古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

善ヶ島神社


         
             ・所在地 埼玉県熊谷市善ヶ島197
             
・御祭神 日本武尊(推定)
             ・社 格 旧村社 旧善ヶ島村鎮守
             ・例 祭 祈年祭 旧3月15日 例祭 旧7月28日 新嘗祭 旧9月24日
             *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。(旧)は旧暦。
 善ヶ島神社は、熊谷市善ヶ島地区中央南部に鎮座していている。弁財厳島神社を起点として、埼玉県道59号羽生妻沼線を妻沼市街地方向に進み、700m程先の目立たない十字路を左折する。気の利いた行政区域ならばあるであろう案内板等はない。左折した先の道路は道幅の狭い為、周囲の状況を確認しながら道なりに進むと「龍泉寺」が右側に見え、その先に善ヶ島神社は鎮座している。
 県道から奥まって分かりづらい場所に有るが、社の手前には「龍泉寺」の駐車場もあり、そこに停めてから参拝を行う。
                 
                   善ヶ島神社正面
   
      正面鳥居には水害対策からか、           参道の先に鎮座している拝殿
   コンクリートで基礎が固定されている。     やはり石段で高く積み上げられている。

 鳥居、灯籠ともに大きく嵩が上げられ、拝殿も数段高く、水害防除対策を重点に置いた社であることを物語っている。
             
          参道左手には「大国主尊」の石碑   日露役記念碑と渡唐天神宮、天満宮
     
        社殿に通じる石段手前で右側には、ご神木とは判断できないが、                   
                巨木が聳え立つ(写真左・右)。
   青葉が生い茂っていて、これらの巨木を見るにつけ、生命の息吹を感じさせてくれる。
           
                                          拝 殿
『埼玉の神社』、『真言宗 智山派 梅松山 円泉寺HP』や当地のパンフレット『村の鎮守十社めぐり』では、当地は当初葦が生えた島で葦ヶ島と呼ばれたが、後に利根川の流れが変わり、近村と地続きになり善ヶ島と改めたという。また、1500年頃の蔵王権現社の勧請が当社の起源とされ、当初は蔵王権現社、明治初期に御嶽神社と称し、明治42年に善ヶ島神社に改称した。
 明治41年には大字裏久保の愛宕神社と、上元割の阿夫利神社を合祀。地元では合祀社の阿夫利神社に因み「阿夫利様」と呼ばれることが多いそうだ。

『新編武蔵風土記稿』の善ヶ島村の条に蔵王権現社と記載され、「永正(1504-1521年)年中の勧請ト云 龍泉寺持 末社 天神 疱瘡神 摩陀羅神」とある。
 
       拝殿上部に掲げてある扁額         拝殿左側に鎮座する境内社・稲荷神社
 
    稲荷神社の並びには石祠群が鎮座する      石祠群の右側には境内社・三峰神社が鎮座
              
               鳥居の近郊にある「構造改善の碑」
「構造改善の碑]
 構造改善事業竣工記念碑   題○ 農林大臣 倉石忠雄
 北は利根川、南は道閑堀に囲まれた善ヶ島及び大野・弁財耕地は、肥沃な利根沖積層に属し、古くから県北有数の豊僥な穀倉地帯とし、養蚕○菜の生産地として、その名を知られてきた。然し農地の形状は、旧来のまま不整且分散し、道路は狭曲し、用排水の便悪く、屢々早魃や湛水に苦しみ、その損害は莫大であった。偶々国及び県の指導により、農業構造改善事業が推進されるに当り、この地域の関係者相謀り、日夜熟識を重ねて、昭和四十二年秋、二百三十有余名の総意を結集して「妻沼東部第一土地改良区」を設立し、○期的な農業近代化の大事業を断行することに決した。(中略)これにより当地域の面目は一新し、明日の農業発展の基礎が確立して、輝かしい未来が約束されたことは、誠に慶びに堪えない。茲に○古の偉業竣工を祝すると共に、関係者の功労を讃え、土地改良区の子々孫々に至る繁栄を祈り、これを金石に刻て、後世に傳える。
昭和五十年春吉日 妻沼町長  増田一郎撰  
前建設課長 松崎 傅書
*句読点、「」は筆者代筆。○は解析不可。

