古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

間口八幡浅間神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市間口479
              
・ご祭神 誉多別命 木花咲耶姫命
              
・社 格 旧間口村鎮守・旧村社
              
・例祭等 雹祈祷 325日 春祭り 415日 秋祭り 915
                   
夏祭り 77日に近い日曜日 及び15
 新井新田八幡神社から一旦北上してから国道125号線に合流、「間口」交差点をそのまま直進し北上する。400m程進んだ「間口八幡神社」交差点を左折すると、進行方向左手に間口八幡浅間神社の広い境内と塚上に鎮座している社殿が見えてくる。
 社の境内北側には、駐車可能なスペースもあり、その一角に停めてから参拝を開始した。
        
                          間口八幡浅間神社正面 
『日本歴史地名大系』 「間口村」の解説
 琴寄(ことより)村と古利根川を隔てて南に位置。古利根川沿いに堤防があり、南西は島川が流れる。天正一三年(一五八五)正月一四日の北条家印判状写(相州文書)に「まくち御領分之由候」とみえ、一色中務大輔に利根川の東に在陣中は船渡しを停止し、船を引上げ、船橋は一ヵ所のみとするよう命じている。間口が一色氏領分の重要地点であったことがわかる。
 当村を含む七村が羽生領(風土記稿)。田園簿によると田高一五石余・畑高五六九石余で、幕府領。このほか野銭永七貫七五〇文。元禄郷帳では高四〇一石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本渥美・細井の相給。
        
                   境内の様子
               境内は思った以上に広いながら、綺麗に手入れされている。 
 現在、社の氏子区域は間口全域で、蟹穴・新田・本田の三耕地からなっている。古くは米麦を中心として豆類・綿・藍などが生産されたが、米の生産調整政策により蔬菜・いちご等への作付け転換が進められたという。
        
                              参道左側にある手水舎
『新編武藏風土記稿 間口村』
 八幡淺間合社 村の鎭守にて東曜寺の持、
 東曜寺 新義眞言宗、下總國葛飾郡前林村東光寺末、八幡山神功院と云、本尊不動、開山宥秀は寬永十九年三月二十六日寂す、古へ東照宮此邊御遊覽獵のとき、當寺ヘ渡御ありし頃、來秀漬菜を差上げしに御意に叶ひ、戲に漬菜坊と呼せられしより、遂に自らの坊號となれりと云、其正しきことを知らず、此僧の肖像を堂中に安ず、鐘樓 享保七年新鑄の鐘をかく、阿彌陀堂、

       
                               塚上に鎮座する拝殿
 八幡浅間神社  大利根町間口四七九(間口字道南)
 当地は、武蔵七党の一つ児玉党の流れをくむ修理亮という者が帰農して開いたといわれ、大鹿姓を名乗り、江戸期に入ると代々名主を務める家となった。
 当社は、阿佐間との村境、間口の一番上に当たる字道南に鎮座する。道南は、氏子集落の西方に当たり、社殿は集落を見守るように東向きに建てられている。
『明細帳』には「往古ヨリ二社合殿、明治六年中村社ニ申立済」と載せ、八幡社と浅間社がいつ合殿になったか伝えていないが、境内にある力石には「奉納八幡 浅間宮」と並記され、更に「元禄十六年正月吉日武州埼玉郡羽生領間口村」とあることから、江戸中期には既に合殿であったことが知られる。祭神は、誉多別命・木花咲耶姫命の二柱である。
 社殿内に並記される本殿は二社共に一間社流造りの同寸法であり、同時に造られたものとみられる。享保一六年二月一三年両社とも吉田家から宣旨により正一位の神位を受けている。
 往時、別当職を村内の八幡山神功院東曜寺が務めていたが、明治初めの神仏分離により東曜寺から離れ、大字阿佐間の旧修験南蔵院が復飾して神職となり南條を名乗り奉仕する。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 

