下清久諏訪神社
氏子は毎年9月27日になると、それまで一年間、自宅の神棚に飾っておいた当社の「鎌」に新しく作った「鎌」を添えて当社に返し、再び別の「鎌」を借りて、五穀豊穣を祈り自宅の神棚に飾った。「鎌」は、竹の柄に柘植(つげ)で作った刃を付け、刃の内側を墨で黒く塗ったものであった。また、体に出来物ができた時は、この「鎌」でその箇所を刈り取る仕草をすると治るといわれた。
このように嘗ては盛んに行われた「鎌どっかえ」も、氏子に勤め人が増えたことによる農家の減少や医療技術の発達により、昭和30年を境に徐々に衰退し、更に、勤め人が一層増加したことにより甘酒を作る人手が不足するようになり、昭和60年に甘酒作りを中止すると、ほとんど行われなくなった。このため、総代・役員・行事が話し合い、平成6年に正式に「鎌どっかえ」の中止を決めたという。
・所在地 埼玉県久喜市下清久599
・ご祭神 建御名方命
・社 格 旧下清久村鎮守・旧村社
・例祭等 夏祭り(行灯祭り) 7月26日
久喜市下清久地域は、古利根川の乱流期に形づけられた自然堤防上に位置していて、青毛堀川と備前前堀川の間の低地・台地に位置する農耕地帯である。地域東側には南北方向に蛇行しながら流れる新川用水が上早見地域との境となっていて、地図を確認すると、上早見千勝神社から新川用水を隔ててほぼ真北に下清久諏訪神社は鎮座している位置関係となっていて、この二社は直線距離にして200mも離れていない。
道路沿いに下清久諏訪神社は鎮座
社の正面となる社号幟を立てる柱から見ると、鳥居はやや西向きとなっている。
後日地図を確認すると、南西方向に向いている社
『日本歴史地名大系 』「下清久村」の解説
上清久村の東に位置し、北は新川用水を境に久本寺(くほんじ)村。天正一八年(一五九〇)八月の徳川氏関東入国にあたり、松平康重は忍(現行田市)から騎西(現加須市騎西)へ移ったが、所領二万石のうち四千石不足であったため、検地と下清久二千石で補充したという(石川正西聞見集)。村高から考えても下清久村一村ではなく付近一帯が含まれていたと思われる。騎西領に所属し、検地は上清久村に同じ(風土記稿)。田園簿によれば川越藩領で、田高一七七石余・畑高一五九石余、ほかに野銭永七〇文があった。
道路沿いに移動すると下清久諏訪神社正面となる
社の正面としてしっくりとするアングルだ。
創建年代は不明である。ただ下清久村が清久郷から分村したのが1596年(慶長元年)以前であり、分村時に信濃国一宮の諏訪大社から分霊を勧請したものという。近くの清福寺が別当寺であった。1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
氏子区域は近世の下清久村を引き継ぐ大字下清久で、総代は、氏子を「上」「中」「本村」「宮守」「新田」の五つの村組に分けて、各一名ずつの計五明で選出され、人気三年で神社運営に当たるという。このほか「行事」と呼ばれる当番が、家並み順に二名ずつ計一〇名選出され、夏祭りの準備や境内の清掃を担うとのことだ。
正面東側手前側にある青面金剛と(石)橋供養塔
鳥居を過ぎてすぐ左側にある「諏訪大社参拝記念碑」
その並びに祀られている熊野大神と神明宮の石祠
「諏訪大社参拝記念碑」の左側にある力石二基
拝 殿
諏訪神社 久喜市下清久五九九(下清久字宮浦)
『風土記稿』によれば、往古、当地が属していた清久郷は、慶長元年(一五九六)までに上清久・下清久に分けられ、それぞれ一村となった。『埼玉県地名誌』によれば、清久という地名の由来は、古利根川の乱流期に形づけられた自然堤防上に位置していることによるという。鎮座地の下清久は、青毛堀川と備前前堀川の間の低地・台地に位置する農耕地帯で、東の境には新川用水が流れている。
当社はこの新川用水のすぐ西側に鎮座しており、『風土記稿』下清久村の項には「諏訪社 村の鎮守なり、清福寺持、下二社同持、〇熊野社〇神明社」とある。口碑によれば、創建は、清久郷が分村するに当たって、信濃国一宮の諏訪大社の分霊を下清久村の鎮守として勧請したものであるという。別当の清福寺は久喜町真言宗光明寺末で瑠璃山と号し、中興開山の法印宥源は延宝五年(一六七七)に入寂した。
神仏分離により、当社は清福寺の管理下を離れ、明治六年五月に村社となった。
本殿内には「大明神勧請安鎮座」と墨書された神璽をはじめ、三重の厨子に納められた、神体とされる諏訪大明神立像や、「諏訪大明神 願主斎藤幸右衛門献謹拝 明治二巳年十二月吉日」と墨書された金幣が奉安されている。
「埼玉の神社」より引用
境内に祀られている稲荷社 本 殿
社の祭事は7月26日の夏祭りの年1回である。この夏祭りは「行灯祭り」とも称し、氏子が分担して作った行灯を当日の朝、「行事」と称する当番が境内や当社に至る道筋に100基ほど飾る。午前中に神職の奉仕により祭典が執り行われ、終了後、樽神輿を子供が担ぎ、各耕地ごとに受け継ぎながら、二時間ほどかけて氏子区域を一巡し、当社に戻るという。その後、午後七時に行事が行灯をともすと、氏子が銘々で参拝する。
夏休み中ということもあって、境内は家族連れの参拝者や、連れ立って遊びに来る子供たちで終日にぎわい、午前中から境内ではカラオケ大会や、境内に設営された綿飴や金魚すくい等の模擬店で盛り上がるという。
地域の重要な祭事と同時に、近隣住民同士のコミュニテーに欠かせない仲間意識が芽生える伝統行事は、今後も大切にしてもらいたいとつくづく感じる次第だ。
境内にひときわ目立ち聳え立つご神木
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等