古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

おくま山古墳


        
            ・所在地  埼玉県東松山市古凍86
            ・形 状  帆立貝形古墳
            ・規 模  墳丘長62m。後円部径40m・高さ7.0m、
                  前方部幅20m・高さ1.5m
            ・築造年代 六世紀前半(推定)
            ・指定日  昭和46年(1971年)64日(東松山市指定文化財-史跡)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0194596,139.4279718,17z?hl=ja&entry=ttu

 おくま山古墳は、国道254号線と埼玉県道27号東松山鴻巣線が交わる「柏崎」交差点の約200m東に位置している。埼玉県道27号東松山鴻巣線から国道に合流する約100m手前には「おくま山古墳」の標識が見えるので、すぐ先の路地を左折する。道幅の狭い道路に変わり、300m先の路地を右折、その後200m程南下してからT字路を右折してから暫く進むと右側におくま山古墳の案内板と鳥居が見えてくる
「柏崎」交差点の東側200m程しか離れていないが、進路を説明するとこのようなややこしくなってしまうのは、この交差点から直接古墳に進む単純な道がなく、上記のように右回り方向に進むか、又は国道254号線を直進してから左斜め方向に進む道を進んでから、その先の変則的なT字路を左折、北上し、その後左方向に進むルートの2パターンしかないためである。筆者が紹介したルートは県道沿いに「おくま山古墳」の標識もあったので、今回はそのルート紹介をしたが、国道からアプローチするほうは距離的には短いし、決して難しくないので、もし行く機会があった場合は、どちらでも良いので是非お試しして頂きたいと思う
        
                  おくま山古墳正面
 おくま山古墳は都幾川と市野川に挟まれた東松山台地の南東部で、台地が川島方向へ舌状に張り出した中央に立地しているという。都幾川と市野川が過去どのような流路であったかは、考古学的な詳しい調査が必要だが、古墳がどのような場所に築造されたかは何百年経とうが決して変わるのもではない普遍的な存在だ。謂わば古墳は「生きた歴史の証人」ともいえよう。
        
                           「市指定史跡 おくま山古墳」の標柱
        
                     案内板
 東松山市指定文化財
 おくま山古墳  昭和四六年六月四日指定
 この古墳は、都幾川と市ノ川に挟まれた東松山台地の南東部で、台地が川島方向へ舌状に張り出した中央に立地しています。周辺には円墳など十三基の古墳が残っており、柏崎古墳群と呼ばれています。この古墳を代表する古墳のひとつです。
 古墳は、丸く高い後円部(円丘)と低く裾を拡げる前方部(方丘)からなる、前方後円墳と呼ばれるものです。墳丘の規模は全長六二m、高さ七m、この周りに幅が広い濠(約一〇m、深さ一.七m)が巡らされ、現在でもその西側には、濠跡が窪んでみえています。 昭和六一年と平成七年の二回、濠の部分の発掘調査が行われ、人物埴輪(盾持ち人四体)や円筒埴輪が出土しました。盾を構えて立つ武人の埴輪は、この古墳に葬られた主人を守っていたと考えられます。
 平成七年の調査では、群馬県榛名山二岳の噴火による火山灰が、古墳を巡る濠跡に薄く積もっていたことが確認されました。この火山灰は六世紀のはじめ頃、関東の南東地域に広く積もったことがわかっています。 この火山灰や出土した埴輪などから、この古墳が造られたのは、六世紀はじめ頃までと推定されています(以下略)
                                        案内板より引用
        
             鳥居を過ぎると真っ直ぐな参道が続く。
        
       参道の先はおくま山古墳の墳頂部にあたり、古凍熊野神社が鎮座する。
 古凍熊野神社の創建年代等は不詳ながら、「須長家由緒書」によれば、家督を譲った須長長春が孫の義清を連れて古氷村に移り住み、義清は古氷定右衛門尉と名乗り、村の鎮守として熊野大権現(現在須長一族の氏神)と鷲宮大明神(当社)を勧請したという。

