安比奈新田八幡神社
・所在地 埼玉県川越市安比奈新田287。
・ご祭神 誉田別尊 神功皇后 比賣神
・社 格 旧安比奈新田村鎮守
・例祭等 元旦祭 祈年祭 4月14日 例祭(秋祭り) 10月14日
川越市安比奈新田、この「安比奈」は「あいな」と読み、なかなか個性的な地名である。この地域名は、かつて的場村と柏原村(現狭山市)とに挟まれた(間 あいだ)からきた名という。
途中までの経路は的場若宮八幡神社を参照。この社から埼玉県道114号川越越生線に一旦戻り、南西方向に進路を取り、「的場上」交差点をそのまま直進、同県道260号鯨井佐山線に線路変更となるのだが、750m程進んだ信号機のある十字路を右折する。道幅の狭い昔ながらの道路の両側には民家が並ぶ中、すぐ先に見える丁字路を右折すると安比奈公民館、その並びに安比奈新田八幡神社が見えてくる。
安比奈新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「安比奈(あいな)新田」の解説
入間郡増形(ますがた)村の北、入間川左岸低地に立地。高麗郡に属する。村名は的場村と柏原村(現狭山市)とに挟まれた小村に由来するという(風土記稿)。寛永年中(一六二四―四四)に川越藩主松平信綱が新田取立てを行った際に郡奉行の三浦十右衛門と三芳与左衛門の下屋敷が置かれた頃に開発され、当時本百姓一三・名主一・寺院一・神社一があったという(霞ヶ関の史誌)。
趣のある静かな境内
参道右側にある手水舎
手水舎の水面には数種類の華やかな花が活けてある。日頃世知がない忙しい毎日に追われている筆者にとって、心癒される一瞬である。このような洒落た気持ちを常日頃から持ち合わせたいものである。
境内社・稲荷神社 境内社・八坂神社
拝 殿
八幡神社 川越市安比奈新田二三(安比奈新田字宮久保)
当社は、慶安元年九月に豊前国の宇佐八幡宮から、当時開墾された安比奈新田の鎮守として勧請した社である。祭神は誉田別尊・神功皇后・比賣神の三柱で、内陣に高さ三五センチメートルの八幡神座像を安置している。この神像は胡粉彩色の木像で、神社の創建当時からあるものといわれている。
当社には五枚の棟札が現存しており、その中では享保一四年の「奉再造八幡宮成就所」とあるものが最も古い。現在の本殿は千鳥破風、向拝の付いた一間社流造りで、棟札から安政四年八月に建造されたものであることが知られる。
境内は杉・松などの混淆林に囲まれ、社殿の周りには末社として八坂神社・稲荷神社・浅間神社・天満天神社・御嶽神社の五社がある。このうち、稲荷神社においては毎年三月一〇日に祭典が行われているが、ほかの末社については行われていない。
また、かつて境内には観音堂があり、集会や祭典後の直会の会場などとしても利用されていたが、大正六年に社務所兼公会堂の建設のため、境外に移転した。
なお、安比奈新田には寺院がなかったため、江戸時代には笠幡の延命寺が当社の別当であった。神仏分離の後は、笠幡の尾崎神社の社家である伊藤家が祀職として奉仕している。
「埼玉の神社」より引用
社殿左側奥に祀られている浅間・御嶽社 社殿右側奥に祀れている天神社
安比奈新田地域は柏原と的場両村の間に開かれたことから「あひな」と称したという。口碑によれば、昔は「安比奈千軒」といわれるほど家数も多く、繁盛した村であったが、入間川の氾濫で家が流されたため、家数の減少をみたという。
また、この地域は、入間川北岸に開かれた農業地帯で、かつては氏子のほとんどが養蚕を主体とした農家であった。戦後、養蚕が振るわなくなってからは、作物も米や野菜が中心となり、高度経済成長期以降は兼業へと変化していった。また、近年、団地や住宅地の造成が進み、他地域からの転入者が相次いだため、明治4年にはわずか36戸、戦前でも65戸しかなかった住民は昭和53年には200戸近くにまで増加したという。
社殿からの一風景
社の西側に隣接して安比奈公民館があるのだが、そこの西側端にはお地蔵様や供養塔、馬頭観音等がある。
馬頭観音(左) 月待供養塔(左)、他の二基は
秩父西国坂東巡拝供養塔(右) お地蔵様
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等