古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下中条治子神社


        
             
・所在地 埼玉県行田市下中条1665
             
・ご祭神 天手長雄命
             
・社 格 下中條村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例大祭(下中条の獅子舞) 818日に近い日曜日
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1892365,139.4645613,15.42z?hl=ja&entry=ttu
 須賀熊野神社から埼玉県道59号羽生妻沼線を西行し、「利根大堰」交差点を直進し、400m程進んだ右側に鎮座している。以前はここより150m程西にあったが、利根川堤防拡張工事の関係で移設を行なったようで、社殿や社務所も新たに建てられたようだ。白木の美しい社務所の南側には十数台駐車可能なスペースも確保されている。
        
                 下中条治子神社正面
 美しい社。移設に伴い、社殿や社務所、手水舎等の施設は勿論の事、境内全体も新しく整備したようで、見た目も綺麗である。境内周囲にある社叢林もなく、若い木々である。何より遠目から見ても白木の社殿の美しさには、我々日本人の美的感覚を擽(くすぐ)られ、恥ずかしながら、一時時が止まったかのように暫く見とれてしまった。
 勿論人の手による人工的な建造物であることは違いないのだが、今流行りの近代的な建物に比べると、木本来の美しさを日本人技術者(職人)が熟知し、加工を加えることにより、日本独特の木造建造物を創り出したと言えよう。思えば、日本全国に鎮座する数万社ともいわれる神社も、創建当時はこのような美しさであったのだ。
 
それと同時に社の創建に伴う、現実的な予算は如何ばかりであったろう。地方自治体の補助金だけでなく、地域の氏子・総代・地域住民等からの志(こころざし・寄付金)も決して少なくはなかったはずで、社の移転が決まり、完成に至るまでの経緯やそれまでの苦労を思うと、頭が下がる思いだ。
 鳥居正面に立ち、ふとそのような取り留めのないことを考えてしまった次第だ。
        
             石製の白い鳥居が盛暑の空に一際目立つ。
            利根川堤防が東西に広がる地に社は鎮座する。
『日本歴史地名大系』 「下中条村」の解説
 [現在地名]行田市下中条
 北は利根川に接し、南は斎条(さいじよう)村、東は見沼代用水を隔てて須賀(すか)村。荒川扇状地末端約五キロ平方にわたり、地下一メートルの所に埋没している古代条里遺構の西端に上中条村(現熊谷市)があり、東端に当村が位置していると解されている。縄文時代後期および古墳時代の集落遺跡がある。古くは幡羅(はら)郡の東端であったとする説がある。
 天正一九年(一五九一)六月松平家忠が一万石を宛行われたが、このうちに「下中条村」の三一七石余も含まれた(「伊奈忠次知行書立」長崎県片山家文書)。
        
        新しく造られた事もあり、参道や境内も綺麗に整備されている。
        一対の狛犬は昔からのもののようで、新しい台座の上に立っている。 
『新編武蔵風土記稿』によれば「天手長雄命」がご祭神として祀られているとの記載がある。天手長雄神は知る人ぞ知る壱岐国一宮の天手長雄神社のご祭神で、正式名は「天手力雄命」。この神は埼玉県、特に北部に多く祀られている神であり、どのような経緯で武蔵国まで伝搬したか、いつかは考察したい神である。一方、『埼玉県の神社』では「治由保大神(ちゆほのおおかみ)」、『ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々』では、天照大神の末子である「治子大明神」がご祭神となっている
 また社の名称「治子」も行田HPによれば「はるこ」と読んでいるが、「八百万の神HP」「神社人HP」では「じこ」、又は「ちこ」と訓よみされている場合もあり、正式な名称はハッキリとは分からない。
 どちらにしろ、どことなく不思議な香りが漂う社である。
        
          鳥居を過ぎて参道を進むと、右手に設置されている「治子神社改築記念碑」
        
           記念碑の並びには境内社・浅間神社が鎮座する。
 塚上には「御嶽神社」「角行霊神・食行霊神」「亀岩八大龍神」等多くの石碑が祭られている。
 
 これも新調した手水舎。参道の右側にあり。    境内社・浅間神社の並びにある石碑・石祠群
   手水舎の奥には「宝物殿」が見える。   石祠には「不士山・水天宮・大黒天・庚申塔」等あり
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下中條村』
 冶子明神社 村の鎭守なり、祭神は天手長雄命と云、
 別當金藏院 小角山と號す、本山修驗、幸手不動院配下、開山秀範慶長十一年十一月化す、