 この地域も北に利根川、南にその支流である福川に挟まれ、江戸時代までは南北の河川により、島状の地形であった。豊暁の地でありながら、河川の氾濫地域に属し、度重なる洪水等で、農作物の打撃が昭和50年頃まであったという事実には驚きだ。
「構造改善の碑」には有史以来続いた、水害との戦いの痕跡が赤裸々に見えてくる。
        
                        鳥居の左側にある冨士嶽神社と冨士嶽浅間神社


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「真言宗 智山派 梅松山 円泉寺HP」
     「村の鎮守十社めぐり」等
          

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大野伊奈利神社

 浅間 大杉様の祭りは、葛和田・大野・俵瀬の三地区の祭りです。葛和田は6つの郭に分かれ、大野・俵瀬とあわせて8つの郭からそれぞれ当番が出されます。
 大杉神社の鎮座する「荒宿」は、特に「宮元」と呼ばれ、祭礼の一切を取り仕切る大頭、補佐する小頭を含め、十二名の当番が出されます。宮元では当番が毎年六名ずつ入れ替わり、前の年に小頭を務めた人が、翌年の大頭となります。祭りには当番の他に、葛和田・大野・俵瀬の各地区の人々をはじめ、大頭経験者などで組織された大杉神社祭礼行事保存会、祭り愛好者の団体である大杉神社愛好会などが参加されます。
大杉神社祭礼行事「葛和田のあばれみこし」PDF参照
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市大野751
             ・ご祭神 豊宇気毘売命
             ・社 格 旧村社
             
・例 祭 不明
 大野伊奈利神社は、弁財厳島神社隣の保育所、十字路を利根川方向に北上し、土手にぶつかる手前のT字路を右折すると、左手に社の鳥居や境内が見えてくる。社は利根川の土手に対して南側に面して鎮座しているので、北側は広大な利根川の土手が広がっている。
       
                 正面朱塗りの一の鳥居
 居上部の笠木等は通常のサイズだが、柱が短い為、頭でっかちのような形となっていて、不安定感は否めない。もしかしたら嘗ては通常の鳥居だったのが、水害等の災害が原因で、両方・もしくは片方の柱が折れたのではないか。その教訓を残すため、敢てこの状態で維持・保管しているかもしれない。勝手な想像で恐縮だが。
 地形からしても、なにより水害防除が求められる地とみられ、「埼玉の神社」には「伊奈利社を(利根)川の側に勧請することによって、水害から村を守ろうとした開拓者の心情が推察される」とある。
        
                        社殿に通じる石段前にある二の鳥居
        
             大野伊奈利神社は石段上に鎮座している。       
                   土手沿いの社故、自然堤防上に鎮座したのであろう。
        
                                         拝 殿       
 大野伊奈利神社の冒頭の解説で「大杉様の祭りは、葛和田・大野・俵瀬の三地区の祭り」とこの地域間独特の祭りと記述されている。
「同じ文化・伝統を共有する隣接地域」の意味すること、要約するにこの地区は嘗て一つの大きな区(葛和田)だったのではなかろうか。「俵瀬伊奈利神社」は新編武蔵風土記稿において、元禄年間に分村下との記載があり、分村前は、南・東側は「埼玉郡」、利根川を挟んで北側は「上野国」であることから、西側に隣接している「葛和田村」に含まれていたと考えたほうが妥当だ。また同風土記稿には、葛和田村・小字に「大野」と書かれている。風土記稿で小字の記載方法は地域北側から記述されているようなので、そうするとこの「大野」は現在の大野地区の可能性が高い。『埼玉の神社』にも「宝暦六年(1756年)の伏見稲荷からの分霊証書に『武州 大野村鎮守』とあることから、当時既に『大野村』という名称が使われており、葛和田村から実質は独立していたことがわかる」とも記載されていている。

