土地をも制することが可能となる。埼玉古墳群の王者のように。



 


 

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須影八幡神社

所在地     埼玉県羽生市須影1568
主祭神         
誉田別命・菊理姫命・伊弉諾命・伊弉冉命
社  挌     旧村社
創  建      不詳


地図リンク
 国道125号行田バイパス砂山(東)交差点付近を左折し、道なりに真っ直ぐ直進すると左側に須影八幡神社が見える。平野部に鎮座する社としては比較的境内は広く、常に整備され綺麗である。専用駐車場はないが、駐車スペースは確保されている。今回は鳥居を挟んで道路の反対側にある駐車スペースに車を停めて参拝を行った。


 
                須影八幡神社拝殿
 「新編武蔵風土起稿」に「村の鎮守なり、慶安二年八月二十四日、社領十九万石石斗余を賜う」と記されており、別当(寺院が神社を管理していたこともある)として蓮華寺の名前も見える。その最後の住職であった潮元が、安政四年(1857年)から慶応元年(1865年)までの間に、現在の本殿と拝殿を造営したものだ。
 
              本殿壁面の見事な彫刻
 
               本殿 反対側より撮影

所在地       羽生市須影
彫師        3代石原常八
彫物製作年代  安政5年(1858年)
 新編武蔵風土記稿に「村の鎮守なり、慶安2年8月24日、社領19石5斗余を賜う」と記されており、別当として蓮華寺の名がある。その最後の住職だった潮元が、安政4年(1857年)から慶応元年(1865年)まで現在の本殿と拝殿を造営した。拝殿の棟札には、安政5年再造、棟梁は当所の清水仙松、三村若狭正利の名がある。三村家は市内本川俣で代々宮大工を世襲、上州雷電神社の造営にも携わった名家だ。彫刻は羽生市指定文化財になっている。
 本殿の西、北、東面羽目板には、「七福神、神功皇后縁起、大蛇退治、八幡宮地形つき」のテーマの彫物がある。八幡宮地形つきは、本殿建設工事の様子を表したもので、人々の表情がなんともいきいきとしている。テーマ的には他に類を見ないユニークなものだ。彫工は石原恒蔵主計(3代石原常八)。また拝殿棟札には市内下岩瀬の入江文治郎茂弘の名がある。
 
指定文化財 須影八幡社彫刻(彫刻 羽生市指定第26号 昭和44年3月20日)
 この八幡神社は。「新編武蔵風土記稿」に「村の鎮守なり、慶安二年八月二十四日、社領十九石五斗余を賜う、」と記されており、別当(寺院が神社を管理していたこともある)として蓮華寺の名前も見えます。その最後の住職であった潮元が、安政四年(1857年)から慶応元年(1865年)まで現在の本殿と拝殿を造営したものです。
 本殿の壁面には西、北、東の3面に彫刻が2つずつ残されています。西側は「七福神」、北側は「神功皇后縁起」、東側は「大蛇退治」と「八幡宮地形つき」を主題としています。「地形つき」は、本殿の建設工事の様子を表したもので、写実的に精巧に作られており、そこに出ている人は、本人に非常によく似ていたといわれています。
 棟札によりますと、拝殿は安政五年(1858年)に再造され、棟梁として当所の清水仙松や三村若狭正利の名前が見えます。三村家は市内本川俣で代々宮大工を世襲しており、市内常木の雷電神社や板倉町の雷電神社の造営に携わるなど著名です。彫工のなかには、市内下岩瀬の入江文治郎茂弘の名前も記されています。
 おのおのの彫刻の大きさは、縦1メートル、横2.1メートルです。
                                                    羽生市教育委員会
                                                      案内板より引用
 
   社殿奥にある境内社産泰神社と庚申塔               境内社 稲荷神社

 須影八幡神社が鎮座する羽生市須影地区は羽生市の南端に位置する。羽生市は古くから利根川の乱流の最も甚しい地帯で、自然堤防、河畔砂丘が存在し、一様な平坦でなく、高い部分を畑・宅地に使い、湿地を水田等に利用してきた。須影地区南方には利根川の旧流路の一つである会の川が流れているが、かつては相当な川幅と水量があったと思われ、しかもかなり老朽化した河川だった為に沿線には広範囲に氾濫跡の自然堤防と内陸砂丘(自然堤防の上に砂が堆積した河畔砂丘)が分布している。

 この河畔砂丘とは、利根川の土砂運搬作用と堆積作用、それと季節風によって形成された独特の地形であり、それらは羽生市と加須市の境界を流れる付近で顕著であり、特に内陸砂丘は羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見にかけて広範囲に分布している。とりわけ須影地区南方にある志多見砂丘は延長が3Kmにも及び大規模である。
 