    石段左側に置いてある力石               本 殿
僅かに「奉納 浅間 八幡社 元禄十六」と読める。       塚下から撮影
        
            社殿の左側に祀られている境内社・八坂神社
 八坂神社の中には立派な神輿が安置されている。この神輿は、77日に近い日曜日、及び15日に行われる夏祭りの際に使用される神輿であろう。
 当社の祭事は年七回行われているが、その中で最大の賑わいをみせるのが77日に近い日曜日、及び15日に行われる夏祭りである。
 夏祭りは2回に分けて行われ、まず7日に近い日曜日には子供神輿が練られるが、近年の子供の減少により、農業用トラクターに神輿を載せて、これに子供たちとPTAが付く形に変わっている。 順路は、社⇒蟹穴地区⇒新田地区⇒本田地区(地域境に行く)⇒社となる。
 2回目の15日には、大人神輿が練られる。当日午前中に気も市が神霊遷(みたまうつし)が行われ、午後から子供神輿と同じ順路を渡御する。途中、各耕地に設けられた神酒所、地域の有力者の家に寄り、酒のふるまいをうけ、午後9時ごろ社に還御するという。
        
              本殿の右側奥に祀られている合祀社
            左側から浅間社2社・稲荷社2社祀られている。
        
                社殿から参道方向を撮影
    社は当地域の西側端部に鎮座し、集落を見守るように東向きに建てられている




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
            


 
                       

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新井新田八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市新井新田38
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧新井新田村鎮守
              
・例祭等 雹祈祷 3月25日
 北大桑香取神社から「北大桑観音通り」を1㎞程東行し、「北大桑(新井)」交差点を左折する。進行方向右手にある真言宗智山派の大願寺を眺めながら、更に北上し、中川に架かる豊野橋を渡り終えた直後の丁字路を右折すると、大きな工場の間に挟まれて、住宅街からもポツンの取り残されたように新井新田八幡神社は鎮座している。
        
                 
新井新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「新井新田」の解説
 [現在地名]大利根町新井新田・豊野台
 北大桑村の東に位置し、中央を島川が流れる。元禄郷帳では新井新田村とみえる。北大桑村新井の住民による開拓と伝える(大利根町地名考)。田園簿によると皆畑で一五三石余、ほかに野銭永三〇〇文、幕府領。寛文四年(一六六四)の羽生中高辻之覚(松村家文書)によると承応年間(一六五二―五五)の検地高一三〇石余。元禄郷帳では八〇石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。
        
                    拝 殿
 八幡神社  大利根町新井新田三八(新井新田字八幡脇)
 当地は利根川中流域右岸に位置し、中央を島川が流れる。新井新田の地名の由来は、近世初期に北大桑村新井の住民が開発したことによるという。当社の創立も村の開発にかかわると思われる。
 祭神は誉田別命である。二間社流造りの本殿内の一方には、高さ六二センチメートルの金幣を祀り、「八幡大神寄進北新井新田村旦中別當間口村東星寺宝永二乙酉天九月吉日」と記す。なお、祭神が一柱であるのに対して、本殿がなぜ二間社となっているかは不詳である。
『風土記稿』新井新田の項には「八幡社 村の鎮守なり、間口村東曜寺持、天神社 北大桑村大願寺持」とある。当社の別当を務めた真言宗八幡山弥陀院東曜寺は、古くは八幡山神功院東星寺と称しており、元亀元年の創立と伝える。また、天神社は北耕地の耕地鎮守として現在も祀られ、別当を務めた真言宗大願寺は江戸末期から明治初期にかけて当時の住職が大酒を飲み、放蕩をして多額の借金をつくったため寺から追い出され、無住になったので、その後、檀家であった当地はすべて神葬祭に改め、現在に至っている。
 祀職は神仏分離以降、南條家で代々努めている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
 社殿の右側に祀られている境内社・稲荷社   境内に建つ「八幡神社新築記念碑」等の石碑
                        力石のような石も2個並んで置いてある。
        
