古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上小川神社

 小川町は水の町である。当地は槻川・兜川流域の小川盆地に位置し、地内で両河川が合流する。古来、人々は槻川に対して支流の兜川を小川と呼んでいたのが地名に転化したと伝えられていて、川の成り立ちとまちの反映との親和性が非常に高い地域でもある。当地方は小川和紙で有名であるがその歴史は古く、『正倉院文書』の宝亀五年(七七四)に「武蔵国紙四百八十張」と載り、河川の利用と一帯に自生する楮を使用して、当地の産業として営まれていたと考えられる。
 小川町は嵐山町と並んで『武蔵の小京都』と謳われていて、歴史的価値のある寺社や仏閣、城跡などの名所旧跡が至るところに存在する。
 上小川神社は小川町市街地に鎮座する小さい社だが、槻川の恩恵を受けて発展した『町の鎮守様』として長く町民の方々の崇拝を受けている「天王様」であり、定期的に開催された「市場の神」でもある。
                
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町小川68
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 不明
             
・例 祭 春祭り 3月初午 例大祭(七夕祭り) 725日 
                  秋祭り 
1128
 角山八幡神社から一旦小川町市街地方向に南下し、国道254号線に合流後、小川警察署を目標に道なりに進む。その後警察著手前左側で、国道に面して「華屋与兵衛」と民家の間に上小川神社が静かに鎮座している。
 道路沿いに社号標柱が立っていて、その奥に車を駐車できそうなスペースはあるのだが、出来る限り、神聖な社の敷地内に車等の交通量の多い道路での出し入れの問題もあり、また警察著にも近いこと等慮って、近隣にあるコンビニエンスストアで買い物終了後、一時的に車は置かせていただき、社の参拝を行った。
                
                             国道254号線に面する上小川神社
                     
       鳥居の前には桜が咲き始め、その奥にはご神木らしき巨木が聳え立つ。
                
                                 神明系の鳥居
「埼玉の神社」によれば、江戸幕府が開かれ寛永年間(一六二四-四四)以降、江戸が大消費都市となるに伴い、小川和紙の生産が大きく発展した。しかも、当地は江戸から秩父への往還の宿駅で、物資の集散地として毎月一・六日に市が立った。市が寛文二年(一六六二)に大塚村から移転し、同じころに東秩父村の身形神社の分霊を市神様として当社に勧請してからは、当社は商売繁昌の神として広く信仰を集めるようになった。なお、和紙は農家の副業として農閑期に営まれていたものであるため、当社は農民からの信仰も厚く、『風土記稿』は「天王社 村民持」と記している。
                
                    拝 殿
 上小川神社  (小川字六六)
 上小川神社は、市神すなわち小川の市の守り神として勧請された八雲神社(江戸時代には「天王社」と称した)に、大正四年九月十日に神明町の神明大神社と稲荷町の稲荷神社を合祀したことにより、社号を上小川神社と改めたものである。ちなみに、この杜号は、小川の総鎮守である下小川の八宮神社に対し、八雲神社が上手に位置することから付けられたものであるという。
 上小川神社の母体となった八雲神社の由緒については、東秩父村の身形神社の分霊を勧請して祀ったとか、大塚から小川に市が移つてきた際に、八雲大神の掛軸を市神として祀ったのが始まりであるなど諸説あるが、応永年間(一三九四-四二八)には現在の本町二丁目に石祠が建立されている。当初は往還の中央にあったこの石祠は、のちに新井屋瀬戸物店脇の道端に移して祀られていた。
 それが、大正四年に、神明大神社・稲荷神社との合併によって現在の境内に移ったのであった。現在の境内は、西光寺持ちの寺子屋があったところで、その後小川小学校の校舎が建てられていたが、同校が移転した跡地を利用して、神社の用地としたものである。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
                
                         幣殿・本殿。本殿は
土蔵造りでできている。                 
 洪水対策であろうか、拝殿から本殿に至る下部には空洞となっていて、本殿は石を積み重ねて高くしている。「小川町 洪水ハザード」でも、この小川町中心街は
槻川と兜川の合流地点であり、町の形成にこの河川は欠かせない存在であったことは間違いないが、大きな水害が発生すると、この一帯は浸水等の被害もあったであろう。社の造り一つでもこのような歴史を架今着られるものだ。
 
