古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

宮内氷川神社

鴻巣七騎(こうのすしちき)は、戦国時代に太田氏に仕え、武蔵国足立郡の鴻巣郷(現・埼玉県鴻巣市、北本市)周辺に土着した家臣団を指した呼称である。その鴻巣七騎の中に、北本市宮内地域を本拠地にした人物が2名いて、大島大炊助とその一族である大島大膳亮久家である。
大島氏は上野国新田氏の一族で新田郡大島村より出たとも、伊豆大島より出て太田氏や後北条氏の家臣となったとも伝えられている。永禄7年(1564)、足立郡宮内村の開発領主として10500文の土地を与えられたが、天正18年(1590)の小田原征伐による岩付城落城後、浅野長政から居住地において一族の大膳亮や、鴻巣七騎の一人とも言われている矢部新右衛門(現鴻巣市下谷)らと共に帰農するように命じられている。
 舊家 彦兵衛
 大嶋氏にて代々内藤某の里正を務む、家系を傳たれど、破裂せる所有て、全きものにあらず、其内大膳亮久家なるものあり、本國伊豆を領して大嶋に住し、永正・大永の頃小田原北條に屬して武州に住し、勳功あり、由て永祿七年甲子の感状を賜へるは後に載す、其外鎗ニ筋を持傳へり、是も後に載す、且其頃は鴻巣領宮内村に居住せりと、久家子なくして土佐守善久の三男を養子とす、是を大膳亮重富と云、岩槻城主太田十郎氏房に従へり、御入國の後大嶋大炊介及び大膳亮・矢部新左衛門・同兵部・小川圖書等の五人歸國御暇の書を賜はれり、其書は大炊介が子孫勇藏が家に藏せり、猶後の條照し見るべし、(中略)
 汝等五人之事、如前々在所へ令退住耕作以下可申付
 候、若兎角申者於在之ハ、此方へ可申來候也、
 六月一日
            浅野弾正長吉(花押)
   武州足立郡鴻巣郷
        大島大炊助
        大島大膳亮
        矢部新左衛門
        矢部兵部
        小川圖書
       以上五人遺之
『新編武蔵風土記稿 上宮村下宮村附持添新田』より引用
 またその一族である大膳亮久家は、一族で宮内村に住した大嶌土佐守善久の三男小四郎重富を養子とし、大膳亮を名乗らせたという。このように大島氏は市域を支配した代表的な在地武士であったようだ。
        
             ・所在地 埼玉県北本市宮内4135
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             ・社 格 旧上宮内村、下宮内村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭 220日 例大祭 1015日 秋祭 1122日等
 中丸氷川神社から国道17号線に戻り、北西方向に進路をとり、1.7㎞程進む。「宮内」交差点を右折し、通称「三軒茶屋通り」を北行すると、三つ又に分かれる道となり、その三つ又南側正面に宮内氷川神社の鳥居が見えてくる。
 三叉路を右方向に進むと、社務所が左手に見え、その手前に駐車可能なスペースがあるので、そこに停めてから参拝を開始した。
        
                  宮内氷川神社正面
                     周囲一帯田畑風景が広がる中に鎮座する社。
『由緒調書』によれば、人皇12代景行天皇の御宇、日本武尊が東征の際、当地を武蔵・信濃平定の本営地と定めたことを記念し、その跡に大宮氷川の大神を勧請して当社を建立したという。宮内の地名はここに初まるともいわれ、近郷の鎮守として神威は遠近に及び、かつては境内六千有余坪、社有地一万余坪の広大な社領を有し、境内は古木鬱蒼と茂り荘厳を極めたようである。『新編武蔵風土記稿』には、本地は十一面観音、別当は当山派修験、小松原(鴻巣市)瀧本坊配下大乗院と見え、江戸後半頃のおおよその実情が知られる。文政十年(1827)には、その由緒の古さを認められ、神祗管領長上家より「武蔵國三の宮」の称号を贈られたとのこと
        
