古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下須戸御嶽神社

 明治期以前の「神仏習合」の色合いの深い社である。この「神仏習合」とは、日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた信仰であり、思想である。
 本来は別な宗教である仏教と神道の一体化をはかったもので,奈良時代頃に出現した神宮寺にその起源をみることができる。越前国気比(けひ)神宮寺や若狭国若狭彦神宮寺が代表例であり,平安時代にかけて全国的な広まりをみせた。平安時代になると,仏が仮に神の姿で現れて功徳(くどく)を示すとする本地垂迹(すいじゃく)説が唱えられ,習合神道や仏教を中心にこの思想が展開され,祇園信仰や八幡信仰などの僧による神祇信仰も一般化した。これに対し,鎌倉時代以降は神道側から神を主とする神本仏迹説や種々の神道説が提唱された。習合思想は近世まで継承された。
 明治1 1868))年、王政復古の実現とともに、復古神道(ふっこしんとう)を基礎理念とした明治維新政府が発令したいわゆる神仏判然令(神仏分離令)によって神仏が分離されるまで、神仏習合した信仰や思想は、国民の間に何の違和感なく、自然と広く浸透していたのであろう。
        
             
・所在地 埼玉県行田市下須戸1284-2
             
・ご祭神 天御中主神
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 獅子回し 71415日 9月十五夜の日
 行田市街地を東西に走る埼玉県道128号熊谷羽生線を加須市方向に東行し、見沼代用水に架かる「須戸橋」を越えた用水沿いの路地を左折すると、すぐ右手に下須戸御嶽神社の社殿が背中を見せるように鎮座している。
        
                 
下須戸御嶽神社正面
『日本歴史地名大系』 「下須戸村」の解説
 北は荒木村に続き、西は見沼代用水を隔てて若小玉・小針の両村。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、幕府領で役高一千二九九石余。同一六年忍藩領となり、田園簿によると高一千六四八石余、反別は田方一一九町六反余・畑方五三町九反余。元禄一二年(一六九九)幕府領になったと思われ(同年「阿部氏領知目録」阿部家文書など)、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。
        
                  東向きの社殿
 下須戸御嶽神社の創建年代は不詳だが、見沼用水開発以前、星川が下須戸を流れていた五百年以上前に獅子頭が漂着した際に、当社に獅子舞を奉納したと伝承があり、古くから当地に鎮座、蔵王権現社と称していたという。
        
                      参道右側に祀られている浅間塚の石碑
 塚上には「浅間大神」が祀られ、その下には左から「辨財天」・「食行〇〇碑」・「富士登山記念碑」・「白蛇大明神」や「登山三拾三度大願成就」等の石碑がある。
        
                    浅間塚の先に祀られている境内社二基と石碑三基
       赤い鳥居がある社は稲荷社と思われるが、その左側の境内社は不明。
 一番右側にある石碑には「湯祈祷 釜唸 冬至哉」等の文字が刻まれている。「埼玉の神社」によると、昭和の初めまで境内にある御嶽山の信仰があったとの事。44日の祭りに宮司が社前に鎌を据え、これに沸騰させて手でかきまぜた後、笹の葉を浸し、参拝者にかけた。これを受けると無病息災となるという。この行事に関する石碑であろうか。
        
                    拝 殿
 御嶽神社(みたけじんじゃ)  行田市下須戸二七二七(下須戸字天王前)
 当社創立の記録は残っていないが五百余年前、見沼用水開発以前、すなわち德川入府百余年前星川本流が当下須戸を流れていた時に獅子頭三頭が漂着し、これを喜んだ村人が当社に獅子舞を奉納したとの伝承がある。これは鼻の穴から外を見る形式で、この獅子頭の古さからも伝承を肯定できよう。
「風土記稿」には「蔵王権現社二宇 一は宮本院、一は医王寺の持」とあるが、当社がいずれなのかは不明である。
 入母屋造り板葺きの本殿には、彩色四三センチメートルの蔵王権現像を安置し、わきに正徳三年十一月七日付けの卜部兼敬武州埼玉郡下須戸村正一位蔵王権現の宗源宣旨がある。
 境内にある御嶽社の碑(山岡鉄舟篆額)には、文化三年に改築した社殿が、明治一三年の暴風雨により境内の大木が倒れ破損したので新築したと記されている。明治初頭、現社名に改め、天御中主神を祭神とする。
 明治末期の神社合祀の際、当社は無格社であったため、合祀される予定であったものを四集落(現氏子区)挙げて反対し中止され今日に及んでいる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                拝殿向拝部の精巧な彫刻  
        拝殿の木鼻部位にも細やかな彫刻が施されている(写真左・右)。
             
