古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

玉川春日神社

 玉川春日神社が鎮座する旧玉川村は、東松山市によって東西に分たれた比企郡のうち、西半の中央南部に位置し、西・北は小川町、南は都幾川村、東は嵐山町・鳩山町。外秩父山地の東縁を占め、東方の一部は岩殿丘陵にかかる。
 最高点は西方の雷電山(
418.2m)で、同山から北方および東方へ尾根が延び、その山間を都幾川・槻川・雀(すずめ)川が流れる。北西部の村境を流れる槻川が南へ大きく蛇行する田黒(たぐろ)には、戦国期に小田原北条氏の支城松山城(現吉見町)に属した遠山光景の居城であったと伝える小倉城がある。都幾川は村域の南方を流れ、支流雀川を南東部で合せる。
 村域の中心集落であった玉川郷は都幾川の谷口集落で、山地と平地を結ぶ交通の要地にある。
 明治22年の市町村制の施行により、玉川郷・田黒村・五明村・日影村が合併して玉川村が誕生し、その後平成18年(200621日、旧都幾川村・旧玉川村が合併して新しい「ときがわ町」が誕生した。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町玉川4015
            
・ご祭神 武甕槌命 天児屋根命 経津主命 迦具土命
                 
伊弉再尊 速玉男命 事解男命
            
・社 格 旧玉川村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春季例祭 2月中旬
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0129728,139.2928284,16z?hl=ja&entry=ttu
 嵐山町・鎌形八幡神社から埼玉県道173号ときがわ熊谷線を南下し、1.4㎞程進んだ三又路を右斜め方向に進む。進行方向右手には岩殿丘陵地面を見ながら道なりに進み、龍福寺の先に玉川春日神社が見えてくる。
       
                                  玉川春日神社正面
       
          鳥居手前で右側に聖徳太子石碑        社号標柱
 社は丘陵地斜面上に鎮座していて、社のすぐ傍には旧名玉壺川(現雀川)が流れ、この玉川春日神社の周辺の約300mの区間だけ渓谷となっているという。これが名勝玉壺であり、武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の比企郡玉川郷(第6巻、201ページ)には、「名勝 玉壺とは、春日神社の前面にあり、この付近の地形の総称を玉壺という」と記載され、玉川の名前の由来ともなっている。
 
 一旦境内に入る前に、鳥居の左側に流れる雀川の渓谷を眺める(写真左・右)。社周辺の300mの区間にだけこの
渓谷があるという事だが、逆を解せば、先人は後世の我々にも分かるように、この区間内に社を鎮座させたとも解釈することができる。
『新編武蔵風土記稿 玉川郷』
 春日社
 村の鎮守とす、慶安二年社領五石一斗の御朱印を賜ふ、當社は貞和三年の勧請なりといへど、正き證はなし、社は山上にありて、社前に古松など繁茂せり、麓に少き並木あり、此邊に古木多し、傍を玉壺川流る、其兩岸岩石なるがうへ、川の中にもこゝかしこと、大石さし出たれば、流木これにせかれ、屈曲して流るゝさまなど、社前より望むに尤も勝景と云べし、
 名勝玉壺の巨岩が織り成す渓谷美と相まって、この境内全体には厳かな雰囲気が漂っている。まさに隠れたる名社と称しても過言ではあるまい。
        
                                玉川春日神社正面鳥居
        
                                      境内の様子 
 玉川郷の鎮守社であり、社一帯の森は、鎮守の杜として人々に親しまれてきた。冬でも豊かな緑の葉を具えたスダジイやアラカシ、タブノキ等の大木がこんもりと繁り、林内にはヤブツバキやサカキ等が多数育って風格のある照葉樹林となっている。この照葉樹林は、遠い昔の玉川地域の自然の姿を今に留めている、ふるさとを代表する自然の森であり、現在埼玉県の「ふるさとの森」に指定されていて、案内板も設置されている。
        
