古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

神明神社

  神明神社が鎮座する久喜市菖蒲町。埼玉県東部に位置し、元荒川、星川、見沼代用水などが北西から南東へ流れ、自然堤防と後背湿地に水田が広がっている。縄文時代当時この辺りは遠浅の海または湖沼が広がっていたという。
 人々は比較的土地が高い台地に住居を構えていたことは、縄文時代の遺跡、下栢間の小塚遺跡(縄文時代中期から後期)・丸谷下遺跡(縄文時代中期)と小林にある地獄田遺跡(縄文時代後期から晩期)から確認されている。

所在地     埼玉県久喜市菖蒲町上栢間3366
社  格     式内社 県社
創  建     景行天皇の時創建と云う 由緒不明
祭  神     天照皇大神、豊宇気毘売神
                     (昔は天照皇大神、豊宇気毘売神、大宮売神の三神)
例  祭     一月十五日 火防除と呼ばれる「鎮火祭」「筒粥」の神事

 
地図リンク
 神明神社は国道17号、北本方面に進み、宮内交差点で左折し県道311号蓮田鴻巣線に入りしばらく直進し、北中丸交差点で左折、県道312下石戸上菖蒲線に移りそれをまた直進すると右手に長々と伸びる森が見える。その長々とした森の北側の先が神明神社社殿場所である。 
                神明神社 一の鳥居             
埼玉県指定天然記念物 神明神社の社叢
 
           埼玉県南埼玉郡菖蒲町大字上栢間三三六六他 昭和五十二年三月二十九日指定
 神明神社は、古くから住民の信仰を集めてきた由緒ある社である。
社叢は、長さが五五〇メートルをこす参道林と境内林とから 成り、面積は約一.七四ヘクタールに及ぶ。参道の両側には、アカマツ・クロマツの並木が続いている。境内林は、高木にアカシデが多く、部分的にスギが点在する。これより低い木としては、ヒカサキ・シロダモ・エコノキ・アズマネザサ等が多い。草木類では、チヂミザサ・ジャノヒゲ等が比較的多い。この社叢は、現在はアカシデを主体とした不安定な状態を示しているが、潜在的にはヒサカキ・サカキを主体とするシラカシ群を、自然植生とみることができる。
境内にあるアカマツの大木は、樹状が笠状を呈するので、「笠松」として知られている。
埼玉県東部低地には、潜在自然植生をよく示す広域的な林は少なく、貴重である。
                                          昭和五十四年十一月三日 埼玉県教育委員会
                                                                                     菖蒲町教育委員会
                

       神明神社550mの社叢のスタート

      半分くらいでしょうか、まだ続く               やっとニノ鳥居が見えてきた                               
 噂で聞いていた神明神社550mの社叢のスタートだが、噂に違わぬ不思議な風景、不思議な感覚を入った瞬間から感じた。両側に木々が生い茂っている中を進むと、突然、神社の参道特有の湿気のある、ひんやりとした空気に包まれた。だが森の幅は短いので外部の風景は歩きながらでもよく見えるし、実際すぐに外にも出られた。森を抜ければ暖かい日を浴びることができ、車の音、田んぼを耕すトラクターの音など日常生活をするときの当たり前の生活音が聞こえる。この狭い空間だけ何か違うのだ。この感覚はここに来て感じてもらうしかないが、巷でよく言うところの結界とは、このような感覚をいうのかな、と首を傾げながらふと思った。
 二の鳥居に着くとそこには神明神社の案内板があり、由緒等が記述されていた。
                 神明神社の案内板
 

神明神社
 所在地 埼玉郡菖蒲町大字上栢間
神明神社の創立は、社伝に景行天皇の時といわれる。
祭神は、古くは天照皇大神、豊宇気毘売神、大宮売神の三神であったが、現在は天照皇大神、豊宇気毘売神の二神を祭っており、伊勢神宮の分霊のため、近年まで「神明両社」と呼んでいた。
江戸時代、徳川家譜代の家臣内藤四郎左衛門正成が、栢間および新堀、三箇、戸ヶ崎、小材の旧五か村を領してから、五か村の総鎮守として以来、歴代の領主が厚く崇敬した。
明治6年に村社となり、昭和16年郷社に昇格し「神明神社」と改称、さらに昭和20年に県社となった。
本殿は、天保8年(1835)に建てられたもので、昭和38年に屋根を改修している。
毎年1月15日には、火防除と呼ばれる「鎮火祭」と、その火で粥を煮てその年の作物の豊凶を占う「筒粥」の神事が行われる。筒粥の神事は、大鍋に米三合水六升を入れ、葺の節のないところを長さ七寸位に切り、十八本を簀状にし麻で結ぶ。一本一本の葺に米粒が入る数によつて占い、多くの米粒がはいつたものほと豊作とされている。
                                                昭和58年 3月       埼玉県
                                                             社頭掲示板より引用                       

      ニの鳥居を抜けると鎮守の森の独特の空間に変わる。
 
              拝殿手前、右側に手水舎
    
       手水舎の奥にある社務所             社務所の向かいにある神楽殿              
 
                     拝  殿
神社の屋根にでている柱の形が神明づくりと言って、伊勢神宮と同じだそうである。
         景行天皇の時創建と言われるが由緒は不明。
また境内林によって鬱蒼としていて、ところどころ苔がむしている。相当湿気があると体感した。
 
                  神明神社 本殿
   
 境内の中央付近に大木があり、これが「笠松」と               神楽殿の手前にあったご神池
よばれるアカマツの大木で、大木の隣には一旦
枯れた大木の幹から新しい葉が育っていた。自
然の摂理をしみじみと感じた。


 神明神社境内には、近在の各社が合祀されている。
祭神を挙げると、大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)、天神(菅原道真)、猿田彦命、保食神(うけもちのみこと)、市杵島姫命、須佐之男命、軻遇突智命(かぐつちのみこと)、木花開耶姫命、別雷命(わけいかづちのみこと)、三峰(三獄)社等。由来書等なく、記載できない境内社が多い。

                     神明神社の社叢
神明神社の社叢

 1.74ヘクタールの面積があり、550メートルの参道林と境内林からなっています。境内林は、高い木にアカシデが多く、これより低い木としては、ヒサカキ、シロダモ、エゴノキ、アズマネザサなどがあります。草類では、チヂミザサ、ジャノヒゲなどが比較的多く見られます。
この社叢は、現在はアカシデを主体とした不安定な状態ですが、潜在的にはヒサカキ・サカキを主体とするシラカシ群の自然植生とみることができます。埼玉県東部低地には、潜在自然植生を良く示す広域的な林は少なく、貴重な存在です。