               正面鳥居付近から見る社の一風景
 当社は新井新田の鎮守として厚く信仰されている。古くは「八幡八社参り」と称して大利根地区にある八幡社を八社参拝して回るとご利益があるとされ、毎月一日・一五日はよく行われたという。
 当社の拝殿は、宿としての役割も兼ね備えており、11日の元日には毎戸一名が拝殿に集まり、区長の年頭の挨拶に始まる新年会が催される。また325日には雹祈祷(ひょうぎとう)と称して、農家の組合総会を兼ね、また時には「榛名講」の代参のくじ引き等も行れたり、種々の話合いがされたという
 また、西隣の北大桑地域で行われる「天王様」(77日・15日)に当地の子供たちも参加し、はやり病を防ぐとして、子供神輿が練られているとのことだ。当地の開発には
近世初期に北大桑村新井の住民が関わったといい、現在でも交流は続いているのであろう。

            社の北側の東西に走る道路の向かい側には、
       幾多の庚申塚を含む石碑や供養塔等が並んである。(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
  

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北大桑香取神社

 中川は埼玉県と東京都の東部、関東平野の中部を流れる川。全長 84km。埼玉県羽生市北方の利根川から分流し、南東流して幸手市付近から南流、松伏町で古利根川、吉川市で元荒川と合流する。その後、東京都に入って、新中川放水路を分けてのち、中川放水路となって東京湾に注ぐ。嘗ての利根川の流路で、上流部は島川、中流部は庄内古川、下流部は古利根川の流路にもあたっている。古くから氾濫を繰返し、江戸時代以降たびたび改修されたという。
『日本歴史地名大系  北大桑村の解説』によると、この島川は、現在の中川の最上流部にあたり、明治年間からの改修により、庄内古川とともに下流の古利根川に結び付けられて中川に統合された。江戸時代には羽生領(現加須市・羽生市・騎西町・大利根町辺り)の悪水落を水源とし(風土記稿)、北大桑村道橋(現大利根町)から川口村(現加須市)で浅間川(古利根川)に合し、八甫村(現鷲宮町)、狐塚村(現栗橋町)、高須賀村・権現堂村(現幸手市)で利根川(権現堂川)へ合流する区間を島川(島川堀)とよんだ(寛政一〇年「羽生領用水組合御普請箇所記」見沼土地改良区文書)。
 天正九年〜一五年(一五八一〜八七)頃に比定される六月三日付北条氏照書状写(武州文書)には、北条氏が直接支配する八甫の上流へ上る商船が三〇艘にも及んでいることが記されており、戦国期には島川筋が主要な水運路として利用されていたことがわかる。近世初頭の利根川改修では、文禄三年(一五九四)に会の川が締切られたと伝えられ、浅間川から島川筋は利根川の主流となったとの事だ。
 加須市北大桑地域は、東北自動車道加須ICの東側に位置し、北側に嘗ての島川と呼ばれた中川が北側に流れ、南は葛西用水路を境としてその北岸にある東西に長い地域である。
        
             ・所在地 埼玉県加須市北大桑808 
             ・ご祭神 経津主神
             
・社 格 旧北大桑村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
 国道125号線を久喜市旧栗橋町方向に進み、東北自動車道加須ICの先にある「北大桑(西)」交差点を右折する。通称「北大桑観音通り」を道なりに東行すること600m程で「北大桑」交差点に達し、正面左手にコンビニエンスが見え、そのすぐ東側隣に北大桑香取神社の境内及び社殿が見えてくる。
        
