古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上谷氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市上谷2258
             
・ご祭神 素盞嗚尊
             
・社 格 旧上谷村鎮守 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 218日 例大祭 415日 新嘗祭 1123日
                  
大祓 1229
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0565811,139.5355908,18z?hl=ja&entry=ttu
 上谷氷川神社は国道17号線を北本市街地方向に進み、「深井」交差点を左折。700m程道なりに進むと、道路沿い左側に上谷氷川神社の社叢が見えてくる。
 正面参道の南側には適当な駐車スペースも確保されている。その一角に車を停めてから参拝を行った。
        
                             道路沿いに鎮座する
上谷氷川神社
        
                 東南方向に鎮座する社。静かな空間が辺りを包み込むようだ。
        
 参道右側には力石が3個あり、そのうち2個には奉納年、重量等が彫られている。また簡単な案内板もある(写真左)。
左側の石  「奉納宮石 四十三メ日 元禄九子年上谷村〇〇〇」
真ん中の石「奉納御宝前 元禄十四年正月吉祥日 三十四貫目上谷村」
銘 力石
奉納
元禄 9年(1696年) 重量43貫(161.25㎏)
元禄14年(1701年) 重量34貫(127.5㎏)
・徳川5代将軍綱吉の頃
・昔の人達はこのような石で力だめしをしたそうです。                   案内板より引用
        
                                 上谷氷川神社 案内板
氷川神社  御由緒 鴻巣市上谷二二五八
御縁起(歴史)
上谷の地内の北の方の小名を竜灯と呼び、その由来を『風土記稿』は次のように載せる。古くはこの辺りに大きな沼があり、年久しく竜が棲んで、光を放ち、田畑を荒らすなどして耕地の妨げをしていた。天正のころ(一五七三-九二)岩槻の浪人立川石見守という強勇の者が、この竜を退治したことから村民は喜び、それにちなんで小名を竜灯と名付け、後にこの沼を埋めて水田を開いた。彼の石見守は、村の旧家弥七の先祖であるという。ちなみに、地内にあった真言宗宝性院(明治初年廃寺)の開基は、この立川石見守であると伝えている。
当社は上谷の鎮守として祀られており、創建の年代は明らかでないが、村の開発が進められる中で勧請されたものであろう。本殿に奉安する神鏡には享保二十一年(一七三六)の銘が見える。また、『風土記稿』上谷村の項には「氷川社 村の鎮守なり、末社 天神社 稲荷社 別当千寿院 本山派修験にて南下谷村大行院の配下なり、本尊不動を安ず」とある。
神仏分離後、当社は明治六年に村社となり、同四十年に字西ケ谷の厳島社、字上川面の稲荷社、字郡田の須賀社の三社の無格社を合祀した。このうち厳島社は当地と下谷・宮内の旧三か村の村境にあった池の傍らに祀っていた社である。また、稲荷社は、大雨による荒川の度重なる氾濫を憂えた天台宗台蔵院(明治初年廃寺)の開祖傳法上人が風雨順時と五穀成就の守護神として祀ったと伝える。
□御祭神と御神徳
素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用

        
                                         拝 殿
       
             拝殿前に聳え立つ銀杏のご神木。鴻巣市の保護樹林に指定されている。
 参拝時は1月の真冬故に葉も全て落ち、厳しい風雪に耐えるが如く、幹や枝のみの姿しか拝見できなかったが、新緑の季節ともなれば葉が大木を覆うようにびっしりと茂るのだろう。巨木、老木に属しているだろうが、それでも木の生命力の強さを感じずにはいられない。
 
 社殿の左側奥に鎮座する境内社。詳細不明。         社殿奥には石祠1基。湯殿山大権現。

     
 鴻巣七騎という、武蔵国足立郡の鴻巣郷周辺に土着した家臣団の中に立川石見守という人物がいる。岩付太田氏に仕え小田原征伐の後に当地に土着したものと考えられるが、記録を失い詳細は定かではないという。
 それでも新編武蔵風土記稿上谷村条には「旧家弥七、立川を氏とす。石見守が子孫なりと云ふ。立川は武蔵七党の内、西党駄所宗時の子に立川宗恒見えたり。子孫宮内少輔照重は小田原北条に仕へ、天正の乱に滅亡せしものにて、多摩郡柴崎村普済寺境内は此の照重が塁跡なりと、彼寺の伝へにのこれり。思ふに石見守は照重の一族にして、岩槻の城主太田氏の旗下に属し、天正の乱に没落して当村に土着せしものなるべけれど、家系を伝えざれば定かなることは知べからず」と見え、この一族の本来の本拠地は多摩郡立川郷柴崎村(現東京都立川市)であったようだ。
        
                社殿右側奥にある庚申塔等
 ところで上谷に龍燈という小字がある。ここに大きな沼があり農民を困らせる龍が棲んでおり、天正の頃に岩槻の浪人立川石見守が退治し、村人はこれを悦んで龍燈と名づけ、沼を干拓し水田としたという伝承・伝説が風土記稿上谷村条を通して今でも伝わっている。
        
