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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鹿島古墳群

 鹿島古墳群は荒川に沿って南北約300m、東西約1200mの範囲に100基以上の古墳で構成された荒川右岸最大の古墳群である。ほとんど円墳で構成されているが、鹿島73号墳のみ方墳である。西側吉野川沿いの台支群、中央の鹿島支群、東側の枚方支群の3つの支群に分けられる。昭和47年に54基が県の史跡に指定された。平成5年古墳公園を建設する「保存整備基本構想」が策定された。

 
6世紀後半に築造が開始され、7世紀前半に全盛となり、8世紀初頭まで継続されたと推定される。

       
地図リンク
 所在地 大里郡川本町鹿島

 荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び河岸段丘上約二キロメートルにわたっている。
 現存する古墳五十六基は、小円墳がほとんどで荒川に近い古墳には埴輪を持っているものがある。
 昭和四十五年に圃場整備事業に伴い県教育委員会により二十七基の古墳が発掘調査されている。主体部は荒川系の河原石を用いた若干胴の張る横穴式石室で玄室には棺座を設けたものも見られた。天井、奥壁は緑泥片岩を使用していた。玄室と羨道の比は、二対一となり三十センチメートル(漢尺)の定尺となるものが認められている。
 出土遺物には、玉類が少なく、鉄鏃、直刀、刀子、耳環などが多く出土している。
 古墳の年代は奈良時代初期の住居跡の上に古墳が構築されているものがあり、七世紀初頭から八世紀初頭にかけてつくられたものと推定される。
 古墳の埋葬者は、在地において先進的な役割を果たした豪族であろうと思われる。
 荒川旧流域を代表する最も保存の良い古墳群で、埼玉県古墳文化の地域研究の上で貴重なものである。昭和四十七年三月二十日、県の史跡として指定されている。

 平成十一年九月 埼玉県

 この古墳群は、いまから約1400年前に築かれた川本周辺の有力者の墳墓で荒川右岸段丘上に東西約1キロわたって帯状に分布している。古墳は径10m~30m程の円墳で、荒川よりに密集して分布し、大水によって流された古墳も数多くあったと伝えられている。


 現在、県指定地の中には56基の円墳が保存され、指定地南側で発掘された27基の古墳やすでに失われた古墳をあわせると100基を越す大古墳群であったと推定される。埴輪が立てられた古墳は少なく、7世紀を中心に8世紀初頭に至るまで次ぎから次ぎに築造された古墳時代最終末の古墳群と考えられている。  この古墳群は7世紀から8世紀にかけて・・というのが定説だったけれど、最近では6世紀中頃にさかのぼるとされた。2000(平成12)年新しく古墳が発見され、30年ぶりに発掘調査が行われ、年代が6世紀中頃まで遡ることが分かったのである。
           
 鹿島古墳群は、荒川右岸の河岸段丘上に東西約一キロに渡って帯状に分布しています。古墳は径十メートル~三十メートル程の円墳で、荒川よりに密集して分布し、大水によって流された古墳も数多くあったと伝えられています。
 現在、県指定地の中には五十六基の円墳が保存され、指定地南側で発掘された二十七基の古墳やすでに失われた古墳を合わせると百基を越す大古墳群であったと推定されます。埴輪が立てられた古墳は少なく、七世紀を中心に八世紀初頭に至るまで次から次に築造された古墳時代最終末の古墳群と考えられています。
 川本町には、鹿島古墳群のほかにも箱崎古墳群・塚原古墳群島が分布し、合計二百基近い古墳が確認されています。また、奈良時代には周辺に古代寺院や集落遺跡が発見され、古墳時代から奈良時代にかけて、この地域(男衾群)の中心地として栄えていたようです。
 鹿島古墳群は、この地域の歴史を代表する貴重な遺跡として、昭和四十七年に埼玉県指定史跡に指定され、現在広く活用していただくために古墳公園として整備を進めています。

     埼玉県教育委員会
     川本町教育委員会
 


       
 古墳とは今から千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓で、土を高く盛り上げて、その内部に遺骸を埋葬する場所が設けられています。
 古墳の形は、平面形から前方後円墳や円墳、方墳などと様々な形がありますが、鹿島古墳群は円墳だけで構成されています。この様に小さな円墳が密集する古墳群を特に「群集墳」と呼び、鹿島古墳群はその規模から県内を代表する群集墳です。
 鹿島古墳群では、遺骸を埋葬する施設として荒川の河原石を積み上げた長さ四メートル、幅二メートル前後の楕円形の石室が築かれています。また、出入りできる入り口が設けられ、こうした石室を横穴式石室と呼びます。この石室には遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬されました。鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土しています。
 また、墳丘の表面は河原石で飾られており、築造された当時は草や木に覆われた現在のイメージとは異なった、白く輝く荘厳な姿であったようです。

     埼玉県教育委員会
     川本町教育委員会


  鹿島古墳群は、今を遡ること千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓という。ではその豪族はどのような氏族だったのだろう。今までの古墳の調査により以下のことがわかっている。

 1 この古墳群は少なくとも6世紀中頃~8世紀初頭まで一貫して同じ敷地内に建造されている。
 2 古墳の形態が変わっておらず、全て円墳なこと。大きさも径10m~30mくらいで、古墳には葺石を敷き詰めている。
 3 古墳の周りに埴輪等など立てられた形跡のあるものが極端に少なく、逆に太刀などの武器具が多く出土している。
 

 鹿島古墳群は荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び 河岸段丘上約二キロメートルにわたっている。この分布は何を物語っているか。およそ約200年間という長きに渡る統治期間は、一地方豪族とは言え古墳時代から奈良時代にかけて、この地域(男衾群)の中心地として栄えていたことが推測される。また、奈良時代には周辺に古代寺院や集落遺跡が発見されていることでも、この勢力の大きさを推し量ることができるのではないだろうか。
 またこの古墳の石室の内部には、遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬された。鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土している。従って、武装集団として割拠していたとも想像できるのである。

 鹿島古墳群が築造された当時の地形上の状況も考慮しなければならない。この地域は平野部と台地との境界に位置していて、北側、東側は平野部、西側、南側は台地である。北側は荒川が天然の境界線となっており、その先には田中神社や三ヶ尻八幡神社のような式内社が鎮座している。この神社の祭神はそれぞれ武御雷神、ホムタワケ神(応神天皇)だが本来の祭神は違っていたのではないか。出雲乃伊波比神社の項でもいったように元は出雲族の一族ではなかったかと考えるが詳しいところは不明だ。
 

 



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