古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

宮戸八幡大神社

        
           ・所在地 埼玉県本庄市宮戸1071
           ・ご祭神 誉田別尊
           ・社 格 旧村社   創建・建立 文正年間(14661467)
           ・例 祭 祈年祭 415日 初穂奉告祭 720日・1220
                例大祭 10月
15日 新嘗祭 11月23日 
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2393791,139.2388439,19z?hl=ja&entry=ttu
 宮戸
八幡大神社は国道17号深谷バイパスを岡部方向に進み、「道の駅おかべ」の先にある岡(東)交差点を右折する。群馬・埼玉県道259号新野岡部停車場線を道なりに真っ直ぐに北上し約2km進むと右側にこんもりとした社叢と道沿いに沢山の墓地、そして大日堂が見える。(横瀬神社並びに華蔵寺)その手前の十字路を左折し、また道なりに1㎞程真っ直ぐ進み、2番目の十字路を右折すると宮戸八幡神社が見える。
 正直実母方の墓地がある
華蔵寺、横瀬神社からそう遠くない場所にこのような社があるとは想像も出来なかった。これも神社散策での奇縁ともいえる。
 駐車スペースは社の道を隔てた場所が広い空間となっていて(但しそこが駐車場かは分からなかったが)そこの一角に車を停めて参拝を行った。
        
                 宮戸八幡神社正面から撮影
        
                        鳥居の左側にある案内板
 八幡神社 御由緒   所在地 本庄市大字宮戸一○七-一
 □御縁起(歴史)
 当地は利根川南岸の自然堤防上に位置し、利根川と当地との間には群馬県境町の飛地があり、かつての武蔵・上野両国境に位置する。
 社伝によれば、
当社は文正年中(一四六六~六七)に新田三河守家純(岩松家純)が五十子に陣を張った際、上野国新田郡岩松郷(群馬県新田郡尾島町岩松)の八幡宮の分霊を奉遷して鎮祭したという。また『児玉郡誌』には、承応元年(一六五二)の社殿改築の棟札に「横瀬郷鎮守八幡大神社」と記されていたことや、地頭所より年々祭祀料が寄附されていた旨が述べられている。
『風土記稿』
村の項には「八幡社 村の鎮守、観泉寺持」と記されている。当社の東隣に本堂を構える観泉寺は、八幡山無量院と号する真言宗の寺院で、応永年間(一三九四~一四二八)に新田氏の家臣金井主水が開基したと伝えられ、万治三年(一六六〇)に新田郡世良田村惣持寺の法印祐伝が再興し、当時は惣持寺の末寺であった。
 当社は
神仏分離を経て、明治四年に村社となり、同四十年に字中道北の八幡太神社、字山神の山神社、字藤塚の稲荷社の三社の無格社を本殿に合祀した。同四十一年には神饌幣帛料供進神社に指定された。
 平成
十年七月十八日、同地区に鎮座していた清水川稲荷神社を配祀した(中略) 
                                      案内板より引用
        
         境内は決して広くはないが、境内はちゃんと整備されている
             静かな
佇まいと共に荘厳さも持ち合わせた社

 宮戸地区は本庄市の最北端東寄りに小和瀬地区とともに位置していて、利根川に近く、低地部に属している。宮戸の歴史は古く、天正19年(1591)の検知帳にこの地が記されていることから、江戸時代に入ってかなり早い時期に検知が行なわれている。『風土記稿』を確認すると江戸時代から明治初期までは榛澤郡藤岡領に属していた。
 因みに宮戸の名前の由来は不明で、お宮があったことから由来するか、「ヤト」からくる湿地帯だった事からとしていて、はっきりとした根拠もなくわかっていない。
              