  この長い社叢のすぐ南側には天王塚古墳が存在する。                                    

天王塚古墳
  天王山塚は、元荒川の左岸栢間地区に分布する栢間古墳群の中心をなす前方後円墳で、全長約107m、前方部の高さ約9m、後円部の高さ約10m、前方部幅約62m、後円部径約55mあり、主軸はほぼ東西をさす。埼玉県下でも6番目の大きさである。
 墳丘の周囲には周溝が存在したが、現在は北と東に残るのみで、幅は約20mほどである。主体部は不明であるが、墳丘の形態から古墳時代後期(6世紀中頃)のものである。
 栢間古墳群は9基からなり県の重要遺跡に選定されており、中の1基押出塚古墳では緑泥片岩と砂岩を用いた横穴式石室が確認されている。
 古墳周辺では埴輪や須恵器が出土したが、本格的な発掘調査はまだ行われていない。
 
 この天王塚は主軸を東西を示している。そして神明神社は、この天王塚に対して直角に参道が伸びている。偶然だろうか。また神明神社の創建は景行天皇の時と言う。議論の余地はあるとして、お互い目と鼻の先にある社と古墳である。関連性がないというほうがおかしいではないだろうか。

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金鑚神社

  金鑚神社が鎮座する児玉郡は、こだまぐん、こだまのこおりとも言い、かつて武蔵国に存在し、埼玉県北西部に現存 する郡で鎌倉街道上道の主要道が町内を通っていた。南西部は山地であるが、その大部分は神流川が作り出した平野が広がっている。
 郡域は現在の行政区画で言うと、概ね本庄市、神川町、美里町の区域に相当し、北は賀美郡、また利根川をはさんで上野国と、東は榛沢、那賀郡、西は神流川をはさんで上野国、南は秩父郡と接していた。『和名抄』は「古太万」と訓じている。
 現神川町町内には古墳時代の遺跡として青柳・白岩古墳群があり、中世には阿保(あぼ)氏の本拠地として武蔵国では最も早くから開けていた地であったらしい。ちなみに神川町の町名は神流川からきているという。
 また金鑚神社とシラカシ林として金鑚神社一帯に広がる社寺林は典型的なシラカシ林で、山に続く傾斜地に広く成立している。この高木林と山の尾根筋に隣接するヤマツツジなどの群落を含めて、環境庁編の『日本の重要な植物群落 南関東版』にも紹介されている。

所在地      埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮750
主祭神      天照大神
          素戔嗚尊
          (配神) 日本武尊(一説に祭神は金山彦命ともいう。製鉄の神か)

社  格      式内名神大社・武蔵国二宮・旧官幣中社・別表神社
社  紋      樫の葉紋 蔦紋
例  祭      4月 15日
主な神事    懸税神事(11月23日)

                
地図リンク
 
 金鑚神社は埼玉県の北西部に位置する
児玉郡神川町にあり、JR八高線児玉駅の西5Kmの二の宮、国道462号線沿いに鎮座する。462号線がカーブする場所、南側に境内入口には大鳥居があり、非常にわかり易い。一の鳥居の右側には「武蔵二之宮 金鑚神社」の社号標、裏に「昭和五十八年十二月吉日 明治神宮 権宮司 副島廣之 謹書」とある。

                 
                                                国道462号線沿いにある一の鳥居
 
      
大鳥居からニの鳥居に向かう途中の風景                               そしてニの鳥居
          
 長い参道が終え、そしてここが車道最終地点。これ以降は徒歩にての参拝となる。左側に駐車場、トイレ等あり、右側斜面上に国指定重要文化財の多宝塔が建っている。
                   
                                            
金鑚神社宝塔(国指定重要文化財)
金鑚神社 多宝塔
 金鑚神社の境内にあるこの多宝塔は、三間四面のこけら葺き、宝塔(円筒形の塔身)に腰屋根がつけられた二重の塔婆である。
 天文三年(一五三四)に阿保郷丹荘(あぼごうたんしょう)の豪族である阿保弾正全隆(あぼだんじょうぜんりゅう)が寄進したもので、真柱に「天文三甲午八月晦日、大檀那安保弾正全隆」の墨書銘がある。
 この塔は、建立時代の明確な本県有数の古建築であるとともに、阿保氏に係わる遺構であることも注目される。塔婆建築の少ない埼玉県としては貴重な建造物であり、国指定の重要文化財となっている。
                                                                          昭和五十九年三月    神川町
                                                                                                                                                                                 (参道案内板より引用)
 ちなみに金鑚(カナサナ)というのは金砂の義であり、製鉄にちなむ地名である。近くからは鉄銅が採鉱されたことから、これを産する山を神として祀っている。付近には金屋という採掘・製鉄集団に関係している集落があり、この祭祀集団(おそらくは渡来氏族)によって祭祀されていたと思われる。「金鑽」の社名は、社伝にあるように、火打石(火鑽金)が御魂代であることから起ったとする他に、金鑽=金砂と見る説もある。
 当神社は名神大社いう高い格にあるが、それは付近に多くの古墳が見られ、早くから渡来系氏族によって開発が進められ(現在の児玉郡一円、奈良平安期の遺跡多し)、この地域が文化の中心地であったことを物語っている。また平安後期以降は武蔵七党の児玉党一族の崇敬を受けて強い影響力を持っていた。
                    
                                      神々しい雰囲気のある神橋を超えると三の鳥居
 
              神楽殿                           
神饌所と倉

           
                               拝      殿
           
                            拝殿(裏から撮影)
 社伝によると、景行天皇の四十一年、日本武尊が東征の帰途、東国鎮護のために、伊勢神宮の叔母である倭姫命から草薙剣に副えて、賜った火鑚金(火打石)を御霊代として、御室ヶ嶽に天照大神と素戔嗚尊を祀ったのが創祀。
 その後、欽明天皇二年に、日本武尊を合わせ祀ったという。
 延暦二十年に、坂上田村麻呂が夷賊討平を祈願し、永禄六年には、源義家が奥賊を祈願したといい、武蔵国内で氷川神社とならぶ明神大社として、他の式内社よりも格が上であり、官幣中社という社格の神社としては一番東国に位置している。このような当時の状況を考えると、蝦夷平定のための拠点として重要視された社ではなかったかと推測される。
 また平安時代以前の武蔵国の神社は、延喜式神名帳によると大社2座2社・小社42座の計44座が記載されていて、大社は足立郡の氷川神社と児玉郡の金佐奈神社(現 金鑽神社)で、どちらも名神大社に列していた。
 更に、武蔵国の総社は大國魂神社(東京都府中市宮町)で、別名・六所宮と称し、武蔵国内の一宮から六宮までの祭神が祀られていた。