 
  
石段の右手側に境内社・三峯神社と石祠    社殿左側にある青面金剛と庚申塔、馬頭尊、
                         
馬頭観音。祠の中にも馬頭観音あり。



 参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等

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俵瀬伊奈利神社

 荻野吟子は江戸時代末期の嘉永4年(1851年)、現熊谷市俵瀬に生まれました。18歳で結婚しましたが、不慮の病に罹り2年ほどで離婚しました。この時、婦人科の治療を受けたことから、女性医師の必要性を痛感し、医師となることを決意しました。
 しかし、当時、女性には医術開業試験の受験が認められておらず、制度改正に奔走しました。その際、「令義解(りょうのぎげ)」という古文書に女医の記述があることを訴えたと言われています。この「令義解」を校訂し、後世に引き継いだのが埼玉の偉人「塙保己一(はなわほきいち)」でした。
 こうして吟子は様々な困難を克服し、明治18年(1885年)、医術開業試験に合格、日本で最初の公認女性医師となりました。
 開業後は、診療活動に加え、婦人解放運動等の社会的活動も担い、女性の地位向上や衛生知識の普及にも大きく貢献しました。大正2年(1913年)、62歳で永眠し、栄光と波乱に満ちた生涯を閉じました。
                                      埼玉県㏋より引用
 荻野吟子記念館は熊谷市俵瀬地区にあるが、その記念館近郊に伊奈利神社が鎮座している。俵瀬地区で生まれ、青年期まで過ごした吟子はこの社にお参りに行ったことがあったのだろうか。
        
              
・所在地 埼玉県熊谷市俵瀬489
              
・ご祭神 倉稲魂命
              ・社 格 旧俵瀬村鎮守
              ・例 祭 4月・10月 例祭
 熊谷市俵瀬地区は、熊谷市の最北東部に位置し、利根川とその支流である福川が合流する地点の東側に、東西1.4㎞程、南北850m程の2河川に挟まれた地域に行政区域は形成されている。地区名「俵瀬」もその河川に囲まれた「俵型」の島が連なっているようなので、その地名が付けられたとも云い、また江戸時代、収穫した米の俵を船に乗せた場所という言い伝つたえもある。但しこの「俵瀬」という地名は、江戸時代正保年間の国図には見当たらず、元禄改定図が初見であり、正保以降(検地は寛文以降)に分かれた村で、「新編武蔵風土記稿」には天領として代官を置き、幕府が管轄していた地であった。

 俵瀬伊奈利神社は、葛和田神明社から900m程東へ走って行くと、俵瀬コミュニティセンターに隣接して稲荷神社が鎮座している。俵瀬コミュニティセンター前には駐車可能なスペースも確保されており、そこに停めてから参拝を開始した。
        
                               俵瀬伊奈利神社正面
 
 鳥居を過ぎると左側に石碑がある(写真左)。但し解析が難しく断念。そのまま社方向に進む中で、左側にある俵瀬コミュニティセンターを左手に見ながら(同右)二の鳥居方向に進む。
        
                              石段の先にある二の鳥居
 利根川と福川に挟まれた俵谷地域。嘗てこの旧俵瀬村は、北に流れる利根川には堤がなく、南には中条堤がそびえ、利根川の増水のたびに水が滞留しがちな「水場」の村であったようだ。ながらく水害と闘ってきた俵瀬の地の鎮守社ならではの配置に思えた
       
