古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

柴山枝郷八雲社

「栢間赤堀(かやまあかほり)」は、埼玉県久喜市菖蒲区域を流れる河川で、菖蒲町小林の北西部を起点として、菖蒲町下栢間を横断し、菖蒲町柴山枝郷で元荒川に合流していて、ほぼ全域水田などの農地の中を流下する。栢間赤堀という名称は、元荒川を挟んだ鴻巣市・桶川市側に「赤堀川」(あかほりかわ)という別の河川が流下しているために、その河川と栢間を流下する赤堀とを区別をするため「栢間」という言葉を冠し、「栢間赤堀」と称されている。このため栢間赤堀は赤堀(あかほり)とも称されている。
 栢間赤堀は起点から菖蒲町下栢間付近までは南東方向に流下しているのだが、その後、東北東へと変え、菖蒲町柴山枝郷西南端部に入り、南西方より流下してくる元荒川左岸に合流し、終点となる。
 嘗ては菖蒲町下栢間・菖蒲町柴山枝郷流域の北側・北方には栢間沼と呼ばれる広大な湿地が存在しており、掘り上げ田(ホッツケ)などによる農業・稲作が営われていたが、現在ではこれらの掘り上げ田は圃場整備や農地改良を経て通常の水田などになっているという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町柴山枝郷77
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧無格社
             ・例祭等 春の祭礼 315日 天王様 715日 お日待 1015
 下栢間諏訪神社から埼玉県道77号行田蓮田線を南方向に650m程進行する。途中、「圏央道(首都圏中央連絡自動車道)」を潜るように進み、最初の丁字路を左折し、そのまま北東方向に1.7㎞達した栢間赤堀に架かる一本木橋を越えた最初の丁字路を再度左折すると、柴山枝郷八雲社の社殿が遠目からポツンと見えてくる。
        
                  柴山枝郷八雲社
    社の両側は農道が走り、境内といえる敷地は社殿とその周囲のみの一見簡素な配置。
       「埼玉の神社」にも「境内も五〇坪程度の小社」と記載されている。

 但し、社殿左側には「八雲神社の山車」を納めている母屋もあるし、社の南側には社号標柱や、手水舎も設置されている。小社でありながら、明治末期に政府の合祀政策が推進された際も、他の社に合祀されることなく現在に至っていることは、それだけ地域住民の方々の信仰心が厚かったことの表れなのであろう。
 
     社殿の南側にある手水舎。       社殿の南側で道路脇に立つ社号標柱
      すぐ傍らに力石がある。
       
                                      拝 殿
 八雲神社(てんのうさま)  菖蒲町柴山枝郷七七(柴山枝郷字小塚)
 柴山枝郷は、柴山村の新田として開発され、寛永二年(一六二五)に検地された小名丸谷・神ノ木・小塚などが、安永二年(一八五五)に柴山村から分離・独立して柴山枝郷と丸谷村が成立した。明治二年に丸谷村を合併し、同二十二年には栢間村の大字となり、昭和二十九年には町村合併により菖蒲町の大字となった。
 当社は、柴山枝郷の中にある村組の一つである小塚の人々が祀ってきた神社であり、通称を「小塚の天王様」という。創建の時期は定かではないが、氏子の間には「神社の祭典でたたいている太鼓は、天保のころ(一八三〇〜四四)に大宮市木下から小塚の有山善倫家に婿養子に来た惣五郎という人が教えたものである」との言い伝えがある事から、その当時、既に当社が現在のような形で祀られていたことが推測できる。
 したがって、当社は、柴山村の新田として開発された小塚が、次第に発展し、村落としての形を整えていく中で、組の鎮守として創建された社であったと思われ、氏子の間には、「皿沼の新田開発が成功したのを記念し、地域の人々は寄附を集めて社殿を建立した」との伝えもある。旧社格は無格社で、境内も五〇坪程度の小社であるが、住民の厚い信仰があったことから、明治末期に政府の合祀政策が推進された際も合祀されることなく、現在に至っている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