    社の北側に隣接している下須戸自治会須戸橋集会所付近に聳え立つイチョウの大木
     集会所近くのイチョウの根本付近には「鹿島神宮参拝記念碑」が建ったいる。
        
                                社殿から参道方向を撮影
 氏子は下須戸地域の下分にあたり、兼業農家が半数を占める。当社の信仰の中心は9月の十五夜に行われてる獅子舞である。十五夜前は農作業も一段落するので10日間かけて練習をする。この獅子はよそより姿勢が低いので練習はきついようで、トイレの際も、窓に手拭を縛っておかなくては用も足せない程であったという。
 舞の種類は「橋渡り」「しめくぐり」「花遊び」「笹掛(ささがかり)」「鐘巻」等あり、この他に包み金を多く出さないと行われない舞や、特別な場所等でしか舞われない舞もあるという。但しこの獅子舞は笛方がいなくなってしまったため、近年は中止されているらしい。
       
           社の西側には見沼代用水が南北方向に流れている。


 下須戸御嶽神社から見沼大用水の1㎞程上流域には、同名の社が鎮座する。『新編武蔵風土記稿 下須戸村』に蔵王権現社が二社あると載せ、当社はその二社のうちのいずれかであるという。
        ・所在地 埼玉県行田市下須戸2727 下須戸農村センター内 
                 
                   
御嶽神社正面
 
     
社殿手前で参道左側にある         社殿手前で参道右側に祀られている
        「上組大正昭和史」の石碑          天神社・稲荷〇・庚申塔の石碑三基
                  
上組大正昭和史
           大正から昭和初期にかけて下須戸上組地区より
          
村長‣助役‣収入役の三役の方々が役職に就き長い間
        村政はもとより地区の発展のために尽くしてくださいました。
           村 長 村社新兵衛
           助 役 村社 正市
           収入役 渡辺萬三郎
          なお地域は違いますが旧太田村信用農業協同組合長。
           そして行田市農業協同組合長の田島実衛氏の農業
                  発展のため特に上組地区への指導力は偉大でした。
               近年においては教育者でした渡辺彰吾氏は文部大臣より
              表彰され、後年太田公民館運営委員長及び地区内子供たちの
           勉学に多大な貢献をされました。今日までに例のない
         上組の偉人のみな様の功績を讃えここに記するものです。
     
       
                    拝 殿
               
                   境内の様子


 下須戸御嶽神社から一旦「行田市 太田公民館」へ東行し、埼玉県道364号上新郷埼玉線に合流後、そこを左折、国道125号行田バイパスに到着する300m程手前で、進行方向左手の道路沿いに下須戸天満社が鎮座している。 
       
              ・所在地 埼玉県行田市下須戸1600
              ・ご祭神 菅原道真公(推定)
              ・社格 例祭等 不明
 下須戸天満社の創建、由来等は不明であり、『風土記稿』に載る「天神社」が当社かどうかもハッキリしないが、「埼玉の神社」による下須戸八坂神社の由緒によると、「明治期に現社殿を建造し、天神社・御嶽神社二社の計三社を合祀したが、三社とも戦後旧地に復した」と記載されていて、下須戸地域にこの天神社に相当する社は天満宮しか見当たらなく、推測ではあるが当ブログで紹介する次第だ。
        
              県道沿いに鎮座する下須戸天満社
                拝殿等なく、本殿のみの社
    県道沿いに鎮座している所から、江戸時代以前からこの道は続いていたと考えられる。

