古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

仲町愛宕神社

 慶長8年(1603年)、征夷大将軍となった徳川家康のもと、江戸幕府が創立され、江戸と京都、大阪などを結ぶ交通網の整備は領国経営の上でも重要な施策となった。内陸を通る中山道の整備もその一つである。そして、かつて本庄に城下町を創った新田氏家臣の末裔と言われる人々(戸谷、諸井、森田、田村、内田、今井、五十嵐等)も慶長年間頃より中山道沿いに移り住むようになった。
 寛永10年(1633年)に本陳が設置された。寛永14年(1637年)には人馬継立場となり、寛文3年(1663年)には榛沢郡榛沢村で開市していた定期市を本宿に移転し、宿場町としての形態を整えた。そして、元禄7年(1694年)に助郷村制度が確定された。
 本庄城(慶長17年に廃城)に最も接近して創られたのが本宿であり、本庄宿の中では最も歴史が長い。本宿より西方で、京都よりには上宿ができ、両者の間には中宿が成立した。三つの宿は、その後、「本町」「仲町」「上町」と呼ばれるようになった。
 その後、西国や日本海方面より、江戸に出入りする時の内陸の中継点として、宿の機能は年々拡大されていき、3町より始まった本庄宿も、天保14年(1843年)には、宿内人口4554人、商店など全ての家数を合わせ1212軒を数える中山道最大の宿場町として発展する事になる。
        
            ・所在地 埼玉県本庄市中央152
            ・ご祭神 愛宕大神 天手長男大神 子安稲荷大神
            ・社 格 旧無格社
            ・例祭等 祈年祭 315日 例祭 424日 祇園祭 715
                 新嘗祭 1124
 国道17号線を本庄市街地方向に進み、「日の出四丁目歩道橋」のある交差点を左折する。その後、旧中山道で埼玉県道392号勅使河原本庄線を西行すること1.7㎞、本庄駅前通りとの交点である「本庄駅入口」交差点を直進し、240m程先の丁字路を右折し、暫く北行すると、進行方向左手で、住宅街の一角に愛宕神社の小さい鳥居が見えてくる。
 社のすぐ北側には「仲町会館」が隣接しているのだが、事前リサーチによる駐車スペースの確保が確認できなかったので、そこから150m程先にあるホームセンターの駐車場の一角をお借りしてから参拝を開始した。 
       
                 小じんまりとした鳥居
   民家が建ち並ぶ細い路地の先にこんもりとした森に囲まれた古墳上に社は鎮座している。

 当社は、『風土記稿』本庄宿の項にも開善寺の境内社として記載されているところから、寺の鎮護のために創建されたものとも思われ、『児玉郡誌』は「天正十九年城主小笠原掃部太夫信嶺の勧請せし社なりと伝ふ」と載せている。神仏分離の後は、開善寺の管理を離れ、地元仲町の人々によって祀られるところとなった。なお、神仏分離の際、本地仏として本殿内に安置されていた勝軍地蔵木像は開善寺に預けられることになり、現在も同寺で大切に祀られている。 
     
 社殿に至る石段の左手にある2本立ちとなっているケヤキはご神木とされており、今尚樹勢は旺盛。
           市の天然記念物に指定されている(写真左・右)
 本庄市指定文化財 天然記念物  指定年月日 昭和431023日。
 仲町愛宕神社のケヤキ
 愛宕神社は古墳上に祀られ、社殿に至る石段の左手に神木として所在しています。ケヤキは南北に2本立ちとなっていて、南樹は目通り周囲4メートル、北樹は目通り周囲4.3メートルです。
「本庄市HP
」より引用
             
              古墳の墳頂上に鎮座している社殿
   古墳の回りを覆う社叢林が旺盛のため、昼間の参拝にも関わらず、この一帯はほの暗く、
              神秘的な雰囲気を醸しF出している。
 