       
                         「八雲神社の山車一基」の案内板
 久喜市指定有形民俗文化財
 八雲神社の山車一基
 指定年月日  平成六年三月三十一日
 所在地   久喜市菖蒲町柴山枝郷七七
 所有者   ハ雲神社
 八雲神社は、『武蔵国郡村誌』によると「平社々地東西四間南北十二間六寸面積四十八坪 村の西南にあり素戔嗚尊を祭る 祭日陰暦六月十五日」とあります。
 村の古老の話に、八雲神社は「江戸時代新田開発の成功を記念し、素戔嗚尊を祭神として祭り、山車もこの頃に作られた。」とあります。
 この山車は、四つ車で囃子座と人形座からなり、唐破風屋根の上に人形座をのせる形式です。囃子座は床上高欄付で本体より左右に広く作られており、人形座との境は鞍馬山の牛若丸を彫刻した四枚の羽目板で仕切られています。左右の脇障子は昇り竜・降り竜の彫刻で飾られています。
 正面の鬼板は奇稲田姫・素戔嗚尊・酒甕、懸魚と妻飾・向拝柱は昇・降の竜などが配され、八雲神社の祭神である素戔嗚尊の故事にならった彫刻で飾られています。これらの彫刻は篠津(白岡町)の彫工立川音芳氏の手になるものです。裏面は鬼板が鶴・懸魚が亀の瑞兆彫刻で、立川氏をして「良いものだ」といわしめたという話が残っており、当初からあった彫刻と思われます。
 腰水引の幕は流水とアヤメを白抜きにあしらった図柄で、本藍染の作品です。人形座は唐破風屋根に穴を穿ち、一本柱を立て先端に床上高欄を設け、烏帽子を被った楠木正成の人形が見下ろす形に設定されています。人形座下の三重幕は緋色で、正面には「御祭壇」という文字、左右には巴文様が描かれています。
 二重幕は左右・後ろの三方を囲むように装着され、紋様は紺色の羅紗地に刺繍で、竹林に虎が配されたものです。
 山車の梁には明治十二年の年号があり、また二重幕の裏には明治十三年辰年六月十五日、小塚氏子中」の墨書が見られることから、 山車の製作年代はこの頃と考えられます。
 腰水引の幕は、平成六年三月、山車の町指定記念に新調されました。製作は埼玉県指定無形文化財・武州藍染の伝統技術保持者である中島安夫氏です。
 平成九年三月十五日 久喜市教育委員会
                                      案内板より引用

 年間の祭りの中で最もにぎわうのが、天王様である。天王様の祭日は715日(近年はこれに近い日曜日)であるが、その準備は7月に入るとすぐに始まる。まず72日を「天王様始め」といい、この日には拝殿に役員が集まり、当年の祭りの内容について相談する。ここで決まったことに基づき準備が進められ、78日の「中日」には山車を出して組み立てる。
 嘗ては、祭例当日の午後から祭典が行われ、これが終わると囃子連を乗せた山車の引き回しが始まり、神社を出発して小塚を一巡した後、白岡の街の方まで行った。特に、小川橋から高虫橋の辺りは最も人出があり、にぎわった。その後は、山車の曳き手不足や電話線の架設により通行困難な場所が増えてきたことにより、曳き回しは中止となり、現在は、境内に据え置くだけとなった。
 また、当日には、氏子有志による囃子連が、朝から夕方まで境内で囃子を演奏する。当地の囃子は、大太鼓一名・小太鼓二名・笛一名・鉦一名の計五明で構成され、「古囃子」といってテンポが早く、にぎやかな曲調が特徴である。今でも後継者育成のため、現地の小学生に定期的に教えており、伝統ある囃子の継承と技術の向上に励んでいるという。何とも素晴らしい地域の伝統行事であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「案内板」等

          
      
 