 一般的に、天満宮や天神社は、どちらも「天神信仰」で、『天神さま』という。
「天満宮」とは、菅原道真公を祭神として祀っている神社のことで、「天満天神の宮」といった意味の表現であるといえ、一般的には「天神様」と呼び親しまれていることが多い。
 一方「天神」信仰は、日本における天神(雷神)に対する信仰のことであり、菅原道真が後から結びついた。本来、「天神」とは「国津神」に対する「天津神」のことであり、特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀られ、つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ火雷天神(からいてんじん)と呼ばれるようになり、後に『渡唐天神』『妙法天神経』『天神経』など仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まったという。
 つまり、もとは「天津神」での雷神信仰と、菅原道真の怨霊信仰と結びつき、共に「天神さま」と称され、後代には怨霊や怨念の部分が薄れ、学者の神である道真が残り、今では天神・天満宮が学問の神様となったということのようだ。
 
   拝殿に掲げてある「天満社」の扁額     社殿の右側に祀られている石碑や石祠
                      左から辨才天・?・稲荷大明神・(稲荷、八幡)石祠
『新編武蔵風土記稿 下須戸村』
 天神社 常光寺持、
 常光寺 禪宗曹洞派、上州矢場宿恵林寺末、金昌山と號す、開山大庵文恕慶長十五年十二月廿五日寂す、開基榮覺常光は里正右衛門が先祖なり、寛永十三年正月十三日死す、本尊藥師を安ぜり、
 西光院 常光寺の末、瀧藏寺と號す、本尊彌陀、阿彌陀堂


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「山川 日本史小辞典 改訂新版」「Wikipedia」等


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白川戸五所神社


        
             
・所在地 埼玉県行田市白川戸496
             
・ご祭神 月讀命 伊斯許理度賣命 天太玉命 宇氣母智命 日本武尊
             
・社 格 旧白川戸村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 お灯籠 725日 大祭 826
 行田市立長野中学校から埼玉県立進修館高等学校へと南北に通じる道路を北方向に進み、国道125号バイパス線との交点である「白川戸」交差点を過ぎて、更に500m程北行する道沿いに白川戸五所神社は鎮座している。
 戦国時代の天正18年(1590)石田三成らの軍勢により忍城は水攻めをされるが、その時に水をせき止めるために城の東側に半円形に取り囲むように堤を造った。南は熊谷の久下付近から東に進み、堤根より北方向に転じ、さきたま古墳軍の丸墓山古墳がある長野を経て白川戸に至る長大な堤であるが、堤の東北方向の端が、この白川戸地域となるのである。
        
                 
白川戸五所神社正面
『日本歴史地名大系』「白河戸村」の解説
 北は中世前期の荒川旧河道とみられる星川を隔てて斎条村、東は荒木・小見両村。西方に谷之郷(やのごう)・和田両村に囲まれて、当村の四四パーセントに及ぶ三六町歩の飛地があった(村誌書上取調帳)。村内に古墳時代後期の集落跡が存在する。成田氏の家人に白川戸隼人という者がいたという(風土記稿)。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領で役高五五〇石余。田園簿によると田高二六〇石余・畑高二九〇石余、旗本二家の相給。元禄一二年(一六九九)忍藩領となり(同年「阿部氏領知目録」阿部家文書)、幕末まで同藩領。
        
        
拝殿に通じる参道の左側には石碑が六基並んで祀られている。

 左側より、「天満宮・御所大明神・黄金大明神 常夜灯」と刻印されている石碑・(不明)・塞神・庚申塔・「三笠山大神・御嶽山大神・八海山大神」と刻印された石碑・白幡大神。
 一番右側に祀られている「白幡大神」は『増補忍名所図会 巻三 城東』に「白旗明神」として紹介されていて、天文年中(15321555)に上杉謙信が上野国より攻撃して来た時、ここで軍勢を揃えた。そのため今はその場所を馬揃(ばそろい)と呼んでいる。それからこの場所に白旗一流(ひとながれ)を取り落したのを、土地の人が拾いこれを石櫃(せきひつ)に入れ土の中に埋め杉の木を植えた。今でも白旗明神と崇(あがめ)祭られるが杉樹ばかりで神祠はない、と説明されている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 白河戸村』
 御所明神社 村の鎭守なり、黄金明神・三宮神・天神・稻荷の四座を配祀す、西明寺持

