古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中種足雷神社

 「種足」は、「たなだれ」と読み、昔は「種垂」と書いたようで、騎西城の出城であったといわれている歴史のある場所である。この地域には、江戸時代中期から230年以上にわたって継承・保存されてきた「ささら」(加須市指定無形民俗文化財)という伝統芸能がある
 このささら獅子舞は、社のある種足の中居耕地の人々によって伝承されてきたが、上・中・下の種足地区で構成される「ささら保存会」と、他の種足地域住民も携わる「雷神社敬神会」の二つの会が支えているという。この「雷神社敬神会」は年2回(4月・10月)それぞれ管理費・祭典費の名目で毎戸から一定額を集める。このうち6割を神社運営費に、4割を「ささら保存会運営費」に充てるそうだ。
 当たり前の事ではあるが、この地域に育った保護者や祖父母の方々にとっては、太鼓や笛などの祭囃子が体に刻まれた重要な伝統行事だったのであろう
 地域に根付いていたこのような伝統文化・行事には、常に後継者不足等の課題とその育成が付きまとう。江戸時代から続く長い伝統を受け継ぐことは、口で言うほど並大抵のことではないのだ。
        
           ・所在地 埼玉県加須市中種足1273
           ・ご祭神 別雷命
           ・社 格 旧上・中・下種足村総鎮守・旧村社
           ・例祭等 春祭り(例祭) 415日 夏祭り(小祭) 725
                
例大祭 1015
 鴻巣市新井稲荷神社から見沼代用水沿いに走る道路を東南方向に進む。途中埼玉県道313号北根菖蒲線となり(境天神社が鎮座する場所の南側にある「境」交差点から「境(東)」交差点までの区間は、埼玉県道308号内田ヶ谷鴻巣線との重複区間となる)、そのまま道なりに2㎞程進行した「ふるさと広場」という種足中学校跡地の野球場の先にある丁字路を右折すると中種足雷神社の鳥居が見えてくる。
「ふるさと広場」に駐車スペースが数十台分あり、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                  
中種足雷神社正面
『日本歴史地名大系』「中種足村」の解説
 上種足村の東にあり、集落は見沼代用水右岸の自然堤防上に立地する。東は下種足村、南には野通(やどおり)川左岸の低地が開け下種足村の飛地がある。同村内に三ヵ所、上種足村内に四ヵ所の飛地がある。江戸初期まで上・中・下の種足村と一村であったという(風土記稿)。永仁元年(一二九三)一二月一七日、武蔵国種垂(たなだれ)などが亡父光隆の譲状に任せ伊賀光清に安堵されている(「将軍家政所下文案」飯野八幡宮文書)。田園簿によれば田高二〇八石余・畑高二九六石余、川越藩と旗本京極領。ほかに龍昌(りゆうしよう)寺領二〇石。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二八〇石余(田方一一町六反余・畑方二九町五反余)と、ほかに新開分二二石余が川越藩領。
 
   鳥居左側に建つ社号標柱と庚申塔    鳥居の右側には猿田彦大神の石碑
        
      一の鳥居のすぐ先に二の鳥居があり、参道途中には2枚の案内板あり。
        
                  雷神社の案内板
 雷神社   例大祭 十月十五日
 当社は別雷命(わけいかづちのみこと)を主祭神とし、恵みの雨を降らせ、五穀豊穣をもたらす神として崇敬される。
 古老の伝えによると、昔、千坪余りの荒地に古木が林立し、たびたび雷が落ちたという。
 村人はそれを憂い、雷よけのために別雷命を勧請したところ、雷が落ちなくなった。それ以後、村の鎮守として崇めてきたという。
 当社の創建は明らかではないが、享保十九年 (一七三四)に、神祇管領から「正一位雷神宮」の神階を受けた旨の奉告祝詞がある。
 なお、明治から大正にかけて行われた神社の統廃合により、上・中・下種足の総ての社がここに祀られている。
 主な文化財
 雷神社獅子舞。(町指定無形民俗文化財)
 明治十三年・大正元年奉納の算額(町指定有形民俗文化財)(以下略)
       
                 雷神社獅子舞の案内板
 町指定無形民俗文化財     雷神社獅子舞
 雷神社獅子舞はささらともよばれ、 霊的な獅子のカで、悪霊・悪疫・害虫を退散させ、天下泰平・五穀豊穣を祈る舞である。
 その起源は定かではないが、獅子頭の内側に寛政六年(一七九四)塗り替えとあり、それ以前から獅子舞が演じられてい たことがわかる。
 獅子舞の行列は、東印寺から雷神社までの間を笛・太鼓の囃子により行進する。境内を太刀による居合で清め、六尺棒・薙刀などで演技を行い、獅子・花かぶり・万灯を配して十ニの曲目を演ずる。
 奉納日  四月上旬  七月上旬  十月十五日
 (以下略)
                                     各案内板より引用 
       