  社殿左側奥にある「八意思兼命・手置帆負命・比古佐自命」と刻印された石碑(写真左)。また社殿の右側に鎮座する上小川神社境内社。三峰社だろうか(同右)。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」
    「小川町 ハザードマップ」等

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角山八幡神社


                
            
・所在地 埼玉県比企郡小川町角山277
            
・ご祭神 八幡大神 諏訪大明神 大聖歓喜天 稲荷大明神 天満宮
            
・社 格 旧角山村鎮守・旧村社
            
・例 祭 夏祭り(天王様)726日 例大祭 1019
 靭負熊野神社から一旦東武東上線「竹沢駅」に引き返し、そこから南下して国道254号線に交わる交差点を左折する。東武東上線の線路を左側に見ながら沿うように国道も走っていて、その道を2.5㎞程進み、「小川町駅(西)」交差点の2つ手前の信号を左折、すぐ先にある陸橋を通り過ぎ、兜川に架かる橋を越えた直後のT字路を左折し、300m程進むと右側に角山八幡神社が見えてくる。
 境内には駐車可能なスペースも確保されていて、撮影等の邪魔にならない所に停めてから参拝を開始する。
                
                               
角山八幡神社正面
 現在は角山と書いて「カクヤマ」と読むが、嘗ては「ツノヤマ」と呼ばれていた時期もあったようだ。
                
                         手入れも行き届いてすっきりとした境内
 角山八幡神社の南側は兜川が流れていている。
この兜川は、埼玉県比企郡小川町を流れる荒川水系の一級河川で、延長約7.5 km、管理延長は約6.9 km。小川町北西部の大字勝呂の山地に源を発する。木呂子川と西浦川が小川町大字勝呂字片瀬で合流した場所に当川の管理起点となる標石が設置されていて、起点当初から支流である「野竹川」「木部川」「桜沢川」「笠原川」「飯田川」「角山川」が短い距離にも関わらず兜川にそれぞれ合流していて、角山八幡神社西側500m付近で合流の連続は終了する。八高線や国道254号に沿うような形で南東方向に流れ、小川町駅を過ぎた小川町大字小川の小川橋の川下で槻川に合流する。
                
                                        拝 殿
 八幡神社
 角山の八幡神社は、元弘三年(一三三三)に勧請され、元は峰山に祀られていたが、兵火にかかって社殿を焼失したため、明暦二年(一六五六)に現在の境内に移転したという。峰山の元地には、石祀があり、しばらく前までは字峰山の人々が祭りを行っていた。
 この八幡神社は、「五社八幡宮」とも呼ばれるが、それは、明暦二年に現在の境内に移転した際、角山の草分けである栗生田・岩田・新井・杉田・根岸の五軒の各氏神である八幡・天神・諏訪・稲荷・聖天の五社を統合して角山全体の鎮守として祀ることになったためで、現在の境内は元来は新井家の諏訪杜があった場所である。
 五社の中でも八幡社が中心になった理由は、この社を氏神とする粟生田氏が、角山第一の土豪であり、移転当時は角山坊と号して修験者としても活動を行っていたことにあると思われる。
 なお、八幡神社は武術の神として信仰が厚く、昭和二十七年ごろまでは例大祭に流鏑馬が行われていた。また、八幡神社を祀っているためか、角山は武術が盛んな土地で、社殿には「明治辛未」に地元の弓道家が奉納した七個の金的と弓を配した額も掛かっている。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
 角山村 八幡
 村の守なり、別當を宮生山正覺院と云、本山派修驗、男衾郡板井村長命寺の配下なり、本尊不動を安ず、
                           『新編武蔵風土記稿 角山村』より引用
 案内板等では、現在でこそ小川盆地内で兜川左岸に鎮座しているが、元々山伏としてこの地に移住してきた粟生田一族が、元弘三年(一三三三)に字峰山の地に氏神である八幡社を祀り、角山坊と称して活動を行うようになったといい、いわば山岳修験の社であった。
 
