古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上柴町諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市上柴町東118
             
・ご祭神 建御名方命 御穂須々美命
             
・社 格 旧柴埼村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 327日 例祭 1017日 新嘗祭 1127
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1845429,139.3034566,19z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道47号深谷東松山線を「航空自衛隊熊谷基地」から2㎞程西行すると、「アリオ深谷店」が見える交差点があるので、そこを右折し、350m程進むと、進行方向右側に上柴町諏訪神社が見えてくる。
 
専用駐車場はないようなので、斜向かいにあるコンビニエンスで買い物をした後に、暫し駐車させて頂き、急ぎ参拝を開始する。
        
                  
上柴町諏訪神社正面 
『日本歴史地名大系』 「柴崎村」の解説
  [現在地名]深谷市上柴町西・上柴町東・幡羅町
 櫛挽台地の北東縁に位置し、東は東方村、西は榛沢郡上野台村、北は国済寺村。深谷庄深谷領に所属(新編武蔵風土記稿)。深谷上杉氏家臣の柴崎淡路介が慶長(一五九六―一六一五)前に開発し(同書)、村名も開発者の名に由来するという。


 現在の上柴地域は、深谷市東部、JR高崎線の南沿いに位置し、昭和47年度(1972)~昭和63年度(1988)の深谷都市計画事業上柴土地区画整理事業によりニュータウンとして造成され、それまでの長閑な農村風景は一新され、急速に都市開発が進んだ
 この地域には人口は1万9千人強、中心部には、上柴中央公園と上柴中学校、深谷赤十字病院をはじめ医療機関のほか、大型ショッピングセンターを中心とした商業施設も多く、文教福祉と産業経済がそろった、深谷市の中でも開発が盛んな地域の一つでもある
        
                               鳥居の左手にある案内板
 諏訪神社 深谷市上柴(柴崎字北中郷)
 祭神 建御名方命 御穂須々美命
 当社は、村の開発者である柴崎淡路介(深谷城主上杉氏の家臣)の一族が、文禄元年(一五九二)ごろに創建した月笑院の氏神として祀った。以後柴崎の鎮守として、字の人々の信仰を集めた。
 柴崎の地名は、室町時代の中ごろ(十四世紀後半)武州幡羅郡西庁鼻和柴前と文書にあり、ここは庁鼻和(国済寺)の西方にあたり柴前が柴崎と変りその後、上柴町と変り、道路なども整備され現在に至る。当社の近くにどんな日照りでも水が涸れなかったという古井戸や、深谷城の飲料水として城に運ばれた御用水運搬道(通称「御道」)などが消えたのは寂しいことである。
現在、春季小祭(三月二十七日)、秋季大祭(十月十七日)、秋季小祭(十一月二十七日)が行われている。
 深谷市上杉顕彰会平成十七年七月(第四十一号)
                                      案内板より引用

        
                    境内の様子
『新編武蔵風土記稿 柴埼村条』
「当村は上杉の家人柴崎淡路介と云もの開発せしと云、此人は今村民武平次の先祖にて、慶長元年二月十六日卒すといへば、さまでの古村にはあらざるべし(中略)御打入の後は松平孫三郎信吉法名宗心知行す」
『武蔵志』
「松平山月笑院は松平孫三郎宗真と云人草創す。当村は宗真の臣柴崎淡路介・同杢之助、草開き故と云ふ」
 
    参道を進むと左側にある手水舎     手水舎の右隣にある「社殿新築記念之碑」
       
           手水舎、記念碑の右隣に聳え立つご神木(写真ひだり・右)
        
                     拝 殿
 村の西北に鎭座せられ、境内五百十一坪社地の變遷なし、
 當社創立の沿革を詳かにせずと雖も新編武藏風土記稿に諏訪社。村の鎭守にして月笑院持とあり、月笑院は禪宗臨濟派国濟寺村国濟寺末寺、松平山と號し、御打入後松平孫三郎此地を領するに及びて文禄元年十一月、月笑祖光を開山と爲して開基せらると云ふ、又此地古く、深谷領に屬し、上杉氏の家臣柴崎淡路介の開發にかゝると云ふ、
 淡路介は村民武平次の先祖にして、慶長元年二月十六日卒と、文化の官撰に見えたれば、夙く是等の一族繁衍して祀れる神社にはあらざるか、氏子區域内に居住せる氏姓、概ね柴埼を稱へり、又深谷城との関係は古く、神社の付近に穴の口徑丈餘に及べる古井戸穿ちありて、當時深谷城の飲料水に供せられしと傳ひられ、今仝所字北中鄕八百十三番地より字西原六百二十六番地に至る巾四間長三百餘間深谷町に通ずる道路ありて、里稱御道と称し、御用水運搬道路の遺址あり、
                                 『大里郡神社誌』より引用
 嘗てこの社は幕末までは諏訪大明神」と称していた。明治7年5月に村社の申し立てを行い、明治43年には、神饌幣帛料供進神社に指定された。昭和六十年に拝殿を再建。以後、平成初頭にかけて、手水舎や新社務所、美しい玉垣などが、次々に新築された。
        
