古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

八幡山古墳

所在地     埼玉県行田市藤原町1-27-2
古墳群     若子玉古墳群 県指定文化財
埋葬者     武蔵国造物部連兄麿とも言わてているが詳細は不明
築造年代    7世紀中頃(推定年代)


     
地図リンク
 八幡山古墳は埼玉古墳群の北北東方向にあり、距離にして2km位の位置し、工業団地内の八幡山公園内にある。正直古墳の周りは工場と民家で囲まれて、あまりの不釣り合いなコントラストにびっくりした。しかしこの石室には圧倒的な存在感があり、一見の価値がある。ちなみに八幡山古墳の名称は、江戸時代から石室内に八幡社を祀ってきたことに由来する。
 
  八幡山古墳のある「八幡山公園」正面入口    石室の手前左側にある「八幡山古墳整備記念之碑」
                       
                          県指定史跡八幡山古墳石室の説明版も石室の手前左側にある

 この古墳は若小玉古墳群という古墳集団の一つに数えられ、元々の大きさは直径80m、高さ9.5メートルの円墳で、石室の上10m近くの高さまでお椀を伏せたように土が盛られていたという。1944年3月31日、埼玉県史跡に指定された。新撰武蔵風土記稿に横穴式石室の一部が露出し、石室内に八幡社が祀られていたことが記載されている。江戸時代より既に石室の一部が露出していたが、1934年11月に小針沼の干拓工事で盛土が取りさられて石室が完全に露出。その様子が、飛鳥の石舞台古墳に似ていることから別名「関東の石舞台」と形容された。

 石室の構造は羨道・前室・中室・奥室からなり、全長は16.7メートル、奥室の高さ3.1メートルの大きさという。この長さは全国で2番目に長い石室であり、しかも1番目は奈良の見瀬丸山古墳で、天皇陵指定されているため中に入ることはできない。つまり現在内部を見ることができる、一番大きな石室とも言える。

 また1977年の発掘調査で、銅椀・須恵器・直刀など多くの遺物が出土しており、またそのほかに絹布に漆を塗り、繰り返し重ねて作られた棺の破片(乾漆棺、漆塗木棺片)が出土した。畿内の終末期古墳と共通する出土品が確認されたことから、被葬者が宮廷ときわめて近い関係の人物と考えられている、というが・・・
                  
          周りの工場の風景とは全く不釣合いではあるが、それでいて圧倒的な存在感のある石室

 
  参拝日が平日のため柵は鍵がかかっていた。         柵から手を伸ばして内部を撮影

 後で知ったことだが、この柵は石室内の公開は土曜日・日曜日・祝日(年末年始を除く)であり、平日はあいていないとのことだ。

 この八幡山古墳は「さきたま古墳群」の築造が戸場口山古墳を以って終了した後を引き継いだ形で形成された若小玉古墳群の主墳であり、東国では珍しい夾紵棺という漆塗りの棺が出土した。高貴な人物の埋葬が考えられ、聖徳太子の家来で武蔵国造に任命された物部連兄麿の墓ではないかと専門家の中では考えられているがどうであろうか。                                                                           
                 
                                    近くで見るとやはり要塞のような重厚なつくり

 上部の蓋の部分には結晶片岩を使用しているのではないかと思われる。この石は長瀞、嵐山などの荒川上流域に大量に存在していて、現地でも末野神社、波羅伊門神社など多くの神社の階段や、石室に使用されている。

 
結晶片岩

 いろいろな岩石が高い圧力によって変成を受けた岩石で,海洋プレートが海溝で地下深くに沈み込んだときに,海洋プレートの上の堆積物や海洋プレートそのものが,地下深部の強い圧力を受けてつくられる石といわれている.もともとはいろんな石だったものだったが,強い圧力を受けたために,非常に硬く,細かい縞模様ができているのが特徴で、結晶片岩は北海道中央部や、嵐山町、長瀞、また群馬県藤岡市の三波川結晶片岩、長野県を経て紀伊半島、四国、九州まで細長く続いている。またこのラインは丁度活断層上に位置しているのも特徴である。



   またこの古墳がある地名は「大字 藤原」という。この周辺に在住の知人から聞いた話ではこの地域は昔「藤原氏」が移住した地域という。詳しい話は聞かなかったが、地名は古墳、神社同様生きた歴史の証人である。地名は時の権力者によって変わることもあり、詳細で緻密なな研究が必要だが、この行田市の深い歴史と数多くの遺跡をみると、何かしらの関連性を感じずにはいられない。