       境内社 手長社・八坂社合殿          「八意思兼命・手置帆負命・比古佐自命」石碑

 ところで、「粟生田」は 「アオウダ」と読み、武蔵七党 児玉党から分派した一族であり、入間郡浅羽庄(現坂戸市付近)粟生田村より起こっている。
武蔵七党系図
浅羽小太郎行業―粟生田五郎行直―四郎太郎季行―小三馬允行方(弟四郎季信―太郎行延、季信の弟五郎俊行)―馬二郎光直(弟三郎□忠)―野六郎直氏(弟孫二郎盛直)。季行の弟三郎正行―某―行弘。正行の弟八郎実行―家行―二郎泰行。家行の弟に、兵衛尉行氏、小八郎行盛、右近某」と見ゆ。越生郷報恩寺年譜に¬元応二年四月二日、幕府は、粟生田彦太郎直村妻藤原氏の訴えにより、小代馬二郎伊行の沽却せし武蔵国小代郷内田玖段を藤原氏女に領掌せしむ」
小川町史
角山村の八幡神社は粟生田氏の祖が元弘三年この地に移り住んで八幡社を勧請す。江戸時代は角山村名主を務む。八幡神社は五社八幡とも呼ばれ、粟生田・岩田・新井・杉田・根岸の五氏の氏神である八幡・天神・諏訪・稲荷・聖天の合社で、やぶさめ神事もこの五氏によって奉納されてきた」
                
             角山八幡神社の南側には兜川が流れる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」「Wikipedia」等


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靭負熊野神社

「靱負尉(ゆきえのじょう))は「えもん(衛門)の尉」の別称で、律令制における官司。律令制以前は大王の親衛軍をさし、靫負(ゆげい)と言われていた。原義は「矢を入れる靫(ゆき、ゆぎ)を負うもの」であり、靫を持って朝廷の警護の任に当たった武官を指す言葉である。舎人同様、上に天皇や宮号を称するものであり(白髪部靫負・勾靫負など)、国造の子弟を主として編成されたもののようである。舎人が東国出身者が多かったのに対し、靫負はどちらかというと西国が中心である。舎人が天皇の警護を主としたのと異なり、靫負は宮城の門を守護することが主任務とされていたが、宮号を称する靫負が少ないことから、舎人の勢力に押され、儀仗的な存在になったことが推定される。
 宮城・衛門府の第三等の官で、左右二府に大尉(だいじょう)、少尉(しょうじょう)がある。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。律令制では、従六位下、正七位上相当の官で、衛門府のことを「靫負司(ゆげいのつかさ)」と呼ぶこともあり、衛門佐を「靫負尉」とも呼称していて、検非違使庁も衛門府の官人の兼任からなるところから、「靫負庁」とも呼ばれている。
                
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町靭負343
             
・ご祭神 伊弉冉命 速玉男命 事解男命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 43日 御例祭 1015
 国道254号バイパスを寄居町方向に進み、進行方向左側に見える「ホンダオート オークション東京会場」を越えた直後のT字路を左折する。道なりに800m程進行すると右側に東武東上線東武竹沢駅ロータリーが見え、その先の突当たりを左方向に進路をとる。その後「靭負区民センター」手前にT字路があるので、そこを左折し、暫く進むと正面方向に曹洞宗竹沢山雲龍寺の標柱が見えるが、同時に熊野神社の参道入口でもある。地形を確認すると東武東上線東武竹沢駅から直線距離で東300m程の場所にある。
 曹洞宗竹沢山雲龍寺には専用駐車場もあり、そこに停めてから参拝を行った。
                
                                靭負熊野神社入口
                    
曹洞宗竹沢山雲龍寺の北側で高台に鎮座する。

 小川町靱負地域は嘗て竹沢郷と云われ、この一帯は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵七党児玉党の一支族である竹沢氏が開発し、本拠地とした所である。竹沢姓を初めて名乗ったのは、児玉保義の子二郎行高であり、その子孫の右京亮は、足利基氏と謀って新田義興を矢口の渡しで謀殺したことで知られる。当社の北側の山にある平場跡は、この竹沢氏の居館跡と伝えられており、境内には竹沢氏の供養塔といわれる苔生した五輪塔がある。
・武蔵七党系図
「有三郎別当大夫経行―保義―竹沢二郎行高―五郎行定(三郎トモ)」
冑山本の武蔵七党系図
「保義―行家―富野四郎大夫行義―□□―雅行―竹沢二郎行高―五郎行定」
       