                     本 殿
『大里郡神社誌』には、1017日の例祭で舞い踊る「獅子舞」に関しても、細かく記載されている。この獅子舞は、昭和25年頃まで氏子による獅子舞が行なわれたという。
獅子舞は、まず行事の始めに神降しの儀があり、当時の神職家(柴崎家)を出発して、寺や村の名士の家を巡り、境内に入って社前で夜半まで続いてのち、獅子頭神昇げの儀で納めとなる。
獅子舞は、雄獅子・女獅子・法眼の三頭によるもので、獅子頭に「元文三年(1738)戊午年 柴崎加兵衛」と彫むものもある。曲目には、御幣掛り・女獅子ガクシ・橋掛り・雨掛りなどがあった。獅子舞に付随して「棒づかひ」の行事も行なわれた。

*大里郡神社誌 原文
 當社の祭體に當り尤も重き行事を獅子舞とす男獅子女獅子法眼の參頭各二組ありて古きを隱居と稱ひ作者傳來詳かならざねども新頭には元文三戌午年柴埼加兵衛と彫む獅子舞に附随して行はるゝ太刀打の行事あり大小二組にして小太刀は七八歳位の児童大太刀は十七八歳位の青年を選び各々子内に生れたる長男を以て充つるの定めにして里稱ササラ子、太刀子又は棒ヅカヒなど稱へり奉仕者は凡て齊戒を怠らず行事の始め獅子頭に神降しの儀ありてすり出しを、ぶつ揃ひと稱ひ神職家の庭前に參集し途中行列の道樂を街道下り又はヌリ込みなどいへり神社の廣前には御幣掛女獅子ガクシ橋掛雨乞掛など行はれ其他寺堂村役人の庭上にも行はる、歌に切唄ほめ唄の二種あり何れも里謡の一種にして唄樣は謡曲の節に似て頗る古風の音調なり獅子舞は祭日の夜半を告げ之を千秋樂といふ獅子頭神昇げの儀、奉仕者の「胴上げ」(胴上げとは大衆掛聲勇ましく三度奉仕者の體を捧げ持つ儀なり)りて年番の引繼など古式の作法ありて一同退散す獅子舞は洵に當社祭典の骨子にして信仰と餘興とを兼ねたる貴重の行事として行はる
 
  本殿の右側奥にある庚申塔・大黒天等の石碑     社殿右側に祀られている石祠群・詳細不明。
        
                   境内の一風景

『大里郡神社誌 諏訪神社条』には気になる記載があり、「氏子内の習俗」の項で、それによると、由来は詳らかではないが、氏子内一般に、正月に門松を立てない習俗があるという。
これは熊谷市妻沼聖天院(聖天様)がその昔、太田の呑龍様との喧嘩中、松の葉で右目を松葉で突かれ、それからは松が嫌いになり、ゆえに妻沼十二郷の人たちは松を忌んでいて、正月に門松を立てることはないという話を彷彿させる習俗である。この深谷市上柴地域は、決して妻沼に近くはないが、かといって遠すぎる距離でもない。何か関連性があるのだろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「楡山神社HP」
    「深谷市自治連合会 上柴支会HP」「境内案内板」等

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原郷愛宕神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市原郷2031
              
・ご祭神 火産霊神
              
・社 格 旧原ノ郷村木之本鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭 415日(*大里郡神社誌には43日)              
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1943039,139.3012449,18z?hl=ja&entry=ttu
 旧郷社・熊野大神社一の鳥居が立つ場所から旧中山道を西方向に750m程進むと、進行方向右側に原郷愛宕神社が見えてくる。社の西側隣で道を挟み「幡羅中学校」があり、「ヤオコー深谷国済寺店」が斜め向かい側にあるので、経路としては分かりやすい場所といえる。
        