 最後に「藤原」について以下の説明をしている書物があり参考資料としたい。また「藤原」は「藤」+「原」で本来の名前は「藤」であり、「藤」についても掲載する。

 藤原 フヂワラ  

 百済(くだら)は管羅(くだら)と書き、管羅(つつら)と読み、葛(つつら、つづら)の佳字を用いる。原は古代朝鮮語の村の意味。百済族の集落を葛原(フヂハラ)と称し、藤原の佳字を用いる。葛ノ(フヂノ)、藤ノは藤原と称された。古代備前国に藤野県あり、養老五年に藤原郡と称し、神亀三年に藤野郡と改め、神護景雲三年に和気郡となり、和名抄に和気郡藤野郷(岡山県和気町)を載せ、布知乃と註す。また、葛野(かどの)と称し、和名抄に山城国葛野郡葛野郷を載せ、加度乃(かどの)と註す。京都府右京区太秦の地で秦族の渡来地である。葛野郡の桂川(かつらがわ)は葛野(かつらの)より称し、古くは葛野川(かどのがわ)と称した。日本書紀・応神天皇六年二月条に、葛野川流域の宇遅野(宇治市)で天皇が詠んだ「千葉の、葛野を見れば、百千足る、家庭も見ゆ、国の秀も見ゆ」という国ほめの歌が見られる。千葉は葛野にかかる枕詞で、藤原族は千葉氏を名乗る者が多く、桓武平氏千葉氏は藤原部の首領である。奥州には藤原氏、千葉氏が同じ居住地に多く存す。入間郡黒山村字藤原、秩父郡下日野沢村字藤原、大野村字藤原あり



藤 フヂ 

 葛(ふぢ)は、葛(つつら、つづら)、管羅(つつら、くだら)の転訛にて、百済(くだら)を指す。山城国葛野郡(かどの)は韓人秦氏の本拠地である。葛野川(かどのがわ)は別名桂川(かつらがわ)を称す。桂は葛野(かつらの)の転訛なり。葛野(かどの、かつらの)は葛野(ふぢの)とも称す。備前国藤野県は養老五年に藤原郡となり、神亀三年に藤野郡と改称す。藤ノは藤原と同じ意味。葛原(ふぢはら、くずはら)は佳字の藤原(ふぢはら)を用いる。原は古代朝鮮語の村の意味。百済族の集落を藤原と称す。大ノ国(後の百済)の渡来人集落を意富(おお、おふ)と称し、意富郷・意布郷に葛原部、藤原部が多く存す。フヂワラベ参照。藤原鎌足が鞍作臣蘇我入鹿暗殺直後に古人大兄皇子(天智天皇の兄)が言った言葉に「韓人、鞍作臣を殺す」(皇極四年六月紀)と見ゆ。鎌足は韓人、即ち百済人であった。また、伊藤・加藤・工藤・佐藤・斎藤などの藤(とう)は唐(とう)の佳字にて、唐(から)は韓(から)の意味なり。各市町村に存す。



   

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天王山塚古墳

 神明神社の長い参道の延長線上の南側の先に天王山塚古墳が存在する。
 この天王塚は主軸をほぼ東西を示している。そして神明神社は、この天王塚に対して直角に参道が伸びている。神明神社と天王山塚との因果関係はどのようなものだったのだろうか。神明神社の創建は景行天皇の時と言う。創建年代の議論の余地はあるとして、お互い目と鼻の先にある社と古墳である。関連性がないというのがむしろおかしいのではないか。

所在地
    埼玉県久喜市菖蒲町上栢間3284-1
埋葬者    不明
築造年代    7世紀前半(推定年代)
区分      埼玉県指定史跡
   
                

  天王山塚は、元荒川の左岸栢間地区に分布する栢間古墳群の中心をなす前方後円墳で、元荒川左岸の北足立台地の笠原支台(標高14m)に立地し、「栢間七塚」と称され、現在7基で構成されている栢間古墳群の主墳である。(昭和55年度の文献で、現在は9基が確認されている) 全長約107m、前方部の高さ約9m、後円部の高さ約10m、前方部幅約62m、後円部径約55mあり、主軸はほぼ東西をさす。埼玉県下でも6番目の大きさである。 
 墳丘の周囲には周溝が存在したが、現在は北と東に残るのみで、幅は約20mほどである。主体部は不明であるが、墳丘の形態から古墳時代後期(6世紀中頃)のものであるという。