          紙垂等はないが、二の鳥居付近に聳え立つ巨木。
 周辺にある巨木・老木は、嘗て体験していた幾多の水害等の被害を見てきたであろう、物言わぬ歴史の証人でもある。
        
                                         拝 殿

 熊谷市指定無形民俗文化財
「葛和田のあばれみこし 」大杉神社祭礼行事
熊谷市北東部、利根川沿いの葛和田(クズワダ)地区は嘗て、利根川水運の河岸として賑わいました。河岸に鎮座した大杉神社は、水難守護の神として信仰され、祭日には各地から数百の船が接岸したと云います
関東の奇祭としても知られる東のあばれ神輿「大杉様のあばれ神輿」の渡御で使われる神輿は、関東一重いもので2トンもあり、その神輿を地区内の若い衆が担ぎ、早朝から葛和田地区をはじめとする秦地区内(葛和田・大野・俵瀬)を練り回り、午後1時過ぎから利根川の清流でさらにもみ合い覇を競って除災を祈願します
この葛和田の大杉神社祭礼行事は、町の無形民俗文化財に指定されています。大杉神社は、古くから水難、悪疫守護の神として知られています。葛和田地区は江戸時代河岸場があり、水運に携わる人々が無事安泰を神社に祈願した祭札が「あばれ神輿」であり、その名残を今に伝えるものです。川のまち妻沼ならではの夏の風物詩が、東西のあばれ神輿なのです。
                            熊谷市デジタルミュージアムより引用


『新編武蔵風土記稿』俵瀬村の項に稲荷社が記載されているものの、「成就院持」としか記載されていない。また創建由来が他の資料等見つからず、間接的に「俵谷」地区に関連した歴史等を探すより考察方法がない。
『埼玉の神社』でも同様で、直接的な資料がないため、成就院の記載を引き「成就院は慶安四年(1651年)の草創と伝えている。当地が一村としての体裁を整え始めるのが寛永(1624-1645年)の末ごろと思われ、当社の創建も、別当成就院と前後して行われたものであろう。」と記されている。
 また江戸時代には「稲荷社」と称し、明治初期に「伊奈利社」と改め、明治41年合祀政策により同大字の神明社、厳島神社を合祀し、大正2年には堤防工事に伴い利根川縁にあった当社を厳島神社の旧社地に御遷座と伝えている。
              
                  境内社 仙元社


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉県 HP」「埼玉の神社」「熊谷市デジタルミュージアム」等


                        

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葛和田神明社

 葛和田地域は、熊谷市の北東部に位置し、利根川がすぐ北側にあり、現在は肥沃な妻沼低地面で野菜の栽培が盛んな地域である。また、利根川の渡船場、グライダー滑空場、荻野吟子氏生誕の地が地区周辺にはあり、歴史と文化に彩られた地域でもある。葛和田神明社は地区東部に鎮座していて、すぐ後ろは利根川の土手であり、永禄年間(15581569年)には、上杉謙信が船橋を架けて軍が渡河していたと伝わる、埼玉と群馬群馬県千代田町赤岩を結ぶ「葛和田渡船/群馬県側の名称は赤岩渡船」が現在も利根川に残る貴重な渡し船として現役で活躍している
 
嘗て北東の利根川の葛和田の渡しの近くに鎮座していた大杉神社が、大正期の利根川の河川改修堤防工事に伴い境内に合祀されて、市指定無形民俗文化財である大杉あばれ神輿が葛和田神明社で年に一回行われている。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市葛和田591
             ・ご祭神 天照大御神
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 祈年祭 4月中旬 大杉祭典 7月下旬 例大祭 10月中旬
 葛和田神明神社は、埼玉県道59号羽生妻沼線と同県道83号熊谷舘林線が合流する「秦小学校前」交差点を右折し、100m程進み、変則的な十字路を左折し、300m程先の十字路をまた左折すると葛和田神明神社が見えてくる。残念ながら神社東口にある境内に入る入口は封鎖されていたので、仕方なく門前に路駐し、急ぎ参拝を開始。
        
