古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

的場若宮八幡神社

『伊勢物語』とは、平安時代に成立した日本の歌物語で、別名『在五が物語』『在五中将』『在五中将の日記』。和歌を中心とし,それにちなんだ短編約125話からなる。平安時代初期に実在した貴族である在原業平を思わせる男を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語集で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語でもある。主人公の名は明記されず、多くが「むかし、男(ありけり)」の冒頭句を持つことでも知られ、作者不詳。
 この『伊勢物語』は、『竹取物語』と並ぶ創成期の仮名文学の代表作で、また現存する日本の歌物語中最古の作品であり、後世への影響力の大きさでは同じ歌物語の『大和物語』を上回り、『源氏物語』と双璧をなすとも言われる。
この『伊勢物語』第十段には「みよし野の里」が登場する。
「むかし、をとこ、武蔵の国までまどひありきけり。さてその国に在る女をよばひけり。父はこと人にあはせむといひけるを、母なんあてなる人に心つけたりける。父はなほびとにて、母なん藤原なりける。さてなんあてなる人にと思ひける。このむこがねによみておこせたりける。住む所なむ入間の郡、みよし野の里なりける(以下略)」
この入間の郡「みよし野の里」の遺跡について、いくつかの意見があり、一説として、『新編武蔵風土記稿』では、川越市上戸(うわど)・的場(まとば)両地域あたりという。
『新編武蔵風土記稿 的場村』
 相傳ふ昔大道寺駿河守この隣里上戸の城に在し時、是邊に弓・銃等の的場ありしと、今も楢的場と云ものあり、故に村名とせりと云、又此地は當國の名蹟三芳野の里にて、今も小名に三芳野とよべる所あり、又三芳野塚も遺れり、元より此邊之村里すべて三芳野郷の唱あり、

        
             
・所在地 埼玉県川越市的場529
             ・ご祭神 誉田別尊
             ・社 格 旧的場上組鎮守
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 415日 秋祭り(お日待) 1015
 JR川越線的場駅から南方向に走る埼玉県道114号川越越生線を900m程南行すると「若宮八幡神社入口」の立看板がある丁字路があり、そこを左折、そこから道なりに300m程進むと正面やや左側に的場若宮八幡神社が見えてくる。
        
                 的場若宮八幡神社正面
        規模は決して大きくはないが、コンパクトに纏まったような社   
『日本歴史地名大系 』「的場村」の解説
 笠幡(かさはた)村の東、入間川と小畔(こあぜ)川に挟まれた低地および台地に立地。高麗郡に属した。牛塚古墳群と三芳野塚・初雁塚などとよばれた古墳があり、とくに三芳野塚の存在は当地が「伊勢物語」に記された「みよしのの里」に比定される根拠とされる。村名は戦国時代に隣村上戸に拠った大道寺氏の的場があり、後まで的塚が残されたことに由来するという(風土記稿)。小田原衆所領役帳に江戸衆の山中内匠助の所領として「七拾八貫五百五拾八文 川越的場」とみえる。
        
         道路沿いに設置されている「的場八幡神社本殿」の案内板
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 的場村』
 八幡社 法城寺の持、
 法城寺 的場山と號す、曹洞宗、鯨井村長福寺末、此寺往古三芳野塚の傍にありて、三芳野山寶常寺と唱へしに、何の頃よりか山號を改め、寺號を書替しと云、起立の年詳ならず、中興開山撫州舜道、正保三年七月廿五日寂す、開基は神山七左衛門なり、寛文八年九月四日歿す、本尊は正觀音を安ず、緣起の略に曰、法成寺者、則三芳野天神・若宮八幡宮兩宮之別當、而古代三芳野塚麓有之、幾年歷事不審、上戸大道寺家落城之時及廃壊事久、略本寺長福寺三世、撫州和當寺中興、則今開山也、此時神山七左衛門開基成建立、其時三芳野塚之天神宮境内移、寺地四段四畝二歩、天神宮地一段二畝、若宮八幡宮地五畝六歩、到今御除地也、當所本名三芳野也、大道寺家上戸居城之頃、當地弓鐡炮武術之稽古場也、故里人皆的場云、依之後的場村成、三芳野塚麓池有、天神御手洗是三芳野初雁池也、謂雁此國初來、池上三度飛回初鳴云傳、又此池常櫻花水底浮故、是櫻池共云傳也、

 八幡神社  川越市的場五二九(的場字若宮)
 