        案内板の左側にある「本庄市指定文化財 宮戸八幡大神社の格天井絵」

 宮戸
八幡大神社の天井花鳥画は拝殿の天井に描かれた28枚の花鳥画で、江戸時代末作成。宮戸出身の角田岱岳をはじめ、島村の金井烏州、金井研香らの作で、保存状態もよく、彩色でみごとであるという。
 金井
は寛政8年(1796年)、佐位郡島村(現佐波郡境町大字島村字前島)に生まれ、本名を泰といった。金井家は新田氏の支族で、その祖は金井長義と言われている。近世には近在に聞こえるほどの豪農であった。父の萬戸は酒井抱一などと交際をした俳諧の名手であった。 烏洲ははじめ兄の莎邨(詩文に優れる)から経史を学んだが、21歳の時に江戸へ出て、しばしば父のもとを訪れた青木南湖などから画書を学んだ。25歳の時、兄莎邨が夭折したので帰郷し、金井家を継ぎ代々の家名である彦兵衛を名乗った。 天保3年(1832年)には関西をまわり、頼山陽など多くの名家と交誼した。このころから画名をうたわれるようになり、子持村白井雙林寺の大襖絵や前橋市龍海院の大維摩像や『赤壁夜遊図』(境町指定重要文化財)などが描かれている。その画風は筆に勢いがあり気韻に富んでいる。
 また
『無声詩話』(嘉永7年)は卓越した近世画論として高い評価を得ている。江戸後期の県内における画才詩文が最も優れた存在であったが、安政4年(1847年)に62歳で没している。弟に金井研香(南宋画家)、子に杏雨(画家)、金井之恭(貴族院議員、書家)がいる。(伊勢崎市教育委員会)
 金井
烏州は江戸時代後期の画家であり、上野国佐位郡島村(現在の群馬県伊勢崎市境島村)に生まれていて、その苗字と出生地が示す通り、新田一族である金井氏の後裔にあたる。烏洲の号は、故郷の島村が利根川へと流れ込む烏川の洲にあったことにちなむ。
 
    鳥居を過ぎてすぐ左側にある末社群         末社群の隣には神楽殿あり
        
                      拝  殿
        
                 拝殿向拝部の見事な彫刻
 社伝によれば、
当社は文正年間(14661469)に新田三河守家純(岩松家純)が五十子に陣を張った際、上野国新田郡岩松郷(群馬県新田郡尾島町岩松)の八幡宮の分霊を奉遷して鎮祭したという。また「児玉郡誌」には、承応元年(1652)の社殿改築の棟札に「横瀬郷鎮守八幡大神社」と記されていたことや、地頭所より年々祭祀料が寄付されていた旨が述べられている。「風土記稿」宮戸村の項には「八幡社 村の鎮守、観泉寺持」と記されている。観泉寺は当社の東隣に位置する。明治四年神仏分離を経て、村社となる。
 
      神楽殿の隣に鎮座 祖霊社か         社伝の左側奥にある末社群

 宮戸八幡神社は利根川
南岸の自然堤防上に位置し、利根川と当地との間には群馬県境町の飛地があり、かつての武蔵・上野両国境に位置している為、新田系の氏族関連の地名や、苗字も多く存在する。実は自分の母方の系統も元を辿れば、新田氏族の家来である「横瀬8騎」の後裔にあたる。
○三友氏
・深谷市福応寺由緒書
 「元弘
三癸酉五月東征伐之論旨給はり御一同不残御加勢に付桃井直常公、横瀬党三供主計等、右六騎者桃井公之旗下也」。金山城主横瀬氏と共に行動し横瀬姓を名乗る。六騎先祖書写に「三供主計兼村(永和三年十月十八日卒)―三供彦太郎村房(応永十二年五月十二日卒)―横瀬加賀房利(文安二年十一月十一日卒)―横瀬新右衛門房保(寛正二年十一月四日卒)―横瀬主計房教(応仁二年十二月三日卒)―横瀬新太郎芳茂(延徳三年十月二十九日卒)―横瀬新左衛門房次(永正十七年二月四日卒)―横瀬彦右衛門房賀(弘治元年十二月十一日卒)―三供新右衛門繁房(元亀二年二月二十七日卒)―三供新兵衛」