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下栢間諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町下栢間2118
             ・ご祭神 建御名方神
             ・社 格 不明
             ・例祭等 春祭 419日 献燎祭 826日 感謝祭 1223
 上栢間地域に鎮座している神明神社の正面鳥居から東方向に進み、すぐ先に丁字路を右折し、南東方向に伸びるこの道路を600m程進むと、進行方向左手に下栢間諏訪神社が見えてくる。丁度、久喜市立栢間小学校の向かい側にある。この久喜市菖蒲町上・下栢間は、元荒川左岸の台地とそれに続く低地上に位置し、素晴らしい農村風景と豊かな自然が残っている地域でもある。
        
                 下栢間諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「栢間郷」の解説
 野与党栢間氏の本貫地。栢間氏は野与基永の孫六郎弘光が栢間郷に住して称した。「萱間」とも記す(「野与党系図」諸家系図纂)。同氏は将軍上洛の供奉、武蔵野開発奉行人などのほか、的始めの射手として同季忠・行泰が「吾妻鏡」にみえるが、南北朝時代以後その動向は知られていない。康暦三年(一三八一)四月一三日の足利氏満御教書写(風土記稿)に「埼西郡栢間郷内笠原村榑井」とみえ、鳩井義景は買得した同地にある在家・田畠三町三反の安堵を求め、鎌倉公方足利氏満は鬼窪某に事実関係を調査させている。
        
                   境内の様子     
    境内は決して広くはないが、手入れも良く、行き届いていて気持ちよく参拝できた。

 平安時代末頃から各地で武士が勢力を強めていく中、武蔵国では「武蔵七党」と呼ばれる武士団が活躍していた。武蔵七党の数え方には諸説ありますが、『武蔵七党系図』では横山党・猪俣(いのまた)党・野与(のよ)党・村山党・西党・児玉党・丹(たん)党の七党とされている。
 この内、古利根川と元荒川の間を活動の拠点としていたと考えられている野与党の系譜には、「鬼窪(おにくぼ)」「白岡」「笠原」などとともに、「萱間(かやま)」という一族も確認できている。この一族は「栢間」とも表記され、現在の久喜市の栢間地区を拠点に活動していたと考えられている。
 栢間(萱間)氏の名前は鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』にも登場し、『武蔵七党系図』に出てくる名前でも確認できる。また、正元2年(1260)正月に鎌倉で行われた幕府の弓始(ゆみはじめ)の行事で、栢間左衛門次郎季忠(ときただ)が優れた弓の腕前を披露したことが書かれている等、栢間氏が鎌倉幕府の御家人であったことがわかっている。
『新編武蔵風土記稿 栢間村附持添新田』
「當國七黨の内野與黨の系圖に、野與小太郎行基の三男を、萱間六郎弘光と云。其子季平其男太郎季重を始とし、萱間氏の者數輩見えたり。今栢間と書て、唱にはかやまと呼べり。されば文字は違へど、同じく此地名に依りて唱へしにや。又【東鑑】にも萱間左衛門次郎季忠或は栢間左衛門次郎行泰と云人見ゆ世を以て推に正嘉頃の人なり、其内左衛門次郎行泰は、既に七數系圖にも見えたれば、栢間の名古きこと疑なし」
『吾妻鑑卷四十』
「建長二年(
1250)三月一日、栢間左衛門入道」
『 同 卷四十八』
「正嘉二年(
1258)正月六日、御的の始めの射手の事内々に人数を定めらる 萱間左衛門二郎」
『 同 卷四十九』
「正元二年(
1260)正月十二日、浜に於て御的射手の試しあり(中略)射手六番目に栢間左衛門尉二郎」
「正元二年(1260)正月十四日、今日弓始也、(中略) 六番 栢間左衛門二郎季忠」
『 同 卷五十二』
「文永二年(
1265
)正月十二日、御弓始あり、射手 三番 栢間左衛門二郎行泰」
  一方、江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』の栢間村の記述から、室町時代の康暦3年(1381)には、栢間の土地を鳩井(はとい)氏が支配していたことがわかる。また、栢間尋常小学校の建設を記念して明治45年(1912)に建てられた『紀功之碑(きこうのひ)』にも、当所が武蔵七党の一族野与小太郎行基の三男の萱間六郎弘光が開発した城址で、その後鳩井三郎義景に伝わったことが刻まれている。
 栢間氏が栢間地域を支配していた期間は長くはなかったようであるが、現在も栢間の地名と共に、栢間の歴史を語る中で生き続けているといえよう。
 