          
「北大桑観音通り」沿いに鎮座する北大桑香取神社
『日本歴史地名大系』 「北大桑村」の解説
 杓子木村の南に位置し、南は南大桑村(現加須市)。北を島川が流れ、南の村境を葛西か用水が流れる。また日光道中の迂回路である日光御廻道が通る。中世には大桑として史料に表れ、南北に分村していないことがわかる。天正八年(一五八〇)と推定される三月二一日の足利義氏印判状写(喜連川家文書案)に「大桑郷」がみえ、古河公方足利義氏は北条氏照に対し、同郷など五郷から古河への人足徴発を命じている。同一八年六月五日の北条家印判状(鷲宮神社文書)、年欠五月三日の鷲宮神領書上(旧鷲宮神社文書)、現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九五)八月の棟札により鷲宮神領であったことがわかり、北条家印判状には「拾貫文 大桑之内」、鷲宮神領書上には「拾貫文 本郷香雲院領大桑郷之内 此物成五貫文」、棟札には「大桑村」と記されている。
        
                  静まり返った境内
 北大桑香取神社の創建年代は不明である。ただ当社で所蔵されている金幣に「元禄十二己卯(1699年)」と記載されていることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。隣にあった「金剛院」が別当寺であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。なお、明治末期の神社合祀政策について、当社では特に周辺神社の合祀は行われていない。
 また
当社には江戸時代の仏師円空が彫ったという「円空仏」を3体所蔵している。
 
    参道左側に祀られている琴平社      拝殿に通じる石段の手前にある案内板
 有形文化財 絵画   香取神社の絵馬
  指定年月日  昭和六十一年十二月八日指定
  所 在 地  加須市北大桑八〇八番地
  所有者  等   香取神社
    制 作 年   延亨三年(一七四六)
 絵馬は「神仏に祈願または恩返しのしるしとして奉納する絵の額」といわれ、生馬に代えて奉納されたものですが、江戸時代になると単に祈願の目的だけでなく、芸術品としての奉納が盛んになりました。
 この絵馬が描かれた延亨三年(一七四六)は、江戸時代第九代徳川家重のころで、奉納の目的は不明ですが、当時の風俗がよく描かれており、絵師の名も判明しています。
 作者絵情斎は三同曾信などとも呼ばれ、一六八〇年加須市川口に生れ、一七五五年死亡、江戸で制作活動に従事した浮世絵師です。
 江戸時代の風俗を知る貴重な資料として指定しました。
 昭和六十三年三月三十一日 加須市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 香取神社 大利根町北大桑八〇八
『風土記稿』島川の項に、羽生領内の悪水を利根川に流す島川に、逆流を防ぐ門樋がある様子が記してある。これが当地の事であり「古く水溢の患多き所」ともある。同書に「香取社 村の鎮守なり、金剛院持、金剛院 本山修験幸手不動院配下音羽山と云」とある。
 当社の創立は不詳であるが、内陣に安置する金幣(九四センチメートル)に「香取大明神(梵字)奉寄進元禄十二己卯ノ十二月吉日 羽生領大桑村并生出村 阿左間村惣氏子」の銘がある。これは当社が往時この辺一帯の総鎮守であった事を伝えている。このほか円空仏三体を安置する。当社の参道脇に神霊社(かんれいしゃ)と称する小祠がある。これは昔、旅の浪人がこの地に来て村人を助けて種々の事業を進め、一応仕事が済んだ時、村人が鳩首してこの者を長く村内に留めて置けば、いずれこの村を牛耳られることになる。皆で謀って殺そうと折を見ていると、浪人が金剛院への年始の帰りで足元がおぼつかない、これを襲い、武槍で目を突き、近くの池に投げ込んで殺害したが、以来この地は眼病の者が多く、このため小祠を祀りその霊を慰めたものという。 
 当社の祭神は経津主命である。別当金剛院は当社の裏にあったが、明治期に退転したといわれ、現在は建物もない。
 末社に琴平神社があるが由緒不詳である。このほか、境内には村内より集めたという石祠、天満宮・多賀大明神等一〇社ほどがある。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿上部に掲げてある扁額              本 殿
        