             前方部の入口付近には「埼玉県指定史跡天王塚」の石柱と天王山塚の案内板がある。

天王山塚
  天王山塚は、元荒川の左岸栢間地区に分布する栢間古墳群の中心をなす前方後円墳で、全長約107m、前方部の高さ約9m、後円部の高さ約10m、前方部幅約62m、後円部径約55mあり、主軸はほぼ東西をさす。
墳丘の周囲には周溝が存在したが、現在は北と東に残るのみで、幅は約20mほどである。
主体部は不明であるが、墳丘の形態から古墳時代後期(6世紀中頃)のものである。
栢間古墳群は9基からなり県の重要遺跡に選定されており、中の1基押出塚古墳では緑泥片岩と砂岩を用いた横穴式石室が確認されている。
昭和58年3月菖蒲町教育委員
                                                   現地説明板より引用
               

                           
                           前方部から後円部を撮影
                          
       後円部墳頂の様子。かなり広く、薬師寺の社殿も通常サイズですっぽりと収まる広さだ。

 栢間古墳群は9基からなり県の重要遺跡に選定されており、中の1基押出塚古墳では緑泥片岩と砂岩を用いた横穴式石室が確認されている。
 古墳周辺では埴輪や須恵器が出土したが、本格的な発掘調査はまだ行われていない。また一説によれば、武蔵国造・笠原直使主の墓なのではないかとも言われているそうである。この辺りは古代「笠原郷」と呼ばれ、隣の鴻巣には笠原の地名も存していることから、その可能性は否定できないところだ。


 
神明神社、天王山塚古墳を散策終了しすぐ帰宅し、早速カメラのデータをパソコンに入力し、住所からYahoo地図で確認したところ、一つ気になることを発見した。神明神社の参道、一の鳥居を基点として、そこから玉敷神社までほぼ一直線(正確には若干の誤差はあるが)であること。また玉敷神社を基点としてそこから鷲宮神社前玉神社(ならびに埼玉古墳群)、神明神社の参道の始点までほぼ同じ距離なのであるさらに付け加えると前玉神社一玉敷神社一鷲宮神社がほぼ一直線である。単なる偶然だと思うがどう思われるだろうか。
  



 

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永明寺古墳

 永明寺古墳は東北自動車道のすぐ東側、稲荷塚の鷲宮神社から埼玉用水路に沿って西に向かった所、地形的には利根川が群馬側に張り出して蛇行した所にあり、村君古墳群内にある前方後円墳である。
 この古墳は、羽生市で最大の前方後円墳(埼玉県羽生市村君)で、全長78m、高さ7mで埼玉県下で10番目の大きさを誇る。真言宗・永明寺の境内にあり、前方部に文殊堂、後円部に薬師堂が祀られている。1931年に薬師堂の床下を発掘、緑泥片岩等を用いた石室から衝角付冑、挂甲小札、直刀片、鏃、金製耳輪などが出土したらしい。

所在地
     埼玉県羽生市下村君字谷田
区  分     埼玉県選定重要遺跡 羽生市指定史跡
築造年代        6世紀初頭(推定) 埋葬者不詳


     
地図リンク
永明寺と永明寺古墳
 永明寺は、真言宗豊山派・堤の延命寺の末寺で、五台山薬師院と号する。永明寺古墳は古墳時代後半に作られたもので、高さ七m、全長七十三mの前方後円墳である。
 前方部には文殊堂、後円部には薬師堂がある。昭和六年に薬師堂の下を発掘したところ、大きな石を敷いた石室が見つかり、中から直刀、やじり、金製の耳輪などが出土した。
 市内にはほかに毘沙門塚古墳など二十三の古墳があるが、規模、保存状態の点で市内の代表的古墳である。
ま た、薬師堂には貞治六年(1366)に修造された高さ八十五センチ、台座六十センチの県指定重要文化財である木造薬師如来像が安置されている。『細い螺髪、丸い顔立ちとおだやかな衣文につつまれた体躯など、一見平安末期の定朝様の流れがこの時代にも生き続けていたことの証明となる遺品である。』といわれている。
                                                                           埼玉県   昭和五十五年三月
                            