            境内右側に設置されている「春日神社御由緒」
『春日神社御由緒』
 当社の創立は、第九十七代後村上天皇の正平二年(北朝光明天皇の貞和三年(西暦一三七四))、字堀の内に館を構え、龍福寺を建立した藤原盛吉が、奈良の春日明神を勧請したと伝え、慈眼寺の開基玉川郷御陣屋の先祖寿昌院が社殿を建立し、江戸時代慶安二年(一六四九)徳川幕府より社領五石一斗の朱印を賜った。元禄五年(一六九三)、江戸神田明神式年遷宮の際、その旧本殿の用材を拝戴して社殿を修建し明治四十五年(一九一二)字細山の愛宕社、字地家の熊野社を合祀した。代々慈眼寺が別当として之を管掌したが明治初年の神佛分離の政令により今日に至り、また大正五年(一九一六)神饌幣帛指定村社に指定された。
 本殿は、間口奥行各一間(一・八メートル)流れ造り杮葺向拝付、拝殿は、間口三間(五・四メートル)奥行二間半(四・五メートル)切妻造り、これらの上覆は、間口三間半(四・五メートル)奥行六間(一〇・八メートル)切妻造り瓦葺向拝付である。
 当社は古来武神として武門の崇敬厚く、戦捷・出征将兵の祈願所として栄え尚武の神事として、毎年十月初九日古式流鏑馬の神賑行事を執行したが、日露戦争の頃馬不足のため休止し、その後これに替えて地方競馬を挙行したが、昭和十年以降休止した。
 第二次世界大戦後四十有余年を経て、近時漸く社殿の老朽神域の荒廃が目立つに至ったので、氏子相謀り、春日神社社殿等改修実施委員会を結成してその整備を計ることとし、村内外の有志に資金の寄進を呼びかけ、幸い全員の賛同を得てここにその目的を達成することが出来た。
 時あたかも平成元年、玉川村制施行百年に当り、この事業を記念して当社の御由緒を録し、併せて浄財を寄進された人々の氏名を刻して、いよいよ御神徳を敬仰するとともに、その芳志を後世に伝えるために、この碑を建立するものである。
                                      石碑文より引用

 現在この社は同町萩日吉神社が管理しているようだ。この萩日吉神社では3年に1回流鏑馬祭りが奉納されているが、この社も嘗て明治時代まで祭礼には古式流鏑馬の神賑行事があったが、日露戦争の頃馬不足のため休止し、その後これに替えて地方競馬が行われていたと伝えられ、未だにその馬場跡が残っているという
 また当社では、毎年211日に、「団子投げ」という神事がおこなれる。これは、集落ごとの氏子らによって、団子が供えられ、ご祈祷後に、太鼓を合図とともに、その団子を参拝者に向かって投げ与えるというもので、その拾った団子を、持ち帰り、食ことで、家内安全を祈念する独特の神事となる。
        
                     拝 殿
                この拝殿の奥には本殿はない。
                         拝殿と本殿が別になっている珍しい社。
       
 拝殿左側には雀川の渓谷で形成された岩石、巨石があり、その異様な光景は圧巻である(写真左)。本殿は拝殿左側の石段を登った上に鎮座している(同右)。
        
 磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののことをいう。
 日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)であり、基層信仰の一種である。神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。時代と共に、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。
 この玉川春日神社にしても、社としての創建は南北朝時代であったのであろうが、そのはるか以前より、この地域の守り神としての原始的な祭祀が執り行われていたのではなかろうか。
        
           石段を登り切るとやや広い空間があり、そこに本殿が鎮座している。

「埼玉の神社」によると、『明細帳』には「貞和丁亥年当郷古陣屋祖壽昌公之建立」と記されている。古陣屋とは、当社の東方三〇〇Mほどの地にあった館を指すものと思われ、『風土記稿』には「塁跡小名堀ノ内にあり(中略)爰は竜福寺を開基せし藤原盛吉の居蹟なりと云」とある。しかし、「壽昌公」と「藤原盛吉」の来歴については確かな史料が存しないので、明らかではない”と記している。
 ここに記されている、龍福寺を建立した「藤原盛吉」、慈眼寺の開基玉川郷御陣屋の先祖「寿昌院」という人物に関して、筆者も資料等で調べたが、素性等全く不明な人物である。推測の域は出ないが、「藤原」姓故に奈良の春日明神を勧請し、社名を「春日神社」としたのであろう。

