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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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野本将軍塚古墳

  東松山台地は関東平野西部中央、埼玉県東松山市の市街地から大里郡寄居町赤浜にかけて広がる関東ローム層からなる細長い台地の名称である。台地の南側は都幾川とその流域の低地になっていて、北側は比企丘陵の南端に沿って流れる市野川流域となっている。国道254号と埼玉県道296号菅谷寄居線に沿っており、嵐山町の市街地以西になると南西側に外秩父山地がはみ出してくるため、北西に向かうほど細長くなっていき、先端部は寄居町赤浜までのびて荒川まで達しているなど東西に細長く、また台地でありながら全体的に平坦な地形が多い特異な特徴がある。

 比企丘陵(男衾地域を含む)地域は、北武蔵のなかでも古墳遺跡の多いところで、北埼玉や児玉地方とともに古墳時代には北武蔵のなかでも古くから発達した地域であったと言われているが、東松山台地はその比企丘陵の稜線下に位置していている関係から比較的早くから開発された地域だったことは、都幾川を挟んだ南側の低地帯で発掘が進んでいる反町遺跡の発見、調査で解っている。(古墳時代初頭の水晶を素材とした玉を生産した工房を含む数多くの住居跡群が発見されている)

 この反町遺跡は出土品の質・量から野本将軍塚古墳の背景となる遺跡と考えられるため、最近では前期古墳説が有力となりつつある。

所在地   埼玉県東松山市下野本612
形  状   前方後円墳  全長115m、後円部高さ13m、前方部高さ8m
時代区分  古墳時代初期から中期か(推定)
区  分   埼玉県指定史跡


       
 野本将軍塚古墳は国道254号下野本交差点を右折して国道407号に移り、下野本南交差点を左折すると、道路際までせり出した鬱蒼とした雑木林の丘が左側にある。そこが野本将軍塚古墳だ。また標識もあるので分かりやすい。北側には無量寿寺や野本小学校があり、無量寿寺の駐車場を一時お借りして散策を行った。
 この古墳は東松山台地の東方、川島町に向かって張り出した舌状台地のほぼ中央で、南面して都幾川を望む台地の縁辺に位置していて、標高差はさほどないが南側の都幾川及びその周辺の低地が一望できる場所に造られている。
          
          
 県道345号小八林久保田下青鳥線の脇に、古墳銘を刻んだ石碑が建っていて、その横のかなり薄くなって見づらくなった案内板がある。よく目をこらして見ると、野本将軍塚古墳は昭和35年(1960)3月1日に県の史跡に指定された。また全長115mの墳丘は、武蔵國でも最大規模の二子山古墳(埼玉古墳群)に匹敵する大きさだが、なんでも明治の末に、隣接する旧野本小学校の敷地を拡大するために先端部の封土が大量に削り取られてしまったことが知られているので、復元すると埼玉古墳群の二子山古墳を凌駕する可能性もあるそうである。この古墳の築造時期は最近の推定では二子山古墳よりかなり古い前期古墳と考えられていて、そうであれば、築造当時は北武蔵で最大の墳墓であったことになる。
  また昭和53年の市史編纂室による後円部墳頂のボーリング探査の結果、礫の分布が確認され、礫槨状主体部の可能性が考えられている。 
      
 鞍部から後円部を撮影。高さ13mと非常に高い墳丘で、高さだけでは埼玉古墳群の二子山古墳と同じ高さ。また墳丘の高さからその当時の高度の土木技術を感じずにはいられない。
         
                  無量寿寺、野本小学校側にある案内板

野本将軍塚古墳
 将軍塚古墳は、県内有数の大きさを誇る前方後円墳です。墳丘の大きさは、全長は115m、高さ前方部で7m・後円部で12mです。
 まだ学術調査が実施されていないので、内部主体(埋葬施設)や外部施設(ハニワなど)は明かではありません。
 将軍塚古墳を中心に、東北には柏崎・古凍古墳群、南には高坂・諏訪山古墳群、西には塚原・青島古墳群、さらに吉見丘陵西斜面には吉見百穴群が分布してます。このような古墳の分布は、古墳時代すでにこの地方が、高度の社会的発展をとげていたものでしょう。
 昭和53年3月         東松山市教育委員会
                                                      案内板より引用