                               境内案内板より引用

      
       永明寺正面の真浄門の手前左側に永明寺古墳の石碑があり、その門の先に古墳がある。

         
                境内からの様子。案内板の奥にあるこんもりとした山が全て永明寺古墳

 永寺古墳は現在の地形では利根川を見下ろす台地の上に築造されている。古代この利根川は幾度と氾濫を繰り返し、現在の流路になったといわれるが、それにしてもあまりにも利根川に近すぎる。築造当時それほど近くなかったかもしれないとの見解があるかもしれないが、それでも大きな?を感じてしまった。また台地上にたてられたといっても標高17m、水田からの比高は僅かに2mで、主軸はほぼ東西に向いている。利根川の氾濫がおこった場合、その濁流を横正面から直接受けてしまっただろう。河川の氾濫地域の真っ只中に古墳を造る、この永明寺古墳の埋葬者はどのような考えでこの地域に古墳を造ったのだろうか
 自分が生まれ育ったこの地でこの先も眠りたい、という観念的な考えは解らない訳ではないが、それだけではないはずだ。時の為政者たちは重要な現実問題の一つの解決策の一つとして古墳築造を行ったと考えたほうが自然だ。それは羽生市にある永明寺古墳が属する村君古墳群のほかにも多くの古墳群が現存しているが、それらの立地条件をみてもある程度判明できる。
   新郷古墳群 (羽生市上新郷、利根川南岸1㎞弱の自然堤防上に分布に存在)
   今泉古墳群 (羽生市今泉、利根川南岸1.5kmに存在。4基の古墳中熊野塚古墳のみ現存)
   尾崎古墳群 (羽生市尾崎、利根川南岸に存在、河川の氾濫などでかなりの数の古墳が埋没)
   羽生古墳群 (羽生市羽生、羽生駅北側に存在、毘沙門山古墳が有名)
   小松古墳群 (羽生市小松、地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没)
   村君古墳群
 埼玉県の東部は関東平野のほぼ中央部に位置し利根川や中川にそって上流から妻沼低地、加須低地、中川低地と続き、低地に囲まれるように大宮台地が大きな島状にあり、 このうち羽生市がある地帯は加須低地と言われ、利根川中流域の低地のひとつとして南の大宮台地と北の館林台地の間に位置している。
 この加須低地の場合、ほかの低地とは少々違う点があり、ひとつは自然堤防と思われる微高地の地表のすぐ下からしばしばローム層が発見されることで、低地の浅い部分の地下にローム層が存在することは一般では考えられないことらしい。。しかもなぜか微高地の下にローム層があり、後背湿地の下からは見つからない。ふつう自然堤防と後背湿地の構造的な違いは表層部付近だけであり、地下はともに厚い沖積層が続くものらしい。
 
もうひとつは背湿地と思われる部分の一部では軟弱な泥炭質の層が著しく厚いことで、代表的なのは羽生市三田ヶ谷付近(現在さいたま水族館がある付近)で、泥炭質の層が10mもあるという。

 つまりこういうことだ加須低地のすぐ下には台地が隠れている(埋没台地という)ということだ。それも古墳時代前後の。加須低地は沈んだ台地の上にできた特殊な低地だったというのだ。前出の小松古墳は地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没していることがわかり、また行田の埼玉古墳群や高山古墳なども本来台地の上につくられたものが、2.3mの沖積層(古墳が築かれた後に堆積した土砂)で埋まっていることが明らかとなったという
         

 このような古墳築造のためには、巨大なる労働力と経済力と政治力を必要とすることはおよそ疑いがないところだ。しかもこの自然災害の氾濫地帯で、造ったとしてもすぐ破壊され、埋没してしまうことが解っているのになぜこれほどの「一大労働力」を動員する必要があるのか。悩みながら考え続けた今現在の筆者の結論は以下の通りだ。