 ときがわ町内で「藤原氏」に関連する名所・旧跡は幾つか存在する。
①多武峰(とうのみね)神社…社を管理する武藤家は「元藤原姓」。706年この地を管理する武蔵国の藤原氏が大和国桜井の多武峯(現談山神社)より藤原鎌足の遺髪をいただき多武峯大権現を建立し守護神としたという。
②小倉城城主遠山氏…戦国時代の山城で、居城主は小田原北条氏の重臣遠山氏(或いは松山城主上田氏)とされる。この城主遠山衛門大夫は藤原光景といい、遠山氏の遠い祖先は美濃国遠山荘(現在の岐阜県恵那郡の南部)の出身で、大永年間(1521年~1528年)美濃国恵那郡遠山荘の明知城主の遠山景保の子の遠山直景は明知城を親族に渡して退去し、士卒180名を率いて関東へ赴き北条早雲の配下に入ったとされる。藤原利仁を祖とする加藤氏一門の美濃遠山氏の分家である「明知遠山氏」の支流家。
③別所八剣神社再建した加藤隼人宗正…『新編武蔵風土記稿 別所村』において、「此に記せし加藤隼人宗正も、いかなる人なりしにや、其傳を失へり、按に田中村の舊家東吉が家系に帶刀先生義賢討れし後、其家名の此邊に落来りて、住するもの八人あり、其内に加藤内蔵助貞明と云もの見えたり、宗正は此人の子孫なるにや、今腰越村に加藤氏の土民あれど、是も先祖のこと詳ならず」とある。また小川町・腰越地域の旧田中村市川氏系図に「源義賢家臣、大職冠鎌足公孫田原秀郷八代後胤東国安房之住人加藤内蔵助藤原貞明あり、腰越郷に居住す」と記され、加藤氏も藤原氏である。

 ときがわ町周辺でも、毛呂山町の在地豪族である「毛呂氏」は、藤原北家小野宮流でもあり、筆者が調べた以上に藤原氏の残した痕跡はもっとあるはずである。その中に「藤原盛吉」や「寿昌院」に該当する人物はいるのであろうか。
        
                    本殿右側奥にこれもまた静かに祀られている境内社
                                詳細不明
 
 本殿の敷地には、拝殿に通じる南北の石段の他に、東側にも石段があり(写真左)、その先には古く、今にも崩壊しそうな両部鳥居が立っている(同右)。因みにこの鳥居の右手奥に境内社が鎮座している。
        
 写真の順番が前後してしまうが、本殿から東側にある石段を下る際に、振り返り撮った一枚である。正面の巨石はかなりの崩壊が進んでいるが、一枚岩のようでもある。この巨石の左側に拝殿があるわけであるが、拝殿と本殿を分断するかのようにどっしりとした重厚な存在感は、写真以上にかなりのインパクトがある。
 
 境内東側隅に設置されている「玉川村里山文化圏」と「玉川村春日神社ふるさとの森」の案内板

 玉川村春日神社ふるさとの森
 平成三年三月二十九日指定
 身近な緑が姿を消しつつあるなかで、貴重な緑を私たちの手で守り、次代に伝えようとこの社叢が「ふるさとの森」に指定されました。
 この森は、玉川村の中心地域にある春日山の南麓斜面上に広がり、鎮守の森として永く人々に親しまれてきました。多くの樹木が冬でも緑の葉をつける照葉樹林で、高くそびえるモミの木と、豊かな枝葉を具えたスダジイアラカシ、タブノキの大樹が風格のある森を形作り、その中にヤブツバキ、サカキ、モチノキ等が多数生育しています。私たちの先祖が遠い昔からあがめ、大切に守ってきた自然の森、ふるさと玉川を代表する森です。
 平成四年三月 埼玉県・玉川村

平成18年(200621日、旧都幾川村・旧玉川村が合併して新しい「ときがわ町」が誕生しているが、ここでは案内板通りの表記をしている。


参考ぢ領「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ときがわ町HP」
    「Wikipedia」「境内記念碑文」等


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奥田氷川神社


               
              
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町奥田395
              
・ご祭神 建速須佐之男命
              
・社 格 旧奥田村鎮守・旧村社
              
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0053589,139.3378633,16z?hl=ja&entry=ttu
 東松山市神戸地域に鎮座する神戸神社から、埼玉県道41号東松山越生線を鳩山町方向に2㎞程進んだ先の丁字路を左折すると、道路から左手方向に樹木に覆われた中、奥田氷川神社の朱色の鳥居が見えてくる。
 杉・檜・樅等の樹木に囲まれた社の境内は岩殿丘陵の中に位置しており、集落からは少し北側に離れている場所にひっそりと鎮座している印象。
        
                 
奥田氷川神社正面入り口
 
        樹木に覆われた中にポツンとある朱色の両部鳥居(写真左・右)
        
