古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

岩根神社

 昔から狼はオオカミ(大神)ともいわれ、日本では古代から神として崇拝されていた。日本書紀の欽明天皇即位前記には、秦大津父(はたのおおつち)が狼を「汝は是貴(かしこ)き神にして、鹿(あら)き行(わざ)を楽(この)む」と言った話が記されている。かしこき神とは、賢明さと邪悪さを兼ね備えており、そのために人間から畏怖される神という意味である。
 現在でも埼玉県秩父地方の神社を中心に、狼が描かれた神札(お札)が頒布され、信仰を集めている。このすぐ南の武蔵御岳山上の武蔵御嶽神社には『日本書紀』の記述に基づく「おいぬ様」(または「お犬さま」)の伝説があり、日本武尊の東征の折、邪神が大鹿の姿で現れたのを野蒜で退治したが、その時に大山鳴動して霧に巻かれて道に迷ったのを、そこに忽然と白いが表れて道案内をして、無事に日本武尊軍を導いたので、尊は「大口真神としてそこに留まるように。」といったという。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町井戸225
             ・ご祭神 大山祇命 大口真神(お犬様)ほか12
             ・社 格 不明
             ・例 祭 例大祭 417
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1097456,139.1165272,15z?hl=ja&entry=ttu
 岩根神社は荒川の右岸、埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線・通称「白鳥通り」を長瀞方向に進む。途中までの経路は「白鳥岩田神社」を参照。白鳥岩田神社から県道を800m程南行し、「岩根山」の石碑のあるY字路を左折、この道幅の狭い山道を15分程進むと山の中腹辺りに鎮座している。
             
              県道沿いにある「岩根山」と刻印された石碑

 この「岩根山」と表記されている石碑は県道沿いにあるとはいえ、目立たない場所にあるので、意識して左側を確認しないと、そのまま素通りしてしまうため、周囲の道路事情には気を付けながら進んでもらいたい。もっとも現在の車両にはナビが標準装備されているし、そのナビで住所登録もされているようなので、県道から曲がる際にもミスはまずない。
 また県道から社に続く山道も道幅は狭く、意外と長い。心細さを我慢しながら15分程うねった山道を進むしかない。
 
 山道も社に近づくにつれ道幅も広くなり、また整備されている。参拝時期は5月上旬と桜は既に散ってしまっていて、路面両端にその痕跡を残しているが、その代わりにツツジの開花時期となり、山道の風景も新緑が眩しい清々しさも感じられた(写真左)。
 山道の北側には社専用駐車場もあり、休憩用の屋根付きの小屋も設置されている。。看板も設置されていて、ここまで来れば一安心だ(同右)。
        
                                        井戸岩根神社正面入り口 
 
  入口右側にある地蔵様、石祠も1基している。   青天の中での参拝。参道にはツツジも咲き
                            
気持ちよく参拝に望めた。

 岩根神社が鎮座する「井戸」地域。嘗て武蔵七党「丹党」の一派がこの地域に移住してこの地域名を苗字としたようで、それが「丹党井戸氏」という。
武蔵七党系図
「峰信(桑名丹二大夫)―峰時(丹貫主、始めて関東居住)―峰房―武綱(領秩父郡)―武時―武平(又曰ふ武峰。天慶年中、故ありて武州に配流、秩父郡加美郡一井加世等を押領す。後に免ぜられて上洛)―白鳥七郎行房―七郎二郎基政―井戸政成(井戸、岩田、山田八)―直家」
丹党系図(塙氏本)

「山田八郎政成―五郎直家―直茂(井戸馬允)―馬五郎直忠、弟六郎家茂―八郎三郎家頼―宗重(弟弥三郎頼盛)。家茂の弟氏直、弟覚尊、弟九郎行成―八二郎行綱、弟弥九郎頼成、弟三郎家成、弟四郎宗氏」
 秩父一帯に勢力を拡大していた武蔵七党のひとつ丹党の一族に白鳥氏があった。丹経房の弟行房が白鳥に館を構えて白鳥七郎と名乗ったのが始まりとされる。『七党系図』では行房の子白鳥七郎二郎基政の孫にあたる政家が白鳥四郎を名乗ったともいう。白鳥氏の嫡流はその後岩田氏に代わり、以後の白鳥氏は傍流として存続する。この白鳥氏や岩田氏は同族の藤矢渕氏や井戸氏らと長瀞一帯を領有していたという。
        
                             
参道途中にあった鳥居の基礎部分
                最近まで鳥居が存在していたらしいが、現在は撤去されている。

 当初県道から山道に入り、狭く曲がりくねった道に不安感を抱いていた気持ちはもうここにはない。社周辺の花々や景色と供に鳥のさえずりが心地よく聞こえ、都市の喧騒さをふと忘れさせてくれる。桃源郷を思わせる別世界がそこには存在している。
        
                     拝 殿
      拝殿前には一対の狛犬ならぬ狛狼がお互い見つめ合うように並んでいる。
  今回第一にこの狛狼を見ることが参拝の目的であっても良いくらい待ちに待った社でもある。
 
