古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

和泉八宮神社

 滑川町北西部北端と同時に北武蔵丘陵の北端にも位置する和泉地域、この地域の歴史は古く、今から七千年ほど前の縄文時代早期には、既にこの地域の船川遺跡からは土器の欠片等によって人間の生活していた痕跡が認められる。その後、同じ船川遺跡では弥生・古墳の両時代も引き続き人々がくらした住居跡が発掘されている
 和泉地域が文献に最初に見えるのは、鎌倉幕府が編んだ「吾妻鏡」という歴史書の中の建久4年(1193210日の記述である。そこには鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝が嘗て世話をしてくれた毛呂季綱へ褒美として「武蔵国泉勝田」の土地を与えたことが記してある。泉は今の和泉のことで、勝田のことと考えられる。このことと直接関係があるか不明であるが、和泉には三門という地名があり、そこには中世頃と思われる館跡が残っている
 この三門舘跡と田んぼを挟んだ向い側に、北から南の滑川沖積地へ伸びるなだらかな丘陵があり、その先端近くに泉福寺がある。この寺院には「阿弥陀如来像」と、その脇侍の「観音・勢至の立像」(いわゆる阿弥陀三尊)があり、阿弥陀は国指定重要文化財で、観音・勢至は県指定有形文化財となっている。阿弥陀の胎内(ここでは像の腹部の中)には132文字の墨書がある。それによると鎌倉時代の中ごろの建長6年(1254)に阿弥陀三尊を修復したことがわかる。亡き母の霊たましいが成仏して極楽へ行けるように、また、自らの現世の無事と来世の安楽を願って修理されたのだという
このように古い時代からのさまざまな文化財が和泉には散在している。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡滑川町和泉1573
             
・ご祭神 素盞嗚尊 大己貴命 火産霊命 倉稲魂命 大山祇命
                  
稲田姫命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例祭 419日 新嘗祭 1127日 大祓 1229
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0884183,139.3259285,17z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道47号深谷東松山線を森林公園方向に南下する。この県道沿い、またはその近辺には三ヶ尻八幡神社田中神社飯玉神社高根神社が鎮座していて、古くからこの道路が存在し、人々の日々の生活の為に、同時に経済活動の為に活用されていたことを伺わせる。
 高根神社の鳥居を遙か右手に見ながら更に2㎞程南下すると、「泉福寺入口」の立看板が信号のある変則的な十字路手前に見えるので、そこを右折する。長閑な田畑風景が続く道路を1.7㎞程進むと「泉福寺」と表記された木製の看板板があるT字路があり、その先の路地を右折し、上り坂を道なりにのぼりつめたところに八宮神社の鳥居が見えてくる。
 
     鳥居は道路沿い右側にあり、         森林の中に目立つ朱色の鳥居
      高台上に設置されている。

鳥居の社号額には「八宮大乃神」と記されている。 鳥居の先 真直ぐ参道が深い森林の間を通り
                           その先には広大な境内が広がる。
        
                                   和泉八宮神社境内
 滑川村史によると八宮神社は「勧請年期未詳寛永二年(一六二五)三月鎮守社とす。また、明治四年三月村社の格に列する。」とある。隣接する菅田地区は以前一つの村で鎮守として厳島神社を祭っていたが、戸数が少ないため、大正年間に八宮神社を鎮守とするようになったといわれる。
        
               拝殿手前に設置されている案内板
 八宮神社   滑川町大字和泉
 祭神 
 素盞嗚尊 大己貴命 
火産霊命 倉稲魂命 大山祇命 稲田姫命
 由緒 
 当社は素盞嗚尊の広徳を仰ぎ奉りて、里民此の地に祭神として奉祀したと云う。
創立年代は不詳であるが、社地を含む小字の地名を八垣と云うのは命の詠歌の中の「八重垣」より選んだものと伝承され、当社の古社たるを知ることができる。神社前方には中世の城址や、建久二年に開山の泉福寺が在って往古より早く開けた地域と推察される。
 寛永二(西暦一六二五)年に村の鎮守となり、明治四年三月、村社の格に列した。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                                      拝 殿
 八宮神社 滑川町和泉一五七三(和泉字八垣)
 和泉の泉福寺は、国指定重要文化財の木彫の阿弥陀如来座像があることで知られている.
 当社は、この泉福寺の北東の丘の上に鎮座しており、境内はこんもりとした杜に囲まれている。鎮座地の字を八垣というが、それは祭神である素戔嗚尊の神詠「八雲起つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」にちなんだものであるという。
 当社の由緒について『比企郡神社誌』では「寛永二年(一六二五)三月鎮守社とす。元禄二年(一六八九)には氏子五十六戸とあり、明治二年の古書に依ると『一、社中神主寺山啓位階無之真言宗当村円福寺当社別当致し来候処王政復古神祇興隆の御布令ニ恭順当住弘洲儀明治二己巳年十二月中於神祇官復飾改名御開済』とあり。明治四年三月村社書上済」と記している。この出典となった文書の原本は未見であるが、氏子の某家にあるという。『風土記稿』和泉村の項では「村の鎮守なり」と記されている神社は見えず、「八幡社泉福寺持」とあるのがこの八宮神社のことと思われるため、『比企郡神社誌』に載っているこの文書が当社についての最も詳しい記録であろう。
なお、文中の円福寺は、神仏分離後廃寺になっているが、『風土記稿』の記事から泉福寺と同じ真言宗で、愛宕山地蔵院と号し、本尊は地蔵であったことなどがわかる。なお、別当が泉福寺から円福寺に変わった時期や事情はわからない。
                                  「埼玉の神社」より引用