「おくま」という名称由来は、当所全く分からなかったが、古墳墳頂に鎮座している社が古凍「熊野」神社であり、この古墳の別名も「熊野神社古墳」というところから、
「おくま」⇒「①おん+②くま」
敬意やていねいさを表す接頭辞である「御(おん)」の省略形。
熊野神社の頭字である「熊」。
 ではないかと勝手ながら推測した。
        
                後円部から前方部を撮影

 東松山市には古墳時代に築造された古墳が多数確認されている。その多くは高坂台地・松山台地・大谷丘陵地に築造されている。東松山市を含む比企丘陵地内には、北武蔵のなかでも古墳遺跡の多いところで、北埼玉や児玉地方とともに古墳時代には北武蔵のなかでも古くから発達した地域であった。多くは10m30m程の小古墳であるが、その中にあって大型と言われる古墳もある。
野本将軍塚古墳 前方後円墳  全長115m。後円部の高さ15m、前方部の高さ8m
雷電山古墳   帆立貝形古墳 全長85m。高さ7m、後円部径73m、前方部幅39m
諏訪山35号墳  前方後円墳   全長68m。後円部径40m・高さ9m、前方部幅30m
おくま山古墳  帆立貝形古墳 全長62m。後円部径40m・高さ7.0m 前方部幅20m
天神山古墳   前方後円?  全長57m。後円部高さ2.4m 前方部高さ1.4m

 これらの古墳は台地・丘陵地上に築造されているケースが多いが、何よりも「河川」に近い場所に古い古墳は造られている。筆者の勝手な推論だが、嘗て東京湾から荒川の支流を遡った集団がいた。東海地方(現在の岐阜、愛知、静岡)の集団が、小さい舟に乗って東京湾に入り、荒川を遡って、更にその支流を遡って居を定めたのではないだろうか。そこが小規模ながらまとまりのよい耕地を見つけることができる場所だった。

 というのも比企地域に築造された前期古墳はふじみ野市の権現山古墳や東松山の根岸稲荷神社古墳ら「前方後方墳」であるが、この「前方後方墳」の起源は東海地方であるという。
 また東松山市内の柏崎地域、及び五領町、若松両地域内に発掘された「五領遺跡」で発掘された土器から、また古墳時代前期に県内最大規模の集落だった反町遺跡からは、東海地方で作られた外来系土器などが水運を通じて搬入されていて、東海地方や西日本の影響が強く反映されて成立したと考えられている。

 移動手段として「船」の活用はある程度の集団ならば、陸上より容易であるし、食料等の運搬も遥かに便利である。当時の船がどの程度の技術であったかは別問題として、現代の我々が考えている以上に海上や河川を利用した移動・運搬・交易は盛んであったと考えられる。
 さて真相や如何に。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「東松山市HP」「埼玉の神社」「Wikipedia」「現地案内板」等
             

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今泉鷲神社


        
              
・所在地 埼玉県東松山市今泉278
              
・ご祭神 日本武尊(推定)
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0110294,139.4341625,18z?hl=ja&entry=ttu
 古凍鷲神社から一旦県道、国道254号線へと戻り、そこから国道を川島町方向に東行する。
650m程進み、「流通センター入口」交差点を右折し、更に200m程先のT字路を右折すると「今泉公会堂」が右側に見えるが、その北側に隣接して今泉鷲神社の社叢林が目視でも見えてくる。
 今泉公会堂には駐車スペースも数台分確保されていて、そこの一角に車を停めてから参拝を行った。
               
               
正面鳥居の右脇にある社号標柱
 正面にある鳥居は残念ながら改築中でネットが一面張り巡らされ、撮影することができなかった。
 昭和の初め頃はこの一帯は一面うっそうと山林が広がり、氏子からは「鷲山」と言われていたという。当時当社を管理していたのは真言宗鷲宮山宝蔵寺で、「鷲宮山」と号していた。明治の初めの神仏分離令により宝蔵時からわかれ、明治の終わり頃に今泉村村社になった。
 今泉・古凍・柏崎地域には鷺・鷲神社が3社、比較的隣接して存在する。創建由来はそれぞれ不明ながらも当地域では必要な事象等あったのであろう。
        
