古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

三ヶ尻八幡神社の編集を行いました。

三ヶ尻八幡神社」の編集を行いました。
「コメント」にて、熊谷市の三ヶ尻八幡神社の記念碑文中に神主名が間違っていましたので、訂正し、改めて編集し直しています。

 今後もこのような誤字、脱字があるかもしれませんが、皆様方の暖かい心に甘えながらも、時には厳しいご指導やご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。


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上里町 嘉美神社

『日本歴史地名大系』 「立野村」の解説
 [現在地名]上里町嘉美
 七本木村の南に位置し、南は大御堂村。田園簿では高四九石余はすべて畑で、旗本新見領。国立史料館本元禄郷帳では旗本佐久間領(幕末に至ったとみられる)。「風土記稿」による家数三二。
 *鎮座地の嘉美地域は、明治7年に立野村と久上村が合併して嘉美村となっていて、その後、同22年に七本木村の大字となった。
        
             
・所在地 埼玉県児玉郡上里町嘉美610
             
・ご祭神 熊野大神・櫛御気野命・菅原道真公・素戔嗚尊
                  
倉稲魂命・誉田別命・外二柱
             
・社 格 旧立野村鎮守・旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 13日 祈年祭 43日 夏祭り 7月第3日曜日
                  
秋祭り 1019日 新嘗祭 1123
 嘉美地域は上里町の南東部に位置し、東側は本庄市今井地域と接している。途中までの経路は今井金鑚神社を参照。今井金鑚神社から北西方向に900m程進み、丁字路を右折しすぐ先の路地を左折すると、「住宅型有料老人ホーム」が見え、その建物の西側奥に嘉美神社はひっそりと鎮座している。
 実は今井金鑚神社から北西方向に通じる道路沿いに当神社は鎮座しているのだが、道路に対して背を向けている配置となっていて、そこから正面鳥居方向に進むためには、右斜め手前方向に進まなければならず、上記のルート説明となった次第である。
 駐車スペースは境内に確保されており、境内北側にある「嘉美神社社務所」付近の空間に駐車させてから参拝を開始した。
        
              細い路地沿いに鎮座する
嘉美神社
 
  朱色の鳥居には「嘉美神社」の社号額がある。   境内の様子。一般道が社殿のすぐ後ろ側に
                       通っているとは思えない程静まり返っている。
 江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、村の鎮守の熊野社で、応永10年(1403)銘の石仏の阿弥陀仏が祀られ、口碑によると、村では群馬県碓氷郡の碓氷権現(熊野神社)を虫除に霊験ある作神として崇敬してきたということである。
『新編武蔵風土記稿 立野村』
 熊野社 村の鎭守なり、社内に應永十年癸未十月三日と銘がある、石佛の阿彌陀を安ず、
 末社 八幡 神明 稻荷
 15世紀前半の石仏の阿弥陀仏が祀られているという事は、当然創建時期は中世まで遡ると思われる。
 時代は下り、明治43年(1910)に13社を合祀し、社名が嘉美神社に改称された。
        
                    拝 殿
        
               拝殿前に設置されている案内板
 嘉美神社 御由緒  上里町嘉美六一〇
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の嘉美は、明治七年に立野村と久城村が合併して嘉美村となり、その後、同二十二年に七本木村の大字となった。
『風土記稿』立野村の項に「熊野社 村の鎮守なり、村持、社内に応永十年(一四〇三) 癸未十月三日と銘ある、石仏の阿弥陀を安ず」とあるのが当社で、創建は中世までさかのぼるものと思われる。口碑によれば当村では、古くから群馬県碓氷郡の碓氷権現(熊野神社)を虫除けに霊験のある作神として崇敬してきたという。このため当社は碓氷権現の分霊を勧請したとも考えられる。右の『風土記稿』に見える応永十年銘の仏像は、神仏分離により本殿から出され、 その後、所在は不明となった。また、古老によれば「江時代までは横村家が当社の神主をしていた」という。同家子孫の横村隆重家に残る「奉納結願文」によれば、当村は正徳元年(一七一一)に安保町・長浜町両村と本庄助伝馬役をめぐり紛争となった。そのため村人は、紛争の勝訴の祈願成就を祝って、当社への神位の授与を神祇管領吉田家へ願い上げ、享保十三年(一七二八)に正一位の神位を受けた。その後、社地を現在地に移し、社殿を再建したという。なお、旧社地は不明である。
 明治五年に立野村の村社に列し、同四十三年に嘉美に鎮座する字下郭天神東の村社天神社、字一本松西の村社皇大神社、字上郭天神西の村社天神社をはじめ一三社を合祀し、社名を嘉美神社と改称した。(以下略)
                                      案内板より引用
              