 案内板にも記載されているが、この和泉八宮神社が鎮座する和泉地域の小字は「八垣(やえがき)」といい、日本最古の歴史書である古事記にその詠歌が出て来る。須佐之男命が妻の櫛名田比売と出雲の国を歩き、宮殿の敷地を探し求め、須賀という場所に来た時、 「わしの心はたいそう清しい」と感慨をもらし、建てることを決めたその時、そこから立ち上る雲をみて「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」と詠んだものといわている。
 
 社殿左側に並んで鎮座する境内社(写真左)、その並びには石祠等も祀られている(同右)。
 詳細は不明だが、明治40年字曲本の稲荷愛宕神社、字陣場の稲荷神社二社、字船川の権両神社、字後谷の八雲神社、字後谷の山神社、字向の稲荷神社、字向船川の稲荷神社、字畑中の熊野神社、字後谷の稲荷神社の10社を、大正3年には菅田の村社厳島神社を合祀しているようだ。
 
一番奥の社には男性器を象形した石器が祀られている。「金精様」の類であろう。(写真左・右)


『新編武蔵風土記稿 比企郡勝田村条』には以下の記載がある。
「按ずるに【東鑑】建久四年二月十日の篠に、毛呂太郎季網勤賞として、武蔵国泉勝田の地を賜ふよし見えたり、此勝田と云は、当地のことにて、泉は隣村和泉村なるべし、されば古くより開けし村なること知らる」
 建久四年(1190)毛呂太郎季網に武蔵国和泉・勝田を与えられていて、比企郡和泉村(滑川町)及び、その隣村の勝田村(嵐山町)を比定する説があるが、考えてみるとこの2か所は本貫地である武蔵国入間郡毛呂郷からはかなり遠方にある。
 吾妻鏡は諸本が刊行されているが、最も普及されているのが「北条本」である。「北条本」とは小田原北条氏が所蔵していた本であるために、こう呼ばれているそうだ。一方吾妻鏡の中で最も正確だと評価されているのが吉川男爵家所蔵の「吉川本」と言われており、その「吉川本」と「北条本」の間に不一致な所があり、その中には毛呂氏賜る「武蔵国泉勝田」についてもいえる。
 この「吉川本」には建久4210日の条に「武蔵国泉沙田」とあり。この地名は、毛呂本郷字和泉、字弥田(いよた)と比定し、この字弥田は隣村の岩井村字伊与田に亘る古の村名でもある。沙田は弥田の書誤りの可能性もある。本貫地からも隣接していて説得力もある。
 また正治元年十月二十八日条の「諸(毛呂)二郎季綱」と、翌二年二月二十六日条の「泉次郎季綱」は同人であるならば、この「諸(毛呂)」と「泉」は季綱系列の同族となり、関連性も十分にあろう。
        
                            拝殿より広大な境内を望む。

「和泉」苗字関連の氏族では以下の氏族があげられる。
〇比企郡の野本氏族和泉氏
・尊卑分脈 「野本乃登守時員―二郎行時―乃登守時光―乃登守貞光―四郎左衛門尉朝行」
常陸国鹿島神宮文書 「正中二年六月六日、野本四郎左衛門尉貞光及び和泉三郎左衛門尉顕助は、常陸国大枝郷給主鹿島大禰宜能親と相論す」
〇竹沢氏族泉氏
 比企郡和泉村(滑川町)より起り、竹沢郷木部村字宮ノ入集落(小川町)の地頭職という。
・鎌倉円覚寺文書 「応安七年十月十四日、比企郡竹沢郷・同郷宮入村等を竹沢二郎太郎・同修理亮入道・泉蔵人太郎等押領す」
〇羽尾七騎由来泉水氏
比企郡羽尾村(滑川町)の羽尾七騎由来書(小林文書)「文和二年より小田原出勤、御地頭所様上田能登守銅具、名主泉水路之助。波根尾七騎百姓と云、泉水淡路守。寛文四年古来居屋敷覚、泉水淡路子兵後、断絶」
羽尾七騎来歴書(小沢文書)「御地頭上田能登守朝直入道案獨斎宗調様、泉水淡路」

 上記「和泉」「泉」「泉水」苗字と表記方法は違うが、どちらにしても「和泉」地名由来であることには間違いない。上記氏族には全く関連性のない場当たり的に移住・土着した集団なのか、それとも何かしらの関係のある集団なのかは今後の課題ともなろう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「吾妻鑑」「尊卑分脈」「常陸国鹿島神宮文書」「鎌倉円覚寺文書」  
    「羽尾七騎由来書(小林文書)」「羽尾七騎来歴書(小沢文書)」「滑川ふるさと散歩道」
    「Wikipedia」等

拍手[1回]


三品白髭神社

 日本古来の信仰である「神道」は、開祖や教典というものがなく、日本神話の物語である「古事記」・「日本書紀」を基本とした「自然信仰」となっている。これは「自然のものには全てに神が宿る」という「八百万の神(やおろずのかみ)」の教えが基本となっていて、この中で特に神聖視される「岩」が磐座である。
 この「磐座」の語源は、「神々が占める座」という意味から起こったものと考えられ、神を「依代」とした磐座に降臨させ、その神威を持って祭祀を行っていた。
 時代とともに、常に神がいるとされる神殿の建設が進むにつれ、祭祀自体は神社で行うようになっていたが、この磐座を元に建設された神社も多く存在し、境内に注連縄が飾られた霊石として残っている場合もある。
 現在ではご神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる榊などの広葉常緑樹を、神籬信仰や神籬と言い、山や石・岩などを依り代として信仰することを磐座という傾向にある。
        