                 素朴な印象の強い境内
        
                     拝 殿
 氷川神社 鳩山町奥田三九五
 杉・檜・樅の木に囲まれた当社の境内は岩殿丘陵の中に位置しており、集落からは少し離れているため、閑静である。鎮座地の通称を明神山、字を宮附というが、これは当社がこの場所にあることにちなんだもので、このほかにも付近には鳥居前・宮の前・宮の沢・宮の入など、当社にちなんだ名称をもつ字が多い。
 社記によれば当社は、天平年中(七二九-四九)、村内に疫病が流行した時、武蔵国一の宮氷川大 明神に使いを遣わして祈禱を行い、その霊璽を奉迎し、今の栗原英夫家所有の山林の中に小祠を建てて奉斎したことに始まるという。その時、また、病難たちまち消除し、村内は平安を得ることができたため、村人は氷川大明神の神徳に感謝し、これを村の鎮守として年々祭祀を行ってきたが、元禄十三年(一七〇〇)、社が四隣の村々にある産神社に比べ小さいとの理由から、従来の小祠を脇に移し、新社殿を造営したとも伝えられる。
 当社は、『風土記稿』では「村民持」となっているが、元禄十六年(一七〇三)・享保十二年(一七二七)・寛政八年(一七九六)の三枚の本殿建立棟札によれば神戸村(現東松山市神戸)の沢田山長慶寺が「遷宮沙門」として関与している。また、慶応元年(一八六五)の拝殿建立棟札では「東国一ノ宮神主岩井伊豫守社家栗原宮内」なる者が関与していることがわかる。
                                   「埼玉の神社」を引用

 案内板に記されている「天平年中の疫病」とは、実際に日本全国に大発生した「天平の疫病」の事である。この疫病は、天平7年(735年)から同9年(737年)にかけて奈良時代の日本で発生した疫病(天然痘)の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25 35%にあたる、100万〜 150万人が感染により死亡したとされている。
 天然痘は
735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。7376月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死した。7月には、「大和国、伊豆国、若狭国、伊賀国、駿河国、長門国」の諸地域が相次いで天然痘の大流行を報告されており、疫病が畿内・山陽道・山陰道だけでなく,東海道にも蔓延していたことがわかる。天然痘の流行は7381月までにほぼ終息したが、日本の政治と経済、および宗教に及ぼした影響は大きかった。
        
             社殿右側に祀られている境内社。詳細は不明。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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大橋黒石神社

 鳩山町亀井地区は社号「黒石神社」が4社現存している。「熊井」「竹本」「須江」そして今回取り上げる「大橋」地域は、いずれも鳩川及びその支流沿いにあり、現代で言う「地域密着型」の社といえよう。
 この大橋地域、並びにその周辺一帯からは、古墳期から奈良・平安期にかけての窯跡群が発見されており、武蔵国分寺瓦の産出地の一つであった。『南比企郡窯跡群』と云われる窯跡群と、黒石神社の創建に至る経緯に何らかの関連性が伺われよう。何より「黒石」という「古代鉱山採掘」に関連しそうな意味深き社名が、無言で何かを語るかのようだった。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町大橋619
             
・ご祭神 天照大神 春日神 八幡大菩薩
             
・社 格 旧大橋村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9925049,139.3308729,17z?hl=ja&entry=ttu
 須江黒石神社・舛井戸遺跡から一旦南下し、埼玉県道171号ときがわ坂戸線合流後、進路を南東方向に1㎞程進むと「大橋交差点」に達し、そこを左折する。すぐ先の路地を右折、通称「水穴通り」を道なりに400m程進み、十字路を右折すると、大橋黒石神社が進行方向右手に見えてくる。
 社の東側に隣接して「大橋集会所兼黒石神社社務所」があるが、そこの駐車スペースには長いロープが敷かれていていたので、適度に広い路地に駐車し、ここでも急ぎ参拝を行った。
        
                            社叢林の外れにある入口付近
                       この社には鳥居が存在していないようだ。
 鳩山町・大橋地域は、赤沼地域の北側に位置し、地域の中央を鳩川支流の
大橋川が流れている。『新編武蔵風土記稿』編集当時は松山領に属していた。古くは上泉井村・下泉井村と一村で泉井村と称していたが、正保年間(一六四四―四八)以降、泉井村は三村に分村したと伝えている。
「風土記稿」によれば村内に架かる橋が「近村には是程の橋もなければ」との理由で「大橋」とよばれていて、分村の際の村名になったという。

