古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

田島長良神社

 明和町は梨の産地である。社の鎮座する県道沿いにも梨園、及び直売店が数多く見られる。梨の栽培適地は火山灰土や砂地などといわれているが、この田島地域は他の明和地域より若干標高が高く、土壤も砂質で梨の栽培には適しているという。
「明和村の民俗」によると、田島地域の梨つくりは明治6年頃から明和村へ入ったといわれているが、そのころはそれほど盛んではなく、大正78年ころ陸稲つくりがひろがり、旱魃にあいやすいので、桐の木を畑に植える人が出たりしたが、その後、梨つくりが流行した。羽田(場所は不明)が先進地で、そこから大きい木を買い、植えて拡張したもので。それから苗木から仕立てるようになった。梨は旱魃の影響がほとんどなく、田島の梨は裁培を始めてから四代目となり、すっかり地域の特産になっている。
 因みにこの地域での梨の肥料には有機質を使用していたという。大豆粕・油のしめ粕・堆肥等で、堆肥は麦のから(麦わら)を積んで、利根川の草を刈り、人糞尿をかけて何回も積みかえをしてつくる。稲藁は梨畑の地面に敷く。そら豆をつくって緑肥としてふみこんだのは大正初年頃のことであるという。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町田島165
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             ・社 格 不明
             ・例祭等 不明
 田島は、群馬県邑楽郡明和町を構成する地域の一つである。大部分が田畑となっているが、県道沿いには住宅などが集中する区域も見られる。また、邑楽郡明和町内の中央部に位置しているこの地域は、西側には新里、南は江口、北には南大島等の地域と隣接している。
 新里菅原神社から埼玉県道・群馬県道369号麦倉川俣停車場線を東行する。途中進行方向左側に明和町立名和中学校が見え、そこから更に800m程進むと、県道沿い左手に田島長良神社が見えてくる。
        
              県道沿いに鎮座する田島長良神社
『日本歴史地名大系』 「田島村」の解説
 南大島村の南に位置する。天正一九年(一五九一)館林城主榊原氏により検地が行われ、大荒木郡佐貫庄田島之郷検地帳(奈良文書)が残る。末尾が欠落しているため全容はわからないが、下田二一筆・上畠二七筆・中畠二四筆・下畠七四筆・屋敷五筆が数えられ、名請人のほかに分付百姓の記載がある。大荒木郡は邑楽郡の古訓表記である。慶安四年(一六五一)の検地帳写(同文書)によると、上田五町一反余・中田三町四反余・下田一五町五反余、上畑九町二反余・中畑八町五反余・下畑一六町三反余、屋敷一町六反余。名義人計六五、うち村内四五・村外二〇(江口村一七・新里村三)、屋敷三〇筆。寛文郷帳によると田方二三〇石余・畑方二四六石余、館林藩領。
        
                    拝 殿
            この社も創立年代・由緒・社格・例祭等不明
 
 拝殿の左側に祀られている境内社・八幡社      社殿奥に祀られている石祠二基
                               詳細不明
 田島長良神社の詳細は不明であるが、「明和町HP 明和町の文化財と歴史」によると、この地域には「正和の板碑」と称する鎌倉時代後期に造られた板碑が田島地域の青木氏屋敷内で出土している。
 この板碑は井戸掘りをしている途中出土したものといわれ、高さ89㎝、幅29㎝、鎌倉時代後期の正和4年(131536日に造立したものである。板碑は鎌倉時代中期から造立された塔婆形式の一つで、関東地方では埼玉県秩父郡長瀞町付近から産出される緑泥片岩(りょくでいへんがん)が主として用いられている。その始まりについては五輪塔の地輪を長くした板塔婆、あるいは長足塔婆の形状を木製から石材にしたものと推察できる。この造立の目的は、亡者の追善供養に建てたものは墓地に、生前に後生を願うために建てたものは路傍などが多いようである。この板碑の梵字は阿弥陀仏を表している。阿弥陀仏は平安時代末期、法然上人によって立教開宗(りっきょうかいしゅう)された浄土宗によって広められたものであるが、身分の高下、職業の貴賤を問わず、またどのような罪深い人でも阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱える者は阿弥陀仏の救いにあずかり、必ず極楽往生できるという平易な教えであったため、庶民の間に急速に浸透していき法然死後も浄土真宗を開いた親鸞上人等によって後生次第に発展していったようである。
 正和の板碑は、明和町の文化財に指定されている。
        