             
・所在地 埼玉県大里郡寄居町三品219
             ・ご祭神 清寧天皇 猿田彦命 天児屋根命 保食神 大山祇命
                  大日孁貴命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 220日 例祭 1020日 新嘗祭 1127
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0981573,139.1741538,16z?hl=ja&entry=ttu
 寄居町三品地域は秋山地域の西側にあり、地域の西側には南北に秩父往還道が通り、南側に東秩父村大内地域と接している山に囲まれた山間地域である。
 途中までの経路は秋山羽黒神社と同じく、鉢形城公園から埼玉県道294号坂本寄居線を東秩父村方向に2㎞程西行し、「釜伏山参道」の標柱付近のY字路を右折すると秋山羽黒神社方向に行くが、そのまま県道沿いに進む。その後350m程進んだ先のT字路を左折し道幅の狭い長閑な農道を進んでいくと、「三品公会堂」の看板が見えるのでそこを右折すると三品白髭神社への参道が右手に見えてくる。
        
                  三品白髭神社鳥居
    三品白髭神社及び三品公会堂は鳥居左側に通る道路を右側に回り込む先にある。
        
                                    三品白髭神社正面
『大里郡神社誌』によれば、「古は森山と称し、境内は松檜等の森林なりしと云ふ、今尚大森山と唱へり、現境内千三百十七坪」「白髭大明神と称せしが、明治十年より白髭神社と改称す」と記されている。
        
               石段を登ると拝殿が見えてくる。
              『新編武蔵風土記稿 男衾郡三品村条』
           「白髭社 村の鎮守なり、本地十一面観音を安ず、村内修験常徳院持、」
       
                                         拝 殿
『大里郡神社誌  神異神話神助』
「往古神體木造の衣冠の彩色に井桁及び瓦の紋形ありしと云う、爾来氏子は居宅の屋根に瓦を用いず、又井戸等を設くることを厭ふ、神禁を犯すときは神罰ありとなし、今尚懼れ慎みつゝあり、又氏子村落には三本足の雉子、巴形の芝草、三本葉の松等を生ずと云う」     
 
  社殿正面には「正一位白鬚大明神」の扁額          本 殿

 三品白髭神社の傍らには畠山重忠にまつわる、周囲15m、高さ5m程の巨大な岩石があり、「畠山重忠乗り上げの岩」と伝わる。
        
          奥が白髭神社の社殿、手前の大岩上に鎮座する高山石尊神社
        
           巨石群の基壇上に鎮座する境内社・高山石尊神社
『大里郡神社誌』には「高山神社は日本武尊を祀り、明治四十五年二月二十四日同所字高山より移転す」と記載がある。

 今回事前の予備知識もなしに秋山羽黒神社近隣の社という事で、住所を登録して訪問したことも悪かったが、予想していた以上の巨石と巨木に圧倒された。紙垂等はなかったが、近郊にある磐座(いわくら)と比べても遜色ないか、それ以上の迫力がそこには存在していて、思わず手を合わせてしまう位の、所謂「神聖さ」というべき何かが周辺一帯に漂っていた。
 勿論「石」は所詮「石」でしかない。無機質な物体である事には違いないが、昔の人だけでなく、今現在生を受けている我々日本人ならば、こういう巨大な自然物に神聖なものを感じて、崇めたくなるのではなかろうか。実際そういうものを目の当たりにすると何となく理解できてしまう。
 寄居町にこんな立派な磐座があるとは、筆者にとって、予想外の驚きであり、これだからこそ神社を通じての歴史散策はやめられないのであろう。
       
巨石の間から聳えたつ大杉のご神木(写真左・右)。こちらには紙垂がしっかりと巻かれている。
    よく見ると巨石の重さに負けない位の根の力で、石を払いのけようととしている。
           何というパワー、何という生命力であろうか。
 
 境内巨石群の右側手前には折原郷土カルタに表記されている「し 重忠が 残す三品の ひずめ石」の立看板があり(写真左)、その蹄跡を探したのだが、一向に分からず、高山石尊神社の後ろ側にある巨石のなだらかな面にそれらしき跡があった(同右)。但し筆者の勝手な解釈であることはお断りしておく。
 大体馬上でこのような高い場所に登ることすら難しいのに、そこで練習すること自体おかしなことである。この逸話自体がどの程度信憑性があるかも謎であり、「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」にも畠山重忠関連の記載がないのも事実である。
 因みに「新編武蔵風土記稿」にはこの巨石は一切記載がされていない。これほどの規模で目立つ存在でありながら一言も記載されていないのは不思議である。

拝殿右側で石に挟まれた空間に鎮座する境内社    社殿の左側近隣に祀られている石祠
      稲荷神社であろうか。               詳細不明。
     
           境内に設置された「折原郷土カルタ」の立看板(写真左・右)

 立看板に書かれている「太鼓が祓う」とは、この地区で古くから伝承されている「三品石尊太鼓」である。「三品石尊太鼓」は、 三品地区にある「高山石尊神社」のお祭りの.呼び太鼓として昔から伝承されてきたものであり、 早いテンポで力強く. 太鼓を打ち込むのが特徴であるという。現在鉢形城公園で開催されている「寄居北條まつり」の際も市街地で太鼓の演奏を行っている。同時に獅子舞も伝承されているようである.
        