      拝殿に掲げてある金色の扁額        拝殿手前で左側に鎮座する祖霊社
・岩根神社
 第十代崇神天皇の代、四道将軍の一人である武沼河別命が東方十二ヶ国の平定に当たり当地をお通りの際、濃霧のため、道に迷われたが、大山祇命の使いである巨犬が現れ、命を導かれた。命はここに大山祇命を祀られて奉謝する。これが当社の創めであると伝えられている。その後、日本武尊命、当社に詣でて剣を献じ給い、下って坂上田村麻呂社前に樫の苗木を植えて、「吾が心、樫の如く、固く折れず、挫けず、東蝦夷鎮圧を遂げさせ給え」と祈願する。更に下って天文年中、藤田右衛門佐重利、地内に天神山城を築き、当社を城の守護神として奉斎し、寄居鉢形城主北条氏邦もこれにならって当社を崇敬するという。しかし、鉢形落城後は社運衰退、社殿も腐朽したが、これを嘆いた里人の力によって寛政二年社殿が改築され、さらに、明治二十一年修繕を行い、最近では昭和六十一年に改築が再度行われている。これが岩根神社の由来である

祭神 大山祇命、大口真神(お犬様)、大己貴命(大国主命)、武沼河別命、御嶽大神
    木花開耶姫命(産泰様)、天手力男命、日本武尊命

岩根神社と御嶽・大口真神・産泰信仰
御嶽信仰は、境内に普寛霊神・一心霊神などの霊神碑が並び、また、境内内社の祖霊社に霊神牌を奉安し、当社を行場として拝するむきがある。明治18年奉納の「木食心願之記」なる額に記されている大木の下敷きになった老爺が当社祭神の加護により息を吹き返し、その後、この老爺の息子は神徳報恩のために木食修行を始めたという話がある。大口真神信仰は、明治29年奉納の「吉田父子盗難を免るの図」に代表される日本狼の絵馬数枚があり、盗賊除けの信仰である。産泰信仰は子授け、安産祈願所として信仰され、木製、竹製の底抜け柄杓が奉納されており、現在でも県内外から多くの参拝者が訪れている。
*岩根神社・岩根山つつじ園HPより引用

       
                     拝殿の左側奥に聳え立つご神木(写真左・右)

 現在でも社殿一帯に漂う不思議な雰囲気の一端は、まぎれもなく社殿の後方にあるコンクリート製の岩盤である。岩根神社は元々この山の中腹に岩座(いわくら)と思われる巨岩を背にして鎮座していた。現在は社殿の背後は岩壁が迫っていて崩壊防止のためコンクリートで敷き固められている。所々に石祠等が設置されているが、元々その地に置いてあり、コンクリートで固めた際も、その場を残すようにくり抜いて鎮座させているのであろう。
 筆者としては、コンクリートで固めた以前の巨岩を見てみたかった気持ちも強い。その点は残念だ。
       
           「虫歯守護神         「御嶽大神」の石碑
        中教正吉元大霊神」の石碑

 この「虫歯守護神」は白山神社と言われている。江戸時代中期。最後の女帝として知られる後桜町天皇(17401813)が歯痛で苦しんでいた。女官が白山神社(東京)から持ち帰った神箸(しんばし)と神塩をつけたところ、たちまち歯痛は治ったことから、白山神社には「歯痛平癒」のご利益があると噂されるようになったと伝えられている。
「白山」を語呂合わせで「歯苦散(はくさん)」と親しまれているともいう。
       
      社殿真後ろの岩壁のくり抜きにある   「一心霊神 厄除素戔鳴之尊」 
            蚕神像               の石碑

 蚕神像は頭には蚕蛾、左手に桑の木、右手にマユを持っている。秩父地域は昔から養蚕業が盛んな地域でもあり、蚕を神格化するのは当然ともいえる。
       
                          境内の隅に鎮座する境内社・稲荷社

 日本人は農耕民族なので、田んぼや畑をあらす猪や鹿などの動物は害獣。それらの動物をとらえて食べる狼は山の神としてあがめられていた。この信仰が広がったのは江戸時代であるが、当時の江戸町民には別の理由で信仰が広まった。防火だ。江戸は火事に悩まされており、火を見ると吠えると言われる狼の代わりに、三峯神社の札を家に置いたといい、江戸城に三峰山の木が献上されたこともあったとされている。
 信仰は全国に広がり、関東甲信越、東北などで無数の三峯神社を信仰する「三峯講」ができ、現在も約4千近くあるとされる。
       
                             拝殿からの美しい眺め

 日本国内では明治時代末期に絶滅したとされる狼であるが、埼玉の母なる川、荒川上流部に埼玉のみならず、山梨・東京・群馬・長野各都県に広がる秩父山系もまた、嘗て狼の生息地であった。
 この秩父山系一帯には「お犬様」と称して狼を祀っている社が多数存在しており、全国的に見ても特異な状況を示している。江戸時代から広まったとされるこの信仰形態は、関東甲信地域に広がりをみせ、その信仰は狼が絶滅したとされる以降、現在においても続いている。
 そのためこの地域では、現在も毛皮や頭骨を大切に保管・保存している家が何軒もあり、狼にまつわる伝承や伝説も各地で聞くことができる。