               社叢林の中に鎮座する今泉鷲神社

 古凍地域に古くから伝承されている祭りに「古凍祭ばやし」がある。
・ 指定日 
昭和55年(1980年)110(東松山市指定文化財-無形民俗)
 囃子には江戸時代から演奏されていた古囃子と、明治初期に演奏技術の変革が行われて以降の新囃子とがある。明治30(1897)代は古囃子が盛だったがその後中断し、昭和3(1928)頃、吉見町の飯島新田地区で伝承されていたものが川島町の小見野神楽連を経て伝えられ復活した。明治の頃使われていたと思われる太鼓が残っており、墨書きから「東京浅草区亀岡町」の太鼓商「高橋又左衛門重政」の太鼓であることが分かる。太平洋戦争中は10年ほど中断し、昭和23(1948)に復活した。昭和29(1954)には屋台が新調されたが、昭和35(1960)頃になると字内を貫通する川越-熊谷線の交通量が激しくなり、屋台の曳き廻しは中止、根岸地区とのひっかわせも断念(根岸地区も屋台を所有していた)することとなった。現在は屋台を所有せず、トラックで代用している。地元鷲神社の祭礼の他に、今泉の鷲神社祭礼でも演奏を行っている。
・上演日
 415日に近い日曜日(お獅子渡御祭・おしっさま)
 715日に近い日曜日(神輿渡御祭・天王様)
        
                                     拝 殿
 鷲神社 東松山市今泉二七八(今泉字東町)
 今泉の名は『小田原衆所領役帳』に見え、弘治元年(一五五五)に検地が行われたことがわかる。このころには既に村落が形成されていたものであろう。
 当社の社叢は、今でこそ境内を覆うだけのこぢんまりとした杜であるが、昭和十年ごろまでは、その周辺一帯にまで広がる山林で松や杉の大木が林立し、氏子から「鷲山」の名で呼ばれていた。
 社伝によると、当社は大永二年(一五二二)に鷲宮町の鷲宮神社から勧請したことに始まり、その後、天和元年(一六八一)をはじめとして江戸期に五度の社殿造営を行ったという。『風土記稿』にも「社内に天和元年の再興の棟札あり」と記されている。享保十二年(一七二七)には、宗源宣旨により正一位の神位を授けられた。
 往時の別当は、真言宗鷲宮山宝蔵寺である。開山の忠祐が天正二年(一五七四)に示寂していることから、当社と同じころに創建されたものであろう。
 明治初年の神仏分離により宝蔵寺の手を離れた当社は、明治三十二年に村社となった。
 神仏分離の後、神職は野口儀助・沢田豊・沢田豊行と継いでいる。
 なお、隣村の古凍でも鎮守に鷲神社を祀っており、当社の創建と何らかのかかわりがあると考えられる。
                                    「埼玉の神社」より引用

今泉村  
鷲宮
「村の鎮守なり、勧請の年代詳ならず、社内に天和元年再興の棟札あり、寶蔵寺持」
寶蔵寺
「新義真言宗、横見郡御所村息障院末、鷲宮山と号す、開山忠祐天正二年の示寂といふ、本尊は薬師を安ず」
                                『新編武蔵国風土記稿』より引用

 

    
拝殿の左側に鎮座する境内社      拝殿右側に鎮座する御嶽山・八海山・三笠山
      
大六天神社の石祠等               並びに板石神群


参考資料「新編武蔵風土記稿」「高坂丘陵ねっと」「埼玉の神社」等
 

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古凍鷲神社

 8世紀初頭制定の大宝律令(たいほうりつりょう)により「郡(ぐん)」と言われる地方行政区画は定められた。この「郡」は「こおり」とも読む。行政単位として国の下にあり,郷,里,村などを含む区画である。施行自体はそれより50年ほど前の649年から「評(ひょう・こおり)」制が施行されていたのは,木簡(もっかん)などの史料から明らかであり、701年の大宝(たいほう)律令施行により郡制に改編され成立したと考えられる。
 9世紀頃から律令法制と社会実情が次第に乖離していき、同世紀末には律令規定に基づく地方統治が困難となると、10世紀以降、郡司の支配の変質、荘(しょう)などの増加によって、地域名化していった。16世紀の太閤(たいこう)検地によって、郡は諸村を統轄するものとされ、江戸幕府も郡名の復旧に務め、これを継承した。
 1921年(大正10)郡制の廃止が決議され、郡は行政区画としてのみ現在も存続している。
        