       本尊不動を安ず、
『ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々より』
 治子神社(下中条)
 言い伝えによると、忍城主の成田氏が城の鎮守神として治子神社を祭ったとも、また、室町時代の応永八年に鎌倉から遷座したともいわれています。
 祭神は、天照大神の末子治子大明神とも、天手長雄命ともいわれていますが、神社と寺が一緒であった時代の別当金蔵院は修験であり、その影響で当社の内陣には木造の聖観音像が祭られています。
 当社と隣接する興徳寺を中心に「下中条の獅子舞」が残されています。十八世紀後半の天明年間に利根川の洪水があり、獅子頭が漂着したので神前に奉納し獅子舞を舞ったのが始まりといいます。
 災難から村を守る厄神除けや四方固めのほか八月十八日の治子神社の例大祭(今日ではこれに近い日曜日)には神社と興徳寺で獅子舞が奉納されます。
 弓、花、笹、注連、鐘巻など奉納される多くの演目の中で、特に鐘巻は北埼玉地方に残されている演目であり、鐘の中の大蛇を獅子が退治する内容で、歌舞伎でおなじみの娘道成寺を題材にしたものです。
 さらに下中条の獅子舞の大きな特色は、棒術(棒剣道)が獅子舞と一緒に残されていることにあり、昭和五五年埼玉県指定民俗文化財に指定されました。
       
                                    本 殿
 ところで、下中条地域の獅子舞は、「下中條の獅子舞」ともよばれ、市内下中条地区に伝わる民俗芸能で、現在は下中条獅子舞保存会が保存・継承し、治子神社(はるこじんじゃ)、興徳寺(こうとくじ)を中心に奉納されているという。

             社殿左側に祭られている合祀社(写真左)・境内社(同右)
 左側の合祀社は、左から諏訪神社 八坂神社 稲荷神社 天神社 白山神社が祀られている。
合祀社のすぐ右手並びには、境内社・神明社が鎮座。神明社の左には「水神」「?」の石祠がある。
       
        社殿右手奥に祀られている「御嶽山大神・八海山大神・三笠山大神」等の石碑群
 他には「蚕影山、豊受大神・富士嶽神社・愛宕大明神・稲荷大明神」等の石碑が祭られている。
       
                                 社殿からの風景

「下中條の獅子舞」の起源については不詳ですが、言い伝えでは天明年間(17811789)の利根川大洪水の時に獅子頭が漂着し、これを神前に奉納して始まったと言われています。また、慶長5年(1598)に鎌倉の長谷から移住してきた長谷川家が下中条村を拓いた時から始まったとも言われていますが、その目的は厄除け、尚武のためと言われます。
 弓、花、笹、注連、鐘巻(かねまき)などの演目の中で、特に鐘巻は北埼玉地方に残されている演目であり、鐘の中の大蛇を獅子が退治する内容で、歌舞伎でおなじみの娘道成寺を題材にしています。また、下中条の獅子舞の大きな特色は、棒術(棒剣道)が獅子舞と一緒に残されていることにあります。
 現在は災難から村を守る厄神除けや四方固めのほか818日(現在はこれに近い土曜日)の治子神社の例大祭に演じられています。
 区分 県指定民俗文化財
 種別 無形民俗文化財
 所在地 行田市下中条
 形態 三匹獅子舞
 指定年月日 昭和55329
                                  「行田市 
HP
」より引用


        
      下中条治子神社から南西方向(直線距離にして250m程)に愛宕神社が鎮座している。
 創建時期等は不明。『新編武蔵風土記稿』でも「「愛宕社 太神宮 神明社 以上三社、金藏院持、」としか記載がない。
 
         社 殿          鳥居の右手に銀杏の巨木が聳え立つ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々より」
    「行田市 HP」等
   

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堤根伊奈利神社天神社合殿・樋上天満天神社

堤根伊奈利神社天神社合殿
        
               
・所在地 埼玉県行田市堤根742
               
・ご祭神 倉稲魂命 菅原道真公
               
・社 格 旧堤根村鎮守
               
・例祭等 初午祭 3月初午 獅子祭 75日 例大祭 828
                                        大祓 1224
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1119305,139.4734587,17.25z?hl=ja&entry=ttu
 鴻巣市旧吹上町内の下忍愛宕神社から埼玉県道148号騎西鴻巣線を北東方向に進み、新忍川を過ぎて最初の信号のある十字路を左折、200m程北上すると進行方向右手に堤根伊奈利神社天神社合殿が鎮座する場所に到着する。但し社が鎮座している場所から道路はやや離れていて、丁度民家が数件建っているので、やや目視しづらい場所にはある。
 社の北隣には「堤根農村センター」があり、その脇には駐車可能なスペースもあるので、そこに停めてから参拝を行う。
 渡柳常世岐姫神社とは南北に流れる武蔵水路を挟んで北西方向、直線距離にして700m程で、比較的近い位置関係にある。
        
                             
堤根伊奈利神社天神社合殿正面
『日本歴史地名大系』 「堤根村」の解説
 北から東へは渡柳村、北から西は樋上(ひのうえ)村、南は袋村(現吹上町)。古墳時代後期の円墳と集落遺跡がある。「風土記稿」は編纂当時、当村の属した郷庄名が不明であり、慶長一三年(一六〇八)の検地帳に「向箕田郷ノ内忍領堤根村」と書かれたものがあったので、古くは足立郡であったかとする。
 村の西側にある古堤は天正一八年(一五九〇)石田三成が忍城を水攻めにした堤で、それが村名になった(風土記稿)。三成は「樋上邑・堤根村ヘ新堤ヲ築、袋・鎌塚・門井・棚田・大井村ノ古堤ヘ築合」(武蔵志)したという。石田堤として県の史跡に指定される。
        