 須影八幡神社の祭神に菊理姫命(ククリヒメノミコト)がいることも注目に値する。この菊理姫命は別名白山権現、白山明神、白山比咩(しらやまひめ)神と呼ばれているが、日本書紀では一箇所に登場するのみ。イザナミ、イザナギが夫婦喧嘩したときに仲裁したとしか書かれていない謎に包まれた国津神である。
 菊理姫神は、加賀の霊峰白山を御神体とする白山比売神社の祭神で、古来、人々から「いのちの親神」と崇敬されてきた女神である。 一説に白山神は大山祗神ではないかともいわれるように、菊理姫神はその本源として山の神の神格を持っている。 同時に山は神霊の宿るところ。 山は水源であり、その水泊だって水田を潤し穀物を実らせる。 それ故に農業の守護神としてそのパワーを発揮する神ということになる。

 前段にて伊弉冉尊に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、そこで伊弉冉尊と口論になる。そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言い、菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれを褒め、帰って行った、とある。菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない。この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。ケガレを払う神格ともされる。
 神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる。他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜り」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある。

 



 


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大天白神社

 羽生市は埼玉県の北東部に位置する人口約5万7千人の市である。都心から60km、さいたま市(浦和区)から40kmの距離にあり、東と南は加須市、西は行田市、北は利根川を隔てて群馬県に隣接している。主な交通機関は、東武伊勢崎線、秩父鉄道、東北自動車道羽生インターチェンジ、国道122号、国道125号がある。
  江戸時代末期以降、青縞(あおじま)の生産が行われ、現在も衣料の街で有名だ。市名の由来として、市内の神社にある懸仏に、天正18年(1950年)太田埴生庄との銘があり、埴(はに、赤土の意)が生(う、多いの意)であることを表しているといわれている。また埴輪(はにわ)がなまったものという説もある。
 
文字としては、「鎌倉大革紙」に、長尾景春が文明10年(西暦1478年)に羽生の峰に陣取ったことが記されている。 また、「小田原旧記」には、武州羽丹生城代中条出羽守との記載があり、埴生、羽生、羽丹生の三種が今まで用いられていた。(羽生市史上巻より)

所在地    埼玉県羽生市北2丁目8番13号
主祭神    大山祇命、大巳貴命、少彦名命
社  格    不明
由  緒    弘治三年(1557年)に羽生城主木戸伊豆守忠朝の夫人が安産祈願
         の為に勧請し創建。後に木戸氏と成田氏の合戦により焼失したが再
         建され、以来、安産・子育ての神として信仰されている。 
        
 地図リンク
  大天白神社は羽生市北2丁目、羽入市役所から北西方向に約2kmのところに鎮座する。神社までの経路は住宅の生活道路のような狭い道を入ってくるので、ナビがないとわかりにくい。神社と公園が隣接しており、一の鳥居の先にはは見た通り藤の棚が出迎えてくれた。ここは大天白公園と言って平成13年にリニューアルした藤棚の面積は770平方m。紫色と白色の藤あわせて60本が植えられているとのこと。

  この大天白神社は大山祇命を主祭神として、大己貴命、少彦名命を祀っている。『埼玉の神社』には、川に関係のある神社と思われるとあり、祭神は、『武蔵國郡村誌』には、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とあり、内陣にも倉稲魂命の御影掛け軸があるから、元は稲荷神を祀っていたのではないかというが詳細は不明だ。
  大己貴と少彦名とが祭神となっているのは、明治40年に、大字羽生字栃木にあった蔵王権現社を合祀した結果であり、大天白神は羽生城主木戸伊豆守忠朝の夫人が安産祈願のために、弘治元年(1555年)に勧請したという
  ちなみに藤は羽生市の花である。
  この藤棚は左側にカーブし、その先に大天白神社が正面に鎮座している。その反対側は駐車場で20~30台駐車可能。

  大天白(だいてんばく)神社
 
祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)を主神に大巳貴命(おほなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神である。
 この神社は、弘治三年(1557年)三月羽生城主木戸伊豆守忠朝の夫人が安産祈願のために勧請し創建されたと伝えられる。その後、上杉氏(木戸)と北条氏(成田)の数度の合戦により社殿は焼失したが、里人達の熱心な勧進によって再建された。
 以来、安産・子育ての神として信仰されており、毎年五月と十月に例大祭が開かれている。
                                                                                                      
昭和五十五年三月  埼玉県

               
                                                  拝       殿
                 
                           本       殿
                   県北に位置しながら、上毛地方特有の派手な様式でなく安心した。

  大天白あるいは天白を名とする神社は静岡県から愛知県、三重県に多く、名古屋市に天白区や天白川があることはよく知られている。天白神社については、農業神、旅の神など諸説があって、はっきりしたことはわからないらしいが、一説によれば、縄文時代から続く土着系信仰ではないかという、
 ただ正直天白神とはなにか、これがまた正体がよく判らない。海や川を鎮める神(水神?)であったり、星の神であったり養蚕・織物の神であったり、他にも天津ミカ星やミシャグシ神とも関連があったりと謎だらけの神だ。


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