                 葛和田神明神社正面鳥居
 
     木製で神明造りの一の鳥居         二の鳥居。脇には社号標柱あり
                        社号標柱には「指定村社 神明社」と表記
        
                                     
南北に長い参道
        
                 
参道の両脇には2基の灯篭。その先にある非常に小さな狛犬。
 特別狛犬の大きさには規定があるわけでないと思うが、境内の規模に対しての違和感は拭えない。但し狛犬の表情は可愛らしい。
        
             参道左側にある「大杉神輿修繕記念碑」と修繕寄附芳名碑
【大杉神輿の由来】
 江戸時代、葛和田・大野・俵瀬村は利根川の川岸場として賑いの地であった。大杉神社は利根川に注ぐ道竿堀の南に在ったが大正三年堤防工事に伴い現在の地、神明神社に合祀されたものである。
 その昔、荒宿の与助という腕の良い船頭がおり江戸まで三十余里の船路を運行していた。ある日、与助が百石船に、米・野菜・薪等を積んで江戸に向かって出発した。二日目に霞ヶ浦の西浦に差し掛かった頃一天俄にかき曇り凄まじい暴風となった。腕に自信のある与助であったが操る船は木の葉の様に揺れ今にも波に飲まれんばかりであった。思わず口をついて出た言葉は「南無大杉大明神」日頃厚く信仰している大杉様におすがりしようと一心に祈念するうち、これは不思議、荒れ狂う波の上に白髪の大杉様が白雲に乗って静かに現れ木の葉の様に揺れ動く与助の船を片手で掴みあれよあれよと言う間に波静かな海へ運んでくれました荷物を無事に届け村に帰った。与助の口からこのことを聞いた村人達はいまさらの様に大杉様の霊験あらたかなることを感じ、そのお礼と以後船路の安全を祈念して当初江戸末期享和一年(1801年)に神輿を造営した、と伝えられており明治六年(1873年)に現在の大神輿に作り替えられ、年に一度の祭礼を毎年七月二十六日と決めその大神輿を担ぎ村内を一日がかりで練りまわり揉みに揉んでさらには利根川に入れいつしか暴れ神輿といわれ関東地方でも有名なお祭りのひとつに数えられる様になった。
 平成五年一月二十五日付大杉神社祭礼行事として町の文化財に指定され現在の祭礼は時代の変化にともない七月下旬の土・日曜日に変更し盛大に行われている。
                               大杉神輿修繕記念碑文より引用
        
                       葛和田神明社境内に鎮座する大杉神社神輿殿
【関東一のあばれ神輿】
 当社は、伊勢神宮の御師が天照大御神を奉り、利根川の乱流と共に移転を繰り返した葛和田の総鎮守である神明社に大杉神社を合祀した。当地は昔江戸との利根川舟運が隆昌し、与助という船頭が水難の際に大杉明神に助けられた伝説が残っている。7月下旬の大杉祭典は利根川に入れた神輿の上で揉み合うことから「関東一のあばれ神輿」と呼ばれ、勇壮な祭りである。
 神明社は祈年祭(4月中旬)と例大祭(10月中旬)を斎行し、7月下旬の大杉祭典は13時過ぎに利根川に神輿を入れて男衆が揉み合いを行い大勢の観客で賑わう。
 近くの利根川河畔にはグライダー滑空場があり、また群馬県と往来する渡し船が今も運航しており風情豊かな田園風景が残っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                          
大杉神社の隣には富士塚と石碑、石祠群
 塚付近に非常に多くの神様が祀られているが、ロープやベンチで詳しく確認できなかったのが残念。
        