                            旧中山道から正面鳥居を撮影
 深谷市・原郷地域は、嘗て「原之郷」とも称した。この地域は櫛挽台地北端、北流する唐沢川右岸に位置し、東は東方村、西は西島村、北は明戸村。村の南端を中山道が通り、北部を丈方川(福川)が流れる。深谷領に所属(風土記稿)。「和名抄」にみえる幡羅(はら)郡幡羅郷の遺称地とされ、幡羅郡衙の所在地とする説もある。
 別符系図(静岡県別符潔氏蔵)は藤原道宗が堀河院の時代に初めて東国に下向して幡羅太郎と称したと記し、道宗は成田助高(成田氏の祖)の父で、助高は成田大夫と称したとしている。地内に幡羅太郎館跡があり、平安末から鎌倉期にかけて当地一帯を幡羅氏が支配したといわれている。
『新編武蔵風土記稿 原ノ鄕条』
「當村は郡名幡羅の本鄕にて、【和名鈔】鄕名の部に載たる幡羅なり、【同書】郡の部に幡羅を訓して原と記せり、此唱へによりて中古文字をも原と書せしは郡中村々に藏する水帳、原郷と記せしにても知べし」

 
      正面にある鳥居と社号標柱      社叢林に囲まれている中、開放感もある境内
        
                     拝 殿
 愛宕神社
 楡山神社の摂社であり、同一の氏子によって護持されてゐる。旧中山道に面し、江戸時代までは八町八反の広大な社叢をもち、火防などの信仰がある。
 例祭は4月15日。
 鎮座地の小字 木之本は、大字原郷東部の台地地帯である。この台地の北辺には、西は楡山神社付近から東隣の大字東方(ひがしがた)一帯にかけて市内最大の古墳群である木之本古墳群が分布してゐる。その中心地域が木之本であり、今も比較的古墳の保存状態が良い地域である。古墳の古語の城()から「きのもと」の地名となったといふ人もあるが、明治末の氏子区域図によっても、この地は愛宕林のほか、民家を包むように広大な樹林が広がる地域であり、木の豊かな里であったと言へる。  愛宕林と呼ばれた八町八反の社叢は、明治以後は、上地-裁判-敗訴-買戻-資金返済のための開墾-一部に兵器工場の設置-農地解放-一部に新制中学校設立-新興宅地化といふ経緯をたどった。
                                   「楡山神社HP」より引用
*現在は楡山神社の総代・奉賛会が原郷愛宕神社の運営を兼ねているという。
       
             拝殿の左右にある社号標柱(写真左・右)
 拝殿右側の社号標柱に「火之神」とあるように、この社は火防の神として信仰されていて、ご祭神は「火産霊命(ほむすびのみこと)」が祀られている。この地区は、「木ノ本」と呼ばれているが、江戸時代まで「愛宕林」と呼ばれていて、当社の広大な社叢があったことに由来しているという。
『大里郡神社誌 愛宕神社』にも、その境内の規模に関して以下の記載がある。
幡羅郡原ノ鄕村字木の本に鎭座し給ふ創立年代詳かならざれども一に仝所字八日市に鎭座せる大鎭守延喜式楡山神社の攝社に座坐し小鎭守として奉祀せるものなりと云傳ふ、元祿十一年寅十一月村方書上帳に愛宕宮一ヶ所氏子持除地林六町とありて往古は境域廣大なりしとおもはる」
        
                     本 殿
       
         社殿右側にひときわ目立つクスノキの巨木(写真左・右)
          巨木と書いたが、ご神木といっても良いくらいの威容。
    特に根元部が異様に張り出し、社殿を囲っている垣根に亀裂が走っている(写真左)。
 大いなる自然の力の前には、如何に現代の技術によって発展した我々人類も敵うわけはないのだ。
 
   境内右手にある社務所らしき建物         境内東側に祀られているお地蔵様
 
 旧中山道沿いで鳥居の近郊にある「芭蕉句碑」    正面鳥居の左側に祀られている石祠
                              詳細不明
        
                              旧中山道からの風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」大里郡神社誌」「楡山神社HP」等

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西島稲荷神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市田所町222
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧西島村鎮守 旧無格社
              
・例祭等 祈年祭 二月初午日 例祭 113日 新嘗祭 1128
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1924874,139.2758131,18z?hl=ja&entry=ttu
 JR高崎線深谷駅南口のすぐ南側に瀧宮神社が鎮座しているが、その社に沿って上唐沢川沿いの遊歩道を西へ300m程歩いて行くと、進行方向正面左側の小高い丘上に西島稲荷神社が鎮座している。
        