         手水舎                境内南側にある神楽殿
         
                              拝 殿
 諏訪神社  菖蒲町下栢間二一一八(下栢間字在家)
 当社の鎮座する下栢山は、菖蒲町の南西に位置し、南東は元荒川を挟んで蓮田市に接し、南西は桶川市に隣接している。
 当地の開発は古く、「栢間七塚」と通称される栢間古墳群の存在から、六世紀中ごろまでさかのぼることができ、また、奈良・平安期の集落跡も発掘されている。更に、平安末期から南北朝期まで、武蔵七党と呼ばれる武士団の一つ、野与党の栢間氏が、その本貫地としていた。
 天正十八年(一五九〇)に徳川家康が関東に入国した折、累代の御家人である内藤四郎左衛門正成に当地を与えた。正成は、当地の西部に陣屋を構えた。口碑によると、その敷地内に氏神として、諏訪神社と稲荷神社の二社を祀ったとされ、このうちの諏訪神社が当社であるという。なお、稲荷神社は、現在も仲道地区に祀られている。また、内藤家は、寛永二年(一六二五)に江戸詰めとなり、陣屋には家人を常駐させていた。しかし、この陣屋は明治維新の際に廃されて、神社のみが残された。
 現在の本殿は、内藤家の管理していた山林から伐採した木材で建てられたと伝えられる。この本殿は、明治三十八年に改築修理されている。
 その後、昭和十八年に神楽殿が新築され、同六十年には下栢間集会場が建てられて現在に至っている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿上部に掲げてある扁額        神楽殿の隣に祀られている境内社・三峯社

 内藤 正成(ないとう まさなり)は、戦国時代の武将で、徳川氏の家臣。享禄元年(1528年)、内藤清長の弟・内藤甚五左衛門忠郷の次男として生まれる。はじめは伯父の清長に仕えたが、やがて松平広忠の家臣となり、その死後は徳川家康に近侍として仕えた。
 正成は武勇に優れ、特に弓矢の腕に関しては並ぶ者なしだったと言われている。松平広忠に仕えることができたのも、その弓の腕を広忠に見込まれたためとも言われる説があるほどで、その武勇から徳川十六神将の一人として数えられている。三河一向一揆、三方ヶ原の戦いでは、長男を失いながらも奮戦し、高天神城攻城戦でも、敵方武田軍からもその射力を恐れられたほどの強弓の武功者であった。
 天正18年(1590年)家康が関東に移ったとき、三河国幡豆郡700石の知行から、武蔵国埼玉郡栢間村、戸ヶ崎村、新堀村、三箇村、小林村などに5000石を与えられ、栢間陣屋(現在の菖蒲町下栢間の栢間小学校付近。1万坪を超える敷地だった)を構える。
 関ケ原の戦い後、病に倒れ、徳川秀忠が医師久志本左京亮常衡を差し向けたが、治療の甲斐なく、慶長7年(1602年)412日に死去。享年75。
 口碑によると、栢間村西部に陣屋を構えた際に、その敷地内に氏神として、諏訪神社と稲荷神社の二社を祀ったとされ、このうちの諏訪神社が当社であるという。
        
                   境内の様子
当社で行われる4月19日の春の祭礼は 豊作を祈願する祭りで、例祭でもある。嘗ては境内の神楽殿で神楽を奉納していたが、伝承者が絶えてしまったため、昭和30年代に中止となっているという。
 8月26日に行われる献燎祭は、灯籠祭とも呼ばれる。この名称は、境内の周りに繩を巡らし、行灯をつり下げて、夕刻の参拝者を迎えていたことにちなむが、昭和35年頃に廃され、祭典名に名残を留めるのみとなっている。翌日27日には「カマトッケー」が行われる。これは、拝殿内の籠の中に積んである木製の鎌を借りてきて、自宅の神棚に上げて願をかけるものである。願いが叶うと新しい鎌を作り、借りた倍の数にして返却する。昔は盛んな行事であったというが、現在参加しているのは、数名という。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「久喜市HP」「Wikipedia」等
 