 新田家本流は南北朝時代足利氏と対立し、激戦の末に没落する。そして足利方に回った新田足利流岩松氏が新田家の本貫地である地域を必死に守り、同時に新田家を後世に残す役割を果たした。宮戸八幡大神社の創建・創立にはその岩松系の一族が関わっている。
 遠い歴史の中で先人たちが苦悩し、努力をしたおかげで今の自分が存在している。川の流れのように歴史も過去から現在に至る悠久の流れの中に今の自分がいる。遠い先人たちの思いを感じながら、同時にその奇妙な縁を感謝しつつ、厳かな気持ちで参拝を行った次第だ。

           


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仁手諏訪神社

        
             ・所在地 埼玉県本庄市仁手353
             ・ご祭神 健御名方命 妃八坂刀売命
             ・社 格 旧元仁手村鎮守・旧指定村社
             ・例祭等 祈年祭 43日 例祭 1019日に近い日曜日
                  新嘗祭 129
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2436692,139.2112425,16z?hl=ja&entry=ttu
 仁手諏訪神社は国道17号を本庄市方向に進み、歩道橋がある「日の出四丁目」交差点を越え、次の信号のない交差点を右折する。道幅の短い道路を道なりに進み、小山川を越えて尚も進むと、正面に傍示堂稲荷神社が見えてくるが、そこから北側にこんもりとした社叢が見える。そこが仁手諏訪神社であり、傍示堂稲荷神社からも400m弱北側で、ほぼお隣さん状態で仲良く鎮座しているような印象も受けた。
        
                  仁手諏訪神社正面
 
     正面鳥居の左側にある案内板     鳥居を過ぎると参道と共に広い境内が広がる

○本庄市指定文化財「諏訪神社獅子舞」
 この獅子舞は日下開山常陸角兵衛流獅子舞といわれる。それは天明八年(1788)当時この流派の奥義を極めた高原喜八が諏訪神社の氏子に伝授したのがはじまりといわれるからである。のちに仁手の家々の多くの人がこの舞の技能をおさめ毎年十月十九日の祭礼に、神社に奉納し今日まで継続されている。特にこの舞に使用される獅子頭は延宝三年(1675)仁手村の領主笹山彦左衛門が常陸国の城主蔭山数馬から拝領したものといわれ、特色がある。
 昭和37年3月23日  本庄市教育委員会                  
境内案内板より引用
        
                     拝 殿
 
          本  殿                拝殿脇にある案内板

 諏訪神社御由緒   所在地 埼玉県本庄市仁手三五三
 □縁起

 創立年代は不詳であるが、「明細帳」によれば、上杉忠清が本庄領主であった永禄四年(1561)には下畑五段十五歩の除地があり、本庄美濃守が本庄領主だった天正十一年(1583)にはその所轄となって萱野四段歩の寄付を受けたという。また、氏子の梅沢甚三郎家の先祖は、鉢形城の最後の城主である北条安房守氏邦の家臣で、落城後に当地に来て土着したとの伝えがある。
 これらの伝承と、鉢形城内に諏訪神社が祀られていたこと、本庄領一帯では長禄から天正(14571592
)にかけて諏訪神社が勧請されている例が多いことなどを合わせて考えると、仁手諏訪神社は鉢形城麾下の諏訪信仰を背景にして勧請された社の一つであると思われる。ちなみに、利根川の対岸に位置する上仁手にも諏訪神社があり、北条氏麾下の茂木某の勧請と伝えている。
 『風土記稿』の元仁手村の項に「諏訪社 村の鎮守なり、宗福寺の持」とあり、江戸期は真言宗の諏訪山宗福寺が当社の別当であった。しかし、実際の祭祀は、宗真院のすぐ西に居を構えていた茂木家が行っており、記録によれば文政八年(1825)に茂木兵吾が京都の吉田家の配下となり、その子孫は明治十年(1877)まで当諏訪神社の神職を務めた。また元禄十五年(1702)に社殿が改築されたと伝えるが、老朽化のため、本殿以外は昭和六十年(1985)十一月に建て替えられた(中略)

 

 境内には社殿と並んだ状態で、境内社・末社等が鎮座しているが、その詳細は不明である。『風土記稿』等資料により、合祀社は「戸隠神社」「大杉神社」外四社(不明)であり、末社に関しては稲荷神社,蚕影神社、祖霊社等らしいのだが、それ以上は判明しなかった。
        