                              拝殿から参道正面風景を撮影
 立川氏は、12世紀武蔵国内に成立した中小武士団である武蔵七党の流れをくみ、戦国時代に太田氏の旗下となったが、岩付落城で没落、上谷村に土着したことが「風土記稿上谷村条」に記されている。このような、竜退治の話は、全国各地に伝わるが、いずれも「荒ぶるものを()」を鎮めた英雄伝説と結びついたものである。
 それを元荒川の洪水によって村民は苦しめられてきたが、それを竜に置き換え、その竜を退治した。即ち、治水対策に尽力したことが縁となって、上谷にすみ着き、村の草創期において、大きな役割を担ったことが想像できよう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」
           

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常光神社

 神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進神社とは、地方財政から祭祀などのためのお金が支出されていた神社のことである。
 明治
40年(1907年)、府県郷を始め、村社(指定神社以上)が例祭に地方公共団体の神饌幣帛料の供進を受けられ、大正3年(1914年)4月からは追加事項として祈年祭・新嘗祭にも神饌幣帛料の供進を受けることがそれぞれ認められ、神饌幣帛料供進社と称された。神饌幣帛料供進共進神社、神饌幣帛料供進指定神社、あるいは社格と併せ指定県社、指定村社等の表現も為される。明治時代から終戦に至るまで続けられていた。
 常光神社は
大正2年(1913)神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。
        
            ・所在地 埼玉県鴻巣市常光933
            ・ご祭神 素戔嗚尊
            ・社 格 旧上・下常光村鎮守 旧村社  
            ・例 祭 祈年祭 218日 例大祭 43日 新嘗祭 1123日
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0482791,139.5548736,16z?hl=ja&entry=ttu
 常光神社は鴻巣市南部、常光地区中央部に鎮座している。途中までの経路は笠原久伊豆神社を参照。埼玉県道311号蓮田鴻巣線「笠原郵便局」交差点を直進し、600m程進んだT字路を右折、T字路左側角には「中斉集会所」があり、その先には元荒川が流れ、「中斉橋」を通り過ぎる。そのうち「上谷総合公園」の駐車場を左手に見ながら上越新幹線の高架橋手前まで直進し、その交差点を左折する。高架橋に沿って南東方向に1.2㎞程進むと、正面方向に常光神社の社叢全景が見えてきて、その右側には長めの参道と鳥居が見えてくる。
 
鳥居前面は高架橋に面した道路の為、駐車場はないが、社の手前に高架橋沿いから左方向に曲がる道があり、一旦社の南側に移動すると、適当な駐車スペースがあり、そこの一角に車を停める。
 正式な参拝を行いたいならば、そこから南側の鳥居方向に戻ってから改めて参拝を行うしかない。
        
                               
常光神社 孤高な一の鳥居
     社の周辺には畑風景が広がる。常光地域は「梨」の名産地でも有名である。
       
            一の鳥居の右側にある社号標石碑       参道二の鳥居を望む。
        
                    二の鳥居
      二の鳥居の左側には「村社 氷川神社」と記されている社号標柱が立つ。 
 二の鳥居の左側には庚申塔・青面金剛等が並ぶ。   二の鳥居の左側に設置された案内板
 常光神社 御由緒  鴻巣市常光九三三 
 □ 御縁起(歷史)
 常光は、古くは「常香」とも書いたといい、地名の由来についてはその音、源頼朝が鴻巣領別所村に無量寿院を草創したころ、当地及び隣接する花野木村を花香料に付したことにちなむとの伝えがある。
 当社は、この常光の鎮守として祀られてきた社で、元来は「氷川社」と称していたが、当時の村長の発案により、昭和ニ十六年七月ニ十五日付で、村名を採って「常光神社」と社号を改めた。 しかし、氏子の間では、今でも通称として当社を「永川様」と呼ぶ入が少なくない。
 常光村は、江戸時代の初期には一旦、上・下のニつに分かれ、明治七年に再度合併したが、上・下両村の村境は交錯してはっきりと分けることのできない状況であった。『風土記稿』も「○上常光村○下常光村」として一項に扱っており、当社については「永川社 村の鎮守なり、社内に寛永ニ年(一六二五)の棟札をかく、其文に本願主大旦那河野五郎左衛門・同七郎兵衛・同庄右衛門云々、末に永禄十ニ年己巳年(一五六九)年迄百廿六年に至るとあり、是をもて推せば文安元年(一四四四)に及べり、さあらんには旧き勧請なること知るべけれど、外に証とすべきものはなし、西福寺の持なり」と載せている。
 神仏分離の後は、西福寺の管理を離れ、明治六年に村社となった。更に、大正ニ年十月には、幣殿・拝殿を新築するとともに覆屋を改築し、翌月には神饌幣帛供進神社の指定を受けた。
 □御祭神と御神徳
素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用
       