 野本将軍塚古墳の埋葬者は一体誰だったのだろうか。この比企地域の100mを超す古墳はこの古墳一基のみで、近場に存在する柏崎1号墳、通称おくま山古墳が62mの前方後円墳、東松山市大谷にある雷電山古墳(76m、前方後円墳)、柏崎10号墳(天神山古墳、62,5m、前方後円墳)以外は小古墳がほとんどである。だからこそこの野本将軍塚古墳の大きさが一際目立つわけで、この古墳の埋葬者と埼玉古墳群を含めた北武蔵地域一帯との因果関係はどのようなものだったのか感じずにはいられない。
 何かと埼玉古墳群との関係に関して比べられる特別な古墳であるが、大変魅力ある古墳であることには間違いなく、今後の発掘調査を切に希望する次第だ。

 

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鹿島古墳群

 鹿島古墳群は荒川に沿って南北約300m、東西約1200mの範囲に100基以上の古墳で構成された荒川右岸最大の古墳群である。ほとんど円墳で構成されているが、鹿島73号墳のみ方墳である。西側吉野川沿いの台支群、中央の鹿島支群、東側の枚方支群の3つの支群に分けられる。昭和47年に54基が県の史跡に指定された。平成5年古墳公園を建設する「保存整備基本構想」が策定された。

 
6世紀後半に築造が開始され、7世紀前半に全盛となり、8世紀初頭まで継続されたと推定される。

       
地図リンク
 所在地 大里郡川本町鹿島

 荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び河岸段丘上約二キロメートルにわたっている。
 現存する古墳五十六基は、小円墳がほとんどで荒川に近い古墳には埴輪を持っているものがある。
 昭和四十五年に圃場整備事業に伴い県教育委員会により二十七基の古墳が発掘調査されている。主体部は荒川系の河原石を用いた若干胴の張る横穴式石室で玄室には棺座を設けたものも見られた。天井、奥壁は緑泥片岩を使用していた。玄室と羨道の比は、二対一となり三十センチメートル(漢尺)の定尺となるものが認められている。
 出土遺物には、玉類が少なく、鉄鏃、直刀、刀子、耳環などが多く出土している。
 古墳の年代は奈良時代初期の住居跡の上に古墳が構築されているものがあり、七世紀初頭から八世紀初頭にかけてつくられたものと推定される。
 古墳の埋葬者は、在地において先進的な役割を果たした豪族であろうと思われる。
 荒川旧流域を代表する最も保存の良い古墳群で、埼玉県古墳文化の地域研究の上で貴重なものである。昭和四十七年三月二十日、県の史跡として指定されている。

 平成十一年九月 埼玉県

 この古墳群は、いまから約1400年前に築かれた川本周辺の有力者の墳墓で荒川右岸段丘上に東西約1キロわたって帯状に分布している。古墳は径10m~30m程の円墳で、荒川よりに密集して分布し、大水によって流された古墳も数多くあったと伝えられている。


 現在、県指定地の中には56基の円墳が保存され、指定地南側で発掘された27基の古墳やすでに失われた古墳をあわせると100基を越す大古墳群であったと推定される。埴輪が立てられた古墳は少なく、7世紀を中心に8世紀初頭に至るまで次ぎから次ぎに築造された古墳時代最終末の古墳群と考えられている。  この古墳群は7世紀から8世紀にかけて・・というのが定説だったけれど、最近では6世紀中頃にさかのぼるとされた。2000(平成12)年新しく古墳が発見され、30年ぶりに発掘調査が行われ、年代が6世紀中頃まで遡ることが分かったのである。
           
 鹿島古墳群は、荒川右岸の河岸段丘上に東西約一キロに渡って帯状に分布しています。古墳は径十メートル~三十メートル程の円墳で、荒川よりに密集して分布し、大水によって流された古墳も数多くあったと伝えられています。
 現在、県指定地の中には五十六基の円墳が保存され、指定地南側で発掘された二十七基の古墳やすでに失われた古墳を合わせると百基を越す大古墳群であったと推定されます。埴輪が立てられた古墳は少なく、七世紀を中心に八世紀初頭に至るまで次から次に築造された古墳時代最終末の古墳群と考えられています。
 川本町には、鹿島古墳群のほかにも箱崎古墳群・塚原古墳群島が分布し、合計二百基近い古墳が確認されています。また、奈良時代には周辺に古代寺院や集落遺跡が発見され、古墳時代から奈良時代にかけて、この地域(男衾群)の中心地として栄えていたようです。
 鹿島古墳群は、この地域の歴史を代表する貴重な遺跡として、昭和四十七年に埼玉県指定史跡に指定され、現在広く活用していただくために古墳公園として整備を進めています。