 参道は真っ直ぐに伸び、正面に拝殿が見える。   巨木に注連縄を張って鳥居の代わりに
舗装されていないこの昔ながら感がたまらない。       しているようだ。
        
                     拝 殿
 黒石神社 鳩山町大橋六一九
 当社は『明細帳』に「武蔵国足立郡大宮氷川神社ヲ遷シ奉リタルナリト云伝フ其勧請不詳」とあり、創建の背景に氷川信仰があったことをうかがわせる。
 最も古い史料に安永九年(一七八〇)の棟札がある。これには中央に「黒石大明神社」、左右に「春日大明神社」「八幡大菩薩」と記されているほか、「泉井村別当本明院」の名が見える。口碑によれば、安永のころ、別当本明院の法印が黒石大明神の託宣を受け、社宝であった鏡・刀・矢を乾(北西)・坤(西南)・巽(南西)の三方の地に埋めて当社の鎮座地を定めた。
 鏡が天照大神を、万と矢がそれぞれ春日大明神・八幡大菩薩を表すという。室町末期から江戸期にかけて広く庶民に流布した神祇管領長上吉田家の三社託宣の影響が考えられる。
 明治四年に村社となり、同四十年には宇山下の琴平社を合祀した。
 境内の末社は愛宕社・稲荷社・蚕影社の三社がある。『明細帳』によれば、愛宕社は享保九年(一七二四)に江戸の愛宕を勧請したという。また、稲荷社は本村の福島関右衛門なる者が西国を回って京都の稲荷神社の神体を請いて帰国した後、天明四年(一七八四)に至り社殿を建立したという。更に、蚕影社は明治十五年に当村の桑葉が雹により甚大な被害を被ったため、村内の蚕を埋めて跡地に常陸国(現茨城県)の蚕影山を勧請したと伝える。
                                   「埼玉の神社」を引用
        
                                境内に祀られている合殿社
 七柱が祀られている合殿社には御幣(ごへい)があり、その右側にはご祭神の名称が記された木製の札があるのだが、かなり薄くて解読がほぼ不可能。左側2番目と右から2番目が僅かに「倉稲魂神」「保食神」と読めた程度だ。(因みに一番右側はそのお札もない)
       
                猿田彦大神の石碑      「黒石神社誕生遺跡」記念碑
 黒石神社誕生遺跡
 安永九年(一七八〇)泉井村当本明院の法印が黒石大明神の託宣を受け社宝の鏡・刀・矢を埋めて神社の鎮座地を確定した
 後世に残すべく寄付を募り永く記録を保存する(以下略)
                                     記念碑文より引用

 大橋黒石神社は本来大宮氷川神社から勧請してきた氷川系統の神社であったが、この「黒石神社誕生遺跡」石碑によると、法印が黒石大明神から霊感を受けて現在のご祭神となり、祭祀系統が変わったという。鏡が天照大神を、万と矢がそれぞれ春日大明神・八幡大菩薩を表すという祭祀方法は、室町末期から江戸期にかけて広く庶民に流布した神祇管領長上吉田家の「三社託宣」の影響が濃く受けているようだ。
石日に記されている「法印(ほういん)」とは、僧侶(そうりょ)の位階(僧位)の最上位で、僧綱(そうごう)位(僧階)の僧正(そうじょう)にあたり、法印大和尚(だいわじょう)位僧正という。その下が法眼(ほうげん)和尚位僧都(そうず)、法橋上人(ほっきょうしょうにん)位律師(りっし)である。したがって本来は僧侶の取締りにあたる役人的僧侶の敬称で、定まった定員があったが、時代とともにその数を増し、のちに仏師や絵師の敬称にまで用いられるようになった。
 特にこの僧位を乱用したのは修験道
(しゅげんどう)であって、先達(せんだつ)であれば法印権大僧都(ごんだいそうず)を許された。したがって山伏の別称としていまも「法印さん」とよばれている。
『黒石神社誕生遺跡』に記されている「法印」は「泉井村当本明院」に所属する僧侶であろうが、同時に「山伏・修験道」の僧でもあったのであろうか。但し「泉井村当本明院」は現在のどの寺であるかは、風土記稿等調べても該当した寺院はなかった謎のお寺である。