                  二の鳥居を過ぎてすぐ左手に聳え立つご神木
 
 ご神木の並びに鎮座する境内社・八雲神社    参道右側、八雲神社の向かいにある神楽殿
               
                                     拝 殿
「常光」の地名由来を調べると以下の2通りの解釈となるようである。
①案内板にも記載されている「常光は、古くは「常香」とも書いたといい、地名の由来についてはその音、源頼朝が鴻巣領別所村に無量寿院を草創したころ、当地及び隣接する花野木村を花香料に付したことにちなむ」と伝えがあり、その「常香」が地名由来となった。
常光は常荒で、荒野を開発するときに、常荒といって、ある年限を定めて税を免除した土地をいう。常光は嘉名(佳字)という。
 *熊谷市には「河原明戸」という地名があるが元々は土地柄の悪い「悪戸」が「明戸」に変更となった故事を思い起こさせる。
 
          本 殿            本殿右奥に鎮座する境内社・詳細不明

 ところで江戸城を築いたことで有名な太田道灌の子孫である資輔が岩付城主になり、岩付太田氏を名乗る際に、北部の抑えとして武蔵国足立郡の鴻巣郷(現・埼玉県鴻巣市、北本市)周辺に土着した家臣団を特に「鴻巣七騎」と呼称した。
 当時周辺の村々では、俗に「鴻巣七騎」 と呼ばれる在地武士が活躍していたといわれている。これらの在地武士たちは、岩付太田氏の配下にあり、それぞれが北本周辺に所領をもっていた。ここでいう鴻巣とは、北本市の東側一帯と桶川市の東部、鴻巣市の南東部を含む、戦国時代に「鴻巣郷」と呼ばれていたあたりに所領を持っていた在地武士(地侍)だったと伝えられている。
                                                   社殿からの風景
「鴻巣七騎」のメンバーは以下の人物という。
大島大炊助(おおしまおおいのすけ)・大膳亮(だいぜんのすけ)【北本市宮内・古市場】
深井対馬守景吉(ふかいつしまのかみかげよし)【北本市深井】
小池長門守(こいけながとのかみ)【鴻巣市鴻巣】
立川石見守(たちかわいわみのかみ)【鴻巣市上谷】
加藤修理亮(かとうしゅりのすけ)【北本市中丸】
河野和泉守(こうのいずみのかみ)【鴻巣市常光】
矢部某(やべなにがし)【鴻巣市下谷】
本木某(もときなにがし)【桶川市加納】

 鴻巣市常光の河野和泉守は、「新編武蔵風土記稿常光村条」において以下の記述がされている。
「旧家七兵衛、河野氏なり。隅切角の内に三の字を紋とす。代々上分の名主を勤む。先祖は五郎左衛門といひ、慶長の頃よりここに土着せしと。古は岩槻太田氏の旗下にて鴻巣七騎の内河野和泉守が裔なりと、五郎左衛門は其子にや。村内氷川社の棟札に河野五郎左衛門の名見えたり、河野氏の来由を書しものを伝へり、何人の書なりや詳ならず」


 七騎の苗字は鴻巣、北本、桶川市の字に通じる面もあり、その地域の歴史も垣間見ることも出来た。社参拝はその土地の歴史を知ることにもなり、歴史好きな筆者にとって実り多い考察ともなった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」
    「境内案内板」

                     

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東平熊野神社


        
             
・所在地 埼玉県東松山市東平1006
             ・ご祭神 熊野三所権現(推定)
             
・社 格 旧村社
             ・例 祭 例祭71415日、新嘗祭1015日
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0615575,139.4117204,18z?hl=ja&entry=ttu  
 東平熊野神社は国道407号線を東松山市街地方向に進み、「東平」交差点を左折する。埼玉県道66号行田東松山線に合流後300m程進んだT字路を左折すると、正面突き当りに東平熊野神社の鳥居が見えてくる。
 社は東平地域の東端近く、交通量の多い県道からは少し奥に入った場所で、丘の上に鎮座している。
 残念ながら周囲には専用駐車場はないようで、近隣のコンビニエンスストアに寄り、買い物を済ませてから参拝を行う。
        
                               丘上に鎮座する東平熊野神社
 
 一の鳥居を過ぎて、石段、二の鳥居が見える。    二の鳥居の先には境内が広がる。

 県道からはやや奥に位置するとはいえ、交通量の多い県道の喧騒からは想像もできない位、境内は静まり返っていて、現代社会とうまく混じり合っているという印象。
 また境内もよく手入れされていて、気持ちよく参拝を行うことができた。
        