             社殿の左側手前にある石祠等がある。
「埼玉の神社」に記してある「村内より集めたという石祠、天満宮・多賀大明神等10社」なのであろう。
        
              本殿の右側奥に祀られている浅間社

 当社の氏子は北大桑全域を一応氏子としていが、これは明治五年村社となって以降である。本来の氏子は北大桑・中組である。というのも、当地は各耕地に鎮守があり、それぞれに祭りを行っている。八ッ島は大日社・弁天社を、芝は八幡社、保谷は八幡社、北は山王社、台は権現社、新井が八幡社を祀る。当社は中組が祀っている社である。
 当所は明治期に合祀が行われなかったところである。ゆえに、付近の耕地鎮守を含めて、古くからの祭りの形態を色よく残しているといえる。これにより氏子は元旦祭をお正月様、春秋の祭礼をお日待と呼んでいる。各家ではあんびん餅を作り、赤飯を蒸して祝うが、氏子は祭礼だといって神社に参詣はしない。参詣は竈番が代表して行っている。毎月一日・一五日の早朝も竈番は祭礼と同様に神前に灯明をともし太鼓を打ち参拝を行っている。
             
              境内に一際目立つイチョウの御神木
        
                石段上から正面参道を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等
  

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北平沢天神社


        
             
・所在地 埼玉県日高市北平沢620
             ・ご祭神 菅原道真公 春名大神 八幡大神 大山祇神 木花咲耶姫
             
・社 格 旧平沢村鎮守・旧村社
             ・例祭等 例大祭 425日 1123
 毛呂山町市街地を南北に貫く埼玉県道30号飯能寄居線を日高市方向に進む。「埼玉医科大学国際医療センター」を左手に見ながら更に南下し、1㎞程先の十字路を左前方向に進むと、左側に北平沢天神社の境内と長い参道が見えてくる。
        
                北平沢天神社の社号標柱
            ここから境内まで150m程の長い参道が始まる。
『日本歴史地名大系』 「平沢村」の解説
 原宿村の北にあり、北は入間郡多和目村(現坂戸市)・同郡葛貫村(現毛呂山町)、南は新堀村。ほぼ中央を高麗川が北東流し、北境を東へ流れてきた宿谷(しゆくや)川が合流する。上野国方面から川越へ向かう道が北東へ、同道から分れて南下し相模国へ向かう道(鎌倉街道)がほぼ南北に通る。宝治二年(一二四八)二月二八日の高麗景実譲状(新渡戸文書)に「むさしのくにこまのこほりひんかしひらさわのうちきやふつかやしき」がみえ、娘の「とよいや御前(景実女土用弥)」に永代を限り譲与された。この所領は正慶二年(一三三三)三月二八日以前に尼蓮阿(土用弥)とその娘尼慈照から慈照の子曾我左衛門太郎入道光頼へ譲られ、光頼は「東平沢内田畠屋敷」などの安堵を申請し、同日高麗太郎次郎入道に事実確認のため下文等の備進などが命じられている(「某奉書」「曾我(高麗)系図」遠野南部文書)。 
                参道の様子(写真左・右)
 社号標柱から境内まで気にならない程度の         参道の途中に建つ鳥居
   ゆるやかな上り坂となっているようだ。
        