     埼玉県教育委員会
     川本町教育委員会
 


       
 古墳とは今から千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓で、土を高く盛り上げて、その内部に遺骸を埋葬する場所が設けられています。
 古墳の形は、平面形から前方後円墳や円墳、方墳などと様々な形がありますが、鹿島古墳群は円墳だけで構成されています。この様に小さな円墳が密集する古墳群を特に「群集墳」と呼び、鹿島古墳群はその規模から県内を代表する群集墳です。
 鹿島古墳群では、遺骸を埋葬する施設として荒川の河原石を積み上げた長さ四メートル、幅二メートル前後の楕円形の石室が築かれています。また、出入りできる入り口が設けられ、こうした石室を横穴式石室と呼びます。この石室には遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬されました。鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土しています。
 また、墳丘の表面は河原石で飾られており、築造された当時は草や木に覆われた現在のイメージとは異なった、白く輝く荘厳な姿であったようです。

     埼玉県教育委員会
     川本町教育委員会


  鹿島古墳群は、今を遡ること千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓という。ではその豪族はどのような氏族だったのだろう。今までの古墳の調査により以下のことがわかっている。

 1 この古墳群は少なくとも6世紀中頃~8世紀初頭まで一貫して同じ敷地内に建造されている。
 2 古墳の形態が変わっておらず、全て円墳なこと。大きさも径10m~30mくらいで、古墳には葺石を敷き詰めている。
 3 古墳の周りに埴輪等など立てられた形跡のあるものが極端に少なく、逆に太刀などの武器具が多く出土している。
 

 鹿島古墳群は荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び 河岸段丘上約二キロメートルにわたっている。この分布は何を物語っているか。およそ約200年間という長きに渡る統治期間は、一地方豪族とは言え古墳時代から奈良時代にかけて、この地域(男衾群)の中心地として栄えていたことが推測される。また、奈良時代には周辺に古代寺院や集落遺跡が発見されていることでも、この勢力の大きさを推し量ることができるのではないだろうか。
 またこの古墳の石室の内部には、遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬された。鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土している。従って、武装集団として割拠していたとも想像できるのである。

 鹿島古墳群が築造された当時の地形上の状況も考慮しなければならない。この地域は平野部と台地との境界に位置していて、北側、東側は平野部、西側、南側は台地である。北側は荒川が天然の境界線となっており、その先には田中神社や三ヶ尻八幡神社のような式内社が鎮座している。この神社の祭神はそれぞれ武御雷神、ホムタワケ神(応神天皇)だが本来の祭神は違っていたのではないか。出雲乃伊波比神社の項でもいったように元は出雲族の一族ではなかったかと考えるが詳しいところは不明だ。
 

 



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虚空蔵山古墳

所在地    埼玉県行田市小見104
区  分    埼玉県選定重要遺跡
埋葬者    不明
築造年代   6世紀後半(推定)


地図リンク
 小見真観寺古墳から県道を挟んで北側に虚空蔵山古墳がある。
 墳長50mほどの前方後円墳だったと見られているが、ほとんど削平されてしまい、現在は前方部の一部分のみが残っている。近年、後円部と周溝の一部が確認され、 周溝内から笑い顔の女性の埴輪・馬形埴輪・ 太刀形埴輪の破片が発掘された。

 

虚空蔵山古墳

 虚空蔵山古墳は、小見古墳群に属する前方後円墳で小見真観寺古墳の北西に隣接して位置しています。
 残念ながら現在は前方部の墳丘の一部が残るのみですが、平成20年の発掘調査で、後円部と周溝の一部が県道の東側で確認され、推定墳長約60mの前方後円墳であったことが明らかになりました。周溝内からは大きな乳房を持つ笑い顔の女性の人物埴輪、馬形埴輪、太刀形埴輪、円筒埴輪などの破片が出土しています。
 埴輪の形態から小見真観寺古墳に先行して6世紀後半に築かれた古墳であると思われます。
 なお、現存する墳丘は東西26m、南北19m、高さ約3m、墳頂には名前の由来となった虚空蔵菩薩がまつられています。
                                          行田市教育委員会掲示より引用