                     拝殿左側手前にある「奉祝紀念紀元二千六百年」碑
                                       嘉美神社
                       當社ハ舊熊野神社タリシガ明治四十三年七月字
                       上久城村社天神社字中久城村社皇大神社字下久
                       城村社天神社ノ三社ヲ合祀シ社號ヲ嘉美神社ト
                       改稱ス大正八年會計指定神社トナル昭和三年九
                        
月二十六日神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル
        
               社殿左側に祀られている富士塚
       
     富士塚のの後方に大きなケヤキのご神木が孤高の如く聳え立っている。(写真左・右)
 ご神木の幹の上部で2本に分かれているが、その上でまた繋がって穴ができている面白い姿である。
 
         社殿の右側奥に並んで祀られている石祠群(写真左・右)
 この社には永正12年(1515)の在銘石堂という石祠が存在する。石堂は石殿、石宮などとも呼ばれ、中世後期から出現する。村落内で仮宮を作って祀っていた神々が石宮になったと思われている。屋根はほとんどが草堂を模した寄棟造りであり、やがて近世にはいると、流造りの石宮が大勢を占めるようになる。
 石堂で中世在銘のものは少ない。当社の石堂の屋根は寄棟造り草堂形で軒が厚く、堂身は刳り抜きで、入り口は将棋の駒形、窓は入り口の上に左右各4窓がつけられており、中世の特色を示しているそうだ。
        
            社殿右側隣に祀られている境内社。詳細不明。
        
                 社殿から境内を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「上里町の神社」「境内案内板・石碑」等
 

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上里町 黛神社

 上里町には「黛(まゆずみ)」という名称の地域がある。黛地域は、利根川支流である烏川と神流川の合流点付近に位置していて、烏川とその右岸にある「上里ゴルフ場」の大部分が地域北限となり、南側は「御陣場川」がその南限境で、ゴルフ場から御陣場川までの狭い区域に民家が集中している。平均標高は烏川左岸が53m程、右岸で上里ゴルフ場、及びその南側の集落附近が5758m程で、埼玉県側が若干高いようだ。
 この地は、江戸時代には中山道から分岐し、上野国玉村(群馬県)に向う三国街道の道筋にあたり、烏川の藤の木渡場として栄えたところでもある。

        
              
・所在地 埼玉県児玉郡上里町黛1
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧黛村鎮守・旧村社
              
・例祭等 春祭り 43日 天王様 715日 大祓式 716
                   
秋祭り 1019
 金窪八幡神社から旧中山道である埼玉県道392号勅使河原本庄線を350m程西行し、「三国道入口」の標識のある丁字路を右折する。500m程進み、御陣場川を越えたほぼ正面に黛神社が見えてくる。
 黛神社は黛地域南側端部に位置しながらも住所は「児玉郡上里町黛1」。まさに地域の鎮守社である。
 社の東側隣には、社務所らしき建物があり、その駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                   黛神社正面
 上里町「黛」。筆者にとって不思議と心に響く心地よい名称である。
 不思議な地域名なので、調べてみると「黛」は「代」の下に「黒」と書く漢字で、訓読みでは「まゆずみ」と読み、眉墨の別表記ともいう。元々は中国語で「眉墨」を意味する字であり、平安時代の日本の上流社会では、眉毛を抜いた上で「掃墨」という粉末状の墨で眉を描く風習があり、「引眉」とも呼ばれた。但し実際に苗字として使用されている地域は関東地方が多く、特に群馬県に多く存在し、群馬県でも富岡市・安中市・高崎市・甘楽郡下仁田町に多いようだ。
 一方、上里町黛地域がルーツとの説もあり、「丹党黛氏」は当地に土着した武士団一族という。
 『武蔵国児玉郡誌』大字黛の黛神社は、往時丹党の支族黛某の勧請なり
 