              
・所在地 埼玉県東松山市古凍499
              
・ご祭神 天日鷲命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 415日に近い日曜日(お獅子渡御祭・おしっさま)
                                   715日に近い日曜日(神輿渡御祭・天王様)
                   例祭 1014
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0189521,139.4331192,17z?hl=ja&entry=ttu
 柏崎鷺大神社から一旦南下して国道254号線東松山バイパスに合流した後、川島町方向に東行し、「古凍」交差点を左折する。埼玉県道345号小八林久保田青鳥線を350m程進んだ十字路を左方向に進路を変えてそのまま道なりに進むと古凍鷲神社の赤い鳥居が見えてくる
 鳥居を過ぎた参道の先には「古凍公民館」もあり、その東側には広大な駐車スペースも確保されているので、駐車場の心配は全くない。
        
               境内前に設置されている社号標柱

 柏崎から古凍地域は東松山台地の南東、西に都幾川、東に市野川を望む広い沖積地の中央に大きく突出した舌状台地上に位置し、また市野川に沿って舌状に延びた台地であり比高が高いので、市野川等が氾濫をおこしてもその被害は決して甚大ではないので、堤防等も設けられていない。その地形的な利便性もあり、古凍柏崎古墳群、古凍遺跡等が点在するなど早くから先人によって開拓された地味肥沃な畑地帯であったようだ。
古凍古墳群
 埼玉県東松山市古凍にある古墳群で、松山台地突出部に構築された古墳群で12基が現存している。早くからその所在が知られていたが、耕作などにより多くの古墳は削平され、墳丘の残っている古墳はカンベ塚古墳をはじめ9基である。かつては北部に展開する柏崎古墳群と一括して「柏崎・古凍古墳群」と呼んでいたが、発掘調査が進むにつれ両者の質的・年代的な差異が明らかにされ、それぞれ別の古墳群として扱われるようになった。
古凍4号墳
 直径約30m・高さ5mの円墳。古墳群内で現存する最大の古墳である。1994年(平成6年)、東松山市遺跡調査会により東側の調査が行われた。周溝は隣接する3号墳を避けるようにして造られ、一部を掘り残した歪んだ形をしている。また、築造時の墳丘は直径42メートルあったと推定されている。周溝の途絶部分からは4基の土坑が発見され、鉄製壺鐙、環状鏡板付轡、鞍金具などの馬具が出土した。これらの土坑は6世紀末から7世紀初頭にかけて造られたと考えられる。
 土坑出土の馬具は、2002年(平成14年)322日付で県指定有形文化財に指定された。
県指定有形文化財 古凍4号墳内土壙出土鉄製壺鐙及び馬具
 6世紀末から7世紀初頭(古墳時代後期)の馬具で、鉄製壺鐙は県内初の出土例です。鐙とは馬具の一種で、鞍の両脇にさげて足を乗せるものです。輪鐙と壺鐙があり、壺鐙は足先の覆いをつけたものになります。これは、完全な形を留めた優品で、当時の金工技法・技術を知る上でも学術的価値の高いものです。これらの馬具は、古凍4号墳の周溝のすぐ外側に作られた土壙より出土しました。土壙は3基掘られており、それぞれに馬具が納められていました。馬の骨や歯は出土しませんでしたが、古凍4号墳の被葬者の持ち物であった馬とともに葬られた可能性もあります。

        
                           正面古凍鷲神社の赤い両部鳥居
 
鳥居の社号額には「正一位鷲宮大明神」と表示    社の境内は広大で、日頃の手入れも
                            行き届いているようだ。
        