        
         岩根神社に通じる山道に設置されている「長瀞八景」の看板

長瀞八景
つつじと野鳥の岩根山   野上駅まで徒歩60
春の岩根山は、岩根山神社の例大祭(四月十七日)の頃、一千株を超えるミツバツツジやヤマツツジ、藤、山桜、椿、花桃、菜の花などが優しく微笑みかけてくれます。野鳥たちの囀りが聞こえ
、さながら桃原郷を思わせる風情です。また寄居町風布のみかん山に通じるハイキングコースはなかなか好評です。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「岩根神社・岩根山つつじ園HP」「Wikipedia」
    「武蔵七党系図」「丹党系図(塙氏本)」等
                         

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武野上神社

 武野上神社は、もともと丹生明神または丹生(ニフ)様と呼ばれていたが他社との合祀でこの社名になった。総持寺を開山した心地覚心大和尚が、鎌倉時代の中期紀伊国(和歌山県)高野山に参籠して満願のみぎり、この野上地方の旱魃を救うために、大和国(奈良県)吉野郡丹生川上の中社に鎮座する、水神慈雨の罔象女神(ミズハノメノカミ)(丹生明神)のご分霊を頂いてかえり、この地に祭った。ご眷属は、山犬のオオカミではなく、人に親しまれる普通の犬である。
                                「長瀞町史民族編」より引用
        
            
・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町本野上1114
            
・ご祭神 罔象女神、高龗神、建御名方命、誉田別命、大物主命、大山祇命
            
・社 格 本野上・中野上村鎮守
            ・例 祭(祭日に近い日曜日)
                 元旦祭 11日 春祭り 41日 秋祭り 101
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1100287,139.1066713,19z?hl=ja&entry=ttu
 国道140号バイパス(彩甲斐街道)を長瀞町市街地方向に進む。町役場及び野上駅前通りを過ぎてから250m程先にあるドラッグストアとスーパーの間のT字路を右折し、暫く進むと右手に武野上神社の鳥居が見えてくる。長瀞町の中心街でありながら、国道を離れると正面は秩父山系の山脈が広がり、周囲もほぼ田畑風景の中、所々に住宅地が見えるという、長閑な風景がそこにはあり、その中の一角に社は鎮座している。
 社の北側には巨木に囲まれた駐車スペースもあり、一旦そちらに移動・駐車してから参拝を行う。
        
                    武野上神社正面
 荒川が形成した秩父盆地(埼玉県秩父市)から長瀞渓谷にかけて、俗に「河成段丘」と言われる河川に沿って分布する平坦面 (段丘面) と急崖 (段丘崖) から成る階段状の地形が形成されている。河川のつくる低地(河床、氾濫原(はんらんげん)、谷底(こくてい)平野、扇状地、三角州など)よりも高い位置にあると定義づけられている。
 長瀞町は埼玉県の西北部、秩父山系の関門に位置し、町の中央を縦貫して流れる荒川の両岸に細長く開けた町であり、荒川河谷の段丘上に位置し、国道140号と秩父鉄道が通じる。
 野上地域は、古くは戦国期よりその名称は出ていて、江戸期には幕府領に属する本野上村、中野上村、野上下郷村があり、これを野上三郷と通称されていた。
『新編武蔵風土記稿 本野上村条』では、江戸時代の産業として絹(養蚕)、烟草(タバコ)の取引が盛んで、27日には市(いち)が立っていたという。

    歴史を感じさせる木製の両部鳥居     鳥居の社号額には「武野上神社」と表記
       
                   鳥居を過ぎて参道左側に設置されている案内板
 武野上神社 御由緒 長瀞町本野上一一一四
 ◇野上に暮らす人々のよりどころ
 古くは家並が秩父往還(国道一四〇号)に沿った帯状に続く宿場町であった。宿の中ほどから西に三〇〇㍍ほど入ると右手に当社が鎮座し、正面に臨済宗総持寺が堂宇を構える位置関係にある。
 神社の起こりは旧社名「丹生社」から武蔵七党の一つ「丹党」が氏神として勧請した、あるいはこの地を拓いた人々が地神の「野神」を奉斎したことに因るという。
地内を貫流する荒川は岩石段丘が続き、水利に悪く天水に頼らざるを得なかったことから、当社別当となる総持寺の開山法燈国師は文永年中(一二六四~一二七五)高野山からの帰路、丹生大明神より分霊した水の神である罔象女神・高龗神を「野神」に合祀したという。『新編武蔵風土記稿』も「丹生社、例祭二月朔日、九月十九日、当村及中野上村の鎮守なり総持寺持、此寺の開山法燈国師、高野山より持来て、此所に勧請せしと云」と記載している。
 現在の本殿は享保11年(一七二六)に再建されたもので入母屋造である。
 明治に入り丹生神社と改称、その後の同四十二年(一九〇九)地内の五社を合祀し、社名を武野上神社と定めた 。

 ◇御祭神
 ・罔象女神・高龗神・建御名方命・誉田別命・大物主命・大山祇命
 ◇御祭日(祭日に近い日曜日)
 ・元旦祭 11日 春祭り 41日 秋祭り 101
                                      案内板より引用
        