 尚、この古墳の埋葬主体部は、巨大な緑泥片岩の板石を使用した横穴式石室があったとされ、現在真観寺境内の樹木の下付近にある。

                      
 虚空蔵山古墳は小見真観寺古墳とほぼ隣接して築造されている。前出した真名板高山古墳は小見真観寺古墳と同じ東西に主軸をもつ古墳で、築造年代がほぼ同じ。この6世紀後半は埼玉古墳は鉄砲山古墳(全長109m)、真名板古墳(全長127m)、小見真観寺古墳(やや遅れて7世紀初頭、112m)とこの狭い行田地域は大型古墳の建設ラッシュ時期でもあった。虚空蔵山古墳は小見真観寺古墳より埴輪の形態から小見真観寺古墳に先行して6世紀後半に築かれた古墳であると思われることから親子の関係があったのかもしれない。少なくとも、状況的にこれらの古墳を築造した埋葬者たちは埼玉古墳群を生で見ていただろうし、そして意識して意図的に古墳を造った、と考えていいと思う。ただしその埋葬者が埼玉古墳群の埋葬者たちとどのような関係にあったかは残念ながら推測のみで不明である。

    

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小見真観寺古墳

 小見真観寺古墳は真観寺境内にある全長102m、高さ8mの前方後円墳で、後円部と鞍部の2ヵ所に横穴式石室があります。
 後円部の南側にある横穴式の複室の石室は、寛永11年(1634)に発見され、秩父産の緑泥片岩による石室で巨大な石材を用いた精巧なものです。前室は奥行2.7m、幅2.2m、高さ2.1m、玄室は2.4m、幅2.2m、高さ2.1mで両室の間仕切りは、緑泥片岩の一枚石に四角い窓を開けています。鞍部にある石室は、明治13年に発掘され金環、鉄製刀子(とうす)、金銅装頭椎太刀(かぶつちのたち)、銅鋺(どうわん)などが発見されました。出土品は、東京国立博物館に所蔵されています。
 最近の発掘調査で周溝が確認され、その底付近から埴輪の破片が多く発掘されました。また、出土遺物などから6世紀末から7世紀初め頃に築かれた市内最後の前方後円墳でなはいかと推測されます。
                                              行田市ホームページより引用

所在地    埼玉県行田市小見1125
区  分    国指定文化財
埋葬者    不明
築造年代   7世紀初頃


地図リンク
 小見真観寺古墳は、国道125号バイパスを羽生市方面に進み、小見(南)交差点を左折し1、2分で右側に真観寺があり、その本堂の裏山のような形で現存する全長112mの前方後円墳で埼玉古墳群の中の最後の古墳である中ノ山古墳が築かれた時期とほぼ同時期に、7世紀初頭から中頃に造られた古墳と考えられている。埼玉古墳群から北西約4㎞位の距離がある。墳丘長は112メートルであり、埼玉県第4位の規模を有する前方後円墳で、俗に「観音嶽」と称する。この古墳の主軸は西北西に向かい、封土の左側および前後の頂部はともに削平を受けているが右側の遺存状況は良好である。後円部の径は55メートル、高さ7.8メートル、前方部の幅は48メートル、高さは7メートルである。
 名前の由来は真言宗智山派慈雲山・真観寺の寺域にあるのでこの名称となったという。
 
               小見真観寺の山門
 
 山門をこえると本堂がありその奥に古墳がある。撮影日は4月上旬で桜が大変美しい。
 
 山門をくぐって真観寺の境内に入ると、本堂の裏に樹木で覆われた小山が見える。それが、この地方では最大の真観寺古墳である。ちなみにこの地方には小見古墳群と言って古墳が数基あり、その中心がこの古墳である。本堂を右側に移動していくと本堂と墓地の間に古墳の碑が建っていて、古墳のくびれ部から墳頂に登ることができる。
 