 五所神社  行田市白川戸四九六(白川戸字宮裏)
 当社の創建は今となっては全く不明となってしまっているが、昔から白川戸の鎮守として祀られ、今に至っている。文化八年の社号額や宝暦八年の石灯籠の銘から、当社は古くは御所大明神と称していたことが知られ、『風土記稿』にも「御所明神社 村の鎮守なり、黄金明神・三宮神・天神・稲荷の四座を配祀す、西明寺持」と記載されている。また『明細帳』によると主祭神は、月讀命・伊斯許理度賣命・天太玉命・宇氣母智命・日本武尊で、合祀神は大日孁貴命である。
 
明治初めの神仏分離によって、当社は別当であった西明寺から離れた。この時、従来から当社の神体とされてきた愛染明王像が政府に没収されるのを恐れた氏子たちは、これを西明寺に預け、新たに鏡の入った神璽筥(しんじばこ)を祀ったが、昭和一〇年ごろに再び愛染明王像を神社に戻し、現在のように神璽筥と共に内陣に納めるようになった。また、明治四二年には同大字内堤根にあった神明社を合祀している。
 本殿は三間社流造りであり、明治初期の建築と伝えられるが、棟札等の史料は無い。なお、かつて境内には樫や杉の大木が鬱蒼と茂っていたが、戦後の混乱期に燃料や材木が不足したため、やむを得ずこれを伐採して氏子の自家用に供した。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
            社殿の左側に祀られている境内社・三峰神社

 当社の氏子区域は、かつての荒川の河道であったという上星川の南岸に位置する戸数七八戸の農村で、全戸が氏子となっている。
 年間の祭りは、一年の無事を祈願する元旦祭、境内に行灯をともす725日のお灯籠、氏子によるササラ(獅子舞)が行われていた826日の大祭がある。これらの祭事のうち、中心となるのは大祭である。この祭事は午前中に豊作を祈願する祭典があり、古くは午後からササラ獅子舞が行われていた。このササラは、最初に境内で一庭摺り、その後氏子区内の各戸を巡り歩く。獅子たちは、どの家にも立ち寄り酒を飲むため、村回りが終了する頃にはすっかり酩酊してしまうことから、氏子の間では「呑みザサラ」ともいわれた。
 現在では、このササラも行われなくなり、代わりに子供たちが獅子頭をかぶって村回りをしているとの事だ。
        
               社の北側に隣接してある
西明寺
 西明寺の創建年代は不詳だが、正嘉年間(12571259)に文殊堂として創建、慶長年間(15961615)に当地へ移転したという。
『新編武蔵風土記稿 白河戸村』
西明寺 新義眞言宗、長野村長久寺の末、天洲山種智院と號す、本尊文殊を安ず
 真言宗智山派西明寺
 天洲山種智院西明寺ト号シ創立年月日不詳。正嘉ノ頃、当地現文殊堂ニ一宇ヲ建立シ文殊菩薩ヲ安置スト伝ウ。後天正年間兵火ニ罹リ、慶長年間現在地ニ移築シ長久寺ヲ本寺トス。正徳四年本堂再建、昭和八年六月十四日雷火ニテ本堂庫裡全焼。昭和十二年再建ス。旧白河戸村ハ東西八町、南北四町、源頼朝ノ旗ヲ埋シト云ウ白幡塚、頼朝公供養塔等有源氏縁ノ地ト口碑ニ伝ウ
                                                                        境内掲示板より引用
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「増補忍名所図会 巻三 城東」
    「埼玉の神社」等

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荒木三十番神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市荒木3633
              
・ご祭神 三十番神(推定)
              
・社 格 旧荒木村鎮守
              
・例祭等 不明
 荒木愛宕神社の西側で、行田市立見沼中学校の北東方向に荒木三十番神社は鎮座している。社は集落の北端部に位置し、その先には加須低地特有の見渡す限りの長閑な田園風景が広がる静かな地でもある。
        