             駐車スペースに設置されている
『野本東部土地改良事業完成記念碑』

『野本東部土地改良事業完成記念碑』
 本野本東部土地改良区は、松山台地の東端に位置し、古凍柏崎古墳群、古凍遺跡等が点在するなど早くから先人によって開拓された地味肥沃な畑地帯であり、大字古凍・今泉・柏崎・下野本及び吉見町大字江綱からなる総面積百二十ヘクタールに及ぶ地域である。
 畑作は桑・麦・野菜・果物を主体とし、農業経営も畜力から動力へと移行し、近年は大型機械の導入により近代化が普及し農産物の増産に精進してきたところであるが、農道網は狭小屈曲にて大型機械の侵入困難や利便性に欠け、区画も不整形にて高能率が図れない状況にあった。
 この旧態依然である有様を憂い、農業基盤整備の機運が高まり市の指導のもとに昭和五十二年に調査計画を樹立すると共に、非農家への事業参加の啓蒙を図り、同五十三年農林水産省補助事業として団体営土地改良総合整備事業の採択を得ると共に、土地改良区の設立を行い、同年総合的な農業基盤の整備として非農用地(宅地・原野・山林等)まで地区に取り込み生活環境面も配慮した一体的な基盤整備として工事着手し、以来九年の歳月を経て完成し、同六十三年登記完了に至った。(以下略)
                       『野本東部土地改良事業完成記念碑』より碑文引用
       
拝殿の手前には高く伸びて枝葉を大きく伸ばしたご神木のケヤキが聳え立っている(写真左・右)
        
                     拝 殿
 鷲神社 東松山町古凍四九九(古凍字宮前)
 古凍は古氷・古郡とも書き、比企郡の古の郡家の地であったのでこの名が起こったとみられる。
当社の創建は、社伝によると治承二年(一一七八)十月十四日に鷲宮町鷲宮神社から勧請した。 その後、文治年間(一一八五~九〇)に本殿を建立し、貞和二年(一三四六)に覆屋を造営した。
 一方、大里村相上の吉見神社社家である須長家の先祖が、寛永二年(一六二五)に著した「須長家由緒書」によれば、家督を譲った須長長春が孫の義清を連れて古氷村に移り住み、義清は古氷定右衛門尉と名乗り、村の鎮守として熊野大権現(現在須長一族の氏神)と鷲宮大明神(当社)を勧請し、更に菩提寺として慈雲寺を建立したという。「同家系図」の代々の没年から推すに、その年代は室町時代の中期と思われる。社殿にある治承二年とは三〇〇年余の隔たりが見られるが、あるいは衰微していた当社を同家で再興したことを示すのかもしれない。
『風土記稿』は、慈雲寺持ちの社として「鷲明神社 村の鎮守なり」と載せる。文化三年(一八〇六)には、正一位の神位を拝受した。
 明治初年の神仏分離により慈雲寺の手を離れた当社は、神職の吉本良之進が代わって祭祀を司るようになった。更に明治三十年代から澤田家がこれを継ぎ、光行・豊・豊行と三代にわたって奉仕している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 大里村相上の吉見神社社家である須長家は、大里郡神社誌に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」と毛野氏の祖・崇神天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の後裔御諸別王(みもろわけおう)から続くと云われている東国きっての名族である。
「相上村神明社神主須長家由緒書」にはその須長氏が古氷鷲神社の創建に関与した記述がある。
須永上野大掾藤原長春と云人あり、長男須長播磨守善長(永徳三年(1383)生、文明四年(1472)没)に男子四人ありしを、惣領長清には七百五十貫の神領を譲りて神主職とし播磨守と名乗らせ、其身は二男義清を連れて古氷定右衛門尉と名乗る。古氷村の鎮守熊野大権現・鷲宮大明神は、その勧請なり」
        
                 拝殿に掲げてある扁額
        
                  拝殿の手前で左側には境内社・合祀社等が祀られている。
        
                               
古凍鷲神社合祀社
         左より稲荷神社・八幡神社・諏訪神社・熊野神社・天神社
 
         合祀社の左隣に並んで祀られている石祠2基。詳細不明。
「新編武蔵風土記稿」には
「鷲明神社 村の鎮守なり、當社及下の三社共に慈雲寺持、諏訪社、川王社、御霊社」と記載され、諏訪社は合祀社で祀られていることから、残りの川王社・御霊社なのであろうか。
        