          社の御由緒である案内板の隣にはこのような案内板も設置されている。
 武野上神社とけやき
 武野上神社はもともと丹生明神と呼ばれました。新編武蔵風土記稿の本野上村の条には、「丹生社例祭二月一日、九月十九日、当村及中野上村ノ鎮守ナリ」と紹介されています。
 明治四十二年六月二十四日、四社を合祀して武野上神社と改称されました。祭神の罔象女神が水神であるためか、例祭にはよく雨が降り旗幟がぬれます。このことから「丹生のぬれ旗」と呼ばれています。
 社に向かって右側に見えるのが、御神木のけやきです。これは根回り九メートル、胸回り六・五メートル、高さ二十五メートルの大木で、樹齢は約七百年と言われています。昭和五十八年の台風で上部の枝が折れましたが、この枝の年輪が二百五十以上ありました。
 境内にはこの御神木を含めて九本のけやきがありますが、これらはみな長瀞町の天然記念物に指定されています。
 文化財はみんなの財産です。大切にしましょう。 令和四年三月 長瀞町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                                  参道より境内を撮影
 参道を含む境内周辺は一部を除いて日の光を浴びた開放的な空間が広がるが、社殿脇から奥部にかけては鬱蒼としたご神木群が時に社地の日光を覆いつくすようで、その境内における陰陽のバランスが妙に神々しさを感じてしまう社である。

 野上という地名由来として、「武蔵七党・丹党」から分家した一派が当地名を称したと云われている。「
丹党野上氏」である。明治の神仏分離までは「丹生明神社」であり丹党野上三郎が祀った氏神であるともされる。丹党白鳥氏の流れくむ野上三郎は白鳥基政の子である白鳥政広の子である白鳥政経のこと。政経が野上を治め、野上三郎を名乗ったことにはじまる。
丹党系図
「岩田七郎政広(右大将家御代の人)―野上三郎政経―某」

また『新編武蔵風土記稿 秩父郡野上下郷条』には「野上三郎為氏の墓所」も記載されている。
『新編武蔵風土記稿 秩父郡野上下郷条』
「野上三郎為氏の墓所 小名辻と云へる所の陸田中にあり、六尺四方許の地、其廻りに茶の木を植たり、村民持の畑なり、墓の印はなし、唯野上三郎為氏の墓所なりと、土人の傳ふるのみ」
        
                                    拝 殿
 拝殿の手前には一対の「狛犬」が設置されている。冒頭で紹介した「長瀞町史民俗編」にもこの狛犬は「狼」ではなく「人に親しまれる普通の犬」であると記載されている。但し実見すると、口部位にある牙等には不思議と狼の雰囲気がみられる。
 考えるに、秩父地方が狼信仰の中心であるが故に、本来は普通の犬であったにも関わらず擬態化(デフォルメ)されて、その地域の信仰形態に融け込んでしまったのではなかろうか。
 小さくて見ずらいが、右側の狛犬には、子犬が親犬の足元にいて、まるで甘えるように体をくねらせているように見える。狼信仰の狛犬には今まで出会ったことのないような穏やかで、愛情あふれる像に感じた。
 
      拝殿に掲げてある扁額                本 殿
 
    拝殿の左側には神楽殿・八坂大神       八坂大神の並びに鎮座する境内社
                      左から武野上弁財天・白峰神社・武野上稲荷神社
        
                         拝殿右側奥に鎮座する合祀社。詳細不明
       
    拝殿右側奥には町指定文化財である樹齢700年を優に超える欅のご神木が屹立している。
      このご神木の他、境内にある9本の欅が街の文化財として指定されている。

 武野上神社の欅(町指定文化財)
 神社の御神木など9本の欅が指定されている。御神木は樹齢700年を優に超えると思われる古木で、根回り約9m、目通り6.3m、樹高25mである。
 昭和61524日指定
                                   長瀞町役場HPより引用

        
               
               社殿の奥で北側には多くの巨木が聳え立つ。その姿は圧巻だ。
              
        因みに鳥居を過ぎて参道を進む途中、右側にも巨木があった。
   但しこの木は銀杏であるから文化財指定は受けていないだろうが、やはり立派である。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「長瀞町役場HP」長瀞町史民族編」「Wikipedia」等
             

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野上下郷天満天神社


        
           
・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷2866
           
・ご祭神 菅原道真公
           
・社 格 不明
           
・例 祭 春祭り(225日に近い日曜日)秋祭り(1125日に近い日曜日)
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1228636,139.1067951,18z?hl=ja&entry=ttu

 野上下郷下野上神社から距離にして600m程西方向の秩父の山が周囲を囲み、緑豊かな長閑な地にひっそりと鎮座している。国道140号バイパス「射撃場」交差点を右折し、埼玉県道287号長瀞児玉線に入るが、100m程先のY字路を左折する。このY字路のほぼ正面には「萩寺 洞昌院」の立看板があり、丁度良い目印となる。
 緩やかな上り坂を進むと「長瀞町消防団第2分団第1部」の小さな建物がある丁字路となるので、そこを右折1.2㎞程進むと左側に「辻公民館」があり、そこの南側に隣接して野上下郷天満天神社が見えてくる。
 辻公民館の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                 野上下郷天満天神社正面   
                 辻公民館に対して横を向いているような形で鎮座している。
               
