坂戸神社
昔から交通の要衝に位置し、江戸時代には八王子から日光に至る街道の宿場町として繁栄していた。その後、肥沃な土地を活かした農業が盛んとなり、明治29年12月に町制が施行された。昭和29年7月には、坂戸町、三芳野村、勝呂村、入西村、大家村の5町村が合併して新生坂戸町となり、この後、人口は安定的に推移し、農業中心の町として順調な発展を遂げてきた。昭和40年代の後半には、都心から45キロメートル圏という利便性から、大規模な住宅団地などの相次ぐ開発で人口増加は著しくなり、昭和50年から昭和55年までの人口の伸びは、市の中で全国一となる。
そして、昭和51年9月1日に埼玉県で39番目、全国で644番目の市として坂戸市が誕生した。市制施行時55,000人であった人口は、都市化とともに増加し、平成18年10月には、10万人都市の仲間入りをした。
・所在地 埼玉県坂戸市日の出町7-26
・ご祭神 白髪武広国押稚日和根子天皇(清寧天皇)
・社 格 旧坂戸村鎮守 旧村社
・例祭等 例祭 4月15日 天王様 7月15日を中心とした土・日曜日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9592817,139.3900288,18z?entry=ttu
国道407号線を坂戸市街地方向に進み、「坂戸陸橋」交差点を右折、1㎞程先の「日の出町」交差点を左折し200m程進むと、進行方向右側に坂戸神社の鳥居や境内が見えてくる。地図を確認すると、東武東上線坂戸駅(北口)や、市役所などもすぐ近くにあり、市の中心部に鎮座しているようだ。駐車場は神社の敷地内にあるのだが、程々に交通量もあり、駐車場での出入りの際には周囲の道路状況を確認する等の注意が必要だ。
坂戸神社正面
「坂戸」地名由来として『新編武蔵風土記稿 坂戸村条』では、「勝呂郷浅羽庄に属せり、村名の起りを尋るに康平の頃、坂戸判官教明といへる人住せしより始れる由を云と、坂戸教明のことを據(よりどころ)とすべき記録なければ、今よりは考べからず」「常泉寺 薬師堂 本尊薬師は木の立像にて、胎中に長二尺許の薬師を納り、こは坂戸判官教明と云し者守り本尊なりしを、康平六年に此處へ安置せしとのみ傳へて、この外のことは詳ならず」「常泉寺蹟 村の南小名道願山にあり、往古坂戸判官教明の開基なりしに、しばゝ兵火の為に烏有となりし後は廢寺となる」との記載がある。
鳥居の右側に建つ社号標柱 鳥居上部の社号額
社号標の近くに設置されている社の由来書
ご祭神である白髪武広国押稚日本根子天皇は、第22代清寧天皇である。大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の第三皇子で、母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。生来「白髪」という身体的な特徴であったため父帝・雄略天皇は霊異を感じて皇太子にしたという。但し白髪皇子は末子であり、異母兄には吉備稚媛の子の磐城皇子と星川皇子がいた。
雄略天皇23年8月に大泊瀬天皇は崩御する。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が権勢を縦(ほしいまま)にしようと大蔵を占拠したため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させ、(星川皇子の乱)翌年正月に即位する。
即位2年、皇子がいないことを気に病んでいたところ、大泊瀬天皇(雄略天皇)が即位前に暗殺した市辺押磐皇子の子で行方不明になっていた億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟が播磨で発見されたと報告を受ける。翌年に天皇のはとこに当たる二人を宮中に迎え入れ億計王を東宮、弘計王を皇子とし、即位5年正月に崩御する。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳といい、陵(みささぎ)の名は河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)という。
実際に行政を行った記録は全く無く、存在感の大変薄い天皇でもあるが、生来の「白髪」という身体的な特徴であるがため、多くの伝説が後代尾ひれをつけて伝承された人物でもあろう。
独特の形状をした石製の二の鳥居
白髪神社は調べると大きく3系統の由来があり、またそれぞれ「白鬚」「白髭」「白髪」等記載も微妙に違っている。詳しくは「上原白髭神社」を参照。
「坂戸神社御由緒略記」によると、以前は「白髪社」と称し、元坂戸に鎮座していた。創建に関して、源頼義が奥州討伐(前九年の役「永承六年(一〇五一)~康平五年(一〇六二)」の際に従軍した家臣、坂戸判官教明(坂戸判官後藤太教明)によって、白髪明神が奉斎されたと伝えられている。