                                       拝 殿

 熊野神社 東松山市東平一〇〇六(東平字小橋)
 旧別当の真言宗覚性寺蔵の古文書には、次のような伝説がある。
 天慶三年(九四〇)に東国で反乱を起こした平将門を追討するために平重盛と共に都を発った藤原秀郷は、上州(現群馬県)碓氷峠まで進んだころ、不思議な夢を見た。それは、南の方にたなびく紫雲を尋ねて行くと、そこは紀州(現和歌山県)の熊野三社で、そこで一人の老翁から「自分は東海の平和を願うものである。紀州熊野三社を祀り、その神徳を頂いて戦えば、汝は朝敵を必ず滅ぼすことができ、汝の子孫は世々栄えるであろう」と告げられるというものであった。翌朝、秀郷ははるか南方に紫雲のたなびくのを見た。奇しくもそこを尋ねて行くと、一株の松の根元から雲が湧き上がっており、これこそ神のお告げと、秀郷は持っていた鏑矢をその松に立てて仮に熊野三社を祀った。これが当社の創祀で、その後の秀郷の武功は言うまでもない。
 乱平定の後、秀郷は神恩に報いるために当社の伽藍を建立し、以後郷人の崇敬を集めるところとなった。戦国時代、松山城落城に伴い、当社も兵火に罹ったものの立派に再建が果たされ、江戸時代には東平村の鎮守として『風土記稿』にもその名が挙げられている。更に明治四年には村社になり、同四十一年には字沢口の村社熊野神社(当社は上の宮、同社は下の宮と呼ばれていた)ほか七社が合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 

             本 殿               拝殿左側に鎮座する境内社
                            左より諏訪社、詳細不明
        
          社に隣接している「子供広場」に設置されている祭り用の舞台だろうか。
          
 東平熊野神社に隣接をしているのが子供広場となる公園で、春になれば桜を楽しむ人もいるし、夏季では715頃の土日, 子供みこし等のお祭りも開催をされているようだ。社の境内同様によく手入れされている。ただ、公園に入るには傾斜がややきつめの階段を上る必要があり、ご高齢の方には少し大変かもしれない。
        
                             参道からの一風景

 東平熊野神社に関しての資料は乏しく、現時点で説明できる内容はここまでである。但しこの社の鎮座する東平地域は、埼玉県のほぼ中央部を南北に縦貫する国道407号線と、埼玉県行田市から東松山市に至る埼玉県道66号行田東松山線が交わる交通の要衝地でもある。
 東平地域の北側には「胄山古墳」があり、目を北西に転ずると「大谷瓦窯跡」「大谷雷電古墳」等の古代遺跡もあり、またこの国道407号線自体、嘗て「東山道武蔵路」とも推測されている道である。国道407号線沿いには古墳時代から奈良時代の史跡が見られ、この付近の比企丘陵は古代から人々の交流が多かったところと考えられ、東平地域はその古代の官道を包むようにして位置している絶妙な位置にある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ひがしまつやま公園ガイド」等


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大谷秋葉神社及び大谷瓦窯跡

 日本スリーデーマーチは、毎年11月初旬に埼玉県東松山市で行われる世界第2位、日本国内では最大のウォーキング大会である。埼玉県のほぼ中央に位置する東松山市周辺の比企丘陵には、武蔵野の貴重な自然が多く残っていて、東に望むと、広大でのどかな田園風景、西に望むと秩父の山々やすそ野に広がる小高い丘。各コースには文化財も多く、遠く昔を思い、落ち着いた雰囲気を味わいながら歩くことができる。適当なアップダウンのコースとあいまって、自然豊かな丘陵地帯を楽しく歩けるコース設定になっている
 筆者も過去2回程参加したことがあり(どちらも5㎞)。気持ちよく秋の比企地域の風景を楽しみながら参加させて頂いたことを思い出す

 東松山市は「花とウォーキングのまち」として「日本スリーデーマーチ」のみならず、JVA認定のウォーキングトレイルが整備されている。このウォーキングトレイルとは、英語で自然道のこと。環境省は「森林や里山、海岸、集落などを通る歩くための道」と紹介されているが、東松山市はウォーキングトレイル「ふるさと自然のみち」が7つも設定されていて、郷土の自然、歴史、文化をたどるなど、それぞれの目的に沿った楽しみ方ができる
「大谷・伝説の里コース」もそのコースの一つであり、コース途中には「大谷秋葉神社」も設定されている。
        
             ・所在地 埼玉県東松山市大谷553
             ・ご祭神 火之迦具土神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 例祭 418日
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0751749,139.3871759,16z?hl=ja&entry=ttu
 大谷秋葉神社は大谷地域中央部を東西に通る埼玉県道307号福田鴻巣線の南側に鎮座する。途中までの経路は大谷大雷神社を参照。大谷大雷神社から一旦埼玉県道391号大谷材木町線に合流して北方向に進路を取る。2㎞程先にある「大谷」交差点手前の十字路を左折して、1㎞程道なりに進むと、丘陵地の端部左手側に丸太の階段が見えて来る
 駐車スペースはないので、車両の通行に邪魔にならない場所に路駐して、その丸太の階段を徒歩で進むと、大谷秋葉神社の裏手に到着する。しっかりと正面から参拝したいので、一旦正面参道、石段等を降りてから、改めて参拝を行った。
 但し正面参道に隣接して民家も立ち並んでいて、この間を通る為、周辺にも駐車スペースはないようだ。
 位置的には東松山CCの北側隣に鎮座しているとイメージすると良いかもしれないが、ナビ設定も上手くできないので、社まで順調に到着するには難儀な場所かもしれない。
        