                 荒木三十番神社正面
 この「三十番神」は聞きなれない名称である。調べてみると、「三十番神」とは、神仏習合の神様で、わが国の著名な30神が、1か月30日間を毎日一体ずつ交番で祭神様を祀っている。略して番神ともいう。旧暦では1ヶ月が30日であるため、それぞれに神が割り当てられていた。このような結番思想は、古代中国、五代のころに五祖山(ごそざん)戒禅師が制定した三十日仏名(さんじゅうにちぶつみょう)におこり、それがわが国の天台宗に取り入れられ、のちに日蓮宗において盛んとなったといわれる。一般には法華経守護神として著名で、本地垂迹説(すいじゃくせつ)によった考え方。第1日目から順に、熱田(あつた)・諏訪(すわ)・広田・気比(けひ)・気多(けた)・鹿島(かしま)・北野・江文(えぶみ)・貴船(きぶね)・伊勢(いせ)・八幡(はちまん)・賀茂(かも)・松尾(まつのお)・大原野・春日(かすが)・平野(ひらの)・大比叡(おおびえ)・小比叡(おびえ)・聖真子(しょうじんじ)・客人(きゃくじん)・八王子・稲荷(いなり)・住吉(すみよし)・祇園(ぎおん)・赤山(せきざん)・建部(たけべ)・三上(みかみ)・兵主(ひょうず)・苗鹿(のうか)・吉備津(きびつ)の各神をあてるという。
        
                   境内の様子
 広い境内だ。手入れもされ、解放感もある。参道右手にはお子様用の遊具が数基あり、左側には「荒木郷地裏土地改良区・荒木郷地農村センター」が建っている。この「土地改良区」は農業用の用排水路等を維持管理するために、組合員が設立した公共の法人で、荒木地区では、平成 24 年から荒木郷地裏土地改良区による県営ほ場整備事業が実施され、平成26年には30a 区画の水田が整備され、更に翌年27年には、12.4haの大区画ほ場整備も実施している。丁度社の後ろ側にその広大な農地が広がっている。
 区画が整備された水田地帯については、今後とも優良農地として確保し、米麦を中心とした土地利用型農業を推進しているとの事だ。
        
        低地に鎮座している為、社殿は一段高い場所に鎮座している。
        
                    拝 殿
 創立等由緒は不明な社。「埼玉の神社」にも記載がなく、ネット等にも詳しい情報を掲載しているものはなく、写真と簡単な説明がある程度。但し『新編武蔵風土記稿 荒木村』に「三十番神社。 是も村内の鎭守なり。もとは石川某の屋鋪の鎭守なりしと、石川某は元成田に屬せし由、成田分限帳に石川玄蕃・石川内匠・石川彌右衛門・石川隼人・石川新九郎等見ゆ、これ等の内なるべし。天正十八年落城の後、當村に土着すと云、」と載せており、村の鎮守社である事、また戦国時代、忍城主成田氏の家臣の一人である「石川氏」が、当地を領有し、小田原北条氏滅亡後、当地に土着して氏神として祀られていたのが、後代村の鎮守社となったようだ。
 
   石段手前にある「大山阿夫利神社」    社殿手前で右側にある「伊勢参宮記念」の石碑
        と記されている木製の灯籠        その隣には「社殿改築記念碑」もある。

 大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、神奈川県伊勢原市の大山(別名: 雨降山〈あふりやま〉)にある神社である。この大山は古くから山岳信仰の対象として知られ、また、山上によく雲や霧が生じて雨を降らすことが多いとされたことから、「あめふり(あふり)山」とも呼ばれ、雨乞いの対象としても知られていた。
 荒木愛宕神社の項でも記しているが、嘗てこの荒木地域は、干損の地で、雨水を貯える溜池が随所に見られた。また荒木愛宕神社や荒木天満天神社には「石尊講」が結成されていたというのだが、この「石尊講」は「大山講」であり、大山阿夫利神社を信仰する講である。また、石尊講の多いことは、雨が少なく、難儀をしている所を意味するともいう。
 つまり、荒木三十番神社の「大山阿夫利神社」の灯籠は、灯籠行事を行うために建てられていると考えられる。
        