                             境内に祀られている富士塚
      塚上に石祠が一基、塚の左右に「烏帽子磐」と「小御岳」の石碑がある。



参考資料「日本歴史地名大系」「
明和町HP 明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」等

        


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新里菅原神社


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町新里113−1
             
・ご祭神 菅原道真公(推定)
             
・社 格 不明
             
・例祭等 石経様 527日 厄神除け 628 
 東武伊勢崎線川俣駅から350m程東側の地に位置し、埼玉県道・群馬県道369号麦倉川俣停車場線沿いに鎮座する社である。熊野那智大社文書に「永正二年(1505)、上野国佐貫庄新里雅樂助・同名太郎左衛門」とあり、嘗て新里地域には、佐貫氏族新里氏がおり、邑楽郡佐貫庄新里村に移住し、当地名「新里」を名乗ったという。因みに「新里」と書いて「にっさと」と読む
        
                
新里菅原神社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系 』「新里村」の解説
中谷村の東に位置する。永正二年(一五〇五)八月二一日の旦那願文写(熊野那智大社文書)によると佐貫庄の新里雅楽助・同名太郎左衛門らが紀州熊野那智山に参詣している。両人は新里の住人であろう。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。寛文郷帳によると田方三二六石余・畑方一八四石余。弘化三年(一八四六)の国役金掛高帳(「明和村誌」所収)によると利根川国役普請役を課せられていた。
        
                          一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居
                  二基の鳥居の社号額には「天満宮」と表記されているが、
                グーグル等の地図等には「菅原神社」として案内されている。

『明和村の民俗』によると、
嘗ての新里の村構成は以前六〇戸で、「本当の新里は六〇戸」等という言い方をする。三十年程前までは、地縁により東ドウバンと西ドウバンの二つに新里を分け、東ドウバンがギョウバン様(地蔵寺)の祭を担当し、西ドウバンが天満宮の祭を担当した。その後三つの地域に分けて、それぞれ一番組、二番組、三番組とよび、祭り番はギョウバン様、天満宮ともに一年交替で行っていた。
 ドウバンの中は、さらに組合に分かれていたが、現在でも冠婚葬祭はこの組合を中心に行う。組合とは別に十戸単位で隣組というのがある。隣組は納税組合と回覧板をまわす単位になっているという。
        
                         綺麗の手入れされた境内
        
                    拝 殿
 拝殿の規模といい、境内に祀られている境内社や庚申塔の数からみても、旧
新里村鎮守社・旧村社の社格如きは当然であろうと思われるのだが、創立年代や由緒を記した物が手元になく、残念ながら社格には「不明」と記してしまった次第だ。
    
拝殿向拝部や木鼻部に施された色鮮やかな彫刻    拝殿手前で左側にある力石、手水舎・石燈籠
                                        石燈籠は「嘉永六昭陽赤奮若 龍集九月下荀五日」
        