『新編武蔵風土記稿 堤根村』には村名の由来として、「
村内の西方に古堤あり、袋村より起り樋上村に續けり、此堤は天正十八年石田三成忍城を水責にせんと、久下堤を切て荒川の水を堰入し時、新に築し所なりと云、後この堤の下に村落をなせし故、たゞちに村名とせり」と記されていて、石田三成が忍城を水攻めにした際の「堤」下に集落が形成され、その「堤下」が「堤根」に名称が転訛したという。
        
                              石段上に鎮座する拝殿覆屋
 周辺は元荒川流域周辺の低地帯であり、洪水対策の為の盛り土上に鎮座しているのであろう。

『新編武蔵風土記稿 堤根村』
 稻荷社二宇 一は本村にあり、一は新田にあり。共に鎭守とす。永徳寺の持、
   
 伊奈利神社
 当社は、往古より堤根の鎮守として祀られている。「明細帳」によれば、元禄期に堤根村が本村と新田に分かれたことにより、当社もまた両村に分かれ、本村のものは本田鎮守、新田のものは新田鎮守と称して祀られていたという。共に永徳寺を別当とし、享保1032日に神祇管領兼敏より正一位に叙され、この時贈られた神位の入った神璽筈は現在も両社に祀られている。
 明治初めの神仏分離によって永徳寺の管掌から離れたため、創建以来永徳寺の境内にあった本田鎮守を新田鎮守の境内に移し、新たに覆屋を造り、その中に両社の本殿を納め、今日の形となった。本殿は両社とも同一のもので、享保2年に建築された一間社流造りである。
 また、覆屋の中にはこの両社のほかに、天神社がある。この天神社は享保2年に、伊奈利神社の新築を契機に合祀されたものというが、資料を欠くため、元はどこにあったのかは不明である。
 現在、境内に樹木は少ないが、かつては鞍・櫓の大木が鬱蒼と茂っていた。しかし、昭和23年の永徳寺新築の際、これらの樹木を資材として提供し、その後植林した樹木も相次ぐ台風で倒れてしまったため、往時の面影はない。昭和53
年、境内地を利用した堤根農民センターの建設に伴い、境内の整備が行われ現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
 石段を上った境内左側で、狛犬の右手には塞神の石碑がある(写真左)。またその石飛の右並びには、石碑二基(宇賀神・塞神、塞神)を祀っている屋根付きの「囲」、その隣には境内社がある(同右)。境内社の詳細は不明。

 塞神は、日本の民間信仰における神の一つ。村や部落の境にあって、他から侵入するものを防ぐ神という。別名「岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)」といい、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。
        
                       社殿から見た参道周辺の風景


樋上天満天神社
        
              ・所在地 埼玉県行田市樋上187
              ・ご祭神 菅原道真公
              ・社 格 旧樋上村鎮守
              ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1181384,139.4717502,17.33z?hl=ja&entry=ttu
 堤根伊奈利神社天神社合殿から南北に通じる道路を450m程北上すると、樋上天満天神社に到着する。『新編武蔵風土記稿 樋上村』においても、「正保の頃堤根村と一村なりしに、元祿の改めに分て二村とせり、されば領主の遷替、檢地の年代、用水等凡て堤根村に同じ」と記載され、元禄年間(16881704)前までは堤根村と一村であったという。
 それにしても昔から日本人は記録を小まめに残す几帳面な民族であったことが、このような文書一つ取ってみても分かる。そのおかげで、現代に生きる我々にも、祖先が辿った歴史の原風景が少しは分かるので大変ありがたい。
        
              道路沿いに鎮座する樋上天満天神社
『日本歴史地名大系 』「樋上村」の解説
 北は佐間村、西は下忍村、南は堤根村に接している。村域には古墳・方形周溝墓を含む集落跡の鴻池(こうち)・武良内(むらうち)の二遺跡がある。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に「堤根樋上」とみえ、幕府領で役高九一七石余。同一六年忍藩領となり、幕末まで変わらず。田園簿によると「樋上堤根村」の村高は高辻帳と同じ、反別は田方六九町二反余・畑方三五町二反余。元禄郷帳では樋上・堤根・堤根新田の三村に分けられ、いずれも三〇五石余に三等分されている。

 行田市下忍・樋上地域には、「高畑遺跡・武良内遺跡・鴻池遺跡」と呼ばれる古墳時代前期の遺跡が発掘されている。国道17号バイパスの建設に伴って昭和50年(1975)から翌年にかけて発掘された。北から南に三遺跡は並び、この順に調査は行われた。高畑遺跡は微高地上に立地し、古墳時代前期の住居跡や方形周溝墓などが発掘されている。武良内遺跡は忍川に接した自然堤防上に立地し、古墳時代前期の住居跡、方形周溝墓、埴輪をもつ古墳跡などが発掘されていて、早くから人の手による開発が進められた地であることが分かる。
        
