野牛久伊豆神社
白岡市にも野与党諸氏が蟠拠しており、前期野与党である野与氏は篠津・野牛両地域に、鬼窪氏は白岡八幡宮付近に、また後期野与党に属する南鬼窪氏は小久喜地域に、佐那賀谷氏は実ヶ谷地域にそれぞれ居館を構えていたと思われる。
白岡市に蟠拠した野与氏が何処に居を構えたかは、ハッキリとは分からないが、篠津から野牛に向かう道を今も「野与道(のよのみち)」といい、また、「のよの家」と云われる家も残るというので、野与氏の拠点は現在の野牛地域ではないかという説もある。
・所在地 埼玉県白岡市野牛652
・ご祭神 大己貴命
・社 格 旧野牛村鎮守・旧村社
・例祭等 歳旦祭 祈年祭 1月20日 追花 3月1日
お日待 10月19日
白岡市・野牛地域は市北東部に位置し、現在の市の行政区画上では篠津地区に属している。かつて江戸時代には「柳生」とも書いていたようで、柳の生えていた土地の名と考えられる。野牛は珍しい地名であるが、いつごろから使用されたかはわからないとの事だ。
六代将軍家宣の時、当地の野牛地域は、宝永2年(1705)より新井白石の所領となり、白石は領主として「白石堀」の開削など農業基盤の整備などに多大な業績を残した。野牛の観福寺には市指定文化財である白石の肖像画が伝えられている。
野牛久伊豆神社正面
篠津須賀神社から一旦北上し、「新白岡柴山沼線」に合流後右折、途中東北自動車道の高架橋を潜り抜けながらも道なりに2㎞程進行すると左手にコンビニエンスが見え、そこから北方向に200m程北側に野牛久伊豆神社は鎮座している。
『日本歴史地名大系』 「野牛村」の解説
東は高岩(たかいわ)村、南は爪田ヶ谷堀川・庄兵衛(しようべえ)堀川を限る。旧日川の流路にあたり、中央部に横たわる微高地はかつての自然堤防。騎西領のうち(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。正保四年(一六四七)川越藩松平氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によると田高一九一石余・畑高一〇九石余、同藩領。ほかに野銭永二五〇文があった。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高五六五石余、反別は田方四四町余・畑方二八町九反余、ほかに新開高二二六石余、田方一七町七反余・畑方一一町五反余。
鳥居の右側に設置されている「野牛久伊豆神社と新井白石」の案内板
案内板の左側には、「朝鮮通信使奉納扁額及び下書き」の標柱もある。
野牛久伊豆神社と新井白石
白岡町大字野牛字內舞台
野牛久伊豆神社の創建は不詳であるが、近世以前、野牛村は篠津村や柴山村などとともに「騎西領」に属していたため、 その総鎮守である騎西町の玉敷神社(=久伊豆大明神)を勧請(神を分霊してくること)し、村の鎮守として祀ったものと思われる。祭神は大己貴命である。また本殿右側には稲荷社など数社が合祀されている。
本殿正面の扁額は、江戸時代の儒学者新井白石(一六五七~一七二五)が奉納したもので、朝鮮通信使の李礥(号は東郭)が、六代将軍徳川家宣の将軍宣下の式典(一七一一)に来日した際、白石のために書したものと伝えられる。
野牛村は宝永六年(一七〇九)に、新井白石の領地となった。白石は領民の訴えに応じ、低湿だった当地に排水路を掘らせ、一帯を良田にしたという。この排水路は「白石堀」、「殿様堀」などとよばれ、現在は神社左側の道路歩道下を流れている。またこの付近に、飢饉に備えて鄉倉(貯蔵庫)を建てさせたという。そのほか当地には、白石の堅実で誠意ある領民支配を伝える話が残っている。
平成十二年二月 白岡町教育委員会 案内板より引用
拝 殿
『新編武藏風土記稿 野牛村』
久伊豆社 村の鎭守なり、觀福寺の持、下同じ、末社 天神 〇稻荷社 〇駒形社