             境内にある記念碑・庚申塔・石碑など
  左から凱旋記念碑・庚申・庚申・庚申塔・(?)・庚申・羽黒山 湯殿山 月山の石碑
        
      社殿左側横にある明和町指定史跡である「経塚附石経圓塔」を納めた祠
 明和町指定史跡 経塚附石経圓塔
  昭和五十六年四月七日指定
  所在地 明和町新里一一三番地
  所有者 菅原神社
 新里地蔵寺中興の祖、行鑁上人が疫病退散を祈願、心身を清め一石一字真心を込めて大般若心経を書写し正徳三年(一七一三)神社の北西に埋めた。
 明和八年(一七七一)地蔵寺僧慶陳がこの圓塔を建て所在を明らかにした。
 昭和五十六年十一月 明和町教育委員会 
                                                                             案内板より引用
 また、令和2331日発行の『明和町HP 明和町の文化財と歴史』には「「ぎょうばん様」を以下の記述により紹介されている。
「ぎょうばん様」
 小比叡山地蔵寺の中興開山行鑁上人(ぎょうばん様)の略伝には、「寛永 17年(1640年)に奥州白河(福島県)に生まれ育ち、才智が非常にすぐれており、仏の教えをよく守り、徳行ともに人並みより優れ、希にみる高徳の僧であり、永く仏徒・村民の模範とすべきである」と記されている。
 ある時上人は、一石一字、大般若経六百巻、光明真言百万遍を書写して、この世の疫病による災難を救おうと一大念願を起こした。近隣教化の途中淨石を拾ってきて、その石に一字を書くごとに三礼をしながら書写した。それが終ったのは正徳3年(1713年)527日、その石を鎮守社(新里天満宮)の北西の隅に埋め、石経圓塔と称する塔を建てた。その後は、毎年病にならないよう法要(石経様)を行うようになった。これ以降、その功徳により村は永いこと疫病の憂いから解放された。たまたま近隣に悪疫が流行した時には、石経圓塔を発掘して村人に拝ませると悪疫は去っていったと伝えられる。この石経圓塔は町の指定史跡に定められている。上人は臨終に「67月は疫病の流行する時期であるので、我が法要は6月に行うように。」と遺言して息絶えた。時に享保2年(1717年)927日、享年77才だった。以降、上人の遺徳を偲び、毎年527日には法要(石経様)を天満宮にて続けている。また、7月下旬には行鑁堂で法要を行い、境内にて行鑁祭(夏祭り)が盛大に
経塚附石経圓塔行われている。
『明和町の昔話』にも「行ばん上人と厄よけだんご」として上記と同じような話が掲載されている。
        
               本殿奥に祀られている合祀社
        諏訪大明神・稲荷大明神・長良大明神の額が掛けられている。
        
                   静かに佇む社



参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「
明和町HP」「明和町の文化財と歴史」等

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千津井三嶋神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町千津井5152
            
・ご祭神 大山祇神(推定)
            
・社 格 旧千津井村産土神・旧村社
            
・例祭等 春祭り 315日 夏祭り 7232425
                 
秋祭り 1115
 群馬県邑楽郡明和町千津井地域は、利根川中流域左岸にあり、江口地域の東側に接している。途中までの経路は江口諏訪神社を参照。そこから、東方向に進む道を650m程進むと、左手に千津井三嶋神社の鳥居が見えてくる。
「千津井」、なかなかの難解地名であるのだが、鎌倉時代に記録のある地名のようで、「せんづい」と読む。因みに、埼玉県旧騎西町には苗字として「泉津井(せんづい)」と名乗っている家が数戸あるというのだが、何か関連性があるのであろうか。
        
                 
千津井三嶋神社正面
            参道や鳥居も新しく整備されているようだ。
『日本歴史地名大系』 「千津井(せんづい)村」の解説
 江口村の東、利根川左岸に位置する。中世は佐貫庄に含まれ、嘉暦三年(一三二八)四月八日の三善貞広寄進状案(長楽寺文書)に添えられた弘願寺寺領注文に千津井郷がみえる。下って天正一五年(一五八七)一一月一九日の北条家朱印状写(「紀伊続風土記」所収)には館林領千津井郷とみえ、梶原源吉に郷内八八貫八二〇文の知行を与えている。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。寛文郷帳によると田方一四四石余・畑方三五〇石余。
        
                    拝 殿
              この社は南向きで、利根川に向かって社殿は配置されている。
   境内周辺には由緒等記している案内板はなく、創立年代等はハッキリとは分からず。

 千津井の産土神は三島神社で、明治の神社合併で愛宕様・天神様・八幡様・戸食様・稲荷様・雷電神社も合祀されている。三島神社は梅原にも一社あるが、あとは上の方に一社あるだけといわれている。昨年、本社に氏子たちが参拝に行って来た。御神体としては丸い鏡で、藤原という名のある柄鏡の柄をとって祀っている。河川改修で利根川の流れの中に入ってしまい、大正二 年に現在地に移転し今年完成した。
 三島神社の祭りとしては、春は三月十五日、夏は七月二十四日で、このときは二十三・四・五日の三日間あり、秋は十一月十五日の三回ある。七月の祭りは二十三日に神社で祭典があり、雹害と五穀豊穣の八丁締めを立てる。高い所へ立てるので氏子が梯子等を用意していて立てる。二十四日には早朝、有力者の先輩の家の庭で舞う。また希望を受けてやる。
 ニ十五日はササラをする。ササラに参加する者は、青年の場合と村全体の場合とがあった。
 ニ十六日は祭りに使った道具を整理、洗濯をして、収納箱に納めてから慰労会(直会)をした。例によってやることで、貰った御神酒なども処分した。残ると耕地毎に分けた。
                                 「
明和村の民俗」より引用
        