 正面鳥居の左側に並んで祀られている石碑群        参道左手にある手水舎
    庚申塔や青面金剛碑等が並ぶ。
『新編武蔵風土記稿 黛村』には「黛村も元金窪村の内なり、金窪鄕に屬し、(中略)元祿十一年分村」と記載され、文禄四年(一五九五)の検地帳(萩原文書)に「武州賀美郡鉢形筋金窪之内黛村」と金津村の内として見えるが、元禄十一年(一六九八)に一村として分村したという。
              
                    「共進指定村社 黛神社」と刻まれている社号標柱
        
                           参道左手に設置されている案内板
 黛神社 御由緒
 ▢御縁起(歴史)  上里町黛一
 当地は、利根川支流の神流川と烏川の合流点付近に位置する。文禄四年(一五九五)の検地帳(萩原文書)に「武州賀美郡鉢形筋金窪之内黛村」と金津村の内として見えるが、元禄十一年(一六九八)に一村として分村した。すぐ南は忍保川と面し、西には中山道から分岐して上野国(群馬県)に至る三国街道が通っていた。当社は、村の西南端の低い台地上に鎮座する。また、東隣には天台宗観音寺があった。
『児玉郡誌』は「当社創立は詳ならざれども、往時丹党の氏族黛某の勧請せし神社なりと云ふ。初め黛大明神と称して烏川に接したる地にありしが度々水害に遇ひしを以て、何れの頃か現在の社地に移転すと云ふ、一時社具司明神とも称えし事あり、神階は正徳三年(一七一三)に正一位を奉授せらる、古文書二通今尚現存す。(以下略)」と載せている。ただし、『明細帳』では祭神を稲倉魂命と記している。
 なお、内陣に奉安される御影軸には、中央に雨宝童子、左下に正一位黛大明神、右下に正一位諏訪大明神が描かれている。
『風土記稿』黛村の項には「黛明神社・諏訪社以上二社、村の鎮守にて、観音寺持」とある。 明治の神仏分離により当社は別当の観音寺から離れ、明治五年に村社となった。一方、観音寺は明治七年に廃寺となった。明治四十四年には諏訪社・大杉神社・豊受神社の三社を境内に合祀した。(以下略)
                                      案内板より引用
 黛神社のご祭神は「倉稲魂命」で別名「稲荷神」と呼ばれていて、稲荷系の社と言える。
 その一方、黛神社は一時期「
社具司(しゃぐじ)明神」と唱えていたようで、この「社具司(しゃぐじ)」は諏訪系の社名である。案内板には「内陣に奉安される御影軸には、中央に雨宝童子、左下に正一位黛大明神、右下に正一位諏訪大明神が描かれている」との記載があり、内陣に奉安されている影軸の一方に「諏訪大明神」が描かれているのにも納得ができよう。
        
                   参道の風景
            よく見ると、石灯篭の高さが異様に低い。
 当地は利根川水系の烏川や神流川が合流する付近にあり、嘗て度々水害に見舞われていた地なのであろう。社地も移転をしていたようであり、この地域の水害の歴史をまざまざと見せつけられたような石灯篭の現在の姿を見るにつけ、少々驚きを禁じ得なかった。
       
                     参道途中、左手に祀られている境内社。詳細不明。
       
                                       拝 殿
            
                社殿左側に一際聳え立つ巨木。
                ご神木の類であろうか。
        
       巨木の並びに鎮座する境内社・左側には諏訪神社、右は大杉神社か。
 
境内社・諏訪神社の左側に祀られている石祠群      境内社・諏訪神社等の右側奥にも
  石碑には「猿田彦大神」と刻まれている。        数基の石祠があり。
       
                               社殿からみた参道の風景
       
              正面鳥居の右側にある「功績の碑」
 この鳥居の右側脇にある石碑は、昭和26年に建てられた「功績之碑」である。 この碑は、烏川及び神流川の堤外地の民有地を河川敷として無償没収する告示がされた時、全村民で訴訟を起こし、再び村民の土地として認められ、この功績をしるしたものであるという。
        
                          社の東側に隣接して建つ観音寺


参考資料「新編武蔵風土記稿」
「上里の神社」「Wikipedia」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等


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八町河原稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡上里町八町河原468
             
・ご祭神 倉稲魂命 他十柱
             ・
社 格 旧八町河原村鎮守・旧村社
             *
「延喜式神名帳 武蔵國賀美郡 今木青坂稲実荒御魂神社」比定社
             
