荒井新田稲荷神社
この柴山沼を中心とする元荒川や星川の形成した沖積地や後背湿地に立地する大山地区は、排水が悪く、湛水に苦しめられてきた。そのため柴山沼を囲む柴山・荒井新田地域には、柴山沼の内水氾濫に備えた 「水塚」が多く残されている。元来県東部地域は水塚の多い地域だが、多くの水塚は利根川や中川などの大河川の流域にあり、柴山沼や皿沼周辺には「ホッツケ」と呼ばれる「掘上田(ほりあげだ)」という浅い湿地のままの沼底に溝を掘り、掘り上げた泥を盛り上げて田畑を作る耕作法が発達した。掘り潰れの水路は集落内まで引き込み、舟による沼との往復や作物の運搬などに使った。水害時にはこの舟で物資の輸送が行われたり、避難に使われたりしたといい、現在も軒下に舟を下げてある家々が多数あるという。
1728年(享保13年)に井沢弥惣兵衛によって柴山沼の東方に位置している皿沼とあわせ、柴山沼の一部が干拓され、その後、1977年(昭和52年)より埼玉県営圃場整備事業で面積は12.5ha、水深約8mの規模の沼となり、周囲の「掘り上げ田」は通常の水田(乾田)へと姿を変えた。現在は平成4年度から始まった県営水環境保全事業によるビオトープ(生態系の保全、復元)などの整備により、さらに親しみやすい沼になった。また今日の柴山沼は釣り場としても多くの釣り人が年間を通して訪れているという。
・所在地 埼玉県白岡市荒井新田548
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧荒井新田村鎮守・旧村社
・例祭等 元旦祭 春祭礼 4月12日 灯籠祭 7月26日〜8月17日
秋祭礼 10月12日
鴻巣市と白岡市を結ぶ農道である「稲穂通り」を東行し、柴山沼が見える手前の「白岡市梨選果センター」がある路地を左折、その後400m程先の十字路を右折する。この通りは荒井新田地域のメイン通りとなっているようで、民家もほぼこの通り沿いに集中している。暫く進むと、進行方向左手に「荒井新田集会所」が、その隣に荒井新田稲荷神社が見えてくる。
地図を確認すると、荒井新田稲荷神社は当地域の中心にあるようで、まさにこの地の鎮守様の感がある。
荒井新田集会所には数台分の駐車スペースあり、そこの一角に車を停めてから参拝を開始する。
荒井新田稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「荒井新田村」の解説
元荒川左岸に位置する。南は元荒川を隔てて井沼村(現蓮田市)、北は上大崎村(現菖蒲町)、東は下大崎村。中央を南東から北西にかけて台地が走り、西隣の柴山村との境は柴山沼、同沼の東部が皿沼の沼沢地。北部を隼人堀川が流れる。菖蒲領に所属。もと上・下の大崎村とともに大崎村のうちであったが、慶長一二年(一六〇七)菖蒲新田村が分立し、のちに荒井新田と改称した(風土記稿)。寛永八年(一六三一)板倉重宗による検地があった(「菖蒲新田村検地帳」江原家文書)。田園簿に村名は記されず、大崎村に続いて高のみ記載され、田高三一石余・畑高二七石余。
隼人堀川は荒井新田地域の北境にて東西に流れ、白岡市柴山を管理起点とし、宮代町を流れ、春日部市で古利根川に合流する1級河川である。隼人堀川は、見沼代用水路の完成と共に周辺地域の灌漑用水が確保され栢間沼を干拓するにあたり、溜水を排水するために掘られたものである。この川の呼び方は、以前は庄兵衛堀川合流地点から下流を隼人堀川と呼び、上流部分は栢間堀と呼んでいた。今では河川行政上は全川を通して隼人堀と表示されている。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 荒井新田村』
荒井新田村は古大崎村の内にて、慶長十二年の分村なりと傳へり、正保の國圖に新井新田と載せ元祿の改には荒井新田と記せり、後何の頃よりか村の字をつけたり、
沼二ヶ所 一は村南にて柴山村と云、則柴山村と入會にて、大きさ五十三町許、一は東にて皿沼と呼べり、下大崎村と入會にて凡三十町餘なり、享保十三年の頃より永錢を納むと云、
稻荷社 村の鎭守なり 華藏院持、 末社 愛宕 天神
華藏院 新義眞言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、瑠璃山寶鏡寺と號す、本尊は藥師なり、 地蔵藏堂 〇釈迦堂 村持
稲荷神社 白岡町荒井新田五四八(荒井新田字荒井ヶ崎)
鎮座地の荒井新田は、元荒川と星川の間の低地帯に位置する農業地域である。元来は上・下大崎村と共に大崎村のうちであったが、慶長十二年(一六〇七)に菖蒲新田村と称して分村し、のちに荒井新田と改称したという。
当社は、この荒井新田の集落のほぼ中央にあり、村の鎮守として祀られてきた。勧請の年代は明らかでないが、江戸時代の初期に村の開発と相前後して祀られたものと推測され、『風土記稿』新井新田村の項には「稲荷社 村の鎮守なり、華蔵院持」と記されている。また本殿には、享保十九年(一七三四)に京都の伏見稲荷大社から受けた神璽筥(しんじばこ)の蓋らしき板と、芯に「宝暦八年(一七五八)寅十二月騎西領新井新田村花蔵院」の銘のある金幣が安置されていることから、この時期に社の整備が図られたことがうかがえる。
『風土記稿』の記事に見える華蔵院は、瑠璃山宝鏡寺と号する真言宗の寺院で、当社の約二五〇メートル北西にあり、幣芯の銘にもその名が記されているように、江戸時代には別当として当社の祭祀に密接にかかわっていた。神仏分離によって当社はこの華蔵院の管理を離れ、明治六年村社となった。その後、明治四十二年に境内社の菅原社に同じく境内社であった愛宕社を合祀し、昭和三十四年には社殿の老朽化が著しくなってきたため、これを改築し、今日に至っている。
「埼玉の神社」より引用
社殿奥に祀られている合祀社 社殿の左側に祀られている石祠三基
愛宕社・菅原社。右側の石像は菅原道真公か。 三笠山刀利天・御嶽神社・八海山神王
静かに佇む社
当社の祭り以外にも、氏子の間で行われている大きな行事としては、3月29日の「お獅子様」と7月6日の「ナイダ―」がある。
お獅子様は、騎西の玉敷神社から「お獅子様」と呼ばれる箱と太刀・面・剣といった道具一式を借りて来て行う村祓いの行事である。当日は、支度が整うと、まず神社でお神酒を頂き、上から下に向かって一軒一軒悪疫を祓っていくが、近年では家の中までは入らず、庭先で家の人を祓う程度である。
一方のナイダ―も疫病除けの行事で、当日は子供たちが数珠を持って「ナイダ―」と唱えながら地内を回り、悪疫を祓う。この行事は、元来は華蔵院の行事であったが、寺が無住となったため、区の主催となり、期日も7月の第一土曜日となったという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「白岡市HP」「白岡市観光協会HP」
「ウィキペディア(Wikipedia)」等
