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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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上原白髭神社

 上原白髭神社が鎮座する上原地区は、文久元年(1868年)猪俣村岡本文書に「榛沢郡上原村、下原村」と見えるところから、元「原」地区であり、その後下原と上原に分かれたと思われる。このうちの下原地区は、地頭岡田氏寛政十年申渡覚(名主宇野文書)に下原村と記述され、室町時代には刀工下原鍛冶の小川氏・田島氏等が居住していたという。対して上原地区は、大里郡神社誌に「原村白髪神社(今は白髭)は、当村の開拓者大沢某天正三年茲に勧請せりと称せらる。大沢家は近世に至るまで別当職たり、旧別当職の子孫大沢九平なり」と書かれ、天正年間(1573年~1593年)に大沢氏が創建した社であったことが紀されている。
所在地   埼玉県深谷市上原214
御祭神   清寧天皇、武内宿禰
社  挌   旧村社
例  祭   不明

       
  上原白髭神社は永田八幡神社から国道140号彩甲斐街道に戻り、そのまま熊谷方面に進むと、田中(西)交差点の先で右側に長い松林が見えてくる。この林の中に白髭神社が鎮座しているが、社は国道から直接社に通じる道はなく、社は林の丁度中央に位置するので外周回りで南側の一の鳥居付近に行くしかない。
 神社正面には適当な駐車スペースはないので道路と注連柱の間を通り、舗装されていない長い参道を抜けると広い空間が広がる。
           
                      上原白髭神社正面鳥居と社号標石


  細長い参道。拝殿側から一の鳥居方向に撮影       参道の先には開放的な境内が広がる。
           
                             拝    殿

      社殿の左側で手前にある浅間社              浅間社の並びにある合祀社
                             左から金比羅宮、大神宮、秋葉宮、久壽志神、大山祇神、天神宮

白髭神社は調べると大きく3系統の由来があると思われる。
①滋賀県高島市鵜川にある「白鬚神社」を総本社とする系統。
 主祭神は天狗で有名な猿田彦命であり、容貌魁偉で、鼻は高く、身長は七尺余りという身体的な特徴を持つ。ある説では天津神が国土を統一する以前より豊葦原国を大国主命と共に統治していた国津神、地主神とも言われ、その後瓊瓊杵尊が天孫降臨の際には道案内をしたということから、道案内の神、その後道の神、旅人の神とされ、日本全国にある塞神、道祖神が同一視され、「猿田彦神」として祀られているケースが非常に多い。
②埼玉県日高市に鎮座する「高麗神社」を総本社とする系統。
 高麗神社は別名、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていたが、その始祖的存在である高麗王若光は白髭をはやしていて「白ひげさん」と言われていたという。この高麗神社を総本社とする「白髭」「白髪」神社は高麗郡を中心として入間川流域に数多く鎮座している。
③清寧天皇を御祭神とする系統。
 清寧天皇は雄略天皇と葛城韓媛との子で,生まれながらに白髪であったことから,白髪皇子と呼ばれた。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇、白髪大倭根子命(古事記)。吉田東伍は清寧天皇の御名代部である白髪部にゆかりのものだろうと考察している。

 上原白髭神社の社殿の前にある案内板にはハッキリと「高麗明神」と明記され、高麗神社の系列に含まれると案内板の編集者は考えたのだろうが、実際の御祭神は清寧天皇とされている。この矛盾は何であろうか。

 また、男衾郡赤浜村、風土記稿赤浜村条に「小名塚田の辺に鎌倉古街道の蹟あり、村内を過て荒川を渡り榛沢郡に至る、今も其道筋荒川の中に半左瀬川越岩と唱ふる処あり。半左瀬といふは昔鎌倉繁栄の頃、この川縁に関を置て、大沢半左衛門と云者関守たりしゆへ此名残れり」という記述がある。畠山重忠の臣で、関守である大沢半左衛門の墓は塚田にあるともいう。この塚田の地は南北朝末期から室町初期にかけて、関東各地の寺院の梵鐘を鋳造した 塚田鋳物師集団の存在があった。加えて、上原白髭神社の創始者は大沢某といい、畠山重忠配下の武将にも大沢氏が多数いて、その一族の後裔である可能性も高い。地理的にも畠山地区から荒川を挟んで真北に上原地区はある。関連性がないほうがおかしいのではないだろうか。




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