                                     正面一の鳥居
 槻川支流の兜川流域に位置する小川町笠原・原川・木呂子・勝呂・木部・靱負は、かつて、竹沢村という一村であったが、その前身は中世における竹沢郷であったと推定される。児玉党に属する竹沢氏は、同郷を「名字の地」とする武蔵武士で、南北朝内乱のとき足利尊氏に従った竹沢右京亮はその一族と思われる。
『太平記』によれば、かつて南朝の新田義興に従ったことのある竹沢右京亮は、延文3年(1358)に畠山国清にそそのかされ、江戸高良や同冬長とともに多摩川の矢口の渡し(東京都大田区)で新田義興を謀殺したという。江戸時代中期にこの事件を浄瑠璃に翻案した福内鬼外(平賀源内のペンネーム)の『神霊矢口渡』は大当たりし、歌舞伎の台本にも転用された。そこでは竹沢右京亮は竹沢監物という名前の悪役として登場し、義興の亡霊に身を引き裂かれ最期を遂げるという役回りになっている。 竹沢郷は、平一揆の乱ののち、竹沢氏から没収されて猪俣党に属する藤田覚能に宛行われたが、やがてその一部は鎌倉の円覚寺に寄進されて同寺領となった。
                                                「小川町編集発行 小川町のあゆみ」より引用

  一の鳥居を過ぎ、緩やかな坂を上ってき、  石段の手前右側には「改築記念碑」
   石段を登った先に建つ二の鳥居
「改築記念碑」の手前には平成二十三年(2011)記述の「郷土史案内」の立札もあり、そこには「この記念碑は大正八年(1919)に当熊野神社々殿が改築されたのを記念して設置されたもので、碑の正面には「閲額」(武蔵一の宮氷川神社宮司額賀大直氏)と経過を綴った碑文(撰文社掌根岸学丸氏)を掲げ、裏面にはこの事業に賛画された方々に加え、明治二十三年(1890)宿願の社殿新築がなされた折に尽力された人達をも刻するなど、万事にぬかりが見られず、そしていま……先人達が鎮守の社に掛けた思い・願いを伝えるこんも碑も時を経て百歳を迎えようとしています」と記載されている。
        
                                    木製の二の鳥居
      
            二の鳥居のすぐ左側に聳え立つ「熊野神社の大スギ」(写真左・右)
 町指定文化財 天然記念物 「熊野神社の大スギ」
 所在地 小川町靱負三四一
 昭和三十八年三月十二日指定
 目通り四・三メートル 樹高約三三メートル
 昭和六〇年十二月二十五日 小川町教育委員会 熊野神社
「埼玉の神社」には「昔はもっと大きな杉が鳥居の脇にあり、指定木となっている杉と共に大切にされていたが、残念なことに太平洋戦争後間もなく落雷に遭い、枯死してしまった」という。
        
                                   靭負熊野神社境内 
 おそらく削平により平場にしたのであろう。右側の崖を見るとふと先人の方々の苦労を鑑みてしまう。
        
                                        拝 殿
 熊野神社(靱負三四三)
 靭負の熊野神社は、平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵七党児玉党の一支族で、竹沢郷一帯を領した竹沢氏の館跡とされる場所に祀られており、境内には竹沢左近将監の供養塔と伝えられる五輪塔がある。熊野神社の創建の年代は不明であるが、神社に隣接する竹沢山雲龍寺には、後深草天皇に仕えた竹沢靭負が嘉元年間(一三〇三-〇六)にここに草庵を設けたことに始まるとの寺伝があることから、熊野神社の創建もこれと同時期と見る人もある。
 靭負では、熊野神社と雲龍寺が密接に関係していたため、いわゆる神仏分離令が出された後も、実態としてはなかなか分離が進まなかった。そのため、雹祈祷(春祭り)は雲龍寺の僧が祭りを行い、秋祭りは神職(地元にいないため飯田から呼んだ)が祭りを行うといった状況が明治二十年ごろまで続いていたという。
 熊野神社の社殿は、元来は南向きであったが、明治二十二年に拝殿を建築した際に立地上の理由から東向きに変えた。また、境内には昭和三十八年に「熊野神社の大杉」として町指定天然記念物になった老杉があるが、戦前はさらに大きい老杉が鳥居の脇にあった。
                                                         「小川町の歴史別編民俗編」より引用
 