                    民家の裏手で入り口がやや分かり辛い大谷秋葉神社
             
           石段を上り、踊り場付近に設置されている社号標柱
        
                         社号標柱の先にある鳥居
        
                   石段の先に見える社殿

 秋葉神社(あきはじんじゃ、あきばじんじゃ)は、日本全国に点在する神社であり、神社本庁傘下だけで約400社ある。神社以外にも秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もあるが、ほとんどの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現である。
 秋葉権現(あきはごんげん)は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神である。火防の霊験で広く知られ、近世期に全国に分社が勧請され秋葉講と呼ばれる講社が結成された。また、明治212月に相次いだ東京の大火の後に政府が建立した鎮火社(霊的な火災予防施設)においては、本来祀られていた神格を無視し民衆が秋葉権現を信仰した。その結果、周囲に置かれた延焼防止のための火除地が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生することになる。
 秋葉権現の由来、縁起については文献により諸説ある。かつて複数の寺社が秋葉権現の本山を自称しており、秋葉三尺坊は火伏せ(火防)に効験あらたかであるということから秋葉三尺坊の勧請を希望する寺院が方々から現れ、越後栃尾の秋葉三尺坊大権現の別当、常安寺はこれを許可。これに怒ったもう一方の本山を主張する遠州秋葉寺は訴えを起こし、江戸時代に寺社奉行において裁きが行われ(時の寺社奉行は大岡越前守)、結果秋葉権現は二大霊山とすることとし、現在では信仰を広めた遠州の秋葉山本宮秋葉神社を『今の根本』、行法成就の地である越後の秋葉三尺坊大権現は『古来の根本』となったという。
        
                                        拝 殿

 秋葉神社 東松山市大谷五四四(大谷字須ケ谷)
 鎮座地は、大谷の集落北方の小高い丘の突端にある。近くには、江戸期を通じて当社を累代崇敬した森川氏の陣屋跡がある。
 森川氏は徳川の旗本で、天正十八年(一五九〇)に家康に従って関東に入り、当地に領地を得て陣屋を構えた。当社を勧請したのは、森川金右衛門であると伝え、その本社は、遠江国の秋葉大権現社で、火防の神として知られる。
 享保二年(一七一七)正月に起こった江戸本郷大火の際には、当社の霊験が現れ、森川氏の江戸屋敷だけ、野原に孤島のように焼け残った。これは日頃崇敬する秋葉大権現のお陰であると感謝した森川氏は、享保十五年(一七三〇)に老朽化した当社の社殿を造営するとともに、毎年、御供米一俵を寄進するようになった。
 江戸期、当社の運営は、江戸の青山鳳閣寺末の当山派修験長谷山成就院東海寺と村方の者で行われていたが、明治初年の神仏分離により、成就院は復飾して当社の祭祀から離れた。代わって、大谷野田の修験大行院が復飾して加藤大膳と名乗り、神職と成って当社に奉職した。明治元年、村役人に提出した大膳の請書には「私儀は神主名目計りにて、秋葉社の儀は子々孫々に至るまで村持にて先規仕来りの通り、何事によらず村御役人中へ御願申上、御差図請、自己の取計へ決て仕間敷候」とあり、復飾して間もない神職の立場がうかがえる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                             拝殿に掲げてある扁額
 
     拝殿の前面(写真左)・向かって左側(同右)には多くの額が奉納されている。
           中には「銭絵馬」と言われる奉納額もある。
        
                                       本 殿

 秋葉神社の総本社『今の根本』である遠州秋葉山本宮秋葉神社の霊山にあたる秋葉山は中世には山岳信仰の聖地であり、修験(しゅげん)の道場として修行者が入山しており、その後、両部神道の影響もあり、秋葉山の神は「秋葉大権現」と称され、秋葉修験者によって霊験が各地に広められていった
 時代は下り、江戸時代には火防の神としての秋葉信仰は全国的な盛り上がりをみせており、各地に秋葉講が結成され、秋葉山へと向かう秋葉街道は多くの参詣者で賑わった。
 因みに秋葉講(あきはこう)とは、江戸時代の庶民にとって秋葉山へ参詣するには多額の旅費がかかり、経済的負担が大きかったため、秋葉講という互助組織を結成し、毎年交代で選出された講員が積み立てた旅費を使い、組織の代表として秋葉山へ参詣していたという。
 また秋葉街道沿いにはその道標として数多くの常夜灯が建てられた。また、常夜灯は街道沿いのみならず、火防の神への信仰や地域の安全を願って建てられたものもあり、現在でも数多くの常夜灯が残されている。
        