                 道路沿いにある案内板

 諏訪神社 所在地 埼玉県本庄市大字仁手三五三
      祭  神 健御名方命 妃八坂刀売命
 当社の創立はいつのころか明らかでないが、かなり古い社で、元禄四年(1691)に当時の領主・上杉忠清が神田五反五畝十五歩を寄進しこえて元禄十五年(1702)には、社殿改築されたと伝えられる。その後老朽化したので昭和六十年(1985)十一月諏訪神社社殿、稲荷神社、蚕影神社、祖霊社、末社を往時のままに復元新築した。
 文政八年(1825)ころは、京都吉田の配下、茂木兵吉が神主となり、その子孫が明治十余年頃まで奉
仕していた。明治四十四年(1911)境内社の戸隠神社、大杉神社外四社を合祀。
 大正九年(1920)四月、本県より幣帛料供進社に指定。諏訪神社に奉納される獅子舞は日下開山常陸角兵衛流獅子舞といわれる。
 それは、
この流派の奥義を極めた高原喜八から諏訪神社の氏子に伝授したのがはじまりであったからである。
 その後
氏子の相伝となり1019日の祭礼に奉納されるが特にこの舞に使用される獅子頭は延宝三年(1675)に仁手村の領主蔭山数馬から拝領したものといわれている。
 なお、当社奉納の獅子舞は市の指定文化財になっている。
 昭和
613
月                              境内案内板より引用

        
 ところで本庄市
仁手地区は、本庄市の利根川沿いにある最北部西端に位置する地区で、昔から利根川や烏川の影響を強く受けざるをえない地形的な宿命を持った地区でもある。特に水害では明治期に大きな被害が出ており、分かる範囲でも、明治23年、同31年、同43年と大きな被害を受けていて、特に31年には堤防決壊1件、堤防破壊2軒の記録が残されている。
 この地区は
現在利根川が北部を流れているが、嘗ては烏川の氾濫原に位置していたらしく、仁手・上仁手・下仁手の旧3村は元々は一つの村であったと思われ、中世期には上野国那波郡に属していた。その後寛永年間の大洪水により、烏川の流路変更に伴い、武蔵国に入った。
        境内南側の門の端部び立つ庚申塔、及び猿田彦大神(写真左・右)
  
 天正8年
北条氏邦朱印状(長谷部文書)には「栗崎・五十子・仁手・宮古島・金窪」の地名が見え、当時の鉢形北条氏の直接支配する勢力範囲の北限を示しているという。
 この
「仁手(ニッテ)」の地名由来として上野国足利一族の「新田(ニッタ)氏」からの転訛とも、「ニタ」は湿地の意味から由来するとも言われている。

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小和瀬稲荷神社


              ・所在地 埼玉県本庄市小和瀬1
              ・ご祭神 倉稲魂命
              ・社 格 旧小和瀬村鎮守・旧指定村社
              ・例 祭 祈年祭 32日 例祭 1019日 新嘗祭 122
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2458914,139.2265005,16z?hl=ja&entry=ttu    
 小和瀬稲荷神社は国道17号バイパスを本庄方向に進み、岡(西)交差点を右折、旧中山道を利根川方向に進み、埼玉県道45号(本庄妻沼線)から258号(中瀬牧西線)に合流、藤田小学校交差点を右折する。
長閑な田園地帯を道なりに進むと1㎞程で小和瀬交差点に到着し、その交差点先の右側に小和瀬稲荷神社が鎮座している。この社のすぐ東側には備前渠用水が流れていて、河川に関連した社である事は確かである。
 小和瀬交差点を右折して、1本目のT字路を左折する。細い道路の先にやや広い空間があり、そこに車を停めて参拝を行う。因みにこの社の住所は「小和瀬1」。この小和瀬地区の中心地であることもこの住所地で分かる。
        