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北荻島天神社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市北荻島119
              
・ご祭神 菅原道真公(推定)
              
・社 格 旧荻島村鎮守
              
・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1025
 北荻島(きたおぎしま)地域は羽生市東部に位置し、西で大沼、南で中手子林、北で喜右エ門新田、東で加須市戸川各地域に接している。埼玉県道84号羽生栗橋線が縦断し、東北自動車道との交点に「羽生インターチェンジ」が設置されている。
 県道84号線の「羽生インター入口」交差点から250m程西行し、丁字路を左折すると右手に「北荻分館」があり、その南側隣に北荻島天神社が鎮座している。
        
                  北荻島天神社正面
『日本歴史地名大系』 「荻島村」の解説
中手子林(なかてこばやし)村の北にあり、西より北方は喜右衛門(きうえもん)新田村。北側を安藤堀が流れ、西から南に天神堀がめぐっており、一体が島のようで荻などが茂る地であったため村名が生じたという。承応三年(一六五四)幕府領代官の検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高二八四石余、甲斐甲府藩領(国立史料館本元禄郷帳)。一部と考えられるが延享四年(一七四七)下総佐倉藩領となり(「佐倉藩領郷村高帳」紀氏雑録)、宝暦一三年(一七六三)上知(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)。同じく明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。

 地域名の由来として、「安藤堀と天神堀に挟まれた島状の土地に荻が生い茂っていたことから」できた名称であるとの説があり、『新編武蔵風土記稿 荻島村』にも以下のように載せている。
「當村は北の方安藤堀にそひ、南より西に廻りて天神堀に邊して島の如く、且荻など生ひしげりし所なれば、村名となせしと云、」
        
                   境内の様子
   境内は思った以上に広く、また綺麗に整備されていて、手入れも行き届いている。
        
                    拝 殿
 天神社  羽生市北荻島一一九(北荻島字茨島)
 当社は安藤堀・天神堀・境堀により区画される三角形の島のような土地の中央に鎮座する。古くは安藤堀と天神堀の接する地点にある天神塚上に鎮座し、この天神塚を要に扇形の地形をなすことから荻島(扇島)と呼ぶという。
 創建は天慶の乱に平将門を平定した藤原秀郷が、その功により、武蔵・下野二国の押領使となり、現社地に天慶三年役所を置き、守護神として当社を天神塚に祀ったのが始まりという。
天神塚からの移転は口碑によると元禄期といわれている。現在の本殿は大正一〇年一〇月の再建である。
 内陣には、一五センチメートルの天神座像を祀るが、本殿前に同型の古い像があり、これを模したと思われることから旧神体はこの古木像であろう。
 覆屋には、本殿に向かって右に八坂神社があり、二〇センチメートルの古い木像がある。左には稲荷神社があり、二二センチメートルの女神像を安置する。
 なお、拝殿内にある素焼きの狛犬(高さ三一センチメートル、奥行一九・五センチメートル、幅三九センチメートル)は珍しいものである。
 境内末社に仙元神社・多賀神社がある。

                                  「埼玉の神社」より引用
 
  社殿に通じる石段の右側には石祠が2基あり、    社殿左側奥に祀られている仙元神社
一番左側は多賀神社の石祠が待つあっれている。
        
                社殿から見た境内の様子



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
  
  

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弥勒長良神社


        
             
・所在地 埼玉県羽生市弥勒1543
             
・ご祭神 (主)大國主命 事代主命 (配)藤原長良公
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭り 115日 獅子祭り 720日 秋祭り 1015
 三田ヶ谷八幡神社から埼玉県道60号羽生外野栗橋線を1㎞程西行し、「羽生三田ヶ谷郵便局」先のY字路を左斜め前方向に進む。その後、東北自動車道に達する丁字路を右折し、県道60号の高架橋下を潜ったすぐ右側に弥勒長良神社の正面鳥居が見えてくる。
        