                                        拝 殿
 
  凱旋記念碑と石祠2基。石祠は詳細不明。      社殿の右奥にある庚申塔群
        
                                境内にある「改築記念之碑」
【改築記念之碑】
神明社は天照皇大神を鎮祀し葛和田の鎮守と崇敬して来りしものなれどその創設は不詳なり。社領十五石一斗の御朱印を慶安二年に下賜せられしと言えるを見てもその年所久しきを知るなり。明治四十年五月以降葛和田全域神社大杉神社外八柱合祀す。昭和四十二年時代の要求により境内の整備を行う。全氏子協議の結果委員会を結成、第一期工事予算金五十余万円を以て起工し雑木を伐採し適地植樹をなす区画を整然となすにブロック塀延長二百五十三米を建設し昭和四十三年三月竣工。引き続き第二期工事として圣年久しきによる腐朽甚しき建造物の修復を協議中偶々五月十六日子供弄火により拝殿草葺屋根消失直ちに改築委員会に切り替え内外信者の浄財二百八十余万円を以て従来の建坪五十五平方米屋根工法は草葺を廃し日本瓦葺となし斉藤隆彦氏の請負となり昭和四十四年七月竣工す。尚神職は上杉家二代に次いで現島田家三代に亘り奉仕するなり。
                                  改築記念之碑文より引用




 *参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「千代田町HP」等

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日向長井神社

 新撰武藏風土記稿 日向村条 八幡社
 村の鎭守なり、源賴義奧州征伐の時此地に止宿し、軍陣の首塗を祝して、勸請する所なりと云、按に此地當時の奧州道に屬せしこと、慥ならずといへども、府中より高麗郡へかヽり、上野ヘ入しは必定なれは此事なしとも云難し、今當社の緣起あり、建久・大永・文祿の三度に書繼し由なれど、本書にはあらず、其建久の記に曰、天喜五年源賴義奧州征戰之時當郡に滯留、其頃式部太輔助高郡中西城に居城、城の東に四町四方の池有、大蛇栖て村民を惱、然るに賴義の命に寄て、島田大五郞道竿と云者、彼大蛇を退治し、其地より利根川迄掘をほり水を通る、是を道竿堀と名く、其蛇を退治有しを、賴義征伐の吉事なりとて、當所に八幡を祭る、天喜五年八月也、建久三壬子年八月十五日日向彌五郞記錄寫畢此記書信すべからずといえども姑載す、天喜五年の勸請實ならんには、前年賴義首途の時土人に命じ置て、此時成就せしなるか、又曰其後治曆二年島田大五郞道貞に此地を給り、神職付置といえども、亂世故興廢有、曆應元年尊氏再興、文和元壬申同人新田義興退治之節、嶋田山城守・長井大膳大夫、於戰場鬱憤を夾み、合戰の時社頭竝屋敷燒失す、嶋田備前守上州岡山の城に遷る、大永三年八月十五日、島田山城守書次之此書繼によれば、一旦中の時昔の傳は失て、その萬一のみを傳ふるならん、又曰其後永祿四年上杉謙信小田原發向之時、嶋田山城守又當村に遷、新田を寄附す、夫より成田長康信仰して、年々納物有、天正十八年忍落城故、成田・嶋田兩家社荒廢せり、文祿元年八月十五日嶋田源次郞書記す此源次郞は則別當三學院の先祖なりと云、
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市日向1090
             ・ご祭神 品陀別命、息長帯姫命、外八柱
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 例大祭 418日、1018日 他
 上須戸八幡大神社の南側には埼玉県道263号弁財深谷線が東西に通っていて、東方向に進み、同県道303号弥藤吾行田線との交点をそのまま真っ直ぐ進むと、900m程先で、進行方向右側に日向長井神社が鎮座している。駐車スペースは境内にあるので、そこに駐車してから参拝を行った。
        
                                  日向長井神社正面
      社は社殿等、東向きの配置となっていて、鳥居から社殿まで長い参道が続く。
                   因みに「日向」は「ひなた」と読む。 
 参道の手前には鳥居が立っていて(写真左)、その上部社号額には、明治9年に長井神社へ改称される前の「八幡宮」と表記されている(同右)。
        
                     参道は長く、その両側には豊かな社叢林が広がる。
              手入れも行き届いていて、荘厳さもある社。
 
 参道を進む途中、右に曲がるルートがあり(写真左)、その先には境内社(同右)が鎮座している。狐様の置物がある為、当初は稲荷社と思ったが、他のHPを見ると違う社との事だ。詳細不明。
        