               県道沿いにある社号標と鳥居
        
                               社号標石の傍にある案内板
 62回伊勢神宮式年遷宮記念
 稲荷神社御由緒     本庄市小和瀬一

 □縁起
 『風土記稿』小和瀬村の項に「稲荷社 村の鎮守にて宝蔵寺の持」と載るように、当社は江時代には真言宗の宝蔵寺の管理下にあった。この宝蔵寺は、神仏分離によって明治初年に廃されたものと思われ、今ではその跡地さえ定かではないが、同寺に伝えられていた「小和瀬村鎮守稲荷大明神縁起」(『埼玉叢書』第六巻所収)を要約すると、次のようになる。
 天慶年聞(九三八~九四七)平将門征討のため東国に下向した源経基が、利根川の辺りにたむろしていた将門の弟三栗三郎将頼と小阿波瀬の河原で戦い、ついに将頼を討ち払うことができた。この勝利に際し、経基が京都伏見稲荷を村の西方に勧請したのが当社の始まりであり、弘安年間(一二七八~八八)にこの地に住した小阿波瀬野五郎重弘が当社を守護神となし、更に寛正年間(一四六〇~六六)に上杉管領房顕が五十子城にあった時、当社を東方に遷すと共に社殿を五十子城に向けて再建し、城の鬼門守護の神として祀ったという。
 その後も、当社は様々な武将によって崇敬され、永禄五年(一五六二)の小阿波瀬合戦では、当社の森に宿陣した新田方が上杉方に大勝利を収めたことから、新田家より神領を差し置かれた。慶長九年(一六〇四)の備前渠用水の掘割りに際して、一旦は村の西方に遷座したが、寛永二年(一六二五)に現在の社地に移り、今に至っている(中略)

                                    境内案内板より引用
        
         社殿、神楽殿等に続く参道。この参道はほぼ西向きでもある
 案内板でも記述されているが、平将門征討のため東国に下向した源経基が、利根川の辺りにたむろしていた将門の弟三栗三郎将頼と小阿波瀬の河原で戦い、ついに将頼を討ち払うことができた。この勝利に際し、経基が京都伏見稲荷を村の西方に勧請したのが当社の始まりであり、弘安年間(1278~88)にこの地に住した小阿波瀬野五郎重弘が当社を守護神となし、更に寛正年間(1460~66)に上杉管領房顕が五十子城にあった時、当社を東方に遷すと共に社殿を五十子城に向けて再建し、城の鬼門守護の神として祀ったという。
   
   参道途中左側に鎮座する境内社(写真右・左)。風土記稿等調べたが、詳細は不明。
 ただ案内板では、御祭日として、「祖霊社例祭」「八坂祭」「手長男祭」が記載されているので、祖霊社・八坂社・手長男社が鎮座していることは確かである。また『風土記稿』において、稲荷社は当時「宝臓寺」持ちであり、このお寺には「飯玉明神社」も鎮座していたという。
 どなたか詳細分かる方がいましたら、教えて頂きたいと思います。
        
                                       拝  殿
 稲荷神社が鎮座する「小和瀬」の地名は、中世の時代には既に使われていたようで、『松陰私語』(上野国世良田長楽寺住職の家記)には五十子陣の記述の所に「小波瀬」と記録されている。思うに利根川と烏川の下流の氾濫原という意味で「川瀬」がその由来となっていると思われる。
 この「小和瀬」は「強瀬」との意味にもとれ、利根川の水勢の強い場所としている。「強瀬」の名前の由来として、山梨県である甲斐国都留郡強瀬村が起源(ルーツ)であり、小長谷部(こはせべ)氏子孫という説もあるようだ(武烈天皇の御名代部を小長谷部と称していた)。埼玉県利根川流域には「「小和瀬」の他「中瀬」「横瀬」「滝瀬」瀬」のつく地名が多く、やはり河川由来の地名ではなかろうか。
 
           拝殿向拝部・木鼻部の見事な彫刻(写真左・右)
 
     社殿の手前左側には神楽殿               社殿の奥にある境内社・末社の石祠

 小和瀬稲荷神社の東側には利根川水系の備前渠用水が東南方向に流れている。この備前渠用水は「備前堀」の愛称で親しまれているが、慶長91604)年に関東郡代伊奈備前守が江戸幕府の命で開削した埼玉県最古の用水路である。この大工事により、北武蔵利根川右岸一帯を一挙に潤し、北武蔵農業の生命線となった。
          