              入り口付近に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒  北本市宮内四-一三五
 □御縁起(歴史)
 口碑によれば、当社は武蔵一宮の氷川神社の分霊を勧請し、湧水池の辺りに創建したのが始まりで鎮座地の宮内の名も、当社の鎮座に由来するものであるという。勧請の時期は不詳であるが、永禄八年(一五六五)四月吉日に大嶋大炊助へ宛てた「河目資好賞状写」(武州文書)に当地の名が見えることから、創建はそれ以前にさかのぼるものと考えられる。
 大嶋氏は元々伊豆大島に居を構えていたが、永正・大永年間(一五〇四-二八)に小田原北条氏に従い武蔵国に移住し、領主として当地の開発に当たった。このことから当社は大嶋氏によって勧請され、見沼のほとりに祀られた一宮氷川神社に倣い、湧水池の辺りに創建されたのであろう。また、当社は一宮・二宮に次ぐ「武蔵三宮」であるとの伝承があり、創建の古さをうかがわせる。
 江戸前期、当村は上・下に分村した。『風土記稿』上宮内村・下宮内村の項には「氷川社 下分にあり、下同じ、祭神は素盞嗚尊と云、本尊は十一面観音、社地のさまは古蹟とはみゆれど、その来由は詳に知れず 別当 大乗院 当山修験 小松原滝本坊配下 末社 稲荷社 簸ノ王子社 弁天社」とあり、当社は分村後も下村ばかりでなく、上村からも鎮守として崇敬を受けたきことがうかがえる。
 明治初年に上・下村は合併し、再び宮内村となった。大乗院は神仏分離後に廃寺となり、当社は 明治六年に村社に列した。(以下略)
                                      案内板より引用
 
     鳥居を過ぎてすぐ左手に境内社・厳島神社が鎮座している(写真左・右)。
        社を囲むように池があり、神秘的な雰囲気を醸し出している。
  
    境内社・厳島神社の先で並んで祀られている石碑や境内社群(写真左・右)。
 左から「道祖神」「稲荷大神」「富士嶽大神」「奴稲荷大神」「山王社」等が祀られている。
不思議な事であるが、境内社群や石碑が参道に対して正面を向いているのだが、一番左側にある「道祖神」の石碑だけは境内社・厳島神社の方向、つまり左側横に設置されていた。
        
             厳島神社や山王社等の境内社先の参道の様子
 嘗ては境内六千有余坪、社有地一万余坪の広大な社領を有し、境内は古木鬱蒼と茂り荘厳を極めたというその名残が今も境内に漂うようだ。
 真夏時期の参拝であったが、参道の両側には樹木も青々と繁り、しっとりと汗ばむ程度。適度な湿度故に小虫はかなり繁殖してはいたが、それは仕方がない。参道も手入れが行き届いていて、気持ちよく参拝に望むことができた。
       
          北本市の保護樹林であるイチョウの大木(写真左・右)
                  保護樹林指定標識
           保護樹林  イチョウ  指定番号  第66号   指定年月日 平成821
        
              参道左側に設置されている「力石」
        
                    神楽殿
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 足立郡上宮村下宮村附持添新田』
氷川社 下分にあり、下同じ、祭神は素盞嗚尊と云、本尊は十一面觀音、社地のさまは古蹟とはみゆれど、その來由は詳に知れず、
 別當 大乘院 當山修驗、小松原瀧本坊の配下、
 末社 稻荷社 簸ノ王子社 辨天社、

「埼玉の神社」によると、本殿には木造の天満天神座像が奉安されており、台座裏には「武品(州)鴻之巣深井村 貞享元(申子)年(一六八四)九月五日 宗傳法印橋本房」の墨書が見える。橋本房は『風土記稿』上深井村、下深井村の項に見える橋本寺のことと思われ、この天神像は、橋本寺の境内社天満宮に奉安されていたものであろう。
 橋本寺は明治初年に廃寺となり、天満宮も廃絶した。この天満像は一旦同村の鎮守であった氷川神社に移されたが、明治四十年にその氷川神社が当社に合祀されたため、当社に奉安されるようになったと思われる。なお、江戸期に当社の本尊であった十一面観音の所在は不明であるという。
        