       社殿左側(南側)にある五輪塔     社殿右側に鎮座する境内社・大山神社 天満宮
竹沢氏の祖である竹沢二郎行高のものといわれる。                                        

        
                            参道方向から見る靱負地区の眺め。
           先人たちはどうのような気持ちで現在の状況を思っているのであろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「小川町の歴史別編民俗編」「小川町編集発行 小川町のあゆみ」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」等 

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荒子八幡神社

「横見郡」は横見郡(よこみぐん)は、埼玉県(武蔵国)にあった郡で、現在の比企郡吉見町。古くは熊谷市の一部(旧大里郡吉見村、古代の御坂郷)の地域も含まれていた。安閑天皇元年(534年)の武蔵国造の乱後に献上された4つの屯倉のうちの1つ横渟屯倉はのちの横見郡に当たると推測されている。
 当時の資料では「小」郡で、高生郷(たけふ)・御坂郷・余戸郷(あまるべ)の3郷で、今の比企郡吉見町にあたると通説では言われているが、一説によると、古代における横見郡の郡域は、より広範囲に広がっていたと考えられている。
『和名類聚抄』によれば、横見郡は高生郷・御坂郷・余戸郷の三郷で構成されていた。
 このうち高生郷は吉見町田甲を遺称地と見て、吉見町北西部から東松山市北東部に、御坂郷は熊谷市南東部から東松山市北部に、余戸郷は吉見町「荒子」を遺称地と見て、吉見町南部から川島町にかけての一帯に、それぞれ比定するのが一般的である。
                  
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町荒子472
             
・ご祭神 誉田別尊
             
・社 格 不明
             
例祭等 元旦祭 春季例祭 415日 秋季例祭 1015
 万光寺氷川神社を東方向に進み、埼玉県道76号鴻巣桶川線に交わるT字路を右折する。周囲を田畑風景が広がる中、県道進行方向に対して左側に鎮守の杜らしい社叢林が見えているものの、左折して直接社に繋がっている道がない。一旦社叢林を通り過ぎてから「衛生研究所入口」交差点を左折し、同県道33号東松山桶川線を東方向に進み、500m程進んだT字路をまた左折し、道なりに進み「台山排水路」を越えた北側に荒子八幡神社の社叢がはるか遠くに見える。
『新編武蔵風土記稿』によれば、荒子は、「村民良助が先祖茂兵衛」という人物が慶長年間(一五九六-一六一五)に開発したという。慶長十九年の伊奈半十郎の検地や正保の改めの図からも知られるように、当初は開発者の名を採って「茂兵衛新田」と呼ばれていたが、寛文のころ(一六六一-七三)に現在の名に改めたと伝えている。当社の境内は、この荒子の集落の北方にあり、村の鎮守として祀られてきた。境内の周囲は一面の水田で、社殿は水害を避けるために塚の上にある。
                
             「台山排水路」から見る荒子八幡神社
 実はそこから舗装された道はなく、車両は勿論路駐。徒歩にてあぜ道を進み、やっと社に到着する事が出来た。周囲は舗装されていなく地元民でないと分からない場所にあるわりには、不思議と神社の前には大きな駐車スペースが有る。
                
                                  荒子八幡神社正面
 一面の田畑風景の中にポツンと古墳のように見える塚状の丘があり、その丘周辺に社叢林が覆っていて、よく見ると鳥居が基並んで立っている。遠目からでも規模もそれほど大きくはないようだ。
「陸の孤島」と表現しても全く違和感なく、それでいて長く続く参道のようなあぜ道の先に見える小さい鳥居に、特別な感覚をおぼえたことも事実である。社に通じる道が舗装されていない所も、逆に威厳さや荘厳さを醸し出しているような摩訶不思議な社。
 
      荒
子八幡神社 一の鳥居         境内参道の先、丘上に拝殿が見える。
   参拝客など筆者以外全く見られないが、一旦境内に入ると意外と綺麗に整っていている。
                