             参道左側には、土俵と神楽殿がある。
『加須インターネット博物館』には、当地の伝説として「流れ着いた獅子頭」が紹介されている。
「流れ着いた獅子頭」
むかしむかし、中種足(なかたなだれ)にそれはそれは広いナラ林がありました。夏になると、この林めがけて「ゴロゴロ、ピカピカ」と、すさまじい雷が落ち、村人はほとほと困り果てていました。
「こう毎日のように雷が落っこっちゃあ、おっかなくて仕事もできねぇ。なんかいい考えはなかんべか」
「どうだんべ、雷よけに雷様(らいじんさま)をおまつりしては…」
すぐに、ナラ林の中に雷神社(らいじんじゃ)を建てることにしました。神様は別雷命(わけいかづちのみこと)です。村人の願いが届いたのか、それからは不思議と雷も落ちなくなり、仕事も一段とはかどるようになりました。
それから何年かたった、ある年のことです。
大雨が続いて荒川の堤が切れ、このあたりが大洪水となりました。その時、八幡(上種足)の稲荷様に流れ着いたものがありました。枳立耕地(からたちごうち)の者が近づいてみると、なんと、それは木の箱でした。おっかなびっくりふたを開けると、獅子頭が入っていました。
「こりゃあ、俺らにゃあ使えねえ」そう言うなり、さっさと流してしまいました。
大水の流れに戻された木の箱は、今度は雷神社のナラ林にひっかかりました。これを見つけた中居耕地(なかいごうち)の者は、ふたを開けると、
「こりゃあ、ありがてえ獅子頭だ。雷神社におまつりすんべ」と、大事そうに神社へ運びました。
それからというもの、毎晩のようにササラ獅子舞の稽古が始まりました。
「早くうまくなって、雷神社の祭りにゃあササラをするべや」
「そうだそうだ。悪魔ばれぇ(祓い)のありがてぇ獅子だかんな」
こうして「中居のササラ」が舞われるようになりました。一方、枳立耕地ではそれ以来、どんな踊りも、やらなくなったということです。
 また、この土俵に関しては、当地では芝を「力士芝」と呼ぶ。これは大正期までササラを摺った後、芝を土俵にして草相撲が行われたことによる。勝ち抜き・一番勝負・五人抜きなどの形式で行われ、地元の力自慢の人たちが多数参加したという。
       
                    拝 殿
 雷神社  騎西町中種足一二六〇(中種足字七番耕地)
 種足は星川(見沼代用水)沿いに位置し、江戸初期に上・中・下の種足の三村に分村したという。
 当社の由緒は『明細帳』には「社ノ由来ヲ知ル二由ナシ然レドモ今古老ノ口碑二拠ル二昔当村二千坪有余ノ荒蕪地アリテ古木林立シケル二因リ落雷シバシバナルヲ憂ヒ雷除ノタメ該地二別雷命ヲ勧請ナシタリト爾後幸二落雷ノナキヲ以テ挙村灼ナ鎮守トシテ崇敬ナセリ是ヲ以テ明治六年中村社二申立済」とある。
 享保一九年の宗源祝詞と合祀された枳立耕地稲荷社の正徳五年の宗源宣旨及び宗源祝詞が現存する。祀職は同祝詞に「祠官大熊氏」と記され、当時から代々大熊氏が務めたと思われる。
 明治政府の政策により上・中・下の種足地内の神社二二社が、明治四五年から大正四年にかけて当社に合祀された。当時各社を、当社か枳立耕地の稲荷社かいずれかに合祀しようと協議が村内で持たれたが、資産の多いことを理由に当社が決定された。当地における神社合祀は徹底して行われ、社殿はことごとく取り壊された。その中で枳立耕地の稲荷社だけは雷神社より創建年代が古く、格が上であるとされていたため、最後まで氏子が難色を示し、社殿ごと合祀を条件に大正四年に実施された。
                                  「埼玉の神社」より引用 

       
                    本 殿 
       
             社殿の左側に祀られている境内社・稲荷社
 枳立耕地から当社境内に合祀された稲荷社で、覆屋の裏には、眷属の狐が出入りする穴があけられている。これは初午の膳や、お稲荷様(狐の子供)を出産するために雌狐が入って来る穴であるという。上種足地域には多くの稲荷社が祀られているようで、屋敷鎮守として祀っている稲荷社の社殿にも同様の穴が見られるとの事だ。また、前夜、各家の稲荷社の前では、狐を迎えるために火が燃やされ、翌朝母狐をいたわるために「すみつかれ」と赤飯を供える風習が今でも残っている。
 
  社殿裏手に祀られている末社・庚申塔等      境内社・稲荷社の左手に建つ出羽三山供養塔
社殿裏手に祀られているのは、左から「庚申塔」「愛宕大〇」「〇〇〇」「稲荷大明神」「天満宮」「金毘羅大明神・〇〇〇〇〇明神」「辨財天」「富士嶽神社」「辨財天」「八幡宮」「?」「三島大神」。
        
                  社殿からの一風景


*追伸 
「埼玉の神社」の社の配置図には雷神社と境内社・稲荷社の間に「力石」があるのだが、当日参拝時、該当場所には確認できなかった。但し、正面「一の鳥居」を越えた左手のコンクリート製の貯水槽脇にある石置き場(?)に一つ「力石」らしき大石があった。石の表面には、何かしら刻まれているようにも見えるのだが、そこの判別は難しかったので、写真のみ紹介する。
        

        


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須インターネット博物館HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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