                         拝殿側から見た
古凍鷲神社の一風景

「古郡」という地名は、埼玉県内、特に北部に多数存在し、その地域によって「古氷」・「古凍」とも表記する場所もあるようだ。地名由来として律令時代の郡家(郡役所)があったとか、武蔵七党猪俣党の一族である古郡氏、丹党中村時経の子時員が古郡左近入道と称したこと等、幾つかの説が唱えられてはいるが、決定的な確証があるわけではない。比企郡にも所在する「古凍」にはどのような歴史的経緯でつけられた地名であろうか。興味は尽きない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「相上村神明社神主須長家由緒書」「大里郡神社誌」
    「日本歴史地名大系」「東松山市HP」「Wikipedia」「境内記念碑文」等 

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柏崎鷺大神社

 東松山市内の柏崎地域、及び五領町、若松両地域内に発掘された「五領遺跡」は,面積5hrに及ぶ古墳時代の大遺跡である。
 古墳時代前期の集落址で、
1954年以来5回にわたって発掘調査され,総数 150ヵ所以上の竪穴住居址と,多量の遺物 (土器,石製品,土製品,鉄器など) が出土した。出土した遺物のなかには,従来未知の古墳時代前期の土器が存在し、遺跡にちなんで五領式土器と名づけられた。竪穴住居址は,古墳時代前期から奈良時代まで各時期のものがすべて含まれていて,古墳時代の竪穴住居の構造と集落形態の変遷が具体的に把握できた。五領式土器を出土する竪穴住居址は,中央の広場を囲んで計画的に配置され,農業共同体の単位集団が初めて明らかにされた。また鬼高式土器を出土する古墳時代中期の竪穴住居址には,全てかまどが付設され,竪穴生活の発展が顕著であった。
 遺跡は未発掘の場所がまだあるが,東国の古代集落の研究に,多くの資料を提供する重要な遺跡であることは間違いない。
 「埼玉の神社」にも記されているが、柏崎地域内には、「五領遺跡」のような古墳時代初期を中心に弥生期から平安期に至る集落跡等の遺跡が確認されている。また、隣接の「古凍(フルゴオリ)」という名称自体比企郡の古えの郡家の地(古郡)であったのではないかと推測され、当地同様に多くの遺跡が発見されている。これらは、当地の古い開発を示すと同時に、この地域の文化面及び経済面においても中心地であったことが想像できよう。社伝に祀られる以前から、古代の人々によって祭祀が営まれていたものであろう。昭和五十一年本殿改築の際に床下から発見され、現在本殿に神体として奉安されている大きな自然石が、このことを暗示しているのではなかろうか。
        
              
・所在地 埼玉県東松山市柏崎744
              
・ご祭神 大国主神
              
・社 格 旧村社(推定)
              
・例 祭 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0272572,139.4181091,17z?hl=ja&entry=ttu
 野本日枝大神社から一旦北上し、国道254号線「東松山バイパス」高架橋の下を潜り、突き当たりのT字路を左折する。進行方向右手にスーパー銭湯があり、その手前の路地を右折し300m程進み、更に左折すると正面に柏崎鷺大神社の鳥居が見えてくる。
        
                  柏崎鷺大神社正面
 柏崎鷺大神社が鎮座するこの地は標高30m程で、東松山台地の東方に長く張出した舌状台地の部分に位置する。東松山市内の市野川右岸に位置する柏崎、古凍、今泉各地域には、通常埼玉県東部に鎮座している鷲・鷲神社が飛び地のように3社珍しく分布している。
 
         石製の鳥居           鳥居の社号額には「鷺大神社」と表記
        
                             参道の様子
               境内は日々の手入れも行き届いていて、さっぱりとした第一印象。
        周囲には民家も少なく、静かな境内。どこか牧歌的な雰囲気もある。
        