                           三品公会堂付近から見る社の風景
 
 社の東側を右回りに降りて路地で一般道と合流したところには、八坂神社と馬頭尊等の石仏群が並んで祀られている。
        
         道路の脇に並んで祀られている八坂神社と馬頭尊等の石仏群

 この八坂神社と馬頭尊等の石仏群がある場所は、位置的には社に対して南東方向にあるのだが、そこから直接石段等を設置して一本の参道を造らず、わざわざ回り込むように参道を造ったのには何か意図とすることがあったのであろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「寄居町HP」「現地立看板」等

 

拍手[3回]


富田上郷天神社


        
             
・所在地 埼玉県大里郡寄居町富田32831
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 無格社
             
・例 祭 初天神 125日 春祭り 415
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1083562,139.220457,18z?hl=ja&entry=ttu
 富田上郷天神社は寄居町富田地域北西部の国道254号線及び埼玉県道30号飯能寄居線南部に鎮座する。因みに国道254号線と埼玉県道30号飯能寄居線は、比企郡小川町から大里郡寄居町まで重複している路線で、寄居町露梨子地域との境付近から数百m程県道と表記されている。
 途中までの経路は鉢形八幡神社を参照。そのまま国道254号線を南下、そのうち左カーブし東行に転じ、650m程進み「塩沢」交差点を右折して暫く進むと、左側に富田上郷天神社が員坐する場所に到着できる。
 社の西側に隣接している上郷南区公会堂には駐車スペースも数台分あり、そこに停めてから参拝を開始した。
        
                         道路沿いに鎮座する富田上郷天神社
 
鳥居右側にある石碑と「天神社の石碑」案内板      「天神社の石碑」案内板

 天神社の石碑  新堀定二
 富田上郷区の鎮守天神社は通称一之字山と呼ばれ、富田を東から西へほぼ一直線に走りその西端山頂に鎮座していた。明治初年に「富田村の各字の神社を小被神社へ統合せよ」との布令が出た。然し天神社は「天神田入」と言う地名の付いた水田を、又山林を境内地続きに若干所有していた為、それによって十分な運営がなされ無格社乍ら統合しなかったと言われる。その後日支事変から第二次世界大戦へと戦争が拡大して行くのに伴い一之字山を含む三ヶ山二百町歩に及ぶ田畑を含む山林が軍用地として陸軍省に接収された。四方を見渡せる位置に鎮座する天神社も当然移転を余儀なくされ現在地へ移った。然し鎮守様が身近になった事は氏子にとっては勿怪の幸であろう
 この無格社の天神社氏子は三~四十名程で鄙びた社であった。その社にそぐわない立派な鳥居と石碑があり、幟が元日を含め年四回程立てられ祭典が行われていた。
 然し乍らこの石碑が何の為の物であり何を意味する物か当時を知る人が居なくなっている。何等かの手を打って読み解かなければならないと思っていた。遇々元町長丸橋安夫さんに話した所「拓本にとって然る可く方法を講ずれば」との助言を頂いた。又拓本は丸橋さんの義兄に当る岡部町の大野政勝さんを紹介して頂き次に掲げる立派な文章が浮彫された。

 碑文  男衾村天神社修華表新作幟石牀碑
男衾邨西南隅富田天神社山高三町余盤廻而上
松杉雑樹蓊鬱夾路遠望之如蛇背頂上廓清過一
華表社殿位其西老樹繞之大皆数圍森龍際天以
阪路從北人喚言北向天神遠近之人賽甚多矣而
隙跳二毛信越諸峰朝輝夕陰嶕嶢入雲窈宨
吐靄凝然獨立欲使人羽化焉村人改造華表經始
於明治十一年落成其十五年匾額之書故前田侯
爵齋泰卿也二十二年新作幟至三十年造石牀而
樹竿以謀不朽也守田寶丹書之布長十有五尺横
長四尺隣近不見其比也嗚呼以僅々三十余家十
為此盛事感戴神德不深且厚能若斯耶今
又将紀其事于石之貼永遠使子孫継承遺志重脩
朽腐可謂用意周到也項日介社掌石田親春嘱記
於余ゝ賤陋寡聞非其任亦不得辭遂不顧謭劣述
数記以付焉
 明治三十五年十月菅公一千年祭日  
春潭漁樵撰併書