             拝殿には「正一位三島大明神」と表記

 嘗て利根川に橋がないころは、県の費用で渡し船を利用していた。渡し場は千津井・川俣・梅原・江口・斗合田と大体2㎞間隔位にあった。その中の「千津井の渡し」は、埼玉県と交代で人夫船(頭)に出て人々を渡した。斗合田境と江口境の二か所あり、その間は700mある。津井の渡し場には河岸があり昔は問屋が立ち並んだようだ。
        
             境内に祀られている庚申塔や馬頭観音等
        社殿横に祀られている末社群           末社群並びにお狐様が並んで祀られている。
  左から小天狗・大天狗・愛宕山神社・(?)        狐といえば稲荷神社であるが、
    辨財天・
(?)・庚申塔・道祖神        稲荷神社が近くに祀られているのであろうか。
        
                           社殿から見た利根川堤防の一風景

「明和村の民俗」によると、明和町で獅子舞を伝承している地域は、斗合田・下江黒•千津井・江口・梅原の五ヶ所あるという。その中の千津井では、三島神社の夏祭に獅子を出した。神前で舞ってから、笛.太鼓を鳴らしながら各戸を歩いた。 雄獅子(2)、雌獅子(1)棒使い(2)で構成し、道具持ちが付いて行く。演じる人は長男が多く。小学校四、五年生のうちからやった。 最初に棒使いをしてから、獅子舞に移る。()は高さ1m程の草刈、菴形の菴の中に一人入って蛇を持ち、笛の曲に合わせて蛇を出し入れするが、しまいには回りで舞っている獅子が、その蛇を飲む所作をする。「カネマキ」という名称である。「花」は花笠を被った四人が四隅に立ち、互いに縫うように踊る。
        
            社の東側の道端に大切に祀れている地蔵様
    周囲の木々の手入れもしっかりとされ、地域の方々の篤い信仰心を物語るようだ。 

「弓くぐり」は二人で長さ2mの弓を引っ張って、くぐって踊る。獅子舞の笛は竹製で、朱塗りのいい笛があり、座敷に上って吹く。
 七月二十四日が三島神社夏祭の本番で、獅子舞は申し込まれた家々を回って演じた。悪魔除けのため、お祓いを持って座敷に上り奥まで一巡してから、庭へ出て踊って行く。家族が獅子頭をかぶってもらうと悪魔除けになるという。
        
               千津井地域の利根川堤防の眺め



参考資料日本歴史地名大系」明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」等

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江口諏訪神社


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町江口10181
             
・ご祭神 建御名方神
             
・社 格 旧江口村鎮守社・旧村社
             
・例祭等 例祭 727
 群馬県明和町江口地域は、利根川中流域左岸にあり、上州三島神社が鎮座している梅原地域の西側にあたる。途中までの経緯は上州三嶋神社を参照。この社から東側に走る道路を3㎞程進んですぐ南側には利根川の土手が見える場所に江口諏訪神社は静かに鎮座している。
        
                  江口諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「江口村」の解説
 田島村の南、利根川左岸に位置する。暦応四年(一三四一)二月一〇日および康永二年(一三四三)八月二〇日の寮米保西内島村注文(正木文書)にみえる佐貫江口又四郎は、当地に関係する人物であろう。応永三三年(一四二六)青柳綱政は「佐貫庄江黒郷之内近藤原之村」内の畠一町を江口なる者に売渡しているが(同年一二月一九日「青柳綱政畠売券写」同文書)、この江口も当地に関わりのある人物とみられる。

 社の北側には集落が東西に走る道路沿いに連なっているのだが、社そのものが集落ではなく利根川方向に向く南向きで、参道も土手へと続いている不思議な配置となっている。
       
     入口の一対の柱にはそれぞれ卵形の自然石を利用した力石がある(写真左・右)