                    拝殿覆屋
『新編武蔵風土記稿』
 天神社 村内の守なり、寶珠院持、

 天満天神社
 樋上の地名は、用水の樋に由来するというが詳細は不明である。地内に古墳後期の集落遺跡がある。
 社記に「慶長十三申年十二月本村検地帳二天神前或ハ天神後、天神キワト載セタリ然レバコレ以前ノ勧請ナルべシ」とある。
 また、口碑に「樋上天神社は、寛永年中家数も少なかった氏子が厚い信仰心から、高いお金を出し合って造ったもの」とあり、昭和52年に本殿覆屋の屋根替えをした時、寛永と宝暦の年紀がある棟札が見つかった。その後、棟札は再び棟に納められている。
「風土記稿」に「天神社 村内の鎮守なり、宝珠院持」とあり、真言宗宝珠院が別当であったことが知られる。
 本殿の床板は張られていない。これは当地が日光街道聖裏街道に当たり博徒の往来が多く、氏子もこの影響を受け当社に集まっては博打をした名残である。本殿は手入れを受けた時の逃連用抜け穴の入日であった。幣芯を失った金幣が、穴の上に一枚の板を置いて祀ってある。
 本殿前に置かれた石製の牛像一対は「享和元年酉五月吉日」の銘があり、佳作である。
 境内社に、大己貴命を祀ると伝えられる松社と、少彦名命を祀るという梅社があるが由緒は不詳である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
        境内社・梅社               境内社・松社 
       
                          境内東側隅にある石碑等


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」等
       

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野氷川神社・野久伊豆神社

 野氷川神社
        
              
・所在地 埼玉県行田市野8851
              
・ご祭神 素盞嗚尊
              
・社 格 旧野村鎮守
              ・
例祭等 10月第4日曜日 野の獅子舞
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1049547,139.4912071,16.25z?hl=ja&entry=ttu
 前玉神社正面鳥居前の埼玉県道77号行田蓮田線、通称「古墳通り」を鴻巣市方向に進行し、2.6㎞程先にある十字路を右折し暫く進むと、正面に野氷川神社の社殿が見えてくる。但しよく見ると社殿は背を向けているので、右回り方向に迂回して正面鳥居方向に進まなければならない。
 正面の鳥居がある右側には「野文化センター」があり、参道とセンターの間は大きな広場になっていて駐車可能なスペースは十分にある。そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                    野氷川神社正面
 野地域は行田市南部に位置し、鴻巣市と境を接している。この「野」という名前の由来は、『新編武蔵風土記稿』によると、「慶長年中(15961615)広野を開発したことに由来する」と伝えている。
 野氷川神社の創建年代は不詳だが、境内碑文によると天文年間に荒川が氾濫しないよう願い氷川様を勧請して創建したと伝えられ、野村原組の鎮守社であったという。明治41年には、野村に鎮座していた他の天神社(野天満大自在天神)・八幡社・新明社(野神明社)・諏訪神社を合祀、野村の鎮守となったという。
        
                   参道の様子
        
                    拝 殿
 野地域の伝統芸能として、行田市指定民俗文化財・無形民俗文化財(指定年月日:平成21730日)に「野の獅子舞」が奉納されている。
「行田市HP」
 野のささら獅子舞は市内野地区に伝わる民俗芸能で、現在は野村ささら獅子舞保存会が保存・継承し、五穀豊穣、疫病退散、天下泰平、家内安全を祈願して、久伊豆神社、諏訪神社、聖天様(満願寺)、氷川神社などに奉納されています。
 起源については不詳ですが、確認されている最も古い記録には、諏訪大明神の「祭礼入用覚帳」の中で江戸時代後半の文政4年(1821)に「簓(ささら)」という言葉が記載されており、言い伝えでは約300年位前から始まったと言われています。
 獅子は太夫獅子(だゆうじし)、雄獅子(おじし)、雌獅子(めじし)の三匹獅子舞で、他に先達(法螺貝)、幣束、万灯、面化(めんか)、歌、笛、獅子、花籠(はなかご)などで構成されています。
 ひとり立ち3頭のささら獅子舞とよばれ、獅子は腹に太鼓を結わえて叩きながら舞い、そこに4人の花籠がささらを持って舞いに加わります。曲目は「雌獅子隠し(めじしかくし)」で、3頭の獅子が花籠の周りを舞っているうちに雌獅子が隠れてしまいます。太夫獅子と雄獅子が探し回り、一方が先に見つけて楽しく遊び始めます。それを見た一方の獅子が怒って争いを始めるという筋書きです。一曲形式で勇壮な舞に特色があります。
 現在は10月下旬(第4
日曜日)に実施されています。
        