                    100m程参道を進むと、ようやく社殿が見えてくる。
        
                        境内に入ると左側に案内板が見える。

 長井神社略伝
 この神社は、品陀別命・息長帯姫命外八柱の命が御祭神である。
 1057年(天喜五年)に、源頼義が安部貞任を討つため東北地方へ行く時、当地に滞在した。この時、竜海という池に大蛇がすんでいて村人を悩ますと聞き、島田大五郎道竿(みちたけ)という者に、弓矢と太刀を与えて大蛇退治を命じた。
 道竿は利根川まで道竿(どうかん)堀を掘り、川を落として大蛇を退治した。これは東北地方平定の吉事として、この神社を祭った。
 当社は日向の鎮守として御神徳を仰ぎつつ、家族や地域の平安をお守りしている。特に、昔から安産、血の道などの婦人病に霊妙な御利益ありと伝えられる。
                                      案内板より引用

        
                                       拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
       
            社殿右側手前で、聳え立つご神木(写真左・右)

「熊谷Web博物館」によると、昭和30年、14カ村が合併して「妻沼町」が誕生する前、この地域は妻沼町・男沼村・太田村・長井村・秦村とそれぞれ行政区域は分かれていた。秦村は明治22年の新町村制施行いわゆる明治の合併の際に、葛和田、日向、俵瀬、大野、弁財の各村を併せて誕生した比較的新しい村名ではある。
 秦という名前の起因は『埼玉県大里郡郷土誌』を要約すると、「和名抄の上奏郷及び下秦郷が今の本村(秦地区)であるという記載に依るもので、吉田東伍博士の説にも、中古時代の上下秦郷の地は今の成田・中条あたりから本村にかけてであり、この地方は元々秦郷と称えていたとしている。しかし、一方『国郡志』では和名抄の指す秦郷は今の熊谷市奈良付近であるとしている。したがって、今の本村(秦地区)を完全な秦郷の地と判断するには多少疑問が残る。」とある。
            
             神興庫             神興庫の脇に並ぶ石祠群

 歴史的に秦と呼ばれた地域は、現在の妻沼町秦地区だけを限定していない。『日本地理志料』も奈良村から葛和田にかけての広範な地域の地名であるとしている。また、『埼玉県史』も長井村、秦村から奈良村上奈良にかけた大部分をあてている。
 秦の範囲について、どちらかといえば『日本地理志料』や『埼玉県史』の説により、奈良村から葛和田にかけての広範な地域の地名であると考えたい。そう考えれば、むしろ明治の合併の際、この地に秦の地名を用いたことは、賢明であったと言えるのではないだろうか。 
   境内にあるイラスト入りの長井神社略伝       社殿左側に鎮座する天満宮

 利根川の流域に属するこの秦地区は、昔から常に洪水にさらされ、地形の変化が激しく、概ね今のような集落が形成されたのは徳川氏の江戸入府以降のことと推測される。それ以前は洪水の浸水地として農耕が極めて不適で土着に耐え難い状況であった。そのため、集落の固定化はそれなりに難儀であったと思われる。

 また、当時の様子を『埼玉縣大里郡郷土誌』から要約すると、「利根川は村の北境を東流し、福川は長井村より来て村の南境を東流し利根川に合流する。更に道閑掘も長井村より入り、村の中央を東北流して俵瀬にて利根川に注ぐ。また村内に沼が三カ所あり、日向にある沼を次郎兵衛沼、辨財にある沼を辨財沼、俵瀬にあるを大池と呼んでいた。」このように秦地区は平均的に低地で、三つの川に挟まれ、池沼も多く洪水の被害を受けやすかった。しかし、逆に水運には適していた。そのため交易・交通の要となる条件も有していたと言えよう。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉縣大里郡郷土誌」「埼玉県地名辞典」「熊谷Web博物館」等
       

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