また『風土記稿』には「村名の起りを尋ねるに康平の頃、坂戸教明といへる人住せしより始れる」とあり、更に「教明の生国は河内国坂門原(坂戸原)で、この地には清寧天皇の御陵があり、古くから天皇を白髭明神と崇敬して来たことから、当地移住に伴い同神を氏神として勧請した」という。
拝 殿
坂戸神社御由緒略記 お拾神(とかみ)の宮
主祭神 清寧天皇(白髪武広国押稚日和根子天皇)・猿田彦命
合祀神 神祖熊野大神櫛御気野命・建御名方命・菅原道真公・大山咋命・菊理姫命
須佐之男命・倉稲魂命・誉田別命
鎮座地 埼玉県坂戸市日の出町七の二六(坂戸字日枝前)
交 通 東武東上線:坂戸駅(北口)より徒歩五分
例 祭 四月十五日
由 緒
当神社は、高麗川・越辺川右岸の台地部分にあたる市街地中心部に鎮座します。
社伝によると、ご創建の来由は第七十代後冷泉天皇の御代、朝廷軍である鎮守府将軍、源頼義が奥州討伐(前九年の役「永承六年(一〇五一)~康平五年(一〇六二)」の際に従軍した家臣、坂戸判官教明(坂戸判官後藤太教明)によって、白髪明神が奉斎されたと伝えられています。
白髪社創祀のことは、『新編武蔵風土記稿』に「村名の起りを尋るに康平の頃、坂戸判官教明といへる人住せしより始れる」とあり、「教明の生国は河内国坂戸原で、この地には清寧天皇の御陵があり、古くから天皇を白髭明神と崇敬して来たことから、当地移住に伴い同神を氏神として勧請した」と記載され、平安時代末期の康平年間(一〇五八〜一〇六五)と伝えています。
創建当時、白髪社は元坂戸に鎮座し、古来より郷人たちの尊崇に篤き一村の鎮守であることから、明治五年(一八七二)には太政官布告の社格制定により、村社に列せられました。
また、同一七年(一八八四)には、坂戸駅付近の導願山に遷座して清寧天皇(白髪明神)・猿田彦命(白髭明神)の二神を主祭神とし、同時に稲荷前の熊野社、堀ノ内の諏訪社、天神前の天神社の三社を合祀し、五社様と尊称され、氏子区域も広がり盛大に祭祀を営みました。更に、同四十年(一九〇七)には日枝前の日枝・白山社、八坂社、これに加え、粟生田の稲荷社、上吉田の諏訪社・天神八幡社を合祀し、現在の鎮座地である字日枝前に遷座し、氏子区域は広大となり、祭祀も更に増え、厳粛・盛大に執行されました。本殿は神明造りで御扉が五箇所ある、いわゆる相殿五座で一座ごとに二神を奉斎します。第一座は主祭神、壱番神「清寧天皇」、弐番神「猿田彦命」。第二座よりは合祀神、参番神「神祖熊野大神櫛御気野命」、四番神「建御名方命」。第三座は五番神「菅原道真公」、六番神「大山咋命」。第四座は七番神「菊理姫命」、八番神「須佐之男命」。第五座は九番神「倉稲魂命」、拾番神「誉田別命」の十神(拾神 とかみ)です。そして、同年には社号も「白髪社」から現在の「坂戸神社」に改められ、境内も一段と整備されました。(中略)
「坂戸神社御由緒略記」より引用
拝殿左側手前にある神楽殿
社殿の奥には数多くの山車屋台格納庫が並ぶ(写真左・右)。
坂戸神社では毎年7月15日を中心とした土曜日・日曜日に「天王様」と呼ばれる祭礼が執り行われている。山車を引き廻し、神輿がねり歩く。指定は一丁目から四丁目に分かれている。一丁目の囃子は日の出町・本町で、昭和23年(1948年)夏、消防団員を中心とした一心会が結成された。越生町本町から伝授された神田囃子大橋流。二丁目の囃子は仲町で、昭和24年(1949年)越生町黒岩から伝授された。三丁目の囃子も仲町で、昭和23年(1948年)川島町から伝授され、翌年「三若会」が組織された。四丁目の囃子は昭和3年(1928年)に塚越から伝授された。昭和12年に戦争のため解散、昭和21年に再組織した。
坂戸市無形民俗文化財 指定年月日 昭和49年2月11日。
拝殿手前で、参道右側には手水舎と共に「重軽石(おもかるいし)」がある。
石を持ち上げて思ったより軽く感じると願いが叶うといわれているとの事だ。
本 殿
本殿は神明造りで御扉が五箇所ある、いわゆる相殿五座で一座ごとに二神を奉斎している。第一座は主祭神、壱番神「清寧天皇」、弐番神「猿田彦命」。第二座よりは合祀神、参番神「神祖熊野大神櫛御気野命」、四番神「建御名方命」。第三座は五番神「菅原道真公」、六番神「大山咋命」。第四座は七番神「菊理姫命」、八番神「須佐之男命」。第五座は九番神「倉稲魂命」、拾番神「誉田別命」の十神(拾神 とかみ)である。
社殿左側隅にひっそりと鎮座する「皇国神社」
参道右側にある手水舎奥に聳え立つご神木(写真左・右)
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市HP」
「Wikipedia」「境内案内板・御由緒略記」等