             社殿左側に祀られている境内社・天神社。
 天神社の並びには「菅公一千年記念碑」「伊勢参宮記念碑」の石碑、「天満宮」の石祠あり。
 
 拝殿の向拝部には「梅鉢」のご神紋がある。    扁額には「正一位」の神階が表記。

 荒木三十番神社の創立に関わった「石川某」は、わざわざ「三十番神」を信仰した由来は資料等がなく、不明である。しかし当地から近い距離に日蓮宗の寺院があり、そこには「三十番神堂」が存在している。
 小見地域の小見真観寺古墳に隣接する真観寺から200m程北西方向に「法華寺」がある。この寺院は、「日蓮宗正法山」と号し、元忍「蓮華寺」の旧地である当地に、明治21年堂宇を建立し法華房と称していたという。昭和21年に本堂建立、昭和47年(1973)に法華寺と寺号公称している。
 蓮華寺の創建年代は不詳だが、当初は小見村に創建していたのが、忍城主松平忠吉(尾張徳川家始祖の先代)の命により文禄年中(15921596)に忍地域へ移転したという。この寺院も日蓮宗であり、「日蓮宗妙法山龍花院」と号していた。
『新編武蔵風土記稿 忍村』
 蓮華寺 長光寺橋の側にあり、當寺は谷之郷に屬すといへり、日蓮宗荏原郡池上本門寺末。妙法山龍花院と號す、昔は小見村にあり、文祿年中左中将忠吉卿の命によりて、ここに移せしと云。本尊釋迦を安置す、鬼子母神堂 三十番神堂
『増補忍名所図会』
 法華坊
 観音堂の西方四五十歩で、民家がある所。ここは北谷蓮華寺の旧地だった。三十番神(法華経を守護する神)の石詞が小高い所にある。元亀年間(15701573)に今の北谷に移ったと寺記に書かれている。

 但し、あくまで全て状況証拠であり、万人が認める一級的な資料がない限りは、筆者の妄想的な推測でしかない。真相はどのような事であったのだろうか。
        
                  社殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「増補忍名所図会」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「精選版
日本国語大辞典」「Wikipedia」

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荒木天満天神社

 現在の荒木地域を南西から北東に貫くように通る栃木県道・群馬県道・埼玉県道7 佐野行田線は、かつては日光脇往還と呼ばれ、中山道の鴻巣から忍城の城下町である現在の行田の市街地を通り、上新郷を経て、羽生の川俣で利根川を渡り、舘林を経て日光に向かう街道として利用され、1652年(承応元年)に往還に定められた街道である。またの名は「日光裏街道」ともいった
        
             ・所在地 埼玉県行田市荒木2091
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧荒木村鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 雹除け 325日 天神様のお祭り 725
 荒木愛宕神社から南下し「荒木」交差点をそのまま直進、栃木県道・群馬県道・埼玉県道7 佐野行田線を400m程進むと、進行方向左手に荒木天満天神社が見えてくる。地図を確認すると、秩父鉄道・武州荒木駅のぼぼ北側500m程の場所に鎮座している。
        
              県道沿いに鎮座する荒木天満天神社
『日本歴史地名大系』 「荒木村」の解説
 主として見沼代用水左岸に位置し、小名八王子と新田が同用水右岸にある。北は須賀村、西は斎条・白川戸・小見各村。日光脇往還が南西から北東に貫いている。「風土記稿」は当村の旧家益次郎の「先祖荒木兵庫頭ハ伊勢新九郎長氏ト共ニ関東ヘ下リタル七人ノ其一ナリ、子孫荒木越前ノトキ当所ニ住シテ忍ノ城主成田下総守ニ属シ、八十貫文ヲ所務セシ由」という。
 また村内東部の長善沼は、越前の子兵衛尉長善の居所であり、長善は成田氏長と小田原に籠城して討死したとも伝えている。「増補忍名所図会」は長善沼周辺で鏃・銃弾・武具類多数が出土したといい、天文五年(一五三六)八月、忍城主成田長泰が上野国青柳城(現群馬県館林市)の城主赤井勝元と戦ったと伝える古戦場は(成田記)、ここであったろうとする。