                  弥勒長良神社正面
『日本歴史地名大系 』「上弥勒村」の解説
 洪積台地の埋没台地上に位置する。古くは下弥勒村と一村で弥勒村と称した。両村は入組んでおり、西は今泉村・上村君村。承応年中(一六五二〜五五)分村したと伝えるが(風土記稿)、田園簿・元禄郷帳・天保郷帳ともに弥勒村一村で高付する。田園簿によると幕府領、田高四五六石余・畑高六一五石余、ほかに野銭として永一二五文・鐚三一貫文があった。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。この間承応二年幕府領代官、新田分については貞享四年(一六八七)甲斐甲府藩によって検地が行われたと伝える(風土記稿)。明和七年(一七七〇)と推定されるが上・下の弥勒村ともに川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。
        
                 参道から社殿を望む
『新編武蔵風土記稿 上弥勒村・下弥勒村』による「弥勒」の地名由来を連想する以下の記載がある。
【圓照寺 新義眞言宗、堤村延命寺末、藥王山東方院と號す、本尊釋迦、中興僧研榮、正保三年六月八日寂 菩薩堂 弥勒を安ず、行基の作と云傳ふ、長二尺の坐像なり】
 弥勒長良神社の南側で、近郊にある真言宗豊山派「円照寺」は、嘗て同社の元別当であり、明治6414日の火災が原因で、開山など寺の歴史は不明だが、この寺に「弥勒菩薩」があり、このことが当地域の由来であると円照寺境内にある案内板にも記されている。
        
                    拝 殿
 社殿の左側横には合祀社が覆屋内に三社あり、左側から中新田に鎮座していた剣神社、化政時期には村鎮守であった鷲神社、そして深町稲荷社が並んで祀られている。

 長良神社  羽生市弥勒一五四三(弥勒字五軒)
 当社所蔵の『長良大明神縁起』によると「当社は上古土人小祠を建てて大國主命・事代主命の二神を祀って後、陽成天皇元慶年中贈太政大臣藤原長良公の霊を配祀し社号を長良神社と称す」とあり、更に長良公について「公は太政大臣冬嗣の子なり天至友愛諸弟に親睦志行高潔(中略)仁明帝の時兼て上野常陸下野下総四国ヲ所知国とし治所を上野国邑楽郡瀬戸井に置く」とある。また当社所蔵文書『弥勒村の起源』によると「弥勒は元中西村町田谷ヶ浦亀谷等諸部落の総称なり称徳天皇の神護慶雲年中諸国の仏舎利堂塔を建立するに当り空海上人弥勒菩薩を此地に勧請し信徒の諸部落を合せて一村となし村称を弥勒村と号す」とある。また、当地方は上野に一時属した事が知られ、古くから開かれた所であり、当社の創建もまた古いと考えられるが、後世この地は鷲宮の社地となった関係から、同字にある鷲神社が村の鎮守とされていた。しかし、当社の別当真言宗円照寺の努力により、元文元年卜部兼雄の宣旨で正一位に叙されたため、明治期に村社となっている。
 明治四二年七月、字中新田剣神社、同鷲神社、字深町稲荷社などを合祀する。このうち稲荷社は、茶枳尼天(だきにてん)像を祀り、厨子に「弥勒村矢甲良稲荷大明神」「願主 石合安兵衛」「享保十七歳壬子正月十七日」と墨書がある。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
  社殿の左側に並んで祀られている境内社・      三峰社の右隣に祀られている境内社・
   三峰神社。その左側には伊勢講記念碑    秋葉神社・天神社。間にある石祠は塞神
        
                       社殿手前で、参道右側にある記念石碑等

 当社では、7月20日に「獅子祭り」が行われている。昔、明神様(旧騎西町玉敷神社)から獅子頭二頭と天狗面二面を頂いたのに始まるという。獅子と天狗と二組に分かれ、耕地を上と下から祓いはじめ、総代の家で二組一緒になる。その後獅子は各氏子の家の玄関の前で祓いはじめる。耕地の行事は次々と廃されたが、獅子祭りだけは戦時中に一時中断していた時期もあったが、今も行われているという。
        