                                 東側に向いている参道
        
                    鳥居を過ぎて参道を進むと拝殿に通じる石段に達する。
           その石段の手前右側には案内板が設置されている。
 天満天神社 御由緒 長瀞町野上下郷二八六六
 ◇昔は盛んであった雨乞い
 当社は野上下郷の辻区に鎮座し、菅原道真公を祀る。
 本殿は一間社春日造。境内には秩父庄司畠山重忠「駒繋ぎの欅」と伝える大木があったがすでに枯死し伝えのみが残る。
 当社の近くに真言宗の寺院、洞昌院があり不動山白山寺と号する。寺を開山した元仲法印【久寿二年(一一五五)入寂】が、保延元年(一一三五)京都智積院に参籠し真言の奥義を極め、帰山に際し北野天満宮より分霊を拝受して寺院の隣に神域を定め天満天神の鎮座法要を営んだと伝える。
 元仲法印は学識が深く子弟の教育にも熱心であったため、当社も郷の者から厚く信仰され何時のころからか、辻の鎮守となったと伝えている。
『新編武蔵風土記稿』は「天神社例祭正月、九月二十五日小名辻の鎮守なり、神職相馬出雲吉田家の配下」と記している。
 辻区は水利が悪い土地のため、毎年夏には雨乞いが境内で行われたと伝える。近くの石尊祠・雷神社に詣でるほか、榛名神社、武甲山から水を頂きこれを地内の水と混ぜ祈願の後境内に撒くなどしたという。
 ◇御祭神
 ・菅原道真公
 ◇御祭日(祭日に近い日曜日)
 ・春祭り(二月二十五日)
 ・秋祭り(一一月二十五日)
                                      案内板より引用

       
       石段を登り終える辺りで、左側に聳え立つ杉のご神木(写真左・右)

 社の境内で社殿に続く斜面には川石が全面にびっしりと敷き詰められている。石の状態、また補強としてコンクリートが使われているので、決して昔からあったものではないと思われるが、それにしてもすごい数量である。
        
                     拝 殿
       拝殿は覆堂となっていて、中に一間社春日造の本殿が近くに見られる。

 ところで野上下郷天満天神社は菅原道真を祀る社であるが、その神職である矢内(ヤナイ)氏は複雑な経緯でこの地に移住し、帰農・神職となった氏である。上野国志に「反町城(新田町)は、天文の頃には横瀬の家老野内修理亮時英が居す」とあり、家老職であり、金山城主横瀬氏と同紋で、待遇も一族並となっていた。
 その後天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際して、後北条氏は滅亡前後に秩父郡野上下郷に出奔・蟄居してこの地に帰農し、神職となったようだ。

『金山太田誌』
「家老・新田郡反町城主野内修理亮成道、天正十八年庚寅秋・出奔武州秩父郡野上蟄居。退職修理亮父、野内豊前成巌入道道的斎・天正十四年丙戌十一月二十七日卒・法名傑山全英」
『武蔵志』
「秩父郡野上下郷の柳内祖は、上州金山城主横瀬氏に仕たる人なり。天正十八年横瀬の母の供して秀吉卿へ出、夫より後、此邑に来、神主に成也」
 
    拝殿の左側に鎮座する合祀5社。     拝殿右側には頑強な石組の上に祀られている
 真ん中の2社は白山・稲荷社。それ以外は不詳。          大山祇神か。
        
                                  拝殿からの風景

 小田原攻めに関して、豊臣方の進路は主に武蔵国の平野部が主で、館や城は次々と開城もしくは陥落したが、奥地である秩父方面にまで豊臣軍が進出した形跡は乏しいという。新田郡反町城主野内修理亮成道がこの地に蟄居したのもある程度は頷ける。

 因みに新編武蔵風土記稿野上下郷条には「滝神社・熊野社・貴船社・石上社等は、みな神職は柳若狭なり」と記載されている。この「柳」は「矢内」の一形態なのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「金山太田誌」「武蔵志」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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野上下郷下野上神社

『新編武蔵風土記稿』秩父郡野上下郷
 貴船社 高龗ヲ祭ルト云例祭正月十五日九月十九日小名宮澤ノ鎭守ナリ神職前ニ同シ(柳若狹吉田家ノ配下)
『寳登山神社HP
 宮沢地区の氏神さまで、「貴船さま」とも呼ばれ高龗神(たかおかみのかみ)をまつります。
 日照りにも枯れることのない「神の井戸」が地内にあり、氏子を始め多くの者が助かったと伝えます。江戸時代には荒川の筏師が岸に筏を止め水上安全を祈ったといいます。

        
            
・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷2046
            
・ご祭神 高靇神
            
・社 格 野上下郷総鎮守
            
・例 祭 春祭り(315日に近い日曜日)秋祭り(1115日に近い日曜日)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1230269,139.1099857,17z?hl=ja&entry=ttu
 野上下郷下野上神社は国道140号バイパス、通称「彩甲斐街道」を長瀞方向に進み、埼玉県道287号長瀞児玉線が交わる「射撃場」交差点の手前100m程にある手押し信号の十字路を左折し、秩父鉄道の踏切を越えると正面に鎮座している。
 社には適当な駐車スペース、社務所等はないので、手前にある「宮沢集落農業センター」の駐車場を一次的にお借りしてから参拝を行った。
        