        
               荒木天満天神社正面一の鳥居
        
              二の鳥居 赤を主とした両部鳥居
 祭神は菅原道真公で、高さ一七センチメートル程の座像を祀っている。言い伝えによると、いつのころか荒木の字裏郷地の天神社が水害により字宿の内に流れ着いて、これを祀ったのが始まりであるといわれていて、創建年代の不明な時によく言われる形を残している。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 荒木村』
 小名 八王子 鄕地 横町 上宿 中宿 下宿 はひ塚 行人塚
 長善沼 村の東にあり、今は大抵開發して水田となれり、此地古へ荒木兵衛尉長善なるもの住せし所なれば、此名ありと云、
 天神社 村の鎭守とす、
 舊家者益次郎 傳云先祖荒木兵庫頭は、伊勢新九郎長氏と共に關東ヘ下りたる七人の其一なり、子孫荒木越前のとき、當所に住して、忍の城主成田下總守に屬し、八十貫文を所務せし由、其家の分限帳にも見ゆ、其子兵衛尉(初め四郎と云)長善は、天正十八年下總守と共に、小田原の城に籠りて打死せり、後忍の城も降りしかば、長善が居所も破却せられぬ、今村内長善沼と云は、其居蹟なりと云、長善が遺腹の子を村民等養ひ、長じて八左衛門と名乗り、氏を北岡と改めたり、此八左衛門村内天洲寺を開基せり、これより子孫當村へ土着し、今の益次郎に至ると云、されど今舊記等も失ひ、唯口碑に傳ふるのみなれば、其慥なることをしらず、

 天満天神社  行田市荒木二〇九一(荒木字宿之内)
 
市の北東部、見沼代用水と上星川の合流点に位置し、水田の広がる農業地域である。
『風土記稿』には「或書に武州荒木の住人安藤駿河守隆光、法心して親鸞の弟子となり、名を源海と号せし事をのす、当国別に荒木の名を唱ふる所あるを聞ざれば、当所のことならん、古くより開けし地なることしらる」とあり、鎌倉初期にはすでに荒木の地名が見えることを記している。
 当社の創立は、口碑によると、いつのころか、荒木の字裏郷地の天神社が水害により字宿ノ内に流れ着いて、これを祀ったのが始まりであるという。『明細帳』には「創立年月不詳明治四亥年四月社殿再築スト云且往古ヨリ該社ノ祭祀等一切当村東福寺住職二於テ執行ナシ来リシカ明治二年神仏混淆分離ノ際同寺ノ所轄ヲ離レ其後明治六年八月村社ニ申立済」と記す。
『風土記稿』によると別当の真言宗薬王山東福寺は、開山賢真が天正二年寂し、本尊大日を安置していると記している。
 一間社流造りの本殿内には、高さ一七センチメートルの天神座像と鏡を安置する。座像の底部には「京七條大佛師□花□善之亟作之今□□上野下」とあり、鏡には「奉納文化十五年十二月国島なふ」と記す。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 当社は学問の神として信仰され、戦前までは旧暦一月二五日に勧学祭と称して小学校入学児童が参列し、学業成就の祈願を行っていた。
 社殿には、江戸期から明治期にかけて奉納された多数の絵馬が掲げられ、信仰の厚さを物語っている。また「天満宮」の額は金網で覆われているが、これは、昔天神様のそばを馬が通る度に暴れて怪我をすることが重なったため、この額に金網を張ったところ、以来、馬が暴れることがなくなったという。また、神仏習合時代の名残として、三三年ごとに本殿に安置する天神座像の御開帳の行事がある。
 
 本殿左側奥に祀られている境内社・稲荷神社     社殿右側手前に祀られている境内社・石祠
                       左側の石祠は天照大神宮、右側の境内社は不明        
        
               境内右手に祀られている石碑群
            中の三基は、左から塞神・塞神・辨才天(?)。
 塞の神(さいのかみ)とは、日本の民間信仰における神の一つ。村や部落の境にあって,他から侵入するものを防ぐ神。邪悪なものを防ぐとりでの役割を果すところからこの名がある。境の神の一つで,道祖神,道陸神 (どうろくじん),たむけの神,久那土(クナド)の神などともいう。村落を中心に考えたとき,村境は異郷や他界との通路であり,遠くから来臨する神や霊もここを通り,また外敵や流行病もそこから入ってくる。それらを祀り,また防ぐために設けられた神であるが,種々の信仰が習合し,その性格は必ずしも明らかでない。一般には神来臨の場所として,伝説と結びついた樹木や岩石があり,七夕の短冊竹や虫送りの人形を送り出すところとなり,また流行病のときには道切りの注連縄 (しめなわ)を張ったりする。また、行路や旅の神と考える地方ではわらじを供え,また子供の神としてよだれ掛けを下げたり,耳の神として穴あきの石を供えたりするところもある。
        