              境内の梅の花も咲き始めていている。
           少しずつだが、季節は確実に春の到来を告げている。
        
                 石段上に鎮座する社殿
        
              石段手前に設置されている案内板
 天神社    所在地 日高町大字平沢
 天神社は、祭神に菅原道真公、春名大神、八幡大神、大山祇神、木花咲耶姫を祀ったものであり、創立年代は不詳であるが、道真公画像が伝えられている。明治四十一年には村内にあった諸神社を移転合祀し、当時の高麗川村の北半分を占める南北平沢の総鎮守となった。背面に社有林を配し、南面に広い境内があって地域を代表する景勝地である。現在の社務所の位置には、大正六年まで平沢地区の学校が置かれていて、文字どおり子供たちは天神様のふところで勉強した。
 例大祭は、毎年四月二十五日と十一月二十三日で、この日その年のお嫁さんがお参りする「嫁のまち」の習わしがあり、昔は村芝居なども上演されていたが、今では若者の演芸がそれに代って行われている。
 神社の西方にそびえる富士山には、浅間神社が祀られており、天神社と一体的なものとして村人から深い信仰を集めている。
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 社がある地は、高麗川左岸で、同河川がようやく平野部に出る地点でもあり、僅かに水田が広がっている。社のすぐ西側には小高い山が控えており、その裾に鎮座する。境内に設置されている案内板では、背面の山は社有林だそうだ。なだらかな斜面上に鎮座している社殿から南面を望むと、広い境内と長い参道の先に集落が密集していて、まさに当地の人々を守る鎮守様のような位置関係にあるようだ。
        
                    本 殿
 案内版にも載せているが、当社の祭事は、春秋二回の例大祭である。春は四月二十五日、秋は十一月二十三日に祭典を執行する。当社では春秋の例大祭を「嫁の待」と呼ぶ。これは前回の祭り以後に当地に嫁して来た者及び当地から他所へ嫁いで行った者が、花嫁姿で仲人に手を引かれて参拝する習わしがあるためだそうだ。但し、近年は結婚式場や貸し衣装で披露をおこなうため、このような行事は行われなくなったようだ
 また
嘗て当社の祭事では、戦前は秋川の芝居師を頼んでいたが、戦後は境内に仮設される舞台で地元の青壮年が芝居を演じていたようだ。芝居の演目は「菅原伝授手習鑑」「仙台萩」「太閤記」「奥州安達原」「本朝二十四孝」「義経千本桜」等。
       
            社殿前に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
 
  社殿の左側に祀られている境内社・合祀社      七社権現社の右側に祀られている境内社
   左から八幡・稲荷合祀社、七社権現社         左から稲荷社、芝宮社

 当社の奥宮と呼ばれた、浅間神社の祀られている富士山は、江戸期には富士講の行者を中心に信仰を集め、現在でも「オシシ岩」等の名所が残されている。因みに「富士山」と書いて「ふじやま」と読む。また、同所にある「ウバ神社」は「ジジババ様」とも呼ばれ、花柳界の人々の信仰があった。
        
                        社殿右側に祀られている境内社・神明神社
        
                 石段下から境内を望む
 
 天神社  日高町北平沢七七〇(平沢村上組字天神峰)
 当社の創建については、現在、末社稲荷神社にある石棒(四三センチメートル)が、口碑に明治まで本殿内にあったといわれること、また、氏子の間では「天神様が終わるともう蚕やら田んぼやらだ」「今年も秋の取入れも無事に済んで天神様だ」などと語られており、当社の祭事が農事歴に組み込まれていること、更に明治四十一年、当社に合祀された富士浅間神社の鎮座地、つまり当社裏に当たる富士山(ふじやま)の位置などを考え合わせると、当社における天神の称号は古く、農耕の神として当地の開発とともに祀られたものと推察される。
『風土記稿』に、別当を天台宗清光院と記しているが、一間社流造りの見世棚の本殿内には、菅原道真公の「絵板」(縦八五センチメートル・横四九・五センチメートル)が奉安され、表は梅花の下に坐す束帯姿の菅公を刻し、裏に「武州高麗郡平澤村寄進松福院住職尊永 絵板絵師朴斉 元禄己巳暦五月吉日」とある。また、口碑には、当社近くの天台宗松福院が別当だったともいい、別当の移動があったことが考えられる。
 明治四一年、同字上組日影森の七社権現社、同字宮ヶ谷戸の芝宮、同字下組の神明社、字富士山の富士浅間社などを合祀したが、このうち富士浅間社は信仰を集めていたことから山上に石祠が残された。
                                  「埼玉の神社」より引用 




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等 
 

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新堀熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県日高市新堀387
              