  社殿に掲げてある「愛宕山」の社号額    石段の頂上部付近に設置されている案内板
 愛宕神社 所在地 本庄市中央15
 愛宕神社は、旧開善寺境内の南東にある古墳上に祀られている。
 天正19(1591) 本庄城主小笠原信嶺が勧請したと言われている。祭神は火之迦具土命で、天手長男命、若宇迦能売命が合祀されている。
 神殿に至る石段の左手にあるケヤキは神木とされており、根元から南北二樹に分れている。
 南樹は目通り周囲3.7メートル、枝張り東西約16メートル、北樹は目通り周囲4メートル、枝張り東西約20メートル、一本で社叢(しゃそう)を形成している。このケヤキは、昭和43年本庄市指定の文化財となっている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
             社殿付近に設置されている社の御由緒
 愛宕神社 御由緒  本庄市中央152
 □ 御縁起(歴史)
 本庄城の城跡から見て、南西500メートルほどの所にある愛宕山と呼ばれる古墳の上に当社は鎮座し、石段の脇には神木の大欅(おおけやき)が枝を広げている。この古墳は、愛宕山の西方500メートルほどの所にある古墳と夫婦塚であるといわれ、彼方の古墳の上には寺坂町の天神社が建つ。
 当社の位置は、臨済宗妙心寺派の寺院である開善寺の旧寺領の南東端に当たる。開善寺は、天正18年(1590)に本庄城主の小笠原掃部大夫信嶺によって開かれ、慶安2年(1649)に三代将軍家光から一五石の御朱印を賜ったことで知られており、歴代将軍から拝受した朱印状を納めた漆塗りの箱は市指定文化財になっている。当社は、『風土記稿』本庄宿の項にも開善寺の境内社として記載されているところから、寺の鎮護のために創建されたものとも思われ、『児玉郡誌』は「天正十九年城主小笠原掃部太夫信嶺の勧請せし社なりと伝ふ」と載せる。
 神仏分離の後は、開善寺の管理を離れ、地元仲町の人々によって祀られるところとなった。社格は無格社であったが、氏子の厚い信仰と「由緒ある社である」との誇りにより、明治末期にしばしば要請のあった村社等への合祀の話も退け、独立した社を維持してきた。なお、神仏分離の際、本地仏として本殿内に安置されていた勝軍地蔵木像は開善寺に預けられることになり、 現在も同寺で大切に祀られている。
                                      案内板より引用
『新編武蔵風土記稿 本庄宿』
 開善寺 同宗臨済派、京都花園妙心寺末、疊秀山と號す、寺領十五石の御朱印は、慶安二年十一月十七日賜へり、開山球山は時の領主小笠原掃部信嶺の室、久旺尼院の兄にて春日局の叔父なり、信濃國伊奈郡川路村開善寺に住し、天正十九年こゝに來り、一寺を草創し、則彼寺號を襲ひ且住職せりと、この僧は寛永三年八月十二日示寂、開基小笠原信嶺は慶長三年二月十九日卒す、則開善寺徹州道也と號す、
 九條袈裟一領 表紺地赤金欄、裏は白綿地なり、久旺尼院及春日局二人手親縫ひしものと云、箱の裏に星霜既久理破壊せる故、寛政年中小笠原相模守長敬改製せることを記せり、この外信玄出陣の畫像等あり、 鐘 寛延年中再鑄の銘あり 愛宕社 稻荷社
 当社には天手長男神社と子安稲荷神社の二社が末社として祀られていたが、両社共に本殿内に合祀された。そのため、昭和十二年ごろまでは、「愛宕大神」「天手長男大神」「子安稲荷大神」の三種の神札があったが、現在はこれらをまとめて「愛宕三神神璽」として頒布しているとの事だ。
        
                 石段上からの一風景
 本庄市中央地域は、本庄駅がすぐ南東側にあるため、住宅街や近代的なオフィスビル類などが多い地域なのだが、かつて、徳川幕府の政策の都合から宿場町として栄え、商人の町として発展し、18世紀には中山道で最大の宿場町となり、その後、明治以降は生糸・絹織物の産地として栄えたためか、嘗ての宿場町の古きよきまち並みが多く残り、特に中山道を通ると、蔵や商家、寺院など当時の面影を残す風景に出会え、市としての文化度や成熟度が非常に高い地でもある。
 但し、本庄宿は、宿場町としては規模が大きかったため、何度か大きな火災被害を受けたともいい、江戸時代当時の面影を残す建物は少ない。本庄宿の蔵作りは街道沿いの正面ではなく、店先を一つ下がった部分に建設されていて、これらは隣家の蔵と繋がり、蔵の帯とも言うべき家並みを作った。というのも、火事になった時に「防火帯」の役目を果たしたからであり、商家の資産を保管していた蔵々が火災の時に防火拡大を防ぐ「盾」となったという。
 これも近世当時の建物が少ない理由である。
 
このような歴史的な背景を推察するに、この地に「火防の神」の意味合いも強い愛宕神を祀ったのも、創建された理由の一つとして挙げられるのではなかろうか。実際氏子の間では「愛宕様のおかげで、中山道からこっち(北側で当社のある方)は古くから火事が少ない」という。慶応元年(一八六五)の開善寺所蔵の御朱印地図面を見ると、現在の仲町会館の東の辺りに湧水があり、愛宕山を巻き込むように沼が形成されていたが、この沼の水が防火用水としての役割を果たしていたことがうかがえる。但し、この沼は町の発展に伴って埋め立てられたらしく、大正時代末には既に姿を消している。

 
       仲町愛宕神社のすぐ東側に鎮座している戸谷八稲荷神社(写真左・右)
         鳥居扁額にはうっすらと「正一位稲荷大明神」と刻印
        
          社の傍らに聳え立つ樹齢 400年のケヤキの御神木

 
    
開善寺正門の向かいにあった          小笠原掃部太夫信嶺公夫妻の墓
 「小笠原掃部太夫信嶺夫婦の墓」の案内板
 本庄市指定史跡  小笠原掃部太夫信嶺公夫妻の墓
 公は徳川氏の家臣で、もと信州松尾城主、天正十八年 (一五九〇年)豊臣氏の関東攻めにより、本庄氏滅亡の後当城を賜わり、同年九月入城し本庄領一万石を領した。慶長三年(一五九八年))二月十九日、五十二才にして逝去した。法名徹抄道也大居士、なお公の墓石宝篋印塔は古墳上に築かれている。
 昭和三十三年三月二十八日  本庄市教育委員会                               案内板より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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