       
小和瀬稲荷神社のすぐ東側に流れる備前渠用水(写真左・右)
 この備前渠用水路は利根川から取水し、埼玉県北部の本庄市、深谷市、熊谷市を流れ、利根川右岸約
1,400ヘクタールの水田にかんがい用水を供給する延長約23キロメートルの農業用水路であり、現在でも素掘りの区間が多く、当時の面影を残している。

                      

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牧西八幡大神社

 牧西八幡大神社が鎮座する「牧西」と言う地名の由来では、古い資料には「目西」と書かれている物もある(戦国時代の古文書・上田文書)が、『風土記稿』によると、嘗てこの地の東側に「櫛引(くしびき)」と言う名の野牧(現、深谷市櫛引)があり、その西端に位置したことから「牧の西(櫛引野牧の西)」の意味で村名が生じたとされる。
「牧西村ハ村東櫛引野二古エ牧アリ、ソコヨリ西二当ル地ナレハ斯呼ヘリ」(風土記稿)
 したがって、鎌倉時代の人物である弘季以前からあった地名である。字は木西とも書き、読みは「もくさい」。大寄郷藤田庄に属する。
 この地の八幡神社(現、八幡大神社)は四郎弘季が相模国鎌倉宮を当地に奉祀し、建立したことから始まると伝えられる。
 
        
              ・所在地 埼玉県本庄市牧西557
              ・ご祭神 誉田別尊・神功皇后・中比売神(応神天皇后)
              ・社 格 旧牧西村鎮守・旧村社
              ・例祭等 1015日 金鑚神楽・宮崎組
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2336503,139.2184289,17z?hl=ja&entry=ttu  
 牧西八幡大神社は国道17号バイパスを本庄方面に進み、岡(西)交差点を右折する。この丘(西)交差点を横断するルートは「中山道」と言われた江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。大井川などを渡る東海道に比べて川止めが少なく、旅程が計算できたことから、利用する旅人も多かった。木曽路など山間の道も通るため、「木曾街道」や「木曽路」との別名もある。また京都の宮中から将軍家に嫁ぐ際、通行していたため、姫街道とも呼ばれていた。
 17号国道バイパス・丘(西)交差点を右折して、小山川に架かる橋(滝岡橋)を過ぎ、暫く道なりに進む。
その後埼玉県道45号本庄妻沼線と合流し、左折後牧西(西)交差点で埼玉県道・群馬県道258号中瀬牧西線に変わり、そのまま真っ直ぐ進み、藤田小学校を越えるとすぐ左側に牧西八幡大神社に到着する。県道も短い区間で2か所変わり、藤田小学校前交差点からも厳密にいうと県道にも属していないルートとなり、簡潔に説明するのが難しいが、ルートは至って単調で分かりやすく、この社も道路に沿って鎮座しているので、所在地も比較的分かりやすい場所にある。
 駐車スペースは社を過ぎてすぐ隣に火の見櫓が設置されている場所に広いスペースもあり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
               道路沿いに鎮座する牧西八幡大神社
       
社号標石は2か所あり。道路沿い・鳥居手前右側(写真左)と、境内入りすぐ右側(写真右)にもあり
       
           
社号標石の近くには神木が聳え立つ(写真左・右)
        
                 道路沿いにある案内板
 ○八幡大神社 所在地 本庄市大字牧西五五七番地
 祭神 誉田別尊(応神天皇) 神功皇后 中比売神(応神天皇后) の三柱
 当社は、建久年間(一一九五)に児玉党の一族・牧西四郎広末が武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡宮を奉遷して当所に祭ったものである。こえて文明三年(一四七ー)五十子合戦のとき兵火にかかって焼失。その後は廃社になっていたが、慶長十七年(一六一二)ごろ信州佐久郡依田荘の住人・依田五郎左衛門が当地に来て在住したが八幡大神社を再興ふかく信仰した。依田氏は後に姓を宮崎と改め、当社の神主として代々奉仕した。徳川時代には領主より神田五畝二十五歩の寄進があった。明治四十一年本県より神饌幣帛料供進社の指定があった。
 なお、当社奉納の宮崎組神楽は、市の指定文化財になっている。
 この神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、その起りとされており神をよろこばせる舞楽として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑚神楽・宮崎組の起りについてはまだ明らかでないがつかわれている面は江戸時代正徳年間(一七一一年~一七一五年)以前の作であり、この地の神楽が古くから行なわれてきたことを物語っている。宮崎組は変わり面などの珍らしい舞い方も伝えられ、また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた。なお座(出し物)はいま二十五座伝えられている。
 昭和六十一年三月     埼玉県  本庄市               境内案内
板より引用
 