 然し明治三十五年春潭漁樵撰併書とある漢字文では読めず、これ又丸橋さんの労を煩わし「川の博物館」主任学芸員の針谷浩一氏にその読み解きを依頼して頂いた。
 (読み下し文)
 男衾邨の西南隅、富田天神社は山高三町余にして盤廻して上る。松杉雑樹蓊鬱として路を夾む。これを遠望すれば蛇の背のごとし。頂上は廓清され、一つの華表を過ぐ。社殿はその西に位す。老樹これを繞りて大いに囲む。森龍天に際す。阪路北に従う人は北向天神と換言す。遠近の人賽甚だ多し。隙を摂りて二毛信越の諸峰を眺む。朝には輝き夕にはかげる。嶕嶢雲に入り、 窈宨として靄を吐く。凝然として独立し、人をして羽化せしめんと欲す。村人華表を改造せんと明治十一年に経始して其の十五年に落成す。匾額の書は故前田侯爵齋泰卿なり。二十二年幟を新作し三十年に至りて石牀を造る。樹竿朽ちせざる謀なり。
 守田寶丹書の布は、長さ十有五尺、横長四尺なり。隣近に其の比を見ざるなり。嗚呼、僅々三十余家、十餘歳をもって此の盛事を為すこと、神徳の深く且つ厚能ならざれば斯くのごときかと感戴す。今また将に其の事を紀して石に貼り永遠に子孫に遺志を継承し朽腐を重脩せしめんとするは用意周到と謂うべきなり。頃日社掌石田親春を介して余に記するを嘱す。余賤陋寡聞にして其の任にあらずも辞するをえず。遂に謭劣をも顧みず、数を述し記し付けたり。
 明治三十五年十月菅公一千年祭日 春潭漁樵撰併書
 その訳文に当天神社は集落から三町余(三三〇米) 離れた山上に在って見晴らしよく信仰篤ったとの事。祭神菅原道實公一千年を記念して氏子が十年かけて鳥居を改造その扁額の書は侯爵前田齋泰卿である事。それに続いて幟は守田寶丹が書いた事等が記されていた。幟の文章は右に勲業長祭千古祠当所氏子中左に寛仁慈惠民懐之 明治二十一年 戊子 孟夏吉日 守田寶丹拜書」
又守田寶丹なる人は筆者の不勉強故どんな人物であったかは分からないが成田山新勝寺裏山にある社に浅草講中寄進の立派な石碑を書いている所からかなりの人物であった事がうかがわれる。
 現在の位置にこの石碑がある事はあの忌まわしい戦争の犠牲であったと考える。今後如何なる事があっても戦争等してはならない、世界が平和でなければならないと言う事を肝に銘じながら筆を置く。
 ご協力いただいた皆さまに改めて御礼申し上げます。
                                    境内掲示板より引用
 
      鳥居に掲げてある立派な社号額            境内の様子
        
                     拝 殿

 天神社 寄居町富田三二八三-一(富田字浅ヶ谷戸)
 当社は、富田の一集落である上郷の鎮守として祀られている。創建年代は明らかでないが、『風土記稿』には不動寺持ちの社として載せている。
元来の鎮座地は、天神山と呼ばれる小高い山の頂であった。その様子は、新堀定二家所蔵の「天神社絵図」に詳しく描かれており、急坂を登り詰めた平地に設けられた境内には、大樹が生い茂り、その中に茅葺きの堂々とした社殿が東向きに建っていた。
 しかし、この山が、昭和十六年に陸軍の用地として接収されることになったため、移転を余儀なくされた。新たな境内地は、麓の会所が古くから祭りの準備などに利用されていたことから、この隣接地が選ばれた。当時の模様を知る古老によると、本殿・拝殿・鳥居・灯龍などの建築物は牛車に載せて運び、神体は時の神職石田四郎左衛門によって真夜中に遷座したという。またこの移転に合わせて、上郷の地内にあった字西前耕地の八坂神社と字寺ノ上の秋葉神社の二社を境内に合祀した。
 なお、本段に納められている天満天神座像の台座銘文には「天神宮御守文化八未年(一八一一)正月吉日 遠州山名郡浜松大佛師幸石甚衛門」とある。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿

  境内に祀られている
「富士岳大神」の石碑             「上郷天神社境内社」
                                         真ん中の石碑は「秋葉神社」


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」等
  

拍手[1回]


秋山羽黒神社

 寄居町秋山地域に鎮座する秋山羽黒神社は『新編武蔵風土記稿』にて「本地仏大日を安ず」と記載されている。この「本地仏」とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えであり、本地垂迹(ほんじすいじゃく)ともいう。
「本地」とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。
 日本では6世紀中頃に初めて仏教が伝えられたとき、これまでの神道信仰を守ろうとする人々との間で、争いが起こる。このときの戦いでは仏教信仰側の勝利となり、日本の古来の神道「八百万」(やおよろず)の神々は、仏の下に位置付けられることとなった。
 その後日本では、「本地垂迹」と言う思想が生まれ、インドの仏菩薩(本地)が、日本の実情に合わせて姿を変えて現れた(垂迹)という考えである。この思想は広く受け入れられ、八百万の神々と仏は、仏教主導のもとで融合し共存することとなった。
 神道信仰と仏教信仰との融合調和を「神仏習合」と呼ぶが、その後、この思想は、明治政府によって天皇を頂点とする「国家神道体制」を推進するにあたり、神仏を完全に分離させ(神仏分離令)、本地仏の多くは散逸してしまったという。
        
             
・所在地 埼玉県大里郡寄居町秋山743
             
・ご祭神 不明
             
・社 格 不明
             ・例祭等 不明 
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0981573,139.1741538,16z?hl=ja&entry=ttu
 鉢形城公園から埼玉県道294号坂本寄居線を東秩父村方向に西行する。2㎞程進むと「釜伏山参道」の標柱が進行方向に対して右側に見えるY字路に達する。県道は左方向にそれるように進行するが、そこは右斜め方向に進路を変更し、道幅の狭い道を進む。周囲には秩父外輪山の山脈が見え、民家も道路沿い以外には立ち並びそうもない静かな農村風景を見ながら600m程進むと、突如進行方向右側に秋山羽黒神社の木製の鳥居が見えてくる。
        