                拝殿の手前にある「力石」
 
                             本 殿             社殿左側に設置されている石碑。                  
 氷川神社
 当地は元荒川の左岸に広がる農業地帯である。この元荒川は寛永六年に関東郡代伊奈半十郎忠道が河川改修を行うまでは、荒川の本流であった。それまでの荒川といえば、その名が示す通りの暴れ川で、四年に一度は必ず氾濫していたといわれている。そこで、こうした度々の災害に困窮した村人たちが川の神様であるという氷川様を祀り、川が荒れないように願ったのが当社の創建であると伝えられ、境内にある「氷川神社の碑」の碑文によると、それは天文年間のこととされている。祭神は素盞嗚尊で、本殿は「風土記稿」に載る「元和二年再建」のものと思われ、美しい彫刻が施されている。
 当社は元来、野村全体の鎮守ではなく、その一耕地である原組の鎮守であり、ほかの耕地では各々の鎮守を祀っていた。ところが、明治四一年の合祀により、周りの耕地の鎮守であった天神社・八幡社・新明社・諏訪神社を合祀したことから、村鎮守として祀られるようになった。ただし、合祀した諸社の社殿はそのまま旧地に残され、今もそれぞれの耕地の人々の手で祭りが続けられている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
             社殿の右側奥にある石碑群(写真左・右)
        
                                  社殿からの一風景

 野久伊豆神社
        
               ・所在地 埼玉県行田市野647
               ・ご祭神 大己貴命
               ・社 格 不明
               ・例祭等 10月第4日曜日 野の獅子舞
        野氷川神社から南方400m程の場所に鎮座している野久伊豆神社。
        
                   境内の様子
『日本歴史地名大系』 「野村」の解説
 北は埼玉・利田(かがた)・渡柳・堤根(つつみね)の四村、南は元荒川を隔てて足立郡川面(かわづら)・箕田(みだの)両村(現鴻巣市)。洪積層微高地上にあり、地域内に縄文・古墳時代の集落遺跡が数ヵ所残る。地名は慶長年中(一五九六〜一六一五)広野を開発したことに由来すると伝えるが(風土記稿)、村内の正覚寺・満願寺とも開山は戦国期の僧であり、また満願寺には元亨四年(一三二四)建立の板碑がある。
 寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高六五七石余で、かつて忍おし城番であった旗本高木領。田園簿によれば田高四三〇石余・畑高五五四石余。
        
                                      拝 殿
 久伊豆神社
「風土記稿」によれば、当地は元は広い野原であったが、慶長年間開発し、野村と称したという。
 当社は天台宗正覚寺持であり、村鎮守は氷川社で、これも正覚寺持、元和二年の棟札が残っている。
 当地は、市の最東南端に当たり、戦国期は忍・騎西・岩槻など度々領有が変わり、戦の度に被害を受けた。よって、忍の殿様は戦に備えて、道を迷路のように屈曲させたと伝えられ、当時の記録を失った現在では、この迷路のような道が、唯一往時をしのばせるものとなっている。
 文久二年四月二五日付けで、伯家から正一位久伊豆大明神の神階を受けている。
 祭神は大己貴命であり、祭神について口碑はせっつぁま(久伊豆様)の鎮まる所を中耕地という。これはせっつぁまが情け深く、人の面倒みのよい神様で、そのお蔭で今まで耕地内でもめごとが起こったことがなく、仲がよい耕地ということで中耕地と呼ぶという。また中耕地の旦那寺満願寺は、妻沼聖天様の本家で仲がよい仏様であるから名付けられたともいう。
 拝殿を兼ねた覆屋の中に、一間社流造りの本殿と末社雷電社がある。
                                   「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」によると、「戦国期は忍・騎西・岩槻など度々領有が変わり、戦の度に被害を受けた。よって、忍の殿様は戦に備えて、道を迷路のように屈曲させた」と記載され、実際地図を確認すると、野地域自体、円形の集落を成していて、その中心部に野久伊豆神社は位置している。
 確かに、埼玉の神社が解説したことも一因として考えられるが、この地は嘗て荒川本流が幾重にも乱流していた地域であったことは忘れてはいけない。この地形を鑑みれば、荒川氾濫後にできた自然堤防を道として人々は利用し、それが後に、忍城の防御線として、道を迷路のように屈曲させたのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田市HP」等
  

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渡柳常世岐姫神社

 豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した天正18年(1590年)の戦いの中で、616日から716日にかけて武蔵国の忍城(現在の埼玉県行田市)を巡って発生した戦いがあった。この戦いは「忍城の水攻め」といわれ、「備中高松城の戦い」「太田城の戦い」と共に日本三大水攻めのひとつに数えられている。
 75日、小田原城が降伏・開城し後北条氏は滅亡、他の北条方の支城もことごとく落とされながらも、忍城のみは頑強に抵抗し、後北条方で唯一落とせなかった城であった。結局忍城当主である成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に降伏を勧めたので、遂に716日、忍城は開城したという。
 ところで、行田市渡柳地域には「石田陣屋」と称する陣屋跡がある。石田三成が布陣し、指揮をとった場所は丸墓山古墳といわれている。実際丸墓山古墳上からの見晴らしは良く、作戦を練るには古墳に登上して周囲を見渡す必要があったであろうが、実際の起居や会議等は谷戸に面した僅かな比高差の段丘面であるこちらの陣屋で行われていたのであろう。残念ながら現在遺構らしきものはなく、墓地となっている。
 この大規模な合戦の指揮を執ったであろう「石田陣屋」南方近郊に、渡柳常世岐姫神社は厳かに、そしてひっそりと鎮座している。
        