        
 牧西八幡大神社の二の鳥居を越えて更に参道を進むと(写真左)、正面に神楽殿があり(同右)、そこから直角に曲がると拝殿が鎮座する位置的な特徴を持つ社。

 宮崎組の金鑚神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、その起こりとされており、神を喜ばせる舞楽として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金讃神楽・宮崎組の起こりについては、まだ明らかではないが使われる面は江戸時代の正徳年間(17111715年)以前の作であり、この地の神楽が古くから行われていたことを物語っている。
 宮崎組は変わり面など珍しい舞い方なども伝えられ、また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて奉納してきた。
なお、座(出し物)は今でも二十五座伝えられている。
 昭和35年11月10日 本庄市教育委員会
                                 道路沿いの案内板より引用
        
                      拝 殿

「金鑽神楽」とは、児玉郡神川町二ノ宮にある金鑚神社を核として埼玉県北部に形成された
13組の神楽組による神楽の総称である。
 本庄市域では、金鑚神楽の「5組の神楽」が本庄市無形民俗文化財に指定されている。
 神楽とは神様の心を慰めるために演じられる舞楽であり、一般には里神楽と呼ばれ、古くは神社ごとに特色ある神楽が演じられていたが、現在本庄市域で行われている神楽は全て『金鑚神楽』である。
 一社相伝の由緒深いこの神楽は、専門の神楽師ではなく、神社の氏子達によって代々伝承されているのだそうだ。かつては埼玉県北部の各神社ごとに別々の組が設けられ、個々に別々の演目、様式で伝えられていたが、明治時代に13の組に再編された。
 尚、伝承系統は大きく大宮住吉神社(現坂戸市)系と深谷市鼠八幡社(旧藤沢村)系の2つの系統と考えられる。
 
       拝殿向拝部の彫刻                本 殿

 
   正面鳥居右側に鎮座する境内社八坂社    八坂社の隣に
三笠山大神御嶽山大神等の石碑
 
三笠山大神御嶽山大神の隣に境内社・末社あり     社殿奥には屋台・神輿倉庫か


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傍示堂稲荷神社

              
        
                            ・所在地 埼玉県本庄市傍示堂
427
              ・ご祭神 宇気母智命
              ・社 格 旧指定村社
              ・例祭等 節分祭23日  祈念祭 48日に近い日曜日 
                   例祭 1019日に近い日曜日 新嘗祭 125
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2417068,139.2089125,17z?hl=ja&entry=ttu
 傍示堂稲荷神社は国道17号を本庄市方向に進み、歩道橋がある「日の出四丁目」交差点を越え、次の信号のない交差点を右折する。道幅の短い道路を道なりに進み、小山川を越えて尚も進むと、住宅地を越える最初の十字路の先、左側に「稲荷神社参道」の標石が見えるので、そのまま進むと正面に傍示堂稲荷神社の社叢が見えてくる。
 駐車スペースは入り口手前右側に少しあるので、そこに停めて参拝を行った。
       
         傍示堂稲荷神社正面      入口右側にある社号標と案内板
        
 稲荷神社 所在地 本庄市大字傍示堂四二七番地
 祭神 宇気母智命 外四柱

 当社は、文明二年(1470)本庄宮内少輔信明が小田原城主・北条氏直との戦ったとき戦勝祈願のため、伏見の稲荷大明神を当社に遷座したが、戦いは勝利をおさめたため、ふかく信仰した社であると伝えられている。現在の本社は、明治14年に再建、昭和56年現社殿を大改築をし、明治40年には、無格社御獄神社、八坂神社の二社を合祀、大正55月、本県より幣帛料供進社の指定があった。
 昭和613
月  埼玉県 本庄市                       案内板より引用
        