小見真観寺古墳

 この古墳は、小見古墳群に属する前方後円墳で、星川の右岸の低台地上に立地している。
現存の墳丘の大きさは、全長112mである。埋葬施設は後円部と鞍部付近に緑泥片岩の一枚石を組み合わせた二ヶ所の横穴式石室がある。後円部の石室は寛永11年(1643)に発見され、前・後室よりなっている。
 鞍部の石室は、後室のみが現存するが、前室については明らかではない。この石室は明治13年に発掘調査され、衡角付冑、桂甲小札、鉄鏃、金環、頭稚太刀、圭頭太刀、刀子、蓋付有脚銅鋺等の副葬品が出土している。出土品は、東京国立博物館に収蔵・展示されている。
 これらの副葬品から、この古墳は七世紀前半に築造されたと考えられるが、鞍部石室はやや遅れて造られた可能性がある。
 前方後円墳としては最も新しいものであり、埼玉古墳群に後続する首長墓として重要である。
                                                                                                  

                               埼玉県教育委員会・行田市教育委員会掲示より引用


 この小見真観寺古墳の最大の特徴は埋葬施設は後円部と鞍部付近に緑泥片岩の一枚岩を組み合わせた二ヶ所の横穴式石室があるということだ。

  • 後円部の石室は1634年に発見され、前室・後室の構造で7世紀の初めの築造とされて、前室と後室に分かれている。
    • 前室 : 全長5.42m・幅2.24m・高さ2.03m
    • 後室 : 全長2.62m・幅2.33m・高さ2.02m

 

  • 鞍部の石室は、後室のみが現存するが、前室については明らかではない。
    • 後室 : 全長2.8m・幅1.76m・高さ1.12m
    1888年(明治13年)、発掘調査がなされ、甲冑、刀剣銅鋺、土器などの出土品は東京国立博物館に収蔵・展示されている。副葬品の編年から、鞍部石室の築造はやや遅れて7世紀の中頃の可能性がある。

 
                        後円部の石室                                                      石室内部
 
             鞍部の石室                                                       石室内部 

  前方後円墳としては新しい時期のものであり、埼玉古墳群に匹敵する首長墓と考えられている。また埼玉古墳群から次の勢力への移り変りを探る上で、真観寺古墳は重要な古墳である。1934年(昭和6年)3月30日、国の史跡に指定された。  
 
 最後にこの真観寺古墳がある地名が最近筆者の中で非常に気になっているテーマでもある。「小見」=「おみ」。この地名を見て何か気づかないだろうか。

 


           

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真名板高山古墳

 真名板高山古墳は埼玉古墳群と同時期の古墳で、六世紀後半頃の築造と推定される古墳である。行田市のもっとも東端に位置しているこの地域には珍しい単独墳であり、東西に主軸を持つ前方後円墳で、前方部には浅間社が祭られている。
 西方約4kmに位置する埼玉古墳群は時期的に鉄砲山古墳が造られていて、また小見地区にある小見真観寺古墳も同時期という。この狭い地域に100m以上の大型古墳が3基造られる、その背景、原因とは一体何だったのだろうか。
所在地   埼玉県行田市真名板1532
区  分   埼玉県指定史跡
埋葬者   不明
築造年代 6世紀後半(推定)

地図リンク
 真名板高山古墳は埼玉古墳群から東に4km程、国道125号線を加須市方向に進み、真名板交差点を右折県道32号鴻巣羽生線を1km弱南下すると、右手にこんもりとした森と寺院が見える。この古墳は「群」と呼ばれる一定集団の古墳群ではなく、行田市の東の隅に独立している単独古墳で、埼玉古墳群等に比べ存在感の薄いマイナーな古墳である。
 
 またこの古墳は埼玉古墳群の全前方後円墳の主軸(後円部)が北東方向に向いているに対して、東西方向で後円部は西方向と全く逆に向いている点にある。

 この古墳の西側には真名板薬師堂があり、そこの駐車場を利用して撮影を開始した。

 
真名板高山古墳
                          昭和49年3月8日指定
 この古墳は、東西に主軸をもつ前方後円墳で、旧忍川の沖積地に向かう微高地上に立地している。
 現存の墳丘の大きさは、全長90.5m、前方部の高さ7.3m、最大幅50m、後円部の高さ5.4m、直径40mである。
 墳丘の形状は、かっての多量の封土が除去されたために、大きく変形している。
 築造年代、埋葬施設、副葬部品については明らかではないが、周辺から採集された埴輪破片から、六世紀後半の築造と考えられている。
 武蔵最大の規模を誇る埼玉古墳群は南西約4キロメートルにあるが、時期的には並行しており、その関連が注目される。     
 平成2年3月
    埼玉県教育委員会, 行田市教育委員会
                                                                                                                    案内板より引用
 