  一宮 小野神社 (東京都多摩市一ノ宮。主祭神:小野大神=天下春命)
  
二宮 二宮神社 (東京都あきる野市二宮。主祭神:小河大神=国常立尊)
  
三宮 氷川神社 (埼玉県さいたま市大宮区高鼻町。主祭神:氷川大神=須佐之男命、稲田姫命)
  
四宮 秩父神社 (埼玉県秩父市番場町。主祭神:秩父大神=八意思兼命、知知夫彦命
  
五宮 金鑽神社 (埼玉県神川町二宮。主祭神:金佐奈大神=天照大神、素盞鳴尊)
  
六宮 杉山神社 (比定社が複数あるが、多くは横浜市内に集中する)

 上記のように、一宮は元々は小野神社だったが、氷川神社が一宮と称されるようになってからは、五宮の金鑽神社が二宮とされるようになり、さいたま市緑区宮本の氷川女體神社も元は氷川神社から分かれたもので、江戸時代以降一宮とされるようになったようだ。

金鑚神社
 所在地 児玉郡神川村二の宮

 金鑚神社は、旧官幣中社で、延喜式神名帳にも名を残す古社である。むかしは武蔵国二の宮とも称された。地名の二の宮はこれによっている。
 社伝によれば、日本武尊が東征の帰途、伊勢神宮で伯母の倭姫命より賜った火打石を御霊代として、この地の御室山(御岳山)に奉納し、天照大神と素戔嗚尊を祀ったのが始まりとされている。
 鎌倉時代には、武蔵七党の一つ、児玉党の尊信が厚く、近郷二十二カ村の総鎮守として祀られていた。江戸時代には徳川幕府から御朱印三〇石を賜り、別当の一乗院とともに栄えた。
 境内には、国指定重要文化財の多宝塔や、平安時代の後期、源義家が奥州出兵のため戦勝祈願を当社にしたときのものという伝説の遺跡”駒つなぎ石””旗掛杉””義家橋”などがある。
 なお、この神社にはとくに本殿をおかず、背後の山全体を御神体としている。旧官・国幣社の中で本殿がないのはここのほか、全国でも大神神社(奈良県)と諏訪神社(長野県)だけである。
                                                                                                                                                                                                                                   境内案内板より引用               
          
                               祝詞中門瑞垣
     
  瑞垣内に本殿はない。背後の山全体を御神体とする古代神道の名残を留める、奈良の大神神社、長野の諏訪大社同様、本殿を持たない神社。
            
             境内左奥に境内社 左右の2社一体の社に挟まれる形で鎮座している。
 

                          御嶽山登山道                山道の両側には石仏や多くの歌碑がある
                     
御嶽の鏡岩
                            昭和三十一年七月十九日 国指定特別天然記念物
  御嶽の鏡岩は、約一億年前に関東平野と関東山地の境にある八王子構造線ができた時の岩断層活動のすべり面である。岩面の大きさは、高さ約四メートル、幅約九メートルと大きく、北向きで約三十度の傾斜をなしている。岩質は赤鉄石英片岩で、赤褐色に光る岩面は、強い摩擦力により磨かれて光沢を帯び、表面には岩がずれた方向に生じるさく痕がみられる。岩面の大きさや、断層の方向がわかることから地質学的に貴重な露頭となっている。
 鏡岩は古くから人々に知られていたようであり、江戸時代に記された『遊歴雑記』には、鏡岩に向えば「人影顔面の皺まで明細にうつりて、恰も姿見の明鏡にむかふがごとし」とあり、『甲子夜話』にも同様の記述がある。また、鏡岩がある御嶽山の一帯は、中世の山城である御嶽城跡が所在することでも知られているが、鏡岩が敵の目標となることから、城の防備のため松明でいぶしたので赤褐色になった
という伝説や、高崎城(群馬県)が落城した時には火災の炎が映ったとも伝えられている。このように鏡のように物の姿を映すということから、鏡岩といわれるようになった。
                                        平成九年三月 神川町教育委員会                                                                                                                                                    (現地案内板より引用)

                         
                                                                  御嶽の鏡岩            
  金鑽神社の祭神は『金鑽神社鎮座之由来記』、『金鑽神社明細帳』によると、天照大神、素戔嗚命、日本武尊の三柱であるが、『新編武蔵風土記稿』には、「神体金山彦尊、或ハ素戔嗚命トモ云」とあり、『大日本地名辞書』もこの説を引き、次のように記している。
・ 「神祇志料云、金佐奈神社の後なる山を金華山といふ、銅を掘し岩穴今現存すと云へり、之に拠るに、金佐奈盖金砂の義、其銅を出す山なるを以て、之を神とし祭る事、陸奥八溝黄金神社のごときか。」
・ 「甲子夜話云、児玉郡金鑽村、神社のほとり、大石あり、土中に埋りて其ほど知らず、顕はれたる所、一丈に九尺ほどなり、色は柿色にしてこれに向へば鏡にうつる如く、人影見ゆるとぞ。」

             
  鏡岩からさらに階段を上っていくと展望台と山頂の間の鞍部に出る。展望台の方へ進むと石仏群のある広場があり、その奥の岩峰上に展望台が見える。奥宮は拝殿の後方にそびえ立つ標高343mの「御室ヶ嶽」の山頂の岩峰の脇にひっそりと佇んでいる。
           
  また金鑽神社北東400メートルに鎮座する元森神社があり、金鑚神社旧社地とされている。場所は大鳥居から国道沿い2~300m児玉方面に進むと右側にある。『新編武蔵風土記稿には、「古は村東、今ノ見元森ノ両社アル所ニ建シ由、今ノ社地モ松杉繁茂シタレバ、転遷モ古キコトナルベシ』とあるらしい。

  周辺の地名に鉱山・製鉄に由来するものがあるし、その絡みから御祭神は金山彦命であるという説もあるらしい。地形を見れば北西神流川を越えればそこはもう上毛野国、南はすぐ秩父郡。往年には知知夫というのはここ児玉郡も含めていたそうであるから、南北の何かしらの交流はあったのだろうし、その中継地点としての重要な役割があったかもしれない。


                




