古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中丸氷川神社

 創建年代は不明である。ただ中丸村は慶安年間(1648年〜1652年)以前に上・下に分村しており、下中丸村の「氷川社」は上中丸村の当社より分霊を勧請したという『新編武蔵風土記稿』の記述から、中丸村分村以前から存在していたものと推測される。「慈眼寺」が別当寺であった。慈眼寺は真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、翌年には上下中丸村は合併した。当社は新生中丸村の鎮守として崇敬されるようになった。なお下中丸村の氷川社はいつのまにか廃社となっている。1907年(明治40年)の神社合祀により周辺の5社が合祀された。
Wikipedia」より引用
        
              
・所在地 埼玉県北本市中丸391
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧中丸村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例大祭 410日 祇園祭 715
 JR高崎線北本駅東口近郊に鎮座する本宿天神社から東行し、国道17号線に達した「北本四丁目」交差点を右折、その後750m程先にある「本宿五丁目」交差点を右折し、暫く進むと、進行方向右手に中丸氷川神社の鳥居、及びその境内に到着する。
        
                  中丸氷川神社正面
                      周囲一帯一戸建て住宅街の中に鎮座している。
 中丸地域は北本市の東南部に位置し、北は本宿58丁目に接し、住宅地域と畑は台地上に開けていて、中央部を北西から南東に国道17号線、北部を県道蓮田鴻巣線が走っている。この地域は、昭和392丁目(旧大字北中丸字西)269戸、翌年5丁目(同字谷尻原)に198戸の団地ができたのを契機に、急激に人口が増加し、以後宅地化が進行したという。
        
               境内に設置されている案内板
 氷川神社御由緒  北本市中丸三-九一
 □御縁起(歴史)
 当地は元々中丸村として一村であったが、慶安二-三年(一六四九-五〇)の『田園簿』に上・下中丸村がそれぞれ記載されており、これ以前に分村されていたことがわかる。
『風土記稿』上中丸村の項に「氷川社 村の鎮守なり、別当慈眼寺 新義真言宗 下深井村寿命院門徒 本尊十一面観音なり」と記されているのが当社である。一方、下中丸村の項には「氷川社 村の鎮守にて上村の氷川社をうつせしなりと云、安養院持」と記され、分村に際して当社から分霊したことをうかがわせる。このことから、当社は中丸村として一村であった当時には既に鎮守であったと考えられる。
 神仏分離後、慈眼寺は廃寺となり、当社は明治六年に村社に列した。同七年には上・下中丸村が合併し、再び中丸村となると、その鎮守として崇敬されるに至った。一方、下中丸村の氷川社は、いつのころか廃絶した。更に、中丸村は明治十二年に北中丸村と改称し、同二十二年に近隣八か村と合併して、新たに中丸村が成立すると、その大字となった。このような中で当社は明治十四年に社殿を焼失し、翌十五年に再建された。更に、同三十三年に同大字の無格社神明社を合祀し、同四十年には大字山中の村社大六天社をはじめとする五社を合祀した。なお、当社の主祭神は素盞嗚尊で、本殿に奉安されるその神像の台座には「安永二年(一七七三)九月吉祥日」の墨書が見える。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                        住宅街の中にあるとは思えない位静かな境内
 
    鳥居を過ぎて参道左側にある手水舎        手水舎の奥にある神楽殿 
        
                    拝 殿
「埼玉の神社」による当社の信仰として、社蔵の宗源祝詞(そうげんのりと)によると、享和元年(1801)に神祇管領吉田家から「正一位大明神」の幣帛を授与されている。これを契機に、当社が村の鎮守として、一層厚い崇敬を受けるようになったのではなかろうか。
 4月10日に行われる春の例祭は、「五穀豊穣」を祈る祭りで、午前十一時を期して神職の奉仕により祭典を執り行い、終了後、社務所で直会(なおらい)を行う。午後からは一時間おきに数回、神楽殿で「北中丸囃子」による囃子の奉納があり、その合間には余興として氏子有志参加の「のど自慢」も催
される。嘗ては上尾市門前町の神楽師が午後から神楽を奉納していたという。演目は祭神にちなんで「大蛇退治」「三番(さんば)」等。但し、太平洋戦争がはじまり、神楽の多くが出征してしまったため、神楽奉納は中止となる。
 戦後は地元青年団による素人演芸が
され、一時的に活気を取り戻したが、その後テレビ等の娯楽の普及により、素人演芸は飽きられ中止となり、現行の「のど自慢」を催すことになる。
 
          本 殿               社殿右側にある神興庫
 また7月15日に執り行われる祇園祭は、「疫病除け」の祭りで、当地の人々にとって重要な行事である。現在は祭りの前日である14日に当番が神興を社殿に奉安し、「宵(よい)宮」と称して氏子が三々五々参拝する。その際に各戸で搗(つ)いた重ね餅を持参して供えるのが古くからの習わしである。15日は午後一時を期して神職の奉仕による奉典があり、その後、社務所で直会となる。
        
                   境内の一風景
 嘗ての祇園祭は15日に獅子の村回りや神輿の渡御(とぎょ)が地域を挙げて行われていた。当日は朝六時に神職を先頭に雌雄二頭の刺史が神社を出発し、続いて神輿が出御(しゅつぎょ)した。氏子の家々では、神棚から幣束を降ろし、縁側の廊下に奉安し、その前に小麦饅頭を山盛りに供えた。神職と獅子の一行は、一〇〇戸ほどを回り、それぞれの家では最初に獅子が縁側から座敷に上がり込み、家内を祓って回った後、神職が幣束の前で疫病除けの祝詞を奏上した。一方神輿は各組の世話人である「さし番」に導かれ、各組を渡御し、途中「さし番」の家で酒食の接待を受けた。神輿は一組回り終える毎に最寄りの村境に行き、悪魔を村の外へ追い払ってから次の組に向かったという。
 獅子の村回りと神輿の渡御は、戦時中の人出不足で一時中断されたが、戦後復活した。しかし昭和33年に国道17号線が当地域を南北に断ち切るような形で縦断したことから、その交通量が妨げとなり、行事への続行が困難になり、暫くは中止となっていたようだ。

「北中丸囃子連」は、明治初期に祇園囃子があったが、明治20年代に上尾市西門前の神楽師から杉山流の囃子を習得、現在でも春季例祭や祇園祭等にて活動している。練習は、農家の忙しい時期を除く日曜日に行っているという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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