                  参道正面前の風景
 秩父鉄道が走る踏切の先に野上下郷下野上神社の鳥居が見える。因みにこの踏切を渡ると、「危ない!左右を良く見て渡りましょう」と、警報の為の音声ガイドが流れる。当然、渡る時には左右の安全確認しているが、渡り終えてからも警報音が突然出るので思わず振り返ってしまった。
        
              登り旗のポールから境内方面を撮影
 地形を見ると、参道右側が深い森となっているが、よく見ると比較的深い崖となっている。長瀞町水害ハザードマップでも、この地域は「家屋倒壊等氾濫想定区域」に指定され、その洪水想定は3.0m~5.0mとされている。この崖は自然な沢が元になっていると思われるが、コンクリート壁で補強され、水害に対する処置は出来ているようだ。
この社から北東方向1.3㎞先で樋口駅の北側に鎮座する野上下郷瀧野神社が鎮座しているが、江戸時代中期「寛保二年水害」という1742年(寛保2年)の旧暦7月から8月にかけて日本本州中央部を襲った大水害があった。この水害は江戸時代を通じて埼玉県を襲った数々の水害の中でも、最も甚だしかったらしく、当時の記録によれば旧暦727日から4日間豪雨が続き、81日の水位が18mも上昇してここまで達し、付近が水没したとの事であるが、同じ地域で比較的近くに互いに鎮座する社において、過去の教訓が今も受け継がれていることではなかろうか。
        
              鳥居の近くに設置されている案内板
 下野上神社 御由緒  長瀞町野上下郷二〇四五
 ◇抽選の結果、総鎮守となった社
 荒川が、当社崖下で大きく流れの向きを東へと変えるこの河原を「杜下河原(もりしもがわら)」とよび、荒川の筏師たちは水の神を祀る当社に水上安全を祈り、竿を休めたところという。祭神の高靇神(たかおかみのかみ)は雨を降らせ水を司り、水上安全を守護する神として信仰され、干天には雨乞いがよく行われてもいた。
『新編武蔵風土記稿』は当社を「貴船社 高靇神を祭ると云、例祭正月十五日、九月十九日 子名宮沢の鎮守なり」と記載、さらに吉田家配下柳若狭が祠職を務めたとしている。
 本殿は一間社流れ造で、棟札から享和元年(一八〇一)九月吉日に再建されたことが知れる。
 明治一二年(一八七九)野上下郷内に鎮座する五社を一社に合祀せよとの通達に接し、全区民にこれを通達したが意見が乱立し総意を結集することが適わなかったので代表による抽選を行い、宮沢区の当選をもって「貴船神社」を「下野上神社」と改称して野上下郷の総鎮守と位置づけたが、合祀は実質的には行われずほかの4社は今も各地の人々によって祀られている。
 ◇御祭神
 ・高靇神
 ◇御祭日(祭日に近い日曜日)
 ・春祭り 三月十五日
 ・秋祭り 十月十五日
                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
 下野上神社が鎮座する野上下郷宮沢区のすぐ東側は荒川が南北方向から東西方向に流れの向きが変わる地点で、左岸は一面切り立った崖となっているが、右岸は河原が広がる地である。荒川の筏師たちは水の神を祀るこの社に水上安全を祈り、一時竿を休めたという。祭神の高靇神(たかおかみのかみ)は雨を降らせ水を司り、水上安全を守護する神として信仰されたのにはこのような経緯があったのであろう。
 
      拝殿に掲げてある扁額                              本 殿
 同時にこの地域は、国道140号バイパス線に児玉町方面から南北に通る埼玉県道287号長瀞児玉線が交わる、まさに交通の要衝地でもあった。その合流地点南部に鎮座しているということは、ある意味見張り番としての役割もあったのではなかろうか。下野上神社の東南方向で、荒川を挟んで反対側には「岩田白鳥神社」、その奥には「天神山城」があり、この天神山城は秩父から長瀞、寄居方面まで三方向をよく展望できるところに位置しており、上杉氏や北条氏の家臣として秩父を統治した藤田氏の拠点として城鉢形城の支城として重要な役割を果たしていたと思われ、その対岸に鎮座するこの社の役割は大きかったと推測される。
        
                    社殿左側隣には標柱があり、石祠等祀られている。
 
 標柱の先には2基の石碑が前後に並んで設置されている。荒川上流部独特の古風な岩積となっていて、前は葉に文字が隠れて判別不明(写真左)。奥には大黒天の石碑(同右)。
        
                 社殿右側奥にある「摩利支天」の石碑
        
                            ひっそりと鎮座する赴きある社
        
                         野上下郷地域を通る単線の秩父鉄道。

 長閑な山村風景が広がり、その間に単線である秩父鉄道がその趣きに郷愁と追憶を誘い、つい
感傷的な気分をもたらす。この秩父鉄道が昔ながらの単線である事もまた良いのだ。
 但し線路側に設置されている太陽光パネルの群がその景観を損ねているマイナス面は正直否めないが…