               拝殿付近から鳥居方向を望む。

 大谷秋葉神社から松山宿までの道筋が「秋葉道」と云われたこと、また幅九尺(約二・七m)の道路で要所々々に道標も建てられたということは、実際に遠州秋葉山本宮秋葉神社に詣でて、その風景を目にした多くの地元の参詣者たちが、少しでも本家にあやかろうと地域住民を巻きこんで、実現した当地にとっては貴重な遺産ともいえよう。
 
 社殿から北側に伸びる「大谷・伝説の里コース」  秋葉神社の裏側にある丸太造りの階段
    ウォーキングトレイルの案内板      ウォーキングトレイルのコースになっている。


 ところで大谷秋葉神社から東に1.5㎞程先には奈良時代前、所謂「白鳳時代」に営まれた登窯跡である「大谷瓦窯跡」が存在する。

【大谷瓦窯跡】
        
                       ・所在地   埼玉県東松山市大谷2192-1
                         ・稼働時期  飛鳥・白鳳時代(7世紀後半ごろ)
             ・指定年月日 昭和33年(1958)10月8日
                    国指定史跡文化財

 大谷瓦窯跡は、埼玉県道307福田鴻巣線を北側にのぞむ、丘陵の東南斜面にその遺構が残されている。大谷秋葉神社から東に1.5㎞程先にあるが、ナビを使用しても番地では表示せず、付近一帯を随分と巡りまわって、やっと到着できた。

 大谷瓦窯跡の周囲は、今では何の特徴もない丘陵地の端部という印象だが、この比企周辺地域は、西暦600年前後、6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器の生産がはじまっていた。8世紀になると、南比企丘陵-鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。
 古代寺院は、比企地域とその周辺では7世紀前半に寺谷廃寺(滑川町)に現れ、その後、7世紀後半以降、馬騎の内廃寺(寄居町)、西別府廃寺(熊谷市)、勝呂廃寺(坂戸市)、小用廃寺(鳩山町)などが造営され、須恵器窯で瓦の生産が行われるようになった。そして、この時期になると、大谷瓦窯跡(東松山市)や赤沼国分寺瓦窯跡(鳩山町)が生産を開始している。
        
         比企丘陵地の斜面を利用した瓦専門の窯跡である大谷瓦窯跡

 案内板は2か所あり、細い道路に面した案内板は比較的新しいもので、窯跡の手前に設置された案内板の内容に加えて、新たに判明された事項も記されている。
        
                        窯跡正面 右側に案内板がある。
        
                                大谷瓦窯跡 案内板

 大谷瓦窯跡 昭和三十三年十月国指定
 瓦が多量に生産されるようになるのは、寺院建築が盛んになる飛鳥時代からです。奈良時代から平安時代には、各国に建立された国分寺やその他の寺院が盛んに建立されたので、各地で瓦が生産されるようになります。大谷瓦窯跡もその頃つくられたものです。瓦を焼く窯は「登り窯」です。傾斜地を利用し斜めに高く穴をあけ、下の焚き口で火をもやし、還元熱を応用し高熱を得るよう工夫されています。この窯跡も三十度の傾斜角を有しています。高熱に耐えられるよう火床は粘土を積み固め、側壁は完型の瓦を並立して粘土で固定し、床面は粘土と粘板岩の細片をまぜて固め段を作るなど、補強が慎重に行なわれています。
 大谷瓦窯跡は昭和三十年五月に、二基調査されました。保存がほぼ完全であった一号窯跡が保存されています。出土遺物は平瓦が大部分で、竹瓦が数個と蓮華文のある瓦当一個が発見されています。
                                      案内板より引用


 内部は傾斜角30度であることは確認できたが、内部は遺跡保存の為だろうか、コンクリートで整地されており、13の段になっていた焼成室は確認できなかった。
             
             道路沿いに設置されている新しい案内板
         ローマ字表示で判明した正式名は「おおや がようせき」

 大谷瓦窯跡
 大谷瓦窯跡は、昭和三十年五月に発掘調査が行われ、検出された二基の瓦窯跡の内、保存の良い一基が昭和三十三年十月八日に国指定史跡となりました。
 瓦窯跡は、瓦を専門に焼いた窯のことで、瓦の製造は飛鳥時代(七世紀)以降盛んになる寺院建築とともに始まったものです。
 この瓦窯跡は、山の斜面を利用した「登窯」とよばれる半地下式のもので、全長は七・六〇メートルあります。
 窯は焚口部・燃焼部・焼成部・煙道部の各部から成っています。この窯跡の特徴としては、燃焼部に瓦を利用して階段状に十三の段が造られていることがあげられます。
 出土遺物には、軒丸瓦、平瓦、丸瓦等があり、こうした瓦から窯跡は、七世紀後半頃と思われます。
 付近一帯は周辺に窯跡群が埋没しており昭和四十四年に県選定重要遺跡に選定されています。
                                      案内板より引用