                                  
西島稲荷神社正面
 西島稲荷神社は櫛引台地の北端部に位置する。鎮座地のある西島は、『新編武蔵風土記稿 西島村条』に「元深谷宿の内なりしが、正保(一六四四-四八)の改以前に別村となれり」とあるように深谷宿から分離して成立している。
 また、当社の社地は、西島のうち古くは新田町と呼ぶ所にあり、この新田町について、『新編武蔵風土記稿』では「一は深谷宿の内新田町、一は稲荷町の鎮守なり、共に村持」と記載され、また『深谷古来鑑』は「新田町元来畑の所、同年(慶安四年・一六五一)割替り申候」と、当所が嘗て畑地であったことを記している。
        
                  西島稲荷神社参道
 参道沿いに立ち並ぶ奉納された朱塗りの幟(のぼり)旗が印象的。これら多くは地域の信者の寄進によるものだろう。このような幟は、日本では独自の心理的効果を上げる目的で神社仏閣、宗教施設などに多く設置されている。
        
                   鳥居の右側に設置されている「
稲荷神社誌」の石碑
        
                     拝 殿
 稲荷神社誌
 當社は深谷町西島元西に鎮座し祭神は畏くも倉稲魂命であらせられ、神體は唐櫃入神鏡一面と金幣一體とである。其の創立の年代は詳でないが、大里郡神社誌に依れば舊來氏子に岸井友衛門といえる武士ありて壽永年間岡部六彌太忠澄に随身し一の谷に戦死したといい、當社はこの岸井氏の祖先の勧請にかかり山城国伏見稲荷の御分祀であると傳えられている。尚、社側に聳ゆる御神木の欅に徴し又町内随一の形勝ともいうべき臺地の杉林中に建てられたことや、古来村鎮守とか西島稲荷大明神などと稱え來ったことから推して、其の創造が如何に久しきかを知ることが出来る。恒例の祭日は例祭十一月三日、祈念祭二月初午日、新嘗祭十一月二十八日、小祭は四月三日である。當社の社殿より階段に連なる鳥居や御神燈は霊験のあらたかさと信者の赤誠とを物語っている。又昭和七年唐澤堤から設けられ、ついで氏子の奉仕による境内の新装成り。何人も遥に赤城の霊峯を仰ぎつつ、春は長堤の櫻花に英気を養い、夏は由緒深き聖境に心身を浄化し、普く神徳に浴することを得るに至った。殊に昭和九年より開かれた参道は、昭和八年竣功を遂げた元宮橋と相俟って参詣者にこよなき利便を與えている。實に神威は無窮である。
                              「
稲荷神社誌」の石碑文より引用
 
 拝殿に掲げてある「西島稲荷神社」の扁額           本 殿
       
               本殿右側で、上唐澤川沿いに屹立するご神木(写真左・右)
        
                   拝殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内石碑文」等

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熊井毛呂神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町熊井1742
             
・ご祭神 大己貴命 天之穂日命
             
・社 格 旧熊井村産土神 旧村社
             
・例祭等 例大祭(熊井毛呂神社屋台囃子)7月第3土・日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9803065,139.32176,16z?hl=ja&entry=ttu
 鉢山町役場西側にある通称「椎ノ木通り」を800m程北西方向に進むと、丘陵地斜面上に熊井毛呂神社の鳥居が見えてくる。大豆戸三島神社からは北西方向で直線距離にして1㎞程しか離れていない。熊井地域の集落から離れた丘陵地の外れにひっそりと鎮座していて、まさに地域の産土神の如き社。
 駐車用専用スペースは周囲にはなく、鳥居のすぐ東側に1台分駐車可能な路肩があるのみ。そこに停めてから参拝を行う。
        
                  熊井毛呂神社正面
 熊井毛呂神社は、小鷹玄播が松山城落城後に帰農して当地を開拓、出雲伊波比神社を勧請して創建したと伝えられ、その年代は旧別当寺西福寺の開創と同じ慶長年間(1596-1615)前後と推定される。下熊井地区の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年(西福寺が別当を務めていた)日枝神社・山神社を合祀している。
              
                                                                    社号標柱 

              鳥居前で一礼してから参拝スタート。 舗装された参道を登るように進む。 
 参道は当所南方向に進むが(写真左)、途中から右方向に曲がるように進路が変わる(同右)。何か地形上の関係で参道の方向が変わるのか、とも考えたが、より深く考えてみると、参道正面延長線上に社殿を配置すると北向きとなるので、一旦参道を右方向に変えることにより、東向きにしたのではなかろうか。あくまでも筆者独自の憶測の域ではあるが。
        