参考資料「新編武蔵風土記稿」「長瀞町公式HP」「寳登山神社HP」



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矢那瀬八幡神社

               ・所在地 埼玉県秩父郡矢那瀬566
               ・ご祭神 
誉田別命
               ・社 格 旧矢那瀬村下郷鎮守
               ・例祭等 
春祭り(315日に近い日曜日)
                    秋祭り(
1015日に近い日曜日)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1339985,139.1492805,16z?hl=ja&entry=ttu
 矢那瀬八幡神社は国道140号線を長瀞町方面に進み、波久礼駅前交差点を越えて暫く進む。進路が南北方向から東西方向に変わり、右側に河岸段丘が広がる地点で、国道に並走する秩父鉄道の踏切を渡る。この道は道幅は狭いが、嘗て秩父往還道でもあり、道なりに真っ直ぐ進むと矢那瀬八幡神社に到着する。

 矢那瀬地域は
東へ向かって流れて来た荒川が急激に南へと流路を変える地点であり、断崖絶壁が荒川に迫っていて、かつては破崩(はぐれ)や端崩とも呼ばれており、ここは崖崩れが多発し、古くから秩父往還における最大の難所であった。山が渓谷に迫る狭隘かつ急峻な地形で、徒歩は最短距離である左岸側の川縁の道を通り、荷物は馬では通行不能なため、竿舟を用いて舟運で運搬するか、現在の八高線荒川橋梁のやや下流側の地点にある「子持瀬の渡し」で荒川の対岸に渡り、奥武蔵北部の釜伏峠や粥新田峠(かゆにたとうげ)の峠道を迂回して曽根坂峠から大野原へ至っていたという。(Wikipedia参照)
        
                  矢那瀬八幡神社正面                    
        
          
神社の入り口にある除隊記念の碑。砲弾が置かれている。
 
  入口を過ぎると開放感のある空間が広がる   拝殿右側には社務所があり、案内板も設置。

八幡神社 御由来    長瀞町矢那瀬五六六
◇猪俣氏虎ヶ岡城の鎮守として祀られた
 矢那瀬の地は上郷・下郷に分かれ、この社は下郷の鎮守とされている。秩父郡の極端で、大里郡と交堺する地である。
 
荒川の両岸には山が迫り川幅は狭まり、流れは矢が飛ぶような瀬となることから「矢な瀬」と称したという。また、魚を獲る簗(やな)を構える適地のために地名となったともいう。
 
当社東方の後背部山上には、児玉郡猪俣に土着した猪俣小平六範綱(又は則家とも)が出城として虎ヶ岡城を築き、当社はその鎮守として武運長久を祈る処となったという。虎ヶ岡城から尾根伝いに大槻峠・陣見山へと抜ける道は児玉郡との境をなし要地でもあった。
 『新編武蔵風土記稿』は、当社を「八幡社大月にあり、村の下郷の鎮守、村持、例祭八月十五日、無年貢地、槻杉の叢林なり」と記載している。
 明治28年(18951210日矢那瀬に大火が起こり、当神社の類焼をもって鎮火へと向かい、住民の家は焼失を免れ、住民らはこの御神徳に感謝し同32年(1899)欅材を主材とした立派な社殿を再建し盛大な遷座祭を行ったと語り継がれている(中略)
                                       案内板より引用
        
                      拝 殿
        
                綺麗に彫刻された向拝部の鶴等
 
                拝殿木鼻部位の彫刻(写真左・右)
 妙見信仰は北極星や北斗七星を神格化した信仰である。古代、中近東の遊牧民や漁民に信仰された北極星や北斗七星への信仰は、やがて中国に伝わり天文道や道教と混じり合い仏教に取り入れられて妙見菩薩への信仰となり、中国、朝鮮からの渡来人により日本に伝わったといわれる。
 秩父神社の社伝によると、平良文は朱雀天皇の承平元年(九三八)、甥平将門と力を合わせ、上野国群馬郡府中花園村(群馬県群馬郡群馬町)の染谷川のほとりで、兄常陸大掾国香と合戦(別伝には良文と将門の合戦とある)したが、良文の軍は次第に苦戦に陥り、ついに主従七騎になってしまった。そのうえ良文も落馬して絶対絶命の窮地に追込まれた時に、突然雲中より現われた童形の「羊妙見菩薩」の加勢によって勝利を得た。そこでこの妙見を祀る七星山息災寺を尋ねると、七仏薬師が安置され、その主尊が羊妙見菩薩だったので、これを奉持し、妙見のしるしである月と星の紋を家紋とするようになった。
          