              
・所在地 埼玉県行田市渡柳1479
              
・ご祭神 常世岐姫命
              
・社 格 旧渡柳村鎮守・旧村社
              
・例祭等
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.120235,139.4786955,16.75z?hl=ja&entry=ttu
 前玉神社から400m程南方の洪積層微高地上に鎮座している渡柳常世岐姫神社。この地域は、北側から東側にかけては埼玉(さきたま)地域に接し、埼玉古墳群地帯にかかっていて、前方後円墳三、奈良・平安期集落三群の遺跡がある歴史的にも早くから開発がされていた地である。
 常世岐姫神社は、燕王公孫淵の末裔を称する渡来系氏族赤染氏の一族が大阪の八尾市に祀った社が本宮とされ、渡柳地域のこの社は、行田市荒木地域に鎮座する荒木常世岐姫神社を勧請したものとされている。
        
                 渡柳常世岐姫神社正面
『新編武蔵風土記稿 渡柳村』
 渡柳村は江戸より十五里、民戸六十餘、四境東は和田村、南は袋新田、西は堤根・佐間の二村、北は埼玉村なり、東西廿五町、南北廿町、成田用水を引用ゆ、寛永正保の頃御料所の外阿部豊後守・芝山權左衛門・佐久間久七郎等の采邑なりしに、元禄十一年村内一圓阿部豊後守に賜はり、今子孫鐵丸に至れり、檢地は元禄十二年時の領主阿部氏にて糺せり、
 
   参道右側には塞神二基祀られている。      一直線に進む参道。社叢林の先に社殿は建つ。

嘗てこの地域には、地域名を冠した「渡柳氏」がさりげなく歴史の舞台に登場している。
・『平家物語巻第九、三草勢揃(みくさせいぞろへ)
「搦手(からめて)の大将軍は九郎御曹司義経、相伴(あひともな)ふ人々、渡柳弥五郎清忠」
・『源平盛衰記 寿永21183)年111日 木曾左馬頭義仲の追討軍』
「大手大将軍 蒲冠者範頼 相従輩・武田太郎信義等 大手侍 渡柳弥五郎清忠等」
 この渡柳弥五郎清忠という人物は、平家物語において畠山重忠等同様に、出兵した武士の一員として記載されていることから、当時渡柳地域のみならず、多くの狩猟を持つ武将であったと考えられる。
『新編武蔵風土記稿 渡柳村』には、この人物に関して以下の記載がある。
小名 陣場
村の西を云、天正十八年石田治部少輔三成、忍城を責し時、本陣とせし所なり、こヽに陳場の松とて大木ありしが、天明年中枯たりと云、又此邊に塚九つあり、是は石田三成忍城責の時、渡柳の地へ本陣をすゑ、城に向て伏椀の如くなる塚歎多築き仕寄となすと傳るは、此塚のことなり、其内戸場口山と呼塚あり、此塚の中より近き頃石棺を掘出せり、其中に九尺程の野太刀あり、今村内本性寺に納め置り、土人の話にこは當所に住せし渡柳彌五郎といへる人を、葬たる塚ならんといへり、成田分限帳に十八貫文渡柳將監と見えしは、在名をもて名とせしものにて、彼彌五郎の子孫ならんか、さあらば三成が築きし以前よりありし古塚なることしらる、
 八王子社 村の鎭守なり
 末社 八幡、渡柳彌五郎が靈を祀れる由、彌五郎八幡と稱す
 〇八幡社 〇諏訪社 〇稻荷社 〇二ツ宮 以上萬法院持
 〇神明社 〇天神社 以上長福寺持
        
         参道の先には高台があり、その高台上に社殿は鎮座している。
        
                    拝 殿
                     
                    境内に設置されている「御由緒」の碑
               村社 常世岐姫神社 御由緒           
                     由緒

        創立ノ年度詳ナラズ往古ヨリ村鎭守八王子大權現ト唱フ其他口
        碑ニダモ傳ハラズ現在ノ社殿ハ文政九年四月村内有志ノ醵金ヲ
        以テ再建ス其ノ後明治二年五月村社常世岐姫神社ト改称ス同六
        年中村社二申立濟 明治四十二年十二月十八日字久保無各社諏
        訪神社字内郷無各社天神社同字無各社伊奈利社字舟原無各社洗
        磯前神社字久保無各社八幡社字神明前無各社神明社同境内塞神
              
社合併許可  境内六百九十二坪

 拝殿に通じる石段上で、左側に鎮座する境内社       拝殿左側に祀られている石祠二基
         詳細不明                     ことらも詳しいことは不明
        