的場は入間川の西岸に位置し、村名は昔大道寺駿河守が隣村の上戸の城にある時、弓や銃の的場をこの地に設けたことに由来する。この村は水田が少なく、陸田のほかに粟・稗・麦などの雑穀を栽培していた。また、ここは上・中・下と分かれ、当社の氏子はこのうち上に当たる。上はほかよりやや土地が高く、通称新開といわれ、中・下より後から開けた所である。これは水の便からきており、中・下が早く開けたのは、当社前方五〇〇メートルほどの所にある蟹淵という冬でも枯れない泉を灌漑用として利用できたからである。
 当社の創立は、口碑によると氏子窪田家の屋敷神であったものが、いつのころか現在地に移転され、村を守護する社になったという。窪田家については、現在資料はなく村における往時の位置は定かではないが、村の開発にかかわった家であったと思われる。
『風土記稿』によると、江戸期は曹洞宗的場山法城寺が別当を務めていた。
 明治に入り神仏分離のため、当社は法城寺の管理を離れたが、神仏習合時代の影響は明治末期まで続き、一〇月一五日のお日待の時には寺から獅子が三頭繰り出し当社でササラを行った。また、現在でも社務所には観音像のほか四体の仏像が祀られており古くからの姿をとどめている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 昔からの氏子参拝作法は、神社の裏手から山榊の小枝を取って来て拝殿正面で一拝し、更に末社に参拝し、次に本殿裏の壁に榊を差し込んでトントントンと三回たたくものであるという。
 氏子区域は、的場上組と一丁目の一部である。この地域は嘗て養蚕と畑作を中心とする農業地帯であったが、昭和48年頃から急激にサラリーマンの増加をみた所で、以前は氏子数は900戸程であったが、このうち祭典費を納めている昔からの住民は500戸位である。
 霞が関公民館の文化祭での書道展や短歌俳句の文化展や盆栽展・農産物品評会等が地域住民の結びつけを強め、氏子の目は社の慣習的な祭りから公民館が企画する祭りへと関心が移行したことにもよる。
 
         本 殿                本殿内部
 的場八幡神社本殿  
 市指定・建造物
 この地の開発にかかわった窪田家の屋敷神を現在地に移し、村を守護する社にしたのがはじまりといい、江戸期は法城寺が別当をつとめていました。
 本殿は小型の一間社流造で覆屋内の石造基壇上にたち、屋根は木瓦葺とし、千鳥破風、軒唐破風を付けます。精巧で複雑な架構と余すところ無く埋めつくされtら彫刻が見所となっています。とくに圧巻は身舎側壁と正面の扉・脇壁にはめ込まれた彫刻です。扉に花鳥、脇壁に鯉の滝のぼり、左側面に神功皇后と赤ん坊(応神天皇)をだく武内宿彌、右側面に司馬温公の甕割、背面に波・松・鷹の丸彫彫刻をはめ込んでいます。いずれも壁面から飛び出た肉厚の彫刻で、人物や事物が大きく彫られています。これらの彫刻は補助的に建築に付加して装飾するという程度をこえ、建築の壁面を借りて彫刻を作品として展示するかのようです。背面は神社本殿の壁面としては高さに比べて幅がかなり広く、彫刻の寸法が建築に先行した可能性も考えられます。
 造営年代を直接示す棟札などの史料はありませんが、基壇に嘉永五年(一八五二)八月吉日の刻銘があり、本殿の造営年代も同じころと思われます。
                                    境内案内板より引用
 
       
                  境内社・稲荷神社 
 社の祭りに関して、春祭りは春祈祷との呼ばれる豊作祈願祭で、大正期までは巫女が拝殿前で春神楽を舞った。時期的にも霜が降りなくなるので、夏作が始まり養蚕の準備も行われる。
 秋祭りはお日待とも呼ばれる豊作感謝祭であり、氏子の家では親類を招き、けんちん汁・赤飯・うどんを作って豊作を祝った。祭典後の直会は、古くから生姜に味噌をつけて肴とし、酒を飲むもので、この行事が終了するとこの地では本格的な稲刈りが始まるという。
 また古くから地域住民が行われている行事には、211日の春日待・43日のお犬講(宝登山講)があり、女衆は「おしら講」を行っていた。
        
                   境内の一風景


参考資料「
新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉県の不思議事典」  
    Wikipedia」「境内案内板」等
             

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