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東石清水八幡神社

 埼玉県の北西部に位置する旧児玉町、現在の本庄市児玉地区は、南半分を県立上武自然公園に指定されている上武山地が東西につらなる。その北方には児玉丘陵と本庄台地がひろがり、上武山地を水源とする小山川や女堀川周辺は、農業地帯となっている。この変化に富む地形と自然環境に恵まれた児玉町は、太古の時代より住みよい地域であったようで、町内には先人達の生活の痕跡である遺跡の数も多く、埼玉県でも有数の文化遺産の宝庫と言われる。
 児玉町大字下浅見には4世紀前半に築造された鷺山古墳がある。古墳は西に生野山丘陵、東に大久保山(浅見山)丘陵に挟まれた小丘陵上にあり、南北に広がる広大な条里水田を見渡せる絶好の位置に築造されており、まさにこの地域の王にふさわしい立地環境だ。古墳は全長60メートルの前方後方墳で、4世紀前半に築造されたと推定される武蔵国で最も早く築かれた古墳の一つという。また5世紀から7世紀にかけて築造された秋山塚原地区の秋山古墳群は、かつては100基近い古墳が築造されたようだ。


所在地    埼玉県本庄市児玉町児玉198 
主祭神    誉田別尊〔ほんだわけのみこと〕

         比売大神〔ひめおおかみ〕
                 息気長足姫命〔おきながたらしひめのみこと
社  格     県社
創建年代   康平6年(1063)
     
例  祭     10月15日(児玉秋祭り)
神事等    3月15日 春祭り(植木市)7月13~19日の日曜日 八坂神社夏祭り

              
地図リンク
  社伝によれば、1051年(永承6年)、源頼義、義家、親子が奥州の安倍氏征伐のおり、この地で都の石清水八幡宮を遥拝して、戦勝祈願を行った。 1063年(康平6年)、奥州を平定し帰る途中に、この祈願所に立ち寄って八幡神社を建立し勧進した。当初は、東石清水白鳩峯と称した云われていた。  武蔵武士、児玉党等の信仰も深い由緒ある神社である。
  児玉党(こだまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団 の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた。当時の武蔵七 党と言われる武士集団のうち、最大の武力と血族を有していたといわれる。    
         
一の鳥居より随神門をのぞむ                    随神門手前にある案内板
      随神門は本庄市指定特別文化財

石清水八幡神社         所在地 児玉郡児玉町大字児玉
  東石清水八幡神社の祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、姫大神(ひめおおかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)の三神である。

 社伝によれば、平安時代の末期、源義家が父頼義に従い奥州征伐に赴く途中金鑚(かなさな)神社へ参詣(さんけい)したが、そのおりに当地へ斎場(まつりば)を設け、戦勝を祈願し、康平六年(1063)帰陣の際ふたたび当地に立ち寄り、社殿を建立して八幡宮を迎(むか)え「東石清水白鳩峯」と称したのが始まりという。
  現在の社殿は享保七年(1722)に再建したもので、拝殿は入母屋(いりもや)造りとなっており、屋根は銅葺千鳥破風(はふう)造りである。拝殿の格天井(こうてんじょう)には狩野直信(かのうただのぶ)筆の「飛龍の図」が描かれている。また、建物の彫刻は江戸の彫刻師の手によるもので、緻密(ちみつ)な彫(ほり)に極彩色がほどこされており、特に本殿の左右及び裏の三面には唐様(からよう)の人物や花鳥が彫刻され、その華麗さは県下でも稀な社殿として有名である。
  境内にある江戸時代の高札場は、もと本町と連雀町との境いの道路にあったものを昭和五年に現在地へ移したもので、県内に現存している数少ないものの一つであり、町の文化財に指定されている。
                                                                                                                                                            昭和五八年三月   埼玉県
            
              拝殿の手前にある銅製鳥居は本庄市指定特別文化財
         
                             拝  殿 
                            南側に鎮座                                  
                             本  殿 
                       細工が細やかで見事な彫刻
 ちなみに現在の社殿は、久米六右衛門が発起人となり、享保3年に起工し、享保7年(1722)に完成、棟梁は妻沼伝兵衛、彫刻は獅子の五右衛門と龍の茂右衛門など、当代無双の名人の手によるものです。 (案内板より)
                          
*高礼場
 *法度、掟書、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げた板札を高礼といい、庶民の間に徹底させるためこれらの高札を掲げる場所を高礼場といった。これらは中世末期から あったが、江戸時代が最も盛んとなり明治三年(1870)に廃止された。高礼場は無年貢地で街道の宿場や村の名主宅前など目立つ場所に普通設置され、江戸には日本橋など六ヶ所の大高礼場 をはじめ三十五ヶ所に高札場(こうさつば)があったという。

 
児玉党(こだまとう)は平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団 の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・ 秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた。当時の武蔵七 党と言われる武士集団のうち、最大の武力と血族を有していたといわれる。
 
ところで、その名誉ある児玉党の名「児玉」とはどのような由来、由緒があるのだろうか。「児玉」について以下の記述が掲載されている書物がありここに掲載する。


児玉 コダマ 小、児は胡の佳字にて、胡(えびす)、蕃(えびす)なり。玉は鉄(くろがね)の意味。蕃族鍛冶集団の集落を児玉、小玉と称す。蕃(えびす)のことはバン、バンタ参照。物作り集団(部)の物部族は出雲・芸備地方及び筑紫国(九州全体の総称)が本拠地である。物部氏の祖神饒速日命の天降る時に従って来た思金命は「重い金」で鍛冶鉱山師の首領である。子孫は秩父国造と信濃阿智祝で、鍛冶神の児玉彦命を奉斎し、秩父郡大宮郷と信濃に児玉氏多く存す。天平九年東大寺文書に食封千戸の内、武蔵国児玉郡五十戸と見ゆ。和名抄に児玉郡を古太万と註す。



1 信濃国の児玉彦命 神代の時代に出雲国の大国主命の子・健御名方神が諏訪に来たる際に相争った諏訪の神・洩矢神あり。健御名方神に服従し、子孫は神長官家の守矢氏を称す。守矢氏系図に「洩矢神―守矢神―千鹿頭神―児玉彦命(片倉辺命の子)」と。諏訪系図に「健御名方命―伊豆早雄命―片倉辺命」と見ゆ。児玉彦命は出雲族の健御名方神の家から、信濃国土着神の守矢神の家に養子となっている。鍛冶神の児玉彦命を奉斎した集団は児玉氏を名乗って多く現存す。