*『新編武蔵風土記稿』に記されている寺院
上泉井村 寶泉寺 寶珠山と號す、新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺の末、
下泉井村 金澤寺 禪宗曹洞派、入間郡龍ヶ谷村龍穩寺の末、泉井山と號す、 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「境内記念碑文」等

         

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須江黒石神社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町須江412
              
・ご祭神 少彦名命
              
・社 格 旧須江村鎮守・旧村社
              
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0027644,139.3253522,16z?hl=ja&entry=ttu
 竹本黒石神社から一旦南下し、埼玉県道171号ときがわ坂戸線に戻り、その道を東行する。350m程進んだ丁字路を左折、その後100m先の路地を右折すると、進行方向左手の目立たない所に須江黒石神社の正面鳥居、及び社号標柱が見えてくる。
 両黒石神社との距離は非常に近く、直線距離でも600m程しかない。
 近郊に専用駐車スペース、自治会館はない。路面駐車してから急ぎ参拝を行う。
 社は南向きで、岩殿丘陵地面に鎮座しているが、社の南方正面は、長閑な鳩川の支谷沿いに水田が開ける農業地域である。
        
                  須江黒石神社正面
『日本歴史地名大系』 「須江村」の解説
 [現在地名]鳩山町須江

 奥田村の西に位置し、南は大橋村、西は竹本村、北は山嶺を挟み将軍沢(しようぐんざわ)村・鎌形村(現嵐山町)など。村内を鳩川の支流大橋川が流れ、南には同川のつくる低地が広がる。松山領に属した(風土記稿)。
 古墳時代後期の鳥木横穴のほか、奈良・平安期の窯跡である岡城窯跡をはじめとする一〇ヵ所あまりの窯跡があり、南比企窯跡群の中核地域になっている。
       
 鳥居の前方右手にある社号標柱(写真左)と、その右並びに建つ石碑。「富士講」か(同右)。
        
                    鳥居正面
           石段を伴う長い参道であることが目視でも分かる。
  丘陵地斜面上に鎮座する社独特の風景。このアングルは筆者にはとてつもなく美しく感じる。
 
       勾配のあまりない登り階段となっているので、あまり疲れも感じない。
           参道周辺の雰囲気も良く、落ち着きはらっている。
        
                        数段の石段を越えると広い境内に達する。
 境内に達するまでの間、特別奉納された燈篭や、記念碑等の石碑もなく、集会所や倉庫などがある程度。何もないと言ってしまえばそれまでだが、物寂しさは全く感じられなかった。むしろ映画かアニメのワンシーンに登場するような、一昔ならばどこにでもあった素朴な風景で、「余計なものを省いた美しさ」が境内に到着した瞬間に受けた印象である。
 考えてみると、とかく社の格式を、奉納された燈篭や額、記念碑・案内板で飾り立てようとする現在の傾向に対して、鳩山町のお社の多くは、本来の地域の鎮守様としてのありようを無言で諭してくれているようでもあった。まあ筆者の勝手な解釈ではあるが。
       
            参道を進む途中、右側に聳え立つ「鳩山町景観樹木」であるタブノキ。
                指定年月日 平成6年8月1日
                        当社のご神木でもある。
        
                     拝 殿
黒石神社  鳩山町須江四一二
 鳩山町須江地域は、岩殿丘陵の中央部に位置し、鳩川の支谷沿いに水田の開ける農業地域である。須江の地名は須恵器にちなむといわれ、古墳時代後期の鳥木横穴のほか、奈良・平安期の窯跡である岡城窯跡をはじめとする一〇ヵ所あまりの窯跡があり、南比企窯跡群の中核地域になっている。
 須江黒石神社の創建年代等は不詳ながら、明治維新まで「枡井戸遺跡地」近くにあった瑠璃光院が別当を務めており、舛井戸遺跡は瑠璃光院の御手洗井戸として寛徳年間(1044-1046)に建設されたと伝えられることから、古くより祀られてきたのではないかという。江戸期には須江村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治44
年境内末社の愛宕社、および廃寺となった瑠璃光院(医王社)を合祀している。
『新編武蔵風土記稿』須江村の項には、「黒石明神社村の鎮守なり、瑠璃光院持」とあり、その瑠璃光院については、本山派修験の須江山光雲寺宮本坊と号し、薬師堂があったと記載されている。明治初年の神仏分離以降太平洋戦争前までは、地元の日野岡家が代々当社の祀職を務め、同家が本山派修験の流れを汲み、永く当社を守り続けたという。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
 拝殿の左側に祀られている唯一の構造物である境内社(写真左・右)。但し社名等詳細は不明。
        