・例祭等 初午祭 2月初午 春季例祭 43日 例大祭 113
 上里町石神社から北東方向に通じる道路を直進し、1.2㎞程先の十字路を左折し、利根川堤防方向に進むと、その手前付近に八町河原稲荷神社は鎮座している。
地図を確認すると、利根川と烏(からす)川の合流点南岸の低地帯にあり、埼玉県最北部に位置している社のようである。
 この社の寛永四年(1627)銘をもつ石祠には「上州那波郡八町河原之持」とあり、当時烏川・利根川の流路変更によって上野国に所属していた時期もあったらしい。神川町の肥土廣野大神社の例もあるが、河川流域付近の社には、洪水等の自然災害は近代史前では、不定期に起こること自体宿命的な出来事ともいえよう。八町河原稲荷神社も、自然災害から地元住民を守る為に建立されたお社なのであろう。
        
                                八町河原稲荷神社
          正面からの撮影は禁止という事で、やや斜めからの風景
『日本歴史地名大系』 「八町河原村」の解説
八丁河原とも記す。利根川と烏(からす)川の合流点南岸に位置し、烏川の対岸は上野国那波郡沼之上(ぬまのうえ)村(現群馬県玉村町)、東は児玉郡新井村(現本庄市)、西は忍保(おしぼ)村。八町河岸(八丁河岸)および上野国に至る三国街道の渡船場(八町河原渡)があった。北条氏邦領について記録した鉢形北条家臣分限録(埼玉叢書)に「本国山城、千貫、随臣、加美八町河原住、桑原玄蕃」とみえる。地内にある稲荷神社の寛永四年(一六二七)銘をもつ石祠に「上州那波郡八町河原之持」とあり、当時は烏川・利根川の流路変更によって上野国に所属していたらしい。近世初期には本庄城主小笠原信嶺の知行地とされる(享保一二年「庄田三郎兵衛覚書」庄田家文書)

       
             社号標柱               趣のある手水舎
        
              鳥居近辺に設置されている案内板
 稲荷神社 御由緒  上里町八町河原2266
 □御祭神

 ・倉稲魂命 ・誉田別尊 ・罔象女神  ・菊理媛命
 ・伊弊諾尊 ・伊弊冉尊 ・天照大御神 ・豊受姫命
 ・迦具土命 ・大物主今 ・菅原道真公
 □御縁起(歴史)

 当社は八町河原の小字の一つである本村の北端に鎮座する。創建年代は、「児玉郡誌」に宝徳年中(西 一四四九-五二〉、「郡村誌」に天文年中(西 一五三二-五五)、「風土記稿」には天正年間(西 一五七三-九二)とそれぞれ載せられており、遅くとも中世後期には勧請されたことをうかがわせる。鎮座地については、「郡村誌」に「往昔は鳥川の畔にあり、其後安政6己未年(西 一八五九)八月中洪水に罹り社地崩壊せり、同年十一月本村の中央に仮宮建立遷座す」と記されている。
 本殿には、「稲荷大明神」「享保四己亥(西 一七一九)霜月吉祥日京稲荷社愛染法院暁雄」}と墨書された神璽筥が奉安されており、京都の伏見稲荷神社から拝受したことが知られる。
 明治四〇年二月十三日、八幡神社(植竹)、水神社(水神前)、白山神社(前河原)及び境内の神明愛宕、琴平、北野の各神社を合祀している。
 本殿右の大欅の元には、寛永四年(西 一六二七)上州那波之郡、八町河原之持と刻まれた石祀があり、その他境内には寛永四年建立の雷電神社や江戸期に栄えた八丁河原の舟運利用の永の神である大杉神社などが祀られている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 八町河原村』
 稻荷社 村の鎭守なり、天正の頃觀請すと云、宮守を關口和泉と云、先祖は要人とて、是もその頃の人なりと云、觀音寺持、下七社同じ、〇雷電社 〇水神社 〇天神社 〇神明社 〇愛宕社 〇大杉社 〇八幡社、
 觀音寺 新義真言宗、京都智積院末、中興僧快〇寶永五年修理すと云、本尊大日を安ぜり、
『新編武蔵風土記稿 八町河原村』に記載がある「関口氏」は他にも、『武蔵国児玉郡誌』に「寛永三年神主関口丹波、正徳三年神主関口左馬之助、其後関口和泉神主となる」と見える。因みにこの関口姓は武蔵国、上野国等に多く存在するようだ。
        