2 有道姓児玉氏 大国主命は大物主命とも称し、其子大田田根子命は日本書紀崇神天皇七年条に陶器庄の鍛冶神と見ゆ。大国、大田の大は大ノ国(後の百済)出身で、田根子は種子で子孫の意味。大族の集団を大部と称し、其の支配管掌者を大部連と云う。(中略)児玉郡誌に「児玉、或曰遠峯。有道維能、自京師移関東、居児玉、因氏焉。児玉・遠峯、和名抄訓古太万。有道貫首遠峯と称すなどなど、有もせぬ人名を往々作り出したるは、怪誕不稽も甚し。往昔軍団を置かれて、遠峯軍団と云う、遠峯とは義訓にてコタマと訓ず、音声の遠山に響くをコタマにこたうど云うに因る」と。遠峯(こだま)は人名では無く児玉のことで、藤原伊周の家令で、子では無い。常陸国筑波郡水守郷(みもり)は、後の新治郡水守村(つくば市)で、将門記に「水守の営所」と見え、当時館城があった。此地の物部姓有道氏は、同族久米物部の居住する武蔵国児玉郷浅見村を所領とす。入浅見村の苗字久米氏は在名阿佐美氏、或は児玉氏を名乗り児玉党の旗頭となり、同族でもある領主の有道姓を冒す。針博士有道氏は「維、惟」を通字としており、児玉党は是を用いていない。まったく別家の人々である。小代八郎行平置文写(肥後古記集覧)に「行平が曽祖父児玉の有大夫弘行の所領の事余の国々の分までには注すに及ばず武蔵一ヶ国の分には、児玉・入西両郡、弘行の所領たりき、此外にも猶を有りき。然れば弘行は分限も広く武芸道立て被るるに依りて、児玉より入西へ越へ被るる時と謂い、惣べて行が被時は随兵百騎を相い具せ被れき、云々」と見ゆ。行平は源頼朝に仕へ、子孫は入間郡小代郷の鍛冶鋳物集団を引き連れて、所領地の肥後国玉名郡野原庄(熊本県荒尾市)へ移住す。小代氏が筒ヶ岳に山城を構えて小代山と称された所は古墳時代から奈良平安時代にかけての製鉄跡群である。有名な肥後の小代焼は児玉党に所属した職業集団の作品である。児玉党の始祖弘行は児玉・入間両郡の鍛冶支配頭で、牧場の別当は無関係である。

3 児玉党 風土記稿児玉町条に「八幡社は当所及び八幡山町其余近村十六ヶ村の総鎮守なり。別当大善院、本山修験・八幡山と号す、中興僧有便・寛永十八年化す」と。児玉記考に「八幡宮社司、其祖児玉党児玉左馬助大膳坊と号す、世々児玉に住し鎮守八幡神社に奉仕す。明暦四年松井長門守の男庄蔵・甲館没落の後、大膳院四代有便法印へ女婿となり松井姓を襲ふ」と見ゆ。別当修験大膳院先祖は児玉党創設に深く係わっていた。武蔵七党系図に「遠峯有貫主―有大夫別当弘行(弟有三郎別当大夫経行)―武蔵権守河内権守家行(弟入西三郎大夫資行、真下五郎大夫基行)―児玉庄大夫家弘(弟塩谷平五大夫家遠、富田三郎親家)―庄権守弘高(弟庄三郎河内忠家、庄四郎高家、庄五郎阿佐美弘方)―庄太郎家長(弟荘二郎弘定、荘三郎四方田左近将監弘長、山門戒空房快照、本荘四郎四方田弘季、五郎弘賢、四方田七郎高綱)」と見ゆ。

4 児玉氏の本名 児玉党の旗頭は本名久米氏なり。久米条参照。児玉町名主島田氏は藤原伊周の子孫と伝へる。児玉郡塩谷村西光院真鏡寺境内に金王神社(こんのう)あり。風土記稿に「境内に塩谷某の古墳と云伝ふるものあれば、碑石に年号・法名等も見えざれば詳ならず」と。塩谷氏の本名は渡来系の金(こん)ノ氏なり。コン条参照。児玉党の名跡継承者は下野国出身の出稼衆が多い。

 物部族金氏 児玉党の祖有道宿祢は「物部豊日乃連(大部造)―船瀬足尼(久慈国造)の後裔、金乃造―真塩乃造―磐麿乃造(大部造、居常陸国筑波郡)の後裔、長道(大部を改め、有道宿祢姓を賜ふ)」とあり。金乃造は常陸国の金氏族の管掌者で金氏であり、大ノ国(韓半島南部)の渡来集団大部族の首領である。金氏族有道氏は武蔵国児玉郡へ移住す。児玉郡塩谷村西光院境内に金王(こんのう)神社あり。是を将軍頼朝の臣で豊島郡渋谷村の渋谷金王丸の墓と伝承しているが附会なり。金王は金ノ神社であり金氏族の氏神である。

 児玉の由来として、上記1、2によると、諏訪大神「建御名方命」の御子「片倉辺命(かたくらべのみこと)」の御子、又は「千鹿頭神(ちかつ神)」の御子の児玉彦命がいて、この神は鍛冶神とも呼ばれている。児玉彦命は元々は出雲族の健御名方神の家だったが、信濃国土着神の守矢神の家に養子となったようだ。



    名前の一致、もしくは類似しているだけで全ての関連性を結びつけることは非常に危険なことだが、古代ある時期において出雲族等西国氏族が東国に進出したことは史実上の事実であり、信濃国、とりわけ諏訪地方一帯は軍事拠点、兵站拠点として非常に重要な地である。また児玉彦命は鍛冶神という。児玉地方を含む武蔵国の丘陵地から西側に鎮座する神社の祭神の大多数は鍛冶神で、共通項目もあり類似性を感じる。ではこの児玉彦命と児玉郡とはどのような関係があるのだろうか。今のところ残念ながら不明な点が多く今後の課題としたい。



 



 


 


 

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本庄金鑚神社

 本庄市は埼玉県の北西部県境に位置し、北に利根川が位置し、市内中央部にJR高崎線が、南部に関越自動車道と上越新幹線が東西に横断している。市街地は本庄駅付近に集中する。国道17号線(本庄駅北側)より北部は畑が広がり、住宅密集地は本庄駅の南部方面に広がっている。本庄北部は畑が広がっている為、風をさえぎる物がなく、秋冬では西風が強い。内陸の台地で比較的安定した風土を保つ。旧市内域(児玉町合併以前)では、3分の2が台地上に当たる。一方で、児玉南部方面は山麓地帯である為、夏場では山間独特の湿度の高さがあり、土砂崩れも多いようである。
  本庄市の名前の由来として古代から人々が住み、縄文時代の遺跡が多く、平安時代には児玉党の荘氏が登場する。この宗家(本家)が本庄の由来となっているという。
 旧石器などの遺物の出土や縄文期、弥生期、古墳期と、各時代にそれぞれ遺跡がある事からも分かるように原始時代の頃より本庄には人々が暮らしていた。本庄の古墳時代の特色として、旧児玉町下浅見の鷺山古墳が4世紀中頃(333年 - 366年)まで遡る県内でも最古級かつ最大(全長約60m)の前方後円墳に当たる事、また、本庄の大久保山古墳群の前山1号墳は県内最大の前期前方後円墳であり、武蔵国北部に顕著な巨大円墳も古墳時代の本庄の特色の一つである。
所在地      埼玉県本庄市千代田三丁目2-3
主祭神      天照大御神 素戔嗚尊 日本武尊
社  格      旧県社
創建年代    欽明天皇2年(541)
例  祭      11月2.3日(本庄祭り)