    案内板の近くから墳丘に続く道がある。     墳丘はかなり狭まっていて、特に前方部の変形が
                                               著しい。

     後円部、墳頂部にある仙元(浅間)社
 現在、埼玉県下で7番目の大きさの前方後円墳だか、利根川などの氾濫や関東造盆地運動により本来  の地表面が地下に約3メートル埋没しており、本来は全長約127mで、墳丘の高さは前方部、後円部ともに約9~10m。二重で盾形の周堀(深さ2m)があり、 この古墳の南西約4kmにある埼玉古墳群の二子山古墳に次ぐ規模の古墳であることが判明したらしい。
 
              真名板高山古墳 実測図

 真名板高山古墳は利根川などの氾濫や関東造盆地運動により本来の地表面が地下に約3メートル埋没しているという。永明寺古墳の項でも紹介したが、行田市を含む埼玉県の東部は、関東平野のほぼ中央部に位置し、利根川や中川にそって上流から妻沼低地、加須低地、中川低地と続き、低地に囲まれるように大宮台地が大きな島状にあり、 このうち羽生市がある地帯は加須低地と言われ、利根川中流域の低地のひとつとして南の大宮台地と北の館林台地の間に位置している。
 この加須低地の場合、ほかの低地とは少々違う点があり、ひとつは自然堤防と思われる微高地の地表のすぐ下からしばしばローム層が発見されることで、低地の浅い部分の地下にローム層が存在することは一般では考えられないことらしい。。しかもなぜか微高地の下にローム層があり、後背湿地の下からは見つからない。ふつう自然堤防と後背湿地の構造的な違いは表層部付近だけであり、地下はともに厚い沖積層が続くものらしい。
 もうひとつは後背湿地と思われる部分の一部では軟弱な泥炭質の層が著しく厚いことで、代表的なのは羽生市三田ヶ谷付近(現在さいたま水族館がある付近)で、泥炭質の層が10mもあるという。

 つまり、加須低地のすぐ下には台地が隠れている埋没台地ということだ。それも古墳時代前後の。加須低地は沈んだ台地の上にできた特殊な低地だったというのだ。前出の小松古墳は地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没していることがわかり、また行田の埼玉古墳群や真名板高山古墳なども本来台地の上につくられたものが、2.3mの沖積層(古墳が築かれた後に堆積した土砂)で埋まっていることが明らかとなったという。

 この地域は約3mの堆積物に覆われており、この真名板高山古墳が築造された年代、周囲には古墳が数多く存在した,ということも考えられる。しかもこの古墳は二子山古墳と同規模の大きさという。相当実力のある人物が埋葬されたこととなる。
 また真名板高山古墳が築造された6世紀後半時期は全国的には古墳の規模は縮小時期に当たるにも関わらず、埼玉県北部においては第2次大型古墳の建設ラッシュ時期が起こっている。埼玉古墳群では丁度鉄砲山古墳(全長約109m)や将軍山古墳(全長約90m)の築造時期に当たり、埼玉古墳群から北に転じると小見地区にある小見真観寺古墳(全長112m)も同時期である。また鉄砲山古墳の東側には若王子古墳群があり、その中の最大の古墳である若王子古墳(昭和9年の小針沼干拓工事の際に埋立用土に用いられ、現在は全て消失、103m)も同じ時期に造られた。さらに南方向には久喜市菖蒲町の天王山塚古墳(109m)と、100mを超す大型古墳が5基も出現するその背景とはいかなる事態なのであろうか。

 6世紀後半に築造された古墳
  ・ 真名板高山古墳  127m
  ・ 鉄砲山古墳     109m 埼玉古墳群
  ・ 小見真観寺古墳  112m 小見古墳群
  ・ 若王子古墳     103m 若王子古墳群
  ・ 天王山塚古墳    109m 栢間古墳群

                        
          古墳の南側には真名板薬師堂、正面には楼門
                                                                                  

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