 
 男衾郡太領壬生吉士福正は平安時代の武蔵国男衾郡の大領で官人。壬生吉志氏は、推古天皇15年(607)に設定された壬生部の管理のために北武蔵に入部した渡来系氏族。男衾郡の開発にあたり、郡領氏となる。承和8年(84157日太政官符に榎津郷戸主外従八位上の肩書で、才に乏しい息子2人の生涯に渡る税(調庸・中男作物・雑徭)を前納することを願い出て「例なしといえど公に益あり」との判断から認められている(『類聚三代格』)。承和12年(845)には神火で焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を申し出て認められている(『続日本後記』)。
 武蔵国分寺の七重塔の再建となると、今日の価額にすると数十億円にもなる大工事で、そのためには莫大な財力と労力があって初めてできることである。
        
                    大谷地区から北方・滑川町にある「五厘沼窯跡群」
              形状は大谷瓦窯跡とほぼ同じである。

 この人物は榎津郷に在住していたというが、榎津郷が現在の何処に比定されるか定まっていない。但し荒川右岸の熊谷市域から深谷市域にかけての地域の可能性が高く、近年発掘調査の行われた市内板井の寺内古代寺院跡(通称花寺廃寺)は、壬生吉氏の氏寺であった可能性が高い。

 7世紀頃に比企地方にやってきたと推定される渡来人・壬生吉士のグループは、比企地方の支配者として、武蔵國最大の須恵器と国分寺瓦の生産でも大きな力を発揮していたものと思われる。
 その壬生吉氏の誰かが、「大谷瓦窯跡」の開発・運営等を携わったのかもしれない。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「熊谷デジタルミュージアム」「東松山市観光協会HP」
     「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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日吉松山神社

 東松山は歴史を遡ぼると、鎌倉街道等、多くの街道が集まる交通の要衝として、現在の市街地の東方向に位置する市野川を挟んだ対岸の丘陵上(現在行政上吉見町域)に築城された松山城の城下町として町場が形成されたことをその端緒としている。城下町時代は松山城大手門に至る、鴻巣道沿いの現在の松本町から本町あたりが最も賑やかだったそうである。このあたり松山新宿と呼ばれていた一方、街道筋にあたる本町から材木町のあたりは松山本郷と呼ばれていた。
 徳川家康が関東入国すると、松山城には松平家広が入城し松山藩を立藩した。近代的な城郭都市に発展する可能性も潜めていたが、家広の跡を継いだ松平忠頼が浜松城に移封となると松山城は廃城となった。廃城後、この地域は最終的に川越藩の藩領となり、城に近い松山新宿は次第に廃れ、現在の市街地に当たる松山本郷が町の中心になっていったとされる。幕末に松山陣屋がおかれ、武家やその関係者、家族らの移住によって人口が2倍近くに増え、現在の埼玉県域でも有数の人口を持つ町奉行が管轄する町となった。しかし、幕末という事もあってわずか5年足らずで廃藩置県を迎える事になった。

「東松山駅入口」交差点を左折し、本町通りと呼ばれる県道66号を進む。嘗て東松山市の中心は、今の本町通り本町一丁目交差点(いわゆる四つ角)付近で、警察署、郵便局、銀行等があり、材木町通りとともに問屋、小売店、旅館、料理店等が立ち並び賑わっていた。その後武州松山駅の開業により、徐々に、駅寄りに人家・商店等が移動しはじめ、駅周辺の開発とともに商店街の中心は、本町通り・材木町通りから丸広通りやぼたん通りに移っていった。

 本町通りを歩いていると、現代の建物に混じって土蔵造や町屋造の建物が多く残されていることが見て取れる。このことは、この町が上述した通り、江戸時代から一貫して地域の中心的な都市として存立してきたことを示している。
 その本町通りの中心地にあった「松山宿の総鎮守様」が日吉松山神社であり、由緒ある神社として市民より崇められている。
        
              ・所在地 埼玉県東松山市日吉町5-19
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧郷社
              ・例 祭 例祭日101819日
        地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0448524,139.4007391,17z?hl=ja&entry=ttu
 日吉松山神社は国道407号線を東松山市街地方向に南下し、「小松原町」交差点を右折する。400m程先に「上沼公園」交差点があり、そこを直進する。上沼を左手に見ながら、その沼を過ぎた場所に右折する道があり、そこを曲がると日吉松山神社の鳥居に到着する。
 駐車場は一旦そこの道を通り過ぎてから神社の西側()に回り、少し分かりづらいが路地から境内に入り、そこの一角に停めてから参拝を行う。
 鳥居があるのは神社に対して南東側に位置するので、一旦道に出て鳥居前に戻り、改めて参拝を始める。
        