          
地図リンク
 JR本庄駅から中山道を左折、そのまま真っ直ぐ進むと約2km位で金鑚神社に着く。街中の神社ゆえ、また昼間の参拝の 関係で交通量も多く、(中山道の道幅も決して広くもない)神社までの道のりは決して気分がいいものではなかったが、神社の鳥居を拝むとやはり神妙な感じになる。
 地形的に見ると、JR本庄駅の北西1.2km、国道462号と県道392号の交差点、昔で言うと中山道と下仁田街道(上州姫街道)の分岐点だったそうだが、その手前に金鑚神社は鎮座している。
 
                       神社前の大鳥居                               鳥居を過ぎると左側に神社の案内板がある
   大鳥居の社号額は江戸時代の老中で有名な
                  松平定信の揮毫とのこと
金鑚神社   
  所在地 本庄市千代田3-1
  金鑚神社の祭神は天照皇大神、素盞鳴尊、日本武尊の三神である。
 社伝によると、創立は欽明天皇の二年(541)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の崇信が厚かった。
 境内は、ケヤキやイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は享保九年(1724)、拝殿は安永七年(1778)、幣殿は嘉永三年(1850)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井絵がある。
 当社の御神木となっているクスノキの巨木は、県指定の天然記念物で、幹回り五.一メートル、高さ約二十メートル、樹齢約三百年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信嶺の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられる。
 このほか、当社には市指定文化財となっているカヤ、モミ、大門、神楽、小笠原忠貴筆建立祈願文がある。
                                          昭和六十年三月 埼玉県・本庄市
                           
   鳥居をくぐるとすぐ右側に巨大なクスノキがある。「金鑚神社のクスノキ」として埼玉県の県指定天然記念物に認定されている。
埼玉県指定天然記念物 金鑚神社のクスノキ  昭和44年3月31日指定
 クスノキは、元来暖帯地方に自生し、わが国では主に九州地方、近畿地方南部及び東海道関東地方の太平洋沿岸地方に生育する植物で北関東ではこのような巨木になったのは珍しい
目通り5.1メートル、根回り9.8メートル、枝張りは東へ14.2メートル、西へ15.6メートル、南へ15.0メートル、北へ13.8メートルと四方へ平均して伸び樹齢、およそ350年と推定され樹勢盛んである、このクスノキは寛永16年(1639)金鑚神社社殿改修のおり小笠原忠貴が献木したものと伝えられ、金鑚神社の御神木として今日にいたる。
                                             埼玉県教育委員会
                                             本庄市教育委員会
                       
                                       鳥居の正面にある大門 本庄市指定文化財
                                           旧別当の威徳院の総門であったという

 
             拝殿前の階段近くにある手水舎       階段を上ると左側に神楽殿 文政4年(1823)建立
                        
                                                               拝      殿 
                                                    「丸に尻合せ三つ蔦」の神紋  
                        
                                                        配色豊かで豪華な本殿
  本庄金鑚神社には江戸神楽という神楽がある。金鑚神楽には、本庄組・宮崎組・杉田組・根岸組・太駄組の5組の神楽組がある。
 本庄では、地方では珍しい「免許」を持つ神楽として有名で、本庄組は、1825(文政8)年に出された免許状が保存されており、金鑚神社の大祭で奉納舞を行うそうだ。また、1716(正徳6)年の免許を持つ宮崎組は、牧西八幡大神社に奉納され。そして杉田組は西富田金鑚神社等で奉納するという、一社相伝の由緒深いこの江戸神楽は、専門の神楽師ではなく、神社の氏子によって代々伝承されているそうだ。           

 なおこの江戸神楽は現在本庄市無形文化財に指定。



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椋神社

 椋神社の鎮座する旧吉田町は、秩父市から北西部に位置し、2005年(平成17年)4月1日 吉田町が秩父市、荒川村、王滝村と合併し秩父市を新設したため吉田町は消滅した。旧吉田町はその地形上南北に秩父山系が連なり、東西は埼玉県道37号皆野両神荒川線を通じて皆野町、小鹿野町と接している。その為か、この地域は秩父市との関係よりも皆野、小鹿野両町と文化的、経済的にも密接に関係しているのが特徴的だ。
  延喜式神名帳に記載された秩父郡に鎮座する式内社である。「秩父郡に座幵ぶ/チチブグンニザナラブ」として秩父神社とともに延喜式神名帳に誌され、秩父地方においては秩父神社に次ぐ官社だと言われている。本来「くら」神社と読むのだが、他地域の人々が「むく」神社と呼ぶために改称したという。旧社地は、背後の畑地に残る井椋塚の上と伝えられ、近世には「井椋五所大明神」と記録されている。また現社殿と井椋塚を結ぶ直線を西に延ばした先にある鍛冶山の山中に奥宮があるという。また明治17年11月1日に、秩父困民党が集結し、有名な秩父事件の発端になった場所で、境内には困民党決起の碑が建っている。さらに椋神社の秋祭は奇祭「龍勢祭」として有名で、毎年10月には龍勢祭で打ち上げられる「農民ロケット」を見に全国より6万人余の人が訪れるように歴史的にも由緒ある神社である。

 地理的に見ても秩父は特異な地形だ。交通が寄居熊谷方面に限られていて、周囲が秩父山系の険しい山々に遮られて、秩父の市街地は、山域最大の盆地である秩父盆地と小鹿野・吉田など西秩父の小盆地に集中している。そのためか秩父は閉鎖的な空間を感じさせる。

 椋神社はそんな西秩父の小盆地の一角に静かに鎮座している。千数百年もの悠久の歳月を静かに見守っている。

所在地    埼玉県秩父市下吉田7377    
主祭神    猿田彦大神・武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神
社  格         式内社(小)、県社(神饌幣帛料供進指定社)
社  紋    五七の桐
 
                   
 
  椋神社は、秩父市吉田地区(旧・吉田町)の県道37号皆野両神荒川線沿いにある、龍勢祭りや秩父事件で知られる神社である。道の駅龍勢会館から西に約 800mのところにあり、国道140号線「大塚」信号(皆野寄居バイパス終点)からは、吉田方面の標識に従って約6km位の地点に鎮座している。
  秩父神社とともに「延喜式神名帳」に誌され、秩父地方においては秩父神社に次ぐ官社だといわれている。
  社伝によれば、景行天皇の世、日本武尊(やまとたけるのみこと)が秩父御巡幸の際、猿田彦命(さるたひこのみこと)が椋の木の元から立ち現れ、日本武尊命を道案内したことにちなみ、猿田彦命を祀ったと伝えられている。日本武尊命由来の神社のため、入口に狼の狛犬が鎮座している。