・ご祭神 伊耶那美命 速玉男命 事解男命
              
・社 格 旧本新堀産土神
              
・例祭等 例祭(お九日) 101819
 新堀稲野辺神社から「もくせい通り」を550m程南下し、丁字路を右折すると、進行方向左手に新堀熊野神社が見えてくる。
 この新堀地域には、大きく分けると、「荒井」「大宮」「野口」「本新堀(本来は新堀であり、通称として本新堀というのだが、大字名との混同を避けるため、通称の方を用いる)」「四本木」「吹上」「原の南」「原の北」の八つの集落があり、各々産土神として社を祀っていて、当社はそうした集落で祀られている社の一つである。
 因みに本新堀には「新堀」姓の家がたくさん多いという。
        
                  
新堀熊野神社正面
 当社は、始め新堀家の氏神として祀られていたが、村の発展に伴い、本新堀の産土神として祀られるようになり、今日に至っている。
 当社の管理や祭事の運営には、総代と当番が当たる。総代は、「オキノイエ」の当主が務めるのが慣例となっていて、当番は氏子が二名ずつ一年交代で務めるという。
        
                   境内の様子
 当地域の氏子の生業としては、養蚕と麦・甘藷・大豆・小豆などの畑作が中心である。農地の大部分は台地上にあるため、水利が悪く、戦前はしばしば干害に悩まされていた。そこで、作物の葉が萎えてくると、人々は雨乞いを行って、降雨を祈願したこともあったという。
        
                    拝 殿
 熊野神社  日高町新堀三七八(新堀字宮ノ前)
 往古、紀州の熊野からこの地へ来て村を開いたと伝えられる新堀某にちなんでその名がつけられた新堀は、高麗川に沿う農業地帯の一角を占めている。当社は、新堀の中でも最も早く開かれたとされる本新堀のほぼ中央に、高麗川を背にして鎮座している。祭神は伊耶那美命・速玉男命・事解男命の熊野三神、本殿は三間社流造りである。
 本新堀には新堀を姓とする家が多いが、中でも「オキノイエ」の屋号を持つ新堀家は、村を開いた新堀某の直系の子孫で、この近辺の新堀姓の家の総本家といわれ、当社はこの「オキノイエ」の氏神として創建された社であると口碑にある。ちなみに、同家の現在の当主は一七代目の米次郎である。
「オキノイエ」は、度々火災に遭っているため、当社の創建に関する資料は残っていないが、同家の当主が代々当社の総代を務めていることや、同家の墓地が当社境内に隣接していることなどを見ても、同家と当社の関係の深さは容易に推察されよう。
『風土記稿』には、当社は観音寺持ちの「熊野三神権現社」の名で記載されている。別当の観音寺は真言宗の寺院であったが、神仏分離によって廃寺となった。その後、いつのころからか旧観音寺の堂宇は薬師堂と称されるようになり、様々な会合の場として利用され、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
            社殿の左側に祀られている石祠一基  愛宕社
                植木の奥に見えるのが本殿
        
          社殿の右側に並列して祀られている境内社・稲荷社
    稲荷社の右隣に待つあっれている「お仮屋」 大口真神の神札が納められている。

 祭事は年二回で、元旦祭と当社の例祭であるお九日(おくんち)がある。お九日の祭日は101819日の両日である。近年では幟を立て、祭典を行うだけであるが、以前は18日の宵宮(宵祭り)に、お籠もりをしていた。祭典については、古くから当社の祀職を高麗神社社家の高麗家が兼務しているため、本来の祭日である19日には、高麗神社の祭典と重なり、神職が出社できないことから、18日に行っている。
 また、明治期には、参道を使って、流鏑馬も行われていた。現在より広く、長かった参道を馬で駆け抜け、的を射る様は、子供心にも実に勇壮に映ったと古老は伝えている。
        
                社殿から参道正面を撮影
 参拝日は2月下旬の平日。天候も初春を思わせるような温かい陽気で、今や梅が満開な時期だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
  
                                

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