                                     境内の様子
 下熊井の産土神的な社。参道の周囲が鬱蒼とした森を進む中、しっとりとした雰囲気の中、社殿に近づくにつれて、自ずと厳粛な気持ちが湧き上がるのを五感で感じる取ることができる。
        
                奥ゆかしい雰囲気のある拝殿
 毛呂神社 鳩山町熊井一七四二
 当地は、岩殿丘陵の南西部に位置し、中央部を鳩川が流れる。中央南部の丘陵上に鎮座するのが当社である。一帯は、大久保加賀守配下の小鷹玄播が松山城落城後に帰農して開いたとされる。平地が少ないため、当時は丘陵斜面を利用した焼畑耕作が主で、水田に転作する際には、最も良さそうな地を開いて平地に居住し始め、村として形を整えた。旧名主家の小鷹進家の伝えでは、先祖が名主になったのは玄幡の帰農後、比較的早かったというから江戸初期であろうか。
 当社の創建は、入間郡毛呂の臥龍山に鎮座する出雲伊波比神社の祭神大己貴命と天之穂日命の分霊を勧請したことによると伝える。別当の西福寺が元様八年(一六九五)と文化元年(一八〇四) の二度にわたり火災に遭い焼失したため、旧記・記録類が残っておらず、詳細は不明である。『風土記稿』熊井村の項に、「毛呂明神社 村の産神なり」と記されるのみである。西福寺は、開山の堯栄が慶長年間(一五九六-一六一五)の示寂と伝える真言宗の寺院である。
 明治四十年四月に、日枝神社と山神社を合祀した。日枝社は『風土記稿』に「山王社 慶安二年(一六四九)社領七石の御朱印を附せらる」と記され、地内では大きな社であった。合祀後、空になった同社の社殿は社務所に利用されている。ただし、昭和五十五年ごろに公会堂を建設してからは、祭典後の直会を公会堂で行うようになった。
                                  「埼玉の神社」より引用


 鳩山町周辺には、小鷹(オダカ)姓が現在でも多く存在しているという。由緒によると、「小鷹玄播」なる人物が松山城落城後に帰農して当地を開拓し、出雲伊波比神社を勧請して創建したとされているが、元々この地域出身の土豪と解釈すれば、他地方出身者として、わざわざ苦労して幾多の候補地からこの地域を選び、開拓をする心身的な苦悩をする必要はない。

    拝殿の手前で左側にある神楽殿        「毛呂神社屋台囃子」の案内板
 町指定無形文化財 毛呂神社屋台囃子
 年代は詳らかではないが、この屋台囃子は悪魔退散、無病息災を願い創始されたと云われ、群馬県世良田より八坂神社の分身を勧請したのが始まりとされる。七月の例大祭には氏子の安全と繁栄を祈願し、囃子が奉納される。雅子は、「太鼓」「あたり鉦」「笛」、踊りには、「仁羽」「屋台」「数え唄」「子守唄」「祇園囃子」「鎌倉」「昇殿」「四丁目」などがある。現在、保存会を結成し伝統芸能の継承に努めている。
 昭和五二年五月一八日指定 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用
  
             本 殿                       拝殿左側に鎮座する境内社          
                      左側から稲荷社・天神宮。一番右側の石祠は不明 

    拝殿右側にも境内社が鎮座しているが(写真左・右)、どちらも詳細は不明だ。
       「埼玉の神社」では、明治404月に、日枝神社と山神社を合祀したという。
             これらの二社はそれらどちらかであろうか。

       
                 参道から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等        
  
 
 

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深谷市・唐沢川の桜堤を楽しみました。

 411日 深谷市 唐澤川沿いの桜見物に行きました
 この「唐沢川の桜堤」は、深谷一番の桜の名所で知られています。
 JR高崎線・深谷駅沿いの唐澤川沿いに約3㎞も続く両岸の桜並木は、一見の価値があります。実父の月命日を終えた後に桜見学に行った為、夕方の散策となり、さすがに3㎞の桜並木全てを見ることは出来ませんでしたが、瀧宮神社周辺の桜見物を家族で楽しみました。
        
                 
まずは瀧宮神社の参拝。
        
             相変わらず見事に社は整えられています。

           瀧宮神社参拝後、唐澤川沿いの桜見物に行きました。
        
        
        
 当日はあいにくの曇り空で、平日でしたが、桜見物の人が思った以上にいまして、桜を見ながら散歩を楽しまれているようでした。
 残念ながら満開の時期は過ぎて、所々に新緑が芽吹いている桜もありまして、来年こそは満開の時期で、「ふかや桜まつり」が開催される日に参加して桜見物を楽しみたいと思います。




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