   
     一の鳥居から階段を上がる       階段を上がり切るとそこに神社の広い空間が広がる
    
       
                      拝   殿
由緒記
(1)人皇十二代景行天皇御宇、日本武命東夷征伐のとき、伊久良と云う処に御鉾を立て猿田彦大神を祀り給いしと云う。神殿は和銅三年芦田宿禰守孫造立すと 云う。多治比直人籾五斗並びに荷前を奉るとあり是当社造立の起源なり。清和天皇貞観十三年武蔵国從五位下椋神社に從五位上を授けられる。醍醐天皇延喜年間 神名帳に記載せられ国幣の小社に列す。社伝に曰く朱雀天皇天慶五年藤原秀郷当社に春日四所の神を合祀す。日本武尊五代の裔丹治家義五代の孫武信神領数十町 を寄附す是を供田と云う。即ち六段田是なり其後、畠山重忠太刀一口を獻ず。今遺存して神宝となす。長慶天皇永徳二年累進して從二位を授ける。元亀年中武田 信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失す。天正三年鉢形城主秩父新太郎氏邦神殿を再建す同氏獻上する処の祭具木魚二本今猶存在す。慶長九 年当社境内欅三十五本を伐採し江戸城建築の為使用す。寛永四年神殿大破修復棟札あり。宝永五子年二月拝殿修復、棟札は左の如し。
夫武蔵国秩父郡矢場田庄吉田ノ怙鎮守井椋五所神社者延喜式神名帳所載椋神社是也縁起に曰景行天皇四十年与 天慶年中子両度鎮座也  云云
上棟井椋五所大明神拝殿修造清祓御祈祷 国家安全・五穀成就 攸 芦田伊勢守 藤原守房、芦田若狭守 藤原守光、芦田長門守 藤原重斉 干時宝永五壬子天二月吉日
寛政元酉年四月本殿檜皮葺は、天正年中北條安房守氏邦再建にして弐百有余年に及び大破に及び本殿は銅を葺き弊殿拝殿とも大修復をなす。
寛政元己酉年
奏上棟椋神社幣殿拝殿造立功成就 常磐堅磐 社頭康栄 守護祈所 神主 芦田日向守 藤原保実、芦田市正 藤原守重、芦田若狭守 藤原武矩、四月二十一日、大工棟梁 赤柴村 黒石勘平
明治十五年六月十五年県社に昇格す。大正二年近隣の神社二十三社を合祀す。大正五年十一月十三日無格社八幡大神社合祀許可せらる。
大正十年拝殿幣殿の改築竣工し十月四日神饌幣帛料供進神社と指定せらる昭和九年天皇陛下より祭祀料を賜わる。昭和十七年九月社務所焼失す。
昭和二十五年十二月氏子奉納金十萬円を以つて平殿拝殿の屋根大修復。
昭和三十四年九月、工費百三十万円餘氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和四十年十月諸社合祀五十年祭を記念して氏子の奉納金により八幡本殿上屋幣殿屋根工事を完成す。
昭和四十三年十二月明治維新百年祭記念として本殿屋根修理、四十四年四月元拝殿屋根改造完成す。昭和四十八年九月氏子崇敬者の奉納により竜勢櫓用細木二百十一本柱八本奉納。細木置場を建設す。
昭和四十九年四月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて調製費二百二十万円を以つて神輿調製奉納す。五十年亦三百万円の資金にて拝殿その他諸建築物の修復を完成し調度品を購求せり。亦四十九年五月二十日埼玉県の補助により椋宮橋竣工す。

(2)人皇十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊東夷御征行の砌、猿田彦大神の霊護を恭み、皇子御神ら猿田彦大神を當地に奉齊せられたるを起元とし、清和天皇の御宇 貞観十三年十一月従五位上を贈られ醍醐天皇の延長五年十二月延喜式神名帳に記載せられ朱雀天皇の御宇平将門誅伐の時、藤原秀郷春日四座の神を合祭して軍功 を奏し、五座の神となる。元亀年間武田信玄の兵火に罹り社殿焼失し、天正三年北條氏邦再建す。明治六年郷社となり、仝十五年六月三十日県社に列せられ、大 正十年十月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。昭和十七年九月三十日社務所焼失し、昭和三十四年九月氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和四十 九年四月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて神輿調製奉納す。昭和五十年拝殿其の他諸建築物の修復を完了。龍勢の神事は昭和五十二年三 月二十九日埼玉県選択無形民俗文化財となる。

                      
                                               本殿 秩父市指定文化財
椋神社
 日本武尊東夷ノ逆徒ヲ征伐トシテ奉命諸國ヲ巡狩シタマウトキ、甲斐國酒折宮ヨリ武藏國諸郡ヲ経テ此所二著御アリ。固ヨリ當國ハ深山幽谷ニシテ殆ト霧深 。於是日本武尊群臣等ト議曰不能進而其所ヲ知ラサルナリ。尊歎之既二軍神事勝長狭神(即猿田彦大神ナリ)二神慮ヲ請ヒテ之二進ト欲シ、暫ク此所二停止シ鉾ヲ杖トシテ相休焉コ時アリ忽然トシテ光輝顯レ斐錬ス。既二老翁井泉ノ椋ノ下二現出スルナリ。老翁示曰吾レ尊ノ爲二瞼路ヲ導ナリ。日本武尋再拝シテ立焉。一説曰忽チ光ヲ放ツ。其光耀ノ飛止ル所、尊怪以テ其処二到り既二老翁井邊ノ椋本二現出スル也。示日吾則猿田彦大神ナリ。,日本武尊ヲ導ント欲シテ此処二臨ムナリ。日本武尊再拝立焉。日本武尊神二誓ヒ東國多叛ノ夷賊等王化二背クモノ之ヲ討チ安キニ置ハ井椋神祠ヲ作ラシムナリ。忽チ神慮ヲ垂ヨ焉。時アリ風ヲ起シ霧ヲ擬ヒ雲ヲ佛ヒ山鳴り瞼路ヲ披ク。偉哉於是漸ク群臣等進ムコトヲ得テ大二賊徒ヲ討チ軍功アラハルナリ。日本武尊喜日是則大神庇護ヲ垂ルナリ。故二之ヲ謝テ神祠ヲ造立シ永ク鎭座ト爲サシムル焉。則チ井椋宮是也。亦井椋ノ本之ヲ明光場ト謂フ。本社二十町ヲ隔ツ称テ井椋社ト日フナリ。亦当社ノ西二當り櫻ノ大樹アリ、之ヲ奥ノ院ト云。井椋塚アリ。今則畠ノ中ニシテ旧井戸アリ。今民間二用ユ。亦日本武尊鉾ヲ以テ神体ト爲シ猿田彦大神ヲ祠り給フナリ。彼光耀飛立ル所則赤井坂現今華表ノ左側二在ル焉。

                                                                                                               神社に伝わる縁起

  境内には神明神社、天満神社、諏訪神社、稲荷神社、庖瘡神、産泰神社等、境内社が鎮座している.
   