                          日吉松山神社正面一の鳥居
 綺麗に整備されている「上沼公園」の西端に一の鳥居はあり、そこから100m程進んだ長い参道の先に二の鳥居がある。広大な境内は、市街地にありながら参道に入るとガラリと別世界に吸い込まれたような不思議な感じの社でもある。
 
                          長い参道の先に二の鳥居が見えてくる。
        
                     拝 殿
(松山町)氷川神社
「氷川社 宿並の鎮守なり、熊野を相殿とす、勧請の始を詳にせず、貞享二年再興、大旦那嶋田八郎左衛門と記せし棟札あり、觀蔵寺持」
                                 新編武蔵風土記稿より引用

 松山神社 東松山市日吉町五-一九(松山町字日吉町)
 旧松山宿の北部に位置する上沼の西南端から、西に続く長い参道を入って行った所に、杜に包まれて当社は鎮座している。そのため、市街地の中の神社にしては閑静で落ち着いた雰囲気があるところから、当社は上沼公園と共に憩いの場として、また、散策の場として市民に親しまれており、祭日以外でも境内を訪れる人は多い。
 武蔵国一の宮の氷川神社(大宮市鎮座)に代表されるように、古くから荒川の流域の町や村では、氷川神社が多く祀られてきた。毎年のように繰り返される荒川の氾濫を鎮めるためには、氷川様(須佐之男命)のように霊威の強い神を祀ることが必要であったという話を伝えとして耳にすることが多い。当社もまた、そのようにして祀られた社の一つであると考えられ、その創建は、今を去ること九〇〇年余りの昔、康平六年(一〇六三)にさかのぼると伝えられている。
 中世、この松山の地は、亀井荘松山領の本郷として、また、松山城の城下として栄え、近世に至っては中山道の脇往還の宿場としてますますその規模を拡大していった。そうして成立したのが旧松山町(明治二十二年の町村制の施行によって誕生した松山町の大字松山町となる)であり、この地域の商業と交通の中心地として繁栄した。中世から近世初頭にかけての当社の動向については、相次ぐ戦乱により記録が失われてしまったためか明らかではないが、寛永元年(一六二四)に熊野神社(祭神伊邪那美命)を合殿に祀り、以来、松山宿の総鎮守として一層の崇敬を集めるようになったという。
 その後、貞亨二年(一六八五)には当地の領主である旗本の島田八郎左衛門によって社殿が再建され、同時に社域を除地とした上、神領が付された。このように領主の厚い信仰を得て神威を高めた当社は、正徳四年(一七一四)十一月には神祇管領卜部家から極位も受けている。下って文化八年(一八一一)、当地は川越藩の領するところとなり、藩主松平大和守は先例に倣い、当社を保護した。「氷川社 宿並の鎮守なり、熊野を相殿とす(中略)大旦那嶋田八郎左衛門と記せし棟札あり、観蔵寺持」という『風土記稿』の記事は、そのころの様子を記したものである。また、松山宿の繁栄につれ、住民の力も増していき、嘉永二年(一八四九)の社殿再建は、惣氏子の手によって行われている。
 神仏分離を経て明治六年に村社となった当社は、同十六年四月に至り、社号氷川神社熊野神社(合殿)を松山神社と改めた。これは、松山宿の総鎮守として祀られてきた当社を松山町の象徴として盛り立てていこうという氏子の気持ちを反映したものであり、時の神道総裁有栖川宮幟仁親王から額字も拝戴している。更に明治四十一年には神饌幣帛料供進神社の指定を受け、昭和二十年には郷社に昇格した。
                                  「埼玉の神社」より引用
 東松山市・市ノ川氷川神社に掲示されていた由来書には「当社の社記に人皇第七十代後冷泉天皇の御代康平6年(1063年)創立と記載されてある。即ち源頼義の嫡男義家(八幡太郎と号す)が奥州の夷賊阿部頼時及びこの子貞任を滅ぼして武勲を立てた時代である。」と記載されている。2つの社の距離は直線方向で1㎞弱。また同じ社号でることから、市野川の流域に在住し、同じ境遇を持った人々が、同じ理念で同時期に創建したのではなかろうか。
        
            拝殿の向拝部、木鼻部の彫り物は精密で美しい。
 
                     本 殿
        
                 社殿の左側に鎮座する境内社・浅間神社、大鳥神社
 東松山市日吉町の大鳥神社で例年十二月十五日にお酉様が行われ、近郷近在から多くの参拝者でにぎわいます。当日は、松山神社と大鳥神社の間で熊手市が、松山神社拝殿から鳥居にかけては縁起物市が開かれます。熊手屋は入間郡大井町や群馬県から訪れ、商談が成立すると威勢のよい手締めが鳴り響きます。
                                  嵐山
web博物誌より引用


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「嵐山web博物誌」「Wikipedia」等
        

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