古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

榎戸伊奈利神社


        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市榎戸1127
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧榎戸村鎮守 旧村社
              
・例 祭 春祭り3月中旬 芋っ葉灯籠71718日 新嘗祭 1128
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1059743,139.4435886,19z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線を旧吹上町市街地方向に進み、「鎌塚(北)」交差点を右折、埼玉県道365号鎌塚鴻巣線に合流後500m程先の「榛名陸橋(北)」交差点を右折する。元荒川を越える手前で陸橋から左方向に分離する道路を進み、突き当たりを右折。JR高崎線に沿うような道路を350m程進み、踏切のある十字路を過ぎた最初のT字路を右折すると右側に「榎戸集会所」が見え、その東側隣に榎戸伊奈利神社が住宅街の中に隠れるように鎮座している。
 
榎戸集会所の駐車スペースの一角をお借りしてから、参拝を開始する。
        
           南北に伸びる参道、その先には朱色の鳥居あり。
 榎戸地域は旧吹上町の北西部に位置し、東西は500m程、南北800m程の細長い形で形成されており、元荒川の右岸に広がる農業地域の一角を占めている。榎戸伊奈利神社は、その中央部を通る中山道の街道から北に少し離れた所に鎮座しており、昭和二十年代に耕地整理が実施されるまでは、中山道まで一直線に長い参道が続いていた。また境内の周囲は、今でこそ住宅が建て込んでいるが、嘗て民家は全くなく、楢の林が当社と宝性寺を包み込むように広がる閑静な場所であったという。
        
                               
榎戸伊奈利神社 正面鳥居
        
                     拝 殿
        
               拝殿の左側に設置されている案内板
伊奈利神社  御由緒 吹上町榎戸一-一
□御縁起(歴史)
町の北西部に位置する榎戸は、元荒川の右岸に広がる農業地域の一角を占めている。当社は、その中央部を通る中山道の街道から北に少し離れた所に鎮座しており、昭和二十年代に耕地整理が実施されるまでは、中山道まで一直線に長い参道が続いていた。また、境内の周囲は、今でこそ住宅が建て込んでいるが、かつては民家は全くなく、楢の林、が当社と宝性寺を包み込むように広がる閑静な場所であった。
この榎戸で最も力を持っていた家が、「榎戸の殿様」と称されていた横田家で、かつては当社の祭事の経費の半分は同家が負担していた。横田家は、一三代ほど続いた後、昭和二十年代半ばに絶えてしまったが、当社の参道の脇には同家の墓所があり、町指定文化財になっている。ちなみに『風土記稿』榎戸村の項にも、同家は「旧家半十郎」として載り、「降奥国会津郡」から寛永十一年(一六三四)に当地に来て土着したと記されている。
当社の由緒については、『風土記稿』に「稲荷社 村内の鎮守とす、弁財天社 天満宮」と載る程度で、創建についての詳しい事情は知られていない。しかし、右記のような状況から考えると、社殿の建立や境内の整備についても、横田家が大きくかかわっていたと思われる。また、『風土記稿』には別当についての記載がないが、立地から見て、当社に隣接していた宝性寺が祭祀に関与していた可能性が高い。
□御祭神と御神徳
・倉稲魂命…五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板より引用

「新編武蔵風土記稿足立郡榎戸村条」には「旧家半十郎、村民にて眼療を業とせり、氏を横田と云ふ。古は陸奥国会津郡の民なりしが、寛永十一年、当所に来りて土着せり。其の家系を閲するに、山内五郎左衛門尉俊綱が後胤にて、俊綱より六代横田兵部大輔俊治、はじめて横田を氏とす。其の子刑部大輔頼俊は又山内を称せり。此の人より六代越中守俊泰の次男を横田左馬助光弘と云ふ。これ半十郎が祖先なり。それより、左馬助長房、左馬助光房、丹波守隆房、安芸、兵庫、善九郎など連綿と記したれど、事跡、年代等すべて詳ならず。たゞ善九郎は天正十八年に流浪せし由見ゆれど、何れに仕へしかは載せず。それより後はすべて伝を失へり。又祖先の持ちしものとて槍一筋を蔵す」と記されている。
        
                 境内社・天神社と辨天社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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