                                 秋山羽黒神社正面
 実はこの社から暫く進むと民家が数件あるが、行き止まりとなっている。周囲には鬱蒼とした森が続き、当然ながら参拝客もいない。当日の天候は雨交じりの曇りとも合わさって、寂しさも漂い、ひっそりと佇む社という第一印象。
 但しこのような場所柄であるにも関わらず、道路沿いには土砂崩れ防止の為か、石垣も組まれていて、社の入口にもしっかりと組まれていたのは意外であった。
 駐車スペースは見当たらないが、鳥居の向かい附近に駐車可能な路肩が僅かにあり、そこに停めてから参拝を開始した。
  
 鳥居前でお辞儀をしてから丘陵地を登る。予想外なことに、登った当初には全く石段がなく、細い山道のような上り坂を進む(写真左)。勾配もあるため、途中から息も上がるが、そこは辛抱。暫く進むとやっと石段らしき物体が見えてくる(同右)。こういう場所に参拝すると自分の日頃の運動不足を思い知ることができ、このような場所に巡り合うことができた感謝の言葉を心の中で呟きながら登らせて頂いた次第だ。
        
                      登りきった先にある境内の風景。
 社に到着するまでの石段があまりに粗末なものであったため、社自体にあまり期待していなかったので、山道を登りきった先にある境内、及び拝殿に通じるまでに何段もある石垣を見た時は正直驚きを禁じえなかった。
        
                              石製の二の鳥居

『新編武蔵風土記稿』巻之二百二十三 男衾郡之二 秋山村条
「正保の改には載せず、其後何の頃か、西之入村より分村して元禄の改には西之入村枝郷秋山村とあり、今は全く一村となって枝郷の唱へは用へず(中略)村内寄居より秩父への往環かゝれり」
「羽黒権現社 村の鎮守にて、 本地仏大日を安ず、
村持」

 寄居町にある鉢形城は、関東支配を確立した後北条氏の北武蔵から上野支配の拠点の城郭である。北条氏康四男氏邦が藤田康邦の娘婿として入城し、鉢形領支配を完成させた城郭として戦国史上極めて重要な位置づけがされている。
 ところで鉢形城時代の主たる交通路の中には「秩父道」といわれる「秩父往還」が既に存在していた。この「秩父往還」は近代まで主要な生活路として活用され続けている。
「秩父道」は皆野町三沢から釜伏峠を越え秩父へ至る裏道であり、当時は主要な交通路であった。熊谷や児玉方面からの道は寄居を通過し、「子持瀬渡」と言われる渡瀬で渡河した。「子持瀬渡」を渡らないで波久礼を通過する「川通り」は戦国時代当時交通の難所で、この「山通り」は重要なルートであった。
子持瀬の渡しは、『新編武蔵風土記稿 折原村条』に以下のように記されている。
 〇荒川
秩父郡風布金尾に村の界より当村へ入り、郡界を流れて末は立原村へ達す。是荒川当郡へ入始なり川幅百五十間許、冬より春までは假の芝橋を架して往来を便す、川を渡れば榛澤郡寄居村なり、渡口の邊に子持岩と唱ふる岩あるゆへ、土人子持瀬の渡と呼ぶ」
 
   鳥居に掲げてある石製の社号額       境内には社務所(?)らしき建物有り。
                       但し紙垂もあるので神楽殿の類かもしれない。
        
         何とも男性的で荒々しいという表現しか思い浮かばない石段、
 石垣上には女性的な拝殿が小じんまりと鎮座していて、石段・石垣とのアンバランス的な所が妙に心動かされる構図となっている。
 境内は拝殿を中心に横に広がりをみせ、石垣で補強されている。また周囲を確認すると、石垣は鳥居付近に1段あり、その後拝殿に通じるまでに2段が目視できる。更に拝殿部から奥にも切り崩した面もあるようだ。
       
           石段手前には杉の御神木が聳え立つ(写真左・右)
        
                     拝 殿
 羽黒神社 寄居町秋山743(秋山字羽黒山)
 〇歴史

 当社は秋山の中央にある羽黒山の山上に鎮まる。 創建については明らかでないが、『風土記稿』に「羽黒権現社 村の鎮守にて、本地仏大日を安ず、村持」とあり、化政期には村の鎮守であったことが知られる。 しかし、明治初年の『郡村誌』には若宮社・八坂社・白髭社の三社は載るが、羽黒神社の名は見えない。 また、明治生まれの氏子は、羽黒山には八坂神社を祀っていたと語っている。 何らかの理由で、明治初年に羽黒神社から八坂神社へ社名を改めたのであろう。
 明治四十年、折原の佐太彦神社に若宮社・八坂社・白髭社の三社を合祀した。 このため、羽黒山の八坂社の跡地に合祀記念碑が建てられ、遥拝所の形でその後も折々の参詣が続けられていた。 昭和三十年代に入ると、再び鎮守を守ろうとの気運が高まり、ついに昭和三十四年に八坂神社の跡地を社地として三社の神霊を迎え、再興を果たした。 社名は、鎮座地の羽黒山の名にちなみ、羽黒神社と号した。
                        「埼玉の神社 大里・北葛飾・比企」より引用
 
 正面の石段・石垣から拝殿に通じるルートの他にも、その右側端には別の石段もあり(写真左)、そこからのアプローチは勾配は緩やかで足腰の負担は少ない。思うに年配の方や、足腰の悪い方々には、そちらから進むように配慮された階段ともいえなくはない。またその石段を進むと、拝殿の右側に達するが、そこに祀られている石祠もあった(同右)。
        