        参道を進むと拝殿手前で右側に「鷺大神社御造営記念碑」が設置されている。

「鷺大神社御造営記念碑」
 鷺大神社は當所柏崎鎮守にして大国主神を主祭神と齋き奉る古社なり むかし 天神あまねく民を慈み給い医薬の道を弘め給い謙譲忍耐和衷協同もって国土を開拓し民生を安んじ給えり されば萬人齋しく神徳を景仰する中にもわれらの祖先はこの地を神奈備と定め社殿を造営して代代祭祀怠(むす)厚き神(護)の下孜孜として村づくりにいそしみ来れり
 爾来幾星霜社殿の毀損老朽甚しく再建の議澎拝として起る 時あたかも天皇陛下御在位満五十年に當り佳辰を奉祝して社殿及び社務所再建を決議す
 即ち昭和五十一年四月三日假遷座祭及び起工式を執行同年十一月二十一日竣功同夜浄〇の禮に壮麗清〇の社殿に神霊を奉安翌二十二日奉祝祭を執行す
 思うにこの御〇〇は神社神道の根本義たる敬神崇祖尊皇の精神を遺憾なく発揚せる當代氏子の快挙と謂うべし
 仍って茲にその梗概を誌し永く後世に傳えんとするものなり(以下略)
                                                      「鷺大神社御造営記念碑」碑文より引用
*御影石の光の反射等の影響で解読不可能な所には〇、ないしは( )を付けています。
ご容赦の程を願いたく思います。旧字体はそのまま記しています。

 流石に埼玉県神社庁長が選文した文章は美しい日本語を用いて記されている。中には旧字体もあり、現代を生きる筆者の拙い語学力では到底理解できない所もある。難しい単語には一々辞書等で確認をしたので時間がかかる作業であったが、「一音・一義を大切にする」日本語の奥ゆかしさを改めて知る良い機会ともなった。

 ところで選文した文章の中には、難しい単語が幾つかあり、後学のためこの場を借りてご説明する。
澎拝(ほうはい)
 ・水がみなぎり逆巻くさま ・ 物事が盛んな勢いでわき起こるさま
孜孜(しし)として」
 ・学問、仕事などにいっしょうけんめい励み努力してやすまないさま
 ・怠けないで熱心につとめるさま
佳辰(かしん)」
 ・めでたい日のこと。よい日柄。吉日
「假遷座祭」
 ・神社で一定の年数を定めて、新殿を造営し、旧殿の御神体をここに遷すこと。そしてこの新殿の造営を式年造営といい、神様を修繕工事中の間別の場所へお遷しする「假殿遷座祭」を施行するのが習わしという。
        
                     拝 殿

 鷺大神社 東松山市柏崎七四四(柏崎字見入)
 東松山台地の北部を侵食して流れる市野川は、柏崎の辺りで北から東に大きく川筋を変える。柏崎の名はこのように市野川の屈曲点に当たったためにできた地形によるもので、「柏」が山麓・砂丘・自然堤防などの傾斜地を意味し、「崎」が川の屈曲点に土砂が堆積して生じた自然堤防の先頭(崎)を表している。当社の社名もこのような地形にちなんでいると考えられ、高台の「崎」に祀られた神が、後に「鷺の宮」と呼ばれるようになったのであろう。
 地内には、古墳時代初期を中心に弥生期から平安期に至る集落跡などの遺跡が確認されている。また、隣接の古凍は比企郡の古えの郡家の地であったと伝えられ、当地同様に多くの遺跡が発見されている。これらは、当地の古い開発を示すとともに、この地方の文化の中心地であったことを物語る。恐らく、社伝に祀られる以前から、古代の人々によって祭祀が営まれていたものであろう。現在、本殿に神体として奉安されている大きな自然石(昭和五十一年本殿改築の際に床下から発見された)が、このことを暗示する。
 当社の歩んできた歴史を語る史料の一つに、宝暦六年(一七五六)二月一日付で神祇管領卜部兼雄から拝受した「鷺大明神幣帛」がある。この幣帛を受けるに際しては多額の金品を要し、村を挙げてその拝受を祝ったと伝えられている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    「鷺大神社」と記された扁額               本 殿
        
 参道を進み、拝殿手前で南側から社殿に通じる参道があり、そこには正面参道とは違う古い社号標柱や木製の鳥居が設置されている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「ブリタニカ国際大百科事典」
    「境内記念碑文」等
 

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野本日枝大神社


        
              