                 境内から鳥居を望む

 この「獅子祭り」は、獅子頭二頭と天狗面二面を旧騎西町鎮座の玉敷神社からお迎えして行う行事である。『玉敷神社HP』によると、近郷の人達が当神社の神宝である獅子頭(ししがしら)をそれぞれの地区に迎えて、五穀豊作・家内安全を祈る特有の祓えの信仰行事であり、「お獅子さま(おしっさま)」と呼ばれる。
 この行事の発生年代は明らかではないが、文政
11年(1828)の貸出簿があることから、それ以前に始まったことは確かである。行事は春・夏に多く行われるが、34月の祓えは秋の豊作を祈念するもの、7月の祓えは地区の人達の無病息災を祈るものであったと思われる。現在、お獅子さまを迎える地域は、嘗ての南・北両埼玉、北葛飾、大里および北足立各郡内の市町村など主に県の北東部を流れる元荒川流域の市町村のほか群馬県の玉村町や板倉町、茨城県の一部に跨り、その地区の数は170カ所以上に及んでいるとのことだ



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「玉敷神社HP」
    「Wikipedia」等
        

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上岩瀬御霊神社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市上岩瀬632
              
・ご祭神 火雷天神(菅原道真公) 早良親王 伊豫親王 文夫人
                   
藤原広嗣公 藤原夫人 吉備公 橘逸勢公
              
・社 格 旧上岩瀬村中妻鎮守
              
・例祭等 春祭り 225日 夏祭り 77日 秋祭り 1015
 国道122号線羽生バイパスを利根川方向に北上し、「桑崎」交差点を左折、750m程進行すると秩父鉄道の踏切が2か所見える変則的な十字路となり、そこを左折し南下すると正面にこんもりとした社叢林が見えてきて、「中妻会館」のある十字路を左折すると、すぐ左手に上岩瀬御霊神社の真新しい石製の鳥居が建っている。地図を確認すると「秩父鉄道 新郷駅」から直線距離にして300m程西側にこの社は鎮座している。
 
中妻会館には数台分の駐車スペースが確保されている。
        
                 上岩瀬御霊神社正面
 上岩瀬地域は、中妻耕地と中宿耕地から構成され、御霊神社の氏子は、上岩瀬地域でも、中妻耕地の御霊組が古くからの氏子であるという。但し、近年は神社に対する意識は大きく変わり、始めこそ御霊組が祀る社であったのだが、現在は上岩瀬地域持ちの社の一つに数えられるようになったという。
        
              入り口付近に設置されている案内板
 ご参拝のみなさまへ
 御霊神社の由緒
 当神社は、上岩瀬中妻地区(御霊組)に鎮座しています。
 江戸時代以前、利根川(現在の会の川)が氾濫した時、はやり病(伝染病)に悩む村人が、京都から村の守り神として「御霊神社」を創建したと伝えられています。
 ご祭神は、火雷天神(菅原道真公)・早良親王・伊豫親王・文夫人・藤原広嗣公・藤原夫人・吉備公・橘逸勢公の八柱で、村人は鎮守様として崇め、神々からたくさんの恵みを受け、自然と共存共栄のもとに生活を営んできました。
 自然の恵みと祖先の恩に感謝して、日々の喜びを報告し一人ひとりの願い事をかなえてもらう…このことが私たち氏子の身近な心のよりどころになっているのです。
 平成十三年(西暦二〇〇一年)十二月に社殿が改築されました。これからも氏子の心の支えとして御霊神社を護持していきたいと思います。
 当神社は、学業・安全・健康祈願などに霊験があると伝えられています。
 氏子をはじめ、みなさま方の心からのご参拝をお願いいたします。(以下略)
                                      案内板より引用
 案内板に記されている「江戸時代以前の
利根川(現在の会の川)が氾濫」とは、砂山愛宕神社で解説している「天正年間(1573年〜1592年)に発生した会の川の洪水」であろうと思われる。砂山愛宕神社では「壊滅状態になったが、文禄年間に復興して村を再建、鎮守として祀った」と当時の砂山村が壊滅状態となった事と、その後再建された事のみであったが、当社では「はやり病(伝染病)」の発生を載せている。砂山のみならず、当地域も勿論壊滅的な被害であったのは言うまでもないことと想像するが、その後に発生している伝染病という生々しい状況をこの地の口碑にも伝えているところが、歴史的な真実性を増しているようにも感じた。
        