 拝殿奥には小さな本殿部があり、その奥には丘陵地面を堀り、岩盤がむき出しになっている。境内は可能な限り平坦部を選んだのであろうが、それでも基礎工事を行い、山の丘陵地面をなだらかにするため、多くの人的な労働力を用いたのであろう。
 拝殿奥にはその時の削平した面が横一列に並べられた跡が今でも残されている。
       
 社殿奥には人工的な工事により岩盤が露わになった崖状の面があり、下部には石で補強されている所もある(写真左)。また「村社 八坂神社跡地 佐太彦神社に合祀」と彫られた石碑も設置されている(同右)。
        
                       拝殿手前の石垣より見る境内


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社 大里・北葛飾・比企」「Wikipedia」等

*追伸
 羽黒神社のご祭神は本来羽黒権現であるが、昭和34年に八坂神社の跡地を社地として三社の神霊を迎え、再興を果たしたのであれば「八坂社 素盞嗚命」・「若宮社 仁徳天皇」・「白髭社 天児屋根命」がご祭神となるが、確信がないため不明とした。
        
      



拍手[1回]


鉢形八幡神社

 神社沿革
 名称  八幡神社
 祭神  誉田別命第十五代応神天皇
 勧請年 天長元甲辰八月(八二四年)
 当社は北関東の拠点として重要な役割を果たした鉢形城主北条氏邦に依って永禄年間(一五五八~)に再建された天正十八年鉢形城落城の際兵火にかかる。嘉永四年一月三日には寄居町の大火でも類焼したが、慶應二年拝殿を建つしかし大正二年十二月二日又も火災によって拝殿を焼失する。
 再三の火災にもめげず大正六年に奥社を八年に今に残る拝殿を建設した。以来八十有余年氏子の厚い崇敬を仰ぎ今日に至ったが近年老朽化著しく氏子各位から改修の声が上がり建設委員会を結成、平成十七年七月着工、宮司総代氏子奉賛者を始め多くの芳志により奥社拝殿参道等の整備完了同年十月二十三日落慶した。
 平成十七年十月(二〇〇五) 八幡神社建設委員会 翠城鳥塚義信書
                                境内「神社沿革」碑文を引用

        
            
・所在地 埼玉県大里郡寄居町鉢形1168
            
・ご祭神 誉田別命
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 祈年祭 43日 例祭 915日 新嘗祭 1123
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1096334,139.1991976,16z?hl=ja&entry=ttu
 寄居町鉢形地区に鎮座する鉢形八幡神社は、国道140号バイパスを寄居町方向に進み、玉淀大橋(北)交差点を左折、国道254号にて荒川を越えて、鉢形陸橋を越える手前のY字路を左に進み、東武東上線の踏切を越えて埼玉県道30号飯能寄居線との合流地点である信号のあるT字路を右折する。
 その後600m程県道を東行し、「鉢形小学校入口」の立看板があるT字路を左折、進行方向右側にその小学校、道路を挟んだ反対側には「鉢形公民館・鉢形コミュニティセンター」を見ながら暫く道なりに進むと、道路がやや右方向にカーブする地点左側に社の社号標柱が見えてくる。
 
 鉢形小学校の道路を挟んで200m程南側に社は鎮座している。稲乃比売神社から直線距離にして600m程北西方向にあり、市街地から離れた長閑な丘陵地面に社は位置している。社に通じる入口付近には社号標柱があり(写真左、右)、左折すると角度のある上り斜面の坂道が待ち受けていて、更に進むと参道手前の道路右側には車幅が広い路肩面があり、そこに駐車させ参拝を開始した。
 
 参道入口正面には1対の灯篭が設置されている。   燈篭を過ぎて暫く真っ直ぐな参道が続くが
                         途中から右方向に曲がる配置となっている。
        
               曲がった先には鳥居・拝殿がある。
                ひっそりと静まりかえった境内。
        
          鳥居を過ぎてすぐ左側に設置されている「神社沿革」碑
        
                     拝 殿
 八幡神社  寄居町鉢形一一六八
 自然の要害を利用した鉢形誠は、文明年間(一四六九-八七)に長尾景春によって修築され、後に北条氏邦の居域となり、天正十八年(一五九〇)の落城まで、北関東支配の拠点として重要な役割を果たしてきた。現在、寄居町の大字鉢形となっている地域は、この鉢形城の城下町として中世から栄えてきた所で、当時は鉢形町と呼ばれていた。
 当社は、この鉢形町の総鎮守として代々の領主の崇敬が厚く、永禄年間(一五五八-七〇)には時の城主北条氏邦によって再建されている。このように、鉢形域と深い関係があったことは、当社に多くの幸いをもたらしたが、同城の落城に際しては、当社もまた敵方の兵火に罹って烏有に帰するという不幸な出来事もあった。同域は、落城の後廃城となったが、当社の方は氏子の力によって再建され、本山派修験の千手寺が別当としてその祭祀に当たった。ただし、城下として繁栄を誇った鉢形町は、廃城と共に衰微し、江戸時代には木持出・白岩・内宿・天粕・関山・立原の六か村に分かれ、木持村は氷川神社(現稲乃比売神社)を、立原村は諏訪神社を鎮守として祀るようになった。
『風土記稿』に「八幡社 当村(白岩村)及内宿・天粕・関山四か村の鎮守なり、千手院持」とあるのは当時の状況を表したものである。
 嘉永四年(一八五一)一月三日、荒川対岸の寄居に発生した大火災は、折からの強風によって当地にまで飛び火し、民家七〇戸をはじめ地内の六か寺及び鎮守社を焼き尽くしたと記録されている。寄居町大火として知られるこの火災によって当社は再び全焼の憂き目に遭ったのである。その後、氏子は直ちに仮宮を設け、祭りを再開し、一五年後の慶応二年(一八六六)には立派な社殿が再建された。
 明治初年の神仏分離によって、別当千手寺の管理を離れた当社は、明治五年に村社になった。ところが、大正二年十二月二日にはまたもや火災によって本殿・拝殿を焼失するという事態が起こった。この時も氏子一同はすぐさま社殿再建の願いを起こし、同八年七月十二日には焼失前にも優る社殿が竣工した。これが現在の社殿であり、拝殿の屋根には、これを機に従来の草葺きに代わって瓦葺きが採用された。
 文禄年中(一五九二-九六)に千手寺の別当職に就いて以来、今日まで当社の祭祀を担ってきたのが、逸見家である。その祖先の義重は北条氏邦の侍大将を務めた武士であったが、落城に際し家臣離散の時にあって、城主が代々崇敬してきた八幡社を守るべく当地に土着し、更に孫の義貞が千手寺を復興し、その初代別当になったという。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  社殿の奥に鎮座している石祠。詳細不明。   社殿の右側に祀られている浅間大神の石碑
       