                           社殿手前の石段周辺から一の鳥居を望む



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内記念碑文」等
 

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持田劔神社

『新編武蔵風土記稿 持田村』
 持田村は忍城持田口の西にあり、龜甲庄と唱ふ、持田は暇借の文字にして、古は糯田と書しといへり、(中略)
 又岩松文書文永三年岩松家本領所の注文、武蔵の處に糯田鄕と載せ、及び応永十一年岩松右京大夫が所領注文にも、同鄕を出したれば、新田家より岩松へ相續せしと見ゆ、持田と書改しも古きことにや、持田氏の系譜に、持田左馬助忠久は生国武藏の人にて、深谷の上杉則盛に仕ふ、其子右馬助忠吉も上杉に仕へしが、上杉没落の後菅沼小大膳に仕ふとみえたり、是當所の産にて、在名を氏に唱へしならん、又成田分限帳に永五貫文持田右馬助、永五十一貫文持田長門と載、是等も忠久が一族なるべし、

 この持田氏は元々出雲の大国主命の部下あり、本拠地は今の島根県に当たる。大和朝廷に下った後、平安時代初期、征夷大将軍の坂上田村麿の蝦夷討伐を目的とする東方遠征に持田氏も従軍した。その際に築城した各国の柵に兵士を残していった。本隊に残った持田氏は出雲に戻り、出雲に土着して地方豪族として尼子や松平等に仕えて明治維新を向かえているが、各地域に残された一部の氏族、特に、静岡県の持田氏、埼玉県行田市の持田氏等はこの時生まれたといい、現在でも埼玉県や島根県には持田姓は数多く存在する。
*寛政呈譜
「持田左馬助忠久(武蔵国深谷の上杉則盛につかへ、某年死す。年七十二
.。法名道龍)―右馬助忠吉(上杉家につかへ、没落のゝち菅沼小大膳定利につかふ。慶長七年十二月めされて東照宮につかへたてまつり、武蔵国忍城の番をつとむ。寛永十年死す。年六十四.。法名蒼河)―五左衛門忠重(寛永十年父が遺跡を継、忍城の番をつとめ、十七年めされて江戸に来り御宝蔵番となり、子孫相継て御家人たり)。家紋、丸に蔦」

        
              
・所在地 埼玉県行田市持田5937
              
・ご祭神 日本武尊
              
・社 格 旧持田村中組鎮守・旧村社
              
・例祭等 春祭り 417日 夏祭り 819日 秋祭り 99
   
地図 https://www.google.com/maps/@36.1388825,139.436117,17z?hl=ja&entry=ttu
 小敷田春日神社から忍川を挟んで直線で400m程南東方向に鎮座している持田劔神社。行政上、小敷田と持田両地域は忍川が地域境となっている。秩父鉄道が東西に流れているその北部にあり、周囲一帯民家が立ち並び、綺麗に整備されている道路沿いに社は佇んでいる。
        
                                 
持田劔神社正面
 鳥居の上部笠石、貫石等が欠けて、柱のみしかなく、また両側の灯篭も左側片方が崩れている。嘗ての大震災の影響であろうか。その正面鳥居や燈篭のインパクトが強く残ってしまったためか、どことなく境内もやや管理が行き届いていない様子に見えてしまった。思うに人間の自己脳内印象操作とは恐ろしい。
        
                   境内の様子
『日本歴史地名大系 』「持田村」の解説
 北は忍川、東は忍城に接し、北部を熊谷行田道が東西に通じる。地下一メートルに条里遺構や古墳時代後期の集落遺跡が埋没しているとみられる。中世は糯田(もちだ)郷に含まれた。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に譜代侍として持田右馬之助(永五〇貫文)らがみえる。かれらは当地出身の武士という(風土記稿)。村内には宝蔵(ほうぞう)寺に延応二年(一二四〇)阿種子・宝治二年(一二四八)弥陀一尊種子、また正覚寺に寛元二年(一二四四)荘厳体弥陀一尊種子と、三基の板碑が残る。一五世紀後半の成田氏の忍築城に際して囲込まれた城地の五分の三は当村の地といい(郡村誌)、また持田・谷之郷(やのごう)入会の地であったともいう(風土記稿)。
寛永一〇年(一六三三)忍藩領となり、幕末まで変わらず。同一二年の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高三千七〇九石余。田園簿によると高三千七七一石余、反別は田方三一五町八反余・畑方二一町五反余。
       
           参道右側に雄々しく聳え立つ大木(写真左・右)。
『新編武蔵風土記稿』には持田村の歴史や地形上の特徴として持田村は忍城持田口の西にあり、龜甲庄と唱ふ、持田は暇借の文字にして、古は糯田と書しといへり(中略)、東は下忍村、南は鎌塚村、及び大里郡佐谷田村にて、西は大井・小舗田・戸出の三村、北は皿尾・中里・上村なり、東西卅二町、南北廿三町の大村なれば、村内を私に上中下の三組に分ちて沙汰せりと云、又東南の方に小字前谷と呼ぶ處あり、中古開きし新田にて、本村の外民家四十聚住す、故に土人こヽを私には前谷村と唱へり、當村も御入國の後より忍城附の村にして」と、嘗ては「龜甲庄」と称し、また「持田」の地名由来を「あまり肥えていない田に植える「モチダ」(糯田)の転化」と解説している。
        