                   境内の様子 
 往古、利根川が氾濫した後に疫病がはやり、死亡者の多い時は、怨霊の祟りであると恐れ、疫病除けのために祭りを行っていた。また、火雷天神として菅原道真公を祀ることから、現在では学問の神としても崇められている。
       
                    拝 殿
 御霊神社  羽生市上岩瀬六三二(上岩瀬字御霊)
 当社は上岩瀬の中妻耕地の御霊組に鎮座する。社は御霊組の中でも少し小高い所にある。『風土記稿』によると砂山あたりを流れる会の川は、古くは利根川の本流であり、殊に昔は流れも広く、岩瀬の名の起こりもここからくるとある。
 口碑によると「往古、利根川が氾濫した折、当村に、はやり病が起こり多くの村人が倒れた。医薬も乏しいころのため、回復する者も少なく村は疲弊した。村人はこの困窮から逃れんがために相計り、京都より村の守り神として御霊神社を勧請した」と伝える。
 祭神は火雷天神・早良親王・伊豫親王・文夫人・藤原広嗣公・藤原夫人・吉備公・橘逸勢公の八柱である。
 神仏分離までは真言宗医王寺が別当として当社と中宿の天神社・浅間神社を管理していた。また、拝殿に掛かる社号額には「御霊大明神」とあり、裏には「武州羽生領上岩瀬邑醫王寺 奉懸天明二年壬寅年秋九月九日貞宥八十歳謹書 氏子中別当恵住傳大造立也」と記されている。
 明治に入り、当社は神仏分離のため権現の神号を廃した。内陣の幣串に「皇政之御一新ニ付権現号御廃止之事神号改如是□□□之神号明治元辰極月ヨリ神主」の墨書がある。
                                  「埼玉の神社」より引用 
 
  拝殿に掲げてある「御霊大権現」の扁額           本 殿 
  神仏分離前の名残を残している額であろう。
       
                              境内に並んである石碑等

 ところで「埼玉の神社」には、当地に伝わる伝承・伝説を載せている。
 昔、名主の上原家の手代が仕事の帰りに、ふと立ち止まるとグーグーと大蛇がいびきをかいて寝ていた。びっくりした手代は、あわてて帰り、旦那に話したところ、旦那は陣笠をかぶって勇ましく大蛇に近づいた。すると大蛇が突然目を覚まし、真っ赤な口をあけて旦那に飛びかかってきた。あわてたのは旦那で、やっとの思いで逃げ帰り、屋敷の塀を乗り越えて庭に入ったところ、大蛇も乗り越えてきた。この時、旦那は腰の刀を抜き、下から突き刺してこれを退治した。大蛇は芝原に埋めたが、大きいため一回では運びきれず、切り分けて七畚半(ななもっこはん)もあったと伝える。なお、この大蛇を退治した時の刀は今でも上原家に残っているという。

 *畚(もっこ)とは、担い運搬用具の一種。わらむしろあるいはわら縄,フジづるなどを網目状に編んだものの四隅に吊紐をつけ,てんびん棒を使って運ぶ。本体は網目状のものが多いが,袋状のものや皿状のものも見られる。その名称は,元来〈もちこ(持籠)〉から変化したといわれている。形状が不定なものを盛って運ぶのに適しており,土砂,堆肥などが主な対象である。また,農作物を運ぶ際にも用いられた。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「改訂新版 世界大百科事典」「境内案内板」等

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