                     本 殿
 別当の観音寺は真言宗の寺院で、延宝元年(1673)に開創されたと伝えられるが、明治初年の神仏分離により観音寺から離れた。明治5年村社に列する。明治40年4月23日八幡神社(字植竹鎮座、祭神誉田別尊、慶長13(1608)創建、祭日815日)、水神社(字水神前鎮座、祭神美津和売命、天保元年(1830)創建)、白山神社(字前河原鎮座)及び境内の神明神社、愛宕神社、琴平神社、北野神社の各神社を本社に合祀しているという。
       
                       社殿西側には豊かな社叢林が広がる(写真左・右)
           この林は位置的に見ても防風林の役割もあるようだ。
 
  境内西側奥にある鳥居の笠木・島木部         社殿右側にある神興庫
以前あった鳥居を大切に保管しているのであろう  地域の祭りの山車(?)が保管されている
       
       ご神木(写真左・右)とその幹部分に祀られている寛永4年(1627)銘をもつ石祠。
        
                   社殿からの風景
        
                         境内南側隅に祀られている庚申塚、仏様等


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「上里 菅原神社HP」「埼玉苗字辞典」
    「境内案内板」等
 

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上村君避来矢神社

 埼玉県羽生市上村君の利根川沿いに避来矢(ひらいし)神社がある。社殿や石鳥居は真新しく、利根川堤防強化事業に伴い、平成27年に移転した。地元には、下野から飛来した大石を祭り、飛来石神社と呼ばれていたが、明治61873)年に避来矢神社と改称したとの言い伝えがある。神殿裏には、特に説明板はないが、大きな石が祭られている。裏側の道を1本隔てて2本の桜と数体の石碑が並び、一つは昭和35年の社殿移転記念碑。神社は堤防工事のたびに少しずつ移動しているようだ。
 天文年間(1532年〜1554年)に、下野栃木村から大きな「石」が飛来し、その石を崇拝したことに始まるとされる。そのため、当時は、飛来石神社と称していたという。それが、藤原秀郷公が百足退治の礼として龍宮の王から授かったと言われる伝説の大鎧(飛んでくる矢が当たらないといい、源平合戦前は「真経腹巻之具足」と呼ばれていた)である、その後、避来矢(ひらいし)と結びつき、現在の社名並びに形となったという。
        
              
・所在地 埼玉県羽生市上村君191
              
・ご祭神 藤原秀郷公
              
・社 格 旧上村君村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭 714日に近い日曜日(獅子舞)
 発戸鷲宮神社から用水路沿いの道路に北行して戻り、合流後右折する。仰ぎ見れば、鮮やかな青色の夏空の中、綿菓子のような雲とのコントラストが見事なまでに盛夏の雰囲気を醸し出している。運転をしながらふと左手を見ると、そこには利根川の堤防が東西に延々と続き、周囲は長閑な水田地帯が広がる中、700m程先にある丁字路を左折すると、利根川の堤防が見えるその南岸に真新しい上村君避来矢神社が見えてくる。
 社の東側に隣接して駐車場も綺麗に完備され、しかも今風のスロープもあり、安心して参拝に望めることは大変ありがたい。
        
                 
上村君避来矢神社正面
『日本歴史地名大系』 「上村君村」の解説
 利根川沿いに発戸村の東に位置し、東は下村君村。古くは同村と一村であった。文明一八年(一四八六)東国巡遊の旅に出た聖護院門跡道興は「むら君」を通過する際、「たか世にかうかれそめけん朽はてぬ其名もつらきむらきみの里」(廻国雑記)と詠んでいる。
 永禄六年(一五六三)五月二八日の広田直繁判物写(武州文書)には「太田庄北方村君之郷」とあり、村君郷が太田庄北方に含まれていたことが知られる。
        
                                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 埼玉郡上村君村』
避來矢社
村の鎭守なり、相傳當社は俵藤太秀鄕を祀る所にして、古へ相州朽木村より飛來りし故、元は飛來と書しを、享保十一年神祇伯吉田家へ神位を請し時、今の文字に改め記し來りしと云、
〇雷電社 〇通殿社 〇稻荷社 〇天神社 以上總德院の持、
 
