古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

妻沼台白山神社


        
              
・所在地 埼玉県熊谷市妻沼台331
              
・ご祭神 菊理媛神
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 不明
 国道407号線を熊谷警察著から北上し、刀水橋の南に位置する、「登戸」交差点を左折する。埼玉県道45号本庄妻沼線合流後、すぐ先に同276号新島尾島線に分岐する交差点があるが、その手前の細い十字路を右折し、まっすぐ走って行くと左手側に白山神社が見えて来る。
 残念ながら専用駐車場、社務所等は無い。神社脇に路駐し、参拝を急ぎ参拝する。
 
            妻沼台白山神社正面        参道を進むと右側にある「土地改良之碑」

 社の参道は東向きにあるが、行き止まり地点で右側、つまり北側に直角に曲がり、その正面に社殿が鎮座している配置となっている。

「土地改良之碑」
 本地区は妻沼町のほぼ中央北部に位置して東に国道四〇七号を控え北は利根川南に登り戸西は台を隔てて男沼門樋悪水路に囲まれた肥沃な沖積台地で一部陸田を含む畑地より成り受益面積は四十八.二ヘクタールである。此処台若宮耕地は古くより排水の便が悪く圃場は形状不規にして道路が狭曲し常に照れば旱魃降れば堪水の害に悩まされ永く農家経済安定の障碍となる。為に予ねて関係者相集い土地改良の推進協議計画中の処昭和四十六年十月備前島賢順助役の指導により団体営畑地帯総合整備事業に採択され幾多の困難を経て同四十七年十二月土地改良区を設立し工事に着手す。爾来組合員一七〇余が総力を結集し二か年の歳月と一億円の巨費を投し四十九年三月良く此の大事業を完遂し地域発展の基盤が確立されたことは慶びに堪えず。茲に関係各位に深く謝意を表し併せて此の感激を碑に刻し後世に伝える(以下略)。
                                     「碑文」より引用
「土地改良之碑」は決して社と直接的に関係する内容の碑文ではないが、この地域の歴史の一端を垣間見る貴重な歴史的な遺産でもある。境内にはこの碑の他に「開田の碑」もあり、そこにも「大里郡旧男沼村大字台並びに旧妻沼町の一部耕地は粘土質壊土横層である為に降雨には堪水し旱魃には乾枯し」とも記載があり、地域一帯は肥沃な沖積台地にあるのも関わらず、排水の便が悪いため、長年農作業に携わっている方々の苦労を軽減するため、土地改良事業を実施した経緯が刻まれている。
              
                              
南向きの鳥居
               また右前には「塞神」の石碑がある。
        
                                   境内の様子
 妻沼の地は、嘗ては利根川の乱流地帯であった。口碑によると、利根川が繰り返し流れを変えるうちに、上下に同形の大きさの沼が生じ、上に男体様を祀っていたので「男沼」、下に女体様を祀っていたので「女沼」、と称するようになったと云われている。
 一方、妻沼聖天宮の縁起によれば、昔、伊弉諾・伊弉冉の二柱の神の鎮座により、「女沼」・「男沼」と称したという。因みに「女沼」は古い表記であり、その後「目沼」、「妻沼」となったと考えられ、一方「男沼」は「お泥沼(おどろぬま)」が名称が変化したといわれている。
 
また女沼と男沼という二つの沼の間には、「台」と称する微高地が伸びているが、これは利根川の自然堤防上にあり、周囲よりやや高い所であり、妻沼台白山神社が鎮座する周辺地域をいう。

 伝説では、
「昔、妻沼に女体様が、男沼に男体様が住んでおられた。この二神は夫婦神で仲睦まじく、男体様が女体様を訪ねられる時は、女体様が途中にある高台の当地まで出迎えられ、お帰りは見送られて、この高台を休み台に別れを惜しまれていた。それから当地を台と呼ぶようになり、また男体様の社は東向きに、女体様の社は西向きに祀られ、白山社は両社の中間にあって南向きに祀られている」
 と云われている。
 女体様は白髪神社(妻沼1038)、男体様とは男沼天満宮(男沼225)のことと推定される。

 この辺りの神社は、女沼・男沼・利根川など水に対する信仰から生まれたものと見るのが自然と考えられる。
        
                     拝 殿
 白山神社  妻沼町台二七九(台字大明神)
 台は、利根川の自然堤防上にあり、周囲よりやや高い所である。伝説では「昔、妻沼に女体様が、男沼に男体様が住んでおられた。この二神は夫婦神で仲睦まじく、男体様が女体様を訪ねられる時は、女体様が途中にある高台の当地まで出迎えられ、お帰りは見送られて、この高台を休み台に別れを惜しまれていた。それから当地を台と呼ぶようになり、また男体様の社は東向きに、女体様の社は西向きに把られ、当社は両社の中間にあって南向きに祀られている」という。女体様は白髪神社、男体様とは神明社のことであろう。
『風土記稿』は「白山社、蔵王権現社、以上二社、共に村の鎮守にて円満寺持」と載せている。この白山社が当社のことで、蔵王権現社は中島にあり、明治初期に曾登神社と改称し、明治四十一年に当社に合祀している。ちなみに、円満寺は天文三年(一五三四)、僧良栄の創建との伝えがある。
 口碑によると、古くは当社内陣に、青い小さな像が祀られていたが神仏分離調査の折に持ち去られたという。また、本殿の下に大きな石が据えられていて、これが昔の神体であるとも伝えている。
 曾登神社は、当社に合祀され境内に祀られているが、一方、旧地でも権現様と呼んで跡地に社殿を建て、古くからの神像を祀り現在に至っている。この神像は室町初期の作と推定される蔵王権現像である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
        
              拝殿右側に鎮座する境内社・曾登神社

「熊谷デジタルミュージアムHP」には、熊谷市指定有形文化財である彫刻「蔵王権現像」が紹介されていて、そこには以下のように記載されている。

・所在地 妻沼台
・所有者(管理者) 曽登神社
・時代 室町時代
・法量 像高40.0cm
 檜の寄木造りの立像。かつて妻沼台の白山神社に合祀されていましたが、里人の要請により現在地に移されました。焔髪が逆立ち、振り上げた右手に三鈷杵を持ち、右足をあげた形をしています。色彩はあせていますが、雄渾な作品で、力強さとバランスを供えた優品です。
・指定年月日 昭和34417



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「熊谷デジタルミュージアムHP」等

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