                  境内社・浅間神社
 境内の出入り口のすぐ右側には小さな塚があり、この塚は「浅間塚」と呼ばれ、俗に富士山を象ったものである。大東亜戦争頃までは「浅間講」が組織され、旧暦七月二一日には「火祭り」が行われていたという。この祭りでは、「オネリ」と称し、白装束姿で講元の家から行列を組んで浅間塚まで行き、境内に積み上げた薪に火をつけ、その明かりの中で祈祷が行われていた。
     
            鳥居のすぐ手前で、一際目立つイチョウのご神木(写真左・右)
 当社の祭りに関して、325日に行われる「雹除け」は、境内のイチョウの木の頂きに、竹を付けた梵天を立てるものである。また、725日の「天神様のお祭り」は、古くは舞台を掛け、地元の歌舞伎芝居が演じられていたが、現在はカラオケ大会がこれに代わっている。また、子供の担ぐ樽神輿が地域内を練っているという。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ぎょうだ歴史系譜100話」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「Wikipedia」等
            

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荒木愛宕神社


        
             
・所在地 埼玉県行田市荒木3731
             
・ご祭神 軻遇突智命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元旦祭 お焚き上げ 114日 春祭り 124日 
                  夏祭り 
724
 国道125号行田バイパスを行田市から羽生市方面に向かい、「小見(南)」交差点を左折し、栃木県道・群馬県道・埼玉県道7 佐野行田線に合流する。県道に合流後、暫くは北東方向となるのだが、そこは道なりに直進、「武蔵水路」や「星川」を越えたあたりから荒木地域に入り、進路も南北方向にかわり、そのまま北上し、「荒木」交差点を直進した先の一面水田が広がる田園風景の中に、ポツンと荒木愛宕神社の社叢林が見え、直径20m程の円墳といわれているその頂きに社殿は鎮座している
        
                   静かに佇む社
 荒木愛宕神社の創建年代等については不詳であるが、嘗ては日照り等の干損の地であったようで、雨水を貯える溜池が随所に見られた。このため村人は水利の悪さから火災の発生を恐れて、火防の神として愛宕権現を祀ったという。現在、社は「愛宕様」という名称で親しまれ、火防の神として信仰され、氏子の崇敬は厚く、その膝元としての慎みがあるため、当地では非常に火災が少ないという。
 氏子区域は、大字荒木の上宿で、当地は現在会社員や公務員・焦点が多いが、昔は、長屋を借りて瓦職人が多く住んでいたという。
        
                 荒木愛宕神社鳥居正面
 
鳥居の社号額には「愛宕神社」と刻まれている。        境内の様子
        
               円墳と謂われる墳頂に建つ社殿
 愛宕神社  行田市荒木三七三一(荒木字郷地裏)
 当社は水田の広がる中に一点、鳥のように浮かぶ社の中にある。昔は樹齢三〇〇年ほどの杉の大木が林立し、昼なお暗き所であった。当地は土地改良により、水も豊かになり、水田耕作も盛んであるが、かつては干損の地で、雨水を貯える溜池が随所に見られた。このため村人は水利の悪さから火災の発生を恐れて、火防の神として愛宕権現を祀ったという。
 祭神は軻遇突智命である。往時神像があったと伝えるが今はない。
『風土記稿』は荒木村の神社を「天神社 村の鎮守とす、八王子権現社・愛宕社・鷲宮 以上四社、東福寺持、熊野社 村民持、三十番神社 是も村内の鎮守たり云々」と載せている。東福寺は真言宗で薬王山と号している。
『武蔵志』には「天神・八王子・熊野・卅番神・太子」の諸社があり、八王子は現在の常世岐姫神社、太子は今も太子講がある。
 明治末期、他の社に合祀する話が持ち上がったが、当社が災厄を除ける神として氏子の信仰を集めていたため、中止されたという。
 境内裏手に一反歩ほどの水田があり、小作地としていたが、戦後の農地解放により失った。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
           石段手前にある       社殿の傍らに祀られている
         「鳥居階段奉納記念碑」      「三峯神社」の石碑
        
                              社殿からの眺め
      
        
        

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