觀福寺 新義眞言宗、戶ヶ崎吉祥院の末 大悲山興樂院と號す、第五世良榮寬永十八年八月七日示寂とのみ傳へ、これより前のことを傳へず、本尊十一面觀音、坐像一尺餘、行基の作、又不動を安ず、弘法大師の作にて、立像、丈〇に一寸餘、鐘樓 鐘は元祿十四年の銘あり、 不動堂 阿彌陀堂 前寺の持
久伊豆神社 白岡町野牛六五二(野牛字内舞台)
野牛は、古くは「柳生」とも書いたといわれ、慶長六年(一六〇一)の奥州仙台(宮城県仙台市)伊達氏の鷹場に指定された。その後、川越藩領、幕府領を経て、宝永六年(一七〇九)に儒学者として著名な新井白石の領するところとなり、地内では白石の蔵屋敷の跡を示した碑が残っている。
この、野牛の鎮守として祀られてきた神社が当社である。祭神は大己貴命である。久伊豆神社を鎮守として勧請した理由は定かでないが、一般に騎西町(現加須市騎西地区)に鎮座する玉敷神社の分霊を祀ったものと考えられている。玉敷神社は、古くは久伊豆大明神と称し、騎西領四八か村の総鎮守として信仰されていたため、騎西領内の村の一つであった野牛では、その分霊を勧請して鎮守として祀った可能性は高い。ただし、当社に関する明治以前の記録はほとんどなく、『風土記稿』野牛村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、観福寺の持、下同じ、末社天神」とあるのが最も古い記録である。
神仏分離の後は、明治六年に村社となり、同四十二年七月に字中之宮から庚供巻神社、大正五年に字内谷から稲荷神社を合祀した。この両社は、いずれも規模の小さい無格社で、合祀後は境内社として当社に従来からあった末社と共に祀られている。また、当社の拝殿と幣殿は、老朽化が目立ってきたため、昭和五十一年四月に改築された。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある扁額
この扁額には「久伊豆社 辛卯(しんう) 仲冬(ちゅうとう) 東郭(とうかく)」の文字が刻まれている。「辛卯 仲冬」とは正徳元年(1711)のことで、野牛村領主であった新井白石が朝鮮通信使応接役の功績を認められて知行を加増された年でもある。東郭とはこの時の朝鮮通信使で新井白石と親交のあった製述官の李礥(イヒョン)のことである。この扁額は欅材の1枚板に刻字されている。この書の下書きも軸装に仕立てられ代々の氏子総代宅で保管されている。
白岡市指定文化財第51号
指定年月日 平成14年12月6日
種 別 市有形文化財(歴史資料)
本 殿
氏子は野牛地域全域が区域となっていて、その地内は、十二の耕地に分かれており、各耕地一名ずつ、計十二名の総代が出て神社運営を行うという。当社の祭りである3月1日に行われる「追花」は、豊作を祈願する祭りであるが、昔から「野牛の鎮守様は派手が嫌い」といい、総代が参列して祭典と簡単な直会をする程度で済ませている。それでも、かつては総代が甘酒を作り、参詣者に振る舞っていたが、太平洋戦争後は甘酒をやめてしまった。豊作を祈願する追花に対して、豊作を感謝する祭りである10月19日に行われる「お日待」も、同様に総代が参列して祭典と簡単な直会を行う程度の行事である。ただし、お日待には前日の18日に灯籠番が境内に灯籠を飾り、夕方にはこれに灯明を入れ、当番らが簡単な祝宴をする。この時、昔は他所から素人芝居を呼んだり演芸会を開いたりしていたが、戦後はそれも行わなくなったという。
本殿の奥で、南側にも鳥居が建つ。 南側鳥居の先に祀られている御嶽塚
三芝山・御嶽神社・八海山と刻まれている。
社殿の右側に祀られている合祀社
左から庚供巻大明神・大黒天・稲荷神社・天満宮・五社大権現
合祀社の奥に聳え立つ巨木
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP」
「越谷市デジタルアーカイブ」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