 この力石は多田市蔵(いちぞう)という人が文政2年(1819年)に奉納したものである。多田氏の先祖の市蔵という人が千津井の日野見屋という酒屋で、この石を担げれば一升くれるといわれ、かついで持ってきたものという。市蔵は連氏の四代前。一つは長さ68㎝、高さ35㎝、刻銘「二十九メ余」(メは貫目)、もう一つは長さ68㎝、高さ35㎝、刻銘「奉納四拾貫目文政二己卯、願主江口村多田市蔵」
 力石は、関東をはじめ日本全国に見られるが、場所によっては「さいいし」と言っているところもある。その多くは神社の境内等にあるが、やはり、卵形の自然石を用いたものが多く、これを持ち上げた人の姓名、石の重量などが刻んである。また、病人のあるときは持ち上げれば全快、上がらないときは見込みが薄い等、石占いに使用した例もある。いずれにしても最初は神意を伺うものとして始まったようである。昔は村仕事として洪水による堤防の土端打作業等があったが、現代と違って作業が全て人力によって行われたので、一人前の人間として平素から身体を鍛えておく必要があった。また、同時に力のあるものはそれを誇りにするとともに、威厳を示したのである。そのために若者たちが正月、盆、農休み等の集会時に力を示すために担いだ石が力石と呼ばれている。
 30貫の力石を持ち上げると一人前と言われていたが、実際は力石に刻まれた重量より2割ほど軽いのが普通となっているという。
       
         拝殿に通じる石段手前に設置されている「社殿新築記念碑」
 社殿新築記念碑には「諏訪神社旧社殿は、安政年間の改築にかかるもので、既に百四拾数年を経て老朽化が激しく、そこで、氏子総会を開き、この対策を議し、氏子割寄付金と篤志寄付金を以て、新築することに決し、平成拾壱年、拾弐年の両年を以て、完成したものである。」との事が記されているが、創立年代等はこの碑には記されておらず、他の資料も調べたが不明である。
       
                    拝 殿
        
       石段上に祭られている境内社・子神社。その奥には神興庫がある。
 子神社は「権現様」とも称され、権現様は足の神様で、足の悪い人がお参りし、治ると金の草鞋をあげた。子の権現が権現様と呼ばれるようになったという。

 明和町の「町のトピックス」において、2023722日(土曜日)江口地域の諏訪神社において、保存会による「ささら舞い」が、家内安全・五穀豊穣を願い、4年ぶりに奉納されたという。
「明和町教育委員会」発行の『明和町の文化財と歴史』では、当地は、民俗芸能の盛んなところであり、町内に獅子舞が斗合田・下江黒・千津井・江口の4地域に残っているという。この神興庫の中に獅子舞の道具が保管されているのであろうか。
        
            境内北側に並んで祀られている石祠・石碑群
 左奥から長良大明神、八幡大神・天照皇大神宮、前鬼宮、雷〇、奉納石燈籠一基と刻まれた石塔、熊(野?)宮、稲荷宮、神〇宮、戸隠大神、(?)、辨(財?)天・大(神?)宮・天満宮、(?)、(?)、水〇〇、水神宮、水神宮、(?)。
        