                      本  殿                     
秩父七妙見」とは、「秩父志」によれば、江戸末期に武蔵国秩父郡の総鎮守である秩父妙見の分社を、郡境の交通の要所七ヶ所に攘災の守り神として配置したのが始まりとされ、妙見神社を北極星として、七妙見を北斗七星に見立てて、考えられたと思われる。
 以下の場所に配置されていて、埼玉県南北に分断する平野部から台地部の境界線上に位置している。
 第1所:小鹿野町藤倉
 2所:皆野町金沢
 3所:長瀞町矢那瀨
 4所:東秩父村安戸
 5所:都幾川村大野〔現 ときがわ町大野〕
 6所:名栗村上名栗〔現飯能市上名栗〕
 7所:飯能市北川
 この 7 カ所の妙見社は「秩父七妙見」と称され、秩父妙見宮(現 秩父神社)の鬼門にあたる箇所に置かれたといわれていて、矢那瀬地区にもその妙見社が存在していたという。『新編武蔵風土記稿』矢那瀬村、末野村にはそれに該当する記述はないが、「秩父誌」にはこのように記載されている。
「秩父誌」
矢那瀨妙見ノ社ハ今ハ榛澤郡末野村ノ境内ニ入リ属ス、往古ハ此末野村ノ内ノ境川ト云。秩父郡ノ郡境トス、此ノ妙見神祠ハ秩父七所妙見ノ四個所ニテ、大宮町妙見神ヲ郡境
ノ村々七所ニ遷請シ奉ル所ナリト云フ。往昔ハ矢那瀨村ノ総鎮守ナリシガ今ハ末野村ノ総鎮守トナリテ、初穂此村ヨリ献ジ祀ルト云

 現在末野神社に合祀されているようだが、嘗て参拝した時にもそれらしい社・石祠も確認できず、明治四十二年に末野神社に合祀となった字関口の無格社天御中主神社がこれにあたると推測するホームページの記載もあったが、それを裏付ける資料等もなかった。
『新編武蔵風土記稿』金尾村には白鬚神社境内に「妙見社」の存在が記載されているが、これも判明できていない。今後の検討課題である。
 
   社殿奥に鎮座する境内社 八坂神社       八坂神社隣には武尊山大神の石碑

 国道140号線は嘗て秩父往還道とも呼ばれ、その中で、寄居町末野地区から矢那瀬地区の間に存在する秩父鉄道「波久礼」駅は荒川が東西から南北に直角方向に蛇行する断崖絶壁部の南端に位置する駅名である。「波久礼」、姥宮神社の鎮座する「風布」にも感じた優美でありながらどこか神秘的な響きを以前から抱いていた。
 秩父地方は武蔵国の成立に先立ち知知夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)が置かれ、独自の行政機構を維持した時期もあったといわれている。更に周囲が山脈に囲まれているため、外界とは峠を通じてゆるやかにつながる中山間地域として、独自の風土・歴史・文化が形づくられてきた。
 秩父地域における東の玄関口ともいえる矢那瀬・末野地区の中間点に位置する「波久礼」はまさに自然の要害地である。この名前由来として解説本で多いのは、嘗てこの地は「破崩(はぐれ)」や「端崩」とも呼ばれていた。東へ向かって流れて来た荒川が急激に南へと流路を変える地点であり、断崖絶壁が荒川に迫っていて、崖崩れが多発し、古くから秩父往還における最大の難所であったことから上記の名前になったという。山が渓谷に迫る狭隘かつ急峻な地形で、徒歩は最短距離である左岸側の川縁の道を通り、荷物は馬では通行不能なため、竿舟を用いて舟運で運搬するか、現在の八高線荒川橋梁のやや下流側の地点にある「子持瀬の渡し」で荒川の対岸に渡り、奥武蔵北部の釜伏峠や粥新田峠(かゆにたとうげ)の峠道を迂回して曽根坂峠から大野原へ至っていたという。(Wikipedia参照)
        
           陽光が差し込み、開放感ある矢那瀬八幡神社境内
                 
 秩父鉄道は明治32年(1899)に創立され、波久礼駅は明治3641日に開業された。波久礼から先の路線延長の進展は困難で、周辺の地形が崩れやすく、岩盤が荒川に直下に臨む断崖絶壁だったが、波久礼駅~金崎駅(現在の秩父駅)間の工事を終え、営業を開始したのは昭和44年(1911)。この区間の工事がいかに大変だったのかが分かるであろう。先人の方々の苦労があって、今我々は苦労なく長瀞・秩父地域に行くことができる。感謝の念にたえない。
「波久礼」は今でこそ「木造駅舎が今でも存在するレトロな雰囲気の漂う懐かしい駅」として駅周辺にもその独特な余韻が漂い、昭和の時代にタイムスリップしたような高度成長時期に青春を謳歌した我々には、少しのほろ苦さと嫌みのない歴史を感じさせてくれる貴重な地域である。秩父鉄道の各駅には「波久礼駅」の他にも数多く懐かしさを感じさせてくれる雰囲気のある駅が多く存在する。筆者は秩父鉄道が好きで、パレオSL蒸気機関車にも2度程乗っているし、休みの日には、SLを含む列車の写真撮影を、他の鉄道ファンと共に沿線上の空き地で待って、激写することを今でも楽しみの一つとして行っている。因みに知り合いの中では「秩父鉄道」とは言わず、「チチテツ」と愛称で呼び合っている。

 現代社会はとかく「グローバル社会」と騒がれ、国境を取り外して、地球全体として一つの共同体意識を持つ事を「是」とした国際社会の流れがあり、自然と個性やナショナリズムを否定する風潮が闊歩する中、このような個性あふれる駅等のような存在が未だ日本にはあり、その貴重な遺産をこれからの人々にも受け継がれることを切に願いたい。やはり「個性」が尊重されてでの「グローバル化」ではなかろうかと、神社参拝とは違う事項ではあるが、筆者は最近ふと思った次第だ。

     

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