・所在地 埼玉県東松山市下野本906
              
・ご祭神 大山咋命
              
・社 格 旧中妻鎮守
              
・例 祭 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.020192,139.4194096,17z?hl=ja&entry=ttu
 野本利仁神社同将軍塚古墳から埼玉県道345号小八林久保田青鳥線を東行し、「中妻」交差点の次のT字路を左折し北上する。260m程進むと路面は上り坂となり、「無量寿寺」の看板が見える三叉路に達するので、そこは一番右側のルートを進む。左手方向に注意しながら進むとすぐに左折する道幅の狭い道路が見え、その道路横に野本日枝大神社の朱の鳥居が見えてくる。
 左折した先で、社に隣接している「中妻公会堂」があり、そこには駐車できそうな僅かなスペースもあるので、通行車両の邪魔にならない場所に停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
                              住宅街の中に鎮座している社
 低地の多い東松山市下野本地域でありながら、県道沿いの標高が19m20m程に対して、社周辺は29m程の標高となっている。この中妻地区から以北は一段高い場所となっていて、中妻公会堂に進む道は傾斜のある上り坂となっている。
        
                      拝 殿
     周囲は住宅が立ち並んでいるが、この社周辺はひっそりと静まり返っている。

 日枝大神社 東松山市下野本九〇六(下野本字下川入)
『明細帳』によれば、当社は下野本の小字の一つである中妻の鎮守として寛文二年(一六六二)に創建され、初め「日吉山王権現」と称した。更に、貞亨三年(一六八六)に社殿の再建が行われたという。
 天明元年(一七八一)の棟札には「別当下野本村聖徳寺」や「大願山三十三世法印舜源」などの名が見える。聖徳寺は、『風土記稿』に「元は寺と云べき程にあらざりしを、元禄十一年(一六九八)一寺となり」と記される天台宗の寺院で、『郡村誌』には既に見当たらず、明治初年に廃寺となった模様である。その跡地は、当社から南西に六〇〇メートルほど離れた所にあり、墓地が残されている。また、「大願山」とは、聖徳寺の本寺であった下青鳥村の浄光寺のことで、寺領二三石・末寺三九か寺を有する大寺であった。
 天台宗総本山延暦寺の護法神・守護神として崇められていた日吉山王権現を、同じ宗派の聖徳寺(あるいはその本寺の浄光寺)の僧がこの地に勧請したことは、十分に考えられよう。当社は聖徳寺(あるいは浄光寺)の寺領に文殊堂(当社南側にある堂)と共に祀られていたものであろうか。
 明治十年、諏訪神社・神明神社・天神社の三社が当社に合祀された。当社が合祀の中心に選ばれた理由は、水害に遭いにくい高台に鎮座していたことによるという。
                                  「埼玉の神社」より引用



 山王権現(さんのうごんげん)は日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神である。天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。
 山王権現は、比叡山の神として、「ひよっさん(日吉さん)」とも呼ばれ、日吉大社を総本宮とする、全国の比叡社(日吉社)に祀られた。また「日吉山王」とは、日吉大社と延暦寺とが混然としながら、比叡山を「神の山」として祀った信仰の中から生まれた呼び名とされる。
 入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていて、日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が唐から帰国し、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。
 音羽山の支峰である牛尾山は古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰され、日枝山(比叡山)の山岳信仰の発祥となった。また、『古事記』には「大山咋神。亦の名を山末之大主神。此の神、近淡海国(近江国)の日枝山に座す。また葛野の松尾に座す。」との記載があり、さらには三輪山を神体とする大神神社から大己貴神の和魂とされる大物主神が日枝山(比叡山)に勧請された。このようにして開かれた日吉大社は、全国におよそ3800社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮であり、同時に天台宗の護法神や伽藍神として、神仏習合が最も進んだ神社のひとつとされた

 延暦寺と日吉大社とは、延暦寺を上位にしながら密接な関係を持ち、平安時代から、延暦寺が日吉大社の役職の任命権を持つようになった。天台宗が日本全国に広まると、それに併せて天台宗の鎮守神である山王権現を祀る山王社も全国各地で建立された。天台宗は山王権現の他にも八王子権現なども比叡山に祀り、本地垂迹に基づいて山王21社に本地仏を定めた。
 その後明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、天台宗の鎮守神である山王権現は廃されたという。

           本 殿                拝殿右側に鎮座する境内社
                        諏訪神社・神明神社・天神社であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」等  

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