                        境内奥に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)

「埼玉の神社」には、鉢形八幡神社のご神職は代々「逸見氏」であったという。この逸見氏は『新編武蔵風土記稿』や『大里郡神社誌』にも以下の記載がある。
 〇新編武蔵風土記稿 末野村条
「古は鉢形の領内なり。氏邦の家臣逸見美作守領せし処とも云ふ」
 〇新編武蔵風土記稿 下日野澤村条
「高松城址 村の東にありて、登ること凡そ十町にして、山上平垣四十間四方許、所々掘切り等今猶有せり、鉢形北条氏邦の臣、逸見若狭守の城墟なり、若狭守子孫野巻村に蟄居し、今野巻村 の各主役を勤む」
 〇新編武蔵風土記稿 野巻村条
「四郎兵衛氏は逸見を称す、先祖は蔵人佐と號し、北條氏邦に属したる由にて(中略)以前は甲州武田家臣にて、信玄の下知にて当郡へ来り、日野澤の内高松城に住せしが、小田原北條に属し、夫より氏邦が旗下となれるとぞ、天正十八年御討入りの時より民間に蟄し、当村の里正とはなりし由」
 〇大里郡神社誌 鉢形神社
「本山修験白石山多賀院千手寺別当職たりしが、明治元辰九月二十七日逸見式部と改名、鎮将府傳達所にて復飾願済み、最初の神主となる。
逸見氏は清和源氏甲斐逸見の庶流にして、中宗の逸見若狭守義重、武蔵国男衾郡鉢形城主安房守北条氏邦に属し、秩父郡小柱村・野巻村・深澤村、榛沢郡飯塚村・末野村、男衾郡藤田村の六ヶ村にて永七百五十貫の高を領し、侍大将を勤めたりしが、天正十八年五月本城没落、家臣離散の時、当御鎮守八幡大神は城主代々尊敬の神社なればとて、義重・白岩村に土着致し、孫逸見与八郎義貞を以て文禄年中、本山派修験千手寺廃跡を再興せしむ。
是より正統二十三代別当職相勤め、逸見式部に至り復飾して神主となる」
        
          社殿右側で、浅間大神の奥に鎮座する境内社・合祀社。
      左より「御嶽神社・三峯神社・厳島神社・姥神社・琴平神社・雷電神社」

 
     境内に鎮座する境内社・古峰神社     古峰神社の北側に鎮座する境内社・八坂神社
   参道入口付近に鎮座する境内社・天手長男神社(写真左)とその内部(同右)

 鉢形八幡神社の創建年代等は不詳であるが、文明年間(14691487)に長尾景春が修築、後に北條氏邦が居城とした鉢形城の城下町鉢形町の鎮守として再建し、崇敬が厚く祀られたという。その後天正18年(1590)に鉢形城が落城した後は、鉢形町も6ヶ村に分かれ、当社は白岩・内宿・天粕・関山の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格している。
 当社の歴史は戦火や大火等による消失の連続だった。北條氏邦が居城とした鉢形城の城下町鉢形町の鎮守として祀られたが、天正18(1590)鉢形城落城の際には兵火にかかって消失、その後氏子の力によって再建された。また嘉永4(1851)には寄居町の大火でも類焼したが、慶応2(1866)拝殿を再建。しかし大正2年またも火災により拝殿を焼失。この時も氏子一同はすぐさま社殿再建の願いを起こし、同8712日には焼失前にも優る社殿が竣工した。これが現在の社殿であり、拝殿の屋根には、これを機に従来の草葺きに代わって瓦葺きが採用されたという。

 このように何度も社殿の消失に遭いながら、当地の氏子の方々はこの社を見捨てず、その都度再建した。決して楽ではなかったろうし、現実的にも莫大な資金も必要だった事であろう。当地の方々の熱意や崇敬の念があったからこそ、この社は守られてきた。現在でも境内も定期的に手入れも行っているのであろう。筆者としても、社と当地の人々の関係を深く知る良い機会となった参拝であった。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「境内神社沿革碑文」等
                   

拍手[1回]