              拝殿手前付近に設置されている案内板
 宮内氷川神社 祭神・素戔嗚尊
 御由来
 当社は、人皇十二代景行天皇の御子日本武尊東征の際、当地を武蔵、信濃平定の本営地と定めたことを記念し、大宮氷川の大神を勧請して建立されたものと説く。「宮内」の地名はここに始まるとも言われ、近郷の鎮守として神域は遠近に及んでいる。
 かつては境内六千有余坪、一万坪余りの広大な社領を有し、古木また鬱蒼と茂り、荘厳を極めたようである。
「新編武蔵風土記稿」には本地は十一面観音、別当は当山派修験「小松原」瀧本坊配下大乗院と見え、江戸後半頃おおよその実情が知られる。
 文政十年(一八二七)にはその由来の古さを認められ神祇管領長上家より「武蔵国三宮」の称号を贈られている。
 その後当社は様々な変遷を経て明治六年村社に列せられ、同四十年には神社合祀の令により、深井の氷川社、古市場稲荷社、常光別所の白山社、花ノ木の稲荷社、他いくつかの無格社、末社を合祀し現在にいたる。
                                      案内板より引用

 
 社殿の左隣にある市指定建造物である「宮内氷川神社旧社殿」(写真左)とその案内板(同右)。
 市指定建造物 
 宮内氷川神社旧社殿   平成十年十月三十日 指定
 宮内氷川神社旧社殿の規模は、桁行一メートル三十六・五センチメートル、梁間一メートル二十三・五センチメートル、向拝の出丸十三・二センチメートル、一間社、流れ見世棚造り、厚板葺き、目板打ちである。
 見世棚造り建築は、身舎からつき出した床が「みせ」の棚板のようになっている小規模な社殿様式で、「信貴山縁起」や「西行物語絵巻」等、中世の絵巻に見られ、神社本殿の発生の姿を示していると考えられている。
 宮内氷川神社旧社殿は、市内に残されている数少ない見世棚造り建築の一つで、土台や柱の取替え等、修理が行われているが、板葺きのまま原形を保っており、建造時期は江戸時代初期に遡ると思われる歴史的価値の高い希少な建造物である。
 平成十一年三月   北本市教育委員会  氷川神社
                                      案内板より引用
        
                  
宮内氷川神社旧社殿の左隣に祀られている境内社・天神社

『新編武蔵風土記稿』による 「上宮内村・下宮内村」の解説には、「用水は元荒川の水を鴻巣宿の内宮地堰より引來りて水田にそゝげども水便あしきによりしばヾ早損あり」と記されておて、やはり「埼玉の神社」でも同様な記載がある。
 当地の農業用水は、江戸期より、荒川の水を鴻巣宿の宮地堰から引いて使用しており、水利に恵まれた土地であったが、夏の間に晴天が続いた年には、当社にて雨乞いの祈祷を行ったという。古老によれば、昭和期を通じて雨乞いを行ったのは、昭和三十年ごろに一度だけであり、その時の模様は以下の通りである。
「その年は八月初めまでは雨が一滴も降らず、このままでは農作物が枯れてしまうという声が上がり、雨乞いをすることになった。当日は氏子の中から20名程の男衆が代表となり、早朝に自転車で群馬県板倉の雷電神社に向かって出発し、他の氏子は全員が簔(みの)と笠を着けて弁天池に集まり、太鼓を叩いて拝み続けた。雷電神社で祈祷を終えた一行は、すぐさま当社に向けて帰路についたが、途中まで来ると、背後から黒雲が迫って来ることに気づいた。黒雲より先に帰り着かねばと感じた一行は急いで当社に戻って、すぐに神職に当社拝殿で祈祷をしてもらった。祈祷終了後、神職が境内の弁天池の水を盥(たらい)に汲んで頭からかぶると、その瞬間辺りは豪雨となった」
        
                                参道からの風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「北本市HP」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
        

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