                    拝 殿
 持田劔神社の鎮座する地は、文明年中に築城されたという忍城の持田口の西にあたる。社記によれば、当社は日本武尊東征の折、当地で剣を杖にしてしばらく休息されたことから尊の威徳を偲ぶ村人が宝剣を神体に社を建てたことに始まるという日本武尊伝説があり、行田市内には同様の伝説が斎条劔神社、中江袋劔神社にも残されている。
 新編武蔵風土記稿によると、江戸時代には、剱宮と称し、持田村中組の鎮守で、長福寺を別当寺としていたという。

        
               境内に設置されている記念碑
 剣神社改築記念碑
 当社は古くから剣宮と称しお剣様の呼び名で氏子(上持田、中持田)から親しまれ字竹の花に鎮守として祀られて来ました
 境内左方に稲荷、 浅間、大天白と、右方に塞神を祀した社であります
 社記によれば当社は日本武尊東征の折、当地で剣を杖にしてしばらく休息されたことから尊の威徳を偲ぶ村人が宝剣をご神体に社を建てたと伝えられています
 この由緒ある社殿も建立以来幾度か修築を重ね風雪に耐えて参りましたが、この間各所に腐食が甚だしく神社総代相集い改築構想を協議しその実施を進める機運が昂まり建設委員氏子二百四拾六名もの賛意が得られ浄財拠出によって、平成四年五月一日神社改築が発足しこの度その竣工をみたのであります
 時代の幾多変遷にもかかわらず今に続く清新な神社崇数の思慕を伺い知ることが出来ます
 神社改築を機として氏子中ますます隆盛を念願してやみません(以下略)
                                      記念碑より引用

 
  拝殿左側に祀られている境内社・三社            本 殿
      左から稲荷社・浅間社・大天白社
       
                                  御大典記念碑
          邨社劍神社為武蔵國埼玉郡持田村中區鎮守雖創建不
          詳祀日本武尊配之以草薙劍者也臨雄川之清流老杉森
          鬱本殿享保二十一年脩之拜殿寶暦八年所造營至今葢
          二百年漸来廃頽區民胥謀醵出工費撤其覆屋改銅板別
          移舊拜殿為社務所及其竣工也輪奐更加美境地一新○
            實大正十四年六月也今茲昭和三年十一月舉
          即位之大典大廟參拜之某等欲効敬神之誠建碑于社前
          来請文余亦與于工事者焉以不文可辭哉即叙其来歴繫
                  
以銘銘曰(以下略)

『新編武蔵風土記稿 埼玉郡』において、持田村は「亀甲荘」と称していた。不思議な名称である。加えて、亀甲荘の該当する範囲は持田村一村のみの限定区域。持田と亀甲の深い関係が想像できよう。
「亀甲」は「亀の甲羅」を表し、古代中国では、亀の甲羅を用いて占いを行う“亀ト(きぼく)”による政策決定や意思決定が盛んに行われていた時代もあった(後にこれが甲骨文字と呼ばれるようになった)。
 日本列島には中国大陸または朝鮮半島から持ち込まれたとみられ、『三国志』「東夷伝倭人条」(魏志倭人伝)の倭人の占術に関する記述として、「其の俗挙事往来に、云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、もって吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て凶を占う」とあり、文献史料から日本列島における太占(ふとまに)=骨卜(こつぼく)は弥生時代には行われていた事が知られている。
 日本列島の遺跡から出土する卜骨は、多くは鹿・猪の肩甲骨で、稀にイルカや野兎の例もあるそうであり、古代中国での亀の甲羅(卜甲)を用いる亀卜よりも、日本では鹿の獣骨(卜骨)を用いる骨卜が主流であったようだ。
       
                               社殿付近からの一風景 
 日本では古来から「鶴は千年、亀は万年」という言葉があるように、「亀甲文様」は長寿吉兆をもたらす縁起の良さと、その格式の高さで、国内外問わず多くの人に愛されていた。
 また能楽では蛇体の女が鱗の衣装を用いていて、鱗紋を亀甲(きっこう)といったりしている。
また「亀甲」をいうと、「亀甲紋」を連想するケースもあるが、この紋は、長寿のシンボルである「亀」の甲羅をモチーフにした紋で、正六角形の中に他の紋を組み合わせて複紋として用いることが多く、亀甲紋は、様々な家紋の中でも特別なものとして扱われており、名門武家の紋としても用いられている。
 また、神社の神紋としても多く用いられていて、有名なものとしては出雲大社、その他にも厳島神社や櫛田神社などが挙げられている。

 埼玉県、及び島根県には「持田」姓が多い。また出雲大社の神紋は「亀甲紋」。持田村は嘗て「亀甲祥」と称していたこと。これらは何を意味しているのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「寛政呈譜」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「名字由来ネット」
    「埼玉苗字辞典」「境内記念碑文・案内板」等
           



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