                             社殿から参道方向を撮影
    鳥居のすぐ先には利根川の堤防があり、石段がわざわざ堤防上まで伸びている。

 ところで、『明和村の民俗』において、江口諏訪神社の祭礼に関して以下の記載がある。(*カナ文字に関して、筆者が可能な限り漢字に直している)。

 江口地域の鎮守社である諏訪神社の祭日は七月二十七日。これが本祭りで、前日二十六日の晩は「宵祭り」、二十八日は厄神除けであって、昔は祭礼にはササラが出た。四つの耕地にササラ番があった。一年毎に上・中・新田・下組の順にまわる。昭和五十六年は上がササラ番である。
 七月二十六日の晩は旗を上げたり、花を拵えた。これはササラ番の人が中心になってやるが、各戸一人は必ず出ることになっていた。昔はササラをやった。獅子頭は三つあり、雄獅子・雌獅子・中獅子とあった。ササラは村の人がやったが、奉公人は参加できなかった。
 ササラをやる前にボウヅカイが木刀で踊った。二十六日の晩は境内でササラをやった。
 二十七日の朝早く神官が来て拝んでくれた。この時は氏子たちもいった。境内でササラやったあと、役員の家を一軒一軒回った。役員というのは、区長、社寺総代四人.協議員各(耕地に二人ずつ)八人の計十三人である。この役員の家をまわった。昔は夜が明けてしまうこともあった。
 二十八日は厄神除けで、厄神除けをやってもらいたいという希望の家だけを回った。これをウラザサラともいった。厄除けはカミからシモにすってきた。神官が切ってくれた幣束をムラ境の上梅原・古森との境と下千津井との境の2カ所に立てた。立てる時には社寺総代と評議員もついていった。厄神除けをすると村に悪いものが入って来ないという。厄神除けの道順はきちんと決まっていて間違わぬようにした。
 なお、ササラは笛が四、五人いた。戦後暫くやっていたが、現在はやってない。道具などは諏訪神社境内の蔵に保存されている。
 
  鳥居の先にある石段を上り終えると、そこには利根川の雄大な流れが広がる。(写真左・右)
        利根川の対岸は羽生市・発戸地域、及び上村君地域である。

 昭和29年までは、江口・千津井・斗合田各地域には、渡し場があり、渡し舟で利根川を渡り、対岸の羽生市との交流を深めてきた。嘗ては羽生から簔や唐笠や金物や魚類などの、多数の行商人が舟で利根川を渡って町へやって来た。 盆・暮れなどハレの日の買い物には、こちらから川を渡って埼玉県側 に出かけて行ったとの事である。
 商売上の取り引きばかりでなく、人間自体の交流も盛んであった。村人の中には、羽生の人と縁組をする者も多く、花嫁を乗せた渡し舟が毎年のように往復したとという。




参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP」「明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」等
 

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上州三嶋神社

 明和町(めいわまち)は、群馬県南東部に位置し、邑楽郡に属する町である。群馬県の地形は鶴が空に舞ったような形に似ていて、その首の方(東南端)にあり、気候は比較的温暖で南に利根川、北に谷田川が流れる水と緑が豊富な地域である。総人口11,562人、世帯数3,779世帯(200912月)の自治体である。東京都心から約60kmと群馬県の中で最も東京都に近く、交通の便も良い事から、東京へ通勤・通学する住民も多く、関東大都市圏に属する。
 町内の大規模な工業団地により財政は非常に豊かで、対人口財源は群馬県下上位で、2007年より交付金不交付団体となっている。2006年の財政力指数は0.80であったが、2007年に1.11となった。それらを理由として、隣接する館林市などとの合併を拒み続けてきた。
 町名の由来は、1955年(昭和30年)に千江田村、梅島村、佐貫村の三ヶ村の合併時に、公募により「明朗で平和な村に」という想いから新村名として「明和村」と名付けられたことによるという。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町梅原262
            
・ご祭神 大山祇命 大己貴命 豊城入彦命
            
・社 格 旧明和総鎮守・旧郷社
            
・例祭等 鎮守例大祭・春季例祭 3月後半 夏季例祭 7月後半 
                  
秋季例祭 10月後半 新嘗祭 1023日 他
 羽生市利根川右岸にある「道の駅 はにゅう」から国道122号線を北上し、昭和橋を越え、群馬県明和町に入る。その後、「川俣」交差点手前にある邑楽用水路の十字路を左折し、1㎞程進んだ場所に社はある。旧郷社の格式がり、旧明和村の総鎮守として、地元の方からは「三嶋さま」と厚い信仰を受けている歴史ある社である。
        
                  上州三嶋神社正面
  鳥居の社号額に刻印されている「明和総鎮守」がこの社の格式の高さを物語っている。

『日本歴史地名大系 』「梅原村」の解説
 利根川左岸にあり、東は江口村、西は川俣村。中世は佐貫(さぬき)庄に含まれ、梅原郷と称した。元応元年(一三一九)九月二四日の佐貫梅原時信在家田畠売券(長楽寺文書)には「むめはら」とあり、時信は坪付注文を添えて郷内の在家付畠二反と田四反を三三貫五〇〇文で加地三郎左衛門尉女子尼仙心に売却、翌二年二月二三日の関東下知状(同文書)でこの売買が認められている。売却地には公田一反があって公事を出し、他は万雑公事がなかった。
        