 
1 平時において古墳はそこに眠っている為政者の鎮魂と祭祀のための施設
 2 利根川等の河川の氾濫が発生した場合(自然災害)、防災施設としての堤防的な施設

 3
 人為的に緩急な事態が発生した場合の要塞的な施設

 「
平和時における鎮魂と祭祀」施設と「自然災害に対する堤防的な防御施設」「人為的な交戦状態に陥った場合の防御施設」は共有するものだろうか。
 「自然災害に対する堤防的な防御施設」に関しては
古墳群の配置
状況を考えるとあり得ると思う。が「人為的な交戦状態に陥った場合の防御施設」はどうであろうか。常々古墳や古墳群地形条件を見ていると、古墳の要塞のような防御施設という一面を考えずにはいられない
 関東地方古墳は近畿地方比べて規模は小さい事実は否定できないが、
鹿島古墳群のように小さな古墳でも集めれば少人員を分散して隠すことができ、防御的な役割は十分に役に立つ。
 良い例が埼玉古墳群だ。埼玉古墳群のような100mクラス級古墳を9基密集して造り、二重の周濠で固め、周濠は基本的には空堀だったらしいが地盤は軟弱な泥炭質の層で水はすぐ溜まり、地下には潜らない為、忽ち水濠に変貌する。また埼玉古墳群9基の中に丸墓山古墳がある。この古墳だけ円墳なのだが何故丸墓山古墳だけ円墳なのか今もって謎とされている。しかしこの古墳は高さが19mあり、「防御施設」として考えた場合十分な「見張り台」的な役割を伴うことができる。現に石田三成の忍城攻防戦においてこの古墳は本陣として立派に機能していたことを考えると従来の古墳の見方も少し様相が異なって見えてくる。
 さてこの
ように見張り的な機能も充実している古墳群は立派な要塞に変貌するのではないだろうか。これを防御施設と言わずして何といえばいいのだろうかと思うのだが、このような考え方は飛躍しすぎであろうか。
          
                  羽生市永明寺の銀杏 羽生市指定天然記念樹
 

 永明寺のイチョウ       天然記念物  羽生市指定

イチョウは古生代末に出現し、生きた化石といわれており、進化の過程がたどれたり、先祖返りが見られるなど学術的に貴重な植物です。中国原産で、観音像の渡来とともに日本に持ち込まれたとする説があります。雄雌に分かれる植物で、この樹は雌株ですが、珍しく大きく成長しています。高さ37.5m、目通りの周囲は4.85m、根回りは7.7mもあります。推定樹齢は500年を超えるものと思われます。
                                                          案内板より引用                                                      

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宮塚古墳

 埼玉県熊谷市広瀬にある古墳。荒川中流域の段丘上に所在し、小規模古墳が密集する広瀬古墳群のなかの1基で、古墳時代末期の数少ない上円下方墳として貴重である。保存の状態も良好で学術上価値が高いことから、1956年(昭和31)に国の史跡に指定された。7世紀後半の築造と推定され、東辺17m、西辺24m、高さ約2m規模の下方部の土盛りに、径約10m、高さ約2.5mの上円部を築成。

 関東地方では珍しく、墳丘は上円下方の形態をとどめるが、元来円墳か方墳であったのが後世の耕作によって削られたという見解もあり、葺石(ふきいし)の一部も残存している。山王と称せられる平地にあるため「山王塚」、あるいは「お供え塚」の別称をもつ。


 所在地    熊谷市広瀬608
 築造時期    7世紀後半頃
 区  分     国指定史跡(1956年5月15日)
 形  状     上円下方墳 
 埋葬者    不明

                                                   
          
 熊谷市広瀬地区、熊谷運動公園の南側に位置し、雑木林の中に静かに佇む。専用駐車場もなく国指定史跡として整備はされていないので、宮塚古墳という名前は知っていても、どこにあるのか地元の人もあまり知られてはいない現状だ。正直この古墳に行く専用道路も一本もあればありがたいのだが、周囲は畑に囲まれてそれすらない。
             
                  宮塚古墳から少し離れた道路沿いにある案内板 

  この古墳の特徴は、高さ約2mの方台の上に円墳が乗っていて、上円下方墳と呼ばれる全国的にも珍しい古墳である。天智天皇陵にも使われているとの事。円墳には盛土が崩れないよう装飾を兼ねた葺石が所々にあり、最上部には石祠がある。

  上円部には確かに葺石らしい石が多数ある。         上円部には石祠が一基ある
              
 下方墳部付近を撮影。保存状態も決して良いとは言えず、下方墳部とはいえ畑のあぜ道とも何故か見えてしまうくらいの状態だ。


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