         参道を含めた境内全体に不思議な雰囲気を醸し出している社。
        
                              社の南側に広がる田園風景 
 
 因みに須江黒石神社の東側で道路沿いから「日野岡家住宅長屋門」と「舛井戸遺跡」がある。
 残念ながら「日野岡家住宅長屋門」は事前の勉強不足の為、写真に収めることができなかった。
「日野岡家住宅長屋門」
・国登録有形文化財(建造物)
登録年月日 2007731
 丘陵の南裾にあり,南面して建つ。東西棟の寄棟造,もと茅葺で,平面は桁行15.7m,梁間4.6
mの規模を有し,中央に門口を構え,両側を部屋とする。軒は出桁造,小屋は扠首組で,正面外壁の腰は押縁下見板張とする。形式は簡素であるが,丁寧なつくりである。
        
                              舛井戸遺跡」
 
       舛井戸遺跡」の案内板        井戸の内部。僅かだが水があり、湧水という。
『村指定記念物  舛井戸遺跡』
 寛徳年間のころ(西暦一〇四五年)この地に日出薬師尊があった。参詣する善男善女の御手洗井戸として建設された。以来、今日に至るまで渇水することなく明泉が湧出している。
 先人たちが伊勢神宮、黒石神社に参拝の折に身体を浄めた泉といい伝えられている。又干魃の際には住民の飲料水として近年まで用いられていた。昭和三十二年道路拡張工事により一時埋立られたが、地元有志により復元され由緒ある遺跡として保存することとした。
 昭和5641日 鳩山村教育委員会
                                      案内板より引用

 説明板は「鳩山村」となっているが、この1年後の昭和57年(19824月の町制施行で「鳩山町」に変っている。行政上、簡易的に「村」の一文字だけシール等を貼ったりして、「町」に変えるよりこのままの方が趣きがあるものだ。



参考資料「文化遺産オンライン」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「案内板」等

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竹本黒石神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町竹本1078
             
・ご祭神 日本武尊
             
・社 格 旧竹本村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9995914,139.3170483,16z?hl=ja&entry=ttu
 泉井神社から「亀小通り」を北上し、900m程先の埼玉県道171号ときがわ坂戸線との交点である丁字路を左折する。その後200m進んだ細い路地を右折すると、その突当たりに竹本黒石神社の鳥居が見えてくる。細い路地地点には竹本黒石神社の社号標柱があり、それが目印となるが、道路沿いからは少し離れた場所にあるので、曲がる際には注意が必要だまあ今では車両にはナビが標準装備されていて、設定さえ間違わなければ、まず迷うことはない。
 細い路地を曲がり、そこを暫く進むと、道路の行き止まりとなっていて、鳥居の右手に駐車可能なスペースがあり、そこの一角に停めてから参拝を開始する
       
                               竹本黒石神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「竹本村」の解説
 [現在地名]鳩山町竹本
 大橋川支流黒石川の上流域に位置し、東は須江すえ村、南は上泉井村・下泉井村。「たかもと」とも読み(元禄郷帳など)、松山領に属した(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高二〇〇石余・畑高六五石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本日比野領。
 
 参道の両側には豊かな森林に覆われていて(写真左)、石段上に拝殿が設けられている(同右)。丘陵地面に位置している鳩山町の社は市街地以外はこのような配置となっているものが多い。
        
  石段を登り終えると比較的広い空間が広がり、更に一段高い場所に拝殿が鎮座している。
                 左側には社務所がある。
        
                                       拝 殿 
                            周囲一帯には趣のある雰囲気が漂う。

 鳩山町竹本地域は岩殿丘陵の西部で、丘陵を樹枝状に浸食して流れる鳩川の支流大橋川の上流地域に位置する。丘陵に挟まれて、細長く東西に耕地がのびている。竹本黒石神社の創建年代等は不詳ながら、当地の名主家保積家が氏神として創祀したと伝えられている。
 江戸期には東光寺持ちの社で、竹本村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年に(旧東光寺持ちの)菅原社(天神社)を合祀している。
 
        拝殿左側に祀られている境内社(写真左・右)。詳細不明。
       
          参道右手に見える鳩山町景観樹木である「カシ」の巨木
                           指定年月日 平成10年9月1日
                              指定番号 第21号 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等



      

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