拝殿手前にある上村君地区の「獅子舞」の案内板     社殿右側にある社務所
 指定文化財 獅子舞(上村君地区)
 無形民俗文化財 羽生市指定第7号 昭和34101
 前獅子、中獅子、後獅子の三頭で構成されます。他の役割は花笠、笛方、旗持ち、万灯があります。現在は714日に近い日曜日に祭が行われ、その日の夕方はここから雷電神社まで天下泰平、村内安全、五穀豊穣の幟を先頭にして往復します。
 当日の午前中はここから出発し、地域内をくまなく回る村回りを行います。
 舞いは前庭と本庭からなり、曲目は「花笠」「四本ずく」「八丁しめ」「辻がかり」「弓がかり」「ささ蛇」「鐘巻」などがあります。
「辻がかり」は悪病が来ないようにと村境で舞われるもので、本番での獅子舞は棒術に続いて行われます。
 元亀・天正の頃、羽生城の救援に出陣した上杉謙信が将兵の士気を高めるため、上野国からささら舞師を招き、避来矢神社に奉納したのが起こりという伝承があります。
 平成14320日 羽生市教育委員会
                                      案内板より引用

        
            境内にある「「避来矢神社移転建築記念之碑」
        
               
本殿の後ろに祀られている「甲石」
           
旧下野国栃木邑から飛来したという「石」という。
『羽生昔がたり』には、「栃木邑から飛んできた甲石」という昔話がある。
 羽生昔がたり「栃木邑から飛んできた甲石」
 上村君地区のこの話は、今から千年以上もの古い話から始まります。
 平将門は朝廷にむほんをおこし、下総国(千葉県北部及び茨城県の一部)の父の遺領地に帰りましたが、遺領地をめぐって一族の争がますますひどくなって大さわぎになりました。
 そして将門の勢力をのばして、武蔵国のお役人たちまで困らせるなどの反乱をおこしたので、武勇にすぐれた藤原秀郷(俵藤原太郎)と平貞盛の二人の武将は力を合わせて、朝敵将門を討伐しました。
 武蔵国も下総国も平和となって、秀郷と貞盛の手がらは人々からほめたたえられました。将門の乱を平定した秀郷は功績をみとめられて、武蔵国と下野国の二国の守に任ぜられ、東谷(羽生)に国府(役所)を開いて政治をとったといわれます。人々をさいなんから守り、神様のようにあがめられました。
 ところがそれから六百年もたったある日のこと、下野国(栃木県)栃木邑から、たたみ一枚ほどもある大きな石が上堤根邑(上村君)に飛んできたということで、村は上を下への大さわぎになりました。紫がかったこの石は形が「かぶと」によく似た石です。「もしかしたら秀郷将軍が石になって村を守るために飛んできたんだんべ」と里人たちはこの不思議な石をめぐってワイワイガヤガヤ…結局勇猛な秀郷の化身と信じ「ありがてえ、ありがてえ」「やたらに人の目にふれたら神様にバチがあたる」と地表に少しおすがたを見せて地中に安置しました。
 丁度その頃が戦に明け暮れた戦乱の世だったので、秀郷が将門の乱を平定した時のようにと里人たちは甲石をご神体にして信仰しました。
 秀郷が愛用した「避来矢のよろい」は栃木県の唐沢神社の宝物になっているそうですが、上堤根村ではよろいの名をとって避来矢神社を建立し、秀郷を祀り、村の平和を祈りました。
 舘林城主、松平左近将監は(今から二百年位前)領内を巡行した折に、甲石を興味深く見ていかれたという記録があります。
        
    社の境内から道路を挟んで北側に石碑や石祠、庚申塚等が多数祀られている。
        
                       一番右側に建つ「社殿移転記念之碑」
                  
社殿移転記念之
             当避来矢神社は古老の口碑によれば
            古来下野国栃木邑より飛来せし大石を里人
             甲石と称して崇敬し天文年中日本武尊と
                併せ奉祀したるものと伝えらる
                        其の後飛来石神社と称し地区民崇敬の中心
                        なりしも詳かならず明治六年避来矢神社と
                             改称し村社となり今日に至る
                         昭和三十四年建設省関東地区利根川上流
                        引堤工事の確定により此の由緒深き神殿の
                         移転に当り地中に埋設せし伝説の御神体
                       甲石を始めて掘り出し氏子一同の奉仕により
                          昭和三十五年三月三十日現地に遷座す
                        尚天神社通殿社浅間社三宇も遷座合祀せり
                            
昭和三十五年三月 小林一雄撰文
        
                社殿から鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP 羽生昔がたり」
    「Wikipedia」「境内案内板、記念碑文」等

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