                石段を登った先に拝殿が鎮座する。
 吉見町荒子地域は、市野川と文覚川、その間を流れる農業排水路である「台山排水路」が合流する地点から北側にその地域の大部分が該当し、平均標高は12m程の低地帯である。子八幡神社が鎮座する場所は、荒子地域中央部・台山排水路の北側にあり、社に近づくにつれ徐々に標高が緩やかに高くなり、尚且つ丘上に鎮座するので、周囲に比べても高い場所となっている。
 因みに荒子八幡神社の標高は14.7mである。
 
           拝 殿                拝殿上部にある扁額
 八幡神社   吉見町荒子四七二(荒子字芝附)
『風土記稿』によれば、荒子は、「村民良助が先祖茂兵衛」という人物が慶長年間(一五九六-一六一五)に開発したという。慶長十九年の伊奈半十郎の検地や正保の改めの図からも知られるように、当初は開発者の名を採って「茂兵衛新田」と呼ばれていたが、寛文のころ(一六六一-七三)に現在の名に改めたと伝えている。当社の境内は、この荒子の集落の北方にあり、村の鎮守として祀られてきた。境内の周囲は一面の水田で、社殿は水害を避けるために塚の上にある。
 当社の本殿は、文政四年(一八二一)に熊谷の宮大工によって造営されたと伝えられているが、それ以前のことについては、明らかではない。また『風土記稿』荒子村の項には、村内の神社についての記載がない。しかし、当時の荒子は「家数七十余」と、この地域では比較的大きな村であったから、村に鎮守がなかったとは考えにくく、『風土記稿』も善長寺(明治四年に廃寺)について「八幡山と号す、本尊不動」と載せているところから、そのころ既に当社が存在していたことがうかがわれる。
 したがって、当社は、はじめは『風土記稿』の筆者に見落とされるほど、塚の上に石の祠が一つある程度の極めて小さい神社であったのを、文政四年に至って社殿を造営し、その後次第に設備を整えて現在の姿になったのではないかと考えられる。
                                  「
埼玉の神社」より引用
                
                拝殿上部から石段下を撮影

 荒子八幡神社の右側隣には境内社・稲荷神社が鎮座している。
        
                                  稲荷神社正面
 
        稲荷神社鳥居             鳥居に掲げられた社号額
                
               隣に鎮座している八幡神社と同じ形態の参道と丘上に鎮座する社
                
                                 稲荷神社 拝殿
 荒子の名は、当地が荒川と市野川に挟まれた低地であるため、洪水によって土地が度々荒廃したことから起こったと伝えている。因みに荒子は、今では「あらこ」と呼んでいるが、嘗ては「あらしく」とも呼ばれ、「荒久」「荒句」と書いていたようだ。このような土地柄であったためか、自然条件に大きく左右される農業を続けていくには困難が多く、風雨順時や五穀豊穣は神仏のご加護によるものと考えていた当時、神に祈願するということは、現在とは比べものにならない程切実なものがあったのであろう。
        
                        稲荷神社拝殿上部から石段下を撮影
このような経緯があったためか、当社の祭りはかつて盛大であったという。ただし、しばしば盛況の余り遊興の度が過ぎた為、時の幕府の取締りの対象となってしまったようで、また、度重なる水害で村が疲弊し、賑やかな祭事を行う余裕がなくなってしまう。こうした統制の結果であろうか、何時の頃から「当社の神様は賑やかなものが嫌いで、祭りを盛大にすると大水が出る」とまで言われるようになった。そのため、年間の祭事も、元旦祭・春季、秋季例祭の年3回のみで、いずれも祭典のみで、余興や付け祭りは一切なくなったとの事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」等

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万光寺氷川神社


                        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町万光寺82
             
・ご祭神 素戔嗚尊 伊勢大神
             
・社 格 旧萬光寺村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 5月初午日 秋祭り 1015
 吉見町万光寺地域は下銀谷地域の北東に位置し、且つ隣接している地域である。また下銀谷稲荷神社に接している道路を南下し、すぐ先のT字路を左折すると、左側に万光寺氷川神社の鳥居が見える。距離にして100m程しか離れていない。
                