                  鳥居より社殿を望む
「五十子」という本庄市にある変わった地名を紹介したが、今回も同市内にある社の地名を紹介する。その名は傍示堂。やはりちょっと変わった地名である。
 地域名の「傍示」とは境界を示すことを意味するらしく、地名の由来は、二つの街道の分岐点に仏堂を建立し、街道の傍示としたことに由来する。そして、境界に建てられた御堂のことを傍示堂と呼んだのだそうだ。武蔵国と上野国との国境線は何度か変更になったことがあるようだが、かつてこの場所に武蔵国と上野国との国境線があったこともあるようで、ここには市場があり、たいそう賑わったのだそうだ。
 
     参道途中左側にある神楽殿       神楽殿に対して参道の反対側にある神庫
       
                    拝 殿
       
          本 殿                      拝殿脇にある案内板
 第62回伊勢神宮式年遷宮記念
 稲荷神社 御由緒
 □縁起  本庄市傍示堂四二七
 傍示堂という地名は、中山道と三国街道との分岐点に傍示(道標)として蔵王権現の堂を建立したことにちなむものであるという。この堂は、神仏分離によって廃止され、その跡地は当社の社務所となっていたが、昭和62年に集落センターとして建て替えられた。
 大正三年に田沼延四郎がまとめた由緒書によれば、永禄年間(1558年〜1570年)に本庄宮内少輔信明が京都の伏見稲荷大社に戦勝を祈願し、北条氏直との戦いで勝利を得たので、
この地に同社の文霊を祀ったのが始まりであるという。また、同書はさらに、本庄勘解由康忠が天正のころ(15731592)内野姓を名乗って帰農した際、当社を一族の氏神として祀り、天保12年(184199日には村の五穀豊穣の守護神として現在の社地に社殿を再興したと伝える。
 しかし、実際に永禄年間に本庄氏が当社を創建したとすれば、当社を勧請したのは信明ではなく、その曽孫の実忠でなければならない。この点で、右の由緒には問題があるが、いずれにせよ当社の創建には本庄氏が深くかかわっており、村の開発に伴って代々名主を務めた内藤家の氏神、更に村の鎮守へと信仰を広げていったものと思われる。氏子の間に伝わる「内藤家の屋敷内に祀られていた稲荷社を、村の鎮守として現社地に遷した」との口碑も、それを裏付けているものであり、『風土記稿』も「稲荷社村の鎮守なり、村民の神」と期している。
                                    境内案内板より引用
 
     社殿奥に鎮座している石祠群        石祠群の隣にも境内社が鎮座
「風土記稿」によれば春日社は稲荷神社に合祀されていて、また庖瘡社、蔵王権現社も境内社として鎮座しているというが、どの祠であるかは分からなかった。
       
                  拝殿からの一風景
 江戸時代には傍示堂は五料(ごりょう)道との追分(分岐点)で、厩橋(前橋)6里、五料関所へ2里の道でした。沼田や伊香保へも通じていた。五料道は、五料関という関所のあった五料宿(現在の群馬県佐波郡玉村町)でこの先の中山道・倉賀野宿で分岐してきた日光例幣使街道と繋がり、現在の地名で言うと群馬県伊勢崎市、太田市、栃木県足利市、佐野市、栃木市、鹿沼市を経て日光東照宮に繋がっていた。
 傍示堂地区に真言宗智山派円満寺があり、そのお寺の伝えによると「永禄年間に開基は本庄宮内少輔信明の後胤市郎右衛門政則にして、開山を本庄氏出身隣策和尚と称す」との記述がある。傍示堂稲荷社は本庄信明の勧請により、また同社附近に居住する内野氏は本庄実明の後裔と伝えられ、安土・桃山時代末期に帰農して、一族の氏神として内野氏敷地内で祀られたという。
 
        
     

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