              
                                            八幡宮 本殿と共に秩父市指定文化財

 
また椋神社は「龍勢祭り」でも有名である。
 龍勢祭り 毎年 10月第2日曜日

 人皇13代景行天皇の御宇皇子日本武尊詔を奉載して東征の砌当地を御通りに相なり山深く霧巻き覆い行く先を知らず暫し止り給うに持ち給へる御鉾より奇しき光 り飛んで止まりたるを怪みて其の方に至れば井泉の傍らなる椋の大樹の側に当に猿田彦大神現われ給い日本武尊を導き奉らんとしてそれより東の方赤井坂まで導 かれ御姿を隠され給う。日本武尊の武威俄に上り平定の功を奏せられ大いに喜び給い御自身の御鉾を御神体として猿田彦大神を祀られ永く東国の鎮守たれと祈請 せられ給う其の御氏子の人々が祭りを永く続け来たり旧古は祭礼当日氏子民が神社の前方吉田河原でで火を炊き其の火のついた木を投げて御神慮を慰め奉りしを 例とす。火薬が出来るに及んで火薬に依って火の光を飛ばすことを工夫し現在の特殊の煙火龍勢となり永く奉納されるに至る。竜勢の製造法は松の生木を伐って 円筒を作り竹のたがを掛けて堅く造った物へ火薬を極く固く詰め詰めの終わりの方は塞いで詰め始め即ち下の方から錐で穴を明けこれに導火薬を挿入するもので 之れに矢柄と云って竹を付けるが此の■は竜勢が垂直に上って狂いのない様にするためであり、なるべく長い方が素性よく上り勝ちになる。而して揚げるには八 間位の櫓を造り其の上方部に四角の金棒を渡し竜勢を此の金棒に掛けて導火線を長くつないで櫓の下方から点火する此金棒の水平こそ極めて肝要であり直立して 上れば櫓の側へ矢柄が落ちるので金棒を僅か傾け下方に針金を引いて矢柄を少し傾けて櫓から放れて落下する様に調節する。新調に実施する故事故もなく恒例の 行事として現在にに至る。竜勢煙火を好み給う御祭神の御神徳と竜勢を好む氏子の赤誠と練達と相一致して完全に遂行することが出来たのである。白煙を噴いて 中天高く上昇する竜勢はさながら龍の昇天を思わせ豪壮に極まりなく日本国が生んだ貴い文化財である。昭和39年9月29日吉田町指定民俗資料となり昭和 52年3月29九日埼玉県選択無形民俗文化財となる。誠に古田町が誇るに足る文化財であり、茲に氏子崇敬者一同石に刻して記念碑を建設し永く此の栄誉を後世に伝えるものである。
昭和54年10月 5日
延喜式内椋神社宮司 引馬慧書
吉田町龍勢保存会長 和久井完
                       

  椋神社本来「倉」であり、「くら」神社と読んでいたが、他地域の人々が「むく」神社と呼んだ為に改称したという
。では「倉」とはどのような意味があるのだろうか。以下のことを記述している書物があるので参考資料としたい。

倉 クラ 蔵、倉、椋のクラは、古代朝鮮語で銅(アカガネ)のことを言う。韓半島南部の金海地方にある弁辰の金官加耶は鉄・銅の大生産地で王族も鍛冶師首領の金氏である。三国志・東夷伝弁辰条に「国は鉄を出す。韓、濊、倭、皆従て之を取る。諸市買ふに皆鉄を用ふ。又、以て二郡に供給す」と見ゆ。加耶は加羅と称す。金海の弁辰安耶は安羅と称す。弁辰狗耶国(今の金海市)は狗羅(クラ)と称す。三国志・倭人伝に「郡(楽浪・帯方)より倭に至るには、海岸に循(めぐ)って水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、其の北岸狗耶韓国に到る七千余里」と見ゆ。此の狗耶国の渡来人は鍛冶・鋳物等を業として、其の居住地を倉、久良岐、倉田、倉林等の地名を付けた。

 
この地域には武蔵国山岳地域に多く存在する鍛冶・鋳物集団の居住地だったらしい。そしてその中の一つの集団は「倉」族と称していた。その後その倉一族は周囲に移住し、その土地に「倉、倉田、倉林、倉持等」の地名をつけたという。

久良岐 クラキ 新羅をシラギと称すと同じで、良、羅はラキと読む。神護景雲二年六月紀に武蔵国久良郡と見え、和名抄に久良郡を久良岐と註す。吾妻鑑卷十六に武蔵国海月(クラゲ)郡と記し、クラキと註す。久良岐郡は弁辰狗耶国の渡来人居住地なり。
倉田 クラタ 田は郡県・村の意味。倉族の集落を倉田と称す。
倉林 クラバヤシ 鍛冶・鋳物師の倉族なり。
倉持 クラモチ 車持君の後裔倉持氏 常陸国真壁郡倉持村(明野町)あり、郡郷考に「倉持は即ち車持なり。姓氏録に、車持公は豊城命八世射狭君の後」と見ゆ。下総国岡田郡蔵持村(茨城県結城郡石下町)、上総国長柄郡蔵持村(千葉県長生郡長南町)あり。是等の地名は上毛野族車持君の一族が居住して名付くと云う。しかし、下総国猿島郡・葛飾郡、武蔵国埼玉郡地方に多く存し、此の地方には車持君の伝承が無い。また、毛野族の本貫地である上野国及び下野国には倉持氏は現存無し。倉持(クラチ)は倉地にて、倉族の居住地なり。車持君とは無関係なり。

 
倉一族についての説明は上記のこと以外、現時点では解っていない。この一族のルーツはどこなのか、またこの記述以降どのような経過を経たのか、少なくとも秩父神社とともに「延喜式神名帳」に誌され、秩父地方においては秩父神社に次ぐ官社だといわれている歴史のある由緒正しい社を創建した一族である。元亀年中武田信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失した、とのことだがそれでも何か残されていないのだろうか。隠された歴史が解明される日が訪れるのだろうか。 


 

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