         正面鳥居のすぐ東側に真新しい社の看板等が設置されている。 
     鳥居を過ぎた境内の様子             神門前にある神橋
     幾多の灯篭が参道を飾る
        
                    神 門
 
 神門を過ぎると左手に境内社が祀られている。      羽黒山神社の右手に並んで祀られている
       左は厳島神社、右は羽黒山神社                 猿田彦神社、九頭龍大神等の石碑
 
          石碑の先には境内社・仙元宮の鳥居が建つ(写真左)
    鳥居の先には、小さな富士塚の石段があり、その塚上に浅間神社が鎮座(同右)
        
                    拝 殿
 当社は「上州三嶋神社」を始め、近在からは「お宮」「三嶋さま」などと親しく呼ばれていますが、 その正式名称を「三嶋神社」と称します。 江戸時代末期の弘化3(1846)、火災により社殿および古記録の一切を焼失したため、創建年月を含む由緒については不詳です。社説によると、伊豆国の三嶋大社(現在の静岡県三島市大宮町)から神霊を 勧請(お招き)した地方の古社と伝えられています。
 江戸時代以降、明治時代に至るまでは、当社近在の梅原山月上院・光明寺(高野山真言宗)の住職が代々 「別当(神社を管理した僧侶)」を務めていました。 歴代住職の当社に対する信仰心は篤く、当社に残された御神宝や石塔などからその様子を うかがうことができます。
 御神座近くに奉安されている御神鏡も、江戸時代中期の享保21年(1736)、当時の別当・光明寺弘誓と 惣氏子中より寄進されたものです。
 現在の社殿(拝殿)は、焼失の翌々年、嘉永元年(1849)から翌2年(1850)にかけて再建されました。 再建事業は別当の光明寺英猛の主導の下、鎮座地の梅原村を中心に進められ、またこの再建を機として 火災等の事故を防ぐため、近隣の村落から神主家の祖が招かれて、神社内に居住して社殿を 管理するようになりました。
 なお、再建にあたっては、名主・組頭といった村役人を大世話人として、梅原村の人々が中心となって 事業が進められましたが、江戸時代としては非常に珍しく周辺20ヶ村(現在の明和町全域・館林市南域・ 千代田町東部)からも寄付が寄せられており、当社に対する信仰が近隣地域にまで広く及んでいたことがわかります。
 以後、拝殿は長年に及ぶ風雨や近年の大震災の影響によって、現在に至るまでに 幾度かの改修工事が行われましたが、再建から160年余り経った今も、往時の姿をしっかりと留めています。
 その後、近代に入ると、明治5(1872)11月、近隣8ヶ村(現代の明和町中部・東部)の総鎮守である 「郷社」に定められ、地域総鎮守として篤く信仰されました。
 現在は群馬県を中心に、近隣の埼玉県や栃木県、茨城県からも、「勝負の神」「虎の神」、交通安全に 霊験あらたかな神様として、広く崇敬されています。
                              「上州三嶋神社公式HP」より引用
 
         拝殿左側に祀られる合祀社               拝殿手前で参道右側に祀られている。
     左から菅原神社・神明宮・愛宕神社         灯籠と九頭竜大神の石碑
                            奥には、神楽殿も見える。
「明和町教育委員会」発行の『明和町の文化財と歴史』では、当地は、民俗芸能の盛んなところであり、町内に獅子舞が斗合田・下江黒・千津井・江口の4地域に残っているというが、『明和村の民俗』によると、嘗ては上記4地域の他に、上州三島神社が鎮座する梅原地域にも獅子舞があったようだ。
 明和町は洪水の常襲地だったから、ちょっとした出水も、すぐ田畑に冠水する地であったのだが、時には旱魃の害も受けたため、「雨乞い」が盛んに行われた。その方法は、普通板倉町の雷電神社に日参したり、総参りしたりするといった神頼みが中心であったという。また、雨乞いの際に、獅子舞を奉納することもあったようだ。
        
                   境内の一風景



参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP」「上州三嶋神社公式HP」「明和町の文化財と歴史」
    「明和村の民俗」「Wikipedia」等
  

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