                             南向きに鎮座する
万光寺氷川神社
 荒川と市野川の間の低地帯に位置する場所にひっそりと鎮座している。標高図を確認すると、万光寺地域の平均標高は12m13m程だが、社は16m程。社殿は1m程の高台か古墳の上に建てられているが、社殿の裏はさらに石垣が基礎となっていて、また一段高くなっている。恐らく自然堤防の縁にあるのであろうと推測される。
                       
               規模は決して多い区はないながら、何とも趣のある社の一の鳥居     
 一の鳥居のすぐ先には石製の二の鳥居がある。       二の鳥居の上部にある社号額
                 
                  鬱蒼とした林の中、参道の先に拝殿が高台上に鎮座する。
『新編武蔵風土記稿 萬光寺村条』において、「往昔當村に萬光寺と云寺ありし故に村名起れりと云、されど村名正保の改には見へず、元禄の改に始て裁す(中略)吉見用水を引て耕植し、また天水をて助水とす、」と記載がある。
 荒川と市野川の間の低地帯に位置し、河川の氾濫地帯であるにも関わらず、一度飢饉等の干ばつ用に天水を溜める対策も講じなければならない当時の方々の苦労を感じてしまう記述である。

 また小字に「墓ノ前」とあり、これも「萬光寺跡なり、たまゝ墓碑など掘出せしことありと云」と書かれていて、嘗て萬光寺というお寺があったが、今は既に廃寺となっていて、その面影すら残ってなく、ただ「墓碑」が偶然掘り起こされて、元禄年間に村の名前となったという。
                  
                                      拝 殿
『新編武蔵風土記稿 萬光寺村条』 
 氷川社 村の鎮守なり、神體は丸き青石にて圓經一尺許、面に永和六年二月廿八日凌佛建立の数字を彫れり、古き勸請なること知べし、
 土人の語に今田中村の高負比古神社、御所村の横見神社と當社とを合せて、横見郡三社と唱ふと、されど彼二社はともに式内の神社にして、當社は永仁六年勸請といふ、其の年代遙に下りたれば、並べ稱すべき社にはあらざるべし、

氷川神社  吉見町万光寺八二(万光寺字前方)
荒川と市野川の間の低地帯に位置する当地は、大麦・小麦・大豆などを主とした畑作地域として開発され、その地名は、昔、万光寺という寺があったことに由来する。しかし、万光寺自体については、『風土記稿』でも「小名 墓ノ前 万光寺跡なり、たまたま墓碑など掘出せしことありと云」と記しており、かなり早い時期に、既に廃寺になってしまっていたことが分かる
 この、万光寺の鎮守である当社の創建は古く、永仁六年(一二九八)に武蔵国一の宮の氷川神社の分霊を祀ったことに始まるという。
『風土記稿』には、当社の神体について「丸き青石にて円径一尺許、面に永和六年二月廿八年凌仏建立の数字を彫れり、古き勧請なること知べし」との記事がある。この「丸き青石」は下方約三分の一が欠けてしまっているものの、現在も本殿内に大切に安置されており、その中央部に浮彫りにされている仏像の姿も見える。
 延宝二年(一六七四)、当社は宗源宣旨を以て正一位の極位を受け、田甲村(現吉見町田甲)の高負此古神社(現高負彦根神社)・御所村(現吉見町御所)の横見神社と共に、「横見郡三社」と呼れて榮えた。当時、当社は隣接する真言宗万光寺と共に栄えた。当時、当社は隣接する真言宗万蔵の持ちであったが、神仏分離によって同寺の管理を離れ、明治四年に村社に列した。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
          拝殿の手前に祀られている二基の稲荷社(写真左・右)
『新編武蔵風土記稿』では、江戸時代、万光寺の村内には当社のほかに二社の稲荷社(共に宝永六年九月建立の石祠)と神明社があり、いずれも万光寺の持ちであった。しかし、稲荷社は小規模な社であったため、幕末あたりの年代に当社の社殿の両側に安置されるようになり、神明社も明治四十年六月に当社の本殿に合祀した。
 当社のご祭神が素戔嗚尊・伊勢大神の二柱となっているのは、神明社を合祀したためであるという。
 
          万光寺氷川神社の東側に